ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(68):西井ノ口村の地租改正

2014-02-28 08:14:29 |  ・加古川市東神吉町

 西井ノ口村の地租改正
Photo
 『播磨地種便覧』から明治時代の西井ノ口村の税をみておきます。
 
同書の前書きに「一、戸数人口は明治141月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。
 明治新政府は、明治6(1873)から「地租改正」を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。
 地租改正では、耕地の面積を計りなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。
 一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。
 そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆がおこり、これに押された政府は、地租を地価の2.5(明治10年)に切り下げました。
 『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等を記録した本です。
 今日の報告は数字ばかりです。史料としてご覧ください。
   西井ノ口村の地租・地価(明治14年)
 <西井ノ口村>
 
   戸数 125
 
   人口 549<o:p></o:p>

 田  443126歩 
         *地価  4330720
          地租    1082726
 畑   9町1反916
 
宅地  364
 
山林  1417518
 
芝地  9
 
合計反別 56町5反725歩  
 
           地価 5027382銭7厘
            地租 125442
 外に無税地反別1反13
 
<参考>
  白米(東京における10kg)の小売価格(『値段の風俗史』・朝日文庫より)
       明治 536銭 
      明治1051
       明治1582

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(67):東神吉村西井ノ口誕生(明治22年4月1日)

2014-02-27 08:08:31 |  ・加古川市東神吉町

 東神吉村西井ノ口誕生(明治2241日)
 A9f63c24
 江戸時代、東神吉町の地には、神吉村・天下原村・升田村・升田新村・砂部村・井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村の8か村がありました。
 その内、井ノ口村、井口ノ新村、六本松新村は、明治117月に合併し井ノ口村となりました。
  
井ノ口村から西井ノ口に改称(明治1210月)
 なお、先に紹介したように明治1210月に、上荘地区に同名の井ノ口村があり混乱を避けるため、井ノ口村を西井ノ口村に改称しました。
 そして、明治2241日、新しい村制により神吉村、天下原村、升田村、升田新村(明治398月、出河原に改称)、砂部村、西井ノ口村が合併して「東神吉村」(地図参照)が誕生しました。
 昭和31930日、加古川市と合併し、加古川市東神吉町になり現在に至っています。
 *地図は、「兵庫県市町村合併史・上」(昭和37年)より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(66):西井ノ口の風景⑥・激変

2014-02-26 09:16:21 |  ・加古川市東神吉町

  ずいぶん変わりました5b78eaa8


 写真の背景にある高い山は高御位山です。
そして、建設中の建物は栗本鉄工です。 

 栗本鉄工の建て物は現在大型パチンコ店「ガイア」になっています。 

 とすると、撮影場所は分かっていただけると思います。 

 昭和39年に撮影された写真です。 

稲刈りの終わった田で、小学生がお弁当を広げて楽しそうに話しています。 

 一面は田んぼの広がる場所に栗本鉄工が建設中です。 

場所は、バイパスと北条線の交差点のすぐ北辺りです。 

 今では、想像もできないくらい風景は変わりました。<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(65):西井ノ口の風景⑤・東神吉遺跡(3)、夏の発掘調査

2014-02-25 07:13:48 |  ・加古川市東神吉町

     暑い夏の調査でした
   12b48317_3
東神吉弥生遺跡の調査は、昭和4252日~811日の夏の暑い中で行われました。
 この写真は、発掘現場から東方向を撮影しています。
 左上の山は、升田山で、正面に霞んで見える川向こうの山は日岡山です。
 加古川バイパスの工事は進んでおり、急がれた調査のようすが分かります。
 昭和42年当時、西井口のバイパス周辺には民家は少なく、田畑の広がっていたんですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(64):西井口の風景④・東神吉の遺跡(2)

2014-02-22 17:57:20 |  ・加古川市東神吉町

Be32b5f9_4
  西井ノ口の東神吉弥生遺跡の発掘現場の写真を3回の予定です。
東神吉遺跡の紹介いついては前号をご覧ください。一部を復唱しておきます。
 発掘現場あたりの風景
   ずいぶん変わりました
 昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見されました。
 *発掘場所は、神吉中学校の南のバイパスあたりです。
 
昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました。
 遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのでしよう。
10c8c414_4
 上の写真の発見された木製の鍬は、柄を押し込む穴があいていません、作りかけのものと考えられます。製作工程を知る貴重な資料です。・・・
 下の発掘現場の風景の写真から、場所が想像できます。
 それにしても、発掘当時(昭和41年)の周辺の風景は、現在とずいぶん変わりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(63):西井ノ口の風景③・東神吉遺跡(1)

