ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:畑平左衛門(応親)と亀之井用水

2009-04-30 09:58:37 |  ・加古川市上荘・平荘町

E88dd361 右の図の美濃川から国包村に流れるのは「亀之井用水」である。

 2007年4月6日のブログ「亀の井用水」の復習しておきたい。

 「・・・国包は、5日も日照が続くと、ツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入も嫌われたという。

 そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川(みのがわ)が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水をつくった。

 この用水は、国包村・船町村、それに宗佐村の畑地を潤し、水田化するための用水だった・・・・」(2007年4月6日のブログより)

 ◇国包村の石高◇

  正保  3年(1646)    310石2斗4升5合

  元禄15年(1702)    310石4斗7升1合

  天保  5年(1834)        535石5斗7升8合

 天保5年の国包村の生産高は急増している。これは、亀の井用水の開削に伴うものである。

007  亀之井用水の開削は、国包村の畑平左衛門(応親)が、願主となった。

 開削には、工事費の捻出・用水路の確保などの問題が山積していた。

 美濃川から水を引くとなると他藩の川から水を引くことになる。

 美濃川は、明石藩に属している。

 姫路藩主としても他藩から水を引くことを命令・許可することはできない。

 平左衛門は、粘り強く関係の村々と話し合いをした。

 厳しい条件も課されたが開削にこぎつけた。

 開削は思いのほか難工事となった。それに伴い工事費も増え、開始から8年目の文政7年(1824)に完成をみた。

 さいわい、この普請は姫路藩の御入用普請(藩の工事)としておこなわれた。

 平左衛門(応親)は、亀之井用水堰の完成後も明石藩北部の灌漑にも携わった。

 資金のめどもついた頃であった。病(中風)に倒れ、15年の闘病の末、嘉永2年(1849)没した。

 嘉永7年(1854)、国包・船町・宗佐村の百姓は、平左衛門(応親)の功績をたたえる記念碑(写真)を建てた。

 この記念碑は、現在弁天さんの横に移されている。

*『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

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上荘町・平荘町探訪:小野(上荘町小野)薬師堂の石棺

2009-04-29 07:28:16 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_211 きょうも、小野(上荘町小野)の薬師堂に来ている。

 きのう紹介した大西吉兵衛知雄の顕彰碑のすぐ東に、五輪塔の残欠が集められている。

 その中に、この石棺(写真上)はある。

 一見して、「これ石棺の蓋?」疑ってしまう。それほど他の石棺と形が違っている。

 小さい割りに、背が高い。

 加古川市では、この形式の石棺はこの一例だけである。

 説明には「・・・この家型石棺の蓋の形式は、一般的な石棺と多少ことなり、棟の部分がつくられており、数少ない貴重な資料です・・・古墳時代後期の石棺・・・」(加古川市教育委員会)とある。

 おそらく、この近辺の古墳のものであろうが、詳しいことは分からない。

 明治時代には、既にここにあったらしい。

Taira_230  この外に、薬師堂の境内には、いずれも後期古墳の石棺材が数基見られる。

 境内に入って、石棺の説明板の前に、組み合わせ式石棺の蓋石(写真下)が地中からニョキッとその一部を見せている。

 その左に底石が、そして五輪塔の残欠の中に底石がある。

 先日、この薬師堂を訪ねたのは、暖かい日の午後だった。

 おばあさんが、草を引いておられた。

 お孫さんであろう、可愛い女の子が、突然のおっさん(私)の出現に驚いたのであろう、向こうへ走っていった。

 そして、説明板の前の石棺にちょこんと腰をのせて、じっとこちらのようすをうかがっている。

 赤い服が印象的だった・・・・

*『郷土の石彫』(神戸新聞)参照

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上荘町・平荘町探訪:長池(上荘町小野)の話②

2009-04-28 08:23:30 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_219 両荘中学校の東方500㍍地点に小野(上荘町小野)の薬師堂がある。

