中道子山城の築城者はだれ?
「城山物語⑯」で、「中道子山城の築城者は赤松晴政である」と書いてみました。
従来とは全く異なる(ど素人の)説です。
『志方町史』は「・・・日本城郭全集には、嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍義教を殺して播磨に逃げ帰った時、集まった武士のなかに『中道子山城主・志方弾正ェ門顕茂』のみえることから、この頃すでにこの城ができていたことは確かであるが、規模を広くし、地形を整えたのは応仁の乱後に入城した孝橋新五郎であろう」としています。
『日本城郭全集』の記述に言う、嘉吉の乱の頃に中道子山城があり、城の規模を拡大したのは孝橋新五郎という説を信じてよいのでしょうか。
『中道子山城発掘調査報告書』は、「永正・大永(1504~28)に築城され、その後享録年間の焼失後、すぐに再築城されたのが確実になった」と書いている。
従来の説と時代が合いません。
それに、『加古川市史(第一巻)』でも、中世史を専門とする学者は「・・・中道山城の方は不確実で、赤松氏則あるいは孝橋新五郎(繁広)が城主だったとするが、いずれも伝承にすぎない・・・」とバッサリ切り捨てています。
ただ一つはっきりしていることは、当時の情勢から判断して赤松に関係する城であることは確かです。
最近、赤松一族の歴史の見直しが行われています。
円心から満祐までの「前期赤松氏」の赤松一族の歴史はともかく、政則から則房の時代の「後期赤松氏」についての従来の歴史は大きく書きかえられそうです。
中道子山城は、赤松一族につながる山城であり、後期赤松氏の時代の山城です。
中道子山城の築城者を追え
中道子山城の城主は、後期赤松氏の全盛期であった赤松政則の孫・晴政の築城による山城と提案しました。
この説に固執するつもりはありません。
今のままでは、いつまでも城主が判明しません。
池に比較的大きな石を投げました。さざ波を起こしました。
さあ、中道子山城の城主の謎にせまりましょう。
ご意見をお願いします。