清太郎ら故郷(本庄)へ帰る
栄力丸の漂流者10人は、安政元年(1854)7月12日、中国船で長崎にたどり着きました。
浦賀を出てから、まる3年9ヵ月ぶりに踏む故国の土でした。
長崎奉行所の役人が船改めをし、加古郡本庄村の浅五郎、潰太郎、甚八、喜代蔵等はお調べがありました。
調べが終わると、10人は、それぞれ出身地によって、所属する領主のもとへ引き取られました。
播州加古郡の本庄村の4人、浅五郎、清太郎、甚八、喜代蔵が、姫路藩に引き渡されたのは、安政元年11月23日でした。
姫路に帰った四人は、家族と面会の喜びを分かち合ういとまもなく、こんどは姫路藩から、長々と調べられ、それが終わるのは、翌安政二年(1855)2月14日のことでした。
その記録が、「嘉永三年遭難漂流人口書(くちがき)」です。
この体験記録は、播州の人々にはまことに珍奇にうつり、「写し」によってかなり広く読まれたようです。
大型船(速鳥丸)建造へ
秋元安民も、記録を読んで「漂流民の知識を利用する最良のチャンスだ」と。ひざをたたいたに違いありません。
安民は、本で読んだ知識はあっても、実物は知りません。
一方、浅五郎、清太郎ら漂流民は、外国船をふんだんに見てきているし、実際に乗り、細かい内部まで体で触れています。
さらに、彼らは船乗りでもあったので、操作に関心も払っていました。
「安民の理論と補い合えば何とかなるだろう」と、藩当局に大型船の建造を申し出ました。
藩も大いに乗り気となり、さっそく取りかかるよう安民に命じました。
秋元安民は、安政四年(1857)、「異国船形新船製船肝煎(きもいり)」という役に任命され、いよいよ四人を使い、室津(竜野市津町)で建造に取りかかりました。
このとき、本庄村の浅五郎ら四人は苗字帯刀を許され、二人扶持(毎日一升の玄米)を与えられて藩に採用されています。
この船は、翌安政5年6月24日に完成し「速島丸(はやとりまる)」と命名されました。
*『故郷燃える』(神戸新聞社)参照<o:p></o:p>
*挿絵:清太郎が描いた速鳥丸<o:p></o:p>