高砂組から新野辺組へ
寛延二年(1749)、姫路藩に一揆が荒れ狂いました。
藩は、一揆後大改革を実施しました。今まで26あった大庄屋を13(文化9年に12)に削減しました。
この時まで新野辺村は、高砂組の三浦家の支配下の村でした。
しかし、三浦家に一揆が押し寄せ、打ち壊され、一揆後大庄屋を免じられています。
一揆、梅谷家(新野辺の庄屋)を襲う
この時、大庄屋でなかったのですが、新野辺村の庄屋の梅谷家は、現在の加古川市の海岸部では、ただ一軒、打ち壊しにあっています。
梅谷家は、近世初頭から18世紀の後半、大歳家と庄屋を交替するまで新野辺村の庄屋を務め、そうとうの豪農であったらしく、姫路藩全般一揆では農民の恨みの対象となり徹底的な打ち壊わされました。
梅谷家の打ちこわしのようすは、『姫路市(第三巻)』に「表門・長屋廻り屋根懸ヶ塀全壊、建屋天井・床・柱等打砕、建具打捨」と、まとめています。
徹底した打ち壊しだったようです。
一揆後、新野辺村は高砂組(三浦家)は免じられ、現在の播磨町古宮の今里家の兼帯となりました。
新野辺村は、古宮組の傘下の村となったのです。
姫路藩としては大庄屋の数は減らしものの、この地方に大庄屋の必要を感じていました。
が、打ちこわしを受けた大庄屋を再度認めることはできなかったようです。
地図をご覧ください。「高砂2.3と新野辺2.3」をご覧ください。
「高砂2.3」は、寛延2年2月3日に高砂大庄屋三浦家が打ちこわしになった日を示しています。
おなじく「新野辺2.3」は、新野辺の庄屋梅谷家が打ちこわしにあった日です。
このような情勢の中で、天保9年(1838)新野辺の大歳藤七郎が大庄屋に任命され、組名も新野辺組と改称され、廃藩置県(明治4年)まで大歳家は大庄屋を務めました。(no3369)
*『兵庫県史(第四巻)』、『姫路市史(第三巻)』、『加古川市史(第三巻)』参照