ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(91):新野辺を歩く(二部)7 作間稼ぎ・出稼ぎ 

2014-03-31 07:32:45 |  ・加古川市別府町新野辺

 大歳家文書・新野辺町内会文書を紹介していきますが、整理されての紹介ではありません。時代・内容とも順不同です。後日、整理します。
 最初に、『加古川市史(第二巻)』の「新野辺村の商工業」(p499)からの紹介ですが、記事は『新野辺の歴史(第一巻)』再掲載です。
 「新野辺村明細帳・寛延三年(1750)」より
   作間稼ぎ・出稼ぎ(大坂酒屋の米踏かせぎへ)
4bba30c5
  人数 1075人 
  内男  544人
   女  531人
   大工  24人 農具鍛治  3人
   樽屋   1人 医者    1人
 作間商人 22人
 と、あり51人の職業が記録されています。
 22人の作間商人は、味噌・タバコを売り、木綿小売りが6人、そのほか籠振りの零細な行商人がいたことが分かります。
  次に、明細帳から右のか所を読んでおきます。
  (解読)
 男かせぎ耕作之間ニハ干鰯筵打申候、又冬春作間ニ大坂酒屋米踏挊ニ九拾人斗(ばかり)も参り申候(もうしそうろう)、尤五人組迄断参申候 *挊(かせぎ)
 (意味)
 新野辺の百姓は農作業の合間に、干鰯(ほしか・農業のための肥料)の藁袋つくりに精を出しています。<o:p></o:p>

 そして、冬から春にかけての農閑期に大坂の酒屋に米踏作業に出かけます。
出稼ぎにあたっては五人組迄届けています。
女かせぎについては、「解読」だけを紹介しておきます。
 (解読)

 女稼耕作之間ニハ妻子共干鰯筵縄又ハ浜之宮松林落葉山守とかきわけ浜辺草芝薪かせぎ木綿かせぎ致申候者も御座候
 ここで注目したいのは、男かせぎで「90人ばかりが大坂の酒屋へ米踏稼ぎに出かけている」ことです。米踏と言うのですから、酒の仕込みの準備工程である精米作業(単純労働)のことと思われます。

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さんぽ(90):新野辺を歩く(二部)・6 新野辺町内会文書② 

2014-03-29 08:50:28 |  ・加古川市別府町新野辺

  古文書は、昔からのメッセージ
 (前号より続く)
 以上が、大歳家文書と新野辺町内会文書の概略です。
 大歳家文書からは主に江戸時代(とくに後半)の、町内会文書からは主に明治以降の新野辺の様子が明らかになるということは理解いただけたかと思います。
 この2つの文書群を読み通せば江戸時代から現代までの新野辺の歴史を描き出すことができるのです。
   
山本商店文書・蛭子講文書・黒田家文書も・・・
B030199d
 ただし、新野辺に残る古文書はこれだけではありません。
 他にも、例えば私が整理させていただいたものとしては、山本商店文書(165)、蛭子講文書(41)、黒田家文書などがあります。
 山本商店文書は、明治~昭和の家の史料、蛭子講文書は安政~大正の蛭子講の史料、黒田家文書は住吉神社や御頭関係の史料(ただし印刷物が多い)です。
 これらは大歳家文書や町内会文書とは性格を異にしますが、それ故に両者からは見えない世界を浮かび上がらせてくれるはずです。
 また、新野辺に関する古文書は新野辺の中だけにあるとは限りません。
 鶴林寺や浜宮天神杜に残された古文書から見えてくることも多いはずです。
 これらの古文書が末永く保存され、広く研究に活用されることを祈念しています。<o:p></o:p>

 (以下略)
 *「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(89):新野辺を歩く(二部)・5 新野辺町内会文書①

2014-03-28 08:57:46 |  ・加古川市別府町新野辺

  「大歳家」・「新野辺町内会文書」については、すべて『新野辺の郷(創刊号)』の寄稿されている羽田真也先生の論文をお借りしています。
 文中の「私」は、羽田真也先生です。
   
新野辺町内会文書①
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 新野辺第一町内会にも古文書が残されており、新野辺公民館で大事に保管されています。私は、いちおう「新野辺町内会文書」と呼んでいます。
 私が把握している限りで七百数十点に及びますが、現状は大きく2つに分かれています。<o:p></o:p>

 ひとつは昭和25(1950)くらいまでの約600点です。大半が明治の史料です。
 これらは、大歳家文書と同じく加古川市史編纂事業の中で整理され、「新野辺町内会所有文書」として目録も刊行されています。
 もうひとつは、昭和6(1931)~平成4(1992)の史料137点です。
 こちらは市史の調査対象とはならなかったため、数年前に私が簡単な整理をさせていただきました。
 この2つが、もともとから別々に保管されていたのか、それとも市が古い文書だけを抜き取ったために、もとは1つであったのが2つに分かれてしまったのかは不明ですが、ともに新野辺村(自治会、町内会)で作成された史料です。
 この中には、「地券帳」などの土地に関する史料、「地方税地価戸数割徴収簿」などの税に関する史料、「新野辺村戸籍下調帳」などの戸籍に関する史料、「新野辺村小宇図」などの地図類、「新野辺村協議費勘定帳」などの村運営に関する史料、「学校費用簿」などの学校に関する史料、「浜之宮予決算書綴」などの浜宮天神社に関する史料といったものが含まれております。
 明治以降の新野辺のようすを知りうる格好の素材です。<o:p></o:p>

 *以上、「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照(次号へつづく)
*写真の新野辺町内会文書の「寛延三年(1750)・
明細帳」の一部を見ておきます。
 
  (解読)
  一、当村田畑之儀海辺ニ而御座候ニ付汐風吹上ケ風損多ク
 
  場所ニ御座候田地之儀ハ第一水損場ニ而御座候

(文意)
 「当村(新野辺村)の田畑は、海辺に近く潮風が吹き上げ風の害も多い所で、そして、田の水が得にくい場所である」
 新野辺村は、①水がなく、②潮風が強く、そして③砂地の三重苦の村であったようです。

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さんぽ(88):新野辺を歩く(二部)・4 大歳家文書②、大歳家文書の秘めたる可能性

2014-03-27 08:38:24 |  ・加古川市別府町新野辺

  大歳家文書の秘めた可能性
Photo
(前号から続く)こうした大歳家文害の中で江戸時代の新野辺の様子をよく知ることができるのは、やはり、新野辺村庄屋関係の史料です。
 そこには、「検地帳」や「名寄帳」といった土地把握のための帳面、「宗門改帳」や「五人組改帳」といった人の把握のための帳面などをはじめとして、実に多様な文書が含まれています。
 姫路藩から下達された触(ふれ・命令書)を写しとった「御触状写帳」、逆に新野辺村から姫路藩へ上申した願書・諸届の控えである「諸願之控帳」などもあります。
 また、いろいろな争論に際して作成された文書もあります。
 これらからは、当時の村の様子をとても豊かに描き出すことができます。
 さらに、新野辺組大庄屋関係の史料からは、新野辺組に属した新野辺村以外の村むらのようすも知ることができます。
 このように、大歳家文書は大きな可能性を秘めた、新野辺や周辺地域の江戸時代の歴史を解明するうえで、欠かせない史料群なのです。
 大歳家文書は、加古川市史編纂事業の中で整理が行われ、目録も刊行されています。<o:p></o:p>

 しかし残念ながら、その事情は不明ですが、中途で終わってしまっており、多数の史料が未整理・未公開のままとなっています。
 それらの整理と目録の公開が今後の大きな課題です。
 *「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照
 (参考)
*名寄帳
(なよせちょう)‐ ある人物が持っている不動産の一覧表のことです。一筆一棟ごとの「固定資産課税台帳」を所有者ごとにまとめたものです。
*検地帳(けんちちょう)‐ 検地の結果を村単位で集計して取りまとめた帳簿のことで、封建領主が土地・人民を支配するための基本台帳としての役目を果たしました。
*宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)‐江戸時代の宗門人別改によって作成された民衆調査のための台帳です。本来の目的は、信仰宗教を調べることでしたが、現在で言う戸籍原簿や租税台帳の側面も持っていました。
*五人組御改帳‐五人組が遵守すべき法令と五人組員が連署・捺印した帳簿の通称です。
*写真:大正時代の大歳家

