ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(163):大庄屋日記⑯・松の木の伐採事件

2011-11-30 19:02:19 |  ・加古川市西志方

以下の「原村(現:志方町西志方)の一件」は、村の木を切るにも役所の許可がいる、厳しい社会でありながら、規則がガタガタと壊れている時代のようすが分かります。

また、厳しい処分をしなければならない支配者のあせりのようなものを感じる事件です。

    

   無届けで、村の松の木を伐採

53a8cdb4原村の山王神社境内に目の高さのところで、周囲が三尺五寸の大木が、そして同村の弁財天でも周りが三尺もある松の木が、六月二十九日の大風の時、根が浮き上がり、役所へ掘り起こしの許可を願い出ておりました。

村での相談の結果、二本の松の木は村が買い受け、仏性寺の修繕の用材に使うことになりました。

私(大庄屋)が、姫路へ御用のため出かけている八月六日の事でした。

村の六右衛門・孫右衛門・多七郎・彦兵衛・安兵衛・佐兵衛・三右衛門・佐助・与惣太夫・久七・八兵衛・久米右衛門の十二名の者と組頭・小兵衛が立ち会って、二本の松の木を切り倒してしまいました。

そして、枝葉は、参加した十二名の酒代として貰いたいと組頭に申し出ました。

組頭は「この二本の松は、村が買い取ったものであり枝葉といえども勝手にできない・・・」と十二名の者に言い聞かせました。

みなの者も一たんは承知したようでした。

ところが、組頭の小兵衛が昼飯に帰っている間に十二名は枝葉をとり散らかして処分をしていました。

注意したところ、十二名の者は不平を申し口論となっていました。

私も帰宅し、双方の者を呼びだし、「この松の処分の許可は出ていない間にこのような行いは誠に不埒なことである」と言い伝えました。

先だって、村方で相談済である思っていたようであるが不行き届きでした。

元来は、大庄屋の私に相談して役所に届け、その後に許可があり処置するのが本来ですが、全く申し訳ございませんでした。

組頭・小兵衛は代官様より退役を仰せつけられました。

もっとも、この退役は許可なく木を切り倒したことにあるのではなく、村の者と金銭

関係の不都合な処置で退役を仰せつけられたのです。

     文化六年1809二月    西牧組原庄屋    吉左衛門  ?

                   大庄屋       内海太左衛門

   宗門御奉行所アテ

小兵衛は現在無役の者ですが、村方まで心得違いを起こしましたことをお詫びも仕上げます。

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志方町を歩く(162):大庄屋日記⑮・比室村庄屋の一件

2011-11-29 11:48:25 |  ・加古川市西志方

   

  比室庄屋(彦左衛門)困窮す

A4c6bdff昔から、私どもは比室村の庄屋を務めております。

しかし、亡父の彦左衛門が困窮し、庄屋役が勤めがたくなりましたので退役願いを提出しました。

間もなく、お役所から亡父・彦左衛門へお呼び出しがあり、「その方、ながらく庄屋を務めており、昔からの書付(書類)を残らず差し出すように」と言われました。

開発当時からの書類を残らずご覧いただきました。

書類をご覧になり、「あなたの祖先は比室村の開発人に間違いない。これからも庄屋を務めるように・・・」と申され、現在も庄屋を続けております。

それに、寛延元年1748)二月、お米十五石を賜りました。

     

   庄屋・書類を盗まれる

以来、古くからの書類等を大切に土蔵に入れて管理しておりました。

89年後の事です。

盗賊が蔵に入り、多くの書類は盗まれてしまいました。

その盗賊が残したわずかの書類は残っていますが、多くの書類の行方は分かりません。

お届いたします。

   文化六年巳年(1809)正月

      西牧組比室組庄屋 久兵衛 ?

(注)比室村(ひむろむら)は、明治9年(1876)、助永村(すけながむら)と合併して永室村(ながむろむら)となりました。

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志方町を歩く(161):大庄屋日記⑭・村の事件簿(9)・成井村の瀬蔵溺死

2011-11-28 12:35:39 |  ・加古川市西志方

33bcaa35 変化の少ないようにみえる江戸時代の農村も小さい出来事はたくさんおきています。

そんな例を紹介しています。

今日は二つの出来事です。

   伊八郎(比室)の家出

文化四年(1807)の十月一日のことです。

比室の市助の子の伊八郎がふと村を出てしまいました。

が、すぐに近くの者を遣わし調べたところ、四日七ツ時御着村の甚太夫と申す者が留め置きしてくれておりました。

連れ帰ることができました。

   成井村・瀬蔵溺死!

