ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(304) 近世の加印地域 高砂篇(102)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(51)・おわりに

2018-10-25 08:14:04 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

             おわりに

 『工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛』は、奇妙な読み物となりました。お気づきのことと思いますが、『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)から、かなりの部分を引用しています。

 少しだけ他の書籍や歩いて調べたことをつけ加えただけの読み物です。

 最近、工楽松右衛門の話題が高砂市を中心にして、盛り上がっています。

 が、松右衛門邸の保存や、松右衛門帆の復活等々が中心のようです。

 それはそれで、急がなければいけないのですが、かんじんの松右衛門についてはあまり語られていません。

 『菜の花の沖』で紹介されている松右衛門は魅力的な人物です。

 さらに研究が進みその実像が紹介されるとき、彼は、さらに地域の誇りうる人物になることは間違いありません。

 でも、そこが問題です。

 史料が整い、彼が紹介されるまでにはかなりの時間(数年)がかかります。

 松右衛門邸の復元が完成しました。松右衛門に対する関心は高まっています。

 でも、松右衛門本人像を抜きにした運動では盛り上がりません。

 そこで、各方面からのおしかりを覚悟で、わかっていることに想像を加えて松右衛門を紹介することにしました。

 ご批判ください。そして大いに松右衛門を語ってください。

 松右衛門ブームをさらに盛り上げましょう。

 やがて、史実に基づいた松右衛門像がまとめられ、高砂市や教育委員会などから松右衛門が全国に発信されたらうれしいです。

 お読みいただきありがとうございました。 (完)(no4530)

 *写真:松衛門の墓碑(高砂市高砂町、十輪寺)

◇きのう(10/24)の散歩(11.206歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(303) 近世の加印地域 高砂篇(101)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(50)・松右衛門宅公開

2018-10-24 09:42:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

 6月1日(2018年)の神戸新聞は、「江戸から昭和への趣復元」と題して3日から工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅の公開のニュースとを伝えました。

 余話として紹介させていただきます。

    工楽松右衛門宅公開

 兵庫県高砂出身の江戸時代の発明家、工楽松右衛門ゆかりの旧宅内部(高砂市高砂町今津町)が31日、報道関係者に公開された。約20年空き家の状態が続き、老朽化が進んでいた建物が修復され生まれ変わった。

 江戸時代の外観に近づけ、内部は明治から昭和にかけて増改築された部屋などを復元。従来使われていた柱や、はりなどの構造材は極力残したという。一般公開は3日午後1時から。(小尾絵生)

 旧宅は江戸時代後期に建てられ、木造2階建て。2016年に市文化財に指定された。敷地面積652平方メートル、建築面積248平方メートル。1階は井戸や炊事場のほかに9部屋、2階は7部屋がある。

 土間の吹き抜けには、構造材に松などが使われ、木の湾曲が味わい深い趣を演出。れんが造りのかまどや、井戸なども見学できる。

 2階では版画家棟方志功らも訪れたとされる板敷き洋風の応接間があるほか、幕末期の工楽家周辺の様子が分かる模型などが展示されている。

 市教育委員会は「江戸時代の高砂の繁栄を象徴する建物。堀川の船着き場の遺構などと併せ、当時の暮らしぶりを感じて」とアピールする。

 今後、工楽家に残されていた古文書などの史料展示を充実させるほか、高砂染教室などのワークショップを企画する予定。

 松右衛門が開発した丈夫な帆布「松右衛門帆」を使ったかばん製品など、高砂ゆかりの土産物の販売も行う。(以下略)(no4529)

 *写真:復元された旧工楽松右衛門宅

 ◇きのう(10/23)の散歩(11.499歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(302) 工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(49)・余話:兵庫港を歩く

2018-10-23 09:30:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

       余話・兵庫湊散策

 その日は、朝から暑い一日でした。
 「高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門・北風家」のことを紹介しているので、彼らが活躍した兵庫湊の右図の①~④の場所を歩いてみました。

 地図をご覧ください。
 (①工楽松右衛門の店、②高田屋嘉兵衛の店、③北風家、④喜多二平家、赤丸、七宮神社 *喜多二平家は北風家の分家)
 地図によると山電湊川駅から南へ少し歩けばそこに到着します。

