ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(113):新野辺を歩く(二部)29 大庫源次郎(16)・ナベカマ時代

2014-04-30 07:58:47 | 大庫源次郎

 軍需省の監督工場に
 日中戦争から大平洋戦争へ。政府は国防国家体制を一段と強化する必要が生まれてきた。産業再編成のための企業整備であった。
 昭和18年「学徒戦時動員体制確立要綱」が発表されて、中学生、高専生、大学生は軍需工場や炭鉱などに動員されていった。
 こうした状況下の昭和18年、大庫機械製作所は、軍需省の監督工場に指定され、航空機整備工具の生産を手がけることになった。
 国から与えられた仕事だけを適確にやりあげていくことが使命となった。
 いままでのように注文取に走り廻るようなことはなくなった。
 その意味では、確かに経営は楽になったが、ただ国のために働く奉仕の一念でしか仕事はできなかった。
 緒戦の勝利が一段落した。19年にはサイパン島がアメリカ軍の手中に帰した。
ここを基地としたB29の日本本土爆撃が全国にわたって激烈に行われるようになった。
 昭和2086日、広島市が、9日には長崎市が原子爆弾の洗礼を受け、14日には、ついにポツダム宣言を受諾。日本の敗戦であった。
 工場の外は真夏の太陽がやけつくように照りつけていた。
 源次郎は、血と汗の浸み込んだ旋盤や機械類を馬力に一台ずつ積んで、付近の農家へ運び込んだ。自分の分身のような工場の設備が米軍に押収されるのはとても耐えられなかったのである。
 
終戦、ナベカマ時代
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 源次郎にとって敗戦のショックはあまりにも大きかった。
 創業以来、今日まで営々として築きあげてきたものは、すべて無に帰してしまった。
 激しい空襲との戦いは終わり、工場の被爆はまぬがれたものの、軍需省監督工場としての仕事は、この日を境になくなってしまった。
 源次郎は、50に近くなっていた。
 工場のこと、従業のこと、源次郎は迷いに迷った。
 かといって何もせず、手をこまわいているわけにもいかず、とにかく何か手がけて生計をたてねばならなかった。
 ひとまず、希望者を再雇用し、再出発の手はずをとった。
 そして、急場しのぎに作りはじめたのがフライパン、ナベ、カマ、パン焼き器、ワラ押し切り機類である。
 なにぶん鉄材の不足していた時代だけに、品物は飛ぶように売れた。
 どうにか大庫機械製作所を存続させることができたのである。
 若いころから鉄のことしかとりえがなかったことが、こうしてすぐさま仕事に帰れたわけである。
 戦後のインフレーシンはブレーキのない車のように進行していく。
 空襲との戦いがやっと終ったら、こんどは空腹との戦いであった。<o:p></o:p>

 このような日本に復員者がどんどん帰ってくる。
 荒廃した祖国を見る復員者の顔には、これからの生活に対する不安がただよっていた。
 事実、彼らの就職問題は深刻だった。
 世の中のどさくさにまぎれ、ひともうけをする人間も多かった。
 「信用第一」の項でふれたが、源次郎にも甘いもうけ話を持ちこんでくる連中もいた。
家族ぐるみで働いた。
 源次郎は、工場で真っ黒になって働き、勉強の合い間に典雄(前社長)も手伝った。
 はぎ能も結婚後長らく子供ができなかったので、毎日会社へ出て事務関係一切をきり回した。
 昭和22年、創立20周年を迎えるころには生計のメドもたってきた。
 *『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>

 *写真:左より、パン焼き機・わら押切機・フライパン<o:p></o:p>

 

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さんぽ(112):新野辺を歩く(二部)28 大庫源次郎(15)・野口町へ工場移転

2014-04-29 07:16:46 | 大庫源次郎

 野口町へ工場移転
 昭和12年、77日、ついに戦火は全中国に拡大し、日本国中は「戦時体制」に突入した。
 国内物資は統制され、13年にはいると「国家総動員法」が4月に公布された。
 国民生活では綿製品の製造、販売の中止によって「木綿なし時代」となり、スフ、レーヨンがはばをきかすようになった。ガソリン、重油が割り当て切符制となった。
 もちろん兵器生産につながる鉄製品も当然統制下に置かれた。
 鉄びんもアイロンも自由に製造できなくなった。
   
昭和131月、新野辺を離れる
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 こうした状況下に、源次郎は昭和13年の1月、新野辺にあった工場を野口村(現加古川市野口町)に移した。
 新野辺時代、工場敷地を拡張、機械設備も増強してきたが、もはや、こうしたつぎたし補強では間に合わなくなってきた。
 そのころ軍需景気もあって仕事量は急激に増大していた。
 残業、徹夜作業とフル回転しても、この手狭な工場ではとても追いつけなくなった。
 加えて上西製紙などへ納入するものは大きく、それを現有の小さな旋盤で削るのだから、その地響きと騒音だけでも大変で、当然のように工場周囲の住民からクレームがあった。
 源次郎は、現在地への移転に踏み切った。
 野口工場用地は、まだ人家もまばらで、田んぼの真中にポツンとあった。
 源次郎は、新工場に思い切って4000坪の土地を購入し設備を増強した。
 この新工場移転当時の工場建屋は、その後社業の発展につれて取りこわされ、移転時、事務所として作られた建物だけはいまなお記念館として保存されている。
 この記念館で人目をひくのは、コロコンキャリ発明の糸口となった五つ玉の長いソロバンである。
 昭和29年ごろの不況時、源次郎が会社再建に苦闘している時、ライターがこのソロバンの上をわずかな傾斜ですべり落ちた。
これが起死回生のコロコンを産んだいわくつきのものであった。
 太平洋戦争に突入
 職業軍人だった実弟・幸次は、昭和13516日、微山溝(フェンシャン湖)で戦死を遂げた。
 その後、日本軍の北部仏印進駐、日・独・伊三国同盟の締結と進む。
 町や村から毎日のように出征兵士が送られていった。
 大庫機械製作所の工員にも赤紙がきた。
 加古川の駅前は、日の丸の小旗や「祈武運長 のノボリで埋まり、軍歌で明け暮れた。そして、兵士たちは戦地に向った。
 加古川駅頭を出発していった出征兵士たちの中には、幸次と同じようにやがて白小箱に入れられて、加古川の駅頭に"無言の凱旋"をした。軍国主義一色に塗りつぶされた世の中であった。
 加印鉄工工業組合専務理事、兵庫県鉄工工業組合連合会理事などの公職を兼務していた源次郎には「聖戦完遂」のため、国からのすべての要求を業界に徹底、実行させる任務があった。
 昭和16128日。日本は太平洋戦争に突入した。その朝は霜が真っ白におりていた。
 その凍りついたような空気をふるわせてラジオの臨時ニュースがはじまった。
 源次郎は、放心状態になった。わが耳を疑った。
 *『創造の人・大庫源次郎』より

 *写真:野口町移転当時の工場全景(昭和13年撮影)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(111):新野辺を歩く(二部)27 大庫源次郎(14)・明るい陽ざし

2014-04-23 21:20:22 | 大庫源次郎

 暗い世相に明るい陽ざし
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 昭和5年ごろ仕事の量は徐々にふえ、事業にやや明るい陽ざしがさし込んできた。<o:p></o:p>

 しかし、世の中は、昭和4年の世界恐慌の直後とて、産業活動はだ砥迷から抜け切っていなかった。
 
 就職難時代だった。「大学は出たけれど」の言葉が流行語となった。
 
 このように失業と生活難が、労働争議を生み出す母体となったとしても不思議ではなかった。
 
 しかし、暗い世相と反比例して、源次郎の仕事は軌道に乗ってきた。
 
 今の高砂市荒井にあるキッコマン醤油関西工場建設にあたって、付近に業者のなかったことも幸いして鉄工の注文がきた。
 
 前述の神田氏の縁故もあって高砂銀行本店(現神戸銀行高砂支店)社屋新築の際、鉄骨工事を請負うことができた。
 
 後年神戸銀行となり、「この建物は、私がしましてんで・・・」と説明するのが源次郎の自慢でもあった。
 
 また、加古川支流に架かる永楽橋を木橋から鉄筋コンクリートに改修することになり、源次郎は、その鉄骨工事を請負った。
 
 続いて尼崎市にある朝日化学肥料という会社からも声がかかった。
 
 これは、この会社にある得意先から転職された先輩がいた関係で、引立ててもらった。
 
 もう、今夜の米を心配することもなくなった。
 
 電気会社や新聞販売店の集金人もこわくはない。
 
 そんな源次郎に突然の不幸が見舞った。
 
 連れ添ってわずか五年、苦労ばかりかけた「かく」が、この世を去った。源次郎は、神をうらんだ。
 
   救いの神、大量受注
 昭和8年、死んだ「かく」の妹「はぎ能」をめとった。
 
 昭和10年ごろには、政治、経済、軍事面での国際緊張がはげしくなるなかで鉄鋼、機械、化学工業は急速な回復と、拡張をとげてきた。
 
 大庫鉄工所の仕事量は急ピッチでふえてきた。
 
 工場設備も創業時とは比較にならないほど強化された。
 
 工場の拡張、機械の増設によって工員もそれにつれてふえ、30人ぐらいの所帯にふくれてきた。
 
 源次郎は、朝早くから夜遅くまで、現場で作業衣を真っ黒にして立ち働いていた。
 
 昭和11年ごろ、大阪、西淀川の佃にある上西製紙から、工場新設にともなう設備のいっさいを受注した。
 
 大庫鉄工所創立以来の大量受注であり、源次郎はこれまでの苦労がみんなふっ飛んでしまうほどうれしかった。
 
   創立十年を迎える
 工場らしい工場になった。昭和12年は大庫鉄工所創立十周年を迎えた。
 
 源次郎は、これを機会にこれまでの個人経営から脱皮して会社組織とし、社名も改めた。源次郎は39才。
 
 組織と社名の変更は、創立十周年記念式の日に発表された。
 
 「合資会社大庫機械製作所」源次郎が将来の発展を期し、自信をもってつけた社名であった。
 
 創立十周年記念式は、土地の有力者、得意先、業者仲間、それに全従業員が源次郎を囲んでこの日を祝った。
 
 次郎のホオに知らぬ間に涙がこみあげていた。
 
 *『創造の人・大庫源次郎』より
 
 *写真:はぎ能を迎えて家庭も落ち着きを取りもどした。(昭和9年撮影)
 
 ◇私用のため、しばらくブログを休みます。再開は来週430日(水)の予定

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さんぽ(110)新野辺を歩く(二部)26 大庫源次郎(13)、妻・かくの死亡

2014-04-23 07:59:24 | 大庫源次郎

 弱り目にたたり目
 とにかく工場も、設備も整った。ところが、かんじんの仕事がない。
 それもそのはず、創業の一ヵ月半前、世にいう金融恐慌が勃発したのであった。
 衆議院の予算総会の席上、片岡蔵相の軽卒な発言が口火となって、東京渡辺銀行などに取付け騒ぎが起り、休業にはいった。
 
 これを第一波として、第二波は台湾銀行と神戸の鈴木商店が破たんした。
 
 世の中は、不景気のどん底にあえいでいたのである。
 
 源次郎のところへ仕事が回ってこないのも当りまえだった。
 
 やがて初夏から、太陽のギラギラ照りつける真夏がやってきた。
 
 「そや、ここは田舎や。田舎におうた仕事をやったらええんや」
 
 こうして農業機械の改良修理や、脱穀機、ワラ打ち機を注文に応じて作りはじめた。
 
 そのうち、近所にある多木製肥所や、別府製紙所から「同じ仕事をよそへだすくらいなら大庫にやらしてやれ」ということで、ぼつぼつ仕事が舞い込んできた。
 
   台所は火の車
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 不景気風は、このように大庫鉄工所だけを圏外に置いてはくれなかった。
 
 そのころ(昭和三年)東神吉村から戸田龍士の長女「かく」を後添えに迎えた。新婚の思い出もないくらい働きに働いた。
 
 この年、典雄(前オークラ輸送機社長)が生まれた。
 
 仕事はあっても、金は会社にまわした。
 
 時には電気代、新間代を支払う金すらない日もあった。
 
 「よう払わんのやったら、あすから電気停めるで」、集金人は、無情であった。
 
 電気が停まれば、家の電灯はともかく、工場の機械が動かない。かくは隣、近所へ借金にはしらねばならなかった。
 
 数年後、こうした苦しい家計のやりくりの疲れが出たのかも知れない。
 
 昭和8530日、次女如子を生むと、腎孟炎(じんうえん)を病み亡くなった。
 
   自社製品は、失敗続き
 源次郎は、何か自社で開発した製品を出したいといろいろ考えた。
 
 田舎のことでもあり、農業に直接結びついたものを作ったらということでワラ打ち機械を作ることにした。
 
 食べていくだけがやっとの毎日では、まとまった金がある道理がない。
 
 家屋敷を担保に、銀行から大金の1500円を借り、これを元手にいよいよワラ打ち機百台をこしらえた。
 
 市販しているものを買ったら7080円するのが、自分が造れば30銭でできる。
 
 これは、儲かるぞと意気込んだ。が、一台も売れなかった。
 
 泣くに泣けない結果に終った。クズ屋に頼んで、少しでも高く引取ってもらった。
 
 つぎに殻物乾燥器を手がけた。これは時期遅れが原因で失敗。つぎは別府港に入港してくる貨物船や、漁船のエンジン修理の経験から、焼玉エンジンの製作を手がけたが、これも考えが甘かった。
 
 なすことがみんなこんな調子で、スタートからさんざんであった。1500円という金はアッという間に霧散して、もとに残ったのはわずか200円あまりになった。
 
*『創造の人・大蔵源次郎の生涯』より
 
*写真:源次郎と連れ添って5年、苦しいやりくりをした後添え「かく」(昭和3年)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(109):新野辺を歩く(二部)25 大庫源次郎(12)・大庫鉄工所、新野辺で産声

2014-04-22 08:32:21 | 大庫源次郎

   バラック工場で産声
 
その年(昭和2年)の5月、別府町新野辺の地に大庫鉄工所が産声をあげた。
現在の「オークラ輸送機」の前身である。
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 独立当時の工場の姿は、一間に五間のバラック建の町工場であった。
 それは、田舎の街道筋で、おばあさんが一人細々と回転焼き屋をやっているような感じで、工場というより小屋のようなものあった。
 工場の設備は、「大阪で300円で買ってきた八尺ベルト掛け旋盤一台、70円のY型ボール盤一台、10円の一馬力モーター一台、そのほかグラインダー1台、ふいご1丁」と一応はなんでもこなせる機械が据え付けられた。
 この開業資金は、幸わい源次郎の遠縁にあたる神田勝次氏(故人)が、後の神戸銀行の専務をしていたので、融資を受けることができた。
 いままでは使われていた、こんとはそうはかない。
 「不始末すれは全部わが身にはね返ってくる。だれも責任はとってくんし、めんとうも見てくれない。借金も返さなくてはいけない。がんはらねばいかん・・・」
 源次郎は、真剣に取り組んだ。
 そして独立に際し銀行より借受け金は、その後九年間で返済した。
 なお、神田氏は以後資金面で、なにかと助力を仰いており創生期における恩人であった。
   借りたら返す、買うたら払う
 源次郎が修業時代を通じてもっとも大切なことだと肌で感じたことは「信用第一」と言うことであった。
 お得意との取引が成りたっているのもやは信用あってのことである。
 一軒のお得意先で信用を落とすことは、その一軒だけにとどまらない。いずれは伝え聞かれて全部のお得意先から信用をなくすることになる。
 「信用第一」、これをスローガンに大庫鉄工所はスターを切った。
 この信念は終生変らなかった。
 敗戦からの数年間、国民の生活内容は極めてみじめであった。
とくに食べ物に対しては、若い人たちには想像もできなほどである。
 とにかく、餓死をまぬがれているというだけの極限の時代であった。
 ところが、そんな社会にあって、ふしぎとどこからか物資が運び込まれる。
 旧日本軍の物資を横領して横流ししたり、日本のあちこちに残る物資を動かしたり、いわゆるヤミ取引が横行した。
 うまく立ち回れは面白いほどもうかる。
 「ヤミ屋三日すれはやめられん。堅気の会社で、こつこつ働くなど阿呆のするこっちゃ」といわれた。
 事実、小ざかしい連中は、ヤミ屋やヤミ金融でボロかせきをしていた。
 こういう人は源次郎の周囲にもいた。源次郎の前に現われては「どないや、一つこの話に乗らへんこお。のう。わけまえはこれでどなないや・・」
 そっと耳うちするその金額の大きさに源次郎は唖然とした。
 だが源次郎は、甘い話には乗らなかった。
 「信用第一や、ここで誘惑に乗って信用失ったら、今度それを取り戻すのに十倍かかる」
 事実、その当時、羽ぶりのよかったヤミ屋連中は、一時的には笑いがとまらぬほど稼いだが、世の中が落ちつくとともにあっけなく消えてしまった。
 *『創造の人・大庫源次郎』より
 *写真:創業当時の工場内風景・左端に立つのが源次郎(昭和3年頃)

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さんぽ(108):新野辺を歩く(二部)24 大庫源次郎(11)・独立と鶴林寺の師

2014-04-21 00:12:07 | 大庫源次郎

 戦い終って
 昭和25月、誠和会もついに分裂する日がきた。
 当時、繊維産業の組合は現実主義の総同盟か、共産主義の評議会のいずれかによって指導を受けていたのだが、評議会派の過激な従業員たちは、会社の施策に反抗した。
 誠和会員の中には、組合幹部の態度を嫌って脱会する者が相次ぎ、ついに革新同盟という別の組織を結成した。
 源次郎は、若いが誠和会の幹部である。家にも帰らず、組合活動に熱中した。
 ついに、517日。分裂派革新同盟の解消と主唱者の解雇要求を会社側に拒絶された組合は、ゼネストに突入した。
 争議団は、加古川町に本部を置いて籠城し、42日間の長期戦となった。
 しかし、闘争が長びくにつれ、争議団員に疲労の色が濃くなり、誠和会の足並みが乱れてきた。
 財政を両工場に依存していた加古川町と米田村にとっては、経済的に影響が大きく、両町村長らが調停に立ち、両者の間をあっせんするにいたった。
 この争議終結により、誠和会の解体で、退職者、解雇者は続出した。
 第一次5名、第二次27名、第三次には大量35名の解雇者が発表され、この第三次には大庫源次郎の名前もあった。
 この間、440日、妻しもは、長女豊子を残して病死した。
   鶴林寺の師と独立
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 「源さん。これからどうするんじゃ」
 
 「この不景気に札つきを雇ってくれる会社もないやろがい」
 
 ブラブラする毎日が続いた。
 
 「よし。自分でやったろ。独立するときはいまや。りっぱな鍛冶屋になったるで」
 
 苦しい修業時代を通じて鍛えた根性と、腕に対する自信は、源次郎を独立へとかりたてた。
 
 「独立」とう決心はついたものの、やはり、不安はつきまとった。
 
 「(鶴林寺の)茂渡師に相談してみょう」
 
 鶴林寺内にある浄心院の住職・茂渡恵寛、その人であった。
 
 源次郎はこれまで、よくこの門をくくった。
 
 くちびるを噛みしめ、寺の門をくぐる源次郎の顔は緊張に引きしまっていた。
 
 境内の桜は、ふくらみかけている。
 
 茂渡師の前に正座した源次郎は「ご存知のように日木毛織を労働争議で整理され、目下失業中です。私は私なりに独立ということを考えてみたのですが、このご時世では、考えるほど甘くないと思います。といって、いまさら他人のメシを食うわけにもいかず困っています。・・・」心の迷いをうちあけた。
 
