ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

瀧瓢水研究④・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓碑①

2011-10-28 12:51:51 |  ・加古川市別府町を歩く

「瀧瓢水研究」も本号でno4になりました。

3号までは、少し瓢水について復習しました。

1号でお知らせしたように「瓢水の父・母の見つかる」の話題へと進みたいと思います。

読者の方から、そろそろブーイングが聞こえてきそうですから・・・

 

     瀧家の墓

034瀧家の墓地は西町の墓のやや西寄りの墓地内のメーン通りに添って東側にあり、よくわかる場所にあります。

ただ、墓碑には戒名で、瀧とは刻まれていません。

写真を参考にされてお参りされてはいかがでしょうか。

瓢水は、瀧家の四代の頭首です。

初代は元春、二代は清春(瓢水の祖父)です。

三代が仲春(瓢水の父)です。

墓碑には、戒名のみなので、瓢水の母・参そして、それぞれの戒名を紹介しておきます。

初代(元春)  月高浄透

二代(清春)  全快清春

三代(仲春)  覺元浄法信

瓢水の母(参) 勝林栄舜

瀧家の墓地には、初代・二代頭首の墓碑があるのですが、三代つまり瓢水の父、そして母さん(参)の墓碑が見当たりません。

かつて、あったという話を聞きました。

特に、「さればとて 石に蒲団は かけられず」のモデルとされる瓢水の母の墓碑を探がしまわりました。でも、見つかりませんでした。

でも、最近(今月)地元のKさんから「瀧さんの御先祖の方から三代と瓢水の母と父の墓碑は、震災で傷みが激しくなっていたため、少し修理をし、同じ西町の瀧家の墓地から少し離れた場所に移してしています」との連絡があったことをお聞きしました。

そして、案内していただきました。

ありました!・・・・

まさに、まさにお父さんとお母さんの墓碑でした。

写真・説明等は次号です。

 <蛇 足>

写真:瀧家墓地の初代頭首の墓碑には二人の戒名があります。向かって左の戒名は、初代・元春の奥さんの戒名です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀧瓢水研究③・瀧 家

2011-10-28 07:43:39 |  ・加古川市別府町を歩く

瀧家は辻堂(別府町元町)のあたり

Befu_115   瀧瓢水は、貞享元年(1684)別府村に生まれました。父は、瀧新右衛門仲春、母は参といいました。

 家は、現在の別府町元町にある辻堂(写真)のあたりで、約100m四方もある広大な屋敷でした。

 家業は、叶屋と号し、別府港を拠点とし、大坂や西国と手広く商いをしていました。

 千石船七艘を有したというから、その豪商ぶりを知ることができます。

 瀧家は三木合戦で籠城し、落城(天正8年・1580)後は現在の加東市滝野町で暮らしましたが、新右衛門元春(天正六年生まれ)は、別府村に移りました。

 三木合戦で最初に攻防のあった別府城のあった場所は分かっていませんが、戦況・地形から考えて瀧家のあった辻堂あたりがふさわしいと考えられます。

 ともかく、三木合戦後、別府城は取り壊され、広い跡地が残ったと想像されます。

 瀧家は、その場所に屋敷を構えたと想像します。史料があっての話ではありません。

 そこは、船の出入りする別府川の河口に近いし、また住吉神社のあたりの海岸は、現在の地形と異なっていました。

 住吉神社の西のあたりは、別府川がS字状にまがった湛保(たんぽ)という船溜まりであったという記録もあります。

 瀧家は、そんな別府の港に目をつけたのでしょう。

 三木合戦を最後に、戦争のない平和な時代へとかわりました。

 農業は大きく発展し、それに伴い商業活動もさかんになりました。

 別府の浜は賑わい、瀧家は海運業者として時流に乗り大いに繁栄しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする