ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

瀧瓢水研究⑪・Hyosui Taki

2011-11-03 08:10:07 |  ・加古川市別府町を歩く

Hyosui Taki

あるところで、瓢水を英文で紹介しました。

お読みいただければ幸いです。

 滝 瓢水(たきひょうすい)

 Befu_085瓢水が家業を継いだ時は千石船を七艘(そう)も持つ、かなりの豪商でした。

しかし、瓢水が家業を継ぐや急速にさびれていきました。

それもそのはずです、家業を人まかせにして京都、大坂で遊んでばかりいるものですから、土地や船は他の商人の手に渡ってしまいました。

しかし、彼は底抜けの暢気な性格で、そんなことをいっこうに気をとめるようすもありません。

瓢水は、あいも変わらず遊びほうけていましたが、ただ俳句だけは異常なほど情熱を傾けました。

*写真(別府町宝蔵寺境内)
  Hyosui Taki 

   A Man of Leisure

Hyosui’s parents home was in Befu. 

It was called Kano-ya and was a Funa Donya (the ship wholesale stores). 

When he inherited the business, it was remarkably successful and had seven large ships (Sengoku Bune).

Especially, after Hyosui took charge, the trade began decline quickly.

Hyosui left his business to others and spent his days enjoying himself in Kyoto and Osaka.

His lands and ships were bought by other merchants. 

His relatives were absolutely disgusted with his behavior. 

Hyosui was of unbounded cheerful character and did not show any signs that he suffered from his environment.

Hyosui did not change his life style and continued to spend his time in pleasure.

He was more passionate about Haiku poetry.

The following Haiku poem was written when his trade failed and he sold the warehouse. 


 蔵売って  日当たりのよき 牡丹かな
 (kura utte hiatarino yoki botankana) 

*The warehouse has been sold. The peony which is in bloom in the sunny yard looks more beautiful. 

 

He was a colorful character and many stories about him remain. 

One winter day, Hyosui caught a cold and had fallen asleep. 

When he went to a nearby doctor’s house in the evening, a priest who had heard the rumors about Hyosui visited his house. 

The priest said: I had heard that Hyosui was a man who had no regrets about his life, but he was irresolute. 

The priest said this and went away. 

Hyosui who heard this made his family deliver a strip of fancy paper to the priest.

The following haiku poem was written on it.

 浜までは   海女も 蓑着る  時雨かな
 (hamamade wa amamo minokiru shigurekana)

 * A woman diver also has a straw raincoat, and she takes care not to get wet in the rain as she goes to the beach. 

 

The priest read it and he saw the shallowness of his ideas. 

He was told to apologize to Hyosui.

The haiku poem taught a lesson to the priest. 

Although people should not cling too much to his life, life should not being wasted and should be valued to the last. 

There is also the following story about him. 

Once, the Lord of Himeji Han, Tadazumi Sakai, wanted to meet Hyosui and ordered him to come to Himeji Castle.

But, whenever Tadazumi ordered him to come to the castle, Hyosui remaded his schedules and did not visit the castle.

One day, Tadazumi stopped his palanquin in front of Hyosui’s house on the way to the Castle.

Neighboring people were surprised at this visit.

Hyosui talked for a while with Tadazumi and then excused himself to go to the toilet. Hyosui did not come back. 

He left Tadazumi behind and slipped out of his house.

Tadazumi returned to the castle furiously.

In order to hear the reason, Tadazumi sent a retainer to Hyosui’s house.

Hyosui answered; As the moon was very beautiful, I was walking before I knew it I was in Suma.

It was said that Tadazumi smiled bitterly at this answer. 

Hyosui was popular with the aristocracy and was even invited to the Imperial Palace in Kyoto. 

Next Haiku Poems are two of his well-known.

 手にとるな やはり野に置け 蓮華草
 (tenitoruna yahari nonioke rengesou) 

 *Don’t pick Chinese milk vetches, as their blooms are more beautiful when left in the field. 

   (He advices not to marry geishagirl)

 さればとて 石に 布団も 着せられず
 (sarebatote ishini futonmo kiserarezu)

* We cannot hang bedding on the gravestone. 

 (We should show filial piety while our parents are living)

 

*瓢水のお母さんの墓が見つかり、「瀧瓢水研究」として、緊急報告をしました。

瓢水については、たくさんの研究書がありますので、それらをご覧ください。

しばらく、お休みにしていた「志方町を歩く」を再開します。

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瀧尿水研究⑩:瓢水の父(仲春)・母(参)の墓標⑦

2011-11-02 07:47:54 |  ・加古川市別府町を歩く

039_3瓢水の父・三代仲春の墓碑は、金蔵坊(別府町以外の人には、分かりにくいのですが、今の「別府町民会館」のある場所)にありました。

 江戸時代、その墓地に埋葬されていました

が、金蔵坊が廃止になった明治初年から間もないころに別府町の今の共同墓地に移されたものと思われます。

以前、この仲春の墓標は瀧家の墓地の一角に確かにありました。

それが母・参の墓標と共に姿を消してしまっていたのです。

不思議に思っていました。近くを探したのですが見つかりませんでした。

 瓢水の父(三代・仲春)の墓標見つかる

突然のことでした。

004最近(10月の終わり)地元のKさんから「瀧さんの御先祖の方から瓢水の母と父(三代)の墓碑は、震災で傷みが激しくなっていたため、少し修理をし、同じ西町の瀧家の墓地から少し離れた場所に移してしています」との連絡があったと知らせてくださいました。

さっそく、訪ねました。

瀧家の墓地から少し離れたところに、まとめて安置されていました。(写真上)

お父さん(仲春)の墓標は奥の砂岩の立派な笠塔婆(写真下)です。

しかし、少し残念なことは、仲春の墓碑には正面右に「元禄四年辛未年」中央に阿弥陀如来を表す梵の下に「覚元浄法信士霊位」、そして左に「九月二十五日」の銘があるはずなのですが、墓標の前に他の墓があり読むことができません。

上部の文字は、上の隙間からのぞくとわずかに読むことができます。

しかし、下の方の文字は読めません。

確かに前にある墓碑も瀧家につながる人々の大切な墓碑で、仲春の大きな墓標が前に来ては他の墓が埋もれてしまいます。

難しいのですが、母・参の墓標の横に夫・仲春の墓標を安置してほしいものです。

このままでは、きっと参も寂しがっておられると思います。

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瀧瓢水研究⑨:瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標⑥

2011-11-01 08:15:11 |  ・加古川市別府町を歩く

 母・参の墓標について説明しました。

それでは次に、瓢水の父・仲春(新右衛門)の墓標を訪ねることにします。

その前に、別府町の宝蔵寺を訪ねることにします。

仲春(新右衛門)・瓢水の父菩提

047山電・別府駅の西の道を南へ真っ直ぐ行くと、別府川に突き当たります。

 そのあたりに、名刹・真言宗:宝蔵寺があります。瀧家の菩提寺です。

 瓢水の父の亡くなったのは、元禄四年(1691)で瓢水八才の時でした。

 宝蔵寺の本堂の正面に写真のように二基の石燈籠があります。

045 その石燈籠には、「元禄四年(1691)季辛未九月廿九日亥時」の紀年銘と「阿弥陀三尊を表す梵字」の下に「覚元浄法信士」とあります。

紀年は、瓢水の父・仲春の没年時刻を記しています。

 (*亥時:午後9時~11時の間)

 新右衛門(仲春)の死後、妻・参ら親類一統で、仲春の菩提を弔うために寄進した石灯籠です。

 それにしても、本堂の正面に堂々とした二基の燈籠です。

 なみの檀家ではこうはいきません。

 宝蔵寺と瀧家はよほど深い関係があったのでしょう。

 当時、瀧家は別府の豪商でした。

 瀧家は、宝蔵寺の大スポンサーだったのです。

 瀧家の賑わいが伝わってきそうです。

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瀧瓢水研究⑧:瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標⑤

2011-10-31 07:59:54 |  ・加古川市別府町を歩く

039「風樹の嘆」(ふうじゅのたん)という言葉をご存知でしょうか。

私も、「さればとて 石に蒲団は 着せられず」の瓢水の句を調べていて初めて知った言葉です。

広辞苑では「孝養をしようと思い立った時にはすでに親が死んでいて孝養をつくしえない嘆き」とありあます。

瓢水は、まさに自分の「風樹の嘆」を句にしています。

前漢の韓嬰(かんえい)の著で、「詩経」の解説書の外伝に、次のような物語があるそうです。

さすが瓢水です。かれの教養の中のこの物語が、母の死に際して句にしたのでしょう。

次の「風樹の嘆」の話はHPからの引用です。少し文章を変えて紹介させていただきます。

風樹の嘆

今から二千五百年前のことです。
孔子が斉の国へ向かっていた時、前の方から、大きな泣き声が聞こえてきました。
大層悲しそうでした。
馬車をはやめると、号泣している男を発見しました。
孔子は、彼に尋ねました。「あなたは、どなたですか」
「丘吾子(きゅうごし)という者です」
「なぜ、そんなに泣くのですか」
「私は、大変な過ちを犯したのです。晩年になって気がついて後悔しましたが、今さらどうにもなりません」
「どんな過ちか、聞かせていただけませんか」
「若いころから、私は、学問が好きで、諸国を巡っておりました。
ある日、学問の道にはキリがないので、これくらいで郷里へ帰ろうと思いました。年老いた父母のことが心配になってきたのです。

しかし、家へ戻ってみると、両親は、すでに亡くなっておりました。

子供が親を養おうと思っても、親はその時までは待っていてはくれません。
過ぎた歳月は、二度と帰ってこないのです。
二度と会うことができないのは親です」
ここまで言って、男は、水中に身を投げて死んでしまいました。

孔子は、「これは一人一人が教訓としなければならない大切なことだ」と弟子たちに諭しました。

   母・参の墓碑の保存を!

別府西町の墓こそ、瀧瓢水の貴重な遺産であり、文化財です。

子孫の方、別府町の方々にお願いです。

墓碑は砂岩のため、傷みがずいぶん進んでいます。

この墓をいつまでも保存していただけませんでしょうか。

*写真:瓢水の母(参)の墓碑については、先に紹介しましたが、西町の墓地の南東隅あたりに写真のように墓碑が集められています。ぜひお参りください。

念のために戒名を繰り返しておきます。

勝林栄舜」です。

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瀧瓢水研究⑦・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標④

2011-10-30 06:44:36 |  ・加古川市別府町を歩く

 瓢水の母(参)の墓碑③  

 

   瀧 恒 春?

10290365この墓碑は文化財として認められていません。

「さればとれ 石にふとんは きせられず」と瓢水が詠んだ句の石(墓)に間違いないと思うのです。

文化財として認定し、世に広く知られて保存につながると考えます。

しかし、この墓石は文化財とは認められていません。

それには、2つの理由があります。

第一は「明治十八年の書類では、だれの墓か不明」としています。

他の理由は、「瀧瓢水研究(6)」をご覧ください。

この墓を建てたのは四代恒春とあります。

四代は瓢水ですから、瓢水が建てたということには問題がありありません。

問題になるのは「恒春」です。

瓢水は、有恒・新之丞・自得・新右衛門・富春斉・半括坊等その外にも多数の名前を持っていますが「恒春」は一度もでてきません。

瓢水の本名は有恒です。

そのため『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)には、「・・・四代目は瓢水ではなく、この墓を建てた恒春であり、五代が瓢水である・・・」とやや強引な記述まであります。

