常楽寺について、『大野史誌』から少し、お借かりして説明しましょう。
常楽寺は、正嘉二年(1258)八月、暴風雨のためは、一宇を残して破壊されてしまいました。
常楽寺、受難 この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようですが、『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。
「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。
が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像されます。
再建は、この塔の造立された正和四年(1315)ごろのようです。
当時、文観は37才でした。
文観によって再建され、末寺18ヵ寺で寺領は30石であったといいます。
そして、永禄年間(1558~1570)、三木城の別所氏の祈願所となり大いに繁栄しました。
しかし、天正6年(1578)羽柴秀吉の兵火により、堂宇はすべて焼失してしまいまいました。
延宝2年(1674)、徳川家綱のころ、一宇を創設しました。
その後、多門院・吉祥院・安養坊・南の坊4ヵ寺となりましたが、「南の坊」を残し、明治3年(1870)、3ヵ寺を廃止して、常楽寺と名付け、現在にいたっています。
常楽寺は、今の場所で、今の規模になったのは明治以降で、秀吉の焼き討ちに会う前は、大野の平地部に多くの堂宇を持つ大きなお寺であったようです。(no5073)
*挿絵:常楽寺の焼き討ち