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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

神野町探訪:万才池の研究④

2007-09-30 08:08:15 |  ・加古川市神野町

84611763   万才池は、標高30mの所にある。曇川から用水をつくり、水を引くのはむりである。

  曇川からの揚水は、ポンプでくみあげた。

  教科書(『小学校社会四年上』)(学校図書)を続けます。

 ◇ポンプで水をあげる◇ 

 ・・・曇川の水を汲み上げるには、図のように汲み上げた水を万才池に流し込まなければならない。

  実際には14mも水を上げたそうです。

  村の人たちは、20馬力の蒸気ポンプを買って、すえつけました。

  石炭をたいて蒸気をおこすのです。

8f8ee700   馬方(うまかた)さんが、荷馬車で石炭をポンプ場に運んでいるのを、おじいさんの子どものころによく見かけたそうです。

  田植えの前の、川の水も多くなる3月から4月にかけては、夜どおしかまを炊いて、万才池に水をくみあげました。

  兵隊に行ったとき、軍艦のかまたきをした人が、交代でポンプ場のかまをたいたそうです・・・

*写真はポンプきかい場、『東播磨の民俗』(石原完次著)より

 

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神吉町探訪:万才池の研究③

2007-09-29 08:14:38 |  ・加古川市神野町

43b6453a   村人は、とうとう池づくりをはじめた。

  さらに『小学校社会四年上』(学校図書)から記述を続けます。

◇万才池はどのようにつくられたのか◇

  ・・・この池がある辺りは、元はだんだん畑で、村のお墓もあるさびしいところでした。

  そこへ、6ヘクタールもある池をつくるのですから、それこそ大変でした。

  機械のない頃なので、鍬で土をほり、じょれんで土をもっこにのせ、天秤でかついで運びました。

930646f    岡の上の池ですから、土手が崩れたら、家も流されてしまいます。

  だから、じょうぶな土手にしなければなりません。

  今なら機械でつきかためますが、そのころは、図のような道具を使ったそうです。

  工事のためにかかるお金は、農家の人たちが出しあったりしたそうです。

  そして、働いたのも、この村のお百姓さんたちでした。

  みんな、農業仕事のないときに、工事作業にでたのです。

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神野町探訪:万才池の研究②

2007-09-28 11:19:36 |  ・加古川市神野町

2962a5b1   「万才池の研究②」も、昨日紹介した『小学校社会四年上)」(学校図書)からの転載です。

  児童がおじいさんに質問している。

  ・・・「万才池は、この辺りでは一番高いところにある。

  高いところに池をつくれば、近くの田んぼ全部に水を送れる。

  その代わり低い、低いところに流れている曇川の水を、池まで上げるのがたいへんだよ。」

  「万才池ができるまで、この土地では何を作っていたんですか。」

   「水がないので、畑にしかならなかったんだよ。

  そして、そこで作っていたのは、あわ・ひえ・そば・まめや芋だったな。・・・・

  売れるものでは、綿をつくっていた。

874943a2   ところが綿も、だんだん売れなくなったので、次第に米をつくろうとする家がでてきた。

  でも、米を作るためには水がいるし、水を貯める池もいる。池をつくるにはたくさんのお金がかかる。

  ・・・・村の人は、何度も何度も寄り合いをして、とうとう池をつくることにしたということだ。」

  ・・・先生は「発表の中に綿をつくってもさっぱり売れなくなった、と言うところがあったね。こういうことなんだよ。」と次のように話してくれました。

  「明治になってから、それまで、糸車や機織機を使って手でつくっていた糸や布を、蒸気で動かす機械を使ってつくるようになったのだよ。

  綿もインドやアメリカのものが安く買えるようになったので、これまでのように農家から買わなくなったんだよ。」

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神野町探訪:万才池の研究①

2007-09-27 18:38:34 |  ・加古川市神野町

082   加古川市神野町の南東部あたりは高台で、特に水の得にくい土地であった。

  青之井用水も20mばかりのところを流れている。

  さらにに高いところには水がこない。

  そのため、そこは細々と畑地として利用されていた。

  稲美町との境の高台(海抜m35m)に万才池(写真)が築かれた。

  この池について、昭和55年の『小学校社会四年上・下』(学校図書)に、取り上げられた。

  現在、この教科書は入手困難でもあり、このブログで紹介したい。

*しんいち君の研究のグループの発表のという形で書かれている。(多くのカ所で、ひらがなを漢字になおした。)

