ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:郡境

2009-02-27 11:02:46 |  ・加古川市上荘・平荘町

8718c39 きょうも「元禄播磨図絵(部分)解読図」を使わせていただきたい。

 2007年3月29日のブログ(国包は元加古川西岸の村)と29日のブログ(望理里・まがりのさと)の復習である。

 かつて、ヨーロッパ諸国がアフリカ大陸を侵略し机上で線引きして、国境を決めた例はある。

 しかし、国・郡等の境は、海・川・湖・山脈等がその境界になっているのが普通である。

 印南郡と加古郡の郡境は加古川がその境界となった。

 印南郡と加古郡が創設されたのは、聖武天皇の神亀三年(726)であるから、その当時加古川は、絵図の宗佐と国包の間、そして船町村の北を加古川は流れていたのだろう。

 『風土記』(奈良時代の地誌)には、現在の八幡町あたりは望理里(まがりのさと)と呼ばれ、まさに川が蛇行していた。

 嘉永元年(1225)国包村を大洪水が襲った。

 流路は大きく変わった。そして、後は一面の河原となってしまった。

 この洪水で、村の一部は川西へ移動した。国包村は川東の村となった。

 加古川は暴れ川で、その後も、加古川は各所で幾度となく流路を変えている。

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「ひろかずのブログ」が、きょうで600号

2009-02-26 13:19:30 |  ・まち歩き

  87ea7868◇たかが600号、されど600号◇

 2006年6月14日に「ブログをはじめました」と宣言して、ともかくブログを始めました。

 医者から、メタボ気味で高血圧のため「歩きなさい」と言われていたため、「散歩をしながら、気づいたことをでも随筆風に書こうかな」とはじめたブログです。

 一週間もすると書く材料がなくなりました。

 そこではじめたのが、加古川市内の歴史探訪でした。

 在職中にためておいた史料が若干あったためです。

 ブログを書いていると、結構アクセスがあるものです。

 このアクセス数に励まされました。

 また、時にはご意見・ご感想を寄せてくださる方もありました。

 そうしていると、今度は市内の公民館や老人会等から、「わが町の歴史を語ってくれ・・」と依頼が来るようになりました。

 自信の無いままに、そんな活動を続けています。

 きょうで、ブログは600号になりました。

 各町の歴史探訪は二巡目に入りました。

 現在、別府町を終え上荘町・平荘町の歴史探訪に入っています。

  ◇帰納法◇

 歴史が好きなだけで専門ではありません。本来は全体像をつかんで、そこから地域史を述べるべきなんでしょう。

 私の地域史の方法は「ともかく知っていることを、やさしく書いてみる」ことにしています。

 それでも話題が600ほど集まると、おぼろげながら加古川市の歴史像ができてくるものです。

 かっこよく言えば、「帰納法」です。

 ただ、時代が飛んだり、話題が繋がらず読みづら読み物になっているのではないかと心配しています。

 ともかく、新しいことを一つ知ると加古川市が一つ好きになります。

 時には、地域を壊す事実を知ったとき、憤りを感じます。

 ・・・・・・

 デジカメを持って、もう少し加古川市内めぐりを続けますので、お付き合いください。

 ご意見・ご感想をお聞かせください。史料がございましたら、ご紹介ください。

  *挿絵は、私の調査中の姿。(娘が描いてくれました)

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上荘町・平荘町探訪:国包地区の通学問題

2009-02-25 10:59:11 |  ・加古川市上荘・平荘町

002 両荘中学校・上荘小学校・平荘小学校については、後日取り上げるとして、きょうは国包地区の通学の問題である。

 『加古川市史に読む、わがふるさと国包』(畑偕夫著)の記述を多くお借りした。

 国包地区の児童は、近くに八幡小学校があるのに川を渡って、二キロメートルの道を歩いて上荘小学校へ通った。

 二年生までは国包に分教場があり、三年生から本校へ行った。

 昭和30年4月、山手三ヵ村(上荘村・平荘村・八幡村)が加古川市に合併した。

 これに伴い、小学生の通学区の問題が話し合われた。

 町内会長らの粘り強い交渉が実を結び、昭和37年(1962)4月の新一年生から国包地区の児童は八幡小学校へ通学できるようになった。

 中学校は、戦後六・三制の実施に伴い、昭和23年に上荘中学・平荘中学が合併して組合立両荘中学校が設立されたが、交渉により出発から国包地区の中学生は、八幡・神野・加古三ヵ村の組合立山手中学校へ通学するようになった。

