ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大庄屋・大歳家(30) 高砂組から新野辺組へ

2017-04-30 07:58:01 | 大庄屋・大歳家

      高砂組から新野辺組へ

 寛延二年(1749)、姫路藩に一揆が荒れ狂いました。

 藩は、一揆後大改革を実施しました。今まで26あった大庄屋を13(文化9年に12)に削減しました。

 この時まで新野辺村は、高砂組の三浦家の支配下の村でした。

 しかし、三浦家に一揆が押し寄せ、打ち壊され、一揆後大庄屋を免じられています。

    一揆、梅谷家(新野辺の庄屋)を襲う

 この時、大庄屋でなかったのですが、新野辺村の庄屋の梅谷家は、現在の加古川市の海岸部では、ただ一軒、打ち壊しにあっています。

 梅谷家は、近世初頭から18世紀の後半、大歳家と庄屋を交替するまで新野辺村の庄屋を務め、そうとうの豪農であったらしく、姫路藩全般一揆では農民の恨みの対象となり徹底的な打ち壊わされました。

 梅谷家の打ちこわしのようすは、『姫路市(第三巻)』に「表門・長屋廻り屋根懸ヶ塀全壊、建屋天井・床・柱等打砕、建具打捨」と、まとめています。

 徹底した打ち壊しだったようです。

 一揆後、新野辺村は高砂組(三浦家)は免じられ、現在の播磨町古宮の今里家の兼帯となりました。

 新野辺村は、古宮組の傘下の村となったのです。

 姫路藩としては大庄屋の数は減らしものの、この地方に大庄屋の必要を感じていました。

 が、打ちこわしを受けた大庄屋を再度認めることはできなかったようです。

 地図をご覧ください。「高砂2.3と新野辺2.3」をご覧ください。

 「高砂2.3」は、寛延2年2月3日に高砂大庄屋三浦家が打ちこわしになった日を示しています。

 おなじく「新野辺2.3」は、新野辺の庄屋梅谷家が打ちこわしにあった日です。

 このような情勢の中で、天保9年(1838)新野辺の大歳藤七郎が大庄屋に任命され、組名も新野辺組と改称され、廃藩置県(明治4年)まで大歳家は大庄屋を務めました。(no3369)

 *『兵庫県史(第四巻)』、『姫路市史(第三巻)』、『加古川市史(第三巻)』参照

 

 

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大庄屋・大歳家(29) 姫路藩・播磨全藩一揆

2017-04-29 08:47:38 | 大庄屋・大歳家

 

 大庄屋を話題にするとき、寛延二年(1749)の「播磨全藩一揆」を避けることはできません。

 今日は、大歳家の話題が登場しませんが、「姫路藩・播磨全藩一揆」を紹介しましょう。

   姫路藩・播磨全藩一揆
 新野辺村の属する姫路藩にとって、元文から寛延にかけての時期は、まさに怒涛のような時代でした。姫路藩最大の危機であった大一揆がおきています。
 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。
 白河藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなりました。
 姫路への引越し費用は、江戸の商人からの借金でなんとか賄いました。
 この時、江戸商人と「借金は姫路で支払う・・」という約束をしました。
 そのため、姫路に入るや、年貢の引き上げ等により増収をはかりました。
 その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄りました。
 幕府は、この接待を姫路藩に命じました。二万両が必要でした。
 借金まみれの姫路藩に商人は協力しようとしませんでした。
 さらに、悪いことがかさなりました。
 明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いていました。
 寛延元年(1748)も、大干ばつと台風で「稀有の凶作」となりました。
 姫路藩は、強攻策にでました。
 西条組の大庄屋・沼田平九郎はなにかと藩に迎合しました。
 寛延二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は、一揆衆に打ち壊されました。
 年貢の減免を願い出た百姓は投獄されてしまいました。
 百姓たちの不満が爆発したのです。
 野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。

     一揆の後、大弾圧
 藩から足軽部隊が出動しました。やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われました。
 寛延三年(1750)九月一揆の中心になった者の死刑が言い渡されました。
 姫路藩の財政負担は、百姓に覆いかぶさることになりました。(no3368)
 *図:播磨全藩一揆の進行経路(高砂市史・第二巻)

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大庄屋・大歳家(28) 大歳家が大庄屋に任命された理由とは

2017-04-28 08:30:55 | 大庄屋・大歳家

             大歳家が大庄屋に任命された理由とは

 「大庄屋・大歳家(1)」で、「・・・・新野辺村の大歳家は、天明八年(1788)~寛政二年(1795)頃に新野辺村の庄屋を務めました。

 その後、文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、天保9(1838)大歳藤八郎は、新野辺組の大庄屋を藩より命じられたのです。

 しかし、藤八郎が大庄屋に任命された理由は、はっきりとは分かっていません」と書きました。

     理由は経済力と藩・地域での貢献度

 確かに、大歳家が大庄屋に任命された確かな理由は文書等に記録されていません。

 でも、想像はできます。

 図のように、大歳家だけではないのですが、大歳家・岩崎家(北在家村)が中心になり岩崎新田・千代新田(ちよしんでん)を開拓しています。

 *(参考)

 〈岩崎新田・54石余〉

 天保7年(1836)に北在家の(岩崎)紀右衛門等とともに開拓に当たり、大歳家は、小作米として60%を取得。

 安政3年(1856)に大歳家、岸本家(高砂)、児島家(姫路)、荒木家(加古川天地大野)は新田を共有し、大歳家は小作米25%を取得。

 〈千代新田・144石余)

 大歳家、岸本家、荒木家での開拓でした。大歳家は小作米20%を取得しました。

 大歳家は、新野辺村を中心に所有権を広げています。この経済的な裏付けが大庄屋任命の背景であったと想像されます。

 

 また、大歳家は、経済力だけでなく、村人を集めて読書・算術、人の生き方などを説く学問所となりました。

 つまり、庄屋の職務だけでなく藩・地域への貢献が評価され大庄屋に任命された理由だと思われます。

 なお、金沢新田については『新野辺の歴史(第一巻)』をご覧ください。(no3567

 *「新野辺学習会(講師:羽田真也)レジュメ」参照

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大庄屋・大歳家(27) 新野辺は三重構造の村

2017-04-27 06:55:59 | 大庄屋・大歳家

 大歳家は、多くの貴重な古文書が保存されていることでも知られています。

 嘉永四年(1851)当時の古文書から村のようすを拾ってみます。

    新野辺は三重構造の村

 歴史学者の羽田真也氏は、幕末の新野辺村の特色を「大歳家文書」から次の3点(①~③)を指摘されています

 今日の報告は『ヒストリア(193号)』の羽田先生の「播州姫路藩における大庄屋と村」を参照させていただきました。

  新野辺村の土地は、ほぼ村内だけの所有

 この件については③にみます。

  突出した大歳家・梅谷家の土地所有

 当時、梅谷三右衛門家が143石弱、大歳慈父右衛門家が96石の所持高でした。

 所持高第3位の善兵衛家が21石で、新野辺村では梅谷・大歳家が突出しています。

 梅谷家は、近世初頭から18世紀後半まで大歳家と交替するまで庄屋を務めていました。

 大歳家は、元文二年(1737)当時33~4石であったこと、文政10年(1827)前後に所持高が52石余であることなどから、梅谷家とは対照的に18世紀末の庄屋就任以降土地を集積しています。

  多い無高層・小高持層 

 もうひとつの新野辺村の特色は、無高(土地を所有していない)が61軒、所持高1石未満が56軒、1石以上3石未満の29軒を占めており、これだけで軒数の57%を占めていることでした。

 このように、生産高から見ると新野辺村は、梅谷家と大歳家が突出した所持高を有し、その対極に無高層・小高持層が多数の村でしたが、村への村の必要経費の負担額から判断すると、土地の所持高からだけでは判断できません。

 新野辺村では商業活動に励んでいる百姓が多数存在していたことです。

 幕末期の新野辺村は、梅谷家と大歳家が突出した大百姓である一方では商業流通にかかわって成長を遂げる百姓も多数存在していました。

 大歳家・梅谷家を突出した大百姓と紹介しましたが、両家は自ら直接米の生産にたずさわったのではありません。

 新野辺村には、零細経営の百姓が分厚く存在し、かれらは、梅谷家・大歳家の土地を小作していました。   (no3566)

