ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(265) 魚町(2)・魚町倶楽部

2015-06-30 07:12:53 |  ・高砂市高砂町

 魚町倶楽部は、内、外装に贅を尽くした建物は、現在もなお華やかだった「明治文化」の雰囲気を伝えています。

 この建物については、『近代の歴史遺産をたずねて』(神戸新聞総合出版センター)に説明がありますのでお借りしました。

 文体・内容等、少し変えています。

    三菱製紙・魚町倶楽部

 写真は、魚町倶楽部(クラブ)です。

 かつて、職員用の娯楽施設だったため、倶楽部と呼ばれていますが、元は明治37年(1904)に建てられた外国人技師長・シェイの社宅です。

 木造二階建ての瓦屋根を抜いた洋館のシンボル「三つ穴の煙突」や、優美なタイル、手吹きガラス窓、敷々の室内装飾のデザインと日本庭園、庭木がうまくマッチ、和洋折衷のバランスが美しい建物です。

 当時、近くの稲荷神社の傍にあったのをシェイが退職後、工場から少し離れた現在の魚町へ移築しました。

 同社は明治31年の創立で、その前身は少神戸製紙所と呼ばれていました。

 経営者の米国人兄弟から創業者の岩崎久弥が譲り受け、神戸で引き継いだのですが、水不足のため、豊かな加古川のある高砂へ移転することになり、それを強く推薦したのがシェイでした。

 昭和40年代ごろといえば、高砂には娯樂施設が少なく、たまたま館内にあったビリヤードは、職員から引っ張りだこだったといいます。

 やがて、娯楽の多様化で利用者は減少し、傷みが目立ち、2003年に一時閉鎖されましたが、現在、屋根や外壁を張り替える大規模改修を経て生まれ変わりました。(no2846)

 *写真:魚町倶楽部

 *『近代の歴史遺産をたずねて』(神戸新聞総合出版センター)参照

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高砂市を歩く(264) 魚町(1)

2015-06-29 09:50:39 |  ・高砂市高砂町

 魚町を歩いています。街角の説明板を読みます

   魚町(うおまち)

 今津町から西へ西掘川までの東西の町並。

 名の由来は瀬戸内からあがる魚介類を売買する魚市場や魚問屋かあったことによる。

 高砂町成立期には魚店町(うおだなまち)と西魚町(にしうおまち)であったが、江戸時代中期までに統合されたと思われる。

 高砂町の大年寄(おおとしより)務めた糟谷長平(かすやちょうべい)がいた。

 天保九年(1838)家数69戸、人数2838人

   港の男たちの盛り場でもあったか!

 「魚町」を歩きました。

 「魚町」と言うと、姫路市の飲食店が集まる繁華街の「魚町」ことと結びつけて考えてしまいます。

 高砂町の町割りも城下町から始まっています。姫路も高砂と同じです。

 調べてみました。

 「姫路市の魚町は、昭和59年の区画整理で、竪町、恵美酒町、西魚町等の町々がまとめられ魚町になった。

 昭和59年にできた新しい町の名前ですが、「元禄絵図」に「うを町」があるから、昔から鮮魚店や飲食店が多い町であった」とあります。

 姫路市の魚町は、人々の飲食欲を満たし、賑わいのある当時の町であったことがうかがえます。

 高砂の魚町も、町の説明板からは「町名の由来は瀬戸内からあがる魚介類を売買する魚市場や魚問屋かあったことによる」とあるのですが、「かつての賑わいのあった港で働いていた男たちの盛り場も兼ねていた」とも想像します。どうでしょうか。(no2845)

 *『姫路の町名』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *地図:魚町(近世中ごろの高砂の町図‐町域は推定)

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高砂市を歩く(263) 農人町(のうにんまち)

2015-06-28 07:53:36 |  ・高砂市高砂町

    農人町(のうにんまち)

 きょうも、農人町の説明板を読んでおきます。

 ・・・・(農人町は)町場の北西端、北堀川の北岸沿いに東農人町から東西に連なる町並。

 町名は農民や塩田従事者が多く住んでいたことに由来する。

 高砂の周辺部を統括する大庄屋並格の岡田百太夫(おかだももだゆう)がいた。

 地内には元の高砂神社があり小宮地(こみやじ)といわれた。

 天保12年(1841)、家数103、人数480人

 

 『(農人町には)農民が多かった」とありますが、土地は砂地です。

 水田ではばく、綿作も含めて畑作が多かったのでしょう。町場への野菜を栽培していたのかもしれません。

   ここ(農人町)から南が高砂の町場

 まっすぐ西へ行くとユーカリ児童公園(現在は、道を挟んで西畑1丁目となっています)があります。

 この公園の隅に道標があります。

 この道標は、旧浜街道がはじめて高砂の街に入る所に建てられています。

 文字を読んでみます。

   高砂相生うたひ乃名所

   右 姫路   石の宝殿   

          楚ねの末門   道

 「高砂相生うたひ乃名所」とあるので、西の荒井村から来ると、この辺りから 「高砂相生うたひの名所」、つまり高砂の街の中心地に入ったことが分かります。

 当時(江戸時代)からこの辺りが観光名所であり町場が始まっていたようです。

 この道標は、元々このすぐ近くにあったようですが、車の妨げになったのでしょうか、この公圃の隅に置かれています。(no2844)

 *『東播磨の道標を訪ねて(井原卓也著』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *地図:農人町、写真:道標(ユーカリ児童公園:西原1丁目)

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高砂市を歩く(262) 懐かしい風景(南本町で)

2015-06-27 15:44:09 |  ・高砂市高砂町

  (*このブログは、飛ばし読みしてください。時間の無駄ですから)

    懐かしい風景

 南本町のお菓子屋さんの前あたりです。

 いいですね・・・

 赤いポスト

 たまらなく懐かしいです。

 阪神の吉田・三宅・本屋敷のように懐かしいです。

 こんな風景に目が止まるようでは、年なんですね・・・。

 今月(6月)の30日で72歳になります。

 帰りに古民家の喫茶店「トコトコ」(高砂神社のすぐ北)でコーヒを飲みました。

 お店の方とお話をしました。

 こんな、ゆっくりした時間が良くなりました。

 すっかり年寄り気分・・・。

 だめですね。

 もうひと頑張りしますか。(no2843)

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高砂市を歩く(261) 高砂町の町並み(昭和初期)

2015-06-27 08:00:11 |  ・高砂市高砂町

 『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社)に、一枚の写真の写真があります。

 この写真の説明に「高砂の町並み(高砂市昭和初期」、当時北本町通り周辺の屋並みがよく分かる。瓦屋根の並び、通りも狭かった」とあります。

    高砂町の町並み(昭和初期)

 写真の上に山がみえるので南から北の方向を撮影した写真です。

 右の煙突のあたりは三菱製紙の会社です。

 手前の狭い通りは北本町の商店街で、その商店街は南の南本町商店街に続いています。

 高砂は工場の好景気に寄より、商店街は賑わっているようです。

 その時代の高砂町のようすを『高砂市史(第三巻)』から拾ってみます。

     企業の景気に左右される商店街

 1930年(昭和5年)4月4日づけの『神戸又新日報』は、鐘紡の賃金引下げにより、「高砂町商家は間接に相当の打撃をうけ、従って収益税に関係をきたし、町当局へも幾分の打撃を与えはすまいかとみられている」と報じた。

 また、「・・・1935年(昭和10)12月20日づけでは、「誓文払大売出」が始まった17日、三菱製紙は「タンマリと賞与を支給したため、三菱景気にうるおい、各商店は景気よく、相当な人出をつづけている。

 鐘紡工場は20日ごろ賞与が支給されるため、同町の誓文払は上々の成績をみるであろう」と報じています。

 労働者の得る賃金・賞与の多寡が、商店の売上に直結していたのです。

 高砂の商店街は近在の買い物客が集まるのではなく、商圏はせまく地元の人の購買で成り立っていた商店街でした。

 そのため、高砂商店の浮沈は工場の景気に左右されました。

 現在は、その上に大型販店の進出により本町商店街の賑わいは消えた・・・(no2842)

 *写真:昭和初期の高砂町の街並み

   『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社』)より

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高砂市を歩く(260) 南本町・賑わいのあと

2015-06-26 09:27:43 |  ・高砂市高砂町

 北本町をそのまま南に歩くと南本町です。

 町角の説明板を読んでおきます。

    南本町

 ・・・

 高砂町の中央を南北に貢通する幹線道路沿いの町並。

 御用達大年寄(ごようたしおおどしより)・加古義兵衛(かこぎへい)、町年寄・備後屋重兵衛(びんごやじゅうべい)は大蔵元であった。

 儒学者で申義堂の教授であった小林梧陽(こばやしごよう)の生誕地であった。

 米穀備蓄のために固寧倉(こねいそう)かあった。

 現在、当町には月西上人の開基と伝える月西庵(寺)がある。

 天保十五年(1844)の家数62戸・人数247人(町角の説明板より)

    賑わいのあと

 説明板にあるように江戸時代の南本町界隈は・北本町と共に場所、にぎわいのある場所でした。

 明治時代以降もその賑わいも続いたようですが、鉄道が加古川を通り、人と物流れは加古川地方に移っていきました。

 弱ったとはいえ、北本町・南本町は町の中心としての機能を果たしていました。

 第二次戦争になりました。この界隈には工場や屋並みも集中しています。

 空襲があれば大変な災害が予想されました。

 そのため、大戦末期の強本町通り界隈の建物は強制的に疎開させられ、道は広げられ今見るような広い道になり町の様子もすっかり変わりました。

 しかし、一歩路地に入ると昔の賑わいのである、土蔵(写真)や屋敷跡を見ることができます。(no2841)

 *地図:南本町

 *写真:昔の賑わいを物語る蔵のある風景

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高砂市を歩く(259) 北本町(5)・河合義一

2015-06-25 08:11:25 |  ・高砂市高砂町

 高砂地域コミニティーセンターの玄関前に河合儀一の胸像があります。

 高砂市・東播磨地域にとって忘れられない偉大な政治家です。しかし、彼の名前も忘れ去られようとしています。

 河合義一は、晩年藍屋町で生活しましたが、胸像が北本町にあるため、北本町で紹介します。

    河合義一

 大正7年(1918)の米騒動は、日本の労働運動に大きな影響をあたえました。

 さらに、第一次世界大戦後、ロシア革命の思想的な影響もあって、多数の労働組合が組織され、農村においては小作争議が年ごとに激増しました。

 大正11年(1922)4月、神戸で賀川豊彦等により全国的組織・日本農民組合が結成されました。

 その後、日本農民組合は各地にひろがりました。

 県下では、最初に「農民組合東播連合会」が結成され、河合義一は会長に選らばれました。

 義一は、東京外語大学でフランス語を学び、卒業後は日本銀行に就職したが、就職してまもなく発病(結核)し、神奈川県のサナトリウムで療養しました。

 この不慮の発病が、彼のその後の進路を大きく変えました。

 また、東京外語時代キリスト教徒であった彼は、本郷教会へよく通いました。この本郷教会の持つ環境が、彼のその後の方向を決定的にしたともいえます。

 本郷教会に集まった人々の中には、大正デモクラシーの指導的役割を果した吉野作造、社会主義者で、小説『火の柱』で有名な木下尚江、そして日本最初の労働組合「友愛会」の創始者、鈴木文治などがいました。

 高砂に帰った義一は、一時療養のため瀬戸内海豊島(てしま)へ移りました。

 そこで、地主の圧制に苦しむ小作の生活を知り、高砂へ帰った義一は、農民運動の指導者として活躍しました。

 彼の活躍は、『河合儀一・農民の友として』に詳しく紹介されています。(no2840)

 *写真:河合義一之像(高砂地域コミニティーセンター前)

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高砂市を歩く(258) 北本町(4)・高砂市役所

2015-06-24 09:35:31 |  ・高砂市高砂町

   高砂市役所

 伊保村と荒井村の間に喧嘩島という島がありました。

 洗川の河口近くに小さな砂州が生れ、それは、やがて小さな島となりました。

 江戸時代、砂州であるこの島をめぐって荒井村・伊保崎村と今市村の人々は、自分たちの土地であると主張し争いになり、その名が生まれました。・・・

昭和29年(1954)7月、町村合併で高砂市が誕生。

 3年後、洗川廃川敷の埋立てで荒井と地続きになったこの島に、新市庁舎が完成しました。

 洗川を境に加古郡と印南郡がながらく分れていた関係もあり、地理的にも中央部にあたることもあって、この地に決めたといいます。

   もと、高砂市役所は北本町あった

 挿絵をご覧ください。

 現在の高砂市役所が完成するまで、高砂市役所は北本町にあり、現在そこは高砂地区コミニティーセンターとなっています。

 なお、申義堂は十輪寺の前に移築されていますが、現役の頃(江戸時代)、申義堂はこの場所にありました。

 申義堂については、「高砂市を歩く・申義堂研究(41)~(52)」をご覧ください。(no2839)

 *挿絵:旧高砂市役所

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高砂市を歩く(257) 北本町(3)・高砂商工会議所

2015-06-23 08:29:03 |  ・高砂市高砂町

 『近代の歴史遺産をたずねて』(神戸新聞総合出版センター)に高砂商工会議所の紹介がありますのでお借りします。

 (文体等一部変えています)

    高砂商工会議所

 昭和25年(1950)といえば、まだまだ、深刻な戦後の混乱状態が色濃く残る時代でした。

 その年に早くも町制の中では、全国で初めて高砂商工会議所を立ち上げています。

 この街に明治時代から大企業が進出、交流が深かったことと無関係ではなかったようです。

 同商議所は、同25年5月に施行された「商工会議所法」に基き、同7月の発起入会、設立総会をへて同11月25日、うぶ声をあげました。

 事務所は、当時の高砂町役場内に置かれ、2年後、町内の田町に独立事務所を設け、たびたび移転を繰り返し、現在の高砂町本町に移ってきたのは同55年の1月でした。

 建物は、元高砂銀行の店舗跡で、昭和7年(1932)に建設された鉄筋コンクリート二階建で、述べ面積1.097平方メートルです。

 同銀行と合併した当時の太陽神戸銀行が移転したのを機に譲り受け、改装して入居しました。

    県の景観形成重要建物

 高砂本町商店街通に面した洋風の建物は、正面入り口の二階に延びる大きな二本の円柱、美しい窓、上部壁面の装飾が目を奪います。

 内部も一部二階まで吹き通し、二階入り口、室内の天井、壁面にも趣向を凝らした飾り模様か施され、古代ローマのロマネスク調を思わせます。

 現在も高砂ロータリークラブの例会場などに使われ、広く親しまれています。

 県の「景観形成重要建物」に指定されています。(no2838)

 *『近代の歴史遺産をたずねて』(神戸新聞総合出版センター)より

 *写真:高砂商工会議所

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高砂市を歩く(256) 北本町(2)・下村商店(アナゴ店)

2015-06-22 08:28:48 |  ・高砂市高砂町

 北本町を歩いています。

 たまらなく、いい匂いがしてきました。下村アナゴ店からの匂いです。

 (アナゴの匂いを感じていただくために写真を大きく入れました)

 下村商店の紹介が『えほん・はりま(広瀬安美著)』にありましたのでお借りします。

 (文体等を少し変えています)

   下村の焼きアナゴ

 高砂名物「下村の焼きアナゴ」は、農人町で魚屋を営んでいた下村種吉さんが、明治の終わり、焼きアナゴを専門に始めたが、なかなか売れないので、かごにアナゴをいれ、芦屋、神戸方面へ行商に回り、一くし、二くしと売って歩いたそうです。

 味のよきが次第に認められ、「高砂の焼きアナゴ」と評判になりました。

 焼きアナゴに使うアナゴは「まあなご」の、それも40グラム程度のものが最高で、生きのいい良質のアナゴを手早く処理し、焼きあげるのがコツだといいます。

 もっとも、独特のタレづくり、焼き加減などは伝統的なもので、他ではまねができないものとなっています。

 「焼きアナゴ」の簡単な見分け方は、一くし二尾ものの味が最もよく、そのままたべるのが一番おいしい。

 季節としては4月、11月が、アナゴの味のもっともよいときだといいます。

 焼きアナゴは、夏は二、三日、冬は一週間くらい保存がききます。

 高砂港の汚染がクローズアップされ、ひところの十分の一と売れ行きがガタ減りしたこともあったのですが、アナゴの品質管理に万全をつくし、騒ぎのなかでも店を閉めず、自信をもって販売しました。

 ・・・

 今夜のビールのつまみにしたいですが、年金生活者には少し贅沢ですかね・・・

  <お詫び>

 以前、このブログの「加古川の舟運」で、「高瀬舟の船頭は、帰りの土産に焼きアナゴを買って帰った」と書いたことがあります。ある本で、そんな記述があったためです。

 その時は、ためらいもなく江戸時代のことと思い込み、下村商店を江戸時代の創業のように読めるように書いています。(no2837)

 正しくは明治の創業です。訂正しお詫びします。

 *写真:「下村アナゴ店」(インターネットより)

 *『えほん・はりま(広瀬安美著)』参照

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高砂市を歩く(255) 北本町(1)・大年寄・岸本家

2015-06-21 07:15:14 |  ・高砂市高砂町

 昨日(20日)、さっそくHPにある北本町の説明板を捜しました。すぐ見つかりました。読んでおきます。

    北本町(きたほんまち)

 高砂町の中央を南北に貫通する幹線遭路沿いの町並。

 御用達大年寄(ごようたしおおとしより)・岸本吉兵衛がいた。

 岸本家は、代々木綿業を営む豪商で、姫路藩の木綿専売制に深く関与し、国産方(こくさんがた)賃付相談役に任命された。

 文化年間(1804~18)、姫路藩家老・河合寸翁(かわいすんおう)の建議で郷学(ごうがく)・ 申義堂(しんぎどう)が建てられ、土地・建物は岸本家が提供した。

 天保10年(1839)の家数82戸・人数358人

    大年寄・岸本家

 町角の北本町の説明板は、岸本家の説明になっています。ここでは、「高砂市を歩く(50)」から岸本家について、少し復習しておきます。

 なお、「岸本家と高砂の町」については、後に詳しく取り上げる予定にしています。

 岸本家は、印南郡大国村(現:加古川市西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 岸本家は、三代で、その基礎が確立され、その資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり、藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。
 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たし、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。

 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。(no2836)
 *『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)』(ジュンク堂書店)参照
 *絵:三代岸本博高肖像(長沢蘆洲筆)

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高砂市を歩く(254) 高砂町を歩きませんか!

2015-06-20 13:06:46 |  ・高砂市高砂町

     高砂町を歩きませんか!

 個人的な、つまらない話です。

 最近は少し良くなってきていますが、ここ数年腰痛で困っています。原因は、はっきりしています。運動不足なんです。

 ものぐさで散歩も長く続きません。

 孫が小学1年生になりました。今回は、一緒に遊ぶために「絶対に散歩する」と、一大決心をしました。

 さいわい、いま高砂町を歩いています。

 他の地域より楽しいんです。

 高砂の町は、狭い地域に歴史がコンパクトにいっぱい詰まっています。

 歴史を缶詰にしたような町です。

 それに何より、町角に江戸時代の高砂町の各町(まち)の説明があります。

 これらの町の説明板の設置場所がHPにありました。

 これからの季節は暑くなりますが、これらの説明板を読みながら歩いてみませんか。楽しくなること請け合いです。

 きょう(6月20日・土)は、幸い曇っています。高砂の町を1時間ばかり歩いてきます。

  町名の説明の看板のある場所

 町看板のある場所は次のようです。

 農人町、東農人町、北本町、藍屋町、東浜町、高瀬町、次郎助町、鍵町、横町、鍛冶屋町、北渡海町、清水町、船頭町、細工町、大工町、魚町、南渡海町、材木町、今津町、南本町、釣船町、宮前町、狩網町、猟師町、田町、戎町、西宮町、東宮町、南浜町(HPより)(no2835)

 *地図:各説明板のある場所(HPより)

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高砂市を歩く(253) 藍屋町

2015-06-20 07:26:26 |  ・高砂市高砂町

 きょうも、最初に街角の説明板を読みます。

    藍屋町(あいやまち)

 北堀川の北岸沿いに東西に連なる町並。

 町名は藍(紺)屋が集住したことに由来する。

 町大年寄 ・炭屋玖左衛門は大蔵元であった。

 町の東には百間蔵と呼ばれた姫路藩の蔵米の倉庫が南北に二棟あり、加古川上流から物資を運搬する高瀬舟の検閲のため津留穀留番書が置かれていた。

天保8年(12837)の家数83戸・人数39人。

  百間蔵(ひゃっけんぐら)界隈

 高砂町は、加古川流域に散在する諸大名・旗本領の年貢米集散地でした。

 高砂に設置された藩の役所として重要な施設は、百間蔵と御溜屋(おためしょ:百間蔵に収納される年貢の出納を管理するための役所)でした。

 百間蔵は、南蔵48間、北蔵52間(合計100間)の二棟の蔵の総称で、藍屋町の東詰め北側に高砂州(加古川)に沿って南北に細長く建てられた巨大な建物でした。

 百間蔵の界隈には年貢収納の時期になると東播磨の村々からの膨大な量の年貢米とそれを運びこむ人々が殺到しました。

 そのありさまは、米俵で道をふさがれ、足の踏場も無いほどの混雑で、藍屋町の家々は村々の庄屋や百姓相手の飲食宿を営み、年貢米の蔵納めの前に、にわか雨があると宿の蔵や家の内庭に米俵を運び込んで凌ぎ、またそれを運び出すなど、その喧騒は大変でした。

  賑わいの町並みが消えている・・・

 藍屋町の道筋に面した大きな家は、いずれも間口の狭いわりに奥行は深く、二階建のどっしりとした構えでした。

 そんな、瓦葺の屋根と深い庇、厚く塗り込まれた白壁に虫篭窓(むしこまど)の家が最近めっきり少なくなりました。(no2834)

 *地図上:藍屋町、写真下:現在の藍屋町の屋並み

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高砂市を歩く(252) 東浜町(ひがしはままち)

2015-06-19 06:40:44 |  ・高砂市高砂町

    東浜町(ひがしはままち)

 北は高瀬町、南は材木町まで南北に連なる町並。

 町名の由来は町場の東端で硯在の堀川である高砂川沿いに位置したことによる。

 船着場があリ、問屋の蔵が建並んでいた。

 壺屋長左衛門(つぼやちょうざえもん)・小間物屋儀兵衛(こまものやぎへい)・ 米屋清兵衛(こめやせいべい)は大蔵元で塩座役でもあった。

 天保9年(1838)の家数13戸・人数54人

   姫路藩の経済を支えた町(東浜町・今津町・材木町)

 私たちは、現在の風景から、かつての町のようすを想像がちです。

 東浜町を歩いています。少し失礼な表現ですが、現在の町のようすから、かつてのこの界隈のにぎわいは想像できなくなっています。

 しかし、南堀川を挟んだ材木町・今津町と共に東浜町は高砂町の中心であり、姫路藩の経済を支えた町でした。

 復習になりますが、「高砂町を歩く(10)」を読んでおきます。

 ・・・『高砂市史(第二巻)』に、安永二年(1773)の高砂の町の人口を記しています。

 人口の極端に少ないのは材木町の46棟、今津町の56棟、東浜町の55棟です。

 竈数も10軒、13軒、13軒と極端に少なくなっています。(竈数:その屋敷地に建てられた町屋の世帯数)

 しかし、この三町は、面積としては決して小さくありません。

 その理由は、この町が高砂の港湾機能を担う中心的な地域であったためと考えられます。

 材木町と今津町は二町で南堀川を囲で両岸と堀留を占めており、東浜町は北堀川と南堀川の間の高砂川岸壁を占めています。

 この場所は、加古川運と瀬戸内廻船によって運び込まれ、また搬出される膨大な貨物の集積、積み出しを行う施設が並び、姫路藩だけでなく、加古川流域の諸大名の年責米やその他の貨物を保管する蔵が立ち並び、それらを扱う大蔵元を心に廻船問屋や船宿など大規模な町屋が軒を連ねる地域でした。(no2833)

 *『高砂市史(第二巻)』参照

 *地図:東浜町の位置、写真:現在の東浜町沿いの高砂町の岸壁(写真右岸)

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高砂市を歩く(251) 清水町

2015-06-18 07:12:56 |  ・高砂市高砂町

 清水町を歩いていますが紹介したい物が見つかりません。

 すっかり町の様子が変わったようです。

 町角の説明板を読んでみます。

    清水町(しみずまち)

 北堀川から南ヘ二筋目の道路沿いに、東は東浜町、西は北本町まで東西に連なる町並。

 町名は北本町角の清水(井戸)に由来する。

 高砂は、北本町の角の近く滑水の湧出(ゆうしゅつ)する井戸が少なかったので町民の飲料水として貴重なものであった。

 また、高砂町成立期の移住者の出身地名だとする説もある。

 町年寄・安田屋長兵衛は大蔵元であった。

天保九年(1838)の家数84戸・人数370人

   生活用水に困った高砂の町 

 高砂は三角州上の町で、良質の飲料水等の生活用水に苦労していた地域であることは容易に想像されます。

 『近世の高砂町人生活史(赤松力著)』に次のような記述があります。

 ・・・高砂では酒造業は天和年間に16あるが、その能力は、たいしたものではなかったとみられる。

 その理由は、高砂では良い水に乏しく、ただ井戸と言えば清水町に一つ大きいのがあり、町中の者が、そこへ水汲みに集まって家々に水を運んだということで、その不便さが象像できる。・・・(no2832)

 *地図:清水町の位置

 *『近世高砂町人生活史(赤松力著』(兵庫県社会文化協会)参照

コメント
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