ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町探訪:別府村誕生

2007-05-31 06:50:17 |  ・加古川市別府町を歩く

9aae7bfa  別府町(加古川市別府町)探訪に出かけたい。

  別府と書いて「べふ」と読む。

  別府町は、かつて浜風の中で賑わったところである。

  江戸時代、この地に別府村、新野辺村(しのべむら)そして西脇村があった。

  これら3ヵ村は、明治22年4月1日、新しい町村制により加古郡別府村となった。

  そして、昭和3年11月5日、加古郡別府町になり、さらに昭和26年10月1日、加古川市と合併して現在の加古川市別府町が誕生し、現在に至っている。

  なお、昭和45年3月25日、海岸埋め立てに伴い金沢町が分離独立した。 

  加古川市別府村について、すでに次の話題を紹介しているので、あわせてご覧ください。

  ◇別府鉄道(昨年6月6日のブログ)

  ◇肥料主・多木久米次郎(昨年7月4日のブログ)

  ◇オリーブの木(昨年の7月5日のブログ)

  ◇別府・べふ(昨年の7月10日のブログ)

  ◇滝瓢水(昨年の7月30日のブログ)

*『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県総務部地方課編集)・『かこがわ万華鏡』(岡田功著)参照

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西神吉町探訪:宮前宮山古墳

2007-05-30 07:53:41 |  ・加古川市西神吉町

_542   加古川右岸(西岸)の古墳について、『加古川市史(第一巻)』を読んでみたい。

  ・・・加古川の左岸が目立った古墳や古墳群をもつのに比べると、右岸は古墳の数もすくないし、分布もまばらである。

  古代以降、加古川下流域の中心は左岸にあったようであるが、それをさかのぼる古墳時代においても、右岸の勢力は劣っていたと考えられる・・・・

  右岸についての記述は、なんともそっけない。

  先日、宮山へ行ってみた。大会が行われているのか、近くの陸上競技場からの記録発表の声が聞こえてくる。

  中学生であろう。友達の応援の声も聞こえる。

  木々を揺らす風も気持ちがよい。心臓だけは久しぶりの「丘のぼり」にあえいでいた。

  頂上辺りに宮山古墳の説明(写真)がある。読んでみたい。

◇宮前宮山古墳群◇

  宮前宮山古墳群には3基の古墳があり、1号から3号の名称が付けられている。

  1・3号古墳は、直径15メートルの円墳であるがその外形から弥生時代の後期に造られた墳丘墓の可能性があります。_545

  2号墳は、前方後円墳であり、全長53メートルの(省略)規模で造られている。

  (省略)2号墳は、古墳時代前期(4世紀)の墳墓ではないかと考えられる。

  宮前宮山古墳は、加古川西岸の古墳時代を考える上で貴重な古墳群である・・・

  古墳は、夏草に覆われて、その姿を確かめることは出来なかった。

 

  『加古川市史』の記述と若干ニュアンスが違う。『宮前宮山古墳』は、時代も古い。(写真下は宮山1号墳)

  宮山は、辺りを見渡せる丘である。宮山の豪族は、どの辺りを支配していたのだろうか。やや東の平荘湖古墳群の豪族との関係はどうだったのだろう・・・知りたい・・・

*『加古川市史(第一巻)』参照

  西神吉町の歴史探訪を書いているが、この辺りで気分を変えて、明日から「別府町探訪」に出かけてみたい。西神吉探訪は後日さらに続けたい。史料等をご紹介ください。

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神吉町探訪:神吉八幡社

2007-05-29 07:01:17 |  ・加古川市西神吉町

_555  神吉八幡神社(写真上)は、宮山に堂々と鎮座する。

  神吉八幡神社の話であるが、少々怪しげな話(由緒)から始める。

  ・・・・応永3年(1396)9月23日の夜、一筋の神火が天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)におちた。

  辺りは真昼のように明るくなり、村人は驚いた。

  村人は、“これは八幡神の化身の降臨にちがいない”と考え、近くの大国の里に祠を建て神吉ノ庄の氏神とした・・・

  これが神吉八幡社の始まりと由緒はいう。

  一説によると、この神吉八幡神社は嘉吉の乱(1441)時焼き討ちにあい社殿などが消失した。_557_1

  その後、現在の宮山に社殿を移し上宮(かみのみや)とし、大国村の八幡社(写真下)を下宮(しものみや)とした。

  この時に神吉八幡社の神事・渡御式(とぎょしき)がはじまる。(*渡御式の説明は紙面の都合で省略)

  神吉八幡宮の受難は続いた。

  寛永9年(1632)、雷のために社殿・宝物・古文書等がことごとく灰になった。その後、仮の社殿が造られ、天和3年(1683)新しい社殿が完成した。

  これが現在の八幡宮である。

  慶長年間(1596~1614)、神社は八幡神社の境内にある妙見大明神社として城主に届けられた。そのため、江戸時代を通じて妙見大明神と呼ばれた。届出の理由は分からない。

  明治4年、妙見大明神の名は改められ、元の八幡神社と名のるようになった。

  今日の報告は、少々怪しげな内容も含んでいる。

*『神吉村の記録-うもれた村誌を掘りおこす-』(神吉町内会)参照

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西神吉町探訪:旧北条街道

2007-05-28 08:20:59 |  ・加古川市西神吉町

_528   加古川市米田町平津の国道2号線の交差点から北へ道がのびる。

  この道は、西神吉町あたりで大池・新池の東を通り、志方町投松(ねじまつ)へぬける。そして加西市北条へと伸びる幹線である。

  明治18年(1885)に完成した。

  それ以前の旧北条街道(写真)は、神吉村から西神吉町宮前の宮山の麓と大池の間を通っていた。

  写真の先は、志方町横山である。

  旧北条街道はかつての面影はない。

  作家の猪瀬直樹氏は、三島由紀夫伝『ペルソナ』の取材のため、三島の先祖の出身地である横山を訪れている。

  『ペルソナ』で、旧北条街道にも触れている。少し引用が長くなるが読んでみたい。

  この時、猪瀬は横山へ志方側から入っている。

  ・・・・道幅は狭いけど、かつて北条街道とよばれ人馬が盛んだった。坂は赤坂と呼ばれている。

  江戸時代から明治初頭、播州平野の奥から牛に引かせた車が米を積んで港へと向かった。その際、この赤坂を喘(あえ)ぎながら登ったところで一服した。

  モータリゼーションの時代でもドライブインやスーパーマーケット、土産物店等が固まっているような場所が必ずある。

  横山は、江戸時代末期のそうしたスポットだった。『志方町誌』の記述に従えば、以下のようになる。

  「昔の北条街道は、この山の東を通り神吉(西神吉町)の大池の西へ出たもので、この街道にできた集落が横山で、上富木(かみとみき)の小字である。・・・道の東側に北から塩物屋、くすり屋、焼もち屋、綿打屋、植木屋、いかけ屋と商売屋がならんでいたそうである」

  三島由紀夫の祖父・平岡定太郎(さだたろう)が樺太庁長官となって故郷に錦を飾るというので、賑やかにみなで出迎えた。

  宝殿には駅が設置されておらず、加古川駅から人力車の列がならび、さながら大名行列のようだった。

  もう北条街道に新道ができていた。その道からやってきた。・・・・

  旧北条街道は、主役の座を降りて久しくなった。かつての賑わいを想いながら旧北条街道を歩いてはいかがだろうか。

  先日、この道を歩いてみた。五月の風と木々の緑がいっぱいであった。行き交う人もなかった。

  平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)は5月13日のブログをご覧ください。

*『ペルソナ(三島由紀夫伝)』(猪瀬直樹)参照

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西神吉町探訪:神吉頼定寄進の灯籠

2007-05-27 06:56:48 |  ・加古川市西神吉町

_546_1   宮前の神吉八幡社の本殿の向かって右に、この石灯篭(写真上)はある。

  説明がないので参拝者は、これが加古川市内で最も古い銘を持ち、神吉城主・神吉頼定により建設された灯篭であることに気付かれることもないであろう。

  この石灯篭について『加古川市史・(第七巻-別編Ⅰ)』で、説明している。

  ・・・・(銘文は次のように)陰刻している。  

    天正三乙亥歳九月(右側面)

    妙見宮御灯籠(正面)

    奉寄進神吉源頼定(左側面)

 _547        *天正三年・・・1575年

  完全な四角形石灯籠であるが、各部の形式はごく新しくて、近世もおそい頃のものである。

  これは天正の紀年銘(写真下)を施しているは、もとのものが損傷し新しいものに建て替えた時の、もとのものに施されていた年代銘を刻んだものである・・・

  筆者・田岡香逸氏は、このような紀年名を「後刻銘」とよんでいる。

  神吉城の攻防は「東神吉町探訪」で取り上げる予定であるが、神吉城は天正六年(1578)信長の長男・信忠の攻撃を受け頼定は討たれ、落城した。

  その時、信忠軍は八幡社に陣をはったという。

*『加古川市史(第七巻)』参照

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西神吉町探訪:固寧倉(こねいそう)

2007-05-26 06:55:17 |  ・加古川市西神吉町

187c487e    江戸時代、人々はしばしば凶作や災害に苦しんだ。

  これを救うために米・麦・籾などを倉に貯蔵しておく制度がつくられた。

  姫路藩では、河合寸翁(かわいすんのう)により文化六年(1809)ごろから行われ、この制度を固寧倉(こねいそう)といった。

  固寧倉に貯えられたられた穀物は、平時には一部を領民に安く貸し付け、領民が安心して農耕に従事できるように考えられたのである。

  文政・天保の頃ころまで領内によく広まり、多くの村々で穀物の貯蔵倉(固寧倉)が置かれた。

  5月19日のブログ(長慶から西脇の地域)で、「・・・長慶は土地が低いので、度々洪水にあい、そのために飢饉になった・・・」と紹介した。

  長慶村は、災害の多い村であった。

  そのためか、長慶村には「固寧倉」がおかれた。

  長慶(加古川市西神吉町鼎)には「固寧倉」の表札(写真)が今に残っている。

*『神吉村の記録(うもれた村誌を掘りおこす)』(神吉町内会)・『郷土史・ひめじ』(姫路市教育委員会)参照

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西神吉町探訪:赤山

2007-05-25 07:38:18 |  ・加古川市西神吉町

_527   右の写真をご覧ください。

  照明塔のある施設は、加古川市陸上競技場(加古川市西神吉町鼎1050)である。

  そして右の山は、神吉八幡宮のある宮山である。

  かつて、陸上競技場のトラックの場所に、標高54メートルの小さな丘「赤山」があった。

  少し古い地図を見ていただいたら、赤山採土場とある。文字どおり赤土の山だった。

  加古川陸上競技場は、この赤山を削ってつくられた。

  話題は、陸上競技場ではない。「赤山」の話をしたい。

  日岡山をはじめ加古川の台地の部分は、赤から赤橙色をしている。

  この「赤い土」の原因は、なんだろうか。

  神戸大学の名誉教授・田中眞吾氏は、次のように説明しておられる。

   ・・・・もともと玄武岩は風化すると赤くなります。ブラジルのテラ・ロッシャもインドのイグールの赤土もこのためです。

  加古川辺りの台地は玄武岩の風化したものではない。とすると、他の原因を考えなければならない。

  これは、今から12・3万年前頃から始まっ最終間氷期という温暖な気候下で、現在の、熱帯で見られるような風化作用を受けて、今見るような赤い色になった・・・・

  「赤山」の赤い土もこの時期にできた。

*『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編さん室)参照

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西神吉町探訪:大国の煙草(たばこ)生産

2007-05-24 08:40:09 |  ・加古川市西神吉町

2ce2230e   印南郡の刻煙草(きざみたばこ)の製造の歴史は古く、『印南郡史』は、250年前からとしている。

  その中心は、西神吉の大国村・西村であった。

  最初は、包丁で刻む刻煙草であったが、明治の終わりの頃に「セン切り」という細く削られるようになった。

  その後すぐ、現在のような機械による製造方法に変わった。

  明治37年4月、政府は煙草の専売局を設置し、煙草の製造は政府が経営するようになった。

  (注) 日露戦争(明治37年始まる)の戦費を確保する必要があった。政府は、煙草の専売制で増収を目的とした。

  専売局の設置と同時に、煙草の耕作も政府の指定地のみでの生産となった。

  大国は、国の委託製造をしていたが、だんだん製造は減り、明治42年ついに生産をやめた。

  磯野孝治さん(80歳・昭和55年当時)は、『私たちのふる里』で、次のように語っておられる。

  ・・・私が子どもの時、大国で煙草の製造家は17軒と葉煙草の仲買人が4人、刻煙草販売人が3名あった。

  大勢の村の人は、男は煙草を切る職人、女の人は葉巻師であった。

  志方では、まだ靴下を製造する者はなく、志方や近村のから大勢の人が働きに来たので、大国は近村にない賑(にぎ)やかな村であった。

  しかし、煙草製造の閉鎖後、多くの村人が失業し、賑やかだった村は急に寂しくなった。・・・

*『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:自転車の普及

2007-05-23 07:44:35 |  ・加古川市西神吉町

Bdf788aa   自転車の普及について『印南郡史』は、次のように書いている。(一部書き改める)

  ・・・印南郡に自転車が初めて使用されたのは、明治33・4年の頃で、当時はほんの数台しかなかった。

  自転車は、日本ではまだ作られておらず、外国からの輸入で、値段も高く、便利と分かっていても、使用する人はごくわずかだった。

  明治38・9年なって、やっと日本でも盛んに作り始め、比較的安くなった。

  明治42・3年ごろに激増した。

  大正4・5年の頃は、印南郡で1.580台になった。

  この頃、西神吉で初めて神吉自転車店(西神吉町長慶)が開業した・・・

  神吉自転車店の神吉万二氏は、当時のようすを次のように語っておられる。(聞き取りは昭和57年)

  ・・・(自転車は)高価なものだったので、あまり乗る人がなく、買う人の見当がついてから大阪へ買いに行った。

  最初、六台仕入れた。

  その頃はネジ一つにいたるまでバラバラになっているのを、全部店で組み立てた。

  ・・・最初に仕入れた六台の買い手は、お医者さん(富木の平井さん)、タオル工場や靴下工場の社長さん等で、一台の値段は米25俵分で、今に換算すると自動車並みの値段だった。

*『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:西村の年貢

2007-05-22 18:49:19 |  ・加古川市西神吉町

9eba39b5   今日のブログは、5月16日の「免四つ七分(宮前村)」とあわせご覧ください。

  加古川市西神吉町西村の田中一朗氏が宝暦10年(1760)の西村の明細帳を研究されている。

      詳しくは、『私たちのふる里(第一集)』をご覧ください。

  それによると西村の免(年貢率)も宮前村と同じく四割七分で多い方ではない。

  つまり、西村も宮前と同じく、多くの年貢を取り立てることができなかったのである。

  年貢は米だけでなかった。

  その他の税金(小物成)として、運上金・夫米・口米・犬米、さらに石高に応じた在中御普請人足の割り当て等があった。

  その人足の割り当ては、次のようである。

    ◇春(五十日) 一日に二人、計百人

    ◇秋(三十日) 一日に二人、計六十人

  説明が必要のようです。

   運上金・・・主に商・工・漁・鉱・運送業にかけられた税金

   夫米・・・・夫米は、夫役の代わりに上納した米。

   口米・・・米は本税のほかに面積に応じて、加え徴収した税米。

   犬米・・・藩主が鷹狩りをする時、村々から人や犬が動員された。後に、人や犬の代わりに米を納めるようになった。

  宮前村と同じく百姓のため息が聞こえてくる。

*『私たちのふる里(第一集)』(西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:池郷(いけごう)

