ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

神野町探訪:城山(旧石器)遺跡

2007-10-21 08:48:46 |  ・加古川市神野町

172   現在、山手中学校のある台地は、印南野台地から北に突き出した半島のよな地形であり、その先端部に城山(82.2㍍)がある。

  2万年前の、この辺りの風景を想像して欲しい。

  この半島部分の両側には海が入りこんでおり、まさに海に突き出た半島であった。

  海は、さらに現在の加古川に沿って、奥にまで入っていた。

  昭和24年、群馬県の岩宿遺跡の発見により、縄文時代以前(旧石器時代)に日本列島に人が住んでいたことが証明された。

  加古川地方でも、日岡山・七つ池(志方町)・潰目池(平岡町)等で、旧石器人の生活の跡が発見されている。

  神野でも、旧石器人の生活の跡が城山の南面で確かめられた。

  この地は、海の幸・川の幸が得やすい場所であった。印南台地では狩もしたことだろう。

  更に、よいことには、ここは台地のため洪水の心配はなかった。

  当時の旧石器人にとって、城山は絶好の生活の場であったと考えられる。

  城山(旧石器)遺跡は、西条の墓地のある辺りから東に広がっている。

  城山の水源地の登り口に説明板(写真)がある。

*このあたりで、神野町探訪をいったん終え、次回からは「志方町探訪」に出かけたい。その前に余話(ひとつの説)をはさんでおきたい。

  「城山(じょやま)」のことである。「しろやま」と読むのが普通である。位置から見ても、いかにも砦がありそうなロケーションであり、城山を想像する。

  ある郷土史家は、ジョヤマは西条の山(さいじょうのやま)から「じょ(う)やま」と言うようになったのではないかと考えておられる・・・

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神野町探訪:西条10号墳箱式石棺

2007-10-20 13:49:28 |  ・加古川市神野町

168   写真の箱式石棺は、西条墓地入り口のすぐ右にある城山(じょやま)への登り口すぐ右のブッシュの中にある。

  元は、地図の赤く塗った場所(山手二丁目)にあった古墳の石棺である。

  西条10号古墳と名づけられている。

  昭和39年の発掘調査の40数基ある群集墳の一つで、古墳の盛り土は流れ出していたが、古墳は、直径14㍍の円墳であることが確認された。

144f1956   幸い、主体部が粘土で覆われていたため石棺は完全な形で残っていた。

  棺の大きさは長さ160㌢、巾50㌢で、内部には完全な形で人骨が残っていた。

  北枕に寝かせてあり、両足首と左手、左肋骨が溶けてなくなっていたが、他の骨はしっかりしていた。

  被葬者は20才前後の女性で、現在この人骨は大阪市大に保存されている。

  副葬品としては、鉄鏃・鉄刀・鉄斧・玉類等があった。

  尚、棺内には一面に朱が付着していた。

  また、棺底には小礫が敷きつめられ、棺外には小礫をならべて作った排水溝が東に向かってつくられていた。

  西の方は崖であり、排水溝をつくる必要ながかったのであろう。

*「西条10号古墳説明板」(加古川市教育委員会)参照

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神野町探訪:町の小さな歴史館

2007-10-19 11:20:25 |  ・加古川市神野町

148   「町の小さな歴史館」とは、西条の公会堂・西条会館のことである。

  西条会館の二階に、西条古墳群からの出土品の一部が展示されている。

  残念なことに、地元の人以外にはあまり知られていない。

  階段を上がると、まず正面の大きな瓶棺(これは古墳時代の出土品ではない)が目にはいる。

  出土物は、西条古墳のうち、規模の小さい群集墳からの須恵器(スエキ)・土師器(はじき)がほとんどである。

  群集墳のうち、時代が古い52号墳からの土器の一部も展示されている。

152   昨日の群集墳の分布を示した地図を見ていただきたい。中央あたりにある方墳が21号墳である。

  21号墳からは須恵器片、土師器片、円筒埴輪片の外に、写真のような家形埴輪が出土した。

  群集墳は、ほとんど円墳であるが、21号墳は52号墳と共に、数少ない方墳であった。

  21号墳は、出土品などから6世紀古墳である。

  この家形埴輪については『加古川市史(第四巻)』に詳しい説明がある。

  西条会館で保管されていることも紹介している。

参考: <須恵器>

    古墳時代の後半から奈良時代にかけて盛んに作られた、陶質の土器。

    スエは韓国(朝鮮)語で鉄の意味で、須恵器は鉄のように硬い土器の意味である。

     <土師器>

    古墳時代以降、奈良・平安時代まで続いた素焼きの土器 

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神野町探訪:人塚・尼塚

2007-10-18 14:58:25 |  ・加古川市神野町

157   神野町の城山(じょやま)から南に伸びる標高30メートルばかりの台地に西条廃寺がある。

  右の写真は、西条廃寺の塔跡の一部から正面の森を撮っている。

  その森は人塚古墳である。

  西条廃寺は7世紀に、人塚古墳に接して建設された。

  古代寺院の側に古墳がしばしば見られるが、これは「古墳の有力な被葬者が、この頃仏教文化を取り入れ寺院をつくった」と考えられる。

160   人塚の南に、大きな円墳の尼塚(写真下)があり、さらに行者塚がある。(ブログ、八幡町探訪:行者塚古墳①~④をご覧ください)

  これらの古墳は、昨日紹介した群集墳も含めて、ほとんどが5世紀古墳である。

  それに比べて、日岡古墳は4世紀古墳である。

  これに関して、昨日のブログでは「日岡古墳からの墓所の移転か、それとも異なる豪族の墓所であったのだろうか、判断の分かれるところである」と書いたが、大阪大学の都出比呂志教授は、次のように指摘されている。

  ・・・・日岡古墳から西条古墳への墓所の移動の時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

  ということは、大和・河内という当時の政治的先進地である中央との動きと、(加古川)地方の動きが連動している・・・・

  都出教授は、「日岡古墳から西条への古墳の移動は、中央の支配者の変動に連動した動きである」と指摘される。

  つまり、「日岡豪族も西条豪族も大和の豪族と同盟関係にあり、中央の支配者の交代にともなって、支配関係が変わった」という。

  とするならば、日岡豪族と西条豪族は、同じ一族であるが新しい大和の支配者に従ったのだろうか。それとも異なる一族であったのだろうか。新たな疑問である・・・

* 『開かれた古墳時代のタイムカプセル』(加古川市教育委員会参照)

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神野町探訪:西条群集墳と西条52号墳

2007-10-17 15:21:32 |  ・加古川市神野町

Cb8c297e  ◇西条群集墳◇ 

  山手中学校の北方、西条の丘陵地帯に、かつて約30基ばかりの古墳があった。

  これらの古墳は、1963年(昭和38)にはじまった住宅造成工事により全て破壊されてしまった。

  現在は、規模の大きな行者塚(ぎょうじゃづか)・尼塚(あまづか)・人塚(ひとづか)を残すのみである。

  現存する3基の古墳などから判断して、これらの群集墳の多くも5世紀古墳で、4世紀古墳の多い日岡古墳群より新しい。

  これは、日岡古墳からの墓所の移転か、それとも異なる豪族墓所であったのだろうか、判断の分かれるところである。

  これらの群集墳の破壊は、宅地造成とはいえ残念なことである。一度破壊された遺跡は復元することができない。

 ◇西条52号古墳◇

  古墳の調査中、城山(じょやま)の西隅にある古墳は、他の古墳よりはるかに時代をさかのぼる、およそ3世紀の前半の古墳であることが分かった。

  「西条52号古墳」(赤で示した所)と命名された。

  西条52号墳は径約15mの円墳で、わずかに盛り土があり、播磨地方でも発見例の少ない弥生時代の墳丘墓であった。

  出土品としては、鏡(内行花文鏡)・鉄・高杯・壷等がある。

*『加古川市史(第四巻)』(加古川市史編さん委員会)参照

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神野町探訪:神野(かんの)・手末(てずえ)

2007-10-16 11:33:34 |  ・加古川市神野町

142   9月6日のブログ「神野町誕生」の復習をしておきたい。

  江戸時代、今の神野地区に手末村・二塚村・西之山村・石守村・福沢新村・福留村・横市新村・下西条村の8ヵ村があった。

  その内、明治9年に手末(てずえ)村と二塚村が合併して神野村になった。

 *その後の神野の合併の経過については、ブログ(9月6日)をご覧ください。

  神野の名称について、郷土史家・石見完次氏は、「神野の名称は加納(かのう)庄が起こりである。・・・加納というのは、荘園が追加開墾した土地のことで・・・1351年頃にわが加納荘は発生したと考えられる」と主張されている。

  また、手末村も聞きなれない言葉である。

  手末について同氏は「この村を潤す水源地が、神出(かんで)の“手中”と云う場所にあるから、その流路の末と言うので手末あろう・・」とされている。

  戦国時代、手末村を支配したと思われる豪族の手末構居跡(写真)が残る。

  主の名前その他詳細は分からない。場所は、神野小学校から県道八幡・別府線をやや西条へ行ったところである。

  なお、戦国時代の神野地区の豪族の構居跡として、二塚近くに高田(こうでん)構居跡があるが、この構居についても詳細はわからない。

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神野町探訪:ヘンな狛犬

2007-10-12 08:53:23 |  ・加古川市神野町

Kakogawa_077   「ひろかずのブログ」は、きょうで455号になった。

  このブログでは、加古川市内の歴史を取り上げてきたが、きょうのブログだけは雑感である。

  ・・・加古川市内を歩いていると、面白いものに出くわすことがある。

  先月の9月14日午後、神野町の稲根神社の裏にある二塚古墳の写真をとりに出かけた。

  蚊の猛攻には、まいった。

 *記事については、9月15日の「二塚古墳」をご覧ください。

  帰りに、近くの西之山の若一神社に立ち寄った。

  神社の定番の狛犬が社殿の正面にある。

  最近視力が弱り、何気なく見ていたが、よく見ると正面に向かって左側の吽形(うんぎょう)の狛犬(写真)が少しヘンなことに気がついた。

  親の背中と、顔のあたりを二匹の狛犬の子ども(?)がじゃれている。

  こんな変わった狛犬をご覧になったことがおありだろうか。

  造られたのは、明治23年の銘がある。

  何か意味があるのか知らない。この狛犬の意味をご存知の方は一報ください。

  意味があれば、後日紹介したい。

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神野町探訪:新県立加古川病院

2007-10-11 09:00:47 |  ・加古川市神野町

119    県立加古川病院が神野町に移転する。

  場所は、神野小学校近くの東部の高台で、開院の予定は2009年である。

  現在工事が進んでいる。神野町は、加古川市の医療の中心地となる。

  交通アクセスも整備され神野町の風景は、大きく変貌する。

  先日神戸新聞に、「新県立病院・300分の1の完成予想模型」の見出しで、現在の県立加古川病院の玄関ホールにある模型(写真)を紹介していた。

  見逃された方もおられると思うので、その内容の一部を紹介しておきたい。

  ・・・・施設の老朽化などを受けて、移転新築される県立加古川病院は、糖尿病など生活習慣病への対応や緩和ケア医療の提供など新たな医療ニーズに応える高度で専門的な病院に生まれ変わる。

  09年3月の完成を目指して、今年7月から建設中で、精神科、神経内科、循環器科、心臓血管外科が新設される。

  施設面積は、約四万二千平方㍍。

  免震構造の地上六階、地下一階の延べ床面積約三万二千平方㍍。

  事業費約135億円。・・・・

                    (10月6日・神戸新聞朝刊東播版)より

  現在の便利な場所から、北部に移動する。高齢者等には不便になる。

  病院へのアクセスは、道路整備だけではない。便利で・安価な交通手段をお願いしたい。

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神野町探訪:たごり地蔵

2007-10-10 07:08:40 |  ・加古川市神野町

110   県道八幡・別府線の石守のバス停から東へ200メートルばかり行くと、田んぼの中に小さな公園がある。

  そこに3体の石仏が並んでいる。

  入り口から一番奥(東)の石仏は「立石地蔵」(写真)であるが、地元では、もっぱら「たごり地蔵」と呼んでいる。

  南北朝時代の石仏である。

  それにしても、「たごり」とは、聞きなれない言葉である。

  「たごり」は、もともと動詞の「たごる」で、意味は「咳をする」という意味という。てっきり、この地方の方言かと思っていたが、辞書には、次のようにある。

  吐る(たぐる・・・①口から吐く。もどす。 ②咳をする。また、こみあげる。(『大辞林』小学館)                

  「たごり」は「たごる」が変化した言葉である。

  現在では医学が発達し、栄養状態もよいが、昔はちょっとした病が命にかかわった。

  そうした中で、野の仏に願をかけると病気がなおると言う信仰が生まれたのであろう。

  「たごり地蔵」のおかげで病が癒えると、はったい粉を持ってお礼参りをしたという。

  地元の郷土史家の石見完次氏は、「この地は、昔の望理里(まがりのさと・主に現在の八幡町・神野町)と北条郷(大野付近より南の地域)の境、つまり関にあたる場所にあり、関が咳に通じるところから、たごり地蔵と呼ばれるようになったのかもしれない」と想像されている。

  「たごり地蔵」は「立石地蔵」であり、今の場所より少し東の「立石」という田にあったようである。

*「郷土の石彫⑭・タグリ地蔵」(神戸新聞連載)参照

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神野町探訪:夕立の夢(福沢の伝承)

2007-10-09 11:12:57 |  ・加古川市神野町

2f5031d8   福沢(神野町石守)は、曇川が低いところを、わずかに流れるだけの水の少ない村でした。

  しばしば、旱魃で苦しみました。そんな村だったのでしょう、加古川史学会の会報『鹿児(27号)』で、竹中佳次氏は、次のような「福沢に伝わるはなし」(伝承)を報告されている。

 ◇夕立の夢◇

  昔、田植えのあとというのは、日照続きで稲はやけてしまうし困ってしもうた。

  何か良い考えはないかと思案したが、何ちゅうても雨が降らんとしようがない。

  いっぺん五郎吉さん(雷)に頼んで大きな夕立をふらしてもらわんな・・・と考えた。

  毎日、毎日、五郎吉さんが来んかと、遠くの山を眺めておった。

  そんなある日やった。山の向こうで「ゴロゴロ」と鳴っておるのが聞こえる。

  「早くこっちへ来んかいな」と、ひとり言を言っていたら、目の前でピカッと光った。

  「五郎吉さんが来よった」と心を躍かせながら手招きをした。

  五郎吉さんが、「何か用かい」と尋ので「実は、頼みがあるんや。お前の友達と思う雨が欲しいやが、降らしてくれんか・・・」と五郎吉さんに言うと「よしよし易いこっちゃ」という。

  ・・・(そして)五郎吉さんのようけおる広峰・書写の上空に連れて行ってくれた。

  ・・・五郎吉さんの親方が雨の降らせる呪文を唱えた。・・・そしたら、西の方から「ゴロゴロ」と鳴り出し雨もだんだん大降りになってきた。

  「この辺はどこや」と言うので「市川と言うところや、もっと東」と言うと(福沢の上で)法外な雨を降らしてくれた。

  安心して雲の上から降りたら、田も畑もようけの水やった。これで米もようけとれるし、ひと安心。

  そんな所へ坊さんが来て、「あんたが、五郎吉さんへに頼んでくれたおかげで助かったと(村人は)言うてる・・」

  「これでよかったよかった」と思った時、目が覚めた。

  なんや夢かいな・・・・

*紙面の都合で一部を省略しました。

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神野探訪町:西之山の石棺仏

2007-10-08 08:20:02 |  ・加古川市神野町

109_2   右の石仏は、神野町西之山の墓地の石仏である。

  左に4体、右に2体の石仏が刻まれている。

  墓地の入り口にあるので、六地蔵のようにもみえる。

  西之山の人は、六地蔵としてまつっているようであるが、六地蔵ではない。

  左側の4体の内、3体は阿弥陀(坐像)であり、1体が地蔵(立像)である。

  右側の2体(坐像)も阿弥陀像であり、地蔵像ではない。

  南北朝時代の製作と考えられる。

  六地蔵は、人間は死後「生前のおこない」により六つの世界に生まれかわるとされている。

  その六つの世界とは、地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゃら)・人間・天上であるという。

  そして、死者は、どの世界に生まれても「地蔵菩薩があらわれ、悔い改めた人には救いの手を差し伸べてくださる」という。

  西之山の墓地の仏たちに、地蔵は一体しかおられない。

  阿弥陀様も彼岸の仏である。まあ、いいでしょう・・・

  この仏が刻まれているのは、組み合わせ石棺の側石(竜山石)であり、これらの仏は石棺仏である。

  西之山は、古墳の多い地域の真っただ中にある。近辺の古墳の石が利用されたのだろう。

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神野町探訪:福沢の庚申信仰

2007-10-06 10:45:43 |  ・加古川市神野町

103   県道八幡・別府線の福沢の交差点の北東隅に、写真のようなユーモラスの三猿が「青面金剛」の前にある。

  これは、旧福沢新村(現:神野町石守)で、庚申信仰がおこなわれていたことを物語っている。

  江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰も現在ではすっかり姿を消した。

  庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことである。

  コウシンさんは、庚申の夜、(60日に一回)、人体に住むというサンシチユウと言う虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くという。

  そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像をおがんだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事である。

  そのとき、多くの場合「青面金剛像」を拝んだが、新しくは三猿も拝んだ。

  いつしか、この行事は人々が集まって、酒を酌み交わすというレクレーションも兼ねた行事に代わっていった。

  庚申の日に夫婦が交わって子どもができると、その子は盗賊になるともいい、石川五右衛門はその例であるともいわれた。

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神野町探訪:石守構居

2007-10-05 18:37:29 |  ・加古川市神野町

107   鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があった。

  その外にも、比較的小規模な多くの城があった。

  城について、『加古川市史(第二巻)』の説明を借りたい。

  「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび・・・・構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない。」

  これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられた。

  石守構居は燃えるような、彼岸花の向こうの大きな木の下の神社(政神大神社)にあった。

  場所は、石守であるが西之山に近く、曇川のすぐ南である。写真の大きな木を目印にすればすぐ見つかる。

  構居にある説明(加古川市教育委員会)の一部を記しておきたい。

  ・・・・領主は、中村景利といい、もとは(三木の)別所長治の幕下であった。

  長治が天正八年、織田信長に滅ぼされていからは秀吉につき、因州(鳥取県)の戦に武功を樹てたが、討ち死にした。

  また、一説には三木の乱に討ち死にしたとも言われている・・・

  彼岸花は、中村景利の血潮だろうか。石守構居に彼岸花はよく似合う。

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神野町探訪:松岡青蘿 in 福沢

2007-10-04 10:11:24 |  ・加古川市神野町

098   芭蕉の没後、播磨地方には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きらぼしのごとく輩出した。

  松岡青蘿(まつおかせいら)もその一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられている。

  青蘿は身持ち不慎のため、23才の時、姫路から追放された。

  身持ち不慎の理由は、賭博とも言われている。

  その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつんで、明和四年(1767)播州にもどったが、姫路には入れてもらえなかった。

  そのため、加古川の大庄屋・中谷家の庇護のもとに居を構えた。

  これが、栗本庵(幽松庵)である。

099   明和五年(1768)、加古郡福沢新村(現:神野町石守)の善証寺(写真下)の元へ参禅し、剃髪した。

 *善証寺・・寛永四年(1627)創設

  その日は芭蕉忌だった。

  「青蘿」は、その時、和尚から授けられた俳号である。

   けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

  これは、この時の句である。

  福沢の善証寺のそばに、この青蘿の句碑(写真上)がある。

  句碑は、昭和57年8月建立された。

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神野町探訪:平木橋・青之井用水・高掘②

2007-10-03 18:09:30 |  ・加古川市神野町

E7edff73_2   右の図を見て欲しい。

  Aの用水は、淡河川から練部屋を経て流れてきた用水である。

  矢印のところに平木橋があり、最後に平木池に流れ込んだ。

  緑色の用水は、寛文四年(1664)に完成した青之井用水である。

  青之井用水は、曇川から皿池(中央の黒い大きな池)に入り、更に先に流れ近隣の田畑を潤した。

  Bd2cf203 赤色の用水に注目して欲しい。青之井用水から分かれた高堀り溝である。

  高掘り溝は、平木橋の下をとおり、更に南の戸ヶ池に流れ、野口の北部の池に続いた。

  皿池のある場所の標高は、約22メートルで、平木橋の辺りは標高約27メートルである。

  戸ヶ池の辺りは、約22メートルである。

  平木橋辺りの土地が壁のように立ちはだかり、水は流れない。

  百姓は、そこに溝を掘った。これが高掘り溝である。

  注意が要る。

  「高掘り溝」とは、高いところを掘った溝の意味ではない。

  高掘り溝は、村高(生産高)に応じた課役によって工事をした溝の意味である。

  当時、石守村(神野町)が600石、水足村(野口町)が644石であったので、この割合で工事の負担をしてできた堀、という意味である。

  現在、平木橋は東播南北道路の建設により取り壊される運命にあったが、各方面の努力により近くの池に移築されることになった。

  しかし、高堀り溝・青之井用水・平木橋をセットで考える時やはり、元あった場所に保存して欲しい気持ちが残る。

  貴重な歴史遺産である。

*『水足史誌』(水足町内会)参照

 挿絵は、北条正氏が数年前に他の冊子のために書いてくださったものである。今年、癌で亡くなられた。ご冥福をお祈りいたします。

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