2014-02-22 08:06:42 |  ・加古川市東神吉町

  きょうのブログも「西井ノ口の風景」の続きとしてお読みください。
 いま、西井ノ口の風景を紹介していますが、西井ノ口の東神吉弥生遺跡の発掘現場の写真も撮影されています。
 写真の前に東神吉遺跡について、少し紹介しておきます。
 発掘現場の写真は、次号の予定です。
    東神吉(弥生)遺跡(西井ノ口)
 Photo
 昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見されました。
 *場所は、東神吉中学校の南のバイパスあたり
 昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました。
 遺跡は、標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。
 後に発見された、砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。
 さらに、加古川市史の記述を引用します。
 ・・・・二つの遺跡を合わせたムラの範囲を正確に算出できないが、溝と付近の地 形からみて、おおよそ東西300メートル、南北500メートル、広さにして1.5ヘクタールの大きさと推定される。
 遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのであろう。
 これらをあわせると、耕地面積は少なくとも約400ヘクタールに達したと考えられる。
 挿絵は、東神吉遺跡出土の木製の鍬。柄を押し込む穴があいていないから、作りかけのものであろうが、製作工程を知る貴重な資料である。・・・
 *『加古川市史(第一巻)』、『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照

<o:p></o:p>

 

<o:p> </o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(62):西井の口の風景②・大正時代の共同苗代作業

2014-02-21 08:58:04 |  ・加古川市東神吉町

 大正初期の共同苗代作業(東神吉町西井口)
 先に、大正時代の東神吉町西井の口の大正時代初期の共同田植えの風景を紹介しました。<o:p></o:p>

 きょうの共同苗代の写真も西井ノ口の柴田圓治(故人)が、発見され、複写され保存されていた写真です。
 今となっては、非常に珍しい貴重な写真です。
    
古い写真が眠っていませんでしょうか
 A2ff2530
地域を歩いて、お話をしたりしていると思いがけない物に出会うことがしばしはあります。<o:p></o:p>

 今、紹介している西井ノ口の写真もその一つです。
 柴田圓治(故人)が撮影されたものや、圓治さんが複写された古い写真がいっぱいありました。
 家の方にお聞きすると、「ずいぶん整理しました」ということです。
 西井ノ口の場合は、時々地域で展示されているようですが、他の地域でも多くの写真が、知られずに眠ったままになっていませんでしょうか。
 未来の遺産として残しておきたいものです。
 前号に紹介した田植えの写真を見て、ある若い方が「昔は写真が珍しかったんでしょうか・・・。記念のためにたくさん集まって撮られていますね・・・・」といわれたのには驚きました。
 それほどそう遠くない昔の歴史の一場面がどんどん風化しています。
 こんな写真が眠っていましたら、ぜひお知らせください。
*写真:大正初期の共同苗代作業(西井ノ口)<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(61):井ノ口の風景①・大正時代初期の田植え

2014-02-20 09:08:38 |  ・加古川市東神吉町

 大正時代(初期)の田植えの風景(西井ノ口)
A88e6801
 西井ノ口(東神吉町)を散策していましたが、つい話題が「升田堤」になっていました。
 ここでもう一度「西井ノ口」に話を戻します。
 先日、「西井ノ口に、古い写真がたくさん残されている」と紹介していただき、さっそく見せていただきました。すごい量の貴重な写真でした。
 ここで、少し紹介します。
 今日の写真は、大正時代初期の結(ゆい)による田植えの風景です。
 大変珍しい、貴重な写真です。
   
 結(ゆい)
 結(ゆい)は、主に小さな集落や自治単位における共同作業の制度のことです。
 一人で行うには多大な費用と期間、そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、協力し合う相互扶助の精神で成り立っていました。
 戦後すぐのころまでは農繁期の一般的な作業風景でした。
 この写真は「結」による懐かしい農作業風景です。
    
さなぼり
 「さなぼり」は田植の終わったあとの行事です。
 この写真の風景を見ていると「さなぼり」という言葉を思い出します。
 子供の頃、大人の人が盛んに使っていた言葉でした。
 意味を調べてみると、「早苗振」の語からきているといわれ、「さ」は田植または田植をつかさどる神の意味で、神上り(さのぼり)、つまり、田の神がお帰りになる意味があり、田植えはじめを「さびらき」というのに対する語だそうです。
 本来、田植が無事にすんで、田の神を送るための祭事であったが、のちには田植の終わりの祝いや休養日と考えられるようになりました。
 行事の内容は、さまざまですが、餅をついたり、まんじゅうをつくったりして、ご馳走といっしょに神仏に供え、田植を手伝ってくれた人々を招いてお祝いをする行事でした。
 それにしても、いまでは「さなぼり」は、すっかり忘れ去られた言葉になってしまいました。
*写真:大正時代初期の田植えの風景(東神吉町西井ノ口)<o:p></o:p>

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(60):升田堤⑦・升田堤築造後の加古川の洪水

2014-02-19 11:58:20 |  ・加古川市東神吉町

 升田堤築造後の加古川
2eeab6e9
 升田堤築造後、加古川の流れはどのように変わったのでしょうか。
 次にあげる元禄十五年(1702)の「元禄播磨国絵図」(右図)によれば、かつて池尻村・升田村付近で二筋に分流していた加古川は、西加古川が消え一筋となって、加古川村と加古川村枝郷船頭村の間を川幅70(127m)で流れており、その間は「船渡」と記されています。
 そして、一筋となった加古川は、船頭村の下流より米田村枝郷米田新村や古新村を挟んで、再び二筋に分かれ播磨灘に注いでいます。
 この元禄国絵図や以後の絵図等に描かれた地形からみても、街道往還の便を図るという工事の主要目的は一応達成されたといってよいようです。
    
その後の加古川の氾濫
 しかしながら、先の「升田村水難之伝聞口上書」にも記されているように、升田堤は、その後も度々決壊しています。
 元禄十六年(1703)には平津・伊保荘二カ所の水門が吹き抜け堤が切れ込んで、田地がはなはだしく失われたばかりでなく、二軒が流失してしまいました。
 また、正徳二年(1712)には、満水で堤の下(しも)が切れ、田地ははなはだしい石の河原になりました。
 できる限りもとに戻せる分は田地にしたが、石の塚・石の原のところは荒廃地となったままでした。
続いて、寛延二年(1749)には、神吉荘の水門より吹き抜け、堤へ切れ込んで、長さ72間にわたって流れ、田地が崩れるとともに、19軒が流失し21軒が潰れています。<o:p></o:p>

 そして、さらに、安永九年(1780)にも、横堰堤が破損し、改修願いを姫路藩に提出しています。
 このほか、『増訂 印南郡誌』には、安政四年(1857)「大洪水」、慶応二年(1866)「八月加古川堤決潰す」、明治二十五年(1892)「七月加古川天川法花山谷川決潰す」、明治二十九年「八月三十日加古川決潰あり救恤金御下賜せらる」、明治三十年「九月三十日大洪水、俗に出河原切といふ、勅使御差遣救恤金御下賜せらる」、明治四十年「七月加古川氾濫米田新村堤防決潰す」等の記載がみられます。
 このように、加古川は江戸時代以降においても度々氾濫していますが、特に江戸時代においては、これらの記録に残されていない大小の氾濫があり被害も大きかったのではないかと想像されます。
 升田堤の築造工事は、現在の地形の原形を形作った重要な事業でしたが、加古川下流域の人々が川との戦いを一応終息させるには長い時間が必要であり、近代の河川改修工事を待たねばならなかったのです。
 注:「升田村水難之伝聞口上書」の最後の現代語訳は省略させていただきました。詳しくは『東神吉の歴史(上)』(久保一人著)をご覧ください。<o:p></o:p>

 *図:元禄播磨国絵図による加古川の流れ<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(59):「升田堤水難之伝聞口上書』④、水損の村

2014-02-18 06:02:27 |  ・加古川市東神吉町

  水損の村(升田村)
Photo
 32年以前の寛延二年(1749)、七月に洪水・満水によって、大川の堤、神吉庄の水門より吹き抜け、堤へ切れ込んで、長さ72(1880m)が切れて流れ、田地がはなはだしく掘れて崩れました。
 その他、全体的に石砂が入ってしまい、百姓たちは大変難儀いたしておりましたので、お願い申し上げましたところ、見分(けんぶん、立合って調べること)のうえ、それぞれの土地で年数の期限を決めて、鍬下(<わした、開墾して田畑とするまで免租、または貢租軽減とする期間)にするよう言い付けられましたので、百姓たちは、ありがたく思い、お互いに力をつくして、もとの田地に戻しました。
 上記の水難の時、家数19軒が流失し、潰れた家は21軒であったということでございました。
 ただし、水難であったので、入別(戸籍)に差し障りがあるということはありませんでしたが、大変難儀いたしました。
 もともと、三カ所の水門の上(かみ)と下(しも)と二カ所の真ん中に家屋敷がありまして、おまけに居屋敷地祗の所で、少しの出水にも驚き入り、毎度難儀しておりましたので、水難にあった者たちの中にも住居を替えたいと願い出る者があり、当村の林の裾を新しい屋敷にすることをお願い申し上げましたところ、願いのとおり言い付けられ、ありがたく開発し家をつくって住居いたしております。
 そこで、字午明新屋敷と申し伝えております。
上記のとおり、当村は度々水難に会い、そのうえ、田地はその度毎に大荒(おおあれ)になってしまい難儀いたしており、毎度お願い申し上げましたところ、慈しみの心をもって、願いのとおり言い付けられまして、ありがたくもとの田地に戻しました。
 けれども、度々耕した土が流れ、土地の生産力が失われてしまいますので、作物は取れる実の数が少なく、自然に貧乏で苦しむようになり、生活が次第にさしつまりまして、百姓たちは相続できる手立てがありません。
 このため、先年も嘆き申し上げましたところ、賢明なお考えをもって、お救い下されありがたく思っております。
 あわせて、これまで数度のお情けをいただいたことを顧みず恐れ入りますが、前書に聞き伝えていることを記しておりますとおり、難渋している村でございますので、なにとぞ横堰堤の破損した所のうち、現在、延ばしておくのが難しい場所を御普請積り帳のとおり、賢明なお考えをもって言い付けられましたなら、広大な慈しみの心を村中子孫に至るまで、一同ありがたく幸せに存じ上げます。
 ただし、この書は願い書でもなく、ご両人様まで差上げるものでございます。
 以上。
 安永九年(1780)年八月 都染組升田村組頭十兵衛印、庄屋角兵衛印、 御堰方原源内様、 天野三津右衛門様
 *写真:現在の升田堤
 <メモ>
 『升田村水難之伝聞口上書』は、安永九年(1780)都染組庄屋・角兵衛、組頭・十兵衛により書かれ、姫路藩御堰方の原源内、天野三津右衛門に提出された記録です。
 *『東神吉の歴史(上)』(久保一人著)より引用

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(58):升田堤(5)・「升田村水難之伝聞口上書」③、太兵衛・庄兵衛溺死

2014-02-17 10:07:10 |  ・加古川市東神吉町

 太兵衛・庄兵衛溺死す(元禄十六年・1703)
8b37e18b
 78年以前の元禄十六年(1703)、満水により、村の前と平津・伊保庄の二カ所の水門が吹き抜け、堤へ切れ込んで田地が夥しく掘れて崩れ、また堤防が決壊し、石の河原になってしまいました。
 百姓たちの内にも田地を離れた者も多くあり、大変難儀いたしましたので、お上にお願い申し上げ、もとに戻る分は、精一杯田地に戻しました。
 残りの分は、川欠・永引き(川欠は堤防の決壊で田地が荒廃した時の免租、永引きは永代)になってしまいました。
 この時、堤が切れた所に太兵衛・庄兵衛という家が二軒ありましたが、両家とも流失してしまいました。
 この両家の人数、男女八人おりましたところ、一人残らず散々に流されましたが、当村の地内の山辺に止り、あるいは藪の近くへたどり着いて命が助かったそうでございます。
 もっとも、太兵衛・庄兵衛は老人であったということもあるのでしょうか、溺死し、太兵衛は、当村の地内、石塚に死骸が止まったとのことで、右の塚を今は太兵衛塚と申し伝えております。
 庄兵衛は、堤が切れた所の土に埋まり、死んでしまったとのこと、ただし、潰れた家の者たちは、村内の小名(小さな田地か)四軒屋という所へ住む家を移りました。
 今では、家の数が20軒ばかりですが、今でも四軒屋と申し伝えております。
    
正徳二年(1721)の洪水
 69年以前の正徳二年(1721)、満水で右の堤の下(しも)が切れて流れ、田地は夥しい石の河原になってしまい、百姓たちが難渋いたしておりましたので、お願い申し上げ、もとに戻る分は田地にいたしました。
 けれども、残った石の塚や石の原になった分は、今では収穫のない荒廃した土地になってしまいました。
 右の堤の切れた所は、以前、せき止め工事の時、御立組(みたちぐみ)が当った場所であったそうで、そこで今では田地の字を御立番(みたちばん)と申し伝えております。
<メモ>
『升田村水難之伝聞口上書』は、安永九年(1780)都染組庄屋・角兵衛、組頭・十兵衛により書かれ、姫路藩御堰方の原源内、天野三津右衛門に提出された記録です。
 *『東神吉の歴史(上)』(久保一人著)より引用

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(57):升田堤(4)・「升田村水難之伝聞口上書』より②、堤防決壊

2014-02-16 08:23:40 |  ・加古川市東神吉町

    堤防決壊
4178c472
 万治元年(1658)六月上旬より工事を始め、七月上旬までに、かなりせき止め、堤の形にもなりましたが、急に風雨激しく洪水となり、少しの間に切れて流れて、もとの川瀬(川底の浅い所)になってしまいました。
 百姓たちはびっくりし、このうえもなく途方にくれ、過去の過ちを悔やみ、嘆かわしく思っておりました。
そのような時に、上様が大切に思われていた工事でございましたので、言い聞かせられ、このままに放っておけば、西の川筋のたくさんの田畑が自然に砂の川になってしまうだろう。
 これを、またせき止めれば、以後は難渋することなく、なお、さらに川の跡、芝地の原を、升田村より米田村の下の方までも、新田開発をして、農民が耕作に励めば、国家が豊かに、実り多くなる基礎ともなるであろう。
 たとえ人足を倍々に増やしても、入箇(いりか・入費)のことは気にかけないで、急いでせき止めるよう再工事を申し付けられました。
 同年七月中旬より八月下旬まで、昼夜を分かたず精を出し、工事を完成させたところ、上様は大変喜ばれ、百姓たちも喜び、限りなくありがたく思っておりました。
 さらに、上様が言い聞かせられたことは、「堤が長く保たれることを願っているので、  後々までも大破することのないよう工事を続けるよう」にとのことでありました。
 そして、「後に、堤の表と裏を築き、かさ上げなど、石垣を丈夫に保つように注意するならば、長く久しく願望がかない八千代(すえながく)までも動かない横堰となろう」と申し伝えるよう上意(主君の考え)があり、その広大な慈しみの心のおかげ、このうえなく、百姓たちは子孫まで一同、ありがたく思っておりますことを申し伝えているところでございます。
 <メモ><o:p></o:p>

 『升田村水難之伝聞口上書』は、安永九年(1780)都染組庄屋・角兵衛、組頭・十兵衛により書かれ、姫路藩御堰方の原源内、天野三津右衛門に提出された記録です。
 *『東神吉の歴史(上)』(久保一人著)より引用

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(56):升田堤(3)・「升田村水難之伝聞口上書」より①

2014-02-15 08:49:40 |  ・加古川市東神吉町

 先に紹介したように、「升田堤」は万暦元年(1658)六月上旬に始められました。
 この工事の様子については、『升田村水難之伝聞口上書』に詳しく書かれています。
 この古記録については、久保一人氏が『東神吉の歴史(上)』で詳しく紹介されていますのでここに紹介させていただきます。
 解読文の掲載もありますが、ここでは現代語訳のみの掲載です。
(少しだけ、文言を少し書き変えています)
   
『升田村水難之伝聞口上書』より(1)
         升田堤工事始まる
942bc82c
 もともと当村(升田村)の前へ流れてくる加古川は、その源である京都愛宕浦、山城国(京都府)、丹波国(京都府・兵庫県)の境より当村まで、およそ三十里余(一里は、3.9㎞、117)の深山や谷々の雨を集め、流れてくる大河です。
 そのようなところに、124年以前の明暦三年(1657)までは、升田村の川底の浅いところが二筋の流れに分かれており、一筋は南の方、高砂へ流れ落ち(正保国絵図では東加古川とみえる今の加古川)、もう一筋は西の方、龍山へ流れ落ち(西加古川)で、この二筋の下流を渡って往来する道筋は、平津村より加古川村(現代の加古川町本町)までの十丁は(約1090m)の間において、船で渡る所が二カ所あり、普段でも旅人が難儀する場所でした。
 そのうえ、風雨や洪水の時は、どうかすると西国より通行されるお大名様、または早飛脚、旅人、さらに西川筋のたくさんの村々に、水害による損失が多く出て困っておりました。
 そのことが上様(藩主)のお耳に聞こえ、慈しみの気持ちをもって、当村の前で西へ流れている川をせき止める評議がなされました。
 時は、万治元年(1658)で、升田村内より升田新村(現在の出河原)の地内まで、川幅720間。
 その内、200間は、当村地内の水深の深い所、残りの520間は升田新村地内で砂原川であったそうです。
 そのようなところに、水深の深い部分の200間を木材・土俵・藁等で埋め込み、それぞれ根置18間、馬踏8間、高さ3間半の堤を築き、さらに水際に牛枠・石垣・畳芝を積むこととし、その工事を山崎組・川辺組・八反田組・御立組(みたち、市川中流域左岸)・畑組・粟生組・滝野組・都染組、しめて八つの大庄屋組(主として加古川流域の村々)に言い付けられ、村々も、つつしんで承りました。
 *『東神吉の歴史(上)』参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(55):升田堤(2)・升田堤は完成したが