2007-05-21 07:29:09 |  ・加古川市西神吉町

8b7e7690   地図で場所を確認していただきたい。

  加古川運動公園の東に大池(写真下)・新池・馬頭池(ばとういけ通称ウマノカッサ)、そして地図には名前がないが、馬頭池の東に地知行池(じちげいけ)がある。

  これらの池の水は、神吉の地区の村々に決定的な役割をはたしてきた。

  これらの池の辺りは一段高く、ここから水の少ない神吉地区に水を供給した。

  つまり、南と西は低くなって、水は自然に流れる位置にある。

  ただ、水があっての話である。これらの池は雨水に頼るほか水源がない。

_522   そのため、池の水は大切に管理される必要があった。

  利用したのは、現在の加古川市東神吉町の神吉・天下原(あまがはら)、西神吉町の宮前・中西・西村・大国そして鼎の清水・下富木の村々であった。

  これらの村は、互いに話し合い、取り決めをつくり、協力をした。

  村を越えてこれらの村々は、強く結びついていたのである。

  この池を通じて結びついた村々を含む地域を「池郷(いけごう)」といった。もちろん池郷はここだけはない。他に小さな池郷もたくさんある。

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西神吉町探訪:長慶のお歯黒

2007-05-20 20:10:01 |  ・加古川市西神吉町

221735cd   鼎には水にまつわる話が多い。

  鼎の長慶の薬師堂の近くの田に、赤い湯が沸いたという話がある。

  ・・・長慶から辻へぬける法華山谷川橋の東のたもとに“かなけ田”という田がある。

  ここに、金気(かなけ)のあるぬるい温泉がわいた。

  有馬から来た人が馬の首を放り込んだら湯がとまってしまった。

  その後地震があり、再び温泉が出たが、放っておいたらまた止ってしまった。

  温泉の話であるが、水質はよくない話でもある。

  ・・・・

  ある時、弘法大師が長慶村に来られた。

  水を所望したが、土地の人はみすぼらしい乞食と思い、申し出をことわった。

  以来、長慶の水は悪く、ここの井戸水で育った人は、みな歯が黒くなった。そのため、“長慶のおはぐろ”と呼ばれたという。

  これも、水質の悪い話である。

  長慶は洪水だけでなく、水質にも悩まされたようである。

*『郷土のおはなしとうた』(加古川市教育会)参照

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西神吉町探訪:長慶から西脇(清水)の地域

2007-05-19 06:48:49 |  ・加古川市西神吉町

_517   清水村の西脇から長慶村へかけての一帯は、法華山谷川とその支流の合流点で、常に湖沼のような湿地帯が多かったという。

  西脇の「かもめ池」(写真)は、その湿地帯の真ん中にある。

  「かもめ池」から周囲を見渡せば、山や台地に囲まれており、このあたりが地形の底であることが分かる。

  昔から、法華山谷川があふれたり、長雨が続いた時には、溢れた水はこの辺りに押し寄せ、まさに湖沼のような風景をつくった。

  『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)は、次のように書いている。

  ・・・長慶は土地が低いので、度々洪水にあい、そのため度々飢饉になりました。洪水の時は、西村の人が牛を預かってくれたり、他の村からも“おむすび”を持って来てくれました。

  飢饉に備えて米を貯蔵しておき、飢饉の時はそれを炊いて食べました。

  ・・・田の水は法華山谷川から引いていましたが、(今と違って)川幅が狭く・・・少しの雨でもすぐ洪水になりました・・・

  西神吉は、洪水等で困った地域と水が少ない台地上の地域からなっていた。

  昨日「かもめ池」へ行ってみた。池は写真のように全体が草で覆われ湿地帯のような風景をつくっている。

  人間の侵入に驚いたのであろう、二羽の白鷺が、大きな羽音を立てて飛びたった。

   *『私たちのふる里』(加古川市西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:清水

2007-05-18 08:06:26 |  ・加古川市西神吉町

_505_1     写真は、加古川市西神吉町鼎(かなえ)の清水にある本覚山・妙心寺である。

  本文の内容と直接関係がない。清水を代表させたかっただけである。

  明治11年12月に、清水村は下富木村・長慶村と共に合併して鼎村(かなえむら)となった。

  その清水村であるが、もとは妙心寺の少し西の字・古屋敷(ふるやしき)にあった。

  慶長年間(1596~1614)に現在の場所に移住し、村をつくり、「清水新田」と名づけた。

  村人は、水がほしかった。井戸を掘り、やっと水を得ることができた。村人は、村の名前を「清水」とつけた。

  多くの村人は、名前も水埜・清埜・清田・野村などとつけた。

  しかし、十分な量とはいえなかった。

  『私たちのふる里』(加古川市西神吉小学校PTA)は、次のような話を載せている。

  ・・・・(清水の村人は)自分たちの生活を切り詰め、肉・魚介類は食べずに、野菜を主に食べた。

  昔から、清水へは魚屋さんは出入りしなかった。

  そして、「穀物は絶対にねずみに食べられないようにするために、ねずみも住めなかった」とまで言われた。

  また、牛馬は働かすだけ働かして、充分な餌は与えられなかったため、牛馬は良く死んだ・・・・

  内容はともかく、清水は水が充分でなく、苦しかった昔の人々の生活のようすを伝えている。

  「清水」は、農民のせつない願から生まれた地名である。

*『私たちのふる里(第一集)』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:宮前村

2007-05-17 07:53:09 |  ・加古川市西神吉町

Bdfc309b   右図は、「元禄播磨国絵図(絵図)解読図」から、さらに西神吉村の部分を取り出した。

   宮前村と宮前新村の場所を確かめて欲しい。

  宮前村は、宮前新村と明治10年12月合併して宮前村となった。

  宮前村は、宮前村明細帳が「相知不申候」と語るようにわからない。

  村名は、神吉八幡社(妙見社)の宮の前に発達したからであろう。

  宮前新村は、「宮前新村明細帳(寛保二・1742)」に「一 村之初り寛文九酉年」と記録されているように、宮前新村は、1669年に宮前村から分かれた新村である。

22b9d276_3   今日は、明細帳から宮前村・宮前新村の数字を拾ってみたい。当時(江戸中期)の村の姿を想像してほしい。

◇宮前村明細帳より

 人口  307人  (男149人  女158人) 

 戸数  66軒(本百姓47軒・水呑19軒)

          大工  4人    牛 14疋

◇宮前新村明細帳より      

 戸数  40人  (男 19人  女 21人)

      10軒(本百姓2軒・水呑8軒) 

                牛 1疋 

  宮前新村の村高は12石3升7合の村で、生活はかなり厳しい。

  *水呑・・・農地を持たない百姓

  少し年代の異なる数字を合計しているが、江戸時代中期、宮前村・宮前新村をあわせると、76軒・347人の村であった。

  ちなみに、本年(5月1日現在)の宮前の人口は、789人(男381人・女408人)、世帯数281である。

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