 歩き始めると、まさに暑さの襲撃でした。

 それに、完治していない「腰痛」が、少しいたみだしました。自販機で「水」を買って、休みをとりながらの写真撮影となりました。
 まず、七宮神社(しちみやじんじゃ)の歩道橋のそばで「菜の花ロード」の石碑を見つけました。
 さっそく『菜の花の沖』が、とうじょうしました。地図の説明通りに南へ行くと「高田屋嘉兵衛本店跡」です。
 「ここで、嘉兵衛は働いていたんだ」と思うと、腰痛も暑さも少しは忘れてしまいます。
 「道橋橋」を渡ると「七宮神社」です。
 この界隈で毎日嘉兵衛・北風壮右衛門、そして松右衛門が歩いていたのかと思うといろいろ想像がわいてきました。
 この近くに北風家や北風家の風呂があったはずです。
 湯けむりと、船頭の大きな声が聞こえてきそうでした。

 七宮神社から北風家のあったあたりを歩いてみましたが、ビルばかりです。 近所の人に聞いても、何も分かりません。

 かつての「兵庫湊」は、すっかり昔話のようでした。
 こうなると、暑さと腰痛が急に気になりだしました。
 北風家は、地図から判断してこの辺りだろうと写真をたくさん撮り、浜にでました。現代の兵庫湊です。
 休む場所を探したら、近くに小さな喫茶店がありました。
 店には、近所のおばちゃん達が、話をしておられましたが、ちょうど出て行かれました。
 店の主人は、80才ぐらいの腰のまがったおばあちゃん・・・
 「むかし、このあたりに、北風家があったことを知りませんか・・・」と尋ねてみました。「ありました」「私の小さい頃は、まだ北風さんの倉庫が残っていましたな・・・ S薬局の裏で、今は大けなアパートのあるところです・・・」と教えてくださいました。

 おそらく、おばあさんの小さなころは北風家の建物の一部が残っていたのでしょう。
 最後に、肝心の松右衛門の店の跡を探すために佐比江町を歩きました。
 それらしい場所で聞いたがわかりませんでした。その日は、これが限界で、昼食を忘れていました。でも、この暑さである。腹はすいているが食べる気はしません。
 駅の地下で、焼き鳥でビールを飲みました。
 1000円で釣りがきました。(no4528)

 ◇きのう(10/22)の散歩(11.561歩)

 *現在散歩で腰痛は治っています。

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お爺さんが語る郷土の歴史(301) 近世の加印地域 高砂篇(99)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(48)・高田屋の終焉

2018-10-22 09:36:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

 文化9年(1822)の夏、松右衛門は亡くなりました。

 このシリーズ「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」のもう一人の主人公、高田屋嘉兵衛の最後も紹介しておかねばなりません。    

    高田屋の終焉

 高田屋嘉兵衛は麻のようにもつれた日ロ関係を一つ一つ解決しました。

 見事な幕末の外交でした。

 やがて、リコルドと嘉兵衛は解放され、北海に平和が訪れました。

 その後のことです。

時代は激しく動きました。その後、嘉兵衛に幕府から与えられたのは皮肉にも罪人としての処遇でした。

 「やもうえなかった」とはいえ、罪は鎖国の罪を犯してロシアで長期間滞在したということです。

 しかし、文化10年(1814)の3月、「構えなし」となり罪やゆるされています。

 50歳になった文政元年(1818)また体調の不調を訴えるようになりましたが、嘉兵衛は、気候の良い故郷の淡路の都志(つし)が懐かしくなり、故郷へ帰ることにしました。

 体調不良にもかかわらず、故郷で灌漑用地の設置、港の修築などで惜しみなく私財投じています。

 この間に「幕府は、蝦夷地のすべてを松前藩に返還した」というニュースを知りました。

 嘉兵衛は「ああ、またアイヌ人が、また搾り取られる・・」と思い悩むのでしたがどうすることもできません。

 文政10年(1827)年4月、背中に悪性腫瘍を生じ、あっけなく波乱にとんだ59歳の生涯を閉じました。

 墓碑は、嘉兵衛の望みどおり、都志の村と瀬戸内海が見渡せる丘の中腹にはつくられました。

 昨年、嘉兵衛のお墓へ行ってきました。

 小さな墓碑でした。

 

 高田屋は、松前藩や御用商人から快く思われていませんでした。

 嘉兵衛の死により、高田屋は金兵衛に引き継がれましたが、天保2年(1831)、5月、松前藩は高田屋の船と12名の乗組員を逮捕しました。

 理由は「高田屋の船はロシア船との密貿易をした」というのがその理由でした。

 事実は、ロシア船との偶然のすれ違いのようでした。

 天保4年(1833)幕府より闕所処分を受けた高田屋の全財産は没収され高田屋は消滅してしまいました。

 あっけない高田屋の終焉でした。(no4527)

 *挿絵:嘉兵衛の生まれ故郷の風景と瀬戸内の海(『北海を翔ける男』クニ・トシロウ著・実業之日本社より)

 ◇きのう(10/21)の散歩(10.662歩)

 

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お爺さんが語る郷土の歴史(300) 近世の加印地域 高砂篇(98) 工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(48)・松右衛門が、知られていない理由は?

2018-10-21 09:07:15 | お爺さんが語る郷土の歴史

     松右衛門のこと

 ずいぶん以前です。

 「高砂市に、工楽松右衛門という傑物がいた」ということは聞いていました。 

 が、俄然、興味を持ったのは、『菜の花の沖』(司馬遼太郎)を読んで以来のことです。

 広く彼を紹介したいという気持ちが膨乱だのですが、なにせ、あまり史料がありません。

 悲しいことに『菜の花の沖』以上にイメージがありません。

 司馬氏は、高田屋嘉兵衛の伏線に工楽松右衛門を描いています。

 高田屋嘉兵衛を通して、工楽松右衛門の時代の雰囲気がビンビン伝わってきます。

 とはいうものの、『菜の花の沖』は高田屋嘉兵衛が中心である。

 松右衛門はもっと、知るべき人物であるが、今まで広く知られた人物ではありませんでした。

     松右衛門が、知られていない理由は?

 松右衛門の史実があまり知られていない理由として、井上敏夫氏が昭和50年『兵庫史学』に発表された「北方領土の先駆者 工楽松右衛門」のなかで、次の三つの理由をあげておられます。

 第一は、松右衛門のエトロフ渡航は幕命といいながら、それはあくまでも一商人の私的行動と見なされていた。

 それに対して嘉兵衛のエトロフ渡航は、蝦夷地巡察視使・近藤重蔵の随員としであった。つまり、私的と公的の差です。

 第二は、松右衛門の蝦夷地の活動期間は、数年に過ぎないが嘉兵衛は20余年の長期にわたって活躍し、その間、歴史上有名なディアナ号事件の渦にまきこまれ、いつしか松右衛門の名が薄れてしまった。

 第三は、松右衛門は努めて嘉兵衛を自分の後輩として引き立てた。

 しかし、寛政二年、郷里の淡路を後に無一文で兵庫へ出てきた一介の若者・嘉兵衛を陰に陽に援助し庇護したのは、松右衛門でした。

 幕末の歴史において高田屋嘉兵衛の人生があまりにも劇的であり、注目が集まりすぎ、その陰で松右衛門が霞すんだだけのことでした。

 それにしても、司馬氏が『菜の花の沖』で松右衛門を紹介しなかったら、あまり知られないままに終わっていたかもしれません。  

 もちろん、松右衛門が、歴史の点景として大きな意味がないということではありません。

 いずれ、研究が進めば松右衛門の生涯は、詳しく紹介されるでしょうが、「まもなく」ではなさそうです。

 そのため、間違いも多いでしょうが、『工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛』のタイトルで急遽、松右衛門を紹介することにしました。

 『菜の花の沖』からの引用が多くなっています。

 天国の司馬氏からおしかりを受けるかもしれません。

 また、松右衛門に取り組んでおられる地元の方から「こんなでたらめな内容で・・・」とおしかりを受けそうです。

 研究が進んだとき「本当はこうなんですよ」と、そのとき改めて松右衛門を登場させればよいと居直ることにしました。(no4526)

 *松右衛門の像(高砂神社境内)

 ◇きのう(10/20)の散歩(13.564歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(299) 近世の加印地域 高砂篇(97)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(47)・鞆の湊づくり

2018-10-20 08:10:40 | お爺さんが語る郷土の歴史

     「鞆」の湊づくり

          松右衛門の最後の仕事

  松右衛門の最後の仕事となった「鞆の湊づくり」を紹介しましょう。

 吉田登氏の研究「帆布の発明者・工楽松右衛門」をおかりします。

     松右衛門の最後の仕事

 松右衛門は、高砂港をあらかた終えました。

 体調を崩しましたが、文化8年(1811)、松右衛門69才のとき、福山藩主阿部候から姫路藩主酒井候を通じて、鞆の浦の防波堤(写真)の修築と延伸の依頼がありました。

 松右衛門は、体調をおして現地に赴き、実態調査し築提計画をたてました。

 そして、工事に使用する花崗岩の巨石を遠近の島々から集めました。

 彼が開発した「石釣船」を駆使し、工事は10カ月ほどで、文化九年(1812)に完成させました。

       松右衛門逝く

 文化8年(1811)の「中村家日記」には、藩主の許可を得て、「私儀此度、工楽松右衛門為迎播州高砂江罷登船中之外五日逗留仕度奉願上候」とあります。

 (私はこの度、松右衛門へ湊の工事依頼のため播州高砂へ5日間ほどまいります。よろしくお願いします・・)

 中村家が、播州高砂までわざわざ迎えに行っています。このことは鞆の浦のさらなる発展のため豪商中村家が、港普請の先頭に立ったことを示しています。

 「鞆の浦歴史民俗資料館」の企画部長をされ、また「中村家古文審」の解明に関わっておられる池田一彦氏は、松右衛門が改修した施設は、大可島波止場、中央船着場雁木(がんぎ)、焚場(たでば)のほか川口(土砂崩れ防止)など全域に関与していると言われています。

 鞆港の工事は、松右衛門は老齢で病躯ながら、頼まれた公益のために、全エネルギーの投入と自ら開発した多種の作業船を駆使した「港づくり」の集大成の事業でした。

 翌年、松右衛門の病状は悪化し、文化九年(1822)亡くなりました。八月の暑い日であったいいます。(no4525)

 *写真:松右衛門が修築した伸延した鞆の大可島波止場

 ◇きのう(10/19)の散歩(11.112歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(298) 近世の加印地域 高砂篇(96)、工事松右衛門と高田屋嘉兵衛(46)・工楽家の衰え

2018-10-19 08:33:50 | お爺さんが語る郷土の歴史

       工楽家の衰え

 工楽家のその後を先に書いておきます。

 初代松右衛門が亡くなった後も、工楽家による高砂港の修築は続きました。

 幕末の動乱期、三代にわたって築港事業にたずさわって来た工楽家は、世が明治と代った時、すっかり私財を使いはたしてしまっていたようです。

 やがて、江戸時代は終わりました。

築港を命じた姫路藩はすでになく、完成した高砂港の価値も鉄道開通によって低下してしまい、副産物として造成された工楽新田は、地租改正時のごたごたの中で、だまし取られたような形で他人名義になってしまいました。(no4524)

  *『渚と日本人・入浜権の背景(高崎祐士)』NHKブック参照

  *写真:改築前の工楽家の一部

 ◇きのう(10/18)の散歩(11.815歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(297) 近世の加印地域 高砂篇(95)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(45)・膨大な高砂港の改築費

2018-10-18 07:54:52 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

      高砂港の改築(6) 膨大な修築費

 高砂湊の修築は、すべてが順調に進んだわけではありません。第一の問題は、費用の捻出でした。

 港の浚渫と築港にたいへんな費用がかかったのです。

 藩からの援助があったものの、松右衛門家の支出は膨大なものになりました。

 姫路藩の大庄屋・内海氏の文化6年(1809)5月の日記には、「文化5年中だけで4、50貫目の費用がかかっており、今後どのくらいかかるか見当もつかない」と記録しています。

 結局、総工費は、銀350貫目となり、当初の見積もりより銀100貫目ほど超過し、不足分は高砂町中全体へ割り付けられました。

 また、文化5年(1808)からは高砂入津の廻船から帆一端に16文(元治元年より20文)の帆別銭を取ることになり、9月7日に帆別会所が設置されました。

 これに対して、高砂に入津する機会の多い周辺の船主は反発しました。

 特に、当時高砂に塩座が置かれていたために高砂に塩船を差し向けざるをえなかった浜人たちにとって、塩座運上銀や蔵敷に加えて、帆別銀(船の大きさに伴う税金)がかかるのははなはだ迷惑だったのです。

