40 クナシリにて:嘉兵衛、エトロフ渡航を決める
もし、ここ(クナシリとエトロフの間の水道)で安全な航法を発見すれば、幕府の蝦夷開発が、資金面でそれなりの潤いを得ることができるというのである。
重蔵に課せられた任務は、とりあえずはそのことであった。
もっとも去年、最上徳内がクナシリからエトロフに渡ったとき、できればカムチャツカ半島にまでゆきいという抱負があったが、季節がそれをゆるさなかった。
こんどの嘉兵衛の水路調査は、そういう探検でなく、とりあえず幕府の開発行政が要求しているものであった。
「大船を持ってゆけば、わけはありませんが」と、嘉兵衛は辰悦丸のことを思いつつ言ったが、重蔵はかぶりを振った。
「小さな漁り舟ぐらいでも渡れる方法を考えてもらいたい。でなければ、操業のたすけにはならない」というのである。
クナシリで働いているのは、小さな漁り舟か、蝦夷舟、もしくは五、六十石程度の運び船で、今後、クナシリを基地にエトロフ稼ぎをする。
大船で渡ってしまっても、あと何の役にもたたないのである。
嘉兵衛は、重蔵の依頼を、いとも簡単に引き受けた。やってみたかったのである。
41 クナシリにて:クナシリ水道
エトロフへ一挙に話を進めたいが、ここでクナシリに少しだけ寄りたい。
というのは、20数年前、ある事情でクナシリ島に「ビザなし渡航」ができた。
宿舎は、フルカマップ(古釜布)の「むねおハウス」で、数日お世話になった。
その時のクナシリの風景を思い出した。司馬遼太郎の見た風景と重ねている。
なつかしい。
・・・・ 話を戻したい。
(クナシリ島は)遠目でみると、島内の森林の相は貧弱ではなかった。
噴火口のあとがところどころ湖になっているということは、嘉兵衛は近藤重蔵からきいた。
「うつくしい山ですな」と、嘉兵衛がその山を指さしつつ近藤重蔵をかえりみて、山の名をきいた。
「ラウシ(ラウス)山だ」と、近藤はいった。
山の高さは、大坂の町から見える生駒山よりすこしは高そうだったが、低い裾野がながながと続いているために山容に優しさがあった。
山の前面が岬になっている。岬の名も、「ラウシ(ラウス)」である。
クナシリ島には、錨地が多かった。
最良の錨地は、なんといっても嘉兵衛たちが出発した泊であったが、ラウシ崎を過ぎると、フルカマップというみごとな湾入部があることに驚かされた。
嘉兵衛は、そこへ船を入れ、一泊した。
翌日、さらに島に沿って船をすすめた。進むにつれて、いくつも錨地があった。
・・・・
またまた、私の思い出である。
クナシリは、火山の島で至る処に温泉がわいていた。
フルカマップの人に尋ねてみた。「ここはなんという温泉ですか」と。
特別の名前はないようで、単に「温泉」と、いうらしい。
クナシリ水道
嘉兵衛は、幕府が用意した宜温丸でクナシリ島の東海岸をアトイヤ岬(安渡移矢岬)まで航海してきた。
いよいよ、クナシリ水道である。北岸で停泊した。
次の日である。さっそく、嘉兵衛は、山頂に至った。クナシリ水道の潮を確かめるためである。
山頂の東側は急斜面になって東海岸へ落ちこんでいる。山の西側の斜面はゆるやかで海岸線にこぶ(小さな岬)をつくっている。
山頂に立つと、ぜんたいの地形がおもしろかった。
嘉兵衛は、とほうもなく巨大な船に乗っているような気分になった。
この日は、めずらしく晴れていた。
クナシリ水道を揉にもんで流れている潮のかなたに、エトロフ島のベルタルべ山がそそり立っていた。
三筋の潮
嘉兵衛は、全身を目玉にするようにして潮を見つづけた。根気が要った。
早朝から日没ちかくまで見つづけたのである。
そのあいだに、小さな海峡の潮目が幾度か変わった。
風が、つよかった。嘉兵衛は、疲れると岩の上に腰をおろした。しかし、目だけは休ませるわけにいかなかった。
吹きつづける風のために、ともすれば目玉が乾いた。目をしばたたくと涙が出るのだが、涙とはなるほどこういう有難いものであったかと思ったりした。
「見えた」
信じがたいほどのことだが、この二つの島のあいだを上下しているのは、一筋の潮ではなかった。
三筋の潮流が、相せめぎあって落ちあっているのである。
「まことに、三筋か」と、ほとんど仮説ともいっていい自分の瞬間のひらめきを事実としてかためてゆくのに、さらに数日の観察を要した。
「まぎれもない」と確信したとき、それまで立っていた嘉兵衛が、落ちるようにして岩の上に腰をたたきつけ、両脚をなげ出した。
気づいてみると、二刻(四時間)のあいだ風のなかで立ったままであった。(以上『菜の花の沖』より)
北からリマン海流・千島海流の二筋、そして南から対馬海流が、この狭い海峡でぶつかり砕けているのである。
嘉兵衛は、航路を頭に描いた。後は、こぎ出し確かめるだけであった。
42 嘉兵衛、箱館へ帰る
嘉兵衛の安全なエトロフ航路発見は、たんに幕府の「資金面で幕府の潤いになる」という面ばかりではなかった。
北からはロシア人の南下という問題をふくんでいた。
クナシリの浜には、近藤重蔵が出迎えていた。嘉兵衛は、ハシケが腹を砂にこすりつけるのを待ちかねて、渚にとびおりた。
重蔵も、渚の水を蹴って嘉兵衛の手をとった。
「よくやってくれた」
嘉兵衛は、重蔵に報告すべく、砂の上にしゃがむと、砂を両掌に盛って、クナシリ島とエトロフ島のかたちをつくった。
さらに両島のあいだのクナシリ水道をつくり、砂に指を突こんで、北から南へ切るように潮が流れているさまを示した。
次いで一線、さらに一線をえがき、これらがたがいに絡みあいつつヱトロフ島西南端のベルタルベ岬に激突する状態を説明した。
アッケシにたちより箱館へかえった。箱館役所から呼び出しがあった。
このとき、三橋藤右衛門から、「蝦夷地の公儀御用をつとめてもらえないか」と、懇願された。
三橋藤右衛門のいうところは、エトロフ島開発のためのあらゆる物資(官物)を運ぶ船頭になってほしい、ということであった。
運賃かせぎだけで、荷をかせぐことができなくなるのである。商いとしては、まことにつまらぬものになる。
「嘉兵衛・・・」、三橋藤右衛門は、親しみをこめ、名でよんだ。
「そこもとの力がほしい」
「とんでもござりませぬ」
おれに力などあるものか、と思った。武家こそ力ではないか。
この世で将軍と言い大名とよばれる者こそ力を持ち、四民に君臨している。
・・・・・
しかし、嘉兵衛は、決心してしまった。
とっさの決心というものが、何やら酒に似たものだと思った。
*写真:嘉兵衛像(昭和33年の函館開港100年を記念して造られた。背景は、函館山)
43 松右衛門が港を造りましょう
箱館の港の話になった。話は、一挙に具体的になった。
・・・・・
三橋藤右衛門が「嘉兵衛、築港はできるか」と、たずねたのである。
「箱館の浦をいまのままにしておけない」と、三橋藤右衛門はいった。
箱館がいかに「綱知らず」といわれたほどの天然の良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない。
「港」は、長碕ですら荷を小舟に積みかえて荷揚げしていた。
もっとも、荷揚げのための石積みの足場は存在した。
箱館が、長崎同様、幕府の直轄港になった以上、とりあえずそれをつくらねばならない。
嘉兵衛は、御影屋松右衛門(後の工楽松右衛門)の名前を出してしまった。
その日、話は、続いた。
・・・・
「ナイホ(エトロフ中西部の地名)にもつくらねばならんな」、と、三橋藤右衛門はいった。
ナイホの築港の必要については、嘉兵衛がすでに近藤董蔵に上申していた。
それらについて、「嘉兵衛は、御影屋松右衡門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衡門帆」の発明者が、あらゆる工学的分野で異能の人であることもあわせて述べた。
・・・・
「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」 と、三橋藤右衛門はきいた。
嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えた。
・・・・
嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信があった。
松右衛門は、新しいことに挑戦する人、子供の心を持つ人であった。
*絵:工楽松右衛門(工楽禎章氏蔵)
44 松右衛門のエトロフへの渡航
<工楽松右衛門の足跡>
下の年表をご覧になりながら、今以下の文章をお読み願いたい。
・寛政2年(1790) エトロフ島で埠頭建設はじまる
・寛政3年(1791) この年の夏、エトロフ島の埠頭工事竣工
・寛政11年(1799) 嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く
(三筋の潮を発見)
・享和2年(1802) 幕府より「工楽」の姓をたまわる
・文化元年(1804) 箱館にドックを築造。
工楽松右衛門のエトロフへの航路発見
ここで話を急停車させたい。
「松右衛門と嘉兵衛」は、若干文章を変えているが、もっぱら小説『菜の花の沖』のつまみ食いをして、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛を紹介している。
従って、事実の解説ではない。小説である。
できるだけ史実を踏まえた司馬遼太郎氏の嘉兵衛像であり、工楽松右衛門像のつもりでいる。
「松右衛門物語」は、そのことを頭におきつつお読み願いたい。
が、ちょっと話を停車させて説明をしておきたいことがある。
松右衛門のエトロフでの築港は、寛政二年(1790)から
「松右衛門の年表」をご覧願いたい。
「松右衛門物語」で取り上げている内容は、寛政10年頃の話である。
『菜の花の沖』では、嘉兵衛がクナシリ水道の「三筋の潮」を発見し、クナシリからエトロフへの安全な航行を可能にしたのは高田屋嘉兵衛であり、その後嘉兵衛のすすめにより、工楽松右衛門は箱館・エトロフの港の建設に当たると話が進む。
この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓をもらっている。
この辺りの事情を若干整理して、さらに話を進めることにしたい。
松右衛門エトロフヘ
その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなった。誰の目にも危険なものとして映るようになった。
寛政二年(1790)二月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画した。
「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下った。
兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙した。
この時、松右衛門は既に50才に近かったが、荘右衛門の要請に応じた。
エトロフへの船は、松右衛門の持ち船・八幡丸をあてた。
準備を整え、その年(寛政二年・1790)の五月、乗員20人と共に。兵庫津を出た。
八幡丸に、多くの日章旗をはためかした華やかな船出であった。
八幡丸は順調に、東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなった。
これ以上の継続は不可能となった。
松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにした。
その年の十二月、幕府は松右衛門の労を慰するため、30両を附与した。
その文書が残っている。
申渡
一 金参拾両 兵庫佐比恵町 松右衛門
右其方儀恵登呂府波戸築立為御用彼地
迄モ罷越骨折相勤候二付書面通為取之
戌 十二月
(意味)
申し渡し
一つ、金三十両 兵庫サビエまち 松右衛門
右、その方の儀、エトロフ港築のため、かの地
迄もまかりこし、骨折り、あい勤候に付き、書面の通りこれをとりなす
戌(いぬどし) 十二月
慰労金として、金30両は少ないようであるが、松右衛門にとっては不足を感じなかった。
むしろ、幕府から慰労とか報奨されることに誇りを感じた。
45 工楽松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる
寛政二年(1790)五月、松右衛門は、自分の持ち船・八幡丸でエトロフへ出発したが、エトロフの冬は早かった。十月いったん兵庫港へ引き返した。
翌、寛政三年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航した。
その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進んだ。
あらかた紗那(シャナ)港は完成し、10月に帰航した。
以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政七(1795)に工事を終了している。
なお、松右衛門が築港したこの場所は、江戸時代には恵登呂府島(エトロフ島)といい、戦前のエトロフ島西北部紗那郡の有萌湾(現:ナヨカ湾)である。
松右衛門は、エンジニア
松右衛門は、湾底に散在する大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留するようにした。
つまり、埠頭をつくった。
のち島民は松右衛門の徳をたたえて、永く「松右衛門澗(港)」と呼んだという。
なお、澗とは小さな錨地を意味する。
その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった文化四年(1807)当時、エトロフ鳥の警備をしていた南部藩の火業師(砲術)・大村治五兵が書きのこした『私残記』に記されている。
それには、「このシヤナ(紗那)の港は、石があらく、その上遠浅で、大船が入るには、実に危険なところである。
そこで船頭・松右衛門が石船をいう船をこしらえて、海底の石を取り払って、船の係留する所をつくった・・・・」と書きのこしている。
松右衛門の技術がいかんなく発揮されている。
「工楽」の姓をたまわる
幕府は、この松右衛門のこの紗那港づくりに対し、享和二年(1802)、三十石三人扶持を与えられ、「工楽」の姓をたまわり帯刀を許されている。(no3320)