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さんぽ(87):新野辺を歩く(二部)・3 大歳家文書①

2014-03-25 23:31:00 |  ・加古川市別府町新野辺

  大歳家文書①
Photo
 大歳家には現在、数千点におよぶ古文書が残されています。
 その大半は江戸時代のもので、大歳家の蔵で大事に保管(写真)されています。
 これらは「大歳家文書」と呼ばれたり、加古川市の市史編纂事業では「大歳正雄家文書」と名付けられたりしています。
 ここでは大歳家文書と記すことにします。
 ちなみに、大歳家文書といった、複数の古文書からなるまとまりを研究の世界では「史料群」あるいは「文書群」と呼び習わしています。
 大歳家は、天明5(1785)に、それまで新野辺村庄屋を代々つとめてきた梅谷家か庄屋役を引き継ぎ、安政元年(1854)までつとめました。
 また、天保9(1838)には姫路藩から新野辺組の大庄屋に任命され、明治4(1871)の座藩置県までそれをつとめました。
 この大庄屋とは、各村の庄屋の上に立ち、複数の村むらからなる大庄屋組を統括する存在です。
 江戸時代後半の姫路藩領では26の組が設置されていました。
 新野辺組は新野辺、別府、口里、長田、池田、今福、養田、備後、積田、北在家、小松原、荒井の12村で構成されていました。
(*新野辺組の村々については前号の図をご覧ください)
 さらに、大歳家は江戸時代後半になって急激に土地を集め、19世紀半ばには18世紀以来の有力地主である梅谷家に匹敵する地主に成長しました。
 このように、江戸時代の大歳家は、新野辺村庄屋、新野辺組大庄屋、新野辺村の有力地主という3つの顔を持っていました。
   
三種類の古文書<o:p></o:p>

 大歳家文書の中身もこれに照応し、①新野辺村庄屋関係の史料(庄屋として作成した文書)、②新野辺組大庄屋関係の史料(大庄屋として作成した文書)、③大歳家の経営に関する史料(地主として作成した文書)3つに大きく分類できます。
 このうち①と②については、当然のことですが、基本的には庄屋や大庄屋をつとめ
 ていた期間のものが残されています。
 一方、③については、江戸時代のものはほとんどなく、大半が明治~昭和のものです。
 量の面で言うと、①がもっとも多く、③はあまり残されていません。(つづく)
 *「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照

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さんぽ(86):新野辺を歩く(二部)・2 大庄屋・大歳家

2014-03-25 08:13:16 |  ・加古川市別府町新野辺

 *新野辺を歩く(二部)を始めましたが、説明の都合上、一部と重なる記事が多くあることをご了承ください。
   
 新野辺組大庄屋・大歳家
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 江戸時代、各村には村を治めるのは庄屋でした。
 大庄屋(おおじょうや)とは、それらの庄屋をまとめる庄屋のことです。
 つまり、庄屋の中の庄屋であり、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。<o:p></o:p>

 そして、その組の名は普通大庄屋の居住する村名で呼ばれました。
 したがって、大歳家の支配下の村々は、「新野辺組」です。
 大歳家は、天保9~明治4年(183871)、北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井そして新野辺の村々の大庄屋をつとめました。
 各村の庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっており、各組中の庄屋への連絡、村々から領主への諸届けの取次ぎ・年貢などの賦課・徴収そして、事件(論争)の処理など多岐にわたっています。
 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格になり、そして天保9(1838)大歳藤七郎(吉左衛門の養子)へ新野辺組大庄屋が命じられました。
 大歳家の大庄屋への就任の背景には、経済的な裏づけと共に庄屋としての功績や地域への貢献という実績があったようですが詳細については、はっきりとしていません。
 なお、現在の別府町西脇は、新野辺組ではなく古宮組(現、播磨町)に属していました。
 なお、大歳家には地域を知る貴重な文書が多数保存されていることでも知られている。<o:p></o:p>