そして、この記事を書かれたH氏は、別のところで、やはり四代は瓢水、五代は富春とみとめながらも、恒春にこだわり、墓を建てたのは「七代の恒春」とされました。

七代の瀧恒春は天明八年(1788)ごろに生まれ、明治五年(1872)に亡くなっています。

くりかえします。瓢水の母・参がなく亡くなったのは、享保十八年(1733)です。

「時代があまりにも違います。そのため、この墓は瓢水が建てたものではない」と結論づけておられます。

文化財審議委員の方にお願いです。もう一度、調査をお願いできないでしょうか。

  恒春は瓢水の名前

「恒春」は誤刻かとも考えたりしますが、母の墓碑の自分の名前の誤刻に気がつかないことはないと思います。

「恒春」は母の墓碑にただ一回限りに使った瓢水の名前であったと考えたいのです。

瓢水と母・参との心の結びつきは強よかったようです。母の死に「人目もはばからず涙した」といわれています。

 

  ある想像!

生前、母と二人きりの時、次のような会話もあったのではないかと想像するのです。もちろん史料があっての話ではありません。

・・・有恒(瓢水の本名)・・お前もずいぶんと俳句にのめりこんでしまいましたね。お母さんも苦労しますよ。・・・

名前がよくなかったのかね。初代は元春、二代は清春、三代は亡くなったお父さんの仲春、そして四代目がお前の有恒。お前だけが「春」を継いでいないね・・・

恒春の方が良かったのかね・・・。

そんな話の時、瓢水はだまって苦労かけている母の小さくなった背を見つめるばかりでした。

以上の母との語りは、もちろん史料があっての話ではではありません。勝手な想像です。

『ふるさとの文化財(第二巻)』の著者・木戸正氏は、「・・母からは恒春と呼ばれ、(恒春は)母と子の間の最も深いつながりのある名前であった・・・」と推測されています。

 図:母・参の墓碑の復元図(『ふるさとの文化遺産』木戸正より)

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瀧瓢水研究⑥・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標③

2011-10-29 12:15:10 |  ・加古川市別府町を歩く

 

 瓢水の母(参)の墓碑②

前号で瓢水のお母さんの墓標(写真)を紹介しました。今回も同じ写真です。

現在、お父さん・お母さんの墓標は、西町の墓地の中央部にある瀧家の墓所ではなく、少し離れて、同墓地の南東隅あたりに置かれています。

001今回と次回は、瓢水のお母さん(参)の墓標を調べてみます。

墓標は砂岩の笠塔婆で、中央に割れた跡がくっきり残り、文字等もかなり傷んでいます。

まず、墓標の文字を読んでおきます。

現在、左側面の文字は他の墓標のために読めませんが、さいわい以前に郷土史家の木戸正氏が書き写されていますので、お借りします。

(正面) 

 癸享保十八年丑七月廿九日

 勝林栄舜之墓

(右側面)

 母神成孀不妍四十余歳不出外在乎内守

節忌享楽、不聞淫聲後世以我母為主矣

(左側面)

 一代新右衛門元春

  二代与一右衛門清春

   三代新右衛門仲春之妻

   姓三木福田与六郎娘名参

    四代目新右衛門恒春建之

 仏は、三代目新右衛門仲春の妻で瓢水のお母さんです。

 お母さんは、三木町の福田与六郎の娘で名前を参(さん)といいました。

 この墓を建てたのは四代目新右衛門恒春です。

 恒春については次号で考えます。

 

   母は母神

右側面の文章は、少し難しい文字が使われていますので一緒に読むことにします。

まず、単語の意味を調べておきます。

・成孀(やもめ)   独身

・不妍(ふげん)   化粧をしないこと

・淫聲(いんせい)  みだらな音楽

意味は「母はヤモメとなり、化粧もせず、四十年間外出することなく、内にあって節操を守っています。

享楽を避け、みだらな音楽を口にすることもなく、聞くことすらしませんでした。

母こそ、ひたすらに一家の主人として、瀧家を守った母神様です。

*『ふるさとの文化遺産(第二巻)』参照

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瀧瓢水研究⑤・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標②

2011-10-29 07:14:34 |  ・加古川市別府町を歩く

 

   瓢水の母(参)の墓碑

032  写真は、瓢水の母・参(さん)の墓碑です。

またまた余話になってしまいますが、ご了承ください。

別府町西町の墓地に瓢水の墓碑がることを知ったのはもう25年ほど前のことです。

郷土史を研究されている木戸正氏は、昭和60118日発行で『ふるさとの文化遺産(第二巻)』を発行されています。

その第一章で瀧瓢水について述べておられるのを読んだときです。

三節が「瓢水関係の石造物」です。

どんな経過か忘れましたが、二巻を木戸氏からいただきました。

木戸氏のサインもあります。

生前、木戸氏と直接お話をしたことはありません。

もちろん、私は地道に郷土史の研究をされている木戸正氏のお名前は知っていましたが雲の上の方でした。

 Mさんのこと

そして、最近高校の同窓生のMさん(女性)とあることで、よく話をするようになりました。

県立高校であるのに男女別々の教室でした。

気弱なために、ほとんど学校で女性と話したことはありません。

それに加えて、数学が病的にできなくてコンプレックスがあり、きっと女の子は私ごとき者を、きっと無視していたと思います。

最近は年(68)のせいか、若干あつかましくなりました。

Mさんと話している時、何かのきっかけでお父さんの話になりました。

途中で、話の内容があやしくなりました。

「もしや、Mさんのお父さんは『木戸正さん』ではないですか」と尋ねると、ビックリされていました。

話がどんどん進み、「私も地域史に興味を持っています。生前にお父さんから『ふるさとの文化遺産(第二巻)』をいただきました」と話をすると、Mさんから一巻から六巻まで全巻が届きました。

本当にありがとうございました。

 

   『ふるさとの文化遺産』からの報告

話が横道にそれてしまいました。話を瓢水のお母さん・お父さんへ戻します。

次回から報告しようと思っている、瓢水のお父さんとお母さんの話は、『ふるさとの文化遺産(第二巻)』の木戸正氏の研究によるものです。

若干、私見を添えさせていただきます。

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瀧瓢水研究④・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓碑①

2011-10-28 12:51:51 |  ・加古川市別府町を歩く

「瀧瓢水研究」も本号でno4になりました。

3号までは、少し瓢水について復習しました。

1号でお知らせしたように「瓢水の父・母の見つかる」の話題へと進みたいと思います。

読者の方から、そろそろブーイングが聞こえてきそうですから・・・

 

     瀧家の墓

034瀧家の墓地は西町の墓のやや西寄りの墓地内のメーン通りに添って東側にあり、よくわかる場所にあります。

ただ、墓碑には戒名で、瀧とは刻まれていません。

写真を参考にされてお参りされてはいかがでしょうか。

瓢水は、瀧家の四代の頭首です。

初代は元春、二代は清春(瓢水の祖父)です。

三代が仲春(瓢水の父)です。

墓碑には、戒名のみなので、瓢水の母・参そして、それぞれの戒名を紹介しておきます。

初代(元春)  月高浄透

二代(清春)  全快清春

三代(仲春)  覺元浄法信

瓢水の母(参) 勝林栄舜

瀧家の墓地には、初代・二代頭首の墓碑があるのですが、三代つまり瓢水の父、そして母さん(参)の墓碑が見当たりません。

かつて、あったという話を聞きました。

特に、「さればとて 石に蒲団は かけられず」のモデルとされる瓢水の母の墓碑を探がしまわりました。でも、見つかりませんでした。

でも、最近(今月)地元のKさんから「瀧さんの御先祖の方から三代と瓢水の母と父の墓碑は、震災で傷みが激しくなっていたため、少し修理をし、同じ西町の瀧家の墓地から少し離れた場所に移してしています」との連絡があったことをお聞きしました。

そして、案内していただきました。

ありました!・・・・

まさに、まさにお父さんとお母さんの墓碑でした。

写真・説明等は次号です。

 <蛇 足>

写真:瀧家墓地の初代頭首の墓碑には二人の戒名があります。向かって左の戒名は、初代・元春の奥さんの戒名です。

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瀧瓢水研究③・瀧 家

2011-10-28 07:43:39 |  ・加古川市別府町を歩く

瀧家は辻堂(別府町元町)のあたり

Befu_115   瀧瓢水は、貞享元年(1684)別府村に生まれました。父は、瀧新右衛門仲春、母は参といいました。

 家は、現在の別府町元町にある辻堂(写真)のあたりで、約100m四方もある広大な屋敷でした。

 家業は、叶屋と号し、別府港を拠点とし、大坂や西国と手広く商いをしていました。

 千石船七艘を有したというから、その豪商ぶりを知ることができます。

 瀧家は三木合戦で籠城し、落城(天正8年・1580)後は現在の加東市滝野町で暮らしましたが、新右衛門元春(天正六年生まれ)は、別府村に移りました。

 三木合戦で最初に攻防のあった別府城のあった場所は分かっていませんが、戦況・地形から考えて瀧家のあった辻堂あたりがふさわしいと考えられます。

 ともかく、三木合戦後、別府城は取り壊され、広い跡地が残ったと想像されます。

 瀧家は、その場所に屋敷を構えたと想像します。史料があっての話ではありません。

 そこは、船の出入りする別府川の河口に近いし、また住吉神社のあたりの海岸は、現在の地形と異なっていました。

 住吉神社の西のあたりは、別府川がS字状にまがった湛保(たんぽ)という船溜まりであったという記録もあります。

 瀧家は、そんな別府の港に目をつけたのでしょう。

 三木合戦を最後に、戦争のない平和な時代へとかわりました。

 農業は大きく発展し、それに伴い商業活動もさかんになりました。

 別府の浜は賑わい、瀧家は海運業者として時流に乗り大いに繁栄しました。

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滝瓢水研究②・滝瓢水(たきひょうすい)

2011-10-27 11:09:51 |  ・加古川市別府町を歩く

 瓢水のお父さんとお母さんの墓碑をすぐにでも紹介したいのですが、少しお待ちください。

  その前に瓢水について少し復習しておきます。

 滝瓢水(たきひょうすい)

Befu_085俳人、滝瓢水(16841762)は、加古川の別府村に生まれました。

 別府にある瓢水(ひょうすい)の生家は、叶屋(かのうや)という船問屋で、彼が家を継いだときは富商であったが、瓢水の代になって、急速に零落しました。

そのはずである。彼は、家業を人任せにして京・大阪に遊んだ。地所や持船は、いつの間にか、人手に渡り、親類からも見放されたといいます。

 しかし、俳諧には、ますますのめりこみました。

彼の俳諧には、底抜けの明るさと機智そして善意がありました。

ここでは、広く知られている瓢水の俳諧を三首紹介しておきます。

    手に取るな やはり野におけ れんげ草

  Don't pick chinese milk vetches. Since their bloom are more beautiful when left in the field. (He advices not to marry with geisha girl.)

 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

   A woman diver also has a straw raincoat, and she takes care not to get wet in the rain as she goes to the beach.

    さればとて 石に布団は 着せられず

   We cannot hang bedding on the gravestone.  (We should show filial piety while our parents are living.)

なお、蛇足ですが、意味を下手な英訳にしてみました。お読みいただければ幸いです。

*写真は、別府町の宝蔵寺にある瓢水の句碑。

 

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滝瓢水研究①・瓢水の母・父の墓碑見つかる

2011-10-27 08:17:07 |  ・加古川市別府町を歩く

  「志方町を歩く」は、一週間ほどお休みとします。

瓢水の父母の墓標はどこに?

Befu_002  2年ほど前に、上の題で、次のような文章を載せました。

太字に注意してお読みください。

滝 瓢 水

現在の加東市滝野町から別府に移り住んだ瀧家は、初代・元春から三代・政清で財を成しました。

 家業は、廻船問屋で、叶屋(かのうや)と号し別府港に拠点をおき、加古川の流域の物産を集め大坂や西国に送り、生活物資や魚肥等を買い入れ、それを販売する一大商社として大いに繁栄し、千石船七艘を所有するまでになりました。

 その家業も四代・瓢水の代になり、急速に衰えました。 

それもそのはず、家業は他人まかせで異常なほどに趣味の俳句にのめりこんだのでした。

 瀧家の墓所

 瀧家の墓所について紹介します。

 瀧家の墓所は、別府の西町の共同墓地にありますが、もともとこの場所にあったのではありません。

 別府町以外の人には、分かりにくく申し訳ないのですが、今の「別府町民会館」のある場所です。

 江戸時代、ここに金蔵坊という僧坊があり、そこの墓地に埋葬されていました

 明治初年、今の場所に移されました。

 余話をはさみます。

22年、別府村・西脇村・新野辺村が合併して新しい別府村ができたとき、金蔵坊があった場所に村役場がおかれました。

 西町の現在の瀧家の墓所に話をもどします。

 瀧家の墓所には、初代(元春)・二代(清春:瓢水の祖父)の墓標はあるが三代(政清:瓢水の父)の墓標が見当たりません。

「さればとて 石に布団は かけられず」と瓢水が詠んだ母・参の墓標もみあたりません。

 ともに数年前まで、ここにあったと聞きました。

 その経過が分かりません。瓢水の父母の墓標は、貴重な地域の語り部であり、文化財でもあるはずです。

 瓢水の墓標であるが、瓢水は宝暦十二年(1762)五月、七十九才の時大坂の旅先で没し、現在の大阪市天王寺区生玉町の持明院(生国魂神社東)の墓所で眠っています。

 以上が以前に紹介した文章です。

 きょうは、ビッグニュースがあります。瓢水の父母の墓碑がわかりました。

 今「志方町を歩く」を続けていますが、一週間ほどお休みして、滝瓢水について緊急報告をします。楽しみにしてください。

 *写真の瓢水の句碑は西町の墓地のものではありません。

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別府町探訪:昔(大正12年)の別府の風景を想像しよう

2009-02-20 18:27:01 |  ・加古川市別府町を歩く

816ba70d_3 今、ブログでは、別府の町を散策している。

 歩けば、いろいろなものに出会う。

 詳しいことは分からなくても、新しい発見が一つあれば、ひとつだけ好きになる。

 反面、まちを破壊するものに対しは、憤りを感ずる。

 別府は、誇れるものがいっぱい詰まった地域です。

 もっとも、今回の探訪でも西脇地区については、ほとんど説明していない。後日西脇地区を中心に探検することにしよう。

 このあたりで、いったん、加古川市の他の町の探検に出かけたい。

 地図は、大正12年の別府近辺の地図です。

 当時の風景を想像して欲しい。

 別府の町から海が消えて久しい。

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別府町探訪:新野辺のお薬師さん

2009-02-18 12:17:02 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_037 きょうも『加古川市誌(第二巻)』より、新野辺の伝承を紹介したい。

 新野辺には霊験あらたかな薬師如来が祀ってあり(写真)、村人からあつく信仰されていた。

 「ただ一つ、このお薬師さんに願いをかけ、自分でも誓いをたて、それを守れば、その願は必ずかなう」と信じられていた。

 昔、新野辺に兵衛(ひょうえ)という人が住んでいた。

 兵衛は、ちょいちょい胸が痛むので、お薬師さんにお願いしようと考えた。

 「お薬師さん、おやくしさん・・・三年間、好きな雑煮を食べませんから、胸が胸が痛くなるのを治してください・・・」と。

 兵衛は、それから好きな雑煮を食べなかった。

 ところが三年目の正月だった。

 遊びつかれて家に帰った兵衛は、あまりの空腹にたえかねて、台所を捜すと、そこに雑煮の食べ残りのあるのを見つけた。

 思わす手がでて食べてしまった。

 ハッと気がついた。兵衛は誓いを破っていた。

 にわかに、胸が痛みだした。

 その日、気の毒にも夕日の落ちるころだった。痛みがひどくなって息をひきとったという。

 ・・・・

 新野辺には、他にも伝承がある。病気・死に繋がる話が多い。ちょっと気になる。

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別府町探訪:上人山(しょうにんやま)

2009-02-17 08:36:45 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_030

 『加古川市誌(第二巻)』から、新野辺に伝わる伝承を紹介したい。

 ・・・・

 浜ノ宮中学校のから南いったいは、昔は松林で覆われた砂丘で、人々から上人山と呼ばれていた。

 林の中の小高い砂丘に一基の五輪塔(写真)があった。

 昔、上人さんと呼ばれた坊さんが住んでいた。

 坊さんは、自分の死が近づいたことを悟ったとき、「私は生きたまま成仏したい。私の打つ鐘の音が聞こえなくなったら、成仏したと思ってもらいたい」といい残し、少しばかりの食料と水を持って念仏を唱え、鐘を打ちながら土中深く生き埋めになった。

 それから四十日ほどは、鐘の音が聞こえていた。

 その後、人々は坊さんの死を悼み、その場所に塚をつくり五輪塔を建てた。

 その五輪塔や塚をさわると、頭が痛くなったり気分が悪くなったので、たたりを恐れて誰も手を触れなかったと言う。

 ・・・・・(『加古川市誌:第二巻』参照)

 第二次戦争後、このあたりは開発が進み住宅地となった。

 その時、塚は削り取られ五輪塔だけが残された。

 現在、五輪塔は田隅医院の南の大田さんのお宅の庭奥にあるが、元はもう少し西あったとも言われている。

 蛇足になるが、大田さんの南隣はテレビタレントの陣内智則さんのお宅である。

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別府町探訪:松風こみち

2009-02-15 14:25:33 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_035 現在の加古川市役所のすぐ東にJR高砂線・野口駅があった。

 そこで、別府駅行きに乗りかえて、別府鉄道・別府駅に着いた。そして別府の浜にでた。

 別府の浜は、春は潮干狩り、そして夏は海水浴で賑わっていた。

 別府鉄道の前身「別府軽便鉄道」が開業したのは1921(大正10)年の9月だった。

 (昭和21年4月1日:別府軽便鉄道は別府鉄道に名称を変更する。別府鉄道として話を進めている)

 別府鉄道の主な役割は、別府製肥所の肥料の運搬のためだった。

 その後、加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤・通学の足としても別府鉄道は無くてはならないものになった。

 この鉄道が最も賑わったのは、昭和30年代のはじめころで上記の外に別府の浜へ潮干狩り、海水浴へと多くの客を運んだ。

 しかし、こうした風景も1967年(昭和42)ごろから臨海部の工場用地の造成が始まり、以後急速に様変わりした。

 海水浴場は閉鎖になった。

 そして、モータリゼーションの波で、乗客は激変。それに1984年(昭和59)2月「土山駅の貨物取り扱いのストップ」が決定的な打撃になった。

 別府鉄道は、1984年(昭和59)、63年の歴史を閉じた。

 野口線(別府~野口)は、現在「松風こみち」(市民遊歩道:写真)として生まれかわった。

 別府川に架かる鉄橋は、今も別府鉄道の面影を残している。

 土山線は道路として、播磨町歴史資料館から土山駅間は「であいのこみち」として、歩行者と自転車に開放されている。

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