 ◇万才池の研究①◇

874943a2   ・・・・等高線をたどって地図を見ると、隣の稲美町に50mの等高線があって、加古川市の方にそれ、より低い等高線がありました。

  等高線と等高線の間が広くなっているので傾斜の緩やかな台地があることが分かりました。

  この辺りには、ため池の印がたくさんついていました。

  ほとんどのため池が、10m以上の台地の上にあることもわかりました。

  ・・・・

  つぎに、万才池がどうしてつくられたについて話します。

  おじいさんに教えてもらったので、私たちの質問とおじいさんの答えという形で発表します。

  「この池はいつごろつくられたのですか。」

  「私が生まれる二年前の、明治38年(1905)にできたんだよ。」・・・

  「万歳池なんて、おもしろい名前ですね。」

  「明治37~38年に、日露戦争という戦争に勝ったので、この名前をつけたそうだよ。」・・・     (『小学校社会四年上』学校図書より)

  万才池が教科書に取り上げられて以来、もっぱら「日露戦争説」が採られているが、万才池の形が亀の甲羅に似ており、亀は長寿のしるしであり、おめでたいところから「万才池」と名づけられたという説がある。

*写真は万才池(東側の土手から撮影)

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神野町探訪:青之井用水と皿池

2007-09-26 08:10:33 |  ・加古川市神野町

_081 ・・・(福沢は)神野村の南端にあり、大正年代まで戸数わずか30戸程度の小村で藁屋根が多く、各家は真竹の藪で囲まれ、冬は寒い風を防ぎ、夏は暑さを凌ぐ、いかにも素朴な農村でした。

  ・・・明治9年に地方区画制に伴い合併して石守村になりました。

  福沢は高燥地帯で、水利が悪く、昔から稲作はわずかで、ほとんど畑作にたよる貧村で特記するものがない・・・

  『福沢三百年誌』で著者・竹中佳次氏は、その序でこのように述べた。

  福留の交差点から福沢を通り曇川に向かって歩くと、傾斜地に福沢はある。

  曇川の両側の地形は高くなっており、曇川は谷の底を流れている。

  曇川に沿った場所は、絶好の水田となるが、反面、洪水の直撃を受ける。収穫は安定しない。

  曇川から少しはなれた高い場所に村落・水田をつくりたいが、今度は水がない。

  高いところには水は流れてくれない。そのため地形の高くなっている曇川の上流から水路を引く必要がある。

  「用水」である。曇川には、幾筋もの用水がつくられた。

  「青之井用水」もその一つで、寛文4年(1664)中一色(現:稲美町)地点より引水して、神野地区を灌漑した。

  青之井用水は、福沢の皿池(写真)へ流れ込み貯水された。

  しかし、それでも充分ではなかった。なお、水との闘は続いた。

*現在、皿池の中央部を南北に貫く東播南北道路の建設が急ピッチで進んでいる。  

  

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神野町探訪:明治の神野村

2007-09-25 08:53:19 |  ・加古川市神野町

9de658e6_2    きょうは明治の神野村の地図・戸数・そして各村の人口です。

  説明はありません。

     (戸数・人口は明治15年に発行された『播磨国地種便覧』からで、明治初期の数字です。

  地図は明治30年頃の神野村です。)

  年代は少し異なりますが、これらから、当時の明治の神野村を想像してください。

*地図は『神野雑報』より転載

◇明治の神野村

  石守村   戸数  145

         人口   672

  神野村   戸数  209

          人口  920

  下西条村      戸数   147    (現:神野町西条)

