2007年4月6日のブログ「亀の井用水」の復習しておきたい。
「・・・国包は、5日も日照が続くと、ツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入も嫌われたという。
そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川(みのがわ)が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水をつくった。
この用水は、国包村・船町村、それに宗佐村の畑地を潤し、水田化するための用水だった・・・・」(2007年4月6日のブログより)
◇国包村の石高◇
正保 3年(1646) 310石2斗4升5合
元禄15年(1702) 310石4斗7升1合
天保 5年(1834) 535石5斗7升8合
天保5年の国包村の生産高は急増している。これは、亀の井用水の開削に伴うものである。
亀之井用水の開削は、国包村の畑平左衛門(応親)が、願主となった。
開削には、工事費の捻出・用水路の確保などの問題が山積していた。
美濃川から水を引くとなると他藩の川から水を引くことになる。
美濃川は、明石藩に属している。
姫路藩主としても他藩から水を引くことを命令・許可することはできない。
平左衛門は、粘り強く関係の村々と話し合いをした。
厳しい条件も課されたが開削にこぎつけた。
開削は思いのほか難工事となった。それに伴い工事費も増え、開始から8年目の文政7年(1824)に完成をみた。
さいわい、この普請は姫路藩の御入用普請(藩の工事)としておこなわれた。
平左衛門(応親)は、亀之井用水堰の完成後も明石藩北部の灌漑にも携わった。
資金のめどもついた頃であった。病(中風)に倒れ、15年の闘病の末、嘉永2年(1849)没した。
嘉永7年(1854)、国包・船町・宗佐村の百姓は、平左衛門(応親)の功績をたたえる記念碑(写真)を建てた。
この記念碑は、現在弁天さんの横に移されている。
*『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照