 大英断であった。

*『加古川市史に読む、わがふるさと国包』(畑偕夫著)

 写真は、現在の八幡小学校

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上荘町・平荘町探訪:加古川市との合併③・合併なる

2009-02-24 12:46:54 |  ・加古川市上荘・平荘町

8718c39 右の「元禄播磨国絵図(部分)解読図」をご覧願いたい。

 国包は、加古川の対岸・上荘村に属している。

 明治22年4月1日の町村合併でも、国包地区は印南郡上荘村のままで残り、今日まで上荘地区として続いている。

 八幡村が、加古川と合併するとなると国包は上荘村と分村問題に発展しかねなかった。

 当時、加古川市は、海岸部の阿閇村(現:播磨町)、米田町との合併の問題を抱えており、山手三村(上荘村・平荘村・八幡村)との合併には余裕がなかった。

 ところが、昭和30年になると事情は一変した。というのは阿閇村の加古川市との合併についての住民投票の結果は次のようだった。

   賛成 1050  反対 3187

 阿閇村住民は加古川市との合併をはっきりと拒否をした。

 米田町との合併は暗礁に乗り上げていたが、この時点から、加古川市長の発言もにも明らかに方針変更が認められた。

 「・・・・上荘等その他いろいろ調査したところ川上に位地し、水源地の五ヶ井その他の灌漑用水等は上荘の範囲であり、関係ある両荘を除外することはできない・・・」(昭和30年1月18日市会協議会より)

 昭和30年1月25日には、加古川市の議長・合併委員長・助役が山手三ヶ村を訪問し、正式に合併を申し入れた。

 その後は、合併の話はトントン拍子に進み、3月12日に加古川市・上荘村・平荘村・八幡村議会でいっせいに合併を決議した。

 3月16日、調印式をへて、昭和30年4月1日、加古川市上荘町、平荘荘町、八幡町は新しいスタートをきった。

*『加古川市議会史(記述編)』、『加古川市史に読む、わがふるさと国包(畑偕夫著)』参照

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上荘町・平荘町探訪:加古川市との合併②

2009-02-23 08:44:02 |  ・加古川市上荘・平荘町

252e0c02 昭和28年、ほとんど進展のなかった山手三村(上荘村・平荘村・八幡村)と加古川市との合併問題は、昭和29年に動き出した。

 昭和28年に、国の政策による町村合併促進法が制定されたためでもあった。

 まず、以前より合併を望んでいた八幡村が動き出した。

 八幡村は、合併について住民投票を実施した。

 第一案は、東部の加古郡加古村・母里村・天満村との合併。第二案は印南郡上荘村・平荘村との合併。

 そして、第三案が加古川市と合併を希望するという項目であった。

 結果は、第一案44、第二案14、第三案679、態度不明48と、圧倒的多数で八幡村の住民は加古川市との合併を選んだ。

 しかし、さいさんの八幡村から加古川市への呼びかけに対して、当時加古川市は、海岸部の阿閇村(あえむら:現播磨町)・米田町との合併を目指しており、その課題が未解決で、さらに手を広げ、山手三村との合併問題を取り組む余裕がなかった。

 それに、八幡村が加古川市と合併するとなると、川東の上荘町国包地区が一緒に加古川市との合併を望むことは予想された。

 つまり、上荘村の分村問題という新たな問題がおこる可能性が大であった。

 さらに、平荘村の加古川市との合併に対する態度がはっきりとしなかった。

 東西神吉村の加古川市との合併とも絡まっていた。

*『加古川市議会史(記述編)』参照、写真は上荘村役場(『加古川市議会史(記述編)』より)

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上荘町・平荘町探訪:加古川市との合併①

2009-02-22 09:21:04 |  ・加古川市上荘・平荘町

35702a35 昭和25年6月15日、加古川市は加古川町・神野村・野口村・平岡村・尾上村が合併して誕生した。

 その後、別府町(昭和26年10月)、平荘村・上荘村八幡村(昭和30年4月)、東神吉村・西神吉村・米田町船頭・平津地区(昭和31年9月)を加古川市に編入した。

 そして、志方町を昭和54年2月に編入し、現在にいたっている。

 その内、加古川町と米田町との合併は、もめにもめた。詳しくは2007年8月23日~25日のブログ「米田町分裂」をご覧ください。

  ◇平荘村・上荘村・八幡村(山手三村)との合併

 昭和27年、山手三村と加古川市の合併を働きかけたのは平荘村だった。

 加古川市は、「東播市町村の大同団結を目指し、もめていた米田町を除いた合併は不可能」という合併方針をだしていたので、平荘、上荘、東西神吉の4ヶ村が一斉に村会を開き加古川市へ合併を申し入れた。

 米田町にも、加古川市との合併を呼びかけた。

 この時、加古郡に属する八幡村は加わっていない。

 当時の加古川市は、高砂を含めて海岸部及び東西神吉村との合併が主目標で、山手三村との合併は大きくもりあがらなかった。

 昭和28年の交渉でもほとんど進展がなかった。

 しかし、昭和29年、山手三村と加古川市の合併をめぐる動きが活発化した。

*『加古川市議会史(記述編)』参照、写真は平荘村役場(『加古川市議会史(記述編)』より)

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上荘町・平荘町探訪:上荘村・平荘村誕生

2009-02-21 19:19:48 |  ・加古川市上荘・平荘町

A0572dbe 上荘町・平荘町の探訪に出かけたい。

 1867年、江戸時代は終わり、時代は明治時代へと移った。。

 江戸時代から上荘村・平荘村は、あったのだろうか。

 答は「ノー」で、加古川の他の地区と同様、現在の上荘町・平荘町内の各地区(江戸時代の各村々)が合併して、上荘村・平荘村が誕生した。

 明治22年4月1日のことである。

96cd87e8 新しく誕生した、上荘・平荘の名称であるが現在、「かみそう町」・「へいそう町」と呼んでいるが、どうも落ち着かない。

 「かみしょう」・「へいしょう」と、つい呼びたくなる。

 このあたりの事情をお年寄りに確かめてみたい。

 とりあえずは、2006年8月3日のブログ「かみそう・へいそう」をご覧ください。

 そうしてもう一つ問題が残る。

 上荘町の国包地区のことである。川東にありながら上荘村として残った。

 このあたりの事情から、上荘・平荘町の探訪をはじめたい。

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別府町探訪:昔(大正12年)の別府の風景を想像しよう

2009-02-20 18:27:01 |  ・加古川市別府町を歩く

816ba70d_3 今、ブログでは、別府の町を散策している。

 歩けば、いろいろなものに出会う。

 詳しいことは分からなくても、新しい発見が一つあれば、ひとつだけ好きになる。

 反面、まちを破壊するものに対しは、憤りを感ずる。

 別府は、誇れるものがいっぱい詰まった地域です。

 もっとも、今回の探訪でも西脇地区については、ほとんど説明していない。後日西脇地区を中心に探検することにしよう。

 このあたりで、いったん、加古川市の他の町の探検に出かけたい。

 地図は、大正12年の別府近辺の地図です。

 当時の風景を想像して欲しい。

 別府の町から海が消えて久しい。

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加古川の戦争(39):戦争の語り部(上木政範さん)逝去

2009-02-20 13:40:30 |  ・加古川の戦争

8af8a856_2 2006年9月14日のブログ「特攻」で、戦時中、特攻兵の教育にあたった上木政範さん(写真)を取りあげた。

 その記事で、「加古川飛行場では、昭和20年の春、若い隊員に特攻志願書が配られ、そこには熱望・希望・志願とあり、“希望しない”と言う項目はなかった。

 全員が熱望を選んだ。以後訓練は特攻用に変わった・・」

 そして、上木さんは「(当時は)全てが戦争を中心に動き、拒否することができない時代であった。二度と戦争をしてはならない」と、訴えられた。

 ・・・・

 突然、上木さんの訃報を知った。

 先日(2月17日)、神戸新聞で「平荘湖駅伝運営に尽力、県走友会前会長・特攻隊員の教官上木政範死去(90歳)」と大きく報じられた。

 一部を読んでみたい。

 ・・・(以前の取材で)「ここまで生きてこられたのは『もっと語れ』と言うことかもしれませんね。

 当初「空中戦に勝ち、生きて帰れ」と教えていた軍が、終戦間際は特攻という死ぬための訓練を強いた。

 特攻のことを考えると泣けてくる」と何度ももらした。・・・・戦争の話は「他人にあまりしたことが無いが」という。反面、行動せずにはいられない。(2月17日:神戸新聞「東播版」より)

 以前お会いした時は、お元気で、はっきりとした口調が印象的な方だった。

 戦争の語り部が、またひとり逝かれた。

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別府町探訪:新野辺のお薬師さん

2009-02-18 12:17:02 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_037 きょうも『加古川市誌(第二巻)』より、新野辺の伝承を紹介したい。

 新野辺には霊験あらたかな薬師如来が祀ってあり(写真)、村人からあつく信仰されていた。

 「ただ一つ、このお薬師さんに願いをかけ、自分でも誓いをたて、それを守れば、その願は必ずかなう」と信じられていた。

 昔、新野辺に兵衛(ひょうえ)という人が住んでいた。

 兵衛は、ちょいちょい胸が痛むので、お薬師さんにお願いしようと考えた。

 「お薬師さん、おやくしさん・・・三年間、好きな雑煮を食べませんから、胸が胸が痛くなるのを治してください・・・」と。

 兵衛は、それから好きな雑煮を食べなかった。

 ところが三年目の正月だった。

 遊びつかれて家に帰った兵衛は、あまりの空腹にたえかねて、台所を捜すと、そこに雑煮の食べ残りのあるのを見つけた。

 思わす手がでて食べてしまった。

 ハッと気がついた。兵衛は誓いを破っていた。

 にわかに、胸が痛みだした。

 その日、気の毒にも夕日の落ちるころだった。痛みがひどくなって息をひきとったという。

 ・・・・

 新野辺には、他にも伝承がある。病気・死に繋がる話が多い。ちょっと気になる。

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別府町探訪:上人山(しょうにんやま)

2009-02-17 08:36:45 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_030

 『加古川市誌(第二巻)』から、新野辺に伝わる伝承を紹介したい。

 ・・・・

 浜ノ宮中学校のから南いったいは、昔は松林で覆われた砂丘で、人々から上人山と呼ばれていた。

 林の中の小高い砂丘に一基の五輪塔(写真)があった。

 昔、上人さんと呼ばれた坊さんが住んでいた。

 坊さんは、自分の死が近づいたことを悟ったとき、「私は生きたまま成仏したい。私の打つ鐘の音が聞こえなくなったら、成仏したと思ってもらいたい」といい残し、少しばかりの食料と水を持って念仏を唱え、鐘を打ちながら土中深く生き埋めになった。

 それから四十日ほどは、鐘の音が聞こえていた。

 その後、人々は坊さんの死を悼み、その場所に塚をつくり五輪塔を建てた。

 その五輪塔や塚をさわると、頭が痛くなったり気分が悪くなったので、たたりを恐れて誰も手を触れなかったと言う。

 ・・・・・(『加古川市誌:第二巻』参照)

 第二次戦争後、このあたりは開発が進み住宅地となった。

 その時、塚は削り取られ五輪塔だけが残された。

 現在、五輪塔は田隅医院の南の大田さんのお宅の庭奥にあるが、元はもう少し西あったとも言われている。

 蛇足になるが、大田さんの南隣はテレビタレントの陣内智則さんのお宅である。

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余話:首都加古川(幻の遷都論②)

2009-02-16 10:20:56 |  ・コーヒーブレイク・余話

Cce1acf0 2006・7・7のブログ「首都・加古川(幻の遷都論)」で、関東震災後の新首都探し事情を紹介し、「加古川の地は、他にも一度首都の候補地にあがったことがある。後日紹介したい」と書いた。

 先日、Kさんから「その後、これについて書いていない」と指摘があった。

 いま、別府町探訪をしているが、今日は、余話として『首都・加古川(幻の遷都論②)」を挟みたい。

 平清盛の時代である。

 平家は、急速に勢いを弱め、京都を追われ、神戸の福原へ遷都した。

 神戸は、港町としては最適だが、弱点があった。

 神戸は坂の街で、後ろには六甲山が控えている。

 大きな平野がない。港を支える後背地がない。

 清盛は、港(大輪田泊)や新都・福原を支える場所が欲しかった。

 そのあたりの事情を『兵庫探検(歴史風土)』(神戸新聞社)の一部をお借りした。

 「・・・福原に居着いたものの、新都としては規模が小さい・・・・清盛は、一度は代替地を探そうとした。

 摂津国の昆陽野(こやの)、播磨国印南野(いなみの)あたりを候補地とし、候補地といろいろ考えたようだ・・・」

 東播、特に印南野から加古川にかけて、平家の勢力は伸びており、がっちりと土地を押さえていた。

 このことも、ここを新都にしようと考えた理由と思われる。

 結果、印南野は水不足が主な原因で候補地から外れていったようである。

 平家滅亡後、加古川地方の平家領は、源氏の支配するところとなり、関東から武士がこの地に多く流入した。

加古川城主の糟屋、高砂城(戦国時代の高砂城)主の梶原などはその代表的な例である。

*写真は、印南野台地(稲美町から東の風景)

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別府町探訪:松風こみち

2009-02-15 14:25:33 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_035 現在の加古川市役所のすぐ東にJR高砂線・野口駅があった。

 そこで、別府駅行きに乗りかえて、別府鉄道・別府駅に着いた。そして別府の浜にでた。

 別府の浜は、春は潮干狩り、そして夏は海水浴で賑わっていた。

 別府鉄道の前身「別府軽便鉄道」が開業したのは1921(大正10)年の9月だった。

 (昭和21年4月1日:別府軽便鉄道は別府鉄道に名称を変更する。別府鉄道として話を進めている)

 別府鉄道の主な役割は、別府製肥所の肥料の運搬のためだった。

 その後、加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤・通学の足としても別府鉄道は無くてはならないものになった。

 この鉄道が最も賑わったのは、昭和30年代のはじめころで上記の外に別府の浜へ潮干狩り、海水浴へと多くの客を運んだ。

 しかし、こうした風景も1967年(昭和42)ごろから臨海部の工場用地の造成が始まり、以後急速に様変わりした。

 海水浴場は閉鎖になった。

 そして、モータリゼーションの波で、乗客は激変。それに1984年(昭和59)2月「土山駅の貨物取り扱いのストップ」が決定的な打撃になった。

 別府鉄道は、1984年(昭和59)、63年の歴史を閉じた。

 野口線(別府~野口)は、現在「松風こみち」(市民遊歩道:写真)として生まれかわった。

 別府川に架かる鉄橋は、今も別府鉄道の面影を残している。

 土山線は道路として、播磨町歴史資料館から土山駅間は「であいのこみち」として、歩行者と自転車に開放されている。

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別府町探訪:別府川・別府川防潮水門

2009-02-14 12:15:11 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_025 ◇別府川◇

 ここしばらくは『手枕』(別府小学校創立百周年記念誌)を参照に別府町の探訪をしている。

 今日の「別府川・別府川防潮水門(写真)」も、『手枕』の記事の一部をお借りした。

 『手枕』では、「別府町は、標高五㍍で、この地を流れる別府川は北在家、野口町長砂地域の多くの水路を集めて約四キロ㍍ほど南東に向かって流れ、別府と西脇の間で播磨灘に注いでいる・・・・」と別府川を紹介している。

 現在、別府川は加古川町大野の北で曇川と結ぶ延長工事が進められている。

 JR日岡駅のところまで完成している。

 あと少しを残して、用地買収や行革のために完成は大幅に遅れている。

 完成すれば、別府川は今の二倍に延長され、流れ(水量)も大きく変わることになる。

 ◇別府川防潮水門◇

 さて、水門であるが、別府町は低い平地に位置しているために播磨灘の影響を受けてきた。

 特に台風の時などは、海水が高潮となって別府川をさかのぼり「潮止枠樋門」に達し、しばしば付近の両岸の人家に侵入し、田んぼにも塩害をあたえていた。

 現在は、別府川の両岸も高く築かれた。

 そして、「別府川防潮水門」が昭和44年に造られた。

 地元の人は「わくのくち水門」といって大切にしている。

 が、別府川延長後は、水門の再建が求められるかもしれない。

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別府町探訪:小学校とクスノキ

2009-02-13 10:58:38 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_020_2  別府小学校の校門のところに、写真のような見事なクスノキがある。

 歴史の古い小学校には、よくクスノキがある。

 今日は、小学校とクスノキについて書いてみたい。

 戦前の教育は、天皇中心の教育だった。

 楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたした。

 小学校では、楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹された。

 それも、複数のクスノキが植樹された。

 播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていた。

 忠臣楠木正成を表すために6本を植えたり、楠木正成と4本を植えられた例もあった。

 そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、歴史の証として一本を残してほとんどが伐採された。

322a0477_2  別府小学校もそんな例の一つと思われるが詳しくは分からない。

 大正十四年卒業のTさんは「校庭には三本ならんで楠木の大木が大きく四方に枝を張って、・・・」と、『別府小学校創立百年誌』に投稿されている。

 旧校舎時代の校庭には、写真下のように確かに3本(一本は、手前に幹の一部と葉がある)の楠木がある。

 もっと多くの楠木があり、枯れたのか、あるいは元から3本で、「大楠公」をあらわしたものかは分からない。

 現在の校門のところの楠木の巨木は、かって運動場にあった楠木の一本である。

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