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大庄屋・大歳家(26) もと、新野辺村の庄屋は梅谷家

2017-04-26 10:25:21 | 大庄屋・大歳家

    延享二年(1745)新野辺村の庄屋は梅谷家

 新野辺村の大歳家は、天明5年(1785)年に新野辺村の庄屋に任命されています。

 それ以前、新野辺村の庄屋は梅谷家でした。

 梅谷家は大歳と庄屋を交替するまで庄屋を務めており、元文二年(1737)当時でも100石余を所持しており、近世初頭以来、新野辺村の有力な地主としてきた家であろうと思われます。

 大歳家は、文化二年(1805)の38石余りから嘉永4年(1851)の95石へと梅谷家に次ぐ地主に成長しています。

    大歳家は、新野辺村の「庄屋」に

          そして、新野辺組の「大庄屋」に

 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9年(1838)大歳藤家は、新野辺組の大庄屋に任命されています。

 ここで、よくわからないことがあります。

 それでは、梅谷家がどうして大歳家と庄屋を交替し、また、大庄屋に選ばれなかったのかということです。

 いろいろと想像はできるのですが、史料等で確かめることはできていません。

 ともかく、新野辺の住吉神社の鳥居がつくられた時、新野辺村の庄屋は梅谷家で、梅谷氏はこの鳥居を寄贈しています。(no3565)

 *写真:鳥居柱(南)に、鳥居の寄贈者(新野辺村庄屋・梅谷重傳)の名が刻まれています。

なお、同鳥居には「延享二乙年・正月吉祥日」銘が刻まれています。(*延享二年:1745年)

 

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大庄屋・大歳家(25) 若き研究者からの提言(4)、4つのステップ

2017-04-25 08:45:38 | 大庄屋・大歳家

    大歳家の継続・活用の基礎的提案

 *論文は、適当な個所をつまみ食いし、文章も若干変えて掲載させていただいています。

  第1ステップ

  ◇人脈の確保:活動するにあたり、ある程度の人数がいなければ活動の幅が広げることが出来ない。

 パンフレット、ポスター、ホームページの作成や回覧板への掲載等の、広報活動を活発に行うことが必要である。

 ◇庭の整備:雑草がたくさん生えている状態であり、除草剤 を散布し枯れた草を集めると次は土が露わになり、哀愁を帯びた状態となった。

 大歳正明氏は花壇を作り庭を華やか にし、その活動を地域の人と共に行うことが出来ればと話 していた。

 そして、花壇をつくったり木の苗を植えたりすることは比較的費用がかからず、見た目からも庭の整備を 行った前後で誰でも違いが分かり達成感が得られる可能性 が高くハードルが比較的低いので、庭の整備から始めることはよいと考えた。

  第2ステップ

 ◇便所の整備:大歳家は、大歳家の敷地近くまでは下水道が通っている状態だが、大歳家の便所までは配管がきていない。

 せっかく大歳家が地域拠点になったとしても不便な状態なので、敬遠されてしまう可能性がある。

 ◇損傷個所や程度を把握する:どの建物のどの箇所がどの程度傷んでいるのかを一つずつ調べ、把握していくことが大切であると考えられる。

  第3ステップ

 ◇茶室の修繕:現在、茶室の床は抜け落ちとても使えるような状態ではない。外壁も傷み、ベニヤ板が張られていわゆる応急処置を施している状態である。

 大歳家の中では建物規模自体は最も小さい建物であので、ワークショップが実施され易いのではないかと考 えた。

  第4ステップ

 ◇茶会:使える状態になった茶室で茶会を開催して、地域の人に来ていただく。その時に茶室だけで飲むのではなく、庭に椅子を配置し、茶室の近くにある縁側で気軽におしゃべりしながらお茶を楽しむことが出来るようにする。

 ◇勉強会:大歳家にはとてもきれいな状態で保管されている。

 大庄屋としての記録や古文書などの資料が多く残されている。今までも数回、勉強会を行っているが、それを今後は大歳家で行うことが出来るようにする。

 ◇写経:以前、写経をする団体が大歳家で写経を行っていたが、最近は大歳家では行っていないので、また以前のよう に写経の活動を行ってもらう。(no3564

 *絵:大歳家の茶室(『兵庫の民家と街並み画集』より)