 「あなたの宝はなにか」
 
 住職は、ずばり心の迷いの中に切り込んできた。
 
 「長年、苦労して鍛えあげた腕一本だけです・・・」
 
 「では、その腕を頼りに生きなされ。誠意をもって仕事にあたりなさい。他人の力を頼ってはいけません。高望みさえしなければ、将来必ず道は開けてきます。
 
 真面目にさえやっていけば、人さまは放っておかれません。腕だけで金もうけを考えなさい」
 
 心の暗雲は、この対話で晴れあがった。「独立するんだ。わしはやるぞ・・・」同じ言葉を何べんも、心の中で繰りかえしながら鶴林寺の門を出た。
 
 ふりかえる源次郎の目に、夕陽に映える本堂のイラカが美しかった。
 
 *『創造の人・大庫源次郎』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(107):新野辺を歩く(二部)23 大庫源次郎(10)・ニッケの争議

2014-04-20 09:12:26 | 大庫源次郎

 米騒動のころ
 大正7年7月22日夜、・富山県下新川郡魚津町で漁民の妻たちが井戸端会議を開き、不漁のうえ、米価がこう天井知らずにあがっては、もうたまらない。あすからは米の県外積み出しはやめてもらおうと話し合った・・・・「越中女一撥」米騒動の発端である。
 米価は、さらにはねあがり、騒動は、またたくまに全国に拡がって激しさをましていった。<o:p></o:p>

 源次郎のいた神戸の米騒動も11日にははじまった。
 12日、三菱造船所の労働者が社内で暴動を起こし、その夜一般市民を触発して数万人の群衆があふれる大騒動となった。
 喚声と怒号と、真っ赤な炎が一晩中、神戸の町をぬりつぶした。
 その夜、源次郎の若い血は騒いだ。。
 結局、この争議は官憲の弾圧では労働者がわの敗北に終わった。
 
帰郷、「大庫」と改姓
 大正10年5月25日、源次郎の養子縁組と結婚式が行われた。
 甥の源次郎を早くからその候補にあげていた伯母の「大庫家」は、小西家と違い、多少資産はあった。
 「あの源次郎なら、うちの跡を継いでりっぱにやっていくええ息子になるやろ」と、父母たちも源次郎のために賛成してくれ、ここに小西源次郎は、大庫源次郎と姓を改めた。
 そして、近在の石工の娘、山下しもと結婚。
 加古川の日本毛織加古川工場の鉄工部に就職した。24歳になった。日毛加古川工場は、彼の最後の勤め先となった。
 長女豊子が生まれ、妻と養母に送られての工場勤めは、播州のきれいな空気とともに落ち着いた生活だったが、運命はひにくだった。妻が死亡した。
   
日本毛織の争議
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 「東京は大変なことになったらしい。大地震で全滅したらしいぞ」、日毛加古川工場の昼休み。職長が息せき切って飛び込んできた。
 大正129月1日、午前1158分。関東地方南部をはげしい大地震が襲った。中央気象台の地震計は、すべて針がふっとんで、役に立たなかったほどの激震であった。
 この関東大震災を契機として不景気の波が急速に迫ってきた。
 全国各地、各企業に人員整理をもたらし、激しい労働争議が続発する。源次郎は、義憤に燃えた。
 ひたすら"いい職人になるためには辛抱だけ"と思っていた少年時代にくらべ、想像もできない成長ぶりだが、涙と汗で働いてきた源次郎は、一労働者として正義感から立ち上がった。苦闘している同僚たちを見捨てるわけにはいかなかった。
 『加古川市誌』には、日毛のストライキについて次のように記している。(要約)
 ・・・大正13年5月、加古川・印南両工場工手間に労働組合設立運動起り、ついに同盟罷業の挙に出で、加古川町官民をさわがせたが、川西社長が親しく代表者と会見した結果、労資協調主義の工手組合を容認し、日毛誠和会の設立となった。
 源次郎は誠和会に属した。
 そして、大正151225日、大正天皇崩御。摂政裕仁親王の即位で昭和と改元。世は「昭和」となった。
 *『創造の人・大庫源次郎』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(106):新野辺を歩く(二部)22 大庫源次郎(9)・神戸川崎造船所へ

2014-04-19 07:26:23 | 大庫源次郎

   大砲の弾丸づくり・・・
 
 夜学をやめて、そのぶんだけ残業を続けて給金を稼ぎ、少しでも多く家へ送金することにした。
 しかし、好景気といっても、工場で働く職工たちには仕事の量がふえるだけで、賃金の率はしだいに下がって、朝から夜遅くまで働き、残業料を入れても、請負いの単価が下落したものだから月給は以前と変わらなくなってきた。
 砲兵工廠に二年いて、賃金がいいといわれる同じ大阪の兵器製造会社、マツダ製作所に転じた。
 ここはロシアの砲弾を作っている工場だった。
 大戦も終盤にきて注文が殺到、寝る暇もないほど忙しい職工暮しだった。
 率こそ下がったとはいえ、職工の賃金ブームは続いていた。
 源次郎は、暇があれば工業講義録を読んだ。つつましやかな青春の大阪暮しだった。
 大戦景気で急速に興ってきた事業のなかでも、ボロい儲けを誇ったのは造船、海運業だった。
   鉄のことしか知らぬ
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 「源次郎、まあ立派になって」めっきり白髪のふえた母とめは、成人した彼の手をとって、もう涙を流した。
 父の与茂蔵も、日焼けした顔をほころばせて、息子の帰郷を喜んだ。
 「田んぼも昔のままやなあ・・・」
 源次郎は、大阪の薄汚れた工場街の灰色の空にくらべて、故郷の澄み切った夏の青空を見上げ、播州のよさをしみじみと感じた。
 父母は、最近めっきり年老いた。「乞食しても頭になれよ」と繰り返していた父の顔もしわがふえ、何となく年寄りじみてきている。
 やさしい母もずいぶん年をとった。
 「源ちゃんが帰ってきたんやて・・・・」話を聞いて、幼な友だちが、次々に訪れてきた。
 もうみんな徴兵検査すませた若者たちばかり。もう嫁をとって、子供のできた連中もいる。
 彼の歓迎会と、クラスの同窓会を兼ねて、仲のよかった連中が、加古川の料理屋へ集った。
 吟を吟じたり、仲居の三味線に合わせて、小唄の一ふしを渋いのどで聞せる、いっぱしの商人もいる。
 源次郎は、酒も飲めなかった、歌も歌えなかった。
   神戸の川崎造船所へ
 大正6年、ロシア革命。ソビエト政府樹立。日本のシベリア出兵。そして翌7(1918)ドイツの屈服で、世界を動かした第一次大戦は終わった。
 大戦は、日本に未曽有の好景気をもたらしたが、源次郎たち工員が、高賃金をもらって生活が楽になったと思ったのは、ほんの一時期だけだった。
 諸物価は急テンポで上昇しはじめ、賃金は日に日に抵下する一方、労働者には深刻な問題となってきた。
 当然、源次郎が朝夕出入する近所の一膳飯屋の料金もぴんとはね上がった。
 「なんでこんなに物が高うなるんやろ・・・・」
源次郎はマツタ製作所をやめ、神戸の川崎造船所に入った。
 思えば播州を出て、京都、大阪、神戸と流転の人生だった。
 故郷の播州は隣合わせになった。
*『創造の人・大庫源次郎』より

