ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

文観(6) 常楽寺、受難 

2020-08-31 10:08:07 | 文観(もんかん)

 常楽寺について、『大野史誌』から少し、お借かりして説明しましょう。

 常楽寺は、正嘉二年(1258)八月、暴風雨のためは、一宇を残して破壊されてしまいました。

    常楽寺、受難 
 この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようですが、『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。
 「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。
 が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像されます。
 再建は、この塔の造立された正和四年(1315)ごろのようです。

 当時、文観は37才でした。
文観によって再建され、末寺18ヵ寺で寺領は30石であったといいます。

 そして、永禄年間(1558~1570)、三木城の別所氏の祈願所となり大いに繁栄しました。

 しかし、天正6年(1578)羽柴秀吉の兵火により、堂宇はすべて焼失してしまいまいました。

 延宝2年(1674)、徳川家綱のころ、一宇を創設しました。

 その後、多門院・吉祥院・安養坊・南の坊4ヵ寺となりましたが、「南の坊」を残し、明治3年(1870)、3ヵ寺を廃止して、常楽寺と名付け、現在にいたっています。

 常楽寺は、今の場所で、今の規模になったのは明治以降で、秀吉の焼き討ちに会う前は、大野の平地部に多くの堂宇を持つ大きなお寺であったようです。(no5073)

*挿絵:常楽寺の焼き討ち

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文観(5) 文観、大野(加古川町大野)で修業を始める

2020-08-30 10:18:32 | 文観(もんかん)

 文観(5)

  文観、大野(加古川町大野)で修業を始める

 文観の実家であるこの大野氏については、播磨国北条郷大野(加古川市加古川町大野)に居住する一族だったと考えるのが通説です。

 実際、同地には常楽寺という寺院が存在し、文観の在世中に真言律宗の西大寺の末寺として活動が活発で、のちに同寺に務めた宇都宮長老という人物が文観の関係者だったことも証明されています。

 *真言律宗については、後に説明しましょう。

 しかし、文観を追いかけたいのですが、謎だらけ人物です。

 特に、子供の時代の文観についてはほとんど分かりません。自分のことを語っていないのです。語りたくなかったのかもしれません。

 そのため、伝承では子ども時代に文観は「播磨の農民の子として生まれ、幼少時に天台宗の僧に130文の銭で買われた」という伝承まであります。

     不遇な少年時代か?

 前回の史料「瑜伽伝(ゆかでん)」から彼について想像してみます。

 彼の直弟子の宝連(ほうれん)が書いています。

 おそらく文観から直接聞いた内容でしょう。そのため、信用してよい史料と思われます。

 少し気になるか所があります。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子・・・・」の部分です。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也」と書いており、お爺さんが登場し父のことが書くれていません。

 何か理由がありそうです。彼の父が亡くなっているのであれば別の書きようがあるはずです。

 母については「非母可生孝子」と書いています。

 少年時代、どのような家族構成で生活したのかはわかりませんが、家族問題をかかえていたのかもしれません。

 このような家庭環境のためか、聡明な少年であった後の文観は、父母、あるいわ世話をする人により寺に預けられたのかもしれません。この辺りの事情は想像です。

 ともかく、子供のころ修業をした寺が大野の常樂寺だったのです。(no5072)

 *写真:常楽寺本堂

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文観(4) 文観、加古川の大野で誕生

2020-08-29 09:34:07 | 文観(もんかん)

     文観、加古川の大野で誕生

 以前、「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、てっきりその生まれは、現在の現在の加西市の一乗寺で勉強をした僧侶ぐらいに思っていました。

 入門書ばかりですが、中世史の網野善彦先生の著書を読んでいると、「文観は加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めた」と思えてきました。

    文観の誕生:弘安元年(1278 )1月11日

 また、昭和29年度氷丘公民館地域学講座(1/27)で、兵庫大学教授の金子哲先生が「日岡の文観」というテーマで講義をされました。

 その講義から次の史料を紹介します。大切な史料ですから掲載させていただきますが、少し読みづらいので今日のところは「チラッとながめる」だけでけっこうです。

  (史料1)

 宝連 「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条

 第廿九伝法務大僧正弘真  号小野僧正一長者座主

 左大臣雅信公十三代後胤大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年

 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子、祈誓如意

 輪白衣二尊、(後略)