文化四年十月六日、成井村の瀬蔵43と申す者が、塩市(しおいち・現高砂市)の川で溺死しました。

塩市村から成井村へ知らせがありました。

お役所より、角田儀右衛門、杉沢政次郎お調べに来られました。

取り調べが終わり、成井村へ死骸をとりに来るよう仰せられました。

葬儀は六日中に済ませてしまいました。

・・・・

*この年の九月十七日は、激しい台風があり、兵庫・神戸・尼崎も大被害で、街道の並木がたくさん倒れたという記録があります。

十月三日の『大庄屋日記』には天川筋(現:高砂・姫路市の境を流れる川)の堤防が切れ大水になったと記録しています。

六日の瀬蔵の溺死も加古川の増水のためであったのでしょう。

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志方町を歩く(160):大庄屋日記⑬、村の事件簿(8)・嫁取りの夜の一件

2011-11-27 20:07:44 |  ・加古川市西志方

  嫁取りの夜の出来事

Fc74f39e文化二年1805、成井村(現:志方町西志方)・喜右衛門の嫁取りの日の夜ことでした。

同村・友衛門の弟・小兵衛、喜左衛門の倅・平蔵、弥一郎の倅・甚助、十郎左衛門の弟・政四郎の四人の者が喜右衛門の弟・文吉に用があると、こともあろうに嫁取りの夜に押し寄せました。

そして、客に迷惑をかけました。

喜右衛門より、今夜は客人があり、今日のところはしばらく待ってくれと申したのですが、四人の者は聞き入れませんでした。

そこで、喜右衛門から庄屋の利右衛門へ届け出、組頭・五人組を立ち会わせて、庄屋から「今夜のところは引き取りなさい」と説得したのですが聞き入れません。

しかたなく、原村の庄屋に助けを求めたところ、ようやくその場を引き取りました。

    四人と文吉は手鎖(てぐさり)

後日、喜右衛門は、上記の四人を相手取り取り調べの願い書をよこしました。

さっそく、四人の者を呼び出し、原村の庄屋立ち会いで四人を取り調べました。

その時、喜右衛門の兄弟・並びに四人の言い分を聞き、また五人組頭・平兵衛の意見もききました。

それを、お役所の塩沢甚内様へ差し出しました

塩沢様より五月に吟味するので、その間四名および文吉を他の場所で謹慎させるよう仰せつかりました。

しかしながら、喜左衛門の倅・平蔵は決められた場所に謹慎しておらず調べが引き延ばされました。

今度は、お代官様・山田義太夫様がお調べになることになりましたが、その時も平蔵はいませんでした。

さがし、家に連れて帰りました。

平蔵は余りにも不埒でした。

喜右衛門は手鎖(てぐさり・手錠の刑)、そして四人並びに文吉に手鎖の刑がありました。

役所で、いろいろ調べられ八月二十八日判決が下りました。

五人(四人と文吉)は、家から出ではならない謹慎(押込め)と決まりました。

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志方町を歩く(159):大庄屋日記⑫、村の事件簿(7)・支配機構の緩みか

2011-11-26 18:32:33 |  ・加古川市西志方

  原村弁財天社・原新村権現社の木が伐採される

64996903文化六年(1809)、原村弁済天社と原新村野権現社の木が伐採された件のことです。

さる八月中に社の木々が伐採されたが、これは許可願いもなくおこなわれている。

庄屋・組頭はどのように心得ているのか。

ふとどきなことです。

先だって、原村庄屋より嘆いておられ旨が書面で届きました。

組頭の小兵衛が社の木々を切り倒したとのことです。

小兵衛の考えをきいたところ、心外なことを申すばかりです。

原村の庄屋は、小兵衛の心得違いをさんざんに説き聞かせましたが、どのように心得ているのか書きつけも出しません。

いろいろ申し聞かせましたが、ついに分かってくれませんでした。

しかたなく、小兵衛の言う通りの書付を役所(宗門奉行所)へ送りご覧入れます。

なおまた、原村庄屋より別の書面を差し上げます。

なにとぞ、よろしくご配慮を願い申し上げます。

六月 西牧組大庄屋  内海太郎左衛門

宗門御奉行所

    支配機構の緩みか

 組頭の小兵衛が社の木々を伐採した理由がないので詳細は分かりませんが、庄屋に詫びを入れていません。

 小兵衛は居直ってさえいるようです。

 このことは、江戸時代の村の支配組織のタガがゆるんでいたことを示めしていると想像されます。

 理由はとも角、江戸時代の初期中期では考えられない小兵衛の態度です。

 江戸時代が終わる60年ほど前のことでした。

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志方町を歩く(158):大庄屋日記⑪、村の事件簿(6)・庄助の殺人事件

2011-11-25 08:35:56 |  ・加古川市西志方

江戸時代の村でも様々な事件が起きていますが、殺人事件は特別でした。

それに、この殺人事件の一件は、「撲り、睾丸をたたきつぶす」というスキャンダラスな事件であったため、当時としても大きな波紋を引き起こしたと思われます。

江戸時代の事件とはいえ、殺人事件で地域の名前をだされると、いやな方もおられると思いまので、ここでは、現在の志方町西志方のある村(A村)としておきます。

   庄助の殺人事件

9da24a4a文化七年1810八月十日の事でした。

A村の庄助は、長尾新村(現:高砂市)で、北宿村(現:高砂市)の十三郎と言い合いになり、十三郎を撲り殺してしまいました。

長尾新村とA村から共に役所へ届け出がありました。

一昨日、お役人が検視にこられました。

北宿村の者は三寸縄で庄助をくくり締め、昨日姫路のお役所へ引き渡しました。

庄助は、十三郎をひどい目にあわせていました。

睾丸をたたき、押しつぶしたとのことです。むごい仕打ちでした。

死骸は、お役所から北山村が引き取り仮に埋めるように仰せつけられました。

・・・・

「大庄屋日記」には、この事件について喧嘩の原因、事件の結末の詳細の記述はありません。

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志方村を歩く(157):大庄屋日記⑩、村の事件簿(5)・東飯坂村の騒擾

2011-11-23 12:55:32 |  ・加古川市西志方

Puaru_074以前「上荘町・平荘町探訪:里村の騒擾」でも紹介したように、江戸時代も後半になると、多くの村々がそうであったように、農民と庄屋の対立がおきました。

里村の場合は、次のようでした。

 (農民)・・・「村方諸入用はなるだけ簡略にしてもらいたい」と庄屋に願ったが、全く聞いてくれない。

(庄屋)・・・村方の諸入用については年々増額しているが、随分倹約している。村では、7・8人が徒党を組んで、「庄屋が使い込んでいる、生活の困窮しているものに返せ」と偽りを触れ、村方をそそのかしている。

東飯坂村の一件も、そのような諍いが高じたものであったのでしょう。

藩にとって支配の緩みは大問題でした。厳しいお調べと処罰があったようです。

   東飯坂村の騒擾

文化七年(1810)七月二十五日の事でした。

東飯坂村庄屋・三郎衛門の母が亡くなりました。(*東飯坂村は神吉組の村)

村の者は申し合わせて葬式にはひとりも参列しませんでした。

それに、村の内では水も汲ませませんでした。

村の者と庄屋との間に諍いがあったためです。

そのため、庄屋は畑村・東中村へ手伝いを頼みました。

両村から人足が大勢集まり、葬礼のための水は東中村に、飯炊きは畑村に依頼しました。

炊き出した飯を桶に入れて運んでいたところ、東飯坂の者が途中に待ち伏せをして邪魔をしました。

飯の上に下糞(しもごえ)をかけたりしました。

それでも葬式はなんとか終わりました。

   厳しいお調べ 

翌日、東中村・畑村より役所に捜査願いが提出されました。

東飯坂の者が神吉に呼ばれ、神吉での取り調べ書が代官所へ送られました。

代官所でも取り調べがあり、とりあえず若者四人が手鎖(てぐさり)、五人が村預け、閉門が四軒となりました。

八月九日、十日は三十人ばかりの呼び出しがありました。

この東飯坂村の一件で、十一日役所へ呼ばれた若者・丈兵衛・十兵衛がつり上げ責められ、ことごとく白状しました。

また、孫平・鹿之助も白状しました。

尋平・□之助(□、虫食いにて不明)・角兵衛・佐兵衛・勘兵衛もお調べがありました。

今日、また次兵衛・惣右衛門・太兵衛・喜右衛門・六兵衛・与兵衛六人が呼び出されています。

ほんとうに厳しい調べです。

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志方町を歩く(156):大庄屋日記⑨、村の事件簿④・すての家出

