ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(219):稲美町の文学碑①・天満大池の記念碑

2010-05-31 00:04:47 |  ・稲美町文学碑

人には不向きなことがあります。

文学に鈍感な人が、文学を語るとき「ええ加減に止めてくれ」という声が聞こえてきそうです。

文学に鈍感な人とは私のことです。

でも、稲美町を探訪するとき、万葉集を避けて通ることができません。

万葉集を中心に、あえて稲美町にある文学碑を訪ねてみることにしました。

しばらくご辛抱ください。

今、六分一近辺を歩いていますので、天満大池にある「天満大池記念碑」にある歌を紹介することからシリーズ「稲美町の文学碑」を始めます。

ただ、まずい解釈はいらないと思うのですが、ご容赦ください。

               天満大池記念碑の歌

Inamimachi4_041 昭和20年の台風により池の南西部の堤防が決壊し、下流に大災害をもたらしました。これをきっかっけに昭和28年、改修工事が行われました。

この記念碑(写真)は、昭和3810月の建立です。

この竣工記念碑に元稲美町長大西一雄氏の短歌が記されています。

その後、堤防の老朽化が進み、昭和60年度に「県営ため池整備事業」が採択され、大規模な改修が行われました。

平成9年(1997)大規模改修工事が完成し、天満大池は現在の姿になりました。

     千代にかけて 瑞穂豊かに みのるらん

       水をさまりし 今よりにして

                    作 大西一雄

  (意味)

   (池の竣工により)水はしっかりおさまりました

これからは、末長く豊かな稔りが続きますよ

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稲美町探訪(218):国境の集落

2010-05-30 06:39:38 | 稲美町

県道志染土山線(514号線)の六分一の交差点の南東の角に「六分一山見張り地蔵」(写真)があります。

このお地蔵さんにつて『稲美町史』は、次のように書いています。

一、創建以来百年か。

二、昔、この六分一山には追剥がしばしば出たので、それを見張ってもらうために建てたというが、現在は小野・社・西脇方面から国道に通ずる交差点として、極めて交通が頻繁で、したがって危険も多いので見張って下さるものと人々は信じている・・・

先日、写真を撮りに行ったのは昼過ぎでした。車がビュン・ビュンと通り過ぎていきました。

おばあさんが、右側通行で自転車を運転されていたんです。

ヒヤヒヤしました。

   ここは国境地帯

Inamimachi4_031 江戸時代、このお地蔵さんのある場所から数メートル南へ、そして東へ行けば、明石藩でした。

もちろん、お地蔵さんのある六分一村は姫路藩です。

六分一村は、まさに明石藩と姫路藩の国境にある集落でした。

今でも「明石市よりも加古川市に親近感を持つ」という人が結構多いと想像するのですが、いかがでしょう?

江戸時代は、藩が違えばそこはまるで別の世界でした。

六分一村は、そんなボーダーにある集落でした。

国境を越えれば警察権の埒外になりますから、当然治安も悪くなります。

したがって、『稲美町史』にある「この六分一山には追剥がしばしばでた・・・」ということは案外事実であったのかもしれません。

   開発も遅れたのか?

それに、姫路(明石)藩主は藩内には絶対的な権限を持っていました。

そのため水利・新田開発などには、藩内の村々には何かと命令を出すことができたのでしょうが、他の藩の村々には、その権限が及びません。

ボーダーの地域は藩を越えた開発が必要となりますが、多くの障害があります。

藩主は、藩を越えた地域に対して命令は出せません。

そのため、江戸時代、六分一山辺りは開発が遅れ、長い間、林のままの場所が残っていたのでしょう。

「六分一山見張り地蔵」があるのは、そんな国境(ボーダー)の寂しい地域でした。

風景はずいぶん変わってしまいました。

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稲美町探訪(217):天満宮と御旅所

2010-05-29 00:05:08 | 稲美町

Inamimachi4_038_2 御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼において神(一般には神体神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所です。

御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われます。

もともとの現在の天満神社の場所が御旅所でした。

寛平5年(893)現在の場所に「池大神」を遷し、それにともない御旅所を別の場所に遷しましたが、その後現在の場所(六分一字船引)にお旅所を定めました。

写真(写真上)は、天満神社の御旅所地蔵堂です。

   神仏混淆(しんぶつこんこう) 

8a488ef この地蔵堂には、稲美町の有形文化財である地蔵菩薩立像(写真下)が祀られています。

基礎部には「延文元年(北朝1356)」の年号があり、現時点で町内最古の石造物です。

神社の御旅所に地蔵像とは不思議な感じがしませんか。

このことについて『知っておきたい日本の神様(武藤誠著)』を読んでおきましょう。

 ・・・・6世紀のなかば、仏教が伝わった。そこには有益な知識や技術が含まれていた。

 平安時代のはじめになると、神社側では「このままでは、自分たちは時代おくれになるぞ」と言う声がひろまった。

 そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事を行った。

 また、仏教がわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めることができた。

 中世以降、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)によって、「日本の主だった神様は、仏が仮の姿で現れたものだ」とされた・・・(以上、『知っておきたい日本の神様』より)

 このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していました。

 しかし、明治政府は、仏教と神道の分離を命じました。

 明治以前、神と仏は融合(神仏混淆)していました。御旅所と天満神社もその代表的な例です。

*『稲美町史』・『元気まち ふるさと いなみ』(稲美町商工会)参照

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稲美町探訪(216):願かけの「つぶて」

2010-05-28 10:04:56 | 稲美町

Inamimachi4_033 天満大池から六分一の本村への入り口にあるお旅所地蔵堂に来ています。

お旅所地蔵堂については、次号で紹介することにします。

まず、地蔵堂の前に鳥居に注目してみましょう。

この鳥居は、約800メートル北にある国安天満宮に正対して建ち、室町時代末期~江戸時代の前期の作とみられています。

こぶりの鳥居(稲美町有形文化財)です。

   願かけの「つぶて」

きょうは、どこにでも見られた話です。

この鳥居に数個の石が載っかかっていました。

かつて、鳥居に石ころが載った風景は、どこでも見られました。

Inamimachi4_035_2 「悪戯(いたずら)かな・・・」と思われた人も居られると思います。

『つぶて(中沢厚著)(法政大学出版センター)の一節を読んでみます。

・・・どうしてあのような所(鳥居)に小さな小石が載っかかっているのか不審があって見上げた人もあるだろう。

「願かけのつぶて」ともいって、これは全国的な信仰習俗です。

何かを願って小石を投げ、「うまく載っかかれば願いがかなう」という一種の占いにも通ずる・・・(以上『つぶて』より)

つまり、神様に自分の願いがつうじ、「神様からのOKのサインの証が鳥居に載っかかった石ころ」だというのです。

このように石投げは本来、神と人間の交流の手段であったようです。

やがて石に代わりお金が投げられるようになったのが賽銭であると考えられています。

最近では、こんな風習を見ることも、すっかり少なくなってしまいました。

このおじさん(私のこと)「お金がたまりますように・・・」と鳥居に小石を投げてみました。

石ころは無残にポロリ・・・・

金運はなさそうです。神様に拒否されました。

 子どもが神社の境内で遊ぶことも少なくなりました。

石投げの習俗も急速に影をひそめつつあるようです。

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稲美町探訪(215):六分一村の地租

2010-05-27 11:17:58 | 稲美町

887bf7f6 重い税でした(地租改正)

今、天満大池・六分一で話題がとまっています。

もう少しだけこの辺りを散策してみます。おつきあいください。

前号では、六分一村の新租額(地租)の内示を示すめずらしい文書(六分一水利組合蔵)を紹介しました。

『播磨地種便覧』(明治15年12月発行)に、実施された地租の数字がありますので紹介しておきましょう。

この地租(租額)は、江戸時代と比べても重税になり各地で「地租改正」に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。

『播磨地種便覧』の六分一村の地租の数字は、地価の2.5%です。

  地租、しめて1366円67銭3厘(明治14年1月)

六分一村      戸数 92戸 

             人口 458人  

一 田、 50町7反8畝29歩     地価3万5397円4銭1厘 

                   地租884円93銭7厘 

一 畑、 50町9反5畝14歩   地価16628円26銭8厘 

                   地租415円70銭8厘 

一 宅地、 4町8反7畝10歩   地価2492円8銭9厘 

                   地租62円30銭 2厘

一 林、 41町4反2畝6歩    地価146円97銭 

                   地租3円68銭

一 芝地、 3反4畝11歩     地価19銭9厘

   地租5厘  

一 藪地、 42畝19歩      地租1円66銭4厘

    地価 4銭1厘 

 一 草生地、  3畝19歩     地価 2銭7厘       

                   地租 厘位未満  

合計反別、 148町8反4畝18歩  地価5万666円25銭8厘 

                   地租1366円67銭3厘 

外に無税地反別61町1反1畝5歩、及び堤防敷地3町7反7畝1歩 

六分一村は畑地が多いようですが、この地域としては天満大池の水があり水田が比較的多い地域です。

そして、林が約41町多いのが特色です。六分一山辺りはうっそうとした林であったのでしょう。

無税地が61町と多いのは天満大池が無税地であったためです。

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稲美町探訪(214):新地租額内示(六分一村文書より)

2010-05-26 14:15:01 | 稲美町

 「天満大池物語」は、いったん終了して、次の話題に移ります。

    地租改正 

 「地租改正」の復習です

現在、稲美町の中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)に、「地租改正」を次のように説明しています。 

「・・・政府は、まず土地を所有する権利を認めて、田畑の売買を自由にしました。 

次いで、1974(明治6)年から、全国の土地の面積やよしあしを調べ、土地の値段である地価を定めました。 

土地の所有者には地券をあたえ、土地の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。 

これにより、土地についての税金の負担と集め方は、全国一律となりました。 

これを地租改正といいます。・・・江戸時代の年貢の総量と同様になるように計算されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした」 

その後、各地で地租改正に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の25%に切り下げています。 

    明治八年、租税収納目録

5bc0d835 当時の県令・森岡昌純は、明治8年、地租改正の基礎となる地価の決める測量に取りかかりました。

*明治8年は私たちの地域は飾磨県で、今の範囲の兵庫県は明治9年に誕生しています。

そして、明治11年、新祖額が決められました。

その不当な新租額の決定から母里村を中心に凄まじい農民の歴史が始まったことは先に「水を求めて」で紹介したとおりです。

『赤い土』(小野晴彦著)をぜひ一読ください。

*稲美町探訪(『水を求めて』40~60)をお読みいただいても結構です。

ここに縦32㎝、横1m47cmの六分一村と野際新村に対する『明治八年乙亥租税目録』(写真:上段六分一村、下段野際新村)があります。

この目録によれば六分一村の新租税は、九百弐拾一円九拾弐銭九厘(野際新村、八拾七円弐拾七銭七厘)となっています。

新租税収納の決定額は、先に記したように明治11年に決められるので、この目録は最終決定の祖額ではなく租額決定のための調査による内示として、あらかじめ六分一村に知らせた目録と思われます。

めずらしい記録(文書)です。

それにしては、仰々しい大きさの目録です。

租税徴収に対する県令の並々でない、決意を各村々に伝えているようです。

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稲美町探訪(213):天満大池物語⑯・六分一村の古文書

2010-05-25 14:03:49 |  ・稲美町 天満大池物語

  六分一村の古文書類

Inamimachi4_020 ある学習会の都合で、天満大池について調べてみる必要ができました。

いつものことながら、『稲美町史』から調べはじめます。

なんとか「天満大池物語」としてまとめてみました。

でも少し、物足りなさが残ります。

そんな時でした。

地元の方に、「天満大池について史料等はないでしょうか」と相談してみました。

すると、天満大池土地改良区や六分一水利組合を紹介してくださいました。

それだけでなく、一緒に付き合ってくださいました。

稲美町の方は親切です。ありがとうございました。

紙面を借りてお礼申し上げます。

江戸時代の古文書の現物は見ることはできなかったですが、江戸時代の六分一村の古文書のコピーがあり見せていただけました。

また、六分一水利組合では明治時代以降の書類がたくさん保存されていました。

それらも見せていただけることになりました。

まだ、ざっと目を通しただけですが、水利組合保存する文書類ですから江戸時代の古文書も明治以降の文書類も水利に関する文書殆んどで、それも「係争」に関するものが多いようです。

宿題ができました

Inamimachi4_026 これらの文書の内容を明らかにすることにより、江戸時代・明治時代の六分一村とその周辺の村々の事情が明らかにできそうです。

でも、困ったこがあります。

古文書がよく読めません。

詳しい方は、手伝ってください。

さいわい退職の身、時間がいっぱいあります。

「文書」としばらく格闘しようと思います。

そして、文書類を整理しながら、その都度明らかになった事柄をお知らせしようと考えています。

地域史は、こんなことに出くわすから面白いんです。

写真上:字大池之図(明治9年5月作図)

  下:明治26年の(水利)訴訟関係綴り

  共に六分一水利組合蔵

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稲美町探訪(212):天満大池物語⑮・天災にも注意を!

2010-05-24 15:42:01 |  ・稲美町 天満大池物語

Inamimachi4_012 昨夜から雨が続いています。

雨は、天満大池は大池の水を満たし、やがて始まる田植えの準備をします。

大池の水は多くの流(りゅう)からも集まりますが、主に喜瀬川(喜瀬川の上流部を地元では枯川といっている)の水が天満大池に流れます。

   天災にも注意を

天満大池の南西隅に喜瀬川からの取水堰(写真上)があります。

昔は、この周辺には人家がありませんでした。

従って、大雨で水が堤防を溢れるようなことがあっても、被害は、大きくはありません。

最近は事情がちがっています。多くの住宅ができました。

喜瀬川の水が溢れては大変です。

1945109日には、台風の大雨と上流部の長法池(ながのりいけ)が決壊したことが重なり、大洪水がおきています。

最近は、集中豪雨も増え、台風も大型化する傾向にあります。警戒が必要です。

   天満大池への取水・排水堰は改善されたが

Inamimachi4_014 そのため天満大池の取水堰は、流がスムーズに行われるよう大幅に改良されました。

以前は水の取り入れ口のすぐ下に堰をつくり、水を天満大池に取り入れ、余った水はその堰を越えて流れる仕組になっていました。

が、現在は取水堰のすぐ横に設けられたゲートは、調節できる転倒ゲートになりました。(写真中)

Inamimachi4_018 また、満水の時は取水堰のゲートは下げられ、喜瀬川の水を、そのまま下流に流すようになりました。

そして、大池の水を吐き出す洪水吐(写真下)を、取り入れ口から少し西にずらし、配水しやすくしています。

それにしても、最近は予期せぬ天候が全国でしばしば起きています。

施設にたよることなく、防災についても注意が必要のようです。

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稲美町探訪(211):天満大池物語⑭・天満大池「ため池百選」に

2010-05-21 12:49:51 |  ・稲美町 天満大池物語

   天満大池「ため池百選」に選ばれる

122 農林水産省は、このほど日本の「ため池百選」を選びました。

兵庫県から歴史や景観そして農業での重要な役割を果たしている池として、全国でもっとも多くの6カ所が選ばれました。

そのうち播磨から百選に選ばれたのは、天満大池(写真)、寺田大池(加古川市)、「いなみ野ため池ミュージアム(明石、加古川、高砂市、稲美、播磨町)」、西光寺野台地のため池群(姫路市)、長倉池(加西市)です。

昨年、全国から応募のあったため池の中から、まず生物の多様性や地域とのかかわりなどの基準を満たす287カ所百選の候補になり、一般の投票の結果などを参考に有識者による選定委員会が決定しました。

同省農村振興局防災課の担当者は「百選にはそれぞれに特色があり、地元の『売り』になるはず。

ため池サミットなどを開いて、地域間の交流につながれば」と話しておられます。

<ため池ミュージアム>

 東播磨地域(明石、加古川、高砂市、稲美、播磨町)には県下で最大の加古大池や最古の天満大池などのため池、絶滅の心配のある生き物が暮らすため池などがたくさんあります。

それらため池は、多くは水路で結ばれ群れを成して存在しています。

とりわけ印南野台地のため池は密集しており、文化財としても価値のあるものです。

「ため池ミュージアム」は多くの人の協力のもと安全・安心で快適な水辺づくりと魅力ある地域づくりを進める会です。

*神戸新聞参照

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稲美町探訪(210):天満大池物語⑬・大池と秋祭り

2010-05-20 16:09:26 |  ・稲美町 天満大池物語

  天満神社の秋祭りと大池

稲美町の10月は秋祭りの季節でした。

天満神社の秋祭りは、明治41年までは陰暦9月9日に行われましたが、明治42年より新暦の1015日に行われるようになました。

そして現代は、10月の第2土曜日(宵宮)・日曜(本宮)に行われます。

秋の収穫はまだ始まらないのですが、その年の作柄は大体予想できる時期です。

農村にとって、秋の秋祭りは地域の最大の祭りでした。

288ca140  神輿渡御(みこしとぎょ)

勢いよく神輿(みこし)は、天満神社の周囲をめぐります。

そして、大池のほとりまで行って神輿を水に沈めます。

まず、天満神社の方向から北池に、お神輿を投げ入れます。

そのあと、かつぎても池へ飛び込み、お神輿は3,4回浮き沈みさせます。

大きな歓声が起こります。

大池は天満地区の農地の半ば以上の用水池です。

大池の満水と五穀豊穣を祈願する信仰から、この行事を行うようになりました。

   賑わいと喜びが溢れていました

6b1a0270 午後の2時過ぎから始まったみこしの行事は終わりに近づき、池の堤を南へ向かってお旅所へ渡るころには、網秋の短い日は西に傾き初めています。

池の西南端のお旅所で式があったあと、再び本殿のほうに帰ってくる頃はもう薄暗くなります。

写真下は、昭和初期のお旅所での神事を終えて天満大池の堤を本宮へ帰ってきている時の写真です。

辺りは夕闇に包まれています。

秋祭りの賑わいと喜びがありました。

それにしても、今の大池の堤と比べて、土手と水面が近いですね。

*写真上:神輿渡御(『稲美町史』より)

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稲美町探訪(209):天満大池物語⑫・アサザ②

2010-05-19 14:10:03 |  ・稲美町 天満大池物語

Inamimachi4_003 「稲美町探訪(208)」でアサザを紹介しました。

それに「・・(アサザ)を、まだ見たことがありません。見たことのない花について紹介することは、ちょっと読者に失礼なような気がする・・・」と書きましたが、さっそく「今、天満大池から移植したアサザが万葉の森に咲いています・・・」というコメントをいただきました。

小雨でしたが、万葉の森に出かけました。

スリッパで出かけたものですから、滑って靴下がビショぬれになってしまいました。

黄色い可憐なアサザ(写真)がいっぱい咲いていました。

  アサザ万葉集に詠まれる

帰りにハンドルを握りながら、「万葉の森に移植してあることは、万葉集にアサザが詠われているのではないか?」と思い、調べてみました。

万葉集に一首だけですが、アサザが詠まれています。

一緒に詠んでおきましょう。

 「アサザ結垂れ・・・それそ吾が妻」

うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひた)土に

足踏み貫き 夏草を

腰になずみ いかなるや 人の児(こ)故え

通はすも吾子(あご)うべなうべな 母は知らず

うべなうべな 父はしらず

Inamimachi4_006 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に ま木綿(ふゆ)もち

アサザ結い垂れ 大和(やまと)の

黄楊(つげ)の小櫛(おぐし)を 押へ挿す

うらぐわし児 それそ吾(あ)が妻    

万葉集巻13の3295(作者不詳)

三宅の原を はだしで歩いて 足を痛め

夏草に 腰をからまれて まあ! どのような 娘ごだろうか

せっせと通うのか我が息子よ 

母上はご存知ないだろう 父上もご存じないだろう

黒髪に木綿の緒で アサザを結いつけて垂し

大和のツゲの櫛で押さえている 本当にきれいな娘

それが私の妻です

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稲美町探訪(208):天満大池物語⑪・アサザ

2010-05-18 11:57:58 |  ・稲美町 天満大池物語

213ce2c9 天満大池のアサザを紹介したいのですが、まだ見たことがありません。

見たことをない花について紹介することは、ちょっと読者に失礼なような気がします。

今年、秋の天気のよい日に水面に広がるアサザを見学し、紹介したいと思います。

水面に揺れる黄色いアサザの花が待ち遠しいです。

その時は、アサザ上をトンボが飛んでいるかもしれません。

きょうは、パンフ『天満大池地区』(兵庫県三木土地改良事務所発行)に大池のアサザの説明と写真がありますのでお借りします。

   アサザ(絶滅危惧種)

25c9670f (パンフ『天満大池地区』より)

天満大池には絶滅の恐れのある水生植物「アサザ」(兵庫県版レッドデータブックでAランク、日本版レッドデータブックの絶滅危惧種相当)が生育しています。

アサザは、ミツガシワ科の多年生植物で、夏にはキュウリに似た黄色い花を咲かせます。

かつては本州以西のため池・水路などに群生していたのですが、池の埋め立て工事、水質の悪化により、ここ10年くらいの間に急速に減少しています。

兵庫県では、天満大池など数ヶ所で確認されているのみとなっています。

375fd2f5 平成元年頃に工事のためか、いったん姿を消したアサザですが、平成8年夏に再び姿を現しました。

このことからアサザを保護しようと、行政、自然保護団体、地元住民が協力して移植作業をおこなうことになりました。

    写真上:アサザを丁寧に掘り起こして、移植しているところ

写真中:アサザの花(直径3cmほどの黄色い小さな花)

写真下:水面一面のアサザの群落(平成9年初秋撮影)

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稲美町探訪(207):天満大池物語⑩・水争い

2010-05-17 15:47:54 |  ・稲美町 天満大池物語

天満大池の水源は、神出の天王山(雌岡山)あたりの水です。 

掌中流は、それらの水を蛸草郷(中村・森安村・六分一村・国安村・北山村・岡村の六ヵ村)に運ぶ大きな流(りゅう)でした。 

それだけに、この流をめぐる争いは古くからあいつぎました。 

    岡流 (おかりゅう)

099 掌中橋から約1キロ掌中流を上流に歩くと手中池(神戸市西区)に着きます。

掌中流は、手中池に沿ってさらに雌岡山の方へ続いています。 

掌中流は幅が広く、深いおきな流です。 

この流(りゅう)は、手中池から一気に内ヶ池に沿って流れ、溝ヶ池に集まります。 

そして、岡の田畑を潤し天満大池に再び集まります。 

天満大池の水は、古くから蛸草郷の村々の水源です。 

掌中流は、印南新村を突っ切りながら、印南新村を潤す水ではありません。 

印南新村が、この水を使ったり、池を造ろうとした時には蛸草郷の村々から抗議がありました。 

掌中流(てなかりゅう)は岡流ともいいます。つまり、岡村・岡の大池(天満大池のこと)への流(りゅう)でした。 

   明石藩の村々との水争い

困ったことが起こりました。

手中池は、現在は神戸市西区です。江戸時代は明石藩に属していました。 

印南新村と同じで、手中池の辺りは高台で水が十分ではありません。 

元和7(1621)この掌中流をめぐって争いがこりました。 

掌中流の上流の百姓は、新池を築いたのです。 

これに対して蛸草郷の村々は「新池を造られては、蛸草郷に水がこないので中止して欲しい・・・」と抗議をしました。 

他藩とのもめ事の解決は、しばしばこじれます。 

しかし、この時は蛸草郷の要求は、すんなりと認められました。 

これは、姫路藩主と明石藩主が義理の親子関係があり、話は比較的スムーズに進んだためと思われます。 

しかし、いつもそのようにうまく事が運ぶわけではありません。 

その後も堰を築いたり、それを壊したりの事件が、くりかえされています。 

しかし、大体において既得権が優先し、蛸草郷の要求が通っています。

*写真の橋は掌中橋、その下の流が掌中流(岡流)

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稲美町探訪(206):天満大池物語⑨・池大神

2010-05-16 19:32:42 |  ・稲美町 天満大池物語

国安天満神社の沿革

115 『稲美町史』より国安天満宮の沿革をみておきます。

①国安天満宮(稲美町国安)のは白雉(はくち)4年(653)、王子権現という錫杖地蔵を勧請して創建されたもという。

その場所は、国安東で、現在の神社のある地をお旅所としていた。

寛平5年(893)社殿を今の地に移し、池大明神(大年大神)を祀った。

天満大池は、白鳳3年(675)に築造された。

 

②延喜元年(9012月、菅原道真がこの地に立ち寄られたという縁で、後に京都の北野天神を勧請して池大明神の右側に奉納した。 

③明徳元年(1390)、大池に島を築き弁財天を祀るとともに、本社の主神の左側に弁財天すなわち市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀った。 

④永禄8年(15656月、本社を再建したが、この時に主神を天満天神(菅原道真)とした。 

    池大神

①に注目ください。祭神の池大明神は大池を神格化したもので、伝承はともかく大池の歴史は古く、白鳳の頃には築かれていたらしい。 

この地域を開拓した人々にとって、池(水)はまさに神であり、大池は池大神として祀られたのでした。 

先ず池大神が、次いで菅原道真が「この地に立ち寄られたという縁起」で、祀られました。

そして、「永禄8年(1565)、本社を再建した時に、主神を池大神から天満天神(管原道真)とした」というのです。 

天満神社は、池大神をお祀りする神社として出発しています。

天満大池そのものが御神体でした。

まさに、天満大池は稲をそだて、生活を豊かにしてくれる神だったのです。

池とともに生活した、古代の人々の水に対する気持ちが伝わってきそうです。

*写真:国安天満神社

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稲美町探訪(205):天満大池物語⑧・天満大池の伝承

2010-05-15 09:11:45 |  ・稲美町 天満大池物語

 いま、シリーズで「天満大池物語」を取り上げています。

今までに紹介した話題も再度紹介しています

きょうは「稲美町探訪(12)・天満大池の伝承」の再録です。

ご了承ください。

  天満大池 

すでに紹介したように、天満大池はかつて「岡大池」とも「蛸草大池」とも呼ばれ、白鳳三年(675)に築かれたといわれています。

「蛸草大池」の名称は、寛文6年(1666)の絵図面にもあり、おそらく「蛸草庄」を潤す「大池」として名づけられたのでしょう。

この天満大池には、次のような伝承があります。

E3a1760f 天満大池の伝承

室町時代前期にあたる1390年の正月のころでした。

ある僧がこの地にやってきて天満神社に逗留することになりました。

このころ夜になると雑魚(ざこ)が、プカプカ浮かぶのでした。

人々は怪しんで、このことを僧に相談すると、僧は「大池に弁財天はあるか」とたずねました。

村人は「ありません・・」と答えると、僧は「このような大池には、きっと竜が住んでいるはずだ。

これは竜の仕業である。島を築いて弁財天を祀るがよい・・」といいました。

村人は急いで島を築き弁財天を祀ると、その怪しいことがビタリと止んだといいます。

*弁財天は、女神でもとの姿は蛇です。

弁財天は、人々に富をもたらし、水を司る神としてあがめられていました。

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