  〈史料1〉から

 この史料は、文観の直弟子の宝蓮の書いたもので、史料の内容は信用してよいと思われます。

 次のこと確かめておいてください。

 ◇「弘真」は、文観のことです。弘真については後に説明をしましょう。

 ◇お爺さんは、大野源太夫重貞

 ◇文観の誕生は、弘安元年(1278)1月11日。(母に関しては、「非母可生孝子」と記しています。何か事情があるようですが、今のところはこのままにしておきます。父に関しては不明です)

当時、日本は元寇第一回である文永の役(文永11年・1274)が終わったばかりで、次のモンゴル軍来襲(弘安の役(弘安4・1281)に備えて不安な政情の世でした。

    文観は播州の人

 史料によれば文観は「播州の人」であり、名前が「大野」であるところから、加古川の大野の人であることが推察されます。(no5071)

 *写真:常楽寺(加古川市加古川町大野)

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文観(3) 文観の姿が浮かび上がってきました

2020-08-28 10:16:33 | 文観(もんかん)

  文観(3)

   文観の姿が浮かび上がってきました

 文観は、後醍醐天皇の影の人として活躍しています。

 そして、後醍醐の政治は日本の歴史を大きく動かしました。

 以前、「・・・文観について、加古川市とのつながりまた生活については、ほとんど紹介されていません。最近ようやく、おぼろげな姿が明らかになってきました・・・」と書きました。

 正直、まだまだ「分からないことだらけの人物です」でした。

 そこで、後醍醐の政治、そして文観を紹介したかったのですが、なにせ歴史学者でも困難な作業です。

 素人が手に負える課題ではありません。

 そのため、研究者の成果をかじり、それに想像を少しだけ加えて紹介するだけにしました。

 文観についてまとめた後、少し「文観」から遠ざかっていました。

先週、K氏から「ウィキペデアに文観についてまとめてありますので、お読みください・・・」と紹介されました。

(*中世史の専門のK氏については、後に紹介させていただきます)

 今までの、文観の説明を全く一新した説明です。とにかく、学問的です。

 ビックリしました。

 文観像も大きく塗り替えられています。

 そのため、先に紹介した文観もK氏の論文等を参照させていただきましたが、再度「文観」について書き直してみようと思います。

しかし、当然とんでもない、間違い(読み違い)をしでかすかもしれません。その時は、訂正しますのでご了解ください。

 

なお、一般的に中世史は、なじみが薄く読みづらい歴史です。できるだけ、わかりやすく書くつもりですが、そのためかえって内容がわからなくなるかもしれません。

そんな時は、ご指摘ください。(no5070)

*挿絵(文観のつもり) 

 

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文観(2)  内藤湖南(ないとうこなん)の歴史観

2020-08-27 08:03:09 | 文観(もんかん)

    文観(2) 

       内藤湖南(ないとうこなん)の歴史観

 大正時代、京都大学の内藤湖南(ないとうこなん)先生の発言です。湖南氏の著作『日本文化史研究』(講談社学術文庫)で読むことができます。

 「・・・今日の日本を知るために、日本の歴史を研究するためには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありません。

 応仁の乱以後の歴史を知っておれば、それでたくさんです。

 それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませんが、応仁の乱以後は、われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本の歴史は充分だと言っていいのであります・・・」という一節です。

  いかがですか。「当時(大正時代〉としてはかなり思い切った発言であったと言ってよいと思います。

 当時、内藤さんのこの発言が一般の方の間に浸透していたとは思われませんが、日本の歴史全体を知る時、「南北朝・応仁の乱以前と以後」は非常に大きな違いがあり、応仁の乱以前の歴史というのは、まったく外国の歴史と同じような意味しか持たないのです」と主張されています。

 現在の歴史とのつながりを考えるとき、内藤氏の歴史観は間違いがないと考えられます。

 当時は天皇中心の歴史観より認めていなかった時代です。ずいぶん思い切った、勇気ある発言でした。

現在、私たちは時代をいくつかに区分します。例えば「戦前・戦後」という分け方などはそれです。

 それでは、日本史全体を二つに分けるとしたら、どこで線を引くのでしょうか。

内藤氏が言うように、南北朝・応仁の乱前後を歴史の分水嶺にしてよいと思われます。

 南北朝・応仁の乱は、それほど大きく日本社会を変化させた時代でした。

 この大きな歴史の引き金を引いたのは、間違いなく後醍醐天皇です。そして、彼のブレーンの一人が加古川出身の僧・文観です。

 決して、奇をてらう日本史話ではありません。(no5069) 

 *写真:内藤湖南(1934年4月9日撮影)

 

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文観(1) 再度、文観(もんかん)を紹介しましょう

2020-08-26 08:15:04 | 文観(もんかん)

        文観(1)

   再度、文観(もんかん)を紹介しましょう

 2009年5月に『加古川さんぽ(加古川市内の歴史散歩(上・下二巻))を出版しました。加古川各町内の簡単な歴史でしたが、文観(もんかん)だけは、少し気張って、詳しく書いてみました。

 再度、文観を追うことにします。

 最初の「文観と後醍醐天皇」紹介しておきます。

   文観と後醍醐天皇

 以下の文は、『加古川さんぽ(加古川市内の歴史散歩(上・下二巻)の初めの文です。

 ・・・・

 文観・後醍醐天皇の時代(南北朝時代)は、日本人の生活・考え方が最も大きく変化した時代でした。

 でも、南北朝時代については、教科書でも簡単な紹介に終わっています。

 霞の向こうの風景のようです。

 この時代の中心になっている人物は、間違いなく後醍醐天皇でした。

 その醍醐天皇を支えている重要人物の一人が、僧の文観(もんかん)です。

 しかし、文観は、多くがほとんどわかりせん。

 そのため、後に後醍醐天皇の護持僧になってからの活躍はある程度分かるのですが、出生や子どもの頃の文観については謎だらけです。

 *(護持僧:天皇のために特設された加持祈祷をする僧職。天台・真言の高僧を選んでこれに任じられました。)

 しかし、最近の歴史学では、文観の生まれは加古川市であることが事実として浮かび上がってきました。

 日本史の分水嶺(日本史二つに分ける時代区分)となった南北朝時代、その中心にいたのは後醍醐天皇です。

 その後醍醐天皇を支えた文観が加古川の人であったとしたら、私たちとしても黙っていることはできません。

 文観さん追いかけましょう。 (no5068)

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「ひろかずのブログ」を続けたいのですが・・・

2020-08-23 10:07:47 |  ・コーヒーブレイク・余話

   「ひろかずのブログ」を続けたいのですが・・・

 前号でシリーズ「かこがわと洪水」を終わります。ここでハタと困っています。

 前号で5066号になりました。

 4000号の時に、とにかく5000まで続けよう。そして、「ひろかずのブログを終了させよう」と、考えていました。

 またたくまに、5000号になってしまいました。

 中途半端でしたので、前号(5066号)まで続けました。

 先週から気になりだしました。「もう終わりか」と思うとすこし寂しくなりました。

 明日からする仕事がなくなります。まだ、76才ですから余生というには少し長くなりそうです。

 少なくとも、孫(現在小6)が高校を卒業するまでは続けたいですね。

 「東播磨と感染症」「東播播磨における赤松氏の興亡」等取り上げたいテーマがあるのですが、はっきりと分かっていません。専門家でも難しいテーマです。

 それに史料がありません。素人の私にとって荷が重すぎます。無理です。

 でも、このまま終われば、体も、頭も急速に劣化しそうです。

 ここ2・3日のうちに「脳トレ」のつもりで、取り上げるテーマを考えます。ご迷惑ですが、駄文を続けたいと思います。お暇な時にお読みください。

 やさしい、面白いテーマ、史料がありましたらご提供(提案)ください。よろしくお願いします。

 そのため、24日(日)~25日(火)は、ひろかずのブログをお休みとします。テーマを探しますので・・・・(no5067)

コメント (1)
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大河・かこがわ(316) かこがわと洪水(17)・加古川駅前の洪水

2020-08-22 09:45:27 | 大河・かこがわ

 昭和8年の加古川改修の後、大きな水害は経験していません。

 これは、たまたまそうであっただけで、偶然といえます。

 最近は「かこがわの水害」といえば、下の写真のように小規模なものでした。加古川駅前の洪水のようすを見ておきましょう。

     加古川駅前の洪水

 加古川駅前通り、火の見やぐらの見える所は、寺家町商店街の入り口付近です。

 写真の「神姫バスのりば」とあるのは、現在の「ケンタッキーフライドチキン店」のある場所です。

 写真の女性の姿から駅前商店街は床上50センチの水害でした。

 この水は、加古川本流水害ではなく、日岡山の北を流れる曇川(曇川:くもりがわ)の水が日岡山の西と本流の堤防の間を流れ、五ヵ井水から南へあふれだした水です。

 本流が切れていたら、こんな程度ではおさまりません。

 

