ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

石の宝殿と生石神社の話(31) 氏子の村々

2016-11-30 08:03:19 | 石の宝殿と生石神社の...

      生石神社の氏子の村々

 生石神社の社領(氏子の村々)は、旧印南郡の生石村・島村・平津村・六本松村・高畑村、井ノ口村・岸村・神爪村・魚橋村・辻村の村々でした。

 すこし説明が必要です。

 高畑村は明治9年に平津村と合併し、六本松村は明治11年井ノ口村と合併ました。

 なお、明治12年10月に上荘地区に同名の「井ノ口村」があり混乱を避けるため、井ノ口村を「西井ノ口村」に改称しています。

 

   
















      来年は、西井ノ口が当番

 先日、「ひろかずのブログ」の読者の、西井ノ口のIさんから電話をいただきました。

 〈Iさん〉

 ブログを楽しみにしています。ところで、来年度ですが西井ノ口が生石神社の秋祭りで当番です。

 できたら、石の宝殿のことを勉強して、秋祭りの準備をしたいですね・・・

 

 ぜひそうしていただきたいですね。昔と比べて少し元気のなくなった石の宝殿をもう一度、広く知っていただきましょう。

 写真は、西井ノ口が当番の平成5年の時のものです。

 赤組と黄組の若者が西井ノ口天神社に結集しました。この後、生石神社への宮入です。

 来年は、どんな、お祭りになるでしょう。楽しみです。(no3409 )(完)

  〈お知らせ〉

 「石の宝殿と生石神社の話」は、いつもながら不十分な内容でおわってしまいました。

 次回からは、高砂市米田町神爪出身の山片蟠桃(やまがたばんとう)を紹介します。

 歴史書にしては誤りが多くなると思いますので。「山片蟠桃物語」とします。

 ひき続きお読みください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(30) 松巡りと「石の宝殿」参拝

2016-11-29 08:04:11 | 石の宝殿と生石神社の...

    高砂神社北門前の道標

 写真は、高砂神社北門前の道標です。読んでみます。

   左 いしの宝でん 楚禰能末門(そねのまつ)

     を乃へ能加年(おのえのかね) あかし

   当社 相生の松

 高砂神社から西に向かえば、石の宝殿や曽根の松、東へ向かえば、尾上の鐘や明石への旧浜街道に繋がっています。

 また、この場所(高砂神社)が相生の松のある場所であると大きく書かれています。

 高砂神社北門前の道標だけでなく、北の「西国街道」沿にもたくさんの道標が残されています。

 それらのほとんどの道標には「石の宝殿」の文字が刻まれています。

 「石の宝殿」への案内です。

    松巡りと「石の宝殿」参拝

 江戸時代は、戦争のない平和な時代となりました。それに生産も増え、生活に余裕ができた人もたくさん生まれました。

 旅を楽しむ人々もふえてきました。その一つが、松と海の景色を楽しむ旅でした。

 特に、高砂から今の播磨町にかけての海岸は、美しい松の景色が広がっており、加えて、謡曲「高砂」でこのあたりは旅人の人気の観光コースでした。

 この松巡りと「石の宝殿」見学はセットになっていたようです。

 今は、そんな白砂清松の場所は工場に代わり、海はコンクリートに固められ私たちを拒絶しているようになってしまいました。

 旅のスタイルもすっかり変わりました。それに伴って、石の宝殿へ立ち寄る人もめっきり少なくなってしまいました。

 「石の宝殿」は、謎を秘めた素晴らしい歴史的遺産(レガシー)です。何とかしたいですね。(no3408)

 *写真:石の宝殿を案内する道標(高砂神社北門前)

  〈お知らせ〉

  http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

  上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(29)  家紋石(かもんいし)

2016-11-28 07:17:01 | 石の宝殿と生石神社の...

    家紋石(かもんいし)

  生石神社にお参りする時、山麓の急な石段からお上りください。

 すると、山ろくの石の鳥居の両脇に矢羽模様の家紋を刻んだ大きな石塊を発見します。

 「家紋石(紋所石とも)」と呼ばれているものです。

 一方は「違い矢」、もう一方は「三本矢」です。

 この家紋石は、初めからここに置かれていたのではなく、元は観涛処(かんとうしょ)の北側の尾根上にありました。

 採石作業で崩れ落ちたため、昭和50年、ここに移されています。

 製作年代も制作者もはっきりしていません。何の目的で作られたのか定説はないそうです。

 ただ興味深いのは、姫路藩の竜山石専売制とかかわるものではないかと一いう説です。

 姫路藩の専売制といえば木綿が有名ですが、竜山石についても採掘に際して村々に石を上納させ、石切の許可を与える制度を敷いていました。

 寛延3年(1750)年と嘉永4(1851)年の石切鑑札が現存しています。

 「専売制になった象徴として作られたのでは」という説は説得力がありそうです。

   竜山石は藩の専売品、 

      勝手に砕石(販売)すべからず

 ここからは、全くの推量です。

 「(江戸時代)竜山石は、姫路藩の専売品で、勝手に砕石したり販売したりしてはいけない・・」と主張しているように思えるのです。

 姫路藩の専売制度というと「河合寸翁(姫路藩の家老)」が、思い浮かびます。

 河合家の家紋は鷹の羽です。

 つまり、「姫路藩のご家老の許可を得ての砕石場である。勝手に砕石してはならない・・・」と主張しているように想像するのです。

 みなさんは、どう思われますか。(no3407)

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:家紋石(参道正面に向かって左の三本矢)

  〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(28) 観涛処(かんとうしょ)

2016-11-27 08:31:05 | 石の宝殿と生石神社の...

 

   加茂神社の横に観涛処(かんとうしょ)への登山道が整備されています。

 たかだか200段ぐらいの階段の中ほどでダウン。

 コンビニで買ったお茶を飲み10分ほど休憩をとり、再度チャレンジ。

 目の前に観涛処のおおきな文字が飛びこんできました。

 以前に、ここに来たのはもう50年以上も前のことです。

 その時の風景は覚えていません。

    観涛処

 標高70メートル程の通称加茂山の山頂のすぐ下の南面の崖に、左右10メートル程、上下3メートルの大きさの岩肌に、「観涛処」の字が薬研彫(やげんぼり)されています。

 この「文字」は、永根文峰、19歳の書で、32歳で没した後、父・伍石が持参していたのを、姫路藩家老・河合寸翁(かわいすんのう)は、「藩主酒井候が〝眺望絶佳の地″として賞嘆しているこの地にふさわしい、として費用を出して刻させた」と読める跋文があます。

 その最後は、天保七年三月 伍石 七十二叟 永眠と記されています。

    そして、波のうねる風景は消えた

 説明には、次のようにありました。

    国指定史跡  観涛処

 波のうねりを望む景勝地に、江戸時代後期、天保7(1836)年に姫路藩・永根文峰(ながねぶんぽう)の書を、河合寸翁(かわいすんのう)がきざませたもの。

 「観涛処の左側にその由来文が刻まれている。

                  高砂市教育委員会

 それにしても、ここから眺める「波のうねる風景(絶景)」が消えたのは遠い昔の話ではありません。

 いまは、工場とその煙突の風景が広がるばかりです。(no3406)

 *写真: 観涛処

 〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(27) 石工・仲右衛門(2)・天川橋は残った

2016-11-26 07:03:35 | 石の宝殿と生石神社の...

  

    天川橋は残った

 前回の続きです。今日は姫路市の御着まで足を延ばします。

 石工・仲右衛門は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としていました。

 天川橋(姫路市御着)も彼(石工・仲右衛門)の作品として知られています。

 天川橋の写真を撮りに出かけました。でも、現在の天川橋は、新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。

 以前に石工・仲右衛門の記事をブログで紹介しました。読者の「二重丸さん」から「天川橋は、御着城跡に保存され、HPにも詳しく紹介されている・・・」と、ご連絡を頂きました。

 さっそく、再度出かけました。

 りっぱな仲右衛門のつくった旧天川橋が御着城の裏側(北側)にありました。

 以下は、姫路市教育委員会の説明です。

 「・・・姫路藩が文政十一年(1828)に、この地(御着城跡)より南西200mの旧西国街道の天川に架橋した。

 総竜山石製の太鼓橋、全長26.6m、幅4.4m、高さ約5mで橋脚5本。

 印南郡石工、瀬肋・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある。
 橋の東北詰めには高札場があった。
 昭和47年(1972)9月9日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和53年(1978)10月、現在地に移設保存した。

 高さは地形に合わせて低くしてある。地形中央部の低いところは御者城の濠跡。
 平成13年2月 姫路市教育委員会」(no3
405)

 *写真:保存されている天川橋(御着城裏)

 〈お知らせ〉

  http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(26) 石工・仲右衛門(1)

2016-11-25 08:21:50 | 石の宝殿と生石神社の...

 石の宝殿と生石神社について少し説明しました。次の話題(山片蟠桃物語)の前に石の宝殿の周辺を歩いてみます。

      石工・仲右衛門

 『はりま(埴岡真弓著)』で、石工・仲右衛門を紹介しています。

 その一部をお借りします。

 「・・・現在、観涛処へは加茂神社(伊保町)から登りますが、かつてはもっぱら生石神社の写真の場所から観涛処へ登りました。(*危険ですから、必ず加茂神社横の道から登るようにしてください。「観涛処(かんとうしょ)」については、石工・仲右衛門の後に紹介の予定です)

 その大型の石碑に、観涛処を製作したと思われる石工の名前が「生石村石工雲根室仲右衛門」と刻まれています。

 彼は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としたといいます。

 これ以外にも、天川橋(姫路市御着)が彼の作品として知られています。

 天川橋の架橋は文政11(1828)です。

 仲右衛門は山から石を切り出す「山取」の技術に秀でていたといいます。

 天川橋の写真を撮りに出かけました。

 「天川橋」というのですから、天川の中心地に架かる橋のようです。

 御着城の西に天川が流れており、そのあたりで、西国街道と交差しています。

 たぶん、そこが天川橋だろうと見当をつけ車を止めると、バッチリでした。

 でも、仲右衛門の影がありません。

 新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。

 ここでも歴史が一つ消えています。

    多くの名工たち

 仲右衛門の他に名の知れた石工として、嶋村(高砂市米田町)の西邨(にしむら)一族がいます。

 生石神社拝殿前にある、宝暦8(1758)年の石灯籠もその作品の一つです。

 嶋村の石工の作品は、姫路にも散見されます。

 播磨国総社、射楯兵主神社にある宝暦12年の石灯籠も「石工嶋村平次郎」の作です。

 その他、近辺の神社等で、生石村の清兵衛、藤兵衛、塩市村の久七、米田村の捨吉の名を見ることができます。

 これら名前が伝わっている石工以外にも、生石神社周辺には無数の名工が存在したに違いありません。(no3404

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:「観涛処」入り口の石碑

 〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(25) 生石神社の算額

2016-11-24 07:30:11 | 石の宝殿と生石神社の...

           生石神社の算額

 

   この算額は、明治9年(1876)に奉納された算額で、高砂市の指定文化財となっています。

 絵馬堂の算額は、その複製です。

 算額とは、主に江戸時代に日本で発達した数学和算の愛好家が社寺に奉納した絵馬のことです。

 長く納屋に埋もれていたのですが、昭和52年文献をたよりに調査に来られた日本数学学会員の手で発見され、日の目を見ることになりました。

 絵馬に描かれるのは、今でいう幾何学の図形問題とその回答です。

 生石神社の算額(写真)に赤・白・黒の三色で描かれた図形は、モダンなデザインのようで、その色彩と形の美しさに思わず見入ってしまいます。

 この算額は、備中井原の佐藤善一郎貞次という高名な和算家が、播磨等の弟子5人に一問ずつ解かせたものです。

 例えば、「一辺が15寸の正六角形。交差する対角線が作る正三角形中に内接円を描く。その円心直径は・・・」とあります。

 こんな問題を見る時、数学に弱い私などは目がクラクラしてしまいます。

 全国に各地の残る算額の中でも水準の高さがきわだつそうです。

 加古郡国安に小山淳次という人が、生石神社への算額奉納の仲介者となっています。

 算額は他にも、国安天満宮や尾上神社に一門の算額が掲げられています。(no3403) 

   *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:算額(生石神社)

〈お知らせ〉

   http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

  上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(24) アマンジャクの伝承

2016-11-23 09:03:55 | 石の宝殿と生石神社の...

      アマンジャクの伝承

 高御位山の磐座(いわくら)の続きです。

 ・・・・・

 昔、大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)の二神が、一夜のうちに石の宝殿をつくりあげようと相談されました。

 さっそく、汗を流し、巨岩を切り抜いて細工をはじめられ、石屑が、辺り一面に飛び散り、どうにも始末が負えなくなりました。

 そこへ、へそ曲がりのアマンジャク(天邪鬼・アマノジャク)がやってきました。

 アマンジャクは、ずいぶんつむじ曲がりですが、親切なところもありました。

 二神のそばに来て、「その石屑は、このアマンジャク様が捨てて参りましょうか・・・」といいました。

 二神は喜んで「それでは、南の海に投げ込んでくれ・・・」と頼みました。

 アマンジャクは、大きな袋に石屑をいっぱい詰め込んで、スタスタと出て行きました。

 へそ曲がりのアマンジャクのことです、南へ行かず反対に北の方へ急ぎました。

 「へ、へ、へ・・・これを、海にすてては俺様の名がすたる。高御位山のてっぺんへすてるのさ・・・」と独り言を言いながら道を急ぎました。

 そうしているうちに、さすがのアマンジャクも背の石屑の重さが、だんだんこたえてきました。

 息が切れ、疲れてしまいました。

 あまりのしんどさに、一息ついて、水を見つけては喉を潤しました。

 しばらく行くと、また息が切れて水を飲みました。

    七回休息し、石屑を山頂へ

 一里の道を行くのに七回も休んで水を飲みました。

 七回目に、今の成井(なるい・現:加古川市志方町西志方)」(高御位山の麓の村)の井戸の水で、喉を潤しました。

 この水は何とも言えない美味しい水で、今までの疲れもいっぺんにふきとんで、再び元気が出てきました。

 そして、一気に高御位山の頂上まで、重い石屑を担ぎあげたということです。(no3402)

 *挿絵:アマンジャク(天邪鬼)(インターネットHPより)

 〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(23) 二つの磐座(いわくら)

2016-11-22 09:23:28 | 石の宝殿と生石神社の...

        二つの磐座(いわくら)

 「石の宝殿」について、駆け足で紹介しました。

 今、気になっていることがあります。高御位山(たかみくら)のことです。

 きょうは、石の宝殿から少し離れますが、「高御位山(たかみくら)」について、想像を交えて、すこし紹介しておきましょう。

 古代、近在の人が最も早く神としてお祭りした場所は、高御位山であろうと想像されます。

 古代の神々は、最初から神社に祭られていたのではありません。

 神霊は、大岩や大きな樹木に宿るものと信じていました。

 神霊が樹木に宿った場所をまつるという形式は、現在「ひもろぎ」であり、岩石にとどまるとして祭ったのが、磐座(いわくら)です。

 高御位山の山頂は、どこからでも拝める磐座(神)が望めます。

 古代の人々は、朝に夕に、高御位山を神として感謝して拝んだことでしょう。

    高御位神社と生石神社

 平安時代に書かれた『播磨国神名帳』に高御位山を見ておきましょう。

 そこには、播磨の国には大社が24社あり、そのうち印南郡には2社の大社が記載されています。

 その2社は、高御位大神と生石大神です。

 くりかえします。古代の近在の人々は二つの神の宿る磐座を持っていました。

 一つは、自然の磐を拝む高御山の磐座であり、もう一つは、人工の磐座「石の宝殿」でした。

 やがて、神社という建造物が作られ磐っ蔵信仰は、さらにきらきらと広がったようです。

 高御位山には、生石神社と関係を想像される伝承があります。(no3401

 *写真:高御位神社と磐座 

    〈お知らせ〉 

   http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

   上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(22) 一の華表

2016-11-21 08:22:16 | 石の宝殿と生石神社の...

     一の華表(鳥居)

               *華表:神社の鳥居のこと

 宝殿駅に近い西国街道筋・神爪(かづめ・高砂市米田町)に社殿もないのに大きな鳥居と灯籠があります。

 延宝年間(167381)、この地の庄屋・神吉久太夫が姫路の殿様のいかりにふれ一家断絶になろうとしていた時でした。

 生石神社に祈願してその難を逃れたといわれています。

 この鳥居は、そのお礼に奉建されたものです。

 知らない人が見れば、神社の跡地に残る鳥居としか思えません。

 最近、付近は、猛烈な宅地化が進みました。

 鳥居の彼方に石の宝殿がのぞまれるはずなのですが、今は全く見えません。

 この鳥居は、生石神社から遠く離れてはいるものの生石神社の「一の鳥居」といわれ石の宝殿の「一の華表」とも呼ばれています。

 *上記の文章は、『画文集・高砂の史情(森村勇著)』からお借りしました。

(文章は、若干変えさせていただいています)

    神爪は、山片蟠桃のふるさと

 尚、鳥居の横に江戸時代が生んだ大学者・山片蟠桃(やまがたばんとう)が寄贈した灯籠があります。

 山片蟠桃は神爪に生まれています。

 山片蟠桃も生石神社とともにあまり広く知られていないようです。

 山片蟠桃は、高校の日本史の教科書には必ず登場する江戸時代日本を代表する人物です。

 いま、「石の宝殿と生石神社の話」を連載していますが、そのあと山片蟠桃を取り上げる予定です。

  〈蛇足〉

 きょうで「ひろかずのブログ」は3400号になりました。続くものですね、内容はともかく、我ながら感心しています。(no3400

 *写真:一の華表と番頭寄進の灯籠

 〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

 上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円照寺の花たち(195) レッドサンセット

2016-11-20 08:59:01 | 円照寺の花たち

    レッドサンセット

 円照寺の花たちも冬の準備を終え、ツワブキの黄色い花がわずかに咲いているだけになりましたが、円照寺の本堂の西隅にお回りください。

 見事なカエデが輝いています。

 このカエデは、「アメリカ花の木」や「レッドサンセット」と呼ばれている品種です。

 HPは、このカエデを次のように説明しています。

 ・・・・

 赤カエデ(アカカエデ)とか紅カエデ(ベニカエデ)とも呼ばれ、北米で多く生えているカエデです。

 名前の通り、はじめ夕焼けのような温かいオレンジ色になり、次第に燃えるような美しい赤に紅葉します。

 早春の紅色の花も目を引きます。
 樹勢が強く、よく生長します。

       「(シリーズ)円照寺の花たち」終了

 さすがの円照寺もすっかり花たちが消え、さみしくなりましたが、このカエデの見事な色合いにはきっと感動されると思いますよ。

 このレッドサンセットが今年の最後の「円照寺の花たち」の紹介になりました。

 ご覧いただきありがとうございました。(no3399)

  〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

  上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(21) 山形県に生石神社の分社が

2016-11-19 08:29:20 | 石の宝殿と生石神社の...

        山形県に生石神社の分社が

   『印南郡史』に「秋田県なる生石(おうしこ)は、成務天皇の十一年、当社より分霊を勧請せしものなり」と分社の存在が書かれています。

 この『印南郡誌』の記述は、氏子の間では知られていましたが、「はたして、秋田県酒田市に生石神社が実在するか、否か?」については、そのままになっていました。

 昭和55年、氏子の中で捜してみようという声がおこりました。

 ためしに『印南郡誌』に記載されている宛名へ手紙を出すことになりました。

 なんと、11月中旬に返事がきました。

 差出人は、「山形県酒田市生石大字十二の木1776、生石神社宮司、生石正喜」となっています。

 さっそく、氏子19人が酒田市に出向くことになりました。

   石の宝殿より神霊を勧請 なぜ?

 なんと、酒田生石神社の祭神は高砂の生石神社と同じで、神社には、石宝殿より神霊を勧請し、成務天年、生石村を開いたという伝えが残され、「生石の神」という呼び名もあり、石の宝殿を本社とする分社であることが確かめられました。

 何とも不思議な話です。

 今のところ、どういうルートで酒田市に石の宝殿の分社があるのか分かりません

 ロマンのある話です。かくれた歴史がありそうです。・・・

 理由をご存知の方は一報ください。

 このニュースは、昭和56年3月15日の神戸新聞に大きく取り上げられ話題を呼びました。(no3398)

 *写真:山形県にあった生石神社の分社の本殿(神戸新聞より)

 

  〈お知らせ〉

   http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

   上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(20) 生石神社の梵鐘、大垣市の重要文化財に

2016-11-18 07:59:54 | 石の宝殿と生石神社の...

   生石神社の梵鐘、大垣市の重要文化財に

 前号で、戦国時代、生石神社は秀吉軍の攻撃に会い焼失したことを紹介しました。

 以下は続きです。

 焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いに西軍・石田三成の方の大谷吉継軍の陣鐘として使用されました。

 その後、徳川家康は、その梵鐘を戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進しています。

 鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれています。

 この元生石神社の梵鐘について、上月昭信氏は『東播磨(地域史論集・第22号)』で紹介しておられます。その一部をお借りします。

 「・・・鐘楼は(安楽寺の)本堂に向かって左側にあり、大きくて立派な梵鐘がつりさげられており、・・・平成25年に鋳造されたものである。

 生石神社の旧梵鐘は、数奇な運命をたどり、大垣市赤坂の安楽寺に運ばれ、昭和42年に大垣市の重要文化財となり、平成25年まで鐘楼に懸けられていたが、新梵鐘完成後は、客間入口玄関の土間に大切に保管されている。・・・・」

 *『東播磨(22号)』参照

 詳しくは、上月氏の論文をお読みください。(no3397)

 *写真:元生石神社の鐘(現:岐阜県大垣市安楽寺)、『東播磨(22号)』より

  〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

  上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(19) 生石神社炎上

2016-11-17 09:10:02 | 石の宝殿と生石神社の...

   生石神社炎上

 戦国時代です。三木別所軍は秀吉軍と戦いで籠城戦を強いられました。

 この三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづきました。

 三木城へのほとんどの食糧補給のルートが止まってしまいました。

 秀吉は、三木城に降伏をせまりました。

 三木城から返事が来ました。

 「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面でした。

 天正8年(1580)年1月17日、別所氏一族が自害し、三木合戦は終わりました。

    生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

           秀吉に反抗し、生石神社焼失

 この戦いで、三木城に味方した近隣の多くの城(構居)・寺院は、ほとんど焼かれました。

 生石神社もその一つです。

 当時、生石神社の宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟でした。

 三木城を包囲し、神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠でした。

 生石神社は、秀吉・信長軍に対して非協力的な態度を取っていました。

 神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出ましたが、宮司は当然のごとく断りました。

 秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めました。

 神社の四方から火をかけました。

 おりからの強風に神社はたちまちのうちに灰と化し、領地も取り上げられました。

 生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されましたが、昔の威容は失われました。(no3396)

 *写真:生石神社の前殿と本殿

  〈お知らせ〉

 http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

  上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石の宝殿と生石神社の話(18) 竜ヶ鼻(たつがはな)

2016-11-16 07:32:59 | 石の宝殿と生石神社の...

   竜ヶ鼻(たつがはな)

  「竜ヶ鼻」は、明姫幹線が法華山谷川を渡った交差点(竜山大橋西詰)を南に折れたすぐの法華山谷川の右岸(西岸)にあります。

 「竜山(たつやま)」の名前の由来となった岩です。

 お訪ねください。

 竜ヶ鼻の横に以下のような説明があるので読んでおきます。

    高砂市ふるさと文化財

      竜ヶ鼻

         昭和24年登録

 岩が、波の浸によって削られ、形が竜(りゅう)の頭部に似ているため、名づけられた。

 竜山(たつやま)の山名の由来となった岩である。

 明姫幹線道路建設工事のため、昭和51年に切り取られ、現在の地へ移設された。

                      (平成25年3月健康文化部)

 もとは、法華山谷川と中島の北側の川(洗北川)が合流する川の中で、その鼻先(岩)を出したり隠したりしたりしていたといいます。

 目立った、人気のある岩だったのでしょう。

 しかし、その後河川改修で傷つき、さらに、明姫幹線の工事により、現在の場所に移され、へんてつのない岩となっています。

 でも、「竜山」の呼称のもとになった岩です。大切にしたいものです。(no3395)

  〈お知らせ〉

  http://hirokazu.webcrow.jp/kurakumatsuemon_blog.pdf

   上記のURLをクリックすると「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」が通しでお読みいただけます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする