軍需省の監督工場に
日中戦争から大平洋戦争へ。政府は国防国家体制を一段と強化する必要が生まれてきた。産業再編成のための企業整備であった。
昭和18年「学徒戦時動員体制確立要綱」が発表されて、中学生、高専生、大学生は軍需工場や炭鉱などに動員されていった。
こうした状況下の昭和18年、大庫機械製作所は、軍需省の監督工場に指定され、航空機整備工具の生産を手がけることになった。
国から与えられた仕事だけを適確にやりあげていくことが使命となった。
いままでのように注文取に走り廻るようなことはなくなった。
その意味では、確かに経営は楽になったが、ただ国のために働く奉仕の一念でしか仕事はできなかった。
緒戦の勝利が一段落した。19年にはサイパン島がアメリカ軍の手中に帰した。
ここを基地としたB29の日本本土爆撃が全国にわたって激烈に行われるようになった。
昭和20年8月6日、広島市が、9日には長崎市が原子爆弾の洗礼を受け、14日には、ついにポツダム宣言を受諾。日本の敗戦であった。
工場の外は真夏の太陽がやけつくように照りつけていた。
源次郎は、血と汗の浸み込んだ旋盤や機械類を馬力に一台ずつ積んで、付近の農家へ運び込んだ。自分の分身のような工場の設備が米軍に押収されるのはとても耐えられなかったのである。
終戦、ナベカマ時代
源次郎にとって敗戦のショックはあまりにも大きかった。
創業以来、今日まで営々として築きあげてきたものは、すべて無に帰してしまった。
激しい空襲との戦いは終わり、工場の被爆はまぬがれたものの、軍需省監督工場としての仕事は、この日を境になくなってしまった。
源次郎は、50に近くなっていた。
工場のこと、従業のこと、源次郎は迷いに迷った。
かといって何もせず、手をこまわいているわけにもいかず、とにかく何か手がけて生計をたてねばならなかった。
ひとまず、希望者を再雇用し、再出発の手はずをとった。
そして、急場しのぎに作りはじめたのがフライパン、ナベ、カマ、パン焼き器、ワラ押し切り機類である。
なにぶん鉄材の不足していた時代だけに、品物は飛ぶように売れた。
どうにか大庫機械製作所を存続させることができたのである。
若いころから鉄のことしかとりえがなかったことが、こうしてすぐさま仕事に帰れたわけである。
戦後のインフレーシンはブレーキのない車のように進行していく。
空襲との戦いがやっと終ったら、こんどは空腹との戦いであった。<o:p></o:p>
このような日本に復員者がどんどん帰ってくる。
荒廃した祖国を見る復員者の顔には、これからの生活に対する不安がただよっていた。
事実、彼らの就職問題は深刻だった。
世の中のどさくさにまぎれ、ひともうけをする人間も多かった。
「信用第一」の項でふれたが、源次郎にも甘いもうけ話を持ちこんでくる連中もいた。
家族ぐるみで働いた。
源次郎は、工場で真っ黒になって働き、勉強の合い間に典雄(前社長)も手伝った。
はぎ能も結婚後長らく子供ができなかったので、毎日会社へ出て事務関係一切をきり回した。
昭和22年、創立20周年を迎えるころには生計のメドもたってきた。
*『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>
*写真:左より、パン焼き機・わら押切機・フライパン<o:p></o:p>