 私たちは、「かこがわの洪水」といえば、このような小規模な水害を想像しがちですが、現在、地球を取り巻く環境は大きく変化しています。

 そして、各地に大きな被害を与えています。

 繰り返します。「かこがわ」が牙をむかなかったのは「たまたまの偶然」のことでした。

 ハザードマップ等を参考にして、自治体も私たち個人も災害と隣り合わせに生活していることに気を留めておくことにしましょう。(no5066)

 *写真:加古川市中心街の水害(昭和36年、加古川市教育委員会提供)

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大河・かこがわ(315) かこがわと洪水(16)・河川工事進む(2)・かこがわ改修工事完成

2020-08-21 10:53:38 | 大河・かこがわ

     河川工事進む(2)・かこがわ改修工事完成

 1933年、当初の計画(10年)を 大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成し、竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行されました。

 官民あわせて千人が参列でした。

 その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいとなりました。

 この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼり、そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。

 この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられています。

 また、改修工事完成を記念して、「川祭り(現在の加古川のもと)」を行うようになったのです。

 1934年(昭和9)11月、川祭りの第一日目に、加古川記念碑除幕式が盛大に行われました。

 記念碑は、加古川橋東詰めの春日神社のすぐ南にあるのですが、現在ではあまり知られることなく、ひっそりと川の安全を見守っています。(no5065)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(314) かこがわと洪水(15)・改修工事進む(1)

2020-08-20 10:17:48 | 大河・かこがわ

       改修工事進む(1)

 加古川は、「河川法」により国の直轄事業として帝国議会で改修工事が決まりました。

 しかし、工事はなかなか始まりませんでした。

 工事への着手の順位をめぐって、全国で激しい競争が展開されたのです。

 加古川河川改修期成同盟は、帝国議会へ工事開始の請願をしました。

 ついに、大正7年度からの工事着手が決まりました。

 工事期間は、10ヵ年で、船頭(ふなもと・米田町)の南から荒井(高砂市)へ分流していた支流を締め切る工事を含む大改修工事でした。

 着工式は、1921年(大正10)日本毛織加古川工場の敷地で行われ、床次(とこなみ)内務大臣も出席しました。

 その後、関東大震災の復興・軍事予算などのため、治水予算は大幅削減がもくろまれ、工事は順調に進んだのではありません。

 工事が遅れれば、「明治30年の大洪水が再び起おこるだけでなく、近年発展しつつある沿岸工業地帯にも被害がおよび、さらに鉄道・山陽線を破壊し、わが国の重要な交通機関を途絶させる」等の理由をあげ、工事を計画通り進め、加古川改修工事が打ち切りになることがないよう陳情活動をおこないました。

 1926年(大正15)4月には加古川町付近が、そして、加古川新橋が竣工しました。

 1928年(昭和3)には東岸の東神吉まで、西岸の神野村西条まで竣工しました。

 これで総工事の8割が完成し、その後も、工事は続きました。(no5064)

 *地図の太い実線は、改修工事後の堤防(現在の堤防)・『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(313) かこがわと洪水(14)・河川改修

2020-08-19 07:43:10 | 大河・かこがわ

       河川改修

 明治時代、「かこがわ」はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。

 明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者がありました。

 国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。

 そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。

 「かこがわ」は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。

 この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。

 利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑川(熊本)そして加古川(兵庫)

 1911年(明治44)9月4日、次のように官報に告示されました。

 兵庫県下加古川筋左岸加東郡福田村内大門村右岸河合村内復井村大門橋以下海ニ至ルマテ公共ノ利害ニ重大ナル関係アル河川ト認定シ本年九月十日ヨリ河川法ヲ施行ス

 「かこがわ」は、国の直轄事業として本格的改修工事が前進することになったのです。 

 河川法による総改修費は、3分の2を国が負担し、残りの3分の1は兵庫県の負担でした。(no5063)

