続く新田開発
野尻は、玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。
寛文二年(1662)までの18年間をかけ開墾した村です。
修斉は、寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。
開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれていますが、明治10年(1878)田畑・宅地合わせて30町歩の村となりました。
以上は、「志方町を歩く(130)」の復習です。
太字のカ所に注目ください。寛文二年で一応の開拓は終わりましたが、その後もすこしずつ田畑の拡大は続きました。
そして、明治10年、田畑・宅地合わせて30町の村となったのです。
前号で紹介したHさんのお宅に4枚の「野尻新田新開改帳」があり、お借りしました。
これらの文書から、一応開発が終わった寛文二年後の開発のようすの一端を知ることができます。
小さい田畑を開発し続けている百姓の姿が浮かんできます。
『野尻新田新開発改帳』より
◇天和弐年(1682)
田数 合二町一畝十四歩
畑数 合五反三畝十六歩
合計 田畑数 二町五反五畝
高 十九石六斗一升
◇元禄九年(1696)
田畑惣 合一町二反六畝十七歩
高 四石六斗一升一合五夕
◇延享元年(1741)
畑 二畝三歩
六斗三合
◇文化六年(1809)
見取畑 五反二畝
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