2011-11-22 21:40:03 |  ・加古川市西志方

   すて(19)の家出の一件

  6413ffa8大庄屋・内海太左衛門は、原村の吉左衛門の嫁が無届で大坂へ家出した件について、役所へ届けた「差上申御届之事」を日記に書き写し、記録に残しています。

内容だけを記しておきます。

<差上申御届之事>より

文化四年(1807十一月八日、原村の半四郎より倅・吉右衛門の女房の件について届け出がありました。

吉右衛門の嫁・すて(十九)は、去る六月に無届で家出をしてこの度帰ってきました。

「すて」は、大坂天王寺堀越町林兵衛という者のところで無届で奉公しておりましたところ、今月一日につかまり召し取りになりました。

詳しいことを尋ねましたが、詳細についてはいまのところ分かりません。

元来、家出の時に、私どものところへ一向に届けがなく、これらの事実を無届のままにしておりました。

まことに、申し訳ありません。

が、この度は申し出がありました。

誠に恐れ多いことですがお届け申し上げます。

西牧組原村組頭   小兵衛

                        庄 屋   吉左衛門

                        大庄屋   内海太左衛門

 

      小幡五郎衛門様

          御 役 所

・・・・

この事件も、家出の原因・その後の結果等の記録はありません。

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志方町を歩く(155):大庄屋日記⑧、村の事件簿(3)・太兵衛強盗す

2011-11-21 11:50:32 |  ・加古川市西志方

   太兵衛、強盗に

8a3e27aa文化六年(1809)の出来事です。

横大路村(現志方町西志方)に利助の倅で、現在太兵衛という者がいました。

太兵衛は二十二年以前に、比室村の新右衛門の養子になっていました。

このたび、詳しい事情を尋ねますとだんだん本当の事がわかってきました。

太兵衛は、各所で盗賊をしておりました。

そして、この度とらわれましたのです。

六月に氷室村新右衛門も召しられ、氷室村庄屋が両名を連れてお役所へまかり出ました。

・・・・

『大庄屋日記』には、盗賊行為の取り調べ内容や、太兵衛・新右衛門に対するお咎めの内容の記載はありません。

余り波風のたたないのが江戸時代の農村のですが生活ですが、ときどきこのような事件がきています。

引き続き『大庄屋日記』から「村の事件簿」として村での出来事を紹介しますが、日記には、おきた事実だけを書いていて、詳細や意見はほとんど書かれていません。

事件の原因や詳細、そして江戸時代の志方村の農村について想像してみてください。

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志方町を歩く(154):大庄屋日記⑦、村の事件簿(2)・上納米に水を含ませる

2011-11-19 08:52:22 |  ・加古川市西志方

喜八郎もきっと正々堂々と年貢を納めたかったのでしょう。

が、きっとよい米もなくそして、量もたりなかったのでしょう。

悪いとしりつつも、罪をしでかしてっしまったのかもしれません。

    上納米に水を含ませる

F4221fed文化四年(1807十一月十九日、比室村(ひむろむら)の喜兵衛にお役所へ出頭するようにとの命令がありました。

このことを助永村(すけながむら)の□十郎(□は文字不明)に頼み伝言を遣えました。

年貢米上納の検査の時でした。

理由はともかく喜八郎は、こともあろうに米俵を重くするため水を含ませたのです。

そして、米も良質のものではなく悪い米を納めようとしました。

勿論、こんなことをして検査は通るはずがありません。

当然ばれてしまいました。

そして、喜八郎は手鎖(てぐさり・手錠の刑)となったのです。

その喜八郎の手鎖は、十二月四日お許しとなりましたので、お役所へお詫びを申しに出かけました。

・・・・

<注>

文中で氷室村・助永村が登場しますが、現在の西志方には存在しません。

明治9年(1876、助村と永村は合併し、お互いの一字をとって永室を新しい村名としました。

絵:年貢の納入

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志方町を歩く(153):大庄屋日記⑥・村の事件簿(1)、センの指が飛ぶ

2011-11-18 17:49:38 |  ・加古川市西志方

江戸時代農村は大きな変化もない毎日が過ぎていくように思われますが、旱魃・長雨・年貢の取り立てなどで村中が大騒動になることもしばしばありました。

それに、ときどき教科書・歴史書では紹介されない思いもよらぬ事件も発生しています。

ここでは、そんな村の事件を「村の事件簿」として紹介しましょう。

今日はその①、「センの一件」です。

    指が飛ぶ

37c1f0c0文化六年1809三月十九日のことでした。

成井村(なるい村・西志方)の喜兵衛にはセンという娘がいました。

同村の秀八はセンを撲りつけたのです。

申し出があり、さっそく検分に出かけましたところ、こともあろうにセンの左の手の指三本が剃刀で切られ飛ばされていました。

そこで、さっそく比室(ひむろ)・原村の庄屋へとりまとめを申しつけました。

    秀八・嘉一郎は謹慎

四月四日、この件に関して代官様からお呼び出しがあり、秀八とこの事件にかかわり合いのある同村の嘉一郎が庄屋・組頭に連れられて代官所へ出頭しました。

代官所では「氷室と原村の庄屋が解決をしましたので、そのようにさせてください。

取り纏めを覆しては、今までの取りまとめが無駄になります。

それに、代官所から更におとがめがあれば二重・三重となります。

なにとぞ、私どものとり纏め(まとめ)のようにさせてください」と申し上げました。

代官様は、大庄屋に厳しく申しつけるように仰せつけられました。

六月二日に秀八と利右衛門の弟・嘉一郎両人を押込(謹慎)としました。

・・・・

この事件については、秀八がなぜセンを撲りつけたのか、そして指を飛ばしたのかの原因はわかりません。

そして、氷室・原の庄屋は、この一件をどのように決着させたのかもはっきりしません。

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志方町を歩く(152):大庄屋日記⑤・植え付けができない

2011-11-17 12:31:26 |  ・加古川市西志方

    

   植え付けができません

E7e68774今年(文化八年・1811は、春より雨が多く、原村の大池の水かさがふえ、堤防を超えるまでになりました。

大池の上にある山中新村池尻の九反余りが水につかり植え付けができず難儀しております。

大庄屋の仲立ちで「水を原村へ流してください」と原村庄屋へ申し出ましたが話し合いはまとまりませんでした。

そのため、ご代官様へも申し上げました。

返事がありません。

五月一日より五日までの大霖雨(長雨)のため、ますます植えつけもできずになりました。

五月一日・二日・三日と続いて雨。

四日は少し晴れましたが五日はまた大雨。

その後、七日・八日・九日と大雨が続きました。

十日になってやっと晴になり、十一日も晴れになりました。

    

   原村への申し入れ

『大庄屋日記』には、「中山新村の田畑が水につかり困っていますので、水を原村の方へ流してください」と大庄屋を通じて申し入れています。

その後の結果はわかりませんが、この時点で話し合いはまとまっていません。

原村の方でも、おそらく田畑が水をかぶり、これ以上の水があれば植え付けができず収穫は見込まれない状態だったのでしょう。

それにしても、少しの天候不順で農民の生活は脅かされました。

・・・・・・

『大庄屋日記』には、このほかに天気についての記述がしばしば登場します。

が、次回からは「村方事件簿」と題して村での出来事を取り上げることにします。

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志方町を歩く(151):大庄屋日記④・社倉

2011-11-16 11:39:32 |  ・加古川市西志方

   社倉麦

(文化五年六月)ちかごろ雨ほとんど降っていません。

三十日ほど日照りが続きましたが、二十八日は曇りで少し雨がありました。

一転、二十九日は暴風雨で、大家でも瓦は落ち、あるいは倒れ、そして傾きた家も少なくありませんでした。

木綿作にも影響が出ました。

安永元年(1772)八月以来のことで、近頃ではまれな大風でした。

七月二日、大風で瓦が飛んで困っていた時に西中村(志方村)の伊右衛門が手伝いに来てくれました。

・・・・・

六月二十九日の大風は播州、西は備前、東は兵庫でも大きな被害をだしました。

七月八日、社倉に蓄えられていた麦が困っている村々に配られることになりましたので大庄屋・惣代が押印し受け取りました。

    固寧倉(こねいそう)

Koneisou_2 「大庄屋日記」には以上のような記述があります。

「社倉麦」に注目ください。

よく似た制度に、よく知られた固寧倉(こねいそう)があります。

固寧倉について少し説明しておきます。

江戸時代、人々はしばしば凶作や災害に苦しみました。

姫路藩の固寧倉は、非常時に備え米・麦・籾などを倉に貯蔵しておく倉のことです。

姫路藩では、河合寸翁(かわいすんのう)により文化六年(1809)ごろから行われました。

固寧倉に貯えられたられた穀物は、平時には一部を領民に安く貸し付け、領民が安心して農耕に従事できるように考えられたのです。

この固寧倉の制度は、一時衰退傾向にあった社倉を寸翁が復活させたものです。

*写真:西神吉長慶に残る「固寧倉」の額

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志方町を歩く(150):大庄屋日記③・小虫数知れず!

2011-11-15 11:27:30 |  ・加古川市西志方

「(シリーズ)志方町を歩く」に戻ります。

「大庄屋日記」は、百姓にとって最も関心の気象についてもしばしば取り上げています。

 それらの記事を少し紹介します。

   小虫出現、数知れず!

4178c472文化四年(1807)六月十八日、九日ごろより瓦の下や庇(ひさし)等に小虫がおびただしく出現ました。

だんだん増え、屋根へ入り込み、やがて蚊帳などに侵入するまでになりました。

日照りの日は少ないのですが、雨天の日には殊に多く湧き出てきます。

これは姫路方面でも同じです。

これは霖雨(ながあめ)のためであろうと思われます。

特に、子どもや人の肌を刺すので大変困ります。

この毛虫の数は幾千と数えることはできません。

   霖雨(りんう)

(六月)二十四日、天気は回復し姫路より帰りましたが、二十五日・二十六日はまたまた雨が続きました。

今年は、二月~五月にかけては一向に雨が降らず、やっと五月末から雨が降り始めたと思えば、六月からほとんど晴れた日はありません。

終始雨で、夏に入り雨続きで田畑の手入れはできていません。

近江・河内・山城・大和・摂津では洪水で困っているようです。

それに加えて、関東あたりでは蝦夷(北海道)にオロシャ(ロシア)が出現した噂でもちきりです。

   原因はオロシャの出現か・・・

昔は、病気の流行しばしば外国から持ちこまれ広がると信じられていたようですが、このたびの天候不順もオロシャの出現にその原因を求めていた節があります。

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コーヒーブレイク②・国岡の歴史学習会

2011-11-14 13:56:41 |  ・まち歩き

  

  国岡開村350年歴史学習会

046『くにおかの歴史』が、国岡全1400帯に配布されました。

そして、昨日(13日)国岡の歴史の学習会が開催されました。

会場の稲美町役場4階のコミュニティーセンターは、印南野台地が見渡せる素晴らしい会場でした。

会場いっぱい(約300人)に国岡の方々が参加してくださいました。

町長さん・県会議員のあいさつの後、素晴らしいマリンバの演奏が続きました。

地元の方を含むフラップ(女性3人)の方々の演奏です。

曲目は、エンターテイナー・きらきら星変奏曲・海の見える街・道化師のギャロップ・にじ。楽しい・素晴らしい演奏でした。

ここでこの会も終わればよいのですが、その後が私の担当する『歴史講座』です。

素晴らしい余韻をぶち壊しそうでしたが、国岡の歴史を話させていただきました。

まさに居直りです。

音楽会があり、それに続く歴史講座は初めての経験でした。

少し怖いのですが、出席された方の感想を後日こっそりお聞かせください。

    

   ありがとうございました

007「国岡開村350周年記念」の一環とはいえ、江戸時代の旧村落(大字)を単位とする集落の歴史が全戸に配布され、同時にこのような学習会が開かれた前例を聞きません。

この企画を実現していただきました、実行委員会の方のご努力は大変だったと思います。

そして、稲美町だけでなく加古川市も含めて、他のところでも「旧村落(大字)を単位とする村の歴史の掘り起こし運動が起これば素晴らしいな・・・」と考えています。

そこには、信長も家康も聖徳太子も登場しないのが普通です。

でも、日本の歴史の流れと絡み合った祖先たちの血と汗の物語が必ずあります。

ほんとうの歴史があります

祖先の力強い足跡を探しに出かけませんか。

『くにおかの歴史』の編集の場を与えていただきました国岡の方々にお礼申し上げます。

ほんとうに、ありがとうございました。

*写真下、音合わせ中のfrap(フラップ)

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