*『加古川市史(第三巻)』参照 

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大河・かこがわ(312) かこがわと洪水(13)・河川改修要求なる

2020-08-18 10:03:01 | 大河・かこがわ

     河川改修要求なる

 明治29・30年は、水害にみまわれました。

 そのため、加古川の本格的改修の要求が高まりました。

 明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。

 しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさしたのです。

 経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまいました。

 1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害をもたらしました。

 これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がつきました。

 その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川ではないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。

 だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせるようにして欲しい・・・」とする河川改修の請願が採択されたのです。

 この請願は、3月13日の衆議院請願委員会に、そして、22日に衆議院本会議にかけられ異議なく可決されました。

 加古川の水害の深刻なことが、中央の帝国議会で認められました。

 河川改修は、確実に動き始めました。

 地図は、1903年(明治36年)測量の五万分の一の地形図です。

流路は、現在とだいぶ異なっています。(no5062)

*『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(311) かこがわと洪水(12)・被害の大きかった明治30年の水害

2020-08-17 07:02:50 | 大河・かこがわ

   被害の大きかった明治30年の水害

 前号のブログ「明治29年の水害」の続きです。

 翌、明治30年の9月にも台風は加古川を直撃しました。

 被害は、前年を大きくしのぐ大災害となりました。

 死者8名、傷者31名、建物の流失倒壊383棟、破損浸水14,389棟、堤防破壊破損31,854間、道路破壊破損52,795間、橋梁流出破損838ヵ所で被害総額は1,057,000円にものぼりました。

 加古川流域の村々では、おりからのウンカの害にくわえ、収穫期に大水害を被ったため収穫のない田畑も少なくありませんでした。

 生活に困窮し、土地を手放す者も続出しました。

 土地売買の手続きが日々百件以上もあり、登記事務所は連日夜業をするほどであったといいます。

 これらの水害をきっかけに、加古川河川の本格的改修の要求がたかまったのです。

 それには、国庫の補助が必要でした。

 そのため、1898年(明治31)、加古郡・印南郡17町村は「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。(no5061)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(310) かこがわと水害(11)・明治29年の水害

2020-08-16 10:13:45 | 大河・かこがわ

    明治29年の水害  

 大雨の時、当然「かこがわ本流」の水位は高くなります。

 そのため、「かこがわ」の支流からの取り入れ口の水門は閉じられます。

 曇り川(神野町)に、それをみましょう。

(*曇り川:日岡山の北を流れる「かこがわ」の支流)

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けられたという説まであるぐらいです。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となります。

 こんな時は、「かこがわ」へ排水する水門は閉じられると、水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が「かこがわ」に突き当たり、「かこがわ」の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、かこがわの町に水害をおこしました。

 加古川町の水害史のパターンは、この例がほとんどです。

 『加古川市史(三巻)』を引用したい。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の両年、かこがわ流域では、水害により深刻な被害がありました。

 明治29年には、8月から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発しました。

 この時の状況について、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えています。

 *以下は、その記事の一部ですが書き変えています。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、 茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し田面はことごとく没した・・・・(no5060)

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大河・かこがわ(309) かこがわと洪水(10)・築山(つきやま)

2020-08-15 11:15:26 | 大河・かこがわ

       築山(つきやま)

 先に、嘉禄元年(1225)、国包を襲った大洪水については、紹介しました。

 「この地(加古川市八幡地区)は、加古川が大きく蛇行し、特に洪水が多かったのです。

 国包には写真のような人工の築山(つきやま)があります。

 洪水時の避難場所です。

 宝暦六年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人が、洪水で被害に困る住民のために私財を投げ打って築いたものだと伝えられています。

 当時は、水害のため飢饉の状態でした。

 この工事により、多くの貧しい人々が仕事を得て救われたとも伝えられています。

 後年、この築山に土地の人々が感謝の気持ちと安全への祈りをこめ築山神社を築きました。

 なお、この築山には近くから見ると一本のように見える大樹です。

 この木は、二本の榎が一本のムクノキを両脇から包み込むような形で成長して、三本あわせた木の周囲は7mにもなります。

 樹齢は、240年ほどで、築山を造ったときに植えられたともいわれています。

 樹木では、唯一の加古川市指定の文化財となっています。(no3059)

  *写真:築山とエノキ・ムクノキ

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