ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(235):播磨町を歩く(116) 怒涛を超えて(8)・速鳥丸の建造

2014-08-31 06:09:09 | 播磨町

  清太郎ら故郷(本庄)へ帰る
 栄力丸の漂流者10人は、安政元年(1854712日、中国船で長崎にたどり着きました。
 浦賀を出てから、まる39ヵ月ぶりに踏む故国の土でした。
 長崎奉行所の役人が船改めをし、加古郡本庄村の浅五郎、潰太郎、甚八、喜代蔵等はお調べがありました。
 調べが終わると、10人は、それぞれ出身地によって、所属する領主のもとへ引き取られました。
 播州加古郡の本庄村の4人、浅五郎、清太郎、甚八、喜代蔵が、姫路藩に引き渡されたのは、安政元年1123日でした。
 姫路に帰った四人は、家族と面会の喜びを分かち合ういとまもなく、こんどは姫路藩から、長々と調べられ、それが終わるのは、翌安政二年(1855)214日のことでした。
 その記録が、「嘉永三年遭難漂流人口書(くちがき)」です。
 この体験記録は、播州の人々にはまことに珍奇にうつり、「写し」によってかなり広く読まれたようです。
   
大型船(速鳥丸)建造へ
Img
 秋元安民も、記録を読んで「漂流民の知識を利用する最良のチャンスだ」と。ひざをたたいたに違いありません。
 安民は、本で読んだ知識はあっても、実物は知りません。
 一方、浅五郎、清太郎ら漂流民は、外国船をふんだんに見てきているし、実際に乗り、細かい内部まで体で触れています。
 さらに、彼らは船乗りでもあったので、操作に関心も払っていました。
 「安民の理論と補い合えば何とかなるだろう」と、藩当局に大型船の建造を申し出ました。
 藩も大いに乗り気となり、さっそく取りかかるよう安民に命じました。
 秋元安民は、安政四年(1857)、「異国船形新船製船肝煎(きもいり)」という役に任命され、いよいよ四人を使い、室津(竜野市津町)で建造に取りかかりました。
 このとき、本庄村の浅五郎ら四人は苗字帯刀を許され、二人扶持(毎日一升の玄米)を与えられて藩に採用されています。
 この船は、翌安政5624日に完成し「速島丸(はやとりまる)」と命名されました。
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照<o:p></o:p>

  *挿絵:清太郎が描いた速鳥丸<o:p></o:p>

 

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さんぽ(234):播磨町を歩く(115) 怒涛を超えて(7)・栄力丸の遭難者は、ペリーとともに日本へ

2014-08-30 06:53:24 | 播磨町

  嘉永六年・幕府、大型船建造を許可<o:p></o:p>

  江戸の学者は、洋学色が濃厚でした。
 そんな中で、知識欲の盛んな安民が、洋書に親しんだのも当然でした。
 姫路藩に尊王壌夷を持ち込むことになった安民ですが、一口に尊攘といってもいろんな立場がありました。
 安民などは、時局に敏感だったので、あまりに保守的な姫路蕃内の眠った空気を打開しようと、尊壊をとなえたのだと思われます。
 あくまで「尊王」に重点があり、せっかちな攘夷に走る気持ちは、なかったと思われます。
 外国のよいところを取り入れようという気持ちがなければ、西洋型帆船を作る考えなど藩に進言するはずはありません。
 この安民の提案は、安政二年 (1855)のことで、たいへんタイムリーなものだった。
 というのも、三年前の嘉永六年(1852)、幕府は鎖国のため禁じていた大型船の建造を許可し、諸藩は争って造船に力を入れるようになりました。
 姫路藩も、海上の防備や物資輸送に優秀な船が欲しいところだったのです。
 おりもおり、実に都合のよい偶然がこれに重なる。
 あの栄力丸の漂流人が、五年の漂泊ののち、たっぷり西洋船の知識を持って播州へ帰ってきたのです。彼らは船乗りです。大型船の知識をいっぱい持って帰って来たのです。
  栄力丸の遭難者は、ペリーと共に日本へ来る予定だった
300pxkurofune_2
 またまた寄り道です。ジョセフ・ヒコについて、復習しておきます。
 ちょうどそのころ、アメリカでは東洋への関心が高まり、日本に開国を求めようとしていました。(*1853年・ペリー来航、1854年・日米和親条約)
 やがてヒコたちは、漂流民を日本に送り返して、国交開始のきっかけをつかもうとするアメリガ政府の方針によって、ハワイ、マニラ、香港を経てマカオまで送られ、そこで日本へ向かうペリーの東洋艦隊を待つことになりました。
 つまり、予定では栄力丸の遭難者を乗せ、日本との交渉に臨もうとしていたのです。しかし、ベリーの艦隊はなかなか到着しませんでした。
 ヒコに、一行の世話役のトーマスが、「もう一度アメリカに行かないか。そうすれば英語も覚えられる。二、三年後には日本も開国することだろうし、その時はだれにはばかることもなく帰国できる」との、すすめもあり、ヒコはアメリカへ引き返しました。
 他の漂流者は残り、上海に住む音吉の手引きで、ペリーの艦隊を待っていたサスケハナ号を抜け出しました。
 彼らは、以後さらに13ヵ月、中国に逗留し、安政元年(1854712日、中国船で長崎にたどり着きました。
 安太郎(西宮村)は、月のはじめから熱病になり弱っていましたが、長崎に着く前日の昼ごろなくなりました。30歳でした。
 *『故郷燃える①』(神戸新聞社)参照
 *写真:サスケハナ号<o:p></o:p>

 

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さんぽ(233):播磨町を歩く(114) 怒涛を超えて(6)・秋元安民

2014-08-29 07:15:57 | 播磨町

 きょうの「怒涛を越えて」には、播磨町は登場しません。
 少し遠回りをします。河合道臣と秋元安民の話ですが、後に彼らと播磨町が繋がってきます。
  
 仁寿山黌と河合道臣
 いまの姫路市阿保に、仁寿山黌という学校がありました。
 これは姫路藩の名家老・河合道臣(後の寸翁)が、文政六年(1823)に作った学校です。
 道臣は、天明六年(1786)から天保六年(1835)まで、実に50年近くの長きにわたり、姫路藩の家老として財政建てかかわり、みごとに借金ゼロに成功しました。
 この功績により、天保三年(1832)に家老上座という藩の最高職の待遇があたえられました。
   
秋元安民
Img_0001
 秋元安民ですが、少年時代、この仁寿山黌で学び、学者として立つ素地はこのときに養われたと思われます。
 仁寿山黌は、先に紹介したように河合道臣(寸翁)が藩主の許し得て建てた私立学校で、藩立の学校としては好古堂がありました。
 両校は、どちらも藩士の子弟を教えましたが、仁寿山黌は、他国・他藩の者の入学も許し、「家意識」の強い好古堂より自由な校風がありました。
 おのずから両校の対立が深まりました。
 道臣(寸翁)のなくなった一年後、藩内の思想統一のためにもよくないというので、天保十三年(1842)仁寿山黌は廃止され、藩の学校は好古堂一本となりました。
 それはさておき、仁寿山黌の廃校の時、秋元安民は19歳になっていました。
 保守的な好古堂で学ぶ気持ちになれなかったのでしょう。いったん脱藩の形で諸藩を旅行しながら学問を続けました。
 ところが、その安民に転機が訪れました。
 嘉永年間(1850ごろ)30歳のころに、姫路藩が好古堂に新しく国学寮を設けることになって、藩の命令で呼び返され、教授となりました。
 当時、黒船のうわさもさかんでした。姫路旛でも時代に遅れないための学問が求められたのです。
 安民は、江戸にいたとき、国学だけではなく、洋書にも手をつけていました。いつの間にか西洋形帆船の構造なども研究していたのです。
 少しだけ予告です。
 秋元安民は、播磨町の遭難者の見聞をもとに写真のような西洋式船を建造します。
 *挿絵:播磨町の遭難者の協力で造った西洋式の船
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照

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さんぽ(232):播磨町を歩く(113) 怒涛を越えて(5)・住清丸の漂流

2014-08-28 10:04:06 | 播磨町

    住清丸の漂流
    *『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)より転載
 Img_2
 嘉永2(1849)12月、大坂福島の木屋市十郎の持船・住清丸は兵庫を出帆し、江戸へ行きました。
 江戸からは干鰯と空樽を積み、浦賀でもまた干鰯を積み帰路につきました。
 嘉永3211日、伊豆の西ではげしい北風にあい、舵や擢を損傷し、24日に八丈島に漂着しました。
 乗組員は15人。
 漂着後島の人々に助けられ全員上陸したものの、船は流されてしまいました。
 島に滞在すること80日余り、52日に島の地役人の船で送還されています。
この住清丸の漂流には本町出身者が二人います。
 すなわち清太郎(西本庄村)・安太郎(宮西村)で、彼らは数か月後、再び栄力丸で漂流することになります。
 つまり生涯のうちで実に二度にわたり漂流を体験したのです。
   
清太郎、幕末史に登場
 遭難の遭難と栄力丸については、「ジョセフ・ヒコ物語(ひろかずのブログ)」をお読みください。
 栄力丸の遭難については、その他の書物でも紹介してありますのでここでは省略することにします。
 ただ、清太郎は、幕末の歴史の中で、さっそうと再び登場します。
 次号では清太郎を紹介の予定です。
 *挿絵:『怒涛を越えた男たち』(播磨郷土資料館)表紙(部分)

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さんぽ(231):播磨町を歩く(112) 怒涛を超えて(4)・寛紀丸の遭難『菜の花の沖』に登場

2014-08-26 00:02:38 | 播磨町

  前号で、「ゴローニン事件の裏で」という項で寛紀丸の遭難を紹介しました。
 この出来事に司馬遼太郎は『菜の花の沖(六)』で、次のように紹介しています。
 ただ、この小説では、「寛紀丸」のことをなぜか「観喜丸」としています。
   
もっと知ろう、「寛紀丸」のことを
 後にロシアは、日本に捕らわれているゴローニンらと交換する目的で漂流者をクナシリまで連れて行くことになりますが、寛紀丸の乗組員たちは最終的には日本の役人たちにひきとめられてしまいます。
 結局、ロシアはゴローニンとの交換に失敗します。
 そのため、クナシリを後にしたロシア船が途中、高田屋嘉兵衛を逮捕抑留するという事件に発展するのです。
 この歴史上の有名な事件に寛紀丸の乗組員がかかわっていたことはあまり知られていないようです。(以上、『怒涛を越えた男たち』より)
   寛紀丸の遭難『菜の花の沖』に登場
 ・・・年がかわり、太陽麿1812718日、シベリア東端の陸も海も夏らしくなった。
Img
 ディアナ号は、ゴローニンの運命を調べるという困難な任務を船腹いっぱいに積みこんで、出帆の準備をいそいでいた。
 それより前、カムチャツカ半島に漂着してロシア側に保護された日本の船乗りがいた。<o:p></o:p>

 生存者は、七人である。
 「漂流日本人六人を連れて日本にゆくように」と、オホーックの長官から命ぜられ、艦長リコルド少佐はそのようにした。
 ・・・・略・・・・
 日本の漂流民は、摂津の御影村(現・神戸市東難区)の嘉納屋治兵衛の持船観喜丸の乗組たちだった。
 灘地方は、樽廻船の大きな中心地であったが、かれら「観喜丸(寛紀丸のこと)」のひとびとは蝦夷地まで進出しており、風浪に出遭ってカムチャツカへ吹きとはされた。
 送還される者は、水主ばかりで、与茂吉、清五郎、忠五郎、安五郎、嘉蔵、吉五郎である。・・・(以上、『菜の花の沖(六)』より)
  *『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)、『菜の花の沖(司馬遼太郎)』参照<o:p></o:p>

  *挿絵『菜の花の沖(六)』表紙(高田屋嘉兵衛)、(文春文庫)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(230):播磨町を歩く(111) 怒涛を越えて(3)・寛紀丸の遭難

2014-08-25 08:02:54 | 播磨町

 今回の報告は、『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)からの転載です。播磨町の漂流物語の詳細については、そちらをお読みください。
   寛紀丸(御影)の漂流
 神戸御影の加納屋十兵衛の樽廻船「寛紀丸」は、文化7(1810)1122日朝、大坂を出帆しました。
Img この船は、前年に作られた新造船でした。1125日夜、潮岬沖で強風にあい、舵を折ってしまいました。
 いったん岬へ戻ろうとして小船に乗り移ってこぎましたが、それも出来ず、また流れている親船へ1日がかりで追いついて乗りこみました。
 親船にもどってからも動揺が激しいため、荷物を海中に捨て、帆柱を切ろうとしましたが、約3mのところで折れてしまいました。
 それからは、潮と風のまま東南と思われる方向へ流れるばかりでした。
 伊豆七島か八丈島近くを通っても、小船を失っていたのでこぎ寄せることも出来ません。
 翌年正月から2月にかけて、どんどん暑くなっていきましたが、210日頃から逆に北西と思わせる方向へ流れ続けました。やがて日増しに寒くなっていき、翌月27日真夜中、雪が約6mも降りつもるカムチャツカ半島に流れ着くのでした。
 遭難後99日日でした。寛紀丸の乗組員のうち、7人が東本庄村の者で、清五郎、忠五郎、安五郎、嘉蔵、善太郎、久五郎、常五郎でした。
 カムチャツカに打ち上げられた時には、親船は完全にこわれてしまいました。16人のうち船頭平助ら9人がその間に凍死してしまいました。
 東本庄村の善太郎、久五郎、・常五郎も死んでいます。
 結局、ロシア人に出合って7人が助けられます。それから14か月余り、カムチャツカからシベリアのオホーツクへ雪の中を移動しますが、親切な扱いを受けています。
   
ゴローニン事件の裏に!<o:p></o:p>

 後にロシアは、日本に捕らわれているゴローニンらと交換する目的で漂流者をクナシリまで連れて行くことになりますが、寛紀丸の乗組員たちは最終的には日本の役人たちにひきとめられてしまいます。
 結局、ロシアはゴローニンとの交換に失敗します。
 そのため、クナシリを後にしたロシア船が途中、高田屋嘉兵衛を逮捕抑留するという事件に発展するのです。
 この有名な事件に寛紀丸の乗組員がかかわっていたことはあまり知られていないようです。(以上、『怒涛を越えた男たち』より)
 *なお、ゴローニン事件の詳細については「ひろかずのブログ・工楽松右衛門物語」をお読みください。
*挿絵:栄力丸の遭難、「THE NARATIVE OF A JAPANESE(ジョセフ・ヒコ著)」より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(229):播磨町を歩く(110) 怒涛を超えて(2)・栄力丸、漂流150年記念碑

2014-08-24 07:05:04 | 播磨町

  記念碑・「怒涛を越えた男たち」
 古田に正願寺(浄土真宗・せいがんじ)があります。
 山門をくぐると右手に「怒涛を越えた男たち」の記念碑(写真)があります。
 当時の郷土史家であった、住職の発意により建立されています。
 この記念碑により船頭・万蔵やジョセフ・ヒコら17名の顔ぶれと、船乗りの服装などを知ることができます。
 下記に記念碑に書かれている文章を読んでおきます。
   
「栄力丸、漂流150年記念碑」
 003_2
  嘉永三年(185010
 
  1600石積廻船
  太平洋上を漂流すること50日余日
  船頭、万蔵ら17
  米船オークランド号に救助され
  サンフランシスコに上陸
  異文化に触れ、とまどい、おののき
  憧れつつも、遠き故郷の山河を思う
  鎖国から開国、動乱と混迷の時代
  怒涛の果てを見た男たちがいた
  希望と失意、栄光と挫折の生涯
  歳月が過ぎて、漂流より150
  その面影をイラストレイテッド・ニュースより写し、記念とする
      2000年(平成1211
 *写真:「怒涛を越えた男たち」の碑(正願寺)

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さんぽ(228):播磨町の歴史(109) 怒涛をこえて(1)・和船

2014-08-23 07:22:12 | 播磨町

 播磨町の歴史を語る時、海とのかかわりを抜かすことはできません。
 播磨町郷土資料館は『怒涛を越えた男たち』を出版しておられます。それを借りしながら、播磨町の海の歴史を紹介しましょう。
 きょうは、第1回で、播磨町は登場しません。江戸時代の日本の和船について司馬遼太郎氏は、次のように書いておられます。
   
江戸時代の和船:『この国のかたち』(司馬遼太郎著)より
 江戸幕府は、じつに小心であった。鎖国いぜんにおいて、幕府は諸大名や民間が航洋船の大型船を持っていることが不安だった。<o:p></o:p>

 026・・・(大型船の建造を禁止した)・・・<o:p></o:p>

 それまでの大洋を航海する船は姿を消した。以後、通称"千石船"などといわれるような江戸期を特徴づける和船が登場するのである。
 通常、ベザイ船といわれたり、船舶史のほうで「大和型」とよばれたりす船で、なによりも重要なことは甲板を用いないことだった。
 甲板なしで、お椀にめしを盛ったように荷を積みあげるのである。
 このため高浪が上から船を襲えばどうしようもなかった。それに、甲板を張ってしまえば荷を積みこむ量がすくなくなる。
 多くの荷を積みたいと思えば甲板をはずして荷の山をきずけばいい。
 さらにつらかったのは、帆を一枚にせざるをえなかったことである。
 多帆なら風をうまく操作して操船も楽になるのだが、多帆船は幕府の禁ずるところだったようで、一本マストの一枚帆であることを墨守(ぼくしゅ)せざるをえなかった。
  
江戸時代の繁栄は、船乗りの死がいの上に!
 一枚帆の場含、いきおい帆の面積が広大にならざるをえない。
 広大なら、帆面にかかる風の力はすさまじく、比例的に梶()の面積も大きくせざるをえなかった。
 江戸期の大型和船の梶はべらぼうに大きくて、子供がおすもうさんの下駄をはいて走るようなかっこうをしているのは、以上のような政治的理由による。
 また、江戸期の海難の多くは波によってこの広大な梶が破壊されるところからおこった。梶をうしなえば漂流せざるをえなかった。
 その弱点を造船技術で補うべく、十八世紀ごろから改良されたが、それでも限度があった。
 江戸時代の経済と文化の伝播(でんぱ)は、クナシリ、エトロフをふくめた日本列島のまわりを、機織にゆきかう筬(おさ:機織りの付属具)のように周航しつづけた北前船(きたまえぶね)や、太平洋航路の菱垣廻船、樽廻船等の活躍に負っていた。
 しかし、船の多くが難船の悲運にあった。
 江戸時代の繁栄は、無数の船乗りの死がいの上に成立していたのである。
 *『この国のかたち・三(司馬遼太郎)』(文春文庫)より
 *写真:栄力丸(ヒコの遭難時の船)の模型(播磨町郷土資料館)

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さんぽ(227):播磨町を歩く(108)・播磨小学校のクスノキ

2014-08-22 07:31:46 | 播磨町

 きょうも、前号に引き続きクスノキの話です。
    小学校とクスノキ
 歴史の古い小学校には、よくクスノキがあります。
 今日は、「小学校とクスノキ」について書いてみます。
 戦前の教育は、天皇中心の教育でした。
 楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたしました。
 小学校では、楠木正成の精神(忠臣)をあらわす樹木としてクスノキが植樹されました。
   
8本のクスノキは、楠木正成をあらわしていた
 なんと、播磨小学校の校庭の真ん中に大きなクスノキ(写真)があります。
 Kusunoki_002
町指定文化財になっています。
 このクスノキは、明治33(1900)、阿閇尋常小学校(現播磨小学校)が現在地に移転した時の記念樹です。
 当初はこの一本のクスノキではなく、楠木正成「ク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲ(8文字)」にちなんで、8本のクスノキが植えられていましたが、戦後の昭和23年、運動場拡張のため西端の一本を残し伐り倒されました。
 現在、構高12メートル、幹回り2.9メートルもあり、同校だけでなく播磨町のシンボルとして親しまれています。
 小学校にあるクスノキには、6本(忠臣楠木正成)、4本(楠木正成)・3本(大楠公)を植えられた例もありました。
 *写真:播磨小学校に残る楠木
 *『播磨町の歴史』参照<o:p></o:p>

 

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さんぽ(226):播磨町を歩く(107)・樹齢500年のクスノキ

2014-08-21 06:40:58 | 播磨町

 二子住吉神社のクスノキ
 播磨町二子を歩いています。
003
 その日は、住吉神社の北の道を東へ歩いてみました。
 そのあたりは、時代が少し後戻りしたのではないかと思える落ち着きがある空間でした。
 そして、二子住吉神社へ引き返しました。
 夏の照りつける日差しではなかったのですが、汗がふきでて、神社でひと休。
 一息ついて、改めて神社の周囲を見渡たすと、なんと、幹のでっかいクスノキが社殿の右隅に(西側)にあるのが目に飛び込んできました。
 来る時に気がつかなかったのが不思議なほどのでっかいクスノキです。
 しばらく、このクスノキを眺めていました。圧倒的な存在感で迫って来ます。そして見ているだけで元気が出てきます。
 疲れた時は、お訪ください。きっと、元気がもらえますよ。
 下記のような説明がありました。紹介します。
   
樹齢500年のクスノキ
  播磨町指定文化財(天然記念物)
  
二子住吉神社クスノキ
  指定年月日  平成12510
  幹の周囲 5メートル
  樹齢 約500
 このクスノキは、播磨町に残っている最も古い樹木で、今まで二子住吉神社の御神木として、大切に守られてきました。
 昭和40年(1964)の台風で木の上部を痛め、根も浮き上がりましたが、氏子をはじめ関係者の努力によって樹勢を回復しています。これからも、二子の人々の暮らしを見守り続けるよう、後世につたえていきたいものです。
          平成22年(20108月、 宮総代
 *写真:二子住吉神社のクスノキ

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さんぽ(225):播磨町を歩く(106) 西国街道と浜街道の脇道(二子)

2014-08-20 06:35:28 | 播磨町

 浜街道へ、そして手枕の松・鶴林寺・高砂へ
 昔(江戸時代)、このあたりで一番大きな道は、都と長崎と結ぶ西国街道(旧山陽道)でした。
 そして、海岸部にも、比較的大きな街道がありました。「浜街道」です。
 浜街道は阿閇・別府・尾上・高砂・曾根そして姫路へと通じていました。東は明石に至る道です。
 当然、西国街道と、浜街道は、所々で繋ぐ道がありました。
   この道は、西国街道と浜街道を結ぶ脇道
 二子の阿閉神社の北の道を東へ通じる道は、車一台がやっと通れるような細い道です。
 そのあたりは、時がとまったような静かな街角です。
008
 明姫幹線が町並みの北向こうを走り、新幹線が南向こうを走っています。
 でも、それらと関係が無いかのような静かな、落ち着いた街並です。
 先日、この界隈を散歩した。自動車に出会うこともありませんでした。
 狭い道なので、この辺りまで自動車も入ってこないようです。
 この写真の道は、西国街道が交通の中心となっていた頃、西国街道を清水から分かれ、二子を抜け、鶴林寺や別府の手枕の松(たまくらのまつ)へ向かう浜手の浜街道と通じる脇道でした。
 しばらく、ゆっくりとこの界隈の散策を楽しみました。
 焼き板の黒い壁、がっしりとした門、悠々とした家の構えなど、昔をしのばせる風景が続いています。
 違った時代へワープしたように感じる空間でした。
 なお、前号で紹介した「化粧地蔵」のお堂は、写真に向かって右のお宅の手前の角にあります。
 *『播磨町の歴史』参照
 *写真:西国街道と浜街道を結んだ脇道(二子)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(224):播磨町を歩く(104) 播磨町の寺院(20)・化粧地蔵(二子)

2014-08-19 07:21:23 | 播磨町

     地蔵信仰
 「地蔵」という名のおこりは、地は万物を生ぜしめるもので、植物は種子をまけば成長して葉、花、実を作り出すように地は偉大な恵み蔵しています。
 地蔵は大地から生まれ、すべての衆生を救済する偉大な功力を蔵した仏さまです。
 地蔵は、民衆の苦悩をいやすことを専門業とする仏です。
 しかも、生きた者の苦悩のみでなく、死者の苦悩をもいやす仏さまでした。昔は、人々の困苦は大変なものがありました。
 政治の圧制がありました。旱魃の苦しみがありました。
 生活は、苦しみの連続だったのです。
 苦悩の生涯を送って死んで行った親しき人に対して、生き残った人は、痛恨の涙を流したのです。
   
せつなかいね
 ・・・
子どもの死に対しては特別なものがありあました。
 かつて日本では子ども死亡率が非常に高く、この罪なくして死んだ子供に対し親はどのような感情を持ったのでしょう。
 「可愛そうに」「せつなかいね・・・」。親は涙を流しつつ子供のことを思い出すばかりでした。
005
 生きているうちに、「ああもしてやったらとか、こうもしてやったら・・・」とか、しきりに悔恨の思いが心をかすめました。
 生きているものは死者のために必死で地蔵さんにお願いをしました。
 このような、死者に対する痛恨の鳴咽と絶叫が、地蔵信仰を育てました。
  化粧地蔵
 二子の阿閇神社のすぐ北の道を、少し東に行ったところに地蔵堂があります。
 なんと、そのお地蔵様はお化粧をしておられるのです。
 地元の人は「二子の化粧地蔵」とよんでおられます。お堂に残ってる棟札(むなふだ)によると、今から300前には建てられていたことが分かりました。古さと「お化粧」の姿に興味がひかれます。
 お地蔵さんにお化粧をさせる風習は京都などには見られるのですが、県内では少ない例です。
 「ここは、女性のお地蔵さん故にお化粧をしている」といいます。
 824日の地蔵盆には、お参りがあり、化粧直しが行われます。
 出かけてみませんか。
 *『播磨町の歴史』参照
 *写真:二子の化粧地蔵

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さんぽ(223):播磨町を歩く(103) 播磨町の寺院(19)・三界万霊塔

2014-08-18 06:53:46 | 播磨町

 三界万霊塔
 三界万霊塔は、寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、特別な寺院の話ではありません。
 最近、仏教が縁遠くなっている人も多いようです。三界万霊塔の話をしましょう。
   
三界とは?
013
 三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいいます。
 また、過去、現在、未来をいうこともあります。
 境内に三界万霊の石塔(碑)のある寺も少なくありあせん。
 つまり、三界とは私どもが生まれたり、死んだりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことですから、三界万霊塔はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した石塔のことです。
 多くの寺で三界万霊塔(碑)を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく、すべての精霊に平等に供養することの大切さを教えています。
 私どもの先祖は、二十代をさかのぼると実に百万人を超します。
 それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間に、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れません。
   
総ての人が救われますように
 これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのですが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのです。
 万霊塔は、そうした恵まれない精霊と親しい間柄にあった人々をも供養する塔の事です。
 それだけではなく、私たちの祖先は、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのです。
 *写真:善福寺(大中)の三界万霊塔(三世萬霊植有縁無縁等)*「等」は「塔」のこと

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さんぽ(222):播磨町を歩く(102) 播磨町の寺院(18)・薬師如来(古宮・薬師堂)

2014-08-17 06:51:13 | 播磨町

 古宮、薬師堂の薬師如来
 今、私たちが、奈良時代の人間で、私たちの前に釈迦像と薬師像二体の仏像が、運ばれたとします。
 おそらく、釈迦像か薬師像か区別がつかないと思われます。
 奈良時代までは、薬師像は釈迦像と何らの区別ありません。共に形は如来形でした。
   
平安時代、播磨町に大寺が?
Img
 古宮の薬師堂には、像高、140センチ、幅110センチ、奥行き90センチの大きさの堂々とした「木造寄木造り」のは仏様です。
 薬師如来像です。
 衣を表すひだの流れが美しい点が、平安時代の末(12世紀頃)の特徴を表しています。
そして、よく見ると、左手の上に小さな壷があります。
 間違いなく薬師如来です。壷にはどんな病気にもよくきく薬が入っています。
 このように壺を持った姿で薬師如来が造られるようになったのは、平安時代以降のことです。
 当時、病気でたくさんの人々は悩んだことでしょう。そんな時には、仏様にお願いするより方法はありません。
 人々は薬師仏に願いを込めました。
 おだやかな、お顔をされています。
 そして、その大きさから判断して、平安時代には、播磨町にも大きなお寺があったと想像できます。
 *写真:薬師堂(古宮)薬師如来(『播磨町の歴史』より)
 *『播磨町の歴史』(「播磨町の歴史」を編集する会)参照

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さんぽ(221):播磨町を歩く(101) 播磨町の寺院(17)・六地蔵

2014-08-16 07:56:26 | 播磨町

 この「六地蔵」の話が気にいっています。
 加古川市探訪でも、稲美町探訪でも取り上げた話題です。「播磨町を歩く」でも紹介しておきます。
 「(シリーズ)播磨町の寺院」として紹介しますが、もちろん特定の寺院・墓地の話ではありません。
   かさこじぞう
 006
(おじいさんは、年こしの晩に「かさ」を売りに行きました)
 いつの間にか、日も暮れかけました。じいさまは、とんぼり、とんぼり、町を出て、村の野原まできました。
 風が出てきて、ひどい吹雪になりました。ふと見ると道ばたに地蔵様が六人立っていました。
 ・・・・・・
 「おお、気のどくにな。さぞ、冷たかろうのう」
 おじいさまは、地蔵様のおつむの雪をかき落としました。
 じいさまは、ぬれて、冷たい地蔵様の、かたやら背中をなでました。
 「そうじゃ、このカサコを、かぶってくだされ・・・・」
 ・・・・・・
 そうです。小学生が国語の時間に学習する「かさこじぞう」の一節です。
   
なぜ、墓地に六地蔵が?
 この「かさこじぞう」は、たいていの墓地の人口にある「六地蔵」がそのモデルです。
 六地蔵は特別な地蔵さまではなく、どこの墓地にも居られる地蔵様です。
 仏教では死者は生前の行いにより、死後次の六つの世界(六道)にふり分けられるといいます。
 それは、地獄(じこく)‐畜生(ちくしょう)‐餓鬼(がき)‐阿修羅(あしゅら)‐人間(にんげん)‐天国(てんごく)の六道です。
 あなたは、どの世界に生まれ変われそうですか。
 「きっと天国ですね」
 六地蔵は、それらの六道のいずれかを担当されています。
 仮に地獄に生まれた人でも、心配はいりません。地獄係の地蔵様にすがり、悔い改めれば救われるといわれています。
 *写真:大中共同墓地(大中霊園)の六地蔵

 

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