 次号で紹介しましょう。
 *図:羽田真也「大庄屋」(森下徹編『身分的周辺と近世社会7・武士の周辺に生きる』吉川弘文。2007年)より転載、図中の枠で囲んだ村は新野辺組の村々と新田<o:p></o:p>

 

<o:p> </o:p>

 

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さんぽ(85):新野辺を歩く(二部):新野辺の歴史(第二巻)発行にむけて

2014-03-24 08:18:33 |  ・加古川市別府町新野辺

  「新野辺の歴史(第二巻)」にむけて
006
 先週の土曜日(322日)平成26年度の「新野辺(加古川市別府町)まちづくり協議会」の総会が別府公民館で開催されました。
 25年度の事業報告として、710日・冊子『新野辺の歴史(第一巻)』の発行が報告されました。
 それに、26年度の計画に2月に『新野辺の歴史(第二巻)』が計画され、予算も承認されました。
 ということは、今からボチボチ「第二巻」の準備をしなければなりません。
 新野辺の歴史(第一巻)では、大庄屋大歳家(文書)のことあまり取りあげませんでした。
 第二巻では、大歳家の文書の語る新野辺村の歴史を中心にまとめてみたいと考えています。<o:p></o:p>

 さいわい、新野辺には歴史的に貴重な大歳家及び大歳家が保存する膨大な古文書が完全な形で保存されています。
 また、この外に村方文書も多数保存されています。たいへん珍しい地域です。
 幸いなことに、これらの文書をとおして新野辺(村)を研究されている関西学院大学の羽田真也先生の協力があります。
 さらによいことには、新野辺には、6年前から、さまざまな方々を招いて新野辺の歴史を中心に講座が開催されています。今月(3月)は、私が担当させていただきました。こんな例は、現在加古川市では他にありません。
 しかし、残念なことは、これら6年間の学習会の内容については、学習会に参加された方以外には広く知られていません。
 また、新野辺は著名な方を輩出した町です。
 そのため、第二巻では①古文書が語る大歳家・新野辺の歴史、②学習会の内容、③新野辺人国記を中心に書いてみたいと考えています。
 もちろん、その過程で余話が加わると思います。
 ブログで、『新野辺の歴史(第二巻)』の準備をはじめます。<o:p></o:p>

 それらの原稿に加筆・訂正し、第二巻を製作しますのでご協力よろしくお願いいたします。
 *写真:「新野辺の町づくり協議会」総会の後、2部で冊子「新野辺の歴史(第一巻)」をつくって、と題して報告している私。

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さんぽ(84):井ノ口天満神社の伝承・腕がつながらない

2014-03-23 08:30:21 |  ・加古川市東神吉町

    腕が繋がらない!・・・・
 
 010
 井ノ口に天満神社があります。この廟は、菅原道真(以下、官公)夫婦の霊像をおまつりしています。

 時代は、三木合戦で、井ノ口あたりが戦場になった天正のころのことです。
 井ノ口に伊藤小八郎と言う三木別所に味方する武士の構居がありました。
 やがて、三木に味方した小八郎は破れ、構居跡はさびれ、農民の屋敷となりました。
 小八郎は、官公を神として尊崇していました。滅亡後、祀っていた官公像も年月を経て、やがて籔の中に埋もれてしまいました。
 ある時、百姓が草刈りをしていた時でした。鎌が神像に当たり、左の腕を切り落してしまったのです。
 百姓は、かなしく思い、像を抱いて近くの匠に継いでもらおうとしたのでしたが、どうしても継ながりません。
 仕方なく、そのままにしていました。
 その家は、次第に貧窮し断絶してしまいました。
 百姓たちは、神像の祟りを恐れました。「どうしたものか」と話し合い、一間四方の小社を建て、その前に松の木を植え、悔い嘆き、そして神にわびました。そして、再び匠に頼み、腕を継ごうと試みました。
 が、それでも、とうしても腕と肩は繋がりません。
 世は末世(末法の時代)であるが
 村人は、「神様は、どう考えておられるのだろうか」と、いろいろ思いめぐらしていました。
 そうしている時、ある村人の夢に、衣冠束帯の貴人が現れました。
 「私は、お前たちが嘆いている者(神)である。私の腕を切り落したことは、不注意ではあったが悩むことはない。腕を継ごうと思う気持ちは、神妙であるが継げないことを嘆くではない。
 いまの世は、末世(末法)の世で、邪(よこしま)なことをせず、正直に生きようと思っても、かなわない時代である。そのようなことはできない」と告げ姿を消してしまわれました。
 村人は、同じような夢を見るのでした。
 村人は、少し安心しましたが、その後も神様に供物や、神燈を怠らずお祈りしました。
 そうしていると、やがて病気や災いはなくなった、ということです。
*写真:井ノ口の天満神社

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さんぽ(84):源通寺(西井ノ口)の伝承・身代わりの仏様

2014-03-22 08:20:50 |  ・加古川市東神吉町

  伝承によれば、西井ノ口の源通寺(げんつううじ)の仏様(ご本尊)は、聖徳太子がつくられたと伝えています。
    身代わりの仏様
 002
 この仏様には、次のような伝承があります。
 ・・・・
 源通寺の本尊は、もともと紀州和歌山の浦の武士であった、藤城六良衛門の持仏でした。
 六良衛門は、この仏様を背負い、法華山(西国三十三番礼所・26番所)へ詣で、そのまま志方の畑村に住まいを定めました。
 それから19代を経て、藤城武兵衛の時に、この地方は、三木合戦の戦場となりました。<o:p></o:p>

 武兵衛は、この像を背負い備前(岡山県)の松浦へ逃れましたが、ここも戦場となり再び志方に帰っていましたが、その時、敵兵が追撃し武兵衛に斬りかかりました。
 不思議なことが起こりました。
 武兵衛は、確かに斬られたのでしたが、何事もなかったかのようです。
 敵の刀は仏様の肩を切り、仏様の肩からは血が、泉のように噴き出していました。
 以後、この仏様は身代わり本尊として人々の厚い信仰を集めました。
 武兵衛は、その後、再び志方の畑村に帰りました。
 文禄四年(1595)のことです。源通寺の僧・寂導(じゃくどう)が不思議な夢を見ました。
 ・・・黒衣をまとった僧が夢に現れ、「私は、今志方の畑にいる阿弥陀である」。寂導は驚き、早朝さっそく畑村へ急ぎました。
 途中で仏像を背負った老人に出会いました。
 その老人は「源通寺はどこでしょうか。私は、畑に住む武兵衛と申します。私の家には数代にわたり、聖徳太子の御作であるという仏様がございます。御縁が尽きたのでしょうか、近頃は不思議な夢ばかりを見るようになりました・・・・」と言うのです。
 寂導は、いいました。「私も昨夜不思議な夢を見て志方町の畑村へ急ぐところです・・・」
 そして、老人の持つ仏様を見ると、寂導が夢に見た仏様と寸分違わない仏様でした。
 お互いに、この不思議さを語り合い、この仏様を源通寺の仏様とし手お祀りすることになりました。 <o:p></o:p>

 源通寺は炎上するが・・・
 その後、明歴二年(1659)、長楽寺の本尊と取り替えることがありました。
 この日から毎夜、源通寺の僧の夢に「・・・急ぎ私を迎えに来るべし・・・」。また、長楽寺の僧の夢には、「・・・急ぎ我を源通寺に送るべし・・・」という夢でした。
 そのため、この仏様は再び源通寺へ帰って来ました。
 その後、何事もなく過ぎました。
 延宝六年(1678)正月十五日の夜、源通寺は猛火に包まれ、寺宝は一瞬にして、ことごとく焼失してしましました。
 ただ、この仏様は、三町も離れた松の上に飛び、光を放ち昼のよう輝いたといいます。
 その後、この仏様は、われわれに大慈悲を以て、すべての人々をお守りして下さってくださいました。
 *『印南郡誌』参照、写真は西井の口の源通寺(源通寺の阿弥陀像の写真が入手できた時に、差し替えます)

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(83):西井口は戦場になった(2)・織田軍、六本松に陣

2014-03-21 09:02:03 |  ・加古川市東神吉町

  織田軍・六本松村に陣
 天正6年(1578)6月29日。今の暦では812日、真夏の太陽がぎらぎら照りつけていました。
 神吉の庄の村々には、織田信忠(信長の長男)三万の大軍が満ちみち、神吉城を何重にもとりかこんでいました。
 神吉城は、周囲に堀をめぐらせ、がんじょうな石垣、土塀を築いて、なかなか堅固な城でした。
 この城にたてこもっている軍勢はわずか二千人で、攻めよせる軍勢の十分の一にもたりなかったのです。
 総攻撃にさきだって、織田方は軍勢を二つに分けました。
 神吉城を攻める軍と、もう一つは志方を監視する軍です。
 志方をにらむ軍は、信忠の弟、信雄などが指揮して、志方と神吉の中間、冨木あたりに陣をしきました
  織田方の奇策
 
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攻撃が始まりました。

 
 信忠軍は、何回となく兵をいれかえ攻めつけましたが、城の守りはかたく、いったん兵を引き上げることにしました。
 
 そして、信忠軍は神吉城の南にある六本木村の小高い丘に陣を構えました。
 
 六本木村(現在は西井の口)は、西井ノ口のお寺・源通寺周辺の集落でした。
 
 現在は、その北を加古川バイパスが走り、さらに家も増え、そこから神吉城(神吉城は、現在の神吉町の常楽寺の場所にありました)は見えませんが、当時は田んぼばかりで、神吉城の動きは手に取るように分かりました。
 
 ある策を考えつきました。
 
 西井ノ口の六本木に陣を構えた織田軍は、さっそく、足軽たちを呼び集めて、「ここから南、米田川の堤に大きな竹やぶがある。そこの竹を全部切ってこい。いいか。竹たばを作るのだ。すぐかかれ!」と、命じました。
 
 信忠らが作らせた竹のたばは、竹を何重にもかさね、矢や鉄砲の弾よけにする楯でした。
 
このあたりでは見なれないもので、攻めるのにも守るのにも効果のある自慢の秘密兵器です。
 
 こうして兵器をととのえておいて、こんどは武将に命じて、攻撃の兵を升田村、大国村のふたつ方面に動かしました。
 
 敵の目をごまかしながら、城の正面、左右の三方向からじりじりと攻めよせる作戦でした。
 
*『郷土の城ものがたり(東播編)』参照、
 
 なお、この記述には神吉城を攻めたのは「秀吉」となっていますが、秀吉は神吉城攻撃には参戦していません。秀吉はこの時、北の抑えのために竹田城にいました。そのため少し書き直しています。
 
絵:織田軍がつくった竹の盾(『KAKOGAWA・伊賀なほゑ著』より)

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(82):西井ノ口は戦場になった(1)

2014-03-20 08:47:13 |  ・加古川市東神吉町

  西井ノ口は戦場になった(1)
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 秀吉が加古川へ来ました。
 時は、信長・秀吉の頃です。
 当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大坂では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗していました。
 その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏でした。
 やがて、播磨を舞台に信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されます。
 当時、野口・加古川・志方・高砂、そして神吉城の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。
 天正5(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。
 内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。
 城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。
 やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺が加古川城跡)で開かれました。
 信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加しました。
世に名高い「加古川評定」です。
 この評定は分裂し、三木方(別所方)は毛利に味方し、信長方と戦うことになりました。<o:p></o:p>

 当然、神吉城も毛利方として信長側と敵対します。
 
 信長軍30.000の兵が神吉城に押し寄せてきました。
 
 天正5年、信長軍は神吉城を取り巻きました。
 
 西井ノ口のあたりには、信長軍があふれかえりました。
 
 神吉城、あやうし!・・・西井ノ口大変!
 
*写真:加古川評定が行われた加古川城跡にある称名寺

<o:p></o:p>

 

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余話:『A History of Kakogawa City』改訂版

2014-03-18 08:05:27 |  ・コーヒーブレイク・余話

 A History of Kakogawa City(英語で読む加古川市の歴史)』発行
 140305
 ここ
3日ばかり「ひろかずのブログ」は休みにしました。
 
 退職して毎日が日曜日ですが、『A History of Kakogawa City』(二訂版)の制作を急ぎました。
 
 10年前に退職して、地域の歴史を英語で書いてみたく、ある大学で英語を専攻しました。
 
 やがて、一年が過ぎ、そろそろ修士論文を書かなければならない時期になりました。
 
 指導教官に『英語で読む、加古川の歴史』をつくりたいことをお願いしました。
 
 指導教官は困っておられました。「英語は指導するが、肝心の加古川市の歴史は知らないよ」と言われました。当然です。無理をとおさせていただきました。
 
 そして、6年前、その修士論文の一部をもとに『A History of Kakogawa City』をつくり、関係者に配布しましたが、間違いだらけの本でした。
 
 その旧版も現在、私の手元に3部が残っているだけです。そこで、この度、少し書き直して、新たに500部を発行することにしました。
 
 ハプニングがありました。「キラリかこがわ」さんが、楽しい表紙(写真)を制作してくださいました。
 
 この原稿の整理のため、ここ3日ばかり、「ひろかずのブログ」をお休みにしました。
 
 昨日、印刷所に原稿を送りました。今月の終りには完成する予定です。
 
 引き続き「ひろかずのブログ」を続けますのでよろしくお願いします。
 
 あす、もう一日別の用事でお休みにします。
 
 「ひろかずのブログ」の再開は20日(木)からです。ご了承ください。
 
*写真:『A History of Kakogawa City』の表紙<o:p></o:p>

 

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さんぽ(81):西井ノ口の複雑な道は何を語る

2014-03-14 07:24:16 |  ・加古川市東神吉町

  西井ノ口の複雑な道をどう考える
3b08e37
 西井ノ口の集落を走る道は確かに迷路のようで、現在のように整備される以前はさらに複雑な道でした。
 このことに関して、次のような話が伝えられています。
 『なぜ申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』には、次のようにまとめています。
 ・・・・
 「環濠集落と覚しき西井ノロを見ていると、黒沢明監督の「七人の侍」を思い出します。
騎馬で襲ってくる盗賊と戦う井ノロ構居の地侍。村の道幅は、荷車が通る三尺(半間)前後で、騎馬は方向転換(Uターン)できなかった」と。
 「村の構造は中世のなごりで、村を敵(盗賊)などから守るために複雑なつくりに造られた」と言うのです。
 今日は、この説を少し考えてみます。全くの想像です。あなたはどう考えられますか。
   
西井ノ口は、水路に沿って発達した集落
 西井ノ口は、水も枯れることなく稲などは豊かに育った裕福な村であったと想像されます。それを狙って盗賊たちが村を襲ったというのです。
 もし、そうであるなら被害は西井ノ口だけでなく、この近辺の集落も及んだと考えられます。
 理由は、別にあったと考えられます。
 水路の事です。西井ノ口は水の集まる水郷です。
 水は加古川の水を利用しています。加古川から西井ノ口に水を運んだこれらの水路は、奈良時代以前から存在していたようです。
 しかし、加古川は暴れ川であり、しばしば氾濫を繰り返し、流れを変えました。
 水路が完成したのは鎌倉時代以降です。それまでに、整然とした水路を引いたとも考えられません。
 鎌倉時代以前には大規模な用水作る土木技術はまだないからです。
 鎌倉時代以前は、これら自然につくられた旧流路跡を用水路として利用したのです。
 西井ノ口の集落も、集落ができて後に水路をつくり、道をつくったのではなく、旧水路が複雑に発達した場所に集落が発達したのです。
 その後も集落はだんだん大きくなりました。それにつれ、道路も網の目のように張り巡らされたのでしょう。
 村中の道は、複雑に発達し、後の西井ノ口村の構造をつくったと想像します。
いかがでしょうか。
*地図:西井ノ口の東部(現在の道路はかなり整備されている。太い線は水路)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(80):西井ノ口墓地の六地蔵(2)・石幢(せきとう)