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さんぽ(105):新野辺を歩く(二部)21 大庫源次郎(8)・向学心に燃えて

2014-04-18 09:43:19 | 大庫源次郎

 大戦景気と大阪
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 大正5年。源次郎は19歳。大阪砲兵工廠へ旋盤工として入った。
 大正3(1914)に始まった第一次世界大戦は、当初の短期決戦の予想を裏切って泥沼化した。
 翌年末ごろになると、輸出の急増で好況に転じてきた。
 というのは、交戦国のロシアやイギリスから軍需品の注文が殺到し、大戦景気のアメリカへは、生糸輸出が増大した。
 さらに、大戦でストップしたヨーロッパ商品にかわり、日本商品が、中国や東南アジア、アフリカ諸国へどんどん輸出されはじめたためである。
 大戦景気で砲兵工廠も残業、夜業で活気に満ちあふれていた。
 源次郎は、兵器をつくるこの大工場機械の豊富なのにおどろいた。
 とにかく、ここでは見るもの、触れるもの、すべてが新鮮であり、驚異だった。
 この時期は、働けば働くほど金の入る職人の時代だった。
 大戦の軍需ブームを背景に、源次郎は眠い眼をこすりながら砲弾仕上げに明け暮れた。
 丁稚奉公で月、20銭の給金に大喜びしていた彼も、ついに残業手当をふくめ、月30円の給料を取るようになった。
 同僚たちから食事・遊びに誘われた。笑って断り、下宿~工場と往復するだけの毎日だった。
 播州の家には幼い弟妹や、出世を楽しみ待っている貧しい父母がいる。
 徹夜で稼いだ夜勤料は、そつくり家へ送金した。
 
向学心に燃えて
 旋盤を動かす程度の知識では、ドイツ・クルップ社やイギリス・シーメンス社製の高級な工作機械を操作することはできない。
 経験と勘だけで覚えた技術は、大きな舞台では役立たない。源次郎は、機械のことを一から勉強する必要があると痛感した。
 「何か機械のことを勉強したいんやけど、働きながら行ける学校はないやろか」と、ある日、同僚に聞いてみた。
 「あほくさ。職人が何でいまさら学校に行かなならんのや。わいらは、腕一本で月、何10円も稼ぐんやで。学校へ行く暇があったら、その間、工場で儲けな損や」
 でも、側にいた年長の職工は、「こないな戦争景気も、そう長くはないわい」学校で基礎からしっかり勉強して腕のええ職工にならんと、もうすく首切りの時代がきて、皆おしまいやで・・・」
 源次郎は、この言葉を聞いて決心した。
 
手放さぬ講義録
 こうして当時、福島にあった関西商工学校に入学した源次郎は、歯を食いしばって勉強した。
 学校と薄暗い電灯の下、機械や製図を、年下の少年たちといっしょに学んだ。
 夜学の三時間だけでは不足だと、学校から帰ると、下宿の三畳間のフトンにもぐり込んで、夜中の2時、3時まで勉強した。
 長い丁稚奉公に慣れてきた源次郎にとって、英語や化学方程式、物理用語の並んでいる分厚い工業講義録は、かなり難解であった。
 工業講義録の表紙が、ボロボロになってきたころ、源次郎は同じ福島にある関西英学校に興味を覚えた。
 この英語を教える夜学にも入学した。
 工廠の機械にも全部横文字の説明書がついているし、機械専門書にも、英語が出てくる。
 やがて、英学校での英語の勉強は、挫折する時がきた。
 長兄が兵隊に取られ、働き手を失った播州の家は、彼の送金が必要になってきた。
 9時まで残業すれば月30円の収入がある。英語の夜学はやめ、その時間残業して給金を稼ぐことにした。
 こういうことで英語を学ぶという彼の夢の一つは消えてしまった。
 だが、働きながら学ぶこの苦しみは、いままでの経験だけが頼りの職人だった彼の技術に大きな改革をもたらした。
*『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(104):新野辺を歩く(二部)20 大庫源次郎(7)・鮮血にまみれて

2014-04-17 07:16:11 | 大庫源次郎

      鮮血にまみれた試練
 「わあ! やってしもうた」とけたたましい悲鳴にかわった。
 旋盤の上に鮮血がパッと散った。
 主人をはじめ同僚が、ハンマーや鉄棒を投げ出し、飛んできた。
 源次郎の左手は旋盤の匁に喰い込んで、なおも血がほとばしる。
 機械から引き抜いたその左手は、手首から甲にかけ、ぱつくりとザクロのように赤い傷口を見せ、白い骨が露出していた。
 みんなに抱きかかえられ、手ぬぐいでしっかり押えた源次郎の顔は蒼白である。
 励ます主人に、歯をくいしばりながら源次郎はこういった。
 「痛いことおへん。それよりわしの左手はもうあかんやろか。もう使えんやろか・・・」
 近所の外科医へようやく着いた。
 医者は、テキパキと手術にとりかかった。
 幾針も縫い上げられる左手の痛い感覚はそれほどなかったが、夢がようやくスタートしかけた時に、何といっても痛い。
 こんな大けがをして、もうやって行けないのではないか。口惜し涙がこぼれるのを押えることが出来なかった。
 「この傷じゃ、入院せんと無理だがなあ」医者が主人にいっている。
 手術はどうやらすんだらしい。入院すれば付添いがいる。
 この京都に身寄りのない源次郎だ。鉄工所は人手不足で、そんな余裕はなかった。
 源次郎から事情を聞くと、医者はしぶしぶ通院を認めてくれた。
 東山に上った秋の月は、彼の顔色のように青白く、冷ややかに光り輝いていた。
 傷は思ったよりひどかった。全治するまで二ヵ月かかった。
 工場で、「モータ―の響きと旋盤のうなり声、ハンマーのカン高い音、油の匂い」それら中にいなければどうも落ち着かなかった。
 仕事が出来ない。その間、使える右手で、ここにある機械の構造をノートに書き写してみた。
 図を引いてみると、自分がしゃにむに覚えてきた仕事はすべて勘だけのもので、正確な操作の技術がもっと必要だと思ってきた。 -->

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さんぽ(103):新野辺を歩く(二部)19 大庫源次郎(6)・日本一の鍛冶屋に

2014-04-16 07:50:44 | 大庫源次郎

 日本一の鍛冶屋になるぞ
 「こんなことばかりしとって、職人になれるんやろか」源次郎にとって最初のスランプであった。
 ある日、旋盤を扱っている兄弟子に聞いてみた。
 「あんた、いまみたいに上手に機械を使う職人にどないしてなったんや」
 「どないしてなったてか、お前みたいに修業してなったんや」兄弟子はニヤリと笑った。
 「こんなふいご吹きと、使い走りばかりしとってなれるんか?
 「なれる。おれも見習中は、お前みたいなことを思うとった」
 兄弟子の言葉で、彼の心に一つの大きな目標ができた。
   技術を盗み覚える
 三年目を迎えるころには、ぼつぼつ難しい仕事もさせてもらえるようになった。
 当時の職人は仕事を教えてくれはしなかった。
 「そいじゃ、帰らせてもらいまっせ・・・」旋盤の職人が仕事を終えて帰って行った。
 この鉄工所にたった一台しかない旋盤は、宝物のように大事にしてある。
 源次郎は、彼の帰るのを待ちわびていた。
 旋盤の扱い方は、毎日後ろからのぞいて見て、おぼろげながらわかっている。
 職人が、七時に帰ったあと、彼はあたりに気兼ねしながら、そっと旋盤のスイッチを入れ、夜更けまで練習した。
 昼は職人の手付きをじっと観察し、夜は自分で動かしてみる。
 手先の器用な彼だから数カ月後には、職人に劣らぬほどの腕前になっていた。・・・・
 「どうも近ごろ、機械の調子がおかしい。源次郎、お前触ったんと違うか」
 でも、旋盤の魅力に取りつかれてしまった源次郎は、きつくいわれたのにかかわらず、職人の帰ったあと、触らずにはおれなかった。
 旋盤を動かしていると、削ったボルトの破片が飛んで、旋盤にちょっとカスリ傷をつけてしまった。
 このくらいならわかるまと思っていた。翌朝・出勤してきた職人は源次郎をどなりつけた。
 「おい源次郎、あれだけいうとったのに、触って傷をつけたろうが。どする気や」平手打ちを頬に続けざまパンパンと食った。
 Img
この様子を、じっと見ていた主人の中川がなだめて、源次郎にいった。
 「機械は、職人の生命や。そりゃ傷つけたお前が悪い。よう謝っとき」
 そんな時、他の職人が辞めたので、まだ十代の若い源次郎を、中州鉄工所としては前例のない職人として昇格させ、機械がつかえるようになった。
   活動写真と金平糖
 そのころ鉄工所の休みは、1日と15日の月2回だった。
 源次郎は、休みの日には主人から20銭の給料(というより小遣い)をもらった。
 朝から晩まで働いて20銭とは、いくら物価の安い当時とはいえ、安すぎるようだが、源次郎は、それでもうれしかった。
 昼食後、小遣いをもらい、鳥打帽のヒサシに手をかけ、勇んで外出した。
 行先は、京都一の繁華街である京極へ行って、活動写真(いまの映画)を見るのだ。
 京極は、源次郎と同じような丁稚どんや、友禅工、西陣の女工たちが、はしゃぎながら雑踏の中を楽しげに歩いている。
 暗く苦しい労働からやっと開放された一日。故郷を離れて働く少年少女たちの瞳が、この日だけは生き生きと輝いた。
 通りの中ほどにある八千代座で当時のピカ一の大スター「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の活動を見る。
 活動写真は五銭、堪能して小屋を出ると、赤い前垂れ姿のかわいい娘が給仕してくれる小さな飲食店で、ぜんざいを一杯ゆつくり食べる。
 これが一銭五厘。小豆がたっぷり入って、舌にじんと響くような甘さだった。
 その店を出ると、少年たちが金平糖を露地裏の屋台のじいさんから一合一銭で買う。
 いつもこの屋台で買うので、じいさんも顔なじみである。
 「おまけやで、ぽん」一声かけて、ひとつまみ余分に入れてくれる。
 そのじいさんの手の深いしわが、ふと故郷の父を思い出だした。
 *『創造の人・大庫源次郎』より
 *挿絵:新京極の雑踏風景<o:p></o:p>

 

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さんぽ(102):新野辺を歩く(二部)18 大庫源次郎(5)・京都へ

2014-04-15 07:41:17 | 大庫源次郎

  京都へ
 
 明冶452月。別れの朝がきた。源次郎は大きな鳥打帽をかぶり、母が縫い上げた着物三枚と手ぬぐい、下着などわずかの品を入れた柳行李を持ち、京都まで父の知人と馬車の出発を待った。
 
 とめ(母)は、目に涙をいっぱいためて、くどくどと源次郎に語りかけた。
 
 源次郎は、見知らぬ大都会で見習奉公する不安に身震いをした。
 
 「行ってくるで、おとう、おかぁん。みんな達者でなあ・・」「のう、源次郎よ。病気だけはするなよのう」
 
 母の声は涙にとぎれ、手をふる弟妹の姿も、土煙の道の彼方へ消えて行った。
 
 加古川駅から、はじめて汽車に乗った。
 
 故郷に別れを告げた寂しさより、源次郎は汽車に興味を持った。
 
 馬車なんか問題ならない。窓の外の田や畑、海浜・・・あっという間に通り過ぎる。源次郎は汽車のスピードに驚いていた。
 
 京都まで四時間かかった。冬の日は早い。もう、うっすらと東山は、たそがていた。
 
 「京都、京都オー」
 
 源次郎は、まず人の多いのにたまげた。
 
 ほんまに、こんな町で暮して行けるんやろうかと心細くなった。
 
 三条大橋を渡った人力車は、東山三条から折れ、狭い道を曲って、中川鉄工所と看板の上がった薄暗い板塀の前ヘピタリと止まった。
 
 鉄工所で見習奉公
 鉄工所の主人は、目付きは鋭いが、なかなかの人情家のようだった。
 
 先祖代々の鍛冶屋も、これからは機械を扱う西洋鍛冶屋でなくてはと、サッパリ改革し、いまでば小規模ながら、注文主である西陣の機屋筋から評判がよかった。
 
 当時の京都での機械類のお得意は、何といっても日本一の高級織物メーカーである西陣だった。
 
 友禅染めの染色機械や、織機の部品注文や修理がほとんどの仕事で、京都には機械を修理、製造する「仕上げ屋」が多かった。
 
さっそく弟子入りがきまった。
 
 ふいご吹きと使い走り
Photo
 源次郎は、頬を風船玉のようにふくらませ、顔をまっかにしながら、毎日フウフウふいごを吹いた。
 
 見習修業は、厳しいものだった。鉄工所へ入ったというのに、仕事らしい仕事は、何もさせてもらえなかった。
 
 朝暗いうちに起きると、まず工場内の掃除。油でよごれ、鉄片の散った工場の掃除は難しいものだった。
 
 それがすむと、ふいご吹き。
 
 上手に火を起さないと兄弟子たちから、いやというほど怒鳴られる。当時の職人修業は、一人前になるのに十年と言われた。
 
 一年余りは、ふいご吹きと使い走りだけで過ぎてしまった。
 
 丁稚車と呼ばれる荷車を曳いて、遠い所まで得意先をたずねたが、見当らない。
 
 思案に暮れて帰ってくると「もう一ペん行って捜してこい」と怒鳴られることも、一度や二度ではなかった。
 
 くたびれはてて、涙を流しながら車を曳いた。
 
 「おかぁん」と呼んで大声で泣いてしまいたいこともしばだった。
 
 この年(明治45年)の727日、京の町はむし暑かった。
 
 明冶天皇御不例の発表が宮内省から行われた。そして、三十日崩御。明治は終った。
 
 さらに九月十三日、大葬の夜、乃木将軍夫妻が壮烈な殉死をとげた。
 
*『創造の人・大庫源次郎』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(101):新野辺を歩く(二部)17 大庫源次郎(4)・手製の教科書

2014-04-14 05:58:32 | 大庫源次郎

 手製の教科書
Photo
 源次郎は、百姓仕事に追われ、出席も危なかった。
 "朝星夜星"で、予習復習の時間もなかったが、通知簿には甲がずらりと並んだ。
 高砂の町から通学する子たちは、親から教科書はもちろん、参考書も買ってもらい、風呂敷に包んで登校するのが流行した。
 源次郎は、教科書も買えなかった。
 父と約束して進学した以上、四十銭の月謝も肥え汲みや近所の子守り、野良仕事などのアルバイトで稼いだ。
 教科書は、全部写すことにした。級友に頼んで新しい教科書が出ると借りた。
 暗いランプの下で、毎夜遅くまで、毛筆で半紙に写し取った。
 写す間に教科書の内容もわかる。手製の教科書が一冊でき上がると、級友より完全に一歩先にマスターしていた。
 「源やんの教科書」は、もう学校で誰も知らぬ者がおらんほど有名になった。
 
大工になろうか
 源次郎は、生まれつき器用な子だった。
 貧乏な百姓の二男坊がおもちゃを買ってもらえるはずはない。
 木でも石でもいい、何か持っているうちに、何かを作っているという子だった。
 「大工になったらええんや」友達は口々にそういった。
 源次郎も「そうやな、大工もええなあ。それとも左官かなあ」と思ってみた。
 
西洋鍛冶屋になる
 父の知り合いに相談した。
 「これから職人になるのやったら西洋鍛冶屋になったらええ。「西洋鍛冶屋」・・・聞きなれない言葉だった。
 源次郎の探究欲がむらむらと湧いてきた。その名のハイカラな響きも気に入った。
 「おっちゃん、西洋鍛冶屋ってどんな仕事やねん」
 「はあて、わしにもくわしいことは、ようわからんけど、うちの嫁はんの弟が京都で機械の仕上げ屋をやっとる。
 西洋鍛冶屋いうたら機械を作ったり、修理したりするんや。
 近ごろこの播州平野の海岸よりに、あちこち工場ができて、大きな煙突が人の目を驚かせていたが、その中にあるまだ見たこともない機械を作るという。
 「おとう。わしゃ西洋鍛冶屋になる。やらしてくれや」源次郎は立ち上がって、大きな声で父に向って叫んだ。
 「そやけど、そんな仕事は高砂にも、加古川にもありゃせんが。そんなら京都か大阪へ行かなならんが・・・」
 母・とめはこの話を聞いて頭から反対した。
 「源次郎を京へやるちゅうて。とんでもない。そんな遠い所へ行ってしまったら、もう会えんやないか」
源次郎には、母の心配も通用しなかった。母を説き伏せて京都へ行くことに決めた。
 「源次郎や、京は底冷えするちゅから、身体だけは気をつけや」と、とめは、出発の日が迫ると毎日のように繰り返した。
*『創造の人・大庫源次郎野生涯』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(100):新野辺を歩く(二部)16 大庫源次郎(3):頭になれ・・・

2014-04-13 06:38:12 | 大庫源次郎

 悲しきお年玉

  源次郎たち兄弟は、小遣いをもらえるような贅沢は許されなかった。
 一年中、野良仕事や家事を手伝っても、小遣いがもらえるのは年に二回だけだった。
 盆と正月に、よくて二銭、普通一銭と相場が決まっていた。その正月の小遣いにも思い出があった。
 正月、村の子供たちは、粗末ながら新調のお仕着せに、コマやタコ、羽子板、それに念願のお年玉を持って、小松原三社神社へ集まる。
 飴玉一つが一厘、綿菓子がちょっと高くて一銭という値段だが、とても源次郎たちには買えない。
 とめ(母)が、夜なべで作った粗末ながら新品の着物は着ていても、肝心のお年玉がないから何も買えなかぅた。
 暮れも押し詰った三十一日、幼い弟妹たちは母親にねだった。
 「源次郎、ちょっとおいで」
 そっと台所もよぶと、とめ(母)は、正月用に取っておきの白米を物置から一升出して袋に入れ、知人の家で売ってきてほしいとたのむのだった。
 源次郎は、気軽に外へ飛び出し、級友の親のところへ売りに行った。
 しばらくすると、五銭の白銅貨を握って源次郎は飛んで帰ってきた。
 その米の代金を弟妹でわけた。それが小西家のお年玉となった。
 
汲み取りバイト
 高砂高等小学校の月謝四十銭は痛かった。
 そのころ、高砂の町の下肥えの汲み取りは荒井村の農家が請合っていた。
 ある時、都合が悪くて汲み取りに行けなくなり、町の人たちはにがりきっていた。
 高砂町(現在の高砂市)は、古くから播磨の良港で、裕福な町である。
 そのため、隣接の荒井村を小馬鹿にして"在の者"と呼び、低く見ていた。
 だが都合の悪いときは仕方がないもので、農繁期の村はそれどころではない。
 猫の手も借りたい時に、高砂まで汲み取りに行く者はいなかった。
 その話を聞いて、源次郎は、「よっしゃ。わしにまかさんかい」と胸を叩いて、この仕事を引き受けた。
 翌日から源次郎の活躍が始まった。学校へ行く日には朝夕二往復だけだったが、日曜日ともなると忙しい。
 大八車を借りてきて、実家から持ち出してきた肥え桶を積んで、高砂、荒井の間を行ったり、来たり、暗くなるまで汗水流して車をひいた。
 田んぼ道では、ふところから"手製教科書"を出して読みながらの往復である。
 おかげで、月謝にお釣りがくるほど心付けをもらった。
 「人のいやがる仕事でも、やってみりゃ、やれんこともないがな」と痛む腰をさすりながら明るく笑った。
 こんな源次郎を、高砂の町中から通学する同級生の中には「源次郎の奴は汚い肥え汲みまでして月謝を稼ぎよる。ああまでして学校へ行かんでもええやろうに・・・・」と冷たい目を向ける連中もいた。
 
乞食しても頭になれ
Photo
 「乞食してもええが、頭(かしら)になれよ。頭に・・・」
 夜、疲れ切って、せんべいぶとんに横になった源次郎に父はいつもこういった。
 貧しい百姓として一生歩んできた父は、せめてわが子には人さまの上に立つ人間になってほしかった。
 当時の高等小学校では難解な漢文の時間があった。
 ある時、目玉のこわい教師が「鶏頭となるも牛後となる勿れ」と黒板に大書して、大喝一声「のう、こらい。こりゃあ古いことわざや。大きな組織の下っ端で、ぶらぶら働いているよりも、どんなに小そうてもええ、独立独歩、一人でやって、その頭(かしら)になれちゅうことじゃ。わかったか・・・」
源次郎はこれを聞いて、身震いした。
 「そうじゃ。先生のいう通りじゃ。おとうは、常々このことをいうとったんや。乞食しても頭になれちゅうことは、鶏頭となれとじゃ・・。
おとうはやっぱりええことをいうとったんやなあ」源次郎は、目を輝かせて黒板の字を見つめた。
 「ようし、わしゃあどんなことがあっても人を使ってみせたる。どんなに辛いことがあってもやったる」
 源次郎少年、十二歳の夏のことであった。
*『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(99):新野辺を歩く(二部)15 大庫源次郎(2)・働けど、働けど・・・

2014-04-12 06:46:11 | 大庫源次郎

朝の野菜売り
 
 播州平野はまだ眠っていた。
 午前四時。温暖な山陽道とはいえ、冬の明け方は、さすがに冷え込みが厳しい。
 薄暗いたんぼの畔道を一人の少年(源次郎)が足早やに歩いてくる。
 この寒いのに、カスリの着物に素足の草履ばきである。
 しだいに、東の空が赤味を増して朝がはじまる。
 高砂の町までニキロ。ほんのひと握りほどの大根や白菜を町の衆に届けて、五銭ほどの金を貰わなければ、源次郎の日課は、はじまらなかった。
  働けど、働けど
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 小西源次郎(のちに養子縁組、大庫と改姓)は、明治36(1897)1216日、父・与茂蔵、母・とめの二男として出生した。
 加古郡荒井村小松原462番地(現在の高砂市)が出生地である。
 源次郎の生まれた年は、日本は明治2728年の日清戦争も勝利に終わり、欧米列国の注目を集め始めた。
 官営八幡製鉄所が設立され、労働組合運動がスタートする。
 いっぽう、会社倒産が続出した暗い年でもあった。
 小西家は、代々の小作農家で、収穫の七割余も年貢に持っていかれた。
 女、子供もまじえて朝早くから夜暗くなるまで総出で働いた。
 幼い源次郎には夏の草取りが一番辛かった。
 田んぼの端から雑草を刈りはじめて、汗水流して草取りして夕方帰ってみると、先の所にはもううっすらと憎い雑草が生えてきている。
 一反当たり二石五斗から二石八斗の米がとれたが、そのうち地主に一石八斗は持って行かれ、残りで肥料を買ったら、ほとんど残らなかった。
 どんなに苦しくても、肥料を買って次の年の米を作らねば生活できない。現金かないから、肥料商から借用証と引き換えに買った。毎月三十銭の利子を払わねばならなかった。
 支払日は、三十銭がないため母・とめは、一日中家の内外を隠れまわったり、雨戸を閉めて子供たちと息をひそめて借金取りが帰るのを待ったこともしばしばあった。
 小西家には、源次郎のほかに五人の子があり「貧乏人の子沢山」といわれるように親子八人が食べて行くには並大低のことではなかった。
 朝は、三時か四時に起きて野良仕事に出かけた。あい間には、畠を耕がやして野葉をつくった。
 兄・熊太郎、姉・せんは、父といっしょに野良へ出た。ゆき、幸次の幼い弟妹たちも近所の子守りをしたり、牛を加古川の河原に連れだし、草を刈って干草作りをした。
 夜は、身体の節々が痛くなるほど疲れている父と母は、まだ眠れなかった。
 父は、ワラをなって草履や縄つくり、とめは六人の子のつくろい物に針を動かした。
  学校へ行かしたる
 「おおい。旅順が陥落したぞ」雪の深い明冶38年の元旦だった。
 大国ロシアとアジアの一小国との戦争は他人事ではなかった。旅順要塞は堅固だった。来る日も来る日も、日本軍全滅の暗いニュースばかり。
 そこへこの快報である。「おとう。旅順の話聞かしてや」
 源次郎は、父にせがんだが、父は苦笑するはかりだった。当時の百姓に多かったように源次郎の両親も字を知らなかった。
 新聞を読むことができなかった。その年の527日、日本海海戦。東郷平八郎ひきいる連合艦隊はハルチック艦隊を撃滅した。
 源次郎は、もっと詳細が知りたかった。
 父は、手紙さえも読めなかった。「勉強さえやっとったらのう。わしでもいつまでも水呑み百牲やっとらんけどなあ」父は、くやしかった。
 子供たちには勉強をちゃんとさせておかなければ、これからの世の中を渡るのに一生苦労するだろうと思った。
 苦しくても子供には学校教育を受けさせようと決心した。
 ある日、仕事も終わり、夕食が始まる前、父は源次郎を呼んだ。
 「こんど高砂の町に高等小学校(高砂高等小学校)ができるちゅうが、お前行かしたる」
「どんなことしても行かしたる。その代り、お前も辛いやろが、月謝ぐらい自分で稼いで、よう勉強せなあかんど」
*『創造の人・大庫源次郎の生涯』参照。
*写真:大庫源次郎の生家

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