ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(12):宝殿駅界隈を歩く(12):高砂市の悲願?

2013-12-28 00:05:27 |  ・加古川市米田町

  きょうのブログは、勝手の想像です。読み飛ばしてください。
       
宝殿駅周辺<o:p></o:p>

Ba32edc
 昭和25615日、加古川市は加古川町・神野村・野口村・平岡村・尾上村が合併して誕生した。
 その後、別府町(昭和2610月)、八幡村・平荘村・上荘村(昭和304月)、東神吉村・西神吉村・米田町船頭・平津地区(昭和319月)を加古川市に編入した。
 そして、志方町を昭和542月に編入し、現在にいたった。
 そのうち、米田町との合併は、もめにもめた。結果、米田町は分裂した。
 高砂市は、昭和29年高砂町・荒井村・曾根町・伊保村が合併して誕生したが、それに先立って米田町との合併を望んだ。
 加古川市も同じで、米田町との合併を希望した。
 米田町にあるニッケ印南工場と加古川工場は密接な関係にあった。
 ニッケ工場は、行政が異なり、何かと不便があった。
 さらに、西神吉村・東神吉村と米田町は、宝殿中学校を共同経営していた。
 米田町は、高砂市と加古川市の狭間にあり、合併問題で翻弄されることになった。
     
JRは高砂市の長年の悲願
 宝殿駅周辺の地盤割は、なんとも変則的である。宝殿駅と駅前は高砂市に属している。 (宝殿駅の一部は加古川市)
 明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではなかった。
 当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定であった。
 江戸時代、高砂は、海運業を中心に発展した町で、彼らを中心に「鉄道敷設」に反対した。理由は、鉄道が敷かれること海運が衰えるというのが主な理由であった。
 その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走るように変更になった。<o:p></o:p>

 鉄道を拒否した高砂の町の商業(経済)の衰退は決定的になった。
そんな経験から、高砂市にとってJRは長年の悲願であった。
 
宝殿駅周辺の、変則的な地盤割りを見た時、「高砂市は、米田町との合併の時、長年の悲願であった宝殿駅を、むりやりに取り込んだのではないか」と想像したが、地図をご覧願いたい。
 この地図は近世(江戸時代)の神爪村である。
 もともと、神爪村の東はしは、コブのように出っ張っている。その部分をJRが走り、明治33514日、宝殿駅が建設されただけである。
 でも、高砂市としては米田町との合併では、宝殿駅のある神爪地区が欲しかったに違いない。
  <お知らせ>
 明日から(2014年)14日(土)まで、ブログはお休みとします。この一年お世話になりました。来年も拙文にお付き合いください。
 よきお年をお迎えください。有難うございました。

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さんぽ(11):宝殿界隈を歩く(11)・蟠桃顕彰墓

2013-12-27 08:48:13 |  ・加古川市米田町

  13才で蟠桃は、故郷の神爪を出た。
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親父のしごとは糸屋であり、神爪は大阪に出るまでの間に商売の基礎を学んだ場所であつた。
 その家屋は、戦後まで残っていたようであるが今は、それを示す石碑だけである。
 そこから、道に沿ってさらに西へ
200mほど行ったところに浄土真宗の覚正寺がある。
 蟠桃は、子供の頃、ここの寺子屋で読み書きを習っていたという。
 蟠桃は「夢の代」完成の翌年に
74才でこの世を去っている。
 墓は、大阪北区の善導寺にあるが、神爪の共同墓地にも村民が顕彰墓をたてた。
 この顕彰墓は、
1998年に風化防止のためにこの覚正寺の境内に移設されている。
    