 

   〈感謝にかえて〉(新野辺まちづくり協議会)

  『古民家を核にした伝統的集落活性化に関する研究』の論文によるご提案ありがとうございました。

  今後の「まちづくり協議会」活動には、特に若い方のご意見と活動が参考になります。

  今後ともご協力よろしくお願いします。

  さて、ここまで大歳家の概要、現状、課題(問題点)を纏めてみました。

  もう少し、歴史を中心として大歳家について述べておきましょう。

  なお、先に新野辺まちづくり協議会では、『新野辺の歴史(第一巻)』を纏めています。 

  『大庄屋・大歳家』と合わせお読みください。


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大庄屋・大歳家(24) 若き研究者からの提言(3)、大歳家の活用方法と課題

2017-04-24 10:46:30 | 大庄屋・大歳家

 〈古民家を活用した伝統的集落に関する研究より〉

     大歳家の活用方法

 活用方法について聞いたところ、一番多かった事項は「おしゃべりしながら集うことが出来る場所」 であり、次に多かったのが「集会所」であった 。

 このことから、地域の人は大歳家がコミュニティーの場になることを望んでいることが分かった。

 しかし一方で、大歳家の存在を知らない新成人が多いことが分かった。

 これは、大歳家を保存・活用していく上で大きな問題と言える。

 *図:大歳家の活用方法

     大歳家の課題

 そして、大歳家の課題を問う質問に対しては、資金不足、老朽化と回答した人がそれぞれ約2割を占めていることがわかった。

 その他の回答としては、「市の文化財に対する 関心が薄い」、「大歳家の屋敷の存在意義を明らかにする 歴史研究」といったことが挙げられた 。

 今後、大歳家について地域住民や市に関心をもってもらうためにも このような地域住民の参加を促す活動をする必要がある。(no3563)

 *図:大歳家の課題

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大庄屋・大歳家(23) 若き研究者からの提言(2)、トイレの整備と茶室の再建から

2017-04-24 07:47:09 | 大庄屋・大歳家

        若き研究者からの提言(2)

 大歳家保存会の今後について目指すのは、新野辺の人々 のコミュニティーの場とすることである。

    トイレの整備と茶室の再建から

 それを行うにあたり第一にすることは、次の事項である。

 ・夏季の暑さ対策と、冬季の寒さ対策。

 ・便所へ下水道管をつなぐ。

 ・傷みが進行していて、人が乗ると落ちそうなところ等の 危険な場所をなくす。

 上記の事項が整えば、次の段階として下記のように活動を希望している。

 ・現在、床が落ち、使用不可能なお茶室を改修し、お茶会 に利用したい。

 ・以前、写経の団体が写経を行っていたことがあるので、 写経をする場として提供したい。

 ・左官の講習のワークショップを行い、建物の傷んでいる ところを補修する活動をしたい。

 ・花壇をつくり、庭を華やかにしたい。

 ・大歳家文書の研究を近くの公会堂で歴史の勉強会を行っているが、その会場を大歳家としたい。

 ・イベントを開催する時に展示スペースを設け、大歳家にしかないもの等を展示する。(no3562

 *写真:大歳家(上段の間)での学習会

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大庄屋・大歳家(22) 若き研究者からの提言(1)

2017-04-23 10:57:31 | 大庄屋・大歳家

     若き研究者からの提言(1)

 若い研究者たちが「古民家を核にした伝統的集落活性化に関する研究」として、大歳家の保存に関して提言をおこなっておられます。

 保存運動のヒントにしましょう。

 その一部を読んでみます。論文と筆者は次の方です。

  古民家を核にした伝統的集落活性化に関する研究

   明石工業高等専門学校専攻科 建築・都市システム学専攻 桃野みゆき

                   明石工業高等専門学校 八木 雅夫

          株式会社地域計画建築研究所 大阪事務所 岡崎 まり

                      香川大学工学部 釜床美也子

   加古川市別府町で研究の背景・目的

 加古川市別府町での研究の背景・目的 今日、様々な手法を用いて、地域の歴史文化遺産を保存・活用したまちづくりが全国で行われている。

 しかし、こう した動きは加古川市では限定的である。

 そこで本研究では、大歳家という歴史文化遺産を中心として、地域住民との関 わりを通した保存・活用をするため、地域のまちづくり拠点となる基本的提案を行い、大歳家を中心とした地域活性化の方法の検討を行うことにした。(研究論文より)   (no3561)

 *写真:新成人記念事業(大歳家の清掃)

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大庄屋・大歳家(21) 大庄屋・大歳家公開⑩、総米蔵②

2017-04-23 08:31:09 | 大庄屋・大歳家

     総 米 蔵②

 以下の大歳家の米蔵の説明は、「文化遺産オンライン」よりの抜粋です。
 ・・・主屋の南方、南庭の中央でやや穀物蔵寄りに建つ。
 桁行5間、梁間2間半、桟瓦葺、切妻屋根、平入の比較的規模の大きな蔵で,入口両脇の腰をなまこ壁とする。
 棟の軸が、この棟だけ微妙にずれていることから、主屋より古い可能性がある。・・・


 現在の米蔵は、見た目に大きな傷みはないのですが、やっぱり「なまこ壁」が崩れてたりで、修復が必要です。
 中に入ってみましょう。

 古い桐ダンスや、長持(ながもち)などがあります。
 一番びっくりするのは、やはり「駕籠」でしょう。
 二つも駕籠が天井からぶら下がって保存されています。
 これは、大歳家の当主が姫路藩など遠方へ出かけるときに使ったのでしょう。

 

 上記に「現在の米蔵は、見た目に大きな傷みはないのですが、やっぱりなまこ壁が崩れてたりで、修復が必要です」と書きましたが、やはり蔵は頑丈な造りなんですね。少しの修理で済みそうです。

 次回から紹介したいのですが、大歳家の活用方法で若い方は貴重な提案をされています。

 それらの意見は、この米蔵を念頭に置かれているようです。(no3360)

 *写真:米蔵に保存されている駕籠

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大庄屋・大歳家(20) 大庄屋・大歳家公開⑨、総米蔵①

2017-04-22 08:38:55 | 大庄屋・大歳家

 

   総 米 蔵①

 安政元年(1854)当時、大歳家は新野辺村において分家を含め97石を所持していました。

 新野辺以外の土地を拡大させつつも、新野辺村の所持地こそが、大歳家の経営の中心でした。

 大歳家は大地主でもあったのです。

 安政元年四月の大歳家に残る古文書によれば、大歳家は分家を含んだ村内の所持地と数石程度の池田村・別府村内の所持地とを一括して管理していました。

 大歳家は、小作地では80人の小作人を抱え、うち77人が新野辺村の百姓でした。

 大歳家と住吉神社の氏子、五人組頭、そして下層小作人との間に対立が生まれたようです。

 大歳家と村人の関係等については後に紹介することにします。

 収穫期には、大歳家の庭には、日を決めて年貢米のほか小作米が集まってきました。

 そして、年貢米は高砂の百閒蔵(藩の米蔵)で保存されました。

 大歳家の小作米は、写真の米蔵に保管されたのでしょう。(no3359)

 *写真:大歳家に残る総米蔵

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大庄屋・大歳家(19) 大庄屋・大歳家公開⑧、消えた石庭を囲む塀

2017-04-21 10:36:03 | 大庄屋・大歳家

         

      消えた石庭を囲む塀

 大歳家に残る古い写真を紹介しましょう。
 上の写真は、いつごろ撮影されたものかよくわかりません。

 子どもは、すごくモダンな服ですが、戦後すぐのころに撮影されたものではないかということです。

 それにしても、藤の花はきれいですね。

 大歳家と見事に調和しています。

  この写真の藤棚の奥に立派な塀を後らになりますが、石庭を取り囲む塀です。

 入口をくぐると、そこは茶室でした。

 この塀は、阪神淡路大震災で崩れて今は、庭から直接、茶室・石庭を見ることができます。

 (no3358)

 *写真:藤と消えた塀

    

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大庄屋・大歳家(18) 大庄屋・大歳家公開⑦、石庭の現状

2017-04-21 09:35:14 | 大庄屋・大歳家

       石庭・茶室の復元を

 「14・上段の間(じょうだんのま)」の図と「12・大庄屋・大歳家敷地公開」の図を併せてご覧ください。

 「上段の間」の前(南)は石庭です。その石庭に前回紹介した茶室があります。

 茶室のある石庭は、今はなくなりましたが、垣で囲まれた一角でした。


 上段の間から、客人は石庭、茶室を眺めました。

 

   しずかでいい庭ですね。落ちつきますわ・・・

   後でお茶でもいかがですか

   いいですね

   ・・・・・

 

 きっと、庭を見ながらこんな会話があったのでしょう。

 ここは、上段の間・石庭・茶室は大歳家の特別な場所でした。

 でも、いまは少し状況は違います。大きな石がゴロゴロ転がっています。

 阪神淡路大震災のためです。

 灯篭やら、塀やらが崩壊して、元の姿が分からないほどになってしまっています。

 この庭と茶室が復元されたら、この一角はずいぶん違った雰囲気になるでしょう。

 前回も述べたように、とにかく茶室を復興させたいです。

 石庭の整理は、元の姿に戻すことが一番良いのですが、私たちの力でなんとか整理できます。

 とりあえず。茶室の復興と石庭の整理を目標にしましょう。(no3357)

 *写真:石庭の現在

 

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大庄屋・大歳家(17) 大庄屋・大歳家公開⑥、茶室

2017-04-20 09:46:40 | 大庄屋・大歳家

   心傷む茶室の現状

 大歳家を見学に来られた方が一番印象に残こり、心を痛められるのが茶室の現状のようです。

 淡路阪神大震災で一番大きな痛手を受けました。

 ものすごい壊れ方です。

 基礎から新しく再建しなければ使えません。

 その茶室は「上段の間」からいちばん目につく場所にあります。

 大歳家全体の保存再建が目標ですが、一番急がれるのがこの茶室の再建でしょう。

 茶室が再建され、茶会が開かれ、周囲に花が植えられたとき、大歳家の保存運動に弾みがつくように思われます。

 大歳家の保存には莫大な費用が必要です。

 全体の保存計画の中で、一つひとつの着手が必要になります。

提案です。

 とりあえずこの茶室の再建から始めていきませんか。

 そして、上段の間(母屋)と茶室を並行して利用を始めるのです。

 その時、お茶会だけでなく各種の集会・学習会・おしゃべりの会等々で多くの人が集まります。そうなると、どうしても「トイレ」が必要になります。

 当面急がれるのが茶室とトイレの再建ということになると思われますが・・・(no3356)

 *写真:現在の茶室

 

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大庄屋・大歳家(16) 大庄屋・大歳家公開⑤、竜吐水

2017-04-19 08:49:54 | 大庄屋・大歳家

 

   竜吐水(りゅうどすい)

 竜吐水をご存知でしょうか。江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具(火消しの道具)です。

 それにしても、「竜が水を吐く」とはすごい命名ですね。
 竜吐水は、火事・火災の際、屋根の上に水をかけ、延焼防止をする程度の消火能力しか持たなかったと言われる木製のポンプ式放水具です。

 大歳家の大戸口を開けて入った左手に、この竜吐水が天井からぶら下げて保存されています。
 前面に大きく「大歳」と記載があります。

 村で起こった火事のときに出動したり、大歳家のお屋敷が火事になった時に消火ポンプとして使われたりしたんでしょう。
 竜吐水は、江戸の町では寛延4(1751)年ごろから注目されるようになったようです。
 江戸においては、町年寄が名主の代表を集めて「近ごろ竜吐水という消火道具が売り出されているが、消防のためによろしいようにみえるから、町火消一組に4つ5つ備えるようにしてはどうか」と勧めています。

 そして、明和元(1764)年には、町火消十三組に竜吐水が一基ずつ支給されています。
 この竜吐水は、江戸時代中ごろから明治10年代にかけて使用されてきましたが、明治17(1884)年末に、国産の腕用ポンプが量産されたことに伴って、廃止されています。(消防雑学辞典:江戸時代の消防ポンプより)

 近辺では、あまり保存されていない古い消火器です。(no3355)

 *写真:大歳家の土間に天井からぶら下げて保存されている竜吐水
 

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