ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

平岡町二俣探訪:一部・終了

2009-07-06 22:08:33 |  ・加古川市平岡町

A3de3631 明治141月、二俣村は64戸の集落でした。

右は、明治29年の地図です。明治の二俣集落を想像してください。

あまりの変わりように、想像することができないかもしれません。

ちなみに、現在二俣は1176戸で、明治14年と比べて実に18倍の戸数です。

   二俣探訪(一部)終了

さて二俣の歴史(一部)をきょうで、一度閉じさせていただきます。理由は、種切れです。

二俣は、古文書等ふしぎなほど残されていない地域です。

でも、探検すれば何かがみつかり、見えてくるものです。近隣の地域の歴史からも推測できます。

12ヶ月お休みをいただいて、資料集めをします。

二俣の多くの方にお世話になりました。ありがとうございました。

    大池と二俣の歴史

ただ、一つ宿題を出しておきたいと思います。

2部では、その宿題の答から始めたいと思います。もちろん、わからないままで終わる可能性がたかい。

二俣の歴史においてキー・ワードは水でした。

水の無い時は、食料を求めて、おろおろさ迷ったことでしょう。

水が十分にあった時は、村人の喜びははじけ、祭りのざわめきも一段と大きかったことでしょう。

二俣の大部分は、高台にあり天候にもろい集落でした。

二俣の水がめは大池でした。

この二俣のキーワードになる大池の歴史を知りたいのです。

集落が先か、大池が先かは知りませんが、二俣のお百姓の生活は、大池と共にあったことはたしかです。

二俣集落の歴史は、江戸時代をはるかにさかのぼります。

大池もとうぜん江戸時代をさかのぼった時代に造られました。

どこまで、遡ることができるのでしょうか。

野口の駅ヵ池の場合、奈良時代までさかのぼります。

さて、大池の場合はどうでしょう。

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平岡町二俣探訪:円明寺④・曹洞宗に改宗

2009-07-05 20:10:40 |  ・加古川市平岡町

円明寺:曹洞宗の寺に改宗

082 円明寺は、天文18(1549)大梁学公によりお寺がつくられました。

その後、播磨町古田・福勝寺の四代目の住職・哲洲長学和尚により円明寺は曹洞宗の寺に改宗されました。

円明寺のほか一色村の安養寺も哲洲により曹洞宗のお寺となっています。

江戸時代の初めの頃です。

それまで円明寺は、曹洞宗以外の宗派でした。

このことに関して『阿閇の里』(播磨町)の記述をお借りします。

(・・・福勝寺は)、真言宗の盛んな地域である阿閇庄内の十余の堂庵に随徒を派遣してこれを禅寺とし教化の拠点とした。

この説に従うと開山以前の宗派は真言宗と言うことになるのですが、確かな証拠はありません。

円明寺は福勝寺から曹洞宗を導入したため、福勝寺が本寺で、円明寺が末寺となっています。

本寺の福勝寺は、元は景福寺と称していたのですが、景福寺の和尚・大桂和尚が姫路藩の命令で姫路に景福寺を開山しました。

同一藩に同一開山・同一呼称の寺が二つ存在することは許されませんでした。

そのため、景福に勝ると言う意味で福勝寺と名前を変えました。

以上の説明は『いっしき(風土と歴史』(一色町内会)・『阿閇の里』(播磨町)の研究を参考にさせていただきました。

円明寺は、江戸時代の初めの頃に曹洞宗の寺となり、現在に至っています。

  円明寺炎上

明治10年、円明寺は全焼になり、再建に取りかかりました。

すでに廃寺になっていた鶴林寺普賢院の柱や瓦などを譲り受け明治12年に再建されています。

江戸時代の円明寺は、姫路藩最大の木綿問屋・坂田家の旦那寺として大いに隆盛を誇ったと想像されます。

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平岡町二俣探訪:円明寺③・権兵衛と結界石

2009-07-04 23:56:48 |  ・加古川市平岡町

結界石

078 「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔(写真上)は、円明寺の「結界石」です。

「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。

葷酒は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。

これらは、寺での行の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。

また、持ち込んではいけない、と言う意味です。

禅宗寺院の山門によくみられます。

 権兵衛は誰?

円明寺の山門前にある結界石の裏面に、「施主 高畑村 権兵衛」と銘(写真下)があります。

権兵衛は、立派な結界石を円明寺に寄贈するほどですから裕福な人物と思われます。

080 さいわい、『播州名所巡覧絵図』に高畑村の説明があり、権兵衛が登場しています。

高畑村・・・土山村の西なり。当村に名医あり、疾病を療す。

嗅薬を用ゆ、病者諸国より集まる。

高畑村に、名医がおり、遠くから多くの人々が治療のため、高畑村の医者のもとに集まったと言います。

権兵衛は当時の観光案内書『播磨名所巡覧絵図』で紹介されるほどでした。よほどの名医だったようです。

権兵衛(ごんべえ)の名は、「高畑の明細帳(寛延三年・1750)」にも記録されています。

近隣の人は、親しみをこめてゴンベハンと呼んでいました。

ゴンベハンのご子孫は、現在でも高畑で医者を開業しておられます。

高畑の国道2号線沿いの大西医院です。

権兵衛と円明寺の間にどんな関係があったかは分からない。

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平岡町二俣探訪:円明寺②・層塔は知っている。米騒動のことを!

2009-07-04 12:21:01 |  ・加古川市平岡町

  米 騒 動

1918年(大正7)の神戸市内の米の値段(一升)を見てみましょう。

7月  2日  34銭5厘

    16日  36銭8厘

    24日  37銭9厘059

8月  1日  40銭7

     4日  43銭5厘

     7日  55銭3厘

     8日  60銭8厘

 米価は、まさに「うなぎのぼり」というありさまでした。

 これは、都市の労働人口が増えたこと、大戦(第一次世界大戦)で食料難のヨーロッパへ米を輸出したこと、シベリア出兵に供えて米価の高騰を見こした地主の米の買占め、加えて地主の政党といわれた政友会が、地主を守るために外米の輸入関税を撤廃しなかったこと、などが影響しての米価は急騰でした。

  鈴木商店襲われる

またたくまに、米の安売りを求める運動が全国に広がりました。これが米騒動です。  

米騒動は、京都・大阪・神戸へと波及しました。

神戸では、818日、千余人の群集が米屋を襲って米騒動の口火が切られました。

市内の川崎町一丁目には、米を買い占めているとウワサされた鈴木商店がありました。

鈴木商店と言うと、名前から「たかだか大きな店屋かな」と思ってしまいますが、当時三井・三菱と肩を並べた政商でした。

神戸製鋼所も鈴木商店の一部門でした。

鈴木商店本店の四階建ての建物は12日夕方から一団が店内に突入し、火をつけました。

民衆は駆けつけた消防隊のホースを片っぱしから切断し、ポンプをひっくりかえしたため、さしもの鈴木商店の建物も午後11時に焼け落ちてしまいました。

  層塔・円明寺へ

前おきが長くなりましたが、以下『JA加古川南ふれあい情報誌(2005・3)』の記事をお借りします。

・・・現在円明寺には十三重の多層塔(写真)があります。

その多層塔は、神戸の鈴木商店に建立されていたもので、大正末期の米騒動で鈴木商店が焼き討ちに遭った後、持ち出されドイツ人のヘルム氏が所有していた「スタンダード」と呼ばれる農園に建てられていました。

その後、農園が楠ヶ丘という住宅地に改造された際、円明寺が譲り受け、現在の場所に移されました。

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平岡町二俣探訪:円明寺①・郡西国15番札所

2009-07-03 17:04:05 |  ・加古川市平岡町

072 西国三十三観音巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。

人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりに出かけました。

第一番の那智山青岸渡寺から最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。

それは苦行の旅でした。

江戸時代になり治安もよくなりました。

交通機関も整備され、西国三十三観音めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。

しかし、誰にでも気軽に巡礼の旅に出ることはできません。

苦しい生活の庶民にとって、三十三観音巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。

そこで考えられたのが播磨の国の中に三十三か寺を定め、それらの寺を巡礼すれば同じ功徳があるとしてはじまったのが「播磨西国三十三所めぐり」です

このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めのころです。

  郡西国三十三札所・円明寺(十五番札所)

もっと、誰にでもできる巡業として、加古郡内に三十三観音めぐりの巡礼がはじまりました。

これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」です。

この郡西国の十五番札所が、わが二俣の円明寺でした。

ちなみに現在の平岡町にある郡西国の札所は、16番・横蔵寺(新在家)、17番・善良庵(西谷:現在、廃寺)、19番・長松寺(高畑)、28番・昌福寺(中野)、29番・安養寺(一色)の各寺々です。

写真は、円明寺の観音堂の三十三の観音像。

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平岡町二俣探訪:スベリヒユを食べる

2009-07-02 23:33:12 |  ・加古川市平岡町

乾燥耐性があり、畑や路傍など日当たりの良い所に自然に生える。 農業においては畑作の害草として知られ、全般的に執拗な雑草として嫌われる傾向にある。・・・

 以上が、ウィキペディアにあるスベリヒユの説明の一部です。

   スベリヒユを料理する

 さきに「正保郷帳・正保三年(1646)」に二俣村の村高を見ました。繰り返しておきます。

 正保郷帳(正保三年)  二又村 旱損所

  村高  432.226(内、田382.7石/畑49.526)

Hp_131  二又村の「旱損所」に注目ください。

 つまり、二又村は旱魃に弱い村であると、わざわざ注意書きがあります。

 旱魃の時、大池の水は干からびたこともしばしばあったことでしょう。そんな時は当然、秋の収穫はありません。

 村人が食料を捜し求める姿が想像できます。

 ヒガンバナの根をはじめ多くの野草も食べたことでしょう。

 そんな食料の中にスベリヒユがありました。

「江戸時代、食料のない時は、さかんに食べられ、ましてや飢饉のときなどには最高の野草であった」と歴史書にも出てきます。

 いま、私の家の前に、スベリヒユが群生しています。

何事も追体験です。

 ちょっと勇気をだして、スベリヒユの「おしたし」をつくってみました。

 料理といっても湯がくだけ。できたら、切って皿に盛り、鰹節を乗せ、それに薄口醤油をかけると、できあがりです。

 少しかまえて食べてみると、少しヌルヌルしているがけっこ美味い。

 スベリヒユは飢饉と結びついた単語としてインプットされていたので、まずいものと思い込んでいたんですが、大きな間違いでした。

 酒の肴にも最適(少しいいすぎ)といってもいいほどでした。

 まだ少し残っているので今晩のアテにします。

 スベリヒユも歴史の一こまなんです。

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平岡町二俣探訪:二俣と安倍晋三元首相

2009-07-02 06:33:50 |  ・加古川市平岡町

 2007311日の神戸新聞の記事をお借りします。太字の部分に注目ください。

 当時、首相であった安倍晋三氏が、若い頃神戸製鋼所に勤めており、近くの寮で生活したというのです。

 この近くの社員寮とは、二俣の神戸製鋼所の寮のことです。

元首相の安倍晋三さんが若い頃(19805月から9ヶ月間)二俣に住んでおられたんです。ちょっと興味ある話です。 

  二俣と元首相:安倍晋三氏    (神戸新聞より)

Photo_2  「皆さんと一緒に仕事をしていたことを誇りに思いながら、これからも日本のために頑張りたい」。

十日に神戸製鋼所加古川製鉄所(加古川市金沢町)を訪れ、ものづくりの現場を視察した安倍晋三首相は、かつて勤務した思い出の地で、所員らを激励した。

一方、二十六年ぶりに対面した元同僚らは「昔のまま」と懐かしみ、日本のリーダーにエールを送った。(今泉欣也)

 首相は一九八〇年五月から九カ月間、工程部工程課の厚板係に所属。近くの社員寮で共同生活を送った。製鉄所訪問はその時以来で、午前八時すぎから約一時間かけて高炉などを見学した。

 厚板工場では、仕事上の先輩だった中渕勇さん(75)=加古川市=と再会。中渕さんが「お久しぶりです」と声をかけると、首相は「いろいろ教えて頂き、ありがとうございました」と笑顔で握手を交わした。

 視察後、首相は集まった所員らに「ご安全に。工程課厚板係の安倍晋三です」と製鉄所員時代に戻ってあいさつ。

笑いを誘うと「研修時代はオレンジ色のヘルメットだったが、今日は白で一人前になった気がした」と当時を振り返った。

 中渕さんは「物静かでおとなしいが、言うことはきっぱり言う人だった。新しい思い出ができました」。

また、花束を手渡した首相に「当時のマドンナ」と紹介された工程・調達部工程室の藤田真稚子さん(51)=加古川市=は「話しやすく誠実で、信念があるところは今も変わらない。懐かしさがこみ上げてきました」と感激していた。

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平岡町二俣探訪:何があった?(元禄15~天保5年)

2009-07-01 07:43:30 |  ・加古川市平岡町

Eccb34e8 近世は、石高(こくだか)の時代といわれています。

田はもとより畑、屋敷も全て米の生産量に換算されました。

そして、この村高に対して年貢がかけられ、それが藩・幕府の財政の基礎になりました。

ですから、村高に関しては特に厳密でした。

<msnctyst w:st="on" addresslist="28:『加古川市史;" address="『加古川市史"></msnctyst>

『加古川市史(第五巻)』に、『正保郷帳』・『元禄郷帳』・『天保郷帳』が紹介されています。

それに『旧高旧領取調帳』の資料を加え、江戸時代の二俣村の村高について、みていきましょう。

二俣村の村高

正保郷帳・正保三年(1646)より   二股村 旱損所

村高  432.226石(内、田382.7/畑49.526)   

元禄郷帳・元禄一五年(1702)より

村高  432.232石

天保郷帳・天保五年(1834)より

村高  551.022石

旧高旧領取調帳(播磨国-明治2年・1868)より

  村高  551.022石

江戸時代も、最初の頃は戦国時代に発達した技術が農業開発に転用され一大開発時代でした。

明治時代までの村の原風景は、この時代につくられました。

二俣の村高を見てみましょう。

正保郷帳と元禄郷帳、つまり江戸時代初期から元禄時代までは、二俣村の村高約432石で、ほとんど変わっていません。

江戸時代の終わりから明治が始まった明治2年の二俣村の石高は、551石となっています。

元禄15年(1702)と天保5年(1834)の134年間に、生産は約119石の増加がありました。

この原因は、時代から見て、新田の開発とは考えられません。

品種の改良、肥料の改良、栽培方法の改善などが考えられるのですが、それにしては増加幅が大きすぎます。

何か別の理由があったに違いない。

資料が無いためはっきりしません。

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平岡町二俣探訪:地租改正・重い税でした

2009-06-30 13:16:05 |  ・加古川市平岡町

189639fe  現在、加古川市内の中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)に、次の記述があります。

「・・・政府は、まず土地を所有する権利を認めて、田畑の売買を自由にしました。

次いで、1873(明治6)年から、全国の土地の面積やよしあしを調べ、土地の値段である地価を定めました。

土地の所有者には地券をあたえ、土地の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。

これにより、土地についての税金の負担と集め方は、全国一律となりました。

これを地租改正といいます。・・・江戸時代の年貢の総量と同様になるように計算されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした」

その後、各地で地租改正に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。

このようすを、二俣村にみましょう。

  地租、しめて947円21銭6厘(明治14年1月)

二俣村      戸数 64戸

          人口 350人 

一 田、 39町2反5歩      地価3万482円93銭4厘

                   地租762円5銭8厘

一 畑、 16町2反1畝27歩   地価5537円45銭6厘

                   地租138円44銭1厘

一 宅地、2町9反5畝13歩    地価1867円97銭5厘

                   地租46円70銭

一 藪地、1反3畝13歩      地価78銭2厘

                   地租1銭7厘  

一 土砂捨場、13歩        地価9厘

                   厘位未満 

合計反別、 58町5反1畝11歩   地価3万7889円11戦6厘

                   地租947円21銭6厘

外に無税地反別7町9反8畝20歩、及び堤防敷地5反4畝21歩

二俣村には、明細帳等の古文書が残されていないため、詳細は分かりませんが、教科書にあるように、税金は江戸時代とあまり変わらず収穫の5割程度が税であったと想像されます。

この記録は『播磨地種便覧』(明治15年12月発行)からの数字です。その前書きに、「一、戸数・人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」の注意書きがあります。

だとするなら、明治14年当時、二俣村の人口は350人・戸数64戸の集落でした。当時の風景が浮かんでくるようです。

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平岡町二俣探訪:二俣の思い出

2009-06-29 15:45:04 |  ・加古川市平岡町

南海仁さんの子供のころの思い出です。

  戦争中の思い出

我が家は、茅葺きで、電灯ははだか電球1ケ。

空襲警報のサイレンであわてて電球を布で囲い、明かりが漏れないようにした事を思いだします。
 空襲警報のサイレンで防空頭巾をかぶり防空壕へ飛び込んだり、母親におんぶしてもらい近くの水路に入り身を屈めました。 
 空襲警報と言えば艦載機が西明石にある川崎航空機の爆撃目標だった、ことなどを覚えています。

お寺でお経を習いました

小学生に入ったころは、お寺(円明寺)の日曜学校に出向き、住職よりお経(般若心経)を習い、説ぽうをよく聞きました。

そのころは、父親が満州から引き揚げて来たころだと思うのですが、 家も貧しく良く、食材としてサツマイモの葉、セリをよく食べました。
 小学生5~6年生ころになると車も木炭車からガソリン車に変わり、良くガソリンの匂いを嗅ぎました。

  楽しかった正月・盆

Bf45cc5b_2 子供のころの遊びは、バイ、ビ-玉、バッチンとでよく遊び、正月になると大人も子供と一緒に朝早くから夜遅くまで楽しんでいました。
 また、盆になると墓で作った西瓜の提灯を持ち寄りお互いに西瓜提灯の明かり消し遊びなぞで楽しみました。

中学校は水足の兵舎(高射砲隊の兵舎)跡
 中学生頃になると戦争からの復興で景気もよくなってきました。

中学校は、野口町水足にある兵舎跡の木造平屋校舎であり、近くに高射砲の設置建物がありました。

校舎は、のちに今のハリマ化成です。校門が現在も残っております。

・・今から53年前のことです。

     この「平岡町二俣探訪」は、歴史を中心に書いるといいながら、時系列になっていません。内容の取り上げ方にも統一性がありません。とにかく、分かったことから書いています。ですから、どんどん投稿ください、「最後に整理ができたらよいな」と考えています。

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平岡町二俣探訪:二俣村は古宮組の村

2009-06-28 14:42:39 |  ・加古川市平岡町

「平岡村二俣誕生」で紹介したように、明治22年4月1日、平岡地域の村々が合併して「平岡村」が誕生しました。

この時、二俣村は、平岡村二俣となりました。

それでは、平岡村となった旧二俣村・高畑村・西谷村等々の各村は、江戸時代一つのまとまった地域だったのでしょうか。

  二俣村は古宮組の村

         高畑・西谷・新在家は寺家町組の村

Puaru_042 少し説明が必要のようです。

江戸時代、各村には村を治める庄屋(しょうや)が置かれていました。

庄屋は、大庄屋(おおじょうや)の支配下にありました。

大庄屋は、各村の庄屋をまとめ、指導する庄屋のことです。

つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、大庄屋はふつう十五ヵ村ほどの村々を治めていました。

大庄屋の支配する地域を「組」と呼んでいます。

組の名は、ふつう大庄屋のいる村の名で呼ばれます。

それでは、現代の平岡町にあった村々は、同じ組にあったのでしょうか。答は、「ノー」です。

平岡地区の新在家、高畑、西谷、土山の各村々は、寺家町組(図の緑)に属していました。

山之上、一色、中野、八反田そして二俣の各村々は、現在の播磨町の村々とともに古宮組(図の赤)に属していました。

野口地区の古大内、二ツ屋、坂井そして別府の西脇村も古宮組に属していました。

江戸時代、二俣村は、現在の播磨町と同じ行政区に属していました。

これは、二俣村が古代より阿閇庄の村に属し、また新しくは新井の村々としての結びつきがあったと思われます。

これに対し、寺家町組は、街道筋という共通の性格を持った地域でした。

江戸時代も終わり頃から明治時代になると、各村々の性格・利害もずいぶん変わりました。

二俣村の生活は、すっかり高畑・西谷、つまり寺家町組の村々との繋がり方が、播磨町の各村々よりも強くなりました。

そのため、明治22年、行政地区の大改革(大合併)が行われ時、二俣村は平岡村二俣となりました。

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平岡町二俣探訪:新井物語⑦・魚つかま~えた!

2009-06-27 21:53:58 |  ・加古川市平岡町

「新井」の思い出を大西晃さんが書いてくださいました。

  魚をいっぱい捕りました

659b0002_2 新井は、5月から9月末までしか流れていませんでしたが、所どころに洗い場があって、野菜を洗ったり、洗濯したりしていました。  

川上で、子供が小便していても、「3m流れれば、水はきれいになっている」と言われていました。

新井の水は、本当にきれいで、魚もいっぱい泳いでいました。

手作りの竿にテグスに針をつけ、「雑魚つり」が楽しみでした。

釣った魚は、捨てたりはしません、炊いて食べるか、長期保存用に昼干して、良いカルシュウム源でした。

うなぎが石垣の中にいましたので、うなぎ捕りも楽しみの一つで、食用蛙も食べていました。おいしかった。

しかし、足のついたままの料理には、手が出ませんでした。

大きなドジョウもいて、その大きなドジョウを味噌汁に入れれば最高の汁でした。

また、新井の一部に砂地のところがあって、そこにシジミ貝が多く住み着き、肝臓に良いんだと言って採っていました。

と言うことは、食べれるものは、何でも食べていました。食糧難の時代でしたので、いかしかたないですね。

   ホタルの里

5月下旬頃から、夕方には、蛍が舞い、蛍取りも楽しみのひとつでした。

手で掴もうとすると、土手のすすきで傷つき、血が出ていましたが、血止めの草があって、手に当ててがまんしていました。

新井土手には、桑の木が植えてあって、葉は蚕の餌にしていましたが、桑の実は非常においしく、手や口を真っ赤にしながら食べていました。

野いちごもたくさんあって、腹が減ったら、新井土手へ行っていました。

冬は、水が流れていませんが、防火用水用に堰こまれていました。

丁度、そこに氷がはっていて、ミシ、ミシと氷が裂けていても氷の上で遊んでいました。

今は、全く氷がはりません。

今はその頃に比べれば暖冬ですね。70年ほど前のことです。

第二次大戦中(昭和16年から20年8月まで)は、空襲警報が鳴れば、新井の橋の下にかくれたり、機銃掃射のときは地上30m位まで降りてきて、飛行機に乗っている兵士が眼鏡をかけ、ガムをムッチャムチャしているのがはっきり見えました。

戦後も食糧難は続きました。本当に「ひもじかった」時代でした。

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平岡町二俣探訪:新井物語⑥・坂田啓太郎

2009-06-26 22:41:50 |  ・加古川市平岡町

069_2 新井の工事に動員した人足は、延べ16万4千人で、一日に数百人が働いています。

この工事の費用について、詳しくは分からないのですが、原則として、藩の負担でした。

もっとも、各村では年貢とは別に、村の石高に報じて労役に義務もあったらしい。

ともかく、一年あまりで新井を完成させました。

この時、新井の水の配分や水役の規則(慣行)もつくられました。

これらの、慣行は明治中期まで続いていす。

水利慣行は時代とともに不都合なカ所が生じました。また、水争いなどがしばしば起こるようになりました。

 坂田啓太郎

060_4 二俣の坂田啓太郎は、これらの諸問題の解決に熱心に取り組みました。

現在、彼の功績を記録する記念碑「坂田啓太郎君記功碑」(写真上)が、現在、播磨町役場敷地内(中央公民館横)にあります。

説明板があるので読んでおきます。

「・・・功績碑は、明治連合土木会を創設し、用水路管理と水利慣行改善に尽力した坂田啓太郎の功績を顕彰し、明治41年(1908)8月、新井郷関係者が建立したものです。

これらは、野口村二ツ屋(加古川市野口町)大歳大明神に建てられていましたが、敷地整理のため、昭和5512月に当地に移築されました」

碑文は、漢文で書かれています。

内容については、『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)で、次の三つにまとめておられるので、転載させていただきました。(一部書きかえています)

      明暦(17世紀半ば)以来の旧慣を改め、新時代に応じた組織運営をはかったこと。

     「一郷一家也」とさとし、新しく「配水委員」を置いて、水の公平な分配につとめ、水争いの原因を取り除いた。

     災害で壊れた場所を石の堰に改めるなどの事業の積極的な推進に功績があった。

啓太郎は、二俣の庄屋を世襲したのち、明治22年、平岡村初代町長にえらばれました。

村長を辞した後も水利事業に大きな役割を果たし、明治44年亡くなりました。75才でした。

彼は、二俣の円明寺に眠っています。

暑い日でした。啓太郎の墓を捜しに円明寺に出かけました。墓が見つかりません。それもそのはずです。啓太郎の墓(写真下)は無縁墓地の中にありました。

これほど高名な人物の墓が無縁墓地にまぎれている例を他に知りません。

*なお、元の碑文及び、読み下し文が同書にあるので、詳しくはそちらをご覧ください。

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平岡町二俣探訪:新井物語⑤・新井と池

2009-06-25 23:54:57 |  ・加古川市平岡町

 296ecce6 黒く塗りつぶした池に注目してください。

 明暦二年(1656)、新井は完成しました。それに伴って、「池は不必要になった」かというと、そうではありません。

 この地域は、もともと水の得にくい土地がらでした。

 そのため、これらの池に水を確保するために「新井」が掘られたといってもよいほどです。

 用水完成後も、しばしば十分な水が得られない年がありました。

 新井は、加古川・尾上の田畑を潤す「五か井用水」とは違い、勾配がほとんどありません。そのため、新井は満水にして水位を上げなければ、水は流れてくれません。

 新井(13km)の分水地の標高は約12mであり、終着「大池」の標高は約5mです。

 しかも、「新井」は、「五か井用水」の取入れ口と同じす。

 従って、旱魃のときは、「五か井」を優先させ、「新井」の分水口をせき止めるという条件までありました。

 池を潰して、新田を作るという余裕なんてありません。黒く塗った池が、新井から取水している池です。

 新井と池がともに稼動して、この地域の水は何とか確保されるという状況でした。

 新井の北側の池は、「新井」より土地が高いため、取水することができません。これらの池は、依然として、雨水が最大の水源でした。

 新井用水にそった池の多くは、古い時代に造られたようですが、記録がありません。

 二俣(村)の大部分は、新井より北の高台にあります。新井の水は利用できません。

 新井の完成後も二俣村では、依然として大池が命綱でした。

 記録がないので、以下は推測です。

 日照の年は、大池の水もかれてしまいました。新井の水も使えません。二俣村の作物は枯れ、その後には、きまったように飢えがまっていました。

 明治20年前後の二俣の職業を調べました。「二俣村は商業がさかんな集落」と書きました。 

 これは、農業だけにたよっていては生活が成り立たなかったことの裏返しのようです。

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平岡町二俣探訪:新井物語④・逆勾配

2009-06-25 10:34:34 |  ・加古川市平岡町

Ad80a147  「新井(しんゆ)」については、『今里伝兵衛と新井の歴史』(新井水利理組合連合会)等すばらしい研究書があるのでそれ等をご覧ください。

 ここでは、新井と二俣(村)とのかかわりを中心に取り上げてみたい。

新井は図のように加古川大堰のところから、曇川(くもりがわ)・喜瀬川をこえて古宮(播磨町)大池まで約13キロを流れる用水です。

順調に進んだように見える工事も途中、さまざまな難工事にぶつかりました。

 用水の取り入れ口から流れた水は、水足から坂本までは台地の麓をとおって古大内(ふろうち)に流れました。

そこから、新井は東に方向を変えています。ここも、新井の北は台地の面であり、南だけ堤をつくれば溝ができあがりました。

  逆 勾 配

困ったことがおきました。二俣のところで地形がやや高くなっているのです。水は高いところを流れてくれません。

坂元から二俣まで水路の幅が一間半(2m70cm)、二俣から水の勢いを保つために、古宮まで一間としました。

工事は、順調に行ったかに見えたのですが、勾配の関係で二俣のところで水が、うまく流れてくれません。

 伝兵衛は「流路を変更するべきか・・・」と、ずいぶん迷いました。名案が浮かびません。

食事が喉を通らない日が続きました。

ある日、妻に、そんな悩みをフッともらしました。

妻は、手桶に水を入れ「水は勢いをつければ高いところへも流れるのでは・・・」と伝兵衛に話しました。

これにヒントを得て、流を工夫したというエピソードが伝えられています。

 真偽のほどはともかく、二俣あたりは困難な工事のようでした。

 『阿閇の里』(播磨町)は「・・なお、戦後のコンクリート舗装の時、逆勾配の部分は掘り下げている。例えば、二俣では30センチメートルも掘ったとのことである。(井上勝利氏談)」と書いています。 

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