2014-02-14 08:59:12 |  ・加古川市東神吉町

  升田堤完成
Photo
 右の地図は、「元禄播磨国絵図(部分)解読図」です。
 加古川右岸(西岸)の赤く(太く)塗ったケ所が升田堤工事の範囲と考えられます。
 万治二年(1659)八月上旬、工事がほぼ完成したころに暴風雨が襲ったのです。
 一夜のうちに堤は壊れ、元の河原になってしまいました。
 本号は、その続きです。
   升田堤は完成したが
 工事にあたった奉行・役人は肝を潰してしまいました。
 庄屋たちは、工事の不可能なことを訴えました。
 お上から「この工事は重要であり、人足が不足なら1560才までのもの全てを出せ。意義を唱える者は追放せよ・・・」と、厳しい命令でした。
 水が引くと前の二倍の人足を動員し、役人は鞭(むち)で、油断している者を打ちすえました。
 町場に住む者には、松明をつくらせ、夜の工事にも動員をしました。
 さすがの流れも一ヶ月で堰きとめられました。
 升田堤の完成により、ほぼ現在の加古川の流れの川になりました。
 升田堤により洪水は少なくなったのですが、依然として、その後も大きな被害を受けています。
 この升田堤の建設に対し、対岸の大野・中津・河原(加古川町)の百姓は、藩主に嘆願書を出しました。
 「・・・自分等の村々は、昔から水害の時は西側と同じように被害を受けてきた。
 ところがこの度の工事で右岸が強くなり、左岸が弱いままですから、被害が私たちへかかってきます。
 工事を小規模にして、毎年少しずつ高くしてはいかがでしょうか・・・」と。
 この嘆願は、当然のように聞き入れられませんでした。

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(54):升 田 堤(1)

2014-02-13 08:11:02 |  ・加古川市東神吉町

  加古川の右岸(西側)平地を述べるとき、「上部井用水」と「加古川の流れ」を語らないで済ますことはできません。井ノ口の続きとしてお読みください。<o:p></o:p>

 升 田 堤
 942bc82c
 右の地図は、正保年間(164448)に描かれた『正保播磨国絵図』にある加古川の流れです。
 池尻から下流に二つの大きな流れがあります。
 西を流れるのが「西加古川」で、東は今日の加古川で「東加古川」と呼ばれていました。
 二筋の加古川は、旅人にとって、二ヶ所の船渡が必要で難渋しました。
 また、東西加古川沿いの人々は洪水でずいぶん苦しみました。加古川は、暴れ川でした。
 姫路藩は、ここを美田にかえ、藩の収入をはかったのです。
 藩主・榊原忠次は、升田で西加古川への流れを堰きとめる工事を命じました。
 万治二年(16596月中旬より、藩の御入用普請として工事を始めました。
  *御入用普請:藩の負担で行われる工事
 一説には、この数は正確でないかもしれませんが、この工事に動員された役夫は60万人とあります。藩の命運をかけた一大工事でした。
 このようすを都染組升田村庄屋・角兵衛・組頭十兵衛から藩に出された「升田村水難の伝聞口上書」にみておきます。
 *上記の記録については、久保一人氏が『東神吉の歴史(上)』で述べられていますので、後に詳しく紹介します。
 以下は概略です。
 ・・・27ヶ所の大庄屋へ触れがあった。近隣の村々は村高に応じて人足の割付がなされた。
 人足は、鍬・鋤(すき)・ジュバンを用意し、河原に集まってきました。河原は牛馬が通ることができないほどだったといいます。
 升田から升田新村(現:出河原)間での1000メートルは特に重要で、堤も太く、その土台は60メートルほどもありました。
 ・・・八月上旬、工事はほぼ完成しましたが、暴風雨が襲いました。升田の堤は、一夜のうちに潰れ、元の河原になってしまいました。(以上)
 次号も升田堤の工事の話の続きです。
 
<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする