きょうも「元禄播磨図絵(部分)解読図」を使わせていただきたい。
2007年3月29日のブログ(国包は元加古川西岸の村)と29日のブログ(望理里・まがりのさと)の復習である。
かつて、ヨーロッパ諸国がアフリカ大陸を侵略し机上で線引きして、国境を決めた例はある。
しかし、国・郡等の境は、海・川・湖・山脈等がその境界になっているのが普通である。
印南郡と加古郡の郡境は加古川がその境界となった。
印南郡と加古郡が創設されたのは、聖武天皇の神亀三年(726)であるから、その当時加古川は、絵図の宗佐と国包の間、そして船町村の北を加古川は流れていたのだろう。
『風土記』(奈良時代の地誌)には、現在の八幡町あたりは望理里(まがりのさと)と呼ばれ、まさに川が蛇行していた。
嘉永元年(1225)国包村を大洪水が襲った。
流路は大きく変わった。そして、後は一面の河原となってしまった。
この洪水で、村の一部は川西へ移動した。国包村は川東の村となった。
加古川は暴れ川で、その後も、加古川は各所で幾度となく流路を変えている。