 曽根村は、文化6年12月に領主である一橋家の川口役所に対し、今市村(いまいちむら)に塩座を取立て、上流の姫路藩領米田村の塩座出漲所は廃止させるようにしてほしいと願い出ています。

 これは実現されなかったのですが、高砂に荷物を下す村々の反発は相当強いものがありました。(no4523)

 *挿絵:工楽松右衛門

 ◇きのう(10/17)の散歩(13.323歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(296) 近世の加印地域 高砂篇(94)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(44)・加古川に橋を架ける

2018-10-17 07:36:17 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

           高砂港の修築(5) 加古川に橋を架ける

 松右衛門は、文化7年(1810)に、加古川に石橋を架けました。

 加古川河口にできていた中州二つを利用して、姫路藩の南蔵の南東部分から西側の中州に橋をかけ、弧を描く石組で造った道により東側の中州に行けるようにし、さらに石組の道を北につけて対岸につなぎました。

 その様子は「五ヶ井・新井掛り村々溝手絵図(部分)」(文化13年)をご覧ください。

 州と中州をつないでいる石組の道は屈曲させて水の勢いで壊れにくくしており、また川の水を下流に逃がす水の通り道を作り、加古川の水流になるべく逆らわない工夫をしています。

 築港工事は文化八年(1811)に完成しました。

 こうした川浚えや築港には、「農具便利論」にあるロクロ板・ジョレンや杭打船など松右衛門が工夫した道具や船が活躍しました。

     天下の益なることを計る

 江戸時代の農学者・大蔵永常(おおくらながつね)が『農具便利論』で、松右衛門のことばを引用しています。

 ・・・・・

 「人として天下の益ならん事を計(はから)ず、碌々(ろくろく)として一生を過さんは禽獣にもおとるべし。

 

 凡(およそ)其の利を窮(きわむる)るに、などか発明せざらん事のあるべきやはと。

 金銭を費し工夫せられし事少なからず」

 この言葉にふれて、司馬遼太郎氏は次のように述べていいます。

 この言葉は、江戸中期以後、商人の一部に芽生えはじめた公共思想を考えさせられます。

 この種の公共思想は、主君への忠誠心という絶対的なものが精神を拘束している諸藩の藩士層からは、容易に出ないことばです。

 「人として天下に益することを考えずに、為すことなしに一生をすごすのは禽獣よりも劣る」 という松右衛門のことばは、まことに激しい思想で、この理屈を一歩押しすすめれば、俸禄階級の武士のほとんどが禽獣より劣るということになります。

 江戸期は、武士の世というが松右衛門のような自分と社会という明快な倫理感覚を持つ者があらわれている以上、町人の世ともいえるかもしれません。

      松右衛門の発明

 松右衛門は、エトロフ、箱館、そして高砂港の修築で、彼の発明による機械をあますところなく使っています。

 『高砂市史(第五巻)・史料編近世』で「大蔵永常『農具便利論』より工楽松右衛門の湊普請などに関する発明」として、『農具便利論』を詳細に紹介しているので、詳しくはそれをご覧ください。(no4522)

 *挿絵:加古川に架かる橋

 ◇きのう(10/16)の散歩(10.558歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(295) 近世の加印地域 高砂篇(93)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(43)・拡がる湊

2018-10-16 08:13:09 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     高砂湊の修築(4)  

               拡がる湊

 松右衛門は、川口番所から浜新田の東側沿いに580(1050メートル)の波戸道(はとみち)を築き、その先端部分の川口に「東風請(こちうけ)波戸」と「一文字波戸」を、巨石を台形に整形した磐礫(いしがき)で築いて波除けとしました。

 なお、波戸とは海岸から海中につきださせて、石で築いた構築物をいいます。

 そして、波戸道と波除けの間を、船を係留する湊として整えたのです。

 また波戸道の突端には台場を作り、灯籠を設けて船の出入の便をはかりました。

 波戸道等を図で確かめて下さい。

 川口番所から灯籠への波戸・一文字・東風請明は松右衛門の工事によるものです。

 その他の着色の波戸は、二代目・三代目の松右衛門の工事による高砂湊の施設です。(no4521

 *地図:『高砂市史(第二巻)・通史近世編』(p440)より作成

 ◇きのう(10/15)の散歩(12.788歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(294) 近世の加印地域 高砂篇(92)、工松右衛門と高田屋嘉兵衛(42)・遠ざかる浜

2018-10-15 07:03:38 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   高砂港の修築(3)  

       遠ざかる浜

 高砂港の浚渫は、文化五年(1808)冬から開始され、文化7年(1810)に終了しました。

 松右衛門は、川口を浚渫するだけでなく、加古川下流の所々を磐礫(いしがき)で修理し、杭を打ち、堰を増設して土砂留を施しました。

 また、松右衛門が「百間蔵まで大船つけ可申」と語っていたとおり、大船が着岸できる築港工事も行われました。

 右の「播州高砂図」(高砂市史)でもわかるように、高砂港の南端は「川口番所」から東戎社を結ぶ線でしたが、その後その南側が州となり、宝暦11年(1761)には新田に造成されました。

 「川口番所」近くの本来の湊の部分は、海から遠くなってしまいました。

 松右衛門は、沖に新湊を造成することで、これに対処しようとしました。

 詳しくは、次回の「お爺さんが語る郷土の歴史」で説明しましょう。(no4515)

 *地図:『高砂市史(第二巻)・通史近世編』参照

 ◇きのう(10/14)の散歩(10.432歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(293) 近世の加印地域 高砂篇(91)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(41)・高砂港の修築(2)・松右衛門仕法で

2018-10-14 08:12:12 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

      高砂港の修築(2) 松右衛門仕法で

 港の水深の浅い飾磨湊(しかまみなと)でも川浚えが行われ、大型船の入津をはかっており、これは干鰯(ほしか)の取引を活発化する意図があったと考えられます。

 高砂が、飾磨津や室津と競合するためには、港の保全・改修は緊急の課題でした。

 また、姫路藩も当時積極的な国産振興策をとっており、客船入津は、好ましく積極的に対応する姿勢をとっていました。

 翌、文化5年(1808)閏六月頃には川浚えの実施がほぼ決まり、同8月には家老・河合道臣(後に隠居して河合寸翁を名のる)以下が高砂に検分に訪れ、藩の財政で行う御手普請(おてぶしん)に準じた取り扱いで、川浚えを行うことになりました。

 この時の工法は、「松右衛門仕法」といわれており、工楽松右衛門が重要な役割を果たしました。

 高砂から、入用銀250貫目の拝借が藩に願い出ましたが、これはかないませんでした。

 そのかわり高砂の諸運上銀年32貫目が三年間下げ渡され、つまり減税となり普請(工事)に必要な砂・石は領内から調達することが許されました。(「姫陽秘鑑」)。

 また、高砂に移住して普請世話人・棟梁となった松右衛門は、月々二俵の米を藩から与えられ、文化7年(1810)には、御廻船船頭として召し抱えられ、五人扶持に直されて金10両が給付された。(no4514)

  *底捲き船(当時の浚せつ船)の図(『高砂市史・第五巻・近世資料編)』より

 ◇きのう(10/13)の散歩(10.524歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(292) 近世の加印地域 高砂篇(90)・工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(40)・高砂港の修築(1)

2018-10-13 08:50:09 | お爺さんが語る郷土の歴史

           高砂港の修築(1)

 話は一挙に現代の高砂まで飛んでしまいました。

 もう一度、松右衛門の活躍した江戸末期の高砂港の話に戻します。

     高砂港埋まる

 高砂港の修築は、松右衛門の生涯の大事業でした。

 高砂港は、正保国絵図でも浅いとされていましたが、その後も加古川上流から流れくる土砂で川底が高くなり遠浅化が進みました。

 寛政期(1789~1801)には、毎年高砂の渡海船仲間が川内の浅瀬の浚(さらえ)を行い、願により姫路藩から扶持米を下付されることもありましたが、根本的な解決にはいたっていません。

 そのため、江戸後期には大船の接岸ができず、沖に碇泊する船と陸の間は、「はしけ」「上荷」「ひらた」などといわれる小船を使って荷を運んでいたのです。

 ところが、享和元年(1801)秋頃から、幕府代官所から姫路藩に対して、昔どおり川内で御城米の積み込みができるように高砂州口を浚えるようにという要請が度々ありました。

 翌二年六月に、姫路藩は江戸御勘定所に対して、それが困難であることの事情説明を行っています。

 すなわち川浚は、年々藩が手当をつけて行わせているが、川口から沖手へ土砂の堆積は1400間(約2.5キロメートル)にも及び、人力で浚うことは不可能であること、川下の水落口や川筋に杭柵を設置して洩水を防ぎ、川勢を増して土砂を流すように普請させており、満潮時には、「ひらた舟」が通行できることを述べています。

 ただ、「干潮の際の通船は不可能で、川内での積込みは80年このかた聞いていない」と、主張しています。

 高砂港の浚渫は、姫路藩が費用を負担する「御手普請」では不可能と説明しました(『姫陽秘鑑』)。(no4513)

 *写真:現在の高砂の堀川(当時の高砂の積み出し港)

 ◇きのう(10/12)の散歩(10728歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(291) 近世の加印地域 高砂篇(89)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(39)・鉄道は加古川に

2018-10-12 09:59:26 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     高砂港(4)   繁栄の終焉(2)

      船から鉄道の時代へ

 明治21年(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけました。これにより高砂の海上輸送は、一挙に後退しました。

 東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移りました。

 山陽鉄道の開通について、余話として書いておきます。

    余話:山陽鉄道(現:JR山陽線)開通

 明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではありませんでした。

 当初計画では、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定でした。

 しかし、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになりました。

 そして、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになりました。

 高砂の町の商業の衰退は決定的になったのです。

 その結果、町は工場誘致に活路を見つけることになります。

 ここで注目しておきたいのは、「一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められた」ということです。

 やがて、高砂の町からの浜は消えました。

     JR高砂線も廃線になった

 私の小学校時代(加古川小学校)は、昭和20年代の最後の頃にあたりまあす。

 その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけました。高砂線は、子供の声であふれかえっていました。

 高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線は客だけでなく、貨物も大いに利用されました。

 高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通しましたが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収されました。

 昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消しました。

  そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも激減し、その後、膨大な赤字を抱え、高砂線は昭和59年10月30日廃止になりました。(no4512)

 *写真:海水浴場にて(昭和20年代)『目で見る加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

 ◇きのう(10/11)の散歩(11.322歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(290) 近世の加印地域 高砂篇(88)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(38)・繁栄の終焉(1)

2018-10-11 08:56:35 | お爺さんが語る郷土の歴史

     高砂港(3)  繁栄の終焉(1)

 

 高砂海岸の変遷の話です。

 工楽家が、何代かにわたり新田を築き、波止、湛保(たんぽ)を完成させようとしている間に、時代はガラガラと音を立てながら動きました。

 天保4年(1833)、加古川筋に大規模な百姓一揆が起り、高砂町内の有力な商家や米蔵などが襲われました。

 嘉永7年(1854)にはロシアの軍艦が大阪湾に侵入、沿岸の各藩は海岸に砲台を築きました。

 当地方でも加古川の中州、向島の突端に姫路藩は砲台を造っています。

 討幕の動きも急雲を告げ、文久3年(1864)には姫路藩の木綿専売業務をひき受けていた特権商人が尊嬢派の藩士に暗殺され事件もおきました。

 高砂港の築港工事が完成したのは、そのあくる文久四年(1865)でした。

 そして、数年ならずして慶応4年(1868)、兵庫港開港、鳥羽・伏見の戦い、明治維新へと歴史は続きます。

 それらは、姫路藩の年貢米や専売商品の独占的中継港としての高砂の終焉を意味しました。

『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)は、次のように記述しています。

 「明治元年(1868)1月17日、姫路藩の高砂米蔵は長州軍の手によって封印されたが、これは、近世高砂の終末をつげる象徴的なできごとだった。

 明治新政府によって、株仲間の解散、金本位制の実施、藩債の処分など、やつぎばやに打ち出された改革により、蔵元を中心とする特権商人の没落は、高砂の経済を内部から崩壊させるものであった。

 さらに、明治21年(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより海上輸送は、一挙に後退した」

 東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移りました。(no4512)

 *写真:昔の面影を残す町並み(旧工楽家横の道沿い)

◇きのう(10/10)の散歩(11.001歩)

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