         人口    717

 西之山村  戸数    69

         人口    282

  福留村   戸数     61

                  人口       262

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神野町探訪:もうひとつの日岡神社

2007-09-24 08:10:46 |  ・加古川市神野町

_077   福留の集落を流れる曇川に架かる福留橋のすぐ北に、なんと日岡神社(写真右・下)がある。

  「日岡神社」というと、すぐ日岡山(大野)にある日岡神社が思い浮かぶ。

  日岡神社の支社かと想像してみるが、関係は、今のところはっきりしない。

  大野の日岡神社が祀る神社でもない。

  祭神は、大野の日岡神社の祭神一柱の豊玉姫(トヨタマヒメ)である。

 _076_3  福留の日岡神社の堀の水は、底は若狭からきていて北条まで続いていると伝えている。

  奈良のお水取りの話が混入している。

  ここに言う北条(郷)とは、今の地名で言えば大野・中津・溝口・河原・平野・寺家町・篠原を含む地域である。

  北条に通じているという言い伝えは、北条郷大野の元宮へもお供えする習わしが、この地にあったのであろうと考えられる。

  地元では、「大野の日岡神社より古い神社である」と言う人もいるが、やはり古さにおいては大野の「式内社・日岡神社」に軍杯があがる。

  また、郷土史家の石見完次さんは、ある長老の話を採集されている。

  「・・・昔、この川から御幣が流れてきてこの地に留まったので、この地に社を建て祀った・・・」と。

  この地の人々は曇川と生活を共にしてきた。曇川の流れは、恵の川であった。でも、洪水を引き起こす怖れの川でもあった。

  福留の日岡神社は、おそらく水神の宮であったのであろう。

*『古地名新解-加古川おもしろ誌』(石見完次)参照。

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神野町探訪:『東播摩の民俗』(石見完次著)

2007-09-23 08:35:47 |  ・加古川市神野町

Photo_3   加古川の各町の散策をしている。

  正直いって、その町のイメージがわいてこない町(旧集落)がある。

  材料が(史料を含めて)乏しいのである。

  さいわい、石守村(現:神野町石守)については、素晴らしい著書がある。

  『東播磨の民俗(加古郡石守村の生活誌)』(石見完次著)である。

  「はしがき」で石見氏は、次のように書いておられる。

  「・・・母は折にふれ話していた。母をこえる老境にいってから、私は急に懐かしくなり、記憶をだどり、聞き回り、書きとめ書き溜めていたものがいつか20年の月日が流れて行った。

  ・・・・老女(取材した)たちの幾人もが亡くなった。

  風俗習慣もここ5,6年経てば大半は消えてしまうと思う。消えるものは消えしめよとは、割り切れないのである・・」

  この著作が出版されたのは、昭和59年(1984)である。石見氏が心配された5,6年はとっくに過ぎ、23年を数える。

  マックスバリューができた。新しい住宅も増えた。外見だけでない。石守は大変動した。

  まだ、動きは止まっていない・・・ 

*『東播磨の民俗(加古郡石守村の生活史)』(石見完次著)参照

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神野町探訪:神野雑報

2007-09-22 07:42:25 |  ・加古川市神野町

_071   県道八幡・別府線で北へ向かうと曇川に架かる橋の手前のこんもりした石守集落の公園に石碑(写真右)がある。

  小林政太郎の頌徳碑である。

  もとこの碑の台座の上には、政太郎の銅像があったが、先の大戦で供出された。

  小林政太郎については、昨日のブログで取り上げているのでご覧いただきたい。

  彼は村長として神野村の経営にかかわる一方、神野村の広報誌『神野雑報』を1923年から1945年まで、一時の休刊はあったが、毎月一回発行を続けた。

  このような例は、他にあまり見られない。当時を知る貴重な歴史史料となっている。

_075_2   『神野雑報』は新聞ではなく、主観ができるだけ抑えられ、教育・勧業・兵事・衛生・税務・庶務の項目ごとの広報の色彩が強い。

  そのため若干、無味乾燥の点は否めない。

  しかし、この『神野雑報』は、政太郎ひとりが担当している。この点から言えば政太郎の思想史ともいえる。

  加古川市は、この『神野雑報』を『加古川市史史料1・神野雑報』(写真下)としてまとめ発刊している。

*『加古川市史史料1・神野雑報』参照

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神野町探訪:小林政太郎

2007-09-21 08:40:59 |  ・加古川市神野町

9412fdc6   小林政太郎(写真)は、近代日本を体現した指導者のひとりであった。

  政太郎は、明治10年、神野村石守村に生まれ、明治31年(1898)神野村の吏員となった。

  明治20年代は、この地方の唯一の副業であった綿花栽培がほろび、村は荒廃の極にたっしていた。

  石守では、120余町歩の田畑のうち80町歩は他町村民の所有に帰したといわれている。

  政太郎は、この状況の中で、荒廃した村の建て直しに尽力した。

  明治36年(1903)年、彼はの人々を説得して石守信用組合を設立した。

  その結果、明治36年には9円2銭だった石守の貯金残高は、大正12年(1923)年には80.776円あまりにたっしたという。

  その間、大正7年(1918)政太郎は、神野村の助役になり、同14年村長に就任した。

  『神野村の今昔』は、明治19年(1886)と昭和2年(1927)とを比較して、人口は1.33倍に、米の収穫は1.8倍、綿花に代わる叺(かます)等の副業は、ゼロから5万円ちかくになり、村の財産は350倍になったと伝えている。

  それに政太郎は、助役在任中から神野村の広報誌・「神野雑報」(原則月一回)を1932年5月から1945年5月までひとりで発行しつづけた。

  現在これは、近代日本の農村の歴史を知る貴重な史料となっている。明日のブログでは、「神野雑報」を紹介したい。

*『加古川市史史料1・神野雑報』参照

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神野町探訪:はいどら観音

2007-09-20 10:09:24 |  ・加古川市神野町

72e2d937_1   石守村に、こんな話がつたわっている。

  ・・・・母里村の野寺の観音さんを「はいどら観音」とよびます。

  昔、奈良に都があった頃のことです。神野の石守に法雲寺にというお寺がありました。

  この寺は焼け落ち、本尊の観音像は、焼け残った堂に祀つられていました。お寺は荒れ放題でした。

  ある夜、二塚村の稲根神社の神があらわれ、「野寺へお移しするように」とのお告げがあった。

  村長(むらおさ)は、観音さんを「はいどら」 に入れて野寺へ移すことにしました。

  ところが、少し行った畠の道で、観音様を運んでいた男は、キリキリと腹がこわり、道端に座り込んでしまいました。

  村長は困りはて、「観音様・・窮屈ですけど、どうぞ辛抱しておくんなはれ・・」と一心にお願いしました。

  すると、男たちはフッと立ち上がり、元気に観音さんを背負い歩き出しました。

  二人は、念仏を唱えなながら、一里あまりの野寺へ歩き続けた。

  休むごとに、「はいどら」の中を覗き込み、「観音さん・・すみまへん、もうすくだッせ・・」といっては野寺へ急いだ・・・

  野寺の観音堂では、鬼追いの行事がおこなわれていますが、その日は石守の村役が顔を出さないことには、鬼追いの儀式は始まらなかったと言います・・・・

*『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照、

 写真は、高薗寺の観音堂の本尊(十一面千手観世音菩薩立像)。「はいどらの観音」であると伝えられている。

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神野町探訪:鈎橋駅

2007-09-19 08:36:15 |  ・加古川市神野町

1fe82ea9   播州鉄道(現:JR加古川線)は、大正2年に加古川~西脇間で開業した。

  その後、経営不振に陥り、大正12年「播丹鉄道」に引き継いだ。

  かつて、この鉄道に鈎橋駅(つりはしえき)があった。

  曇川の河口部(★印)のすぐ北で、地図で赤く塗った所が、鈎橋駅のあった場所である。

◇釣橋駅について(ウィキペディアより)

  大正 5年10月21日  鈎橋駅開業

      10年 5月  9日  釣橋駅の旅客営業廃止

  昭和  6年 2月 9日 (貨)釣橋駅を停留場に格下げ

     12年 3月24日 (貨)釣橋停留場を駅に格上げ

     18年 6月 1日  (貨)釣橋駅廃止_068_1   

  鈎橋駅について、『加古のながれ』は、次のように説明している。

   ・・・・鈎橋停留場に関しては「加古川西岸、印南郡平荘村地方トハ交通上至便ノ地ニシテ、多年同地方ノ希望モ有之、且ツ加古川砂利採集上極メテ適当ナルヲ以テ」設置したという史料が残っています。

