ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

山片蟠桃物語(28) 余話として・江戸期の学者・山片蟠桃顕彰碑に同名のモモお供え

2017-08-04 10:42:41 | 山片蟠桃物語

 きょうの神戸新聞に山片蟠桃に関する記事がありました。

 「ひごかずのブログ」でも山片蟠桃について書いていますので、資料としてお借りしました。

 よろしかったら、「ひろかずのブログ」のカテゴリーの蘭の「山片蟠桃物語」をクリックください。

 

   江戸期の学者・山片蟠桃 

          顕彰碑に同名のモモお供え

江戸時代の神爪村(現兵庫県高砂市神爪)出身の町人学者山片蟠桃(ばんとう)。一風変わった名前は、中国原産のモモに由来するという説もある。蟠桃の著作などを研究する「高砂古文書の会」は、旬を迎えたこのモモを取り寄せ、覚正寺(同市神爪)にある蟠桃の顕彰碑に供えた。モモを味見した同会メンバーは「山片蟠桃の世界の一端を体感できた」と喜んだ。

 同会は蟠桃が記した漢詩文集「草稿抄」を読み解き、成果をまとめた冊子を2月に発行した。編集の過程で蟠桃の生涯や業績も調べ、モモの存在を知った。

 蟠桃の名前の由来には諸説あり、モモの「蟠桃」にちなんだという説のほか、中国の文献が基という説、蟠桃が升屋の番頭をしていたから、などともいわれる。

 モモの蟠桃は平べったい形が特徴。孫悟空や楊貴妃が食べたとされ、「3千年に1度実をつける」「不老長寿の実」などの伝説もある。国内では香川県や和歌山県などで生産されているが、流通量は少ない。

 同会は冊子の発行報告を兼ねて2日、香川県の果樹園から取り寄せたモモを顕彰碑にお供え。覚正寺の坊守大西真美子さんが読経し、同会のメンバー6人が焼香した。試食用に購入したモモを口に含むと「完熟したスモモのような味わい」「香りがとてもいい」などと感想を述べ合った。

 同会代表の歌井昭夫さん(69)は「山片蟠桃は中国の故事に登場するモモの存在を知って名前に用いたのかと思うと、学識の深さに改めて驚かされた」と話した。(小尾絵生)(no3678)

 *記事・写真とも「神戸新聞(8/4)」より

 *写真:高砂古文書の会メンバーが山片蟠桃の顕彰碑にモモを備えた=高砂市神爪、覚正寺。

     (新聞掲載の写真は一部省いています)

 

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山片蟠桃物語(27) 蟠桃、故郷へかえる

2016-12-29 09:30:39 | 山片蟠桃物語

    蟠桃、故郷へかえる

 文政二年(1819)、幕府は72歳になる蟠桃を表彰しました。

 升屋二代にわたってよく忠勤したと幕府から褒められ銀三枚(10万円ほど)もらって表彰されたのです。

 久しぶりで故郷・神爪へ帰りたくなりました。

 田舎では兄が健在でした。

 蟠桃は、よほどうれしかったようです。珍しく、幕府から表彰されたことを友人や、親せきに誇りたい気持ちがわいてきました。

 蟠桃は、表彰された記念に三重一揃の朱塗りの木杯(写真)を八十組こしらえ、小判一枚を添えて村中に配りました。

 その朱塗りの杯が蟠桃の菩提寺である神爪の覚正寺に残されています。

     山片蟠桃物語』終了

 また、前号の写真の鳥居のすぐ東に「ばんとう通り」の石碑があります。

 神爪集落を通った旧西国街道は、現在「ばんとう通り」と命名されています。

 神爪には蟠桃の面影が残されています。散策ください。

 

 高砂が生んだ巨人・山片蟠桃については、さらに詳しく述べなくてはならないのですが、勉強不足です。

 さいわい、高砂出身の木村剛久しが『蟠桃の夢』で、蟠桃をまとめておられます。詳しくはそれをお読みください。完(no3438

 *写真上:三重一揃の木杯

 *写真下:「ばんとう通り」の石碑

  〈おしらせ〉

 今年も「ひろかずのブログ」をご覧いただきありがとうございました。

 「ひろかずのブログ」は、しばらくお休みをします。15日(木)に再開させます。

 よい新年をお迎えください。ありがとうございました。

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山片蟠桃物語(26)  蟠桃を生んだ風土

2016-12-28 09:17:36 | 山片蟠桃物語

    蟠桃を生んだ風土

  ここでも、司馬遼太郎の文章をお借りします。

 ・・・

 蟠桃を思うとき、十七、八世紀の大坂というものを思わざるをえない。

 蟠桃は、津軽弘前や薩摩鹿児島といった封建制の濃密な城下町では成立しにくいのである。

 いまの大阪は、十七、八世紀の文化的栄光の余慶をうけている。

 十七、八世紀といえば、文学においては井原西鶴と近松門左衛門で象徴される時代だが、日本において独自に興った人文科学的思考者のむれもまた大坂においてむらがり出た。

 山片蟠桃賞は、そういう栄光の時代の大坂の象徴として名称に蟠桃の名が冠せられたのである。

    時代を飛び越えた超えた思想

 しかし、もし彼の思想を少しでも掘りさげれば将軍・大名といった権威への否定あるいは破砕におよびかねないものなのであった。

 しかし、蟠桃は時代の限界を知っていた。

 このことは、彼の思想の「限界」などという書生論で論ずべきものではない。

 かれは、一介の町人ながら、意識は天下に責任をもった士大夫であった。

この精神の構造は、懐徳堂の中井竹山、履軒を通じてみずから構築した儒学的なものといっていい。

 さらにいうと、蟠桃がたずさわった経済は、コメをカネにするという経済だった。そのためにはコメをつくる農民の管理者である将軍、大名をみとめざるをえなかった。

 ・・・・

 蟠桃思想は一部には知られていたが、彼の『夢の代』を一般には公表しなかった。

 あまりにも時代を飛び越えていたことを彼自身よく知っていた。

 一般的に知られるようになったのは、明治以降である。

 もし、幕府からお叱りを受けたな時には、彼は「私は、しがない番頭(ばんとう)の一人です」と逃げたのかもしれない。

 蟠桃(ばんとう)は、大いなるユーモラリストであったのだろう。(no3437

 *『十六の話(司馬遼太郎著)(中央公論社)参照

 *写真:「山片蟠桃」結婚記念に寄進した燈籠(米田町神爪)

 

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山片蟠桃物語(25) 『夢の代』を完成

2016-12-27 08:18:29 | 山片蟠桃物語

    ちょっと復習
 蟠桃は、寛延元年(1748)現在の高砂市米田町神爪(かづめ)に生れ、父は、農業を営むかたわら「糸屋」という屋号で糸(木綿)の取引に従事していました。
 蟠桃は、後年大坂で米の仲買をしている「升屋」で働くことになりました。 23才の時、「升屋」を継いだ山片重芳(しげよし)は、当時6才であったため、蟠桃は重芳を助け「升屋」の経営にもたずさることになります。
 当時、升屋の経営は火の車でした。
 その間10年、懸命の努力がみのり「升屋」は、大いに繁盛することになり、後に主人から「山片」の姓を名のることを許され、ここに山片蟠桃が誕生しました。

     『夢の代(ゆめのしろ)』を完成
 彼は、忙しい商の傍ら勉学への情熱は抑えきれず、「懐徳堂 (かいとくどう)」に入門し、先に紹介したように天文学、地理・神代・歴代・制度・経済・異端・無鬼その他を学び、55才の時に、自分の考え、知識をまとめようと、大作『夢の代(ゆめのしろ)』に取りかかり、苦労すること20年、やっと完成させました。
 その内容は当時としては驚くほど、先を見越したものです。

 彼の学んだ懐徳堂の規則には「学問は、貴賎貧富を認めず、四民平等であるべし」とありました。

 こんな雰囲気の中でこそ、そして何よりも日日の商売(実践)の中から蟠桃の考え方はつくられていったのでしょう。
  文化7年(1810)に妻・のぶを失い、彼にも老いの悲しみが押し寄せ、文化10年、ついに失明にいたりました。
 功なり、故郷神爪村に開かぬ目で錦を飾った彼は、2年後の文政4年(1821)2月26日、静かに息を引き取ります。

 蟠桃は、驚くほど科学的にものをみつめていました。(no3436)

 *写真:神爪共同墓地にあった時の蟠桃顕彰墓(現在:正覚寺の境内に移されています。これは顕彰墓であり、彼の墓は、善通寺‐大阪市北区与力町‐にあります)


 

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山片蟠桃物語(24) 夢の代(5)・元号論

2016-12-26 09:54:54 | 山片蟠桃物語

   元号論

 我が国の年代表記(暦)は、元号を用いてきました。

 蟠桃は、この中国や日本の元号の始まりを述べています。

 「この年号は、とっても覚えきれるものではない不便のものです」と論破しました。

 西洋には昔から年号はなく、それぞれの国々は、いま私たち使っている「西暦」を使っています。

 便利で、覚えることも簡単です。

 江戸時代は、西暦の採用など唱えることのできなかった時代でした。

 ですから、蟠桃の考えは大胆なとてつもない大胆な発言でした。

   辛酉・甲子の年に政変・自然災害が起こるか

 日本で年号が増えた大きな理由は、平安時代以来、辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)の年には政変がおこるという迷信があり、それを避けるために年号を改めてきたからです。

 *古代中国では、辛酉の年には革命がおこり、甲子の年には革令(かくれい)がおこるとして日本でもこの年には元号を変えることが普通でした。

 干支が辛酉の年を革命というのに対して、甲子にあたる年は革令と呼び、世の中が乱れることが多い年とされました。

 明治以降は、天皇一代で一年号とし、辛酉・甲子などの年に年号を変えるという習慣はなくなりました。

 蟠桃は、それらの習慣は全く根拠のないとして論破しています。

 それにしても、現在でも同じ年に西暦と元号を使うのは何かと不便と思われませんか。

 受験生泣かせですね。

 蟠桃は、暦をめぐる一切の迷信を徹底的に排撃しました。

 その点では、現代時の方が恥ずかしいほどです。(no3435

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山片蟠桃物語(23) 夢の代(4)・古代史はつくりごと

2016-12-25 08:47:58 | 山片蟠桃物語

     古代史はつくりごと

 『夢の代』は、古代史批判から始まります。

 蟠桃の古代史への考察は、必ずしも体系的とは言えませんが、科学的な歴史観と蟠桃の気迫が感じられます。

 蟠桃の古代史は、『古事記』の批判からです。

 『古事記』に言う「神が国土を創造したり、何十万年もの寿命があったりするのは荒唐無稽の話である」と指摘しました。

 「・・・神武天皇は、15歳で即位し、50歳で東征に出るなどというのも、まるでつくり話です。

 そして、〝大日本史″は、神武天皇から始まるが、神武天皇から応仁天皇までは、あくまで口伝えの歴史であり、まちがっています。

 天王は実在していない。

 また、神功皇后の三韓(新羅・百済・高句麗)征伐などもインチキである・・・」と、蟠桃は、一気に自身の思いを吐き出しています。

    妄想の再現

 戦前、日本は神に守られた国であるとされ、学校でもそのように教えられました。

 神武が最初に天皇の位についたのは古事記には、昭和15年は2600年目にあたるとしています。

 そのため、太平洋戦争に突入する昭和16年の前年の昭和15年に「紀元2600年」の式典を行いました。

 この行事は、日本は神に守られた国であり、その素晴らしさを世界に広げようとして行われた行事でした。

 そして、無謀な戦争に突入していったのです。

 「歴史学者・津田左右(つだそうきち)が、「古代史研究」で神武天皇から仲哀天皇までの天皇の実在性は疑わしい」と主張し、昭和17年に禁固3か月、実行猶予2年の有罪判決を受けました。

 蟠桃の考えは、この事件より150年も前のことでした。(no3434

 *挿絵:神武天皇(明治時代初期の版画・月岡芳年『大日本名将鑑』より)

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山片蟠桃物語(22) 夢の代(3)・迷 信

2016-12-24 07:48:46 | 山片蟠桃物語

    自然現象

 神により四季の運行が決まっていたり、人の性格が決まるというのは妄説(もうせつ)であり、空論であるとする説は、懐徳堂の中井竹山・履軒先生の考えを継いでいます。

 蟠桃は、その考えをさらに進めています。

    雷にあたる人と悪人は関係がない

 人も自然の一部に違いなく、自然ルールに従いながら生活をしていると唱えました。

 例えば、「雷はいつどこに落ちるかわからない」と説きます。

 蟠桃の時代、「雷にあたって亡くなるのは、その人が前世で悪いことをしたからである・・・」と考えるのが一般的でした。

 また、加古川では洪水がしばしば起き、多くの人が亡くなりました。

 そんな時も、雷と同じようにその人の前世の行いのせいにしました。

 つまり、雷はその人が落ちてほしいと願う人(悪い人)に落ちることはまずありません。

 また、お礼を貼って加持祈祷をしても落ちるときには落ちるものです。

 洪水も、その人の前世と関係なく発生します。

 悪行をしてきた人が長生きする場合も多くなります。

 これらは何の不思議もありません。「蟠桃は、それが、自然の理である」と説いています。

 

 聖人も、必ずしも「知」があるとは言えません。知恵があって本当のことがわかり、民を救うことができるのです。

 蟠桃は、「知のないところに救いはない」と説きました。(no3433)

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山片蟠桃物語(21) 夢の代(2)・宇宙論

2016-12-22 07:39:13 | 山片蟠桃物語

 蟠桃は、升屋の経営をとして、物事を合理的に考えるようになりました。

      宇宙論

 寛政五年(1793)九月、蟠桃は天文暦学の論稿「昼夜長短図並解」を書きあげました。

 ここで蟠桃は、季節や緯度のちがいによって、一年間の昼と夜の長さがどう異なるかを計測しています。

 地球が丸いとする日常感覚としては信じられなかった時代のことです。

 蟠桃が、天文に興味をいだいたのは、直接には師の中井履軒(りけん)の影響が大きく影響しています。

 履軒は儒者ですが、西洋流の天文学や解剖学も学んでいました。

そして、その履軒の友人が、天文学者の麻田剛立(あさだごうりゆう)でした。

 麻田剛立は、なにせ暦にない「日食」の起こる日時を正確に予言した天才です。

    宇宙人の存在を予見

 蟠桃には神という考えは全くありません。生物は、太陽の光と熱、そして水と空気により地上に発生したと考えました。

 人間も、しかりです。そういう唯物論的な考えは歴史上初めての人物でした。

 そして、「水星や金星には太陽に近すぎて熱く、人間がいないかもしれないが、火星・月・木星や土星には生物が発生しているかもしれない」と考えました。

 「人間は大宇宙のほんの片りんかもしれない」。

 彼は江戸時代の人です。なんと自由な発想の持ち主でしょう。(no3431)

 *挿絵:「土星の民」(『夢の代・第一巻』より)

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山片蟠桃物語(20) 夢の代(1)・宗教論

2016-12-21 11:54:13 | 山片蟠桃物語

       宗教論

 寛政六年(1794) 蟠桃は故郷神爪(現、高砂市米田町神爪)村の正覚寺住職に仏教問答めいた書簡を送っています。

 十項目ほどのか条にまとめているが、彼の考え方がよく分かります。

 その内、一つだけであるが読んでおきます。

 

 ・・・ある(仏教の)経典によると、西方十万億土の地には極楽と呼ばれる別世界があって、阿弥陀と呼ばれる仏がおられるとのことです。

 しかしと地球の周囲は、日本里で計るとおよそ一万里(約四万キロ)で、西方十万億土という場所は、まったく見当がつきません。

十万億里というのは、地球を一万回ぐるぐる回る距離のことでしょうか。

 インド、中国、日本はともにアジア州に属しています。その西はアフリカで、さらにその西は海を越えてアメリカ、さらに海を越えると日本に戻ってきます。

 つまり、いくら西に向かっても極楽には到着できないのです。

 蟠桃は、いくら西に向かってみても地球をぐるぐる回るだけで、極楽などにはぶつからないと断言する。・・・

 彼の合理(科学的)主義が読み取れます。(no3430)

 *『蟠桃の夢(木村剛立著)』(トランスビュー)参照

 *写真:正覚寺(高砂市)米田町神爪:蟠桃の菩提寺)

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山片蟠桃物語(19) 夢の代(ゆめのしろ)

2016-12-21 11:35:14 | 山片蟠桃物語

 蟠桃著『夢の代(ゆめのしろ)』
 蟠桃は、何よりも升屋の経営を通じて、現実の経済(流通)を合理的に考えています。   

    懐徳堂で学ぶ

 蟠桃は、忙しい商のかたわら勉学への情熱は抑えきれず、「懐徳堂 (かいとくどう)」に入門し、経済だけでなく天文学、その他も分野も探求し、55才の時に、自分の考え、知識をまとめようと、大作『夢の代』に取りかかりました。

 苦労すること20年、『夢の代』を完成させました。
 その内容は当時としては驚くほど、先を見越したものでした。後で詳しく見ていきたいのですが、2・3あげておきます。
 ・人間の精神は、死とともに活動を停止し、霊魂の不滅ということは絶対にありえない。
 ・西洋人が、世界の海を駈けめぐっているのは、天文学と地理学の豊かな知議に基くものであリ、従って知識から勇気が生まれる。
 彼の学んだ懐徳堂の規則には「学問は、貴賎貧富を認めず、四民平等であるべし」とあります。

 こんな自由な懐徳堂の雰囲気の中でこそ、蟠桃の考え方はつくられたのでしょう。

 『夢の代』は文化5年(1808)ごろには、ほぼ完成したのですが、死ぬ半年前の文政3年(1820)にすべてを完成させました。

 内容は、天文・地理・神代・歴代・制度・経済・雑書・異端・無鬼・雑論で、百科全書とも言っていい内容の著作です。

 それらの内容は、どれも先進性をもったもので、現代の私たちが読んでも頷ける科学的な内容でした。

 それでは、『夢の代』を読むことにしましょう。(no3429

 *『夢の代』(『夢の代』は、最初『宰我の償(さいがのつぐない)』と題していましたが、後に『夢の代』に変えています。写真の原稿は、『宰我の償』)

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山片蟠桃物語(18) 蟠桃は、藩札(米札)の信用をつくる

2016-12-20 08:08:18 | 山片蟠桃物語

 先に、松平定信は、升屋の蟠桃の意見(財政政策)を下問しました。

 寛政期に、蟠桃は、大変な赤字を抱えていた仙台藩の財政を立て直したのです。蟠桃の名は、定信の知るところとなるほど、広く知れわたりました。

    天候(寛政3~4)も味方する

 仙台藩では、天明期から寛政期まで大変な困窮は続きました。

 しかし、天は升屋・仙台藩に微笑んだのです。

 寛政3~4(1791)~92)、仙台藩は久しぶりの豊作となりました。

 しかも、関東や西国は凶作のため江戸の米価は3倍に高騰しました。

 仙台藩は、この両年でまれにみる財政の好調基を迎えたのです。

 それはまた升屋にとっても財政の立て直しとなりました。

 この成功は、自然条件に大きく左右されたもので、経済政策により仙台藩の経済を立て直したのではなかったのですが、蟠桃の才覚が賞賛されたのです。

 しかし、その後も仙台藩の経済は、その後も安定しません。

 文化の初年、江戸の目米価が下落すると、仙台藩の経済は、苦しくなりました。

 が、そのころには升屋の経営は揺るがないものになっていました。

    蟠桃は、藩札(米札)の信用をつくる

 仙台藩の借財は増えましたが、蟠桃は仙台藩が大きな利益を得る方法を採用したのです。

 それは藩札(米札)のからくりです。

 農民から税を納めたのちの余った米を買い上げ、米が不足し価格が上がる時期に江戸で販売し利益を得る方法です。

 この方法は、仙台藩だけの特別な方法ではありません。

 蟠桃は、農民から米を買い上げるときに仙台藩だけに通じる藩札(米札)で買い入れました。

 この方法も仙台藩に限った方法ではありません。

 藩札(米札)が通貨と同じように流通すればいいのですが、普通そのようになりません。つまり、藩札は信用がなく、しばしば値打ちが下がってしまったからです。

 仙台藩では、升屋(蟠桃)がその通貨を保証したのです。

 升屋が通貨の信用の保証人となりました。

 藩札に信用があれば、通貨とおなじように流通します。

 仙台藩は、藩札で米を買い上げ、江戸で得た通貨を大坂に回し、利息を得て、藩の赤字補てんや藩の必要経費に回すことができたのです。(no3428

 *『山片蟠桃と大坂の洋学(有坂隆道著)』(創元社)参照

 

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山片蟠桃物語(17) 貨幣の改鋳は悪政

2016-12-17 08:15:16 | 山片蟠桃物語

         貨幣の改鋳は悪政

 蟠桃は、定信の下問に対して、即座に改鋳に「ノー」の答えを出しました。

金銀貨の品位を劣化させる改鋳はおこなうべきではない。

 「改鋳を増やせば諸色が跳ね上がり、民を苦しめるだけです」と説きました。

 蟠桃は「元来、金・銀の吹き替えは「悪政」で、金座・銀座の職人や商人を喜ばせるだけで、天下に混乱を招だけです」と答えました。

 その後、幕府では、どんな話がなされたのかは知ることはできないのですが、蟠桃への下問が生かされたのでしょう。

 幕府は、寛政後期から享和・文化期にかけて貨幣改鋳の誘惑にじっと耐えたていました。

 また、両替をしなくても江戸でも大坂でも使用できる南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん))の鋳造を再開するのは、蟠桃の上申から3年の血のことです。

 その後、幕府の財政は年ごとに悪化します。

 文化元年(1818)幕府は、80年ぶりに金銀貨の改鋳を実施し貨幣の質を落とします。

 諸藩もこれに負けじとばかりに藩札を多量に発行しました。

 庶民の生活ばかりか武士の生活も諸色高にあえぐようになり、江戸幕府の崩壊をはやめたのです。(no3425

  *『蟠桃の夢(木村剛久著)』(トランスビュー)参照

  *写真:これ等の貨幣の改鋳差益(出目)により幕府は収入を得たが、物価の上昇をもたらした。

 

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山片蟠桃物語(16) 定信からの蟠桃への下問

2016-12-16 09:24:35 | 山片蟠桃物語

         「貨幣の在り方」について

                      松平定信から蟠桃に下問が

 松平定信が中井竹山に意見を聞いてから6年後のことです。

寛政八年(1796)夏、蟠桃のもとに、中井竹山を通じて一通の「下問」が舞いこんできたのです。

 依頼主は、松平定信からです。

 すでに、老中を辞任しているが、まだ幕府の政策決定に隠然たる勢力を保っていました。

 今回、定信から蟠桃に書き上げるよう「下問」がなされたのは、「金銀の歴史を簡略に述べよ」という、漠然としているように見えて、幕府の根本政策にかかわる一件でした。

 もちろん、ここにいう金銀とは、貨幣のことです。

 日本における貨幣発達史を論じるとなれば、単に昔の出来事を並べるだけでは収まりません。

 慢性的な財政危機に見舞われている幕府が、これからどのような貨幣政策をとればよいかを下問されているのでした。

 蟠桃は、定信からの依頼をありがたいと思う反面、さすがに緊張を覚えるのでした。 定信が蟠桃に貨幣の変遷史を書きあげるよう「下問」した理由は、デフレの続くなかで、なんらかの打開策を打ち出さねばならなかったからです。

 幕府の財政事情から、おそらく、勘定奉行や金座・銀座の町人からは、通貨改鋳の提言がなされたにちがいない情勢です。

 そこで、松平定信が、これからの貨幣政策を決めるにあたって、通貨政策の下問の白羽の矢が、懐徳堂の蟠桃に意見を求めたのです。no3424

 *写真:山片蟠桃像(高砂市米田町神爪の公園)

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山片蟠桃物語(15) 中井竹山(蟠桃の教師)への手紙

2016-12-15 08:44:42 | 山片蟠桃物語

      中井竹山(蟠桃の教師)への手紙

 天明8年(1788)夏、側用人を通じて懐徳堂の中井竹山に、「手紙」が舞いこんできました。

 依頼主は、なんと松平定信です。

 松平定信の「寛政の改革」は、贅沢な生活を全面的に否定しました。田沼時代とは反対の経済政策でした。

 定信が理想としたのは、吉宗の時代の緊縮財政政策です。

 定信は田沼時代に認められた株仲間に解散を命じました。

 当時の貨幣は、大坂と江戸では、そのままでは使えません。

 江戸は金が中心でしたが、大坂は銀が中心でした。

 江戸と大阪の取引は、現在の外国との通貨交換のように、それぞれの貨幣に両替をしなければなりません。この役割をしたのが両替商でした。

 そのため、田沼は、経済の無駄を省くために、江戸でも大阪でも共通に使える「南鐐二朱銀」をつくりました。

 その新貨幣の製造も中止となりました。

 定信の考え方は、「商業が盛んになると、物価が上がり、生活が困るようになる」ということでした。

     定信と蟠桃

 (天明 8年・1788)6月3日のことです定信から懐徳堂の(中井)竹山に側用人を通じて「お会いし意見を聞きたいたい」という連絡がありました。

 竹山は、前もって内々に「定信が直接(懐徳堂の)竹山に会って、朱子学・経綸(財政)など幅広く話を聞きたい・・・」という連絡を受けていました。

 日ごろ、蟠桃は、竹山と弟子・教師の関係を離れて、いろいろと話をしていました。

 当然、竹山は定信との話の中身も蟠桃の意見を織り込んだものとなったはずです。

 話は、二時(ふたとき:約4時間)にも及びました。

 その間、定信は竹山に対する姿勢を崩しませんでした。

 竹山は、感動さえ覚えたのです。

 定信は蟠桃の噂も聞いており、後日彼の意見も聞きたいを思っていた節もありました。(no3423

 *絵:中井竹山(蟠桃の先生:玉川大学教育博物館蔵)

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山片蟠桃物語(14) 財政難の原因は贅沢にあらず

2016-12-14 09:09:40 | 山片蟠桃物語

      お金は体の血のようなもの

 (前回の続きです)

 たしかに、元禄の(お金の)改鋳で、お上は多額の利益を得られました。それ以来も度重なる改鋳をおこなってこられました。

それが心配なのです・・・・

 そのため、慶長の一両が一両半に、さらにそれが二両半にとふくれあがったわけで、お上はボロもうけをされました。

 損をするのは民ばかりでござりました。

 貨幣の値打ちが下がるにつれて、ものの値段も上がりました。

 〈竹山〉少し言葉がすぎるぞ・・・

 松平定信様は、田沼殿が推し進められてきた野放図な政策を改められて、商人に命じて物価を引き下げられるにちがいないとわしは思うとる。

 〈蟠桃〉わたしが心配しているのは、そのことでござります。

 金の流れは、たとえてみれば血液の流れと同じで、悪い血がものすごい勢いで流れたら、からだを壊してしまいます。

 が、逆に血が止まってしもうたら、人は生きていくことができません。

 経済には経済なりの「理」というものがございます。

 この「理」を無視して、上から無理やり抑えつけようとしても、かえって経済全体の体力は低下してしまいます。

    財政難の原因は贅沢にあらず

 
 値段が高いときには、その理由がございます。

 たとえば、凶作の年には米の値段が上がりますが、これは商人が米を買い占めたからではなく、その作柄によるのです。

 高いからといって、商人に安い値段で放出するよう命じられて、たとえそれが一時的にうまくいったとしても、端境期にはどういうことが起きましょう。

 米はどこの蔵にも残っておらず、そうなると庶民は飢え死にするしか道はありません。

 凶作の年に米の値段が上がるのは、かえって節約を促し、長い目では民の命を守ることにつながるのでございます。

 米の例ひとつをとっただけでも、ものの値段をお上の力で引き下げるのは、賢明なようにみえますが、かえって別の大きな弊害を生みだすことになります。(no3422)

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