 薬師堂のすぐ東側にある石塔(写真上)に、「本法壽覺居士」と戒名がある。

 この戒名は、塔池(とうのいけ)にある石塔(写真下)にある戒名と同じである。

 塔池の石碑は、この池を造った見土呂村の大西吉兵衛知雄の功績を記念して、見土呂・都染・井ノ口村の者が建立した石碑である。

 *塔池については、4月17日のブログをご覧ください。

 小野の薬師堂の石碑の左右の側面に文がある。

 なんと、この石碑も大西吉兵衛知雄を顕彰するもので内容(概略)は、次のようである。

 「播磨国・小野村というところに長池という池がある。よく水がたまらない。

Taira_200  そのため、吉兵衛は天保元年(1830)に池を改修した。

 長池からの水は、小野村の田畑を潤るおした。

 村人は、その恵に感謝して、この記念碑を建立する・・・」と野之口隆正の文で記している。

 塔池の石碑も野之口隆正の筆による。

 隆正は、小野藩(現:小野市)の高名な攘夷論者である。

 この石碑に、次の名を刻んでいる。紹介しておきたい。

  庄屋(小野村)  甚太夫

  組頭( 同 )   清太夫

  世話人      吉兵衛

   同        傳右衛門

 上記の世話人・吉兵衛は大西吉兵衛知雄の嫡子・大西吉兵衛親賢であろう。

 傳右衛門は、はっきりとしないが、吉兵衛知雄につながる人物と想像される。

 なお、塔池の石塔の文は『印南郡史』にまとめられている。

 小野の薬師堂の吉兵衛の方は、発表されたものが見当たらない。

 史料として整理して、後日紹介することにしたい。

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上荘町・平荘町探訪:長池(上荘町小野)の話①

2009-04-27 07:13:26 |  ・加古川市上荘・平荘町

B97dc959  きょうは長池(写真)の話です。場所を確認ください。

 長池は、両荘中学の北にある。ゆっくり20~30分の散歩になります。

 4月17日のブログ「新池・塔池・下池」の一部をもう一度読んでみたい。

 ・・・上荘地区は、北が高く山地になっている。

 平地に出てからも土地は階段状で徐々に低くなり、川に落ち込む。

 土地は水が少なく、たまりにくい。しばしば旱魃に見舞われた。

 高いところに、水さえあれば水は水路をつくり美田になる。

 この地域では、昔から小さな池を造り灌漑していたが、水は常に足りなかった。大規模な池を計画した人がいた。

 見土呂村の大西吉兵衛知雄である。

 彼は通称、吉兵衛と呼ばれていた。

Taira_237  塔池(とうのいけ)は、文政10年(1827)ごろ完成した。

 池の水は見土呂村・都染村・井ノ口村の田畑を灌漑した。(4月17日のブログより)

 上荘地域の耕地は、山地から長慶寺(上荘町薬栗)をめがけて舌のような山塊が伸びて、土地は東西に分断されている。

 塔池から流れ出した水は、その東部の田畑を潤したが小野村には流れてくれない。

 やがて、見土呂・都染・井ノ口村の田では豊かな実りがあった。

 ここからは、想像である。

 小野村の百姓たちは、歯ぎしりをした。

 「悔しいの・・・・」

 「わし等の村にも水さえあれば・・・」

 「何とかして、水がいっぱいある大けな池はできないものか・・・」

 こんな会話が続いた。

 村人は、毎夜寄り合いを重ねた。そして、見土呂村の吉兵衛さんに相談することにした。

 吉兵衛も日ごろ、小野村のことを考えてのか、「塔池のような池を造ったらどうですか」「あなた方の村にある長池を、広げるんです・・・」と助言した。

 「できますやろか」 「できますとも」

 吉兵衛には、塔池を完成させた自信があった。

 小野村の百姓たちに希望がでてきた。計画は実現に向けて一挙に動きだした。

 史料に基づく百姓たちの会話ではない。

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上荘町・平荘町探訪:都染(つそめ)

2009-04-26 12:57:41 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_205 「薬栗の明細帳」と同じ年(元文二年・1737)に書かれた「都染村の明細帳」がある。

 内容・形式とも薬栗の明細帳とよく似ている。

 書き出しの部分も同じである。

 ・・・・都染村は、何時の頃に村が始まったかのかは分からない。

 もと、今の村から二丁ばかり南にあったが、姫路藩主・榊原忠次の時に、現在の場所へ移った。

 これは承応年間(1652・9~55・4)のことである。

 以上の明細帳の書き出しは、まるで薬栗村の明細帳を読んでいるようである。

 都染村に“古屋敷”という小字があるが、もと都染村があった場所である。

 “古屋敷”の小字名まで、薬栗と同じである。

 ◇都染村の免(年貢率)◇

  高 百久八拾四石九斗五升    免四つ取

 都染村の年貢率も薬栗村と同じく4割で高くない。

 この免(年貢率)については、昨日のブログをご覧願いたい。

 ◇江戸時代の都染村◇

 都染村は、幾度となく洪水に悩まされた。都染の語源は、洪水を防ぐ堤(ツツミ)の音が変化した名称であるともいわれている。

 薬栗・都染村の明細帳については、後日詳しく分析したいが、きょうは次の数字から元文二年(1737)頃の都染村を想像して欲しい。

 家数 59軒(本百姓41軒・水呑18軒)

 人口 310人(男:167人、女:143人)

 医師 1人   大工 4人   桶屋 2人  牝牛 20匹

*都染村・薬栗村の明細帳は『加古川市史(第五巻)』に紹介されている。詳しくは、そちらをご覧ください。   

    

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上荘町・平荘町探訪:薬栗

2009-04-25 09:00:59 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_207 ◇元は古屋敷◇

 薬栗(上荘町薬栗)の岡田家に残る『明細帳』(元文二年・1737)のはじめの部分を読んでおきたい。

 ・・・・

 薬栗は、何時のころ村が始まったのかは分からない。

 薬栗は、もと今の集落より二丁ばかり南南西にあったが、姫路城主・榊原忠次の時に今の場所へ移った。

 これは、承応年間(1652・9~55・4)のことである。

 (薬栗村の「明細帳」は『加古川市史・第四巻)』に紹介されいるのでご覧ください)

 薬栗に古屋敷・町屋敷という小字(こあざ)がある。

 古屋敷は、元の薬栗村があったところで、町屋敷が今の薬栗の発祥の地である。

 石見完次氏は、薬栗の語源を次のように説明されている。

 「・・・地名事典では、たいていクスは崖・自然堤防・崩れの意味、クリは剥ぎ取られた地形の意味である・・・」

 薬栗の場合、この説明にまさに合致する。

 元の古屋敷は、加古川本流の洪水で削り取られたのであろう。

 また、小字「寺の元」は、もと長慶寺があった場所で、長慶寺も洪水のために今の場所に移動したと考えられる。

 ◇薬栗の免(年貢率) ◇

 もう一点、「明細帳」から薬栗の年貢率をみておきたい。

 「高 弐百四拾六石一合  免四つ取」

 免とは税率のことで、江戸時代の年貢は個人にたいてではなく、村に一括して課された。

 それを庄屋が中心になり、村人に年貢を割り振るのである。

 この時、村人と庄屋との間で、もめ事がしばしば発生した。

 薬栗村の収穫は、146石8升1合で、その4割が年貢であった。

 税は年貢だけではないが、この税率(4割)は、加古川地域の他の村々と比べて少ない方である。

 ちなみに、私の住む今福村(現:尾上町今福)の年貢率は約6割である。

 当時の税は、生産の高い村々から多く、少ないところの税率は低くかった。

 つまり、生産の少ない地域から多くの税を取れないのである。

 従って、一般的に年貢率の高い地域の村ほど豊かであった。

 免(税率)が低いのは、薬栗村だけではない。上荘地域の村々に共通している。

 江戸時代、上荘地区の人々の生活は豊かとはいえなかった。

 先人は、日照を恐れた。そして、しばしば洪水に備えなければならかった。

*『古地名新解』(石見完次著)参照

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上荘町・平荘町探訪:見土呂の語源は深泥(みどろ)か?

2009-04-24 08:41:41 |  ・加古川市上荘・平荘町

8ddeef60 右の写真は、昭和50年代半ばに撮影された航空写真である。

 一部を拡大・印刷したため、写真が見にくい。少し説明しておきたい。

 加古川に架かる中央の橋は上荘橋で、橋の北詰に、上荘小学校がある。

 そして、その少し東(写真中央部)に道が北に伸びている。

 その道が横一列に並ぶ緑のカ所と交わるところに「国民宿舎・みとろ荘」がある。

 「みとろ荘」のところで地形は東西に伸びる段丘をつくっている。

 川沿いの右の方に加古川養護学校がある。

 もう少し説明しておきたい。

 上荘橋の北詰に広がる集落が上荘町見土呂である。

 そして、見土呂の集落と「国民宿舎・みとろ荘」と加古川の土手に囲まれたあたりに低地が広がっている。

 きょうの話題は、この低地である。

 ◇見土呂の語源は深泥(みどろ)か?◇

 石見完次氏は「見土呂・ミトロ」の地名について、次のように解説をしておられる。

 「・・・今の集落の下に入り組んだ低地がある。

 昔は、加古川の本流が渕をなしていたとみえる。

 ミドロとは、そういう地形で深泥(ミドロ)といわれる湿地帯と言う意味である。

 “みとろ荘”・“みとろ苑”と清音で呼ぶの語源なら、河水の静かに滞った所という意味である。・・・」

 蛇足を付け加えておきたい。

 湿地帯とは、汚れた役に立たない場所ではない。古代人にとって、ミドロこそ絶好の農業生産の場所であった。

 *『古地名新解』(石見完次著)参照

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上荘町・平荘町探訪:農村文化協会

2009-04-23 02:00:17 |  ・加古川市上荘・平荘町

Bed389ad 農村文化運動について、『加古川市史(第三巻)』を読んでみたい。(一部文章を変える)

 日中全面戦争の開始は農村、特に近郊農村に大変貌を強いることになった。

 このような中で、上荘村見土呂に大西甚一平を中心とする農村文化協会が昭和12年に設立された。

 機関誌『農民倶楽部』(後に『村』と改題)を刊行し、本格的に農村文化運動に乗り出している。

 以下は、昭和13年(1938)三月号の巻頭言である。

 「・・・農村文化の向上とは、村がより住みよく、より明るくなる事でなければならぬ、近年目覚しい文化の進展は、果たして村を住みよくしたであろうか。

 いわゆる、文明なるものの進歩は、ますます村を住みにくくしているではないか。

 文化そのものが悪いのではない、罪は母体にある。

 いかに文化的施設や学問を与えても、それを受け入れる母体が健全でなければ、全て毒物に等しい・・・・」

 地主であり、資本家であった大西甚一平にとって、大正期の文化や学問の普及が、小作争議などを生んだという苦い思いがあったようである。

 その後、昭和15年大西甚一平は、大政翼賛会の兵庫支部の常任委員に選ばれた。

 彼は「農民倶楽部」で、下から国を支えようとする「革新」を主張する。

 が、時代はそれを許さなかった。上からの強制、上意下達の要素がますます強まった。

 *『加古川市史(第三巻・六巻下)』参照

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上荘町・平荘町探訪:国包の小作争議

2009-04-22 09:07:23 |  ・加古川市上荘・平荘町

203842b7 加古郡・印南郡の小作率は、県下でも飛びぬけて高い。

 やがて、小作の怒りは小作争議として爆発した。

 当時の社会情勢をみておきたい。

 第一次世界大戦後小作争議が頻発する。

 これはこの頃、工業化がすすみ、工業労働者との接触と啓発があった。

 なによりも、大正10年(1921)の川崎及び三菱造船所の労働争議の影響があった。

 大正11年、全国農民組合である日本農民組合(日農)が神戸で発会した。

 「日農」は、小作の地位向上と生活の安定を目指して小作争議を指導した。

 大正12年、東播連合会が結成され、八幡村(現:加古川市八幡町)宗佐に本部をおいた。

 小作争議の主な要求は、地主に対して小作料の減免であったが、従来の「お願い」から「要求」へとかわった。

 ◇国包の小作争議◇

  *『大正12年の県の報告書』参照

 国包村の総戸数の180戸のうち農業は70戸である。

 その内訳は、自作農1戸、自作権小作農16戸、小作54戸(合計は71戸になるが報告書のまま)で、自小作も含めると驚くべき小作率になる。

 争議の起きた時期の小作料の割合は50%を越えて、江戸時代の年貢なみであった。

 小作人たちは、永久小作料の一割五分の減額を要求した。

 県当局の記録では「大正12年度は相当の収穫量を見込めるため、農民は目下見守っている・・・」としているが、この小作争議の結末を知りたい。

 加古川地方の小作争議については、後日紹介したい。

*『加古川市史(第六巻・上)』(加古川市)、『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

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上荘町・平荘町探訪:小作契約書

2009-04-21 08:39:42 |  ・加古川市上荘・平荘町

Ff7c5fda 見土呂村(現:上荘町見土呂)の大西甚一平は、明治20年(1889)に7郡にまたがって耕地と宅地192町、山林52町あまりを所有していた、県内でも有数の大地主だった。

 大西家に残る当時の地主と小作の関係を示す「小作証書」から、地主と小作の関係をみておきたい。

 文書は、省略するが内容は次のようである。

 ◇小作証書(小作契約書)◇

 ① 小作契約は二年間であること。

 ② 米の作柄にかかわらず11月15日までに小作料を納めること。

 ③ 期限までに納められなかった場合は、請け人(保証人)が代わって小作料を納入すること。

 ④ 契約期間内であっても地主から要求があればいつでも小作地をかえす。

 また、別の契約書には、納入する小作米は大粒の高品質のものに限ることや米俵の種類の指定まで定めている。

 当時の地主と小作の関係が分かる。

 小作の恨みの声が聞こえてきそうだ。

 小作は何時までも黙っていなかった。やがて、小作の嘆きは、小作争議として爆発する。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

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上荘町・平荘町探訪:大地主・大西甚一平

2009-04-20 08:25:53 |  ・加古川市上荘・平荘町

A4c6bdff 加古川地方は、綿作の中心地であり、江戸時代の終わりのころ綿作は大いにさかんであった。

 しかし、明治時代に入りしばらくすると質のよい、安価な輸入綿におされ綿作は衰えた。

 また、明治14年からはじまった松方内閣のデフレ政策により農産物は一気に下落し、土地を手放す農民があいついだ。

 一方で、これらの土地を集積して、この地方では、多くの大地主を誕生させた。

 加古川地方は特に小作率(土地のうち小作地のしめる割合)が高く、明治36年の調べであるが、小作率は加古郡が69.7%、印南郡が55.9%であった。

 この数字は、県平均の52.1%と比べて随分高かい。

 今市村(高砂市)の伊藤長次郎は、県内最大の地主で、明治26年(1893)に播磨11郡で田畑456町、宅地6町、山林48町を所有していた。

 見土呂村の大西甚一平は、明治25年(1892)、播磨7郡で田畑202町、宅地4町、山林50町を所有し、県内でも五指に入る大地主であった。

*『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

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上荘町・平荘町探訪:みとろ苑(旧大西家)

2009-04-19 08:48:50 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_131_2  3月21日の神戸新聞は、「名勝・庭園に続く朗報」・「国登録有形文化財に」のタイトルで「みとろ苑・旧大西家」を大きく報じた。

 上荘町の歴史を語るとき、旧大西家(写真)をぬかすことはできない。

 きょうは、神戸新聞の記事から一部転載させていただく。

 ◇みとろ苑・国登録有形文化財に◇

 江戸時代後期から明治初期にかけて綿花栽培で財産を築いた地主・大西家の別宅として、1918(大正7)年に完成した。

 当時、凶作に見舞われた農民に仕事を与えるため建設されたという。

 1938(昭和13)年に財団法人農村文化協会に寄付され、1965(昭和40)年ごろから料亭として活用されている。

 宴会場などに使われる大広間棟は、南北が庭園に面し開放的な造り。

 広間は畳敷きの縁側が囲み、欄間には凝った意匠が施されている。

 渡り廊下は、窓枠の四隅を丸く削った「隅切り」の窓があり、細やかな職人技を感じさせる。

 浴室天井は、放射状のヒノキ材を並べて中央に換気口を設け、独特の造形美を見せる。

 表門は、下部は板張りで上部は土壁。

 東西両側に塀が続き、歴史的な風格を漂わせている。

 ・・・・・

 (3月21の神戸新聞より)

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上荘町・平庄町探訪:井ノ口城滅亡

2009-04-18 12:14:08 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_183 戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利方に味方した三木・別所方につき、信長・秀吉方と戦った。

 当時、小規模ながら井ノ口に「井ノ口城」があった。

 場所は、「国民宿舎・みちと荘」(写真)の建つ場所である。

 三木合戦では、井ノ口城は三木・別所方に味方した。

 「みとろ荘」の入り口の左の植え込みに、井ノ口城跡の説明があるの読んでおきたい。(一部省略)

 ◇井ノ口城◇

 城の規模は『播磨鑑』には、本丸26間、二の丸は27間と書かれています。

 『播磨諸城交替連綿之記』によれば、志方城主である志方家則の二男孫次郎家金が城主と伝えられ、この孫次郎がが井口氏の始祖となり、子息二人と共に居住していました。

 その後、三木の合戦の時には別所方についた、依藤三河守の居城となっていました。・・・・

 説明は、以上のようである。

 三木合戦の時の井ノ口城主は依藤氏であるという。

 井ノ口城のあった場所は、三木方、信長方双方にとって重要な拠点になる。

 加古川と湯之山街道の交わる場所である。

 三木城の西方からの兵が、そして物がここを通して動くのである。

 依藤氏がこの場所をおさえたのである。

 詳しいことは分からないが、依藤氏というのであるから、東条地方に勢力を持ち、別所氏を支えた有力武将の一族につながる者であろう。

 天正八年(1580)正月、三木・別所方は落城した。

 井ノ口城も、この時運命をともにした。

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上荘町・平荘町探訪:新池・塔池・下池(上荘町)

2009-04-17 10:39:20 |  ・加古川市上荘・平荘町

6be68691 きょうの話題は、新池・塔池(とうのいけ)・下池である。

 右の地図で、これらの池の場所を確認して欲しい。

 ◇新池・塔池・下池◇

 上荘地区の地形は北が高く、山地である。

 平地に出てからも土地は階段状で徐々に低くなり、川に落ち込む。

 土地は、水が少なく、たまりにくい。しばしば旱魃に見舞われた。

 高いところに水さえあれば、水は流をつくり美田になる。

 この地域では、昔から小さな池をつくり灌漑をしていたが、水は常にたりなかった。

 大規模な池を計画した人がいた。見土呂の大西吉兵衛知雄である。

 彼は、通称吉兵衛と呼ばれていた。

 彼の計画した池は、新池・塔池・下池を一体的に結び付けて使用するというものであった。

  新池には、近くの山から水を集め、砂を沈殿させる。

 その水を塔池へ流し、貯蔵する。もちろん、塔の池周辺からも水は流れ込んだ。

 Taira_198_4 さらに、塔池から下池に水を引き、小出しにして田に分水する。

 計画から完成まで10年、文政10年(1827)頃、池は完成した。

 以後、見土呂村・都染村・井ノ口村の稲は枯れることはなかったという。

 村人は大いに喜び、彼の功績をたたえ、塔池の北の隅に塔(写真)をつくり功績を刻んだ。

 塔には、世話人の名を刻んでいる。一部を紹介しておきた。

   嫡子   大西吉兵衛親賢

   嫡孫   大西直次郎知時

   見土呂 庄屋  爲 平

   都染   庄屋  善兵衛

   井ノ口  庄屋  彌一郎

    *以下各村(見土呂・都染・井ノ口)の世話人は省略

 池の名称は、この石塔があるので塔池と言うといわれている。

 古地図には「殿池」とある。これは、姫路藩の殿様から黄金を賜ったとも言うが怪しい。

 付け加えておきたいことがある。

 近辺の山から、特に新池に水が集まるようになった。このあたりの山の水は白沢新村へ、そして黍田村(現:小野市)へも流れている。

 ここへの水は、とうぜん減ることになる。水は農民にとって死活問題である。

 吉兵衛は、この交渉にも当たっている。そして解決した。

 詳しい事情を知りたい。分かれば、後日報告したい。

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上荘町・平荘町探訪:明治初期の白沢の人口・74人

2009-04-16 09:59:56 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_188 『播磨地種便覧』がある。

 明治の初期の各村々の田畑、山林原野そしてそれらの地価、人口等をまとめた書籍である。

 明治15年の出版である。

 内容は、それに先立つ数字である。

 人口・戸数は、明治14年調べである。

 明治14年は、明治時代といいながら村のたたずまいは、江戸時代を引きずっている。

 江戸時代から、明治の初期の白沢の人口を見ておきたい。

 ◇白沢新村(現:白沢)の人口(明治14年調べ)◇

       戸数  17戸

   人口   74人

 なお、上荘町の他の村々の人口・戸数(明治14年調)は、次のようである。

           戸 数      人 口

  小野村     92戸      433人

  薬栗村    100戸       437人

  見土呂村    89戸      403人

  都染村     72戸      317人

  井ノ口村    58戸       250人

  国包村    226戸          950人

 白沢は、上荘の他の地区と比べても特に小さな村であった。

 これらの数字から、明治・江戸時代の白沢村を想像ください。

*写真は、現在の白沢周辺の風景    

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