2014-03-13 08:23:26 |  ・加古川市東神吉町

 石幢(せきとう)
006
 六地蔵の考えは、鎌倉時代から広がり、普通六体の石仏の姿で墓地にあります。
 西井ノ口の墓地には、二種類の六地蔵があります。
 一つは、前号の写真でみたように、新しく造られたピカピカの六地蔵です。
 他の六地蔵は、新しい六地蔵の手前にあり、六角形の石柱のそれぞれの面に刻まれた六地蔵です。
 あまり注目されず、ひっそりと安置されています。
 このような形式で、六地蔵を刻んだ石柱は、石幢(せきとう)と呼ばれています。
 どうやら、西井の口の石幢は、ずいぶん古くなったために、世代交替をし、石幢は主役の座から引き下がったようです。
 しかし、石幢(せきとう)は、珍しい形式の六地蔵です。
 石幢が普及するのは室町時代に入ってからです。
 市内では、他に良く知られている石幢の例としては池田(尾上町)の観音寺の境内や、今福(尾上町)の泉福寺の墓地の石幢が良く知られています。
 観音寺の石幢は、製作年を示す銘文はないのですが、室町時代の初期のものといわれています。
 今福の泉福寺の石幢は江戸時代初期のものです。
 いずれも硬い花崗岩に六地蔵が彫られています。
 これにたいして、西井ノ口の石幢は、やわらかい凝灰岩(竜山石)で観音寺・今福の墓地の石幢よりも古いようで南北朝時代のものと思われます。
 西井ノ口の貴重な文化財です。大切にしましょう。
 *写真:西井ノ口の石幢

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(79):西井ノ口墓地の六地蔵(1)

2014-03-12 06:55:41 |  ・加古川市東神吉町

 かさこじぞう
007
 (おじいさんは、年こしの晩に「かさ」を売りに行きました)
 いつの間にか、日も暮れかけました。じいさまは、とんぼり、とんぼり、町を出て、村の野原まできました。
 風が出てきて、ひどい吹雪になりました。ふと見ると道ばたに地蔵様が六人立っていました。
 ・・・・・・
 「おお、気のどくにな。さぞ、冷たかろうのう」
 おじいさまは、地蔵様のおつむの雪をかき落としました。
 じいさまは、ぬれて、冷たい地蔵様の、かたやら背中をなでました。
 「そうじゃ、このカサコを、かぶってくだされ・・・・」
 ・・・・・・
 そうです。小学生が国語の時間に学習する「かさこじぞう」の一節です。
   
六地蔵・死者の仏たち
 この「かさこじぞう」は、たいていの墓地の人口に立っている「六地蔵」がそのモデルです。
 西井ノ口の墓地には新しい六地蔵と古い六地蔵があります。
 きょうは、六地蔵の説明です。次号で古い方の六地蔵の説明をしましょう。
 ・・・・・・
 仏教では死者は生前の行いにより、死後次の六つの世界(六道)にふり分けられるといいます。
 それは、地獄(じこく)‐畜生(ちくしょう)‐餓鬼(がき)‐阿修羅(あしゅら)‐人間(にんげん)‐天国(てんごく)の六道です。
 あなたは、どの世界に生まれ変われそうですか。
 「きっと天国ですね」
 六地蔵は、それらの六道のどれかを担当されています。
 仮に地獄に生まれた人でも、心配はいりません。地獄係の地蔵様にすがり、悔い改めれば救われるといわれています。
*写真:西井ノ口墓地の六地蔵<o:p></o:p>

 

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