蟠桃の顕彰墓
 地域史には若干興味があり、「山片蟠桃をしらべてみようかな・・・」と覚正寺を訪ねたことがある。そのとき、帰りに、墓地の顕彰墓を見学した。もう20年ほど前のことである。
 数年前、このブログでも蟠桃を紹介しようと顕彰墓を捜したが、なかった。
 間違いかと思い、次の日も写真を撮りに出かけた。やはりなかった。
 夏の暑い日であったことを覚えている。
 007
先日、インターネットで蟠桃について調べたところ、この墓は覚正寺の境内に移したとのことである。
 さっそく、昨日(26日)写真を撮りに出かけた。
 覚正寺の境内の庵の中にあった。
 「お久しぶりでした・・・」と、挨拶したくなった。
 蟠桃が子供の頃、この境内で遊び、この寺で勉強をしたのかと思う、若干感激である。
 なお、寺には朱塗杯も保管されているようである。
 72才で幕府より表彰された蟠桃が、神爪の親類、友人に感謝をこめて贈呈したものであるという。
  <余話>  旧神爪村には墓地がない
 蟠桃の墓のある神爪の墓地の事である。
 墓地の地は神爪ではない。隣村の(旧)岸村にある。
 というのは、神爪村は生石神社への御供米を作る村の一つで聖地とされていた。「けがれ」を避けるためという理由で墓地は隣村につくられたという。
 *写真:覚正寺の境内にある蟠桃の顕彰碑と庵

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さんぽ(10):宝殿界隈を歩く(10)・もっと、蟠桃さんの紹介を

2013-12-26 08:49:56 |  ・加古川市米田町

  006
 きょうのブログは、若干ボヤキ節である。
 
宝殿駅の北側の入り口には「山片蟠桃生誕の地 神爪」の標柱(写真)がある。
 
宝殿駅は、現代の地名では米田町神爪一丁目であるが、蟠桃は、少し西の五丁目に生まれた。
 通勤時には賑わう宝殿駅でも、蟠桃標柱に目を留める人も少ない。
 「山片蟠桃(やまがたばんとう)ってだれ」というのが実情である。
 これが、宝殿駅界隈での反応であるが、宝殿駅あたりから離れるに従って、この傾向はサラに大きくなる。
 次の紹介で、山片蟠桃のすごさの一端を知ってほしい。
  
  山片蟠桃賞
 大阪府には「山片蟠桃賞」がある。インターネットでは、次のように説明している。
 「大阪府では、大阪が生んだ世界的町人学者である山片蟠桃の名にちなむ国際文化賞として「山片蟠桃賞」を設け、日本文化を海外に紹介し国際理解を深めた著作及びその著者を顕彰しています。
 大阪府文化問題懇話会委員を務めていた作家の司馬遼太郎さんの提唱により、昭和57年度に設けられました」
    
蟠桃について広めよう
 神爪は高砂市米田町神爪にうまれている。高砂市と言いながら数メートル歩くと加古川市である。当地方としても、「蟠桃賞」らしきものを考えてはいかがだろうか。
 「山片蟠桃の生まれは、米田町神爪なんですよ・・・」と全国に発信したい。
黒田官兵衛のように盛り上がらないものだろうか。
 蟠桃は、大河ドラマになじむような人物ではないが、なんらかの仕掛けがなければ燃え上がらない。
 今、加古川市のどの公民館でも「地域学講座」が開かれているが、「山片蟠桃」についての講座があったとは聞いていない。
    
『蟠桃の夢』が出版された 
「山片蟠桃はだれ?」と言わしめた責任の一端は、彼の偉大な功績をやさしく紹介する書籍等が無かったことにあった。
 しかし、先にも紹介したが、本年、地元出身の木村剛久(きむらごうきゅう)氏が『蟠桃の夢』という素晴らしい本を出版された。
 このままでは、地元としては、あまりにも蟠桃に冷たい。
*写真:「山片蟠桃生誕の地 神爪」の標柱(宝殿駅北側のロータリー)

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さんぽ(9):宝殿界隈を歩く(9)・宝殿駅、そして・・・

2013-12-25 10:38:48 |  ・加古川市米田町

 宝殿駅は、明治33年に開業した。少しだけ歴史をみておきたい。
1900(明治33年)514日、 山陽鉄道の駅として開業。
1906年(明治39年)121日、 山陽鉄道の国有化により国有鉄道(国鉄)の駅となる。
1907年(明治40年)111日、 現在地(開業当初の位置から西へ0.1km)へ移転
    不思議な宝殿駅前の地盤割
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 いま、加古川市の住宅地図を見ている。
 JR宝殿駅(写真右)の周辺は、なるほど不思議な地割である。
 宝殿駅の駅舎は高砂市であり、その南一帯の商店街は、加古川市に属している。
駅から南に伸びる道を行くと国道2号線にでるが、さらに行くとすぐ高砂市になる。
 駅舎は高砂市米田町神爪一丁目にあるが、ホームの一部は加古川市に属している。<o:p></o:p>

 JR宝殿駅前周辺の開発の話がおこれば、加古川市と高砂市の利害が対立しそうな配置にある。
    
宝殿駅前地番変更問題
 昭和32年、米田町合併問題の余波があった。
 (米田町合併問題は、すぐに取り上げる予定です)
 米田町が分裂して、それぞれ加古川市と高砂市に合併した直後から、平津地区特に国鉄(当時)宝殿駅前商店街を中心として、再度分市を求める動きがおきた。
 昭和325月、主に宝殿駅周辺の住民が高砂市長と議長に「平津地区を高砂地区に編入して欲しい・・・」と申し入れた。
 高砂市は「地元の福祉を守る」と言う立場で県の調停を求めた。
 これに対して、他の平津地区の住民は「先に高砂市に出された陳情はデタラメである」  と、県当局や加古川市に申請書を提出した。
 48日、加古川市議会も「再分市絶対反対」の決議をした。
 県は「・・・米田地区を分離した際、住民の多数意見によって加古川市に編入したばかりであり、調停にかかったからといって境界変更を認めることにはならない」と、分市を考えていないことをほのめかした。
 その後の話し合いの中で、加古川市は平津地区の要求を尊重すると言うことで、分市の動きは、おさまっていった。
 *写真:宝殿駅(南側)入り口<o:p></o:p>

 

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さんぽ(8):宝殿界隈を歩く(8)・稲岡工業宝殿工場

2013-12-24 00:16:23 |  ・加古川市米田町

 70c7b274「(シリーズ)さんぽ」で山片蟠桃を取り上げるために、久しぶりで神爪を歩いた。以前ここに来たのは23年前であるが、それでも、ずいぶん風景が変わった。<o:p></o:p>

 むかし、亡くなった母の実家が神爪の西の魚橋で、私のある事情で魚橋でしばらく生活した。そのため、昭和30年以前からの、この辺りの風景は鮮明に覚えている。辺りの風景は、激変した。
 昔、宝殿駅から神爪の集落の間には、ほとんど家がなかった。宝殿駅から西に行くと集落の入り口に稲岡工業・宝殿工場があった。(稲岡工業は、神爪に接しているが、行政的には西神吉町岸である)
 この場所に稲岡工業・宝殿工場があるのは、当然すぎる風景であったが、今はある施設や住宅地にかわっている。
 
   稲岡工業・宝殿工場があった
 041
 20123
20日(火)の神戸新聞の朝刊は、志方町の稲岡工業の破産のニュースを大きく報じた。
    稲岡工業破産へ
  <神戸新聞、2012320日(火)朝刊より>
 民事再生法の適用を申請し、経営再建中だったタオルメーカーの稲岡工業(加古川市志方町横大路)が破産する見通しとなった。
 輸入品でも少量しかなかった明治期にタオルを国産化し、業界で草分け的な存在として知られる同社。
 在庫処分セールが19日から本杜工場で始まり、長年愛用してきた消費者や近隣住民かち惜しむ声が広がった。
    明治24年(1891)操業開始
 同社によると、現在の加古川市域やその周辺は江戸時代から木綿の生産が盛んだったが、産業の近代化とともに木綿業は危機に直面した。
 窮状を打破しようと、創業者の稲岡久平が木綿の加工品としてタオルに着目。
 調査・研究を重ねて1891(明治24)年に生産を開始した。
 海外輸出や、中国にも工場を展開し。戦後も最新鋭技術を導入。百貨店向けの高級品が好調だった1991年には売上高26億円を計上した。
 だが、バブル崩壊後は、中国を中心とするアジア製品の安値攻勢と国内の消費不振で業績が悪化。
 20082月に民事再生法の適応を申請して経営破綻した。
 さらに、直後のリーマン・シヨックで事業環境は悪化。グローバル経済の荒波は、120年以上の歴史を刻んだ老鋪にも容赦せず、直近の売上高は1億5千万円にまで落ち込んでいた。残務整理に当たる社員の一人は「時代の変化に対応できなかったことに尽きる」と唇をかんだ。
 高砂市の女性は「知人に元従業員がいるだけに、会社がなくなるのはさみしい」と声を落とした。
 *写真上:稲岡工業宝殿工場(昭和)30年頃の撮影かと思われる。
    下:宝殿工場の入り口にあった宝殿工場の看板
    (工場の閉鎖に伴い不要になり頂いた)

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さんぽ(7):宝殿駅界隈を歩く(7)・山片蟠桃④、神爪村

2013-12-23 00:06:23 |  ・加古川市米田町

 なぜ神爪?
 「神爪」を歩いている。
 それにしても「神爪」と書いて「かづめ」と呼んでいるのは、何ともふしぎな呼称である。
 昔から、多くのひとが、その解釈に頭を悩ましている。
 いろいろな説をあげておきたい。
 「石の宝殿」の伝説では、大国主命(おおくにぬし)、小彦名命(すくなひこな)が、ここに諸神を集めたために「神詰め」で、それが転じて神爪になった。
 日向明神(日岡神社の神)の神馬の爪あとが残っているため。
 『風土記』にある「含芸の里(かむきのさと)の端」を「かんつま」と読み、それが訛ったもの。
 「風土記」の時代、古代開拓者が勝部集団であり、その勝部が「かづめ」になまったもの。
 このようにいろいろな説があるが、はっきりしない。
     
神爪村
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 話を蟠桃の生活していた江戸時代に戻したい。
 蟠桃の家の前を大きな農業用水が流れている。この水は加古川につながっている。
 枯れることはない、ゆたかな水があった。
 もちろん、農業用水であるから、神爪村の田畑を潤したが、村のおかみさんたちは、この水で洗濯もし、野菜など洗う等生活用水としても利用した。
 水は透き通って、魚もたくさんいた。
 子供の頃、蟠桃はここで水遊びもしたし、魚取りもした。神爪は楽しい思い出がいっぱい詰ったところであった。
 村の中ほどに覚正寺(かくじょうじ)という浄土真宗の寺がある。
 文政二年(1819)、72才のとき、蟠桃は主家(升屋)への忠勤により、江戸表から表彰された。
 その時、記念に三重一揃えの朱塗り木杯をつくり、神爪村の親戚や友人に配っている。この木杯が、覚正寺に遺品として伝わっている。
    
『蟠桃の夢』(木村剛久著)<o:p></o:p>

 蟠桃、そして彼の生誕地・神爪についてもっと触れたいが、話を次に進める。
 ただ、蟠桃は、日本史の一ページを飾る人物であり、彼についてもっと知りたいが、やさしく紹介した著書がなかった。
 しかし、今年の3月、高砂出身の木村剛久(きむらごうきゅう)氏が『蟠桃の夢(天下は天下の天下なり)』(トランスビュー)を出版された。
 さすがに地元出身の方が書かれた蟠桃論である。
 お読みください。きっと蟠桃ファンになられること請け合いです。
 *挿絵:『蟠桃の夢』(木村剛久著)表紙

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さんぽ(6):宝殿界隈を歩く(6)・山片蟠桃③・唯物論

2013-12-22 00:08:50 |  ・加古川市米田町

   山片蟠桃著・『夢の代(ゆめのしろ)』より
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 蟠桃は、「太陽系の金星と水星は近く、暑いため人が住んでいないだろうが、他の惑星には人が住んでいる」と予想した。
 そして、宇宙人がいると言う大胆な仮設を世に問うたのも彼が世界で最初だった。
 彼は、忙しい商のかたわら学問への情熱は捨て切れなかった。
 「懐徳堂(かいとくどう)」に入門し、中井竹山から天文学を学んだ。
 55才の時、自分の考えをまとめるため『夢の代(ゆめのしろ)』の作成に取りかかり、20年の歳月をかけ完成させた。
 『夢の代』は、当時のものとしては驚くほど先を見越した内容だった。
    
迷信の否定
・雷に打たれて死んだ人は、決して悪人ではない。たまたまそうなっただけで、これは自然現象である。
・人間の精神作用は、死と共に活動を停止する。霊魂の不滅などということは絶対にない。
 蟠桃は、このように「日常生活における迷信を否定し、物事を合理的に考えなければならない」と説いた。
 このことは、次の意見にもよくあらわれている。
・西洋人が、世界の海を自由にかけめぐっているのは、天文学と地理学の豊かな知識に基づくものである。勇気は知識から生まれる。
 まさに、時代を先取りした現代の思想である。
 やがて、江戸幕府はその幕を閉じるが、その瞬間から日本はアメリカ・ヨーロッパの知識・文化を取り入れた。
 蟠桃の学問は、新しい学問の受け皿の役目を果した。
 文化7年(1810)、妻・のぶを亡くし、蟠桃にも老いの悲しみが押し寄せてきた。
 文化10年、ついに失明した。開かぬ目で、故郷・米田村神爪(かづめ)に錦を飾った。
 その2年後、文政4年(1821226日、静かに息をひきとった。74才だった。
 *写真:蟠桃寄贈の灯籠(神爪)

 

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さんぽ(5):宝殿界隈を歩く(5)・山片蟠桃②、懐徳堂で学ぶ

2013-12-21 07:53:04 |  ・加古川市米田町

 蟠桃のすばらしさは、本来思想家に生まれていたはずの人間が、社会を相手に実務家になったことである。
 11 年後の天明三年(1783)、仙台藩との信頼関係を確立し、藩のたのみで一万千両を貸し、以後、藩財政のたてなおしに携わった。
 かれは、コメを根底からカネ(商品)として見ることによって、仙台藩の財政のむだをのぞいた。
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懐徳堂で学ぶ
 蟠桃の生家の姓は、長谷川だった。
 しかし、士族であるかのように、有男という名をもち、字を子厚と称していた。ただし通称は、久兵衛だった。
 大坂に出て、山片家で奉公をし、かたわら懐徳堂へかよううち、名を芳秀と変え、宇も子蘭(しらん)と称するようになった。
 「子蘭(しらん)」は、ひょっとすると、学ぶことの奥深さに気づいて、「知らん」という洒落であったのかもしれない。
 かれは生涯、升屋の番頭でおわった。
 50半ばになって、わずかな余暇をみつつ大作『夢の代』(ゆめのしろ)の著作にとりかかり、73年の生の終わるころに完成した。
 徹底した合理主義的哲学の上に立った経済論や地動説、さらには無神論を展開している。
当時にあっては稀有のことである。
 が、ために表むきをはばかって、号の「蟠桃」を著者名とした。
 おそらく他人に意味をきかれたとき、「一番頭(ばんとう)さんだからだよ」と答えたにちがいない。
 蟠桃とは、もともと、三千年に一度実をむすぶという伝説の桃のことである。
『夢の代』の合理主義の内容と似合わない。これも洒落であるのかもしれない。
 夢の代
 蟠桃が歴史にその名をとどめ、日本史の教科書にも登場するのは 、この『夢の代 』の著作のためである。
 それでは、次回『夢の代』の内容を見てみてみたい。
*写真:山片蟠桃像(神爪の公園)
*『十六の話(司馬遼太郎)』中央公論社参照

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さんぽ(4):宝殿駅界隈を歩く(4)・山片蟠桃①、神爪に生まれる

2013-12-20 07:53:10 |  ・加古川市米田町

  山片蟠桃(1)<o:p></o:p>

 米田町神爪(かづめ)を散歩したい。
神爪から、日本史における巨星・山片蟠桃(やまがたばんとう)がは輩出している。<o:p></o:p>

 高校の日本史の教科書にも登場する人物である。
 大阪へ出た山片蟠桃(17481812)は、山片屋の番頭として、経営がこんなになった山片屋の経営を立て直し、かたわら学問をし、さらには自分の思想をそだてた。
   
蟠桃、神爪(かづめ)に生まれる
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 彼は、米田町神爪(現・高砂市)にうまれた。その生家に「糸屋」という屋号がついていた、ことからみて、かつては木綿をあつかう商家だったのだろう。
 父は分家し、徴禄して小さ酒屋をいとなみ、貧農というに近かった。
近くの高砂は商港であった。ここに年貢米をはじめとする商品が集散して市場をなしていた。蟠桃の思想の成立に大きな影響を与えたに相違ない。
 また、江戸後期の発明家だった工楽松右衛門もこの地の人だった。
 (工楽松右衛門については、「ひろかずのブログ・工楽松右衛門」をご覧ください)
 蟠桃は、高砂の市場のにぎわいを、流通経済を知るための小さな初等教育の場にしたにちがいない。
 当時、高砂は、大坂の商圏に属していた。
 そのあたりの小さな家の子弟の多くは、渡海船に乗って大坂へ奉公に出たのだが、蟠桃も13才のときに大坂に出た。
 奉公先は、当時、大坂を代表する五人の米年寄の一人だった升屋平衛門重賢の店だった。升屋は、もともと米の仲買人の家だったが、重賢の代になって、大名貸もやった。
重賢は、学問に理解があり、読書好きの蟠桃(この当時は久兵衛)に、大坂でもっとも権威のあった学塾・懐徳堂(かいとくどう)に通うことをゆるした。
 その重賢が、明和6年(1769)に死んだ。残されたのは、生まれてまもない嬰児だった。蟠桃21才のときで、主家はにわかにかたむいた。
 その上、取引先の仙台蕃、長岡藩など財政が逼迫しきっていたときでもあり、さらには升屋に相続問題がおこって、家業どころでなかった。
 そういう不振のなかで蟠桃は、大名の正体やコメとゼニを中心とした経済社会をナマ身で学びとった。
 蟠桃は若かったが、24才のとき、決意して6才の重芳(しげよし)を助け、升屋をたてなおすことにした。
 このとき升屋の金庫には、わずか60貫の銀しか残されていなかったといわれる。
 その後、升屋の芽が出るまで、11年の苦闘が続いた。
 *写真:山片蟠桃生家跡の碑<o:p></o:p>

 *『十六の話(司馬遼太郎)』(中央公論社)参照<o:p></o:p>

 

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さんぽ(3):宝殿駅界隈を歩く(3)・竜山石

2013-12-19 08:16:25 |  ・加古川市米田町

 

    竜山石
 生石神社一帯は、竜山石(宝殿石)の産地である。
竜山石について少し触れておきたい。
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竜山石(宝殿石)とは、兵庫県の加古川下流右岸に産する流紋岩質の凝灰岩の石材上の呼称で、白亜紀後期(約1億年前)の火山活動によって噴出した火砕流堆積物が厚く堆積したものである。
 古墳時代(46世紀)の風景を想像したい。
 加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたようである。
 河口は、竜山の採石場のあたりだったのかもしれない。
 風土記に登場する加古川の三角州「ナビツシマ」が、前方にひろがり、このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようだ。
 そこに、竜山石の採石場があった。
 真壁夫妻の研究によれば「五世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が五世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられる。
 竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれている。
 竜山石は、水上により目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅」(しゅら)に移しかえられ設置場所まで運ばれたのであろう。
 道路の整わない当時の陸上を運ぶより、水上を運んだ方がはるかに容易に早く運べた。
 竜山石は、加工しやすい柔らかい石材(凝灰岩)であったが、何よりも運搬に便利な川(湾)に面した絶好の場所にあった。
 竜山石・石の宝殿の詳細については『石宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子著)』(神戸新聞総合出版センター)をお読みください。
*写真:竜山石の採石場

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さんぽ(2):宝殿駅界隈を歩く(2)・生石神社と三木合戦

2013-12-18 09:01:12 |  ・加古川市米田町

 

いよいよNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の開始が近づいてきた。第一回は、来年15日である。
 その第1回放送分の視聴会と中村チーフプロデュサーの解説が16日(土)姫路市で開かれたと、新聞は伝えている。
 中村氏は「恋や出会い、別れなど人間味にあふれる官兵衛を描いた」と話し、「ドラマの舞台の7割は播磨になる」と裏話を披露している。
 楽しみである。
 生石神社と三木合戦
 Photo
  生石神社と三木合戦について少し紹介しておきたい。
 天正6年(1578627日、神吉合戦が始まった。
 神吉軍は、三木側から数十人の援軍があっただけで約2000人であった。
 それに対し、織田軍は30000人の圧倒的な人数で押し寄せた。
 結果は最初から見えていた。城主・神吉頼定は死んだ。そして、神吉城は落ちた。
 信長方は、神吉城攻略のために当神社を陣所として貸与するよう申し出たが、生石神社は拒否した。当時の宮司は、神吉城主の弟であった。
 やがて、三木城も落城した。後日談である。
 三木戦の後、ほとんどの寺院は、秀吉に服した。
 しかし、生石神社が秀吉に従う気色はさらさらなかった。時の流れに逆らったのである。
 これを知った秀吉は、大いに憤り「生石神社を焼きはらえ」と秀吉は、弟の秀長に命じた。秀長は、生石神社を急襲した。神社に火をかけた。神社は混乱。戦わずして、逃去ってしまった。
 おりからの烈風は、宮殿、御殿、楼閣、庫裏、高塀、物見やぐら等全てを焼き尽くした。
 そして、そして領地もとりあげた。
 焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いの時に西軍の勇将大谷吉継が陣鐘として使用した。
 西軍の敗北により、家康が戦利品として美濃国・安楽寺(大垣市)に寄進している。
 後年、生石神社は、氏子たちによって再建されたが昔日の面影は失っていた。
 鐘の表面には、応永
26年乙亥(1419) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。
 *写真:現在の生石神社

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さんぽ(1):宝殿駅界隈を歩く(1)・石の宝殿

2013-12-17 09:58:37 |  ・加古川市米田町

  Isinohoudenn
 加古川駅から電車は姫路駅に向かう。車内アナウンスがある。「次はホーデン、ホーデン・・・」
 これを聞いたドイツ人は、ドキッとするそうである。ドイツ語のホーデンの綴りはHodenで、意味は「睾丸」だそうである。
 最初から少し下ネタになってしまったが、「シリーズ・さんぽ」は宝殿駅近辺の散歩から始めたい。
 この辺りは、高砂市と重なるので、若干高砂市の話題も含むことになる。ご了解根があいたい。
 「宝殿」は、高砂市の「石の宝殿」から名付けられているので、石の宝殿をまず訪ねたい。
 かつて、『兵庫の歴史散歩』(草土文化)で、石の宝殿について下記のように書いた。
    
石の宝殿
 JR宝殿駅で降りて、南西の方向へ徒歩で30 分、やがて岩肌を見せている山に出る。
これらの山の山頂近くに生石神社(おうしこじんじゃ)がある。
 この神社の神体は、高さ5.7㍍、幅5㍍、奥行きは突起の部分も入れて7㍍もある大きな石の塊である。
 この岩塊は、石の宝殿(いしのほうでん)と呼ばれており、宮城県塩釜神社の塩釜、宮崎県高千穂峰の天の逆鉾(あめのさかほこ)と並んで日本三奇の一つに数えられ、古代からさまざまに想像されてきた。
 「播磨風土記」には「・・・作り石あり、形屋のごとし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも、かくのごとし、名を大石と言う。伝えていえらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる岩なり・・・」としている。
 風土記の編さんされた8世紀には、すでにこの大石はつくられていたことになる。
 よほど人びとの興味をひいたらしく、広重は浮世絵に、シーボルトは銅版画に、司馬江漢はスケッチにこの大石を残している。
 「この大石は何か?」決定的な答はまだなく、神殿説・古墳説・石棺説などさまざまである。
 松本清張氏は、小説『火の路』でこの大石を取りあげ、これはゾロアスター教の拝火壇であるとの説を主張している。はたして、どんなものであろうか。(『兵庫野歴史散歩』より)
 最初から、こんなバカでっかい造形物を移動することを考えてつくったのではないと考える。その意味では、松本清張のゾロアスター教の拝火壇である説もうなずける。
 もう少し単純に考えてみてはどうだろう。ここは貴重な石の産出地である。その石の神を祀る本殿ではないだろうか。
 この石について歴史の説明書には、いつも、「何かの理由により途中で工事を中止した」とあるが、ひょっとして完成品であるのかもしれない。
 気持ちの片隅で、そう考えている。素人の大胆さである。お許し願いたい。
 *写真:生石神社の御神体・石の宝殿

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「ひろかずのブログ」が2300号に

2013-12-16 08:31:00 |  ・まち歩き

  「ひろかずのブログ」が2300号になりました
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  8年ほど前に始めた「ひろかずのブログ」ですが、今日で2300号になりました。
内容はともかく、自分でも感心しています。
 ずいぶん、みなさんに拙文を押しつけたものです。
 ともかくも、続いている理由は、主な内容が「歴史」であったからです。
 歴史は、事実(史実)を並べ、少しだけ味付けをすればできあがります。
 エッセイとなると、事情は違ってきます。
 文章を考えなければできませんし、自分を前面に押し出さねばなりません。
 それに、第一、「文才」が必要です。荷が重すぎます。
   
「ひろかずのブログ(二部)さんぽ」を始めます
 加古川市・稲美町を中心にずいぶん歩きました。
 今後、播磨町・高砂市と範囲を広げればいいのですが、自信がありません。
 そこで、このあたりで、「ひろかずのブログ」を一部として少し、内容を変えてみます。
 以下、話を飛躍させます。大風呂敷です。
 最近、以前にまして司馬遼太郎の小説を読んでいます。かつて読んだ作品も読みなおしています。
 「街道をゆく」では、司馬氏の感想と余話が面白くて、ついつい引き込まれてしまいます。
 「街道をゆく」で、良質の安価な旅を楽しんでいます。
 しかし、残念なことに、司馬氏は明石市まで脚を運んでおられるが、加古川市へは来られていません。
 70才のおっさん(私)は、「ならば・・・」と、りきんでみました。
 「司馬さんのまねをして、加古川・稲美町を歩いてエッセイ風な文を書いてみよう」と。
 でも、「加古川をゆく」では、あまりにもおそれ多いので、「ひろかずのブログ」を材料として、散歩してみます。テーマを「ひろかずのブログ(二部)・さんぽ」とします。
 お付き合いください。
*写真:「ひろかずのブログ」が1700号で、神戸新聞に紹介された時の記事

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続・加古川の戦争(16):陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)

2013-12-15 13:37:52 |  ・加古川の戦争

 戦後、一部は浜ノ宮中学校校舎として利用
      
<陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図>
 
 戦史研究家・上谷昭夫氏のパンフに「陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図」があるので掲載させていただいた。
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終戦後の一時期、加古川飛行場を管理した連合国占領軍が、兵舎として利用したこともあった。また、兵舎の一部は浜ノ宮中学校としても利用された。
 現在、この教育隊のあとに次のような説明がある。読んでおきたい。
 <教育隊跡地の説明> 
 「当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。
 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。
 ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました」
 加古川第一陸軍病院
 なお、上記の図の左端(西端)病院がある。説明をしておきたい。
 この病院は、昭和12年(1937)に加古川飛行場に付属する「加古川陸軍病院」として開設された。
 診療は、内科・外科・眼科があり、歯科は姫路陸軍病院へ行かねばならなかった。
 昭和16年に、神野兵舎付属の陸軍病院(現在の「(私立)甲南加古川病院」)が開設されたので、名称を「加古川第一陸軍病院」と改めた。

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続・加古川の歴史(15):陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)

2013-12-15 08:25:14 |  ・加古川の戦争

 Kyou_023加古川は小軍都であったが、幸い大きな空襲から免れた、「もし」もう少し戦争が長引いておれば、大災害は免れなかったと思われる。加古川の戦跡については「加古川の戦争」をご覧ください。
 「続・加古川の戦争」では「陸軍航空通信学校尾上教育隊」について少し加えて、終わりとしておきたい。
     陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)
 浜国道がすぐ隣に走るが、騒音は気にならない。静かである。
 陸軍航空通信学校尾上教育隊施設跡(写真)は、松の木漏れ日の中で戦争があったことを伝えている。
   陸軍航空通信学校尾上教育隊跡(写真)
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 加古川市尾上町の浜の宮公園には、陸軍航空通学校『尾上教育隊』の兵舎の跡が残る。
 ここで学んだ少年兵たちが住んだ兵舎の名残である。
 ここで学ばれたKさんは、「外出できたのは一度か二度、夜は上官の制裁が日課のようでした」と厳しかった生活を証言されている。
 航空教育隊は、昭和1375日、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で編成され新兵の教育を実施した。
 昭和1625日、加古川に移駐し、その後、紹和18917日、加古川航空通信学校として改編した。
 さらに、昭和2053日、加古川で編成『陸軍航空通信学校』の教育隊として改編し、通信隊は、主として少年飛行兵の教育を担当した。
また、昭和1941日に新設された陸軍幹部候補生第1期生(旧制中学校三年修了以上)が入校した。
 1,800名(跡地の説明板では、1500名)が在校した。
 *戦史研究家(上谷昭夫氏)の研究、参照
 *写真(上):通信隊航空学校の跡地(現状)、(下):同学校の記念碑

 

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