  播州鉄道の線路保守に、加古川河川敷の砂利は欠かせないものであったらしく、神野村役場文書にもその採取認可記録や現場見取り図などが残っている。・・・

 先日、神野橋を歩いていると、「鈎橋」の文字を見つけた。

  曇川に架かる神野橋はその昔、鈎橋(吊橋)であったのかもしれない。

*『加古の流れ』(加古川市史編さん室)参照

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神野町探訪:新井用水②

2007-09-18 19:37:36 |  ・加古川市神野町

_058    昨日のブログの続きである。

  城山(じょやま)の近くの堰で分かれた新井用水は、すぐ南の曇川にぶつかり、サイフォンで曇川の下をくぐり対岸に流れ出る。

  写真右は、曇川の下をくぐった水の出口である。(昨日のブログの★印の場所)

  水は、音をたてて勢よく流れ出ている。

  新井用水は、播磨町の喜瀬川の下をサイフォンでこえている。

  この施設は、江戸時代の建設当時のものである。

  ここ、旧二塚村のサイフォンも江戸時代のものであると思いこんでいた。

  昨日のブログの(旧)二塚村の絵図を見て、そうではないことを知ることができた。

  このあたりの事情を『今里伝兵衛と新井戸の歴史』で確かめたい。

  「・・・曇川は、たびたびあふれていたらしい。

  明治40年ごろに、曇川を斜めにくぐる埋樋ができ、新井溝が変更になったし、洪水対策の改修もあったのではないかと推測している。(現在の埋樋は、昭和27~29年の水路舗装の時のもので「県営新井コンクリート舗装の概要」によると内径1mのヒューム管で長さ56.1m)」とある。

  江戸時代のこの辺りの曇川の川幅は、堤があってもはっきりとしていない河原のようであったようで埋樋は無理があった。

  そのため、昨日のブログのように新井用水は、いったん曇川に流れこんでいた。

  明治44年の図面によると、曇川の流路は、江戸時代のように大きく西に蛇行をしていない。

  そして、新井用水は、曇川堤防の南側に沿って流れている。

*『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)参照

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神野町探訪:新井用水①

2007-09-17 08:00:38 |  ・加古川市神野町

C71b2838   承応3年(1654)の旱魃はひどかった。

  そのため、古宮(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛(いまざとでんべえ)は、上流の城山(じょやま・神野町)から、現在の播磨町までの用水を計画した。

  工事は、明暦元年(1665)正月に始まり、翌年3月に完成させた。

  これが、新井用水である。

*新井用水については、昨年12月1日のブログをご覧ください。

  図は、旧二塚村(現在の神野町の西部)の絵図(寛延三年・1750)の解読図(部分)に彩色をした。

  城山のちかくの堰から流れ下った新井用水(赤色)は、やがて旧二塚村の東を流れ、曇川に突き当たる。(★印のヶ所)

  現在、新井用水はここから曇川(青色)の下を通り、曇川に沿って西ノ山の山麓を流れている。

  寛延三年の絵図と異なっている。

  絵図には、曇川に沿った新井用水は描かれていない。

  絵図では、新井用水は★印のところで、いったん曇川に流れ込み、下流部の五カ井用水(緑色)の手前で曇川と別れ、ほぼ現在の流路を採る。

  明日も、この辺りの新井用水の流路を散策してみたい。

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神野町探訪:橋

2007-09-16 08:34:39 |  ・加古川市神野町

_056_1   稲根神社の東を新井用水が流れている。

  新井用水は曇川(くもりがわ)につきあたる。

  この地点から少し河口に行ったところに橋(現在名:高橋)がある。

  この高橋の北詰に、写真のような祠と灯籠と石柱がある。

  この石柱に常光寺(神野小学校のすぐ北)の巌洞が筆をとった銘文が残っている。

  建碑されたのは、文化5年(1808)ということであるが、石橋が造られたのもこの年であるらしい。

  橋の建設により隣の西ノ山村へは、ずいぶん便利になった。

 _057_1  故、永江幾次郎氏は『考史遊記』で、この碑文を次のような文に訳された。

  ・・・・川に橋ができた。たくさんな人が往来することであろう。

  橋はありふれたこの産地の白石や青石で造った。

  何の立派な橋を望もうか。夏の雨も、うれうることはない。

  冬の風雪も恐れることはなくなった。

  衣をまくり上げて渉らずにすむのは何とうれしいことか。全く立派に出来たものだ・・・

  当時の村人の気持ちが伝わってきそうである。

  この石橋は、現在写真下のような立派なコンクリートの橋に変わっている。

*『考史遊記(永江幾次郎)』(兵庫タイムス)参照

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