現在、山手中学校のある台地は、印南野台地から北に突き出した半島のよな地形であり、その先端部に城山(82.2㍍)がある。
2万年前の、この辺りの風景を想像して欲しい。
この半島部分の両側には海が入りこんでおり、まさに海に突き出た半島であった。
海は、さらに現在の加古川に沿って、奥にまで入っていた。
昭和24年、群馬県の岩宿遺跡の発見により、縄文時代以前(旧石器時代)に日本列島に人が住んでいたことが証明された。
加古川地方でも、日岡山・七つ池(志方町)・潰目池(平岡町)等で、旧石器人の生活の跡が発見されている。
神野でも、旧石器人の生活の跡が城山の南面で確かめられた。
この地は、海の幸・川の幸が得やすい場所であった。印南台地では狩もしたことだろう。
更に、よいことには、ここは台地のため洪水の心配はなかった。
当時の旧石器人にとって、城山は絶好の生活の場であったと考えられる。
城山(旧石器)遺跡は、西条の墓地のある辺りから東に広がっている。
城山の水源地の登り口に説明板(写真)がある。
*このあたりで、神野町探訪をいったん終え、次回からは「志方町探訪」に出かけたい。その前に余話(ひとつの説)をはさんでおきたい。
「城山(じょやま)」のことである。「しろやま」と読むのが普通である。位置から見ても、いかにも砦がありそうなロケーションであり、城山を想像する。
ある郷土史家は、ジョヤマは西条の山(さいじょうのやま)から「じょ(う)やま」と言うようになったのではないかと考えておられる・・・