ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(400):加古を歩く(54)・沼田家とりつぶし(4)

2011-01-31 11:32:59 |  ・稲美町加古

   平九郎宅、襲撃!

203842b7 正月16日七ツ時(午前4時)に、印南郡・加古郡の近隣の多数の百姓衆は、上西条の平九郎宅へおしかけました。

加古新村、野寺村では、早鐘をついて騒動となり、野谷新村でも太鼓をうち、めいめい鳶口・熊手などを持ち、東の方から上西条へ押し寄せました。

まず、大門を押し倒し居宅に乱入したのです。

平九郎の弟・忠蔵が抜刀して抵抗したため、まず忠蔵宅を打ち砕き、続いて平九郎宅を打ち壊しました。

伊左衛門の息子の藤四郎も熊手を持って一揆に加わりました。

午後8時ごろ戻ってきて、大庄屋宅が打ちつぶされたことを報告すると、伊左衛門はその様子を見に行き、打ちこわしが終わり、かがり火をたいて百姓があたっているのを見て引き返しました。

   姫路全藩一揆の引き金に・・・

平九郎宅打ちこわしの噂は、たちまちのうちに姫路藩の他の村々へ広がりました。

各地で百姓は立ち上がりました。

やがて、江戸時代、姫路藩最大の一揆へと燃えあがりました。

姫路藩のどの村々でも、百姓の怒りは、頂点に達していたのです。

伊左衛門の遺体を磔刑に!

一揆の後には、厳しい処分が待っていました。小説ですが、『播磨寛延一揆・滑甚兵衛の反逆(田靡新著)』(成星出版)の最後を読んでおきます。

「・・・九月二十三日に、・・・野谷新村の伊左衛門は、牢屋で吟味中に死亡した塩漬けの遺体を(市川河原で)磔にされた。

・・・遠巻きにする百姓たちに見せしめの意味があった。

日が暮れても、河原から動かない人が何人もいた。

夕焼けが堤防(どて)に連なった彼岸花を燃え立たせ、河原も空も血の色にそめ染めぬいていたという・・・・」

野谷新村からは、死罪1名、牢死1名、遠島2名、追放や国払い3名、過料45名とほとんどの者が処罰を受けました。

そして、村へは過料として約十二両の支払いが命じられました。

結果的に、伊左衛門と野谷新村の行動は、播磨全藩一揆の火付け役になったので、重い刑となりました。

一方、西条組庄屋・沼田家はお役目ご免となり、平九郎は他国留(姫路藩では住んではならない)を命じられ、上西条から姿を消しました。

その後の彼の生涯は一切分かりません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(399):加古を歩く(53)・沼田けとりつぶし(3)

2011-01-31 10:58:45 |  ・稲美町加古

  藩の裏切り

045 「稲美町探訪(397)」で寛延元年もくれようとする1221日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した・・この時は、百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました」と書きました。

少し付け足します。

三千人もの百姓が集まったニュースはすぐにお城へ伝わりました。

すぐに役人が駆けつけてきたのです。

そして「お前等の願いは何か」と申されたので、百姓衆は「この度の大風により百姓は苦しんでいます。なにとぞ、年貢米減免を願いたい・・・」と訴えると、役人は、「願いの件は良くわかった。主だった者を残してこの場を引きさがってくれ、悪いようにはしない・・・」

百姓衆は、てっきり話し合いが行われるものと思っていました。

主だった11人を残して村々へ引きあげたのです。

でも、この11人は牢獄につながれてしまいました。

百姓の藩に対する恨みは、ますます燃えあがりました。

伊左衛門、決起!

伊左衛門たちは、一揆をおこし、平九郎の家をうちつぶすことを決心しました。

 そう決めた伊左衛門は、さっそく11日に印南郡の石の宝殿(生石神社)の大石に自筆で「西条組大庄屋平九郎殿を来る16日にうちつぶす。西条組だけでもつぶせるが、この人物は姫路領でも特に恨みをかっているので手伝いにまいらるべし」と書いて、貼り付けて帰りました。

翌日の12日は、生石神社(おおしこじんじゃ)の初午祭りで、参詣が多いので、この日を選んだのです。

さっそく12日、平九郎宅打ちこわしの風聞は、猛烈な速さで近辺の村々に広がりました。

伊左衛門は、村の者に「風聞であろう・・」と何食わぬそぶりで否定はしたのでしたが、問い詰められて覚悟をうちあけ「一揆が起きた場合、村中に難儀が及ぶので団結しなければいけない」と村内の百姓を高薗寺に集めました。

大半の百姓がこれに応じました。

百姓衆はお上のなされよう、それにへつらう大庄屋の態度に百姓たちは、がまんがならなかったのです。

いよいよ16日の当日です・・・ (つづく)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(398):加古を歩く(52)・沼田家とりつぶし(2)

2011-01-31 10:30:23 |  ・稲美町加古

   増 税!

寛保二年(1742)、松平明矩は姫路に入部後、さっそく大庄屋を通じて百姓衆が願い出たと言う形式で増税に取りかかりました。 

   伊左衛門の怒り 

74272381 西条組の大庄屋・沼田平九郎には、日頃から「代官に取り入ってゴマをすっている」などと悪い噂が絶えませんでした。 

他の大庄屋たちは、新田年貢の引き上げに際し、各村の庄屋の意見を聞いたりしていたのですが、平九郎は独断で行っています。

野谷新村は、元禄六年(1693)、野寺村と草谷村の百姓によって開発が進められた村で、両方の村の名をとって「野谷新村」と名づけられました。 

野谷新村にあった溜池を他村の百姓が埋め立てて新田にしようとした時、村人は反対しました。 

にもかかわらず、平九郎は新田にすることを認めてしまいました。 

それに対して、藩の役人が池の検分に来た時、野谷新村の庄屋が、役人に「新田を認めないように」と嘆願したところ、これは受けつけませんでした。 

庄屋・次右衛門は、後日藩役所に直訴したため、平九郎は激怒しました。 

沼田平九郎と野谷新村との関係は、険悪な状態になりました。 

このようなことがあった翌、前号で書いたように寛延二年(1749)、朝鮮使節来日があり、その接待費として西条組に300両が割り当てられたのです。 

その内、野谷新村へは約51両が割り当てられました。 

村の高(収穫量)からいっても不当に大きな負担です。 

そんな金は、ありません。そのための金を借りるため平九郎に頼んだところ、彼は印を押すことを拒否したのです。 

野谷新村の百姓の平九郎に対する憎しみは、日に日に増すばかりでした。 

特に、伊左衛門は野谷新村の組頭で、この時、61才でした。 

「くそったれ・・・平九郎め!」「このままでは村がつぶれてしまう・・・」 

平九郎に対する憎しみが心の底から湧きあがってくるのでした。(つづく)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(397):加古を歩く(51)・沼田家とりつぶし(1)

2011-01-31 09:52:00 |  ・稲美町加古

沼田家とりつぶし(1)

*「沼田家とりつぶし」も「(シリーズ)加古を歩く」に含めておきます。

内容は「稲美町探訪(23)」と重なります。

西条組・大庄屋沼田家は、寛延二年(1749)世に言う「寛延・播磨全藩一揆」で打ち壊され、大庄屋としての責任がとわれ、西条組沼田家はお役目ご免となりました。

その顛末を紹介しておきます。

  姫路藩の財政は火の車

F564ba2a徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。

その時、白河藩では、借金を踏み倒すなど、ひと騒が起こっています。

姫路藩への国替えは、その苦境を救うため発令されたようなものでした。

白河藩、姫路藩ともに十五万石ですが、実際の収入では米のほか、塩・木綿・皮等の産業をあわせると姫路藩の方がはるかに勝っていました。

姫路藩への転封は、松平家にとっては喜ばしいことだったのですが、その費用をつくるため商人から多額の借金をしての姫路入りとなりました。

明矩は、借金の返済は姫路で行うと約束して、やっとのことで姫路へ来ることができたのです。

そのため、姫路藩入部早々に、まず年貢の増税にとりかかりました。

そのやり口はひどいものでした。

大庄屋を通じて百姓衆が願い出たという形式をとっての増税でした。

さらに、参勤交代や、朝鮮使節の接待費などが重なりました。

特に、朝鮮使節は江戸への途中姫路藩の室津に寄ります。

その接待費・二万両を町人・農民に負担させました。

悪いことは重なるもので、この年、猛烈な台風が襲いました。

そして、寛延元年(1748十一月、明矩は急死しました。

嫡子は、10才とまだ幼い。翌年、早々には転封のことが噂されました。

この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。

藩主の死により、政治に空白ができました。

寛延元年(1748)もくれようとする十二月二十一日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせました。

この時は、百姓の怒りは燃え上がらずにおわりました。

しかし、翌年早々のことでした・・・ (つづく)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(396):加古を歩く(50)・北新田沼田家⑫

2011-01-30 00:13:30 |  ・稲美町加古

    北新田沼田家は、西条組大庄屋・沼田家出身

1cf4da7f一般的に数ヶ村から十数ヶ村を束ね、藩への窓口となったのが「大庄屋(おおじょうや)」でした。

組の名前は、大庄屋が居住した村名からつけられました。

西条組の沼田氏は、上西条(現:加古川市八幡町上西条)に居を構えていた大庄屋でした。

西条組・大庄屋沼田氏の支配下の村々を再度あげておきます。

下草谷村・野寺村・岡村・野谷新村・草谷・加古新村(以上が稲美町域)

船町村・野村・下村・野新村・宗佐村・下西条村・福留村・西野山村・二塚村・石守村・手末村・中西条村(以上が加古川市域)

大庄屋の主な仕事は、次のようです。

  藩の代官から伝えられる法令・命令・お触れを各村に伝達すること。

  組内の訴訟を解決すること。

  藩などの願いに奥印をすること。

  一村の利害を越える溝普請・築堤などや、とりわけ新田開発における指導。

 特に西条組の大庄屋・沼田氏は④での役割には大きなものがありました。

西条組の大庄屋・沼田与次太夫は、当初北新田に居を構え現地で指導に当たりました。

加古新田の開発も何とか目途が立ち、倅(長男)の喜平次に北新田の屋敷・名前を与え、加古新村の仕事を任せました。

   西条組大庄屋・沼田家その後

西条組大庄屋は、加古新村だけの庄屋ではありません。

加古新村の開発が終わり、上西条に戻り、本来の大庄屋の仕事に復帰したのでしょう。

大庄屋・沼田家は、沼田与次太夫繁範が、大庄屋に任ぜられて以来、名大庄屋としてその存在は広く知られていました。

しかし、寛永期、時の大庄屋・沼田平九郎が藩と結んで百姓を抑圧し、農民の恨みの的となり、寛延二年(1749)、沼田家は一揆衆により徹底的にとりつぶされてしまいました。

もちろん、一揆の責任をすべて沼田平九郎のせいにすることはできません。

藩も、財政的な非常事態を増税等で、解決しようとしたのです。

大庄屋は、藩の方針に従わなければなりません。

沼田家は、一揆の責任を問われ、大庄屋ご免となりました。

*地図で北新田・上新田・上西条村等の場所をお確かめください。赤で囲んだ地域が加古新田村です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(395):加古を歩く(49)北新田沼田家⑪

2011-01-29 14:10:05 |  ・稲美町加古

   

二人の喜平次

016_2 喜平次は、大庄屋・沼田与太夫の倅であることを確かめました。

そして、さらに次の事実を確認する必要がありそうです。

上西条村(現加古川市八幡町)から入植した上新田の頭百姓(とうびゃくしょう)の喜平次とその後の事です。

前号で紹介した「當家(北新田沼田家)書傳覚写」の続きを読んでおきます。

喜平次の項の後半の文意は、次のようです。

「・・・開発があらかた終わった後、喜平次は、市太郎(与次太夫繁範の三男)に名前を譲渡し、北新田沼田家を継ぎ、名前も与次太夫を相続して(大庄屋を勤め)開発の後見をしました。

元禄八年(1695)二月 行年六十三才・・・」

 この文章によると、喜平次は弟(大庄屋・与次太夫の三男)の市太郎に喜平次の名前を譲り、北新田の沼田家を継いで北新田沼田家の初代となっています。

 そして、喜平次の名前は、弟(三男)の市太郎が継いでいます。

009_3  さらに、「當家書傳覚写」を続けます。

 沼田市太郎の項の文意は「喜平次と改名して、喜平次が住んだ上新田の家を継いだ・・・

法名 得菴祐意居士

正徳四年午年四月四日卒 行年七十一才」

上の太字の部分を読んでいくと、「これは北新田・沼田家の書いた文章であり、信用がおけるものではない」とお考えの方もおられるかもしれません。

    

上新田・喜平次の墓碑

上新田の沼田家の墓所に「加古新田開発人・沼田喜平次の墓」があります。

先日、上新田の喜平次の墓碑(写真)を訪ねました。

シャッターを押す指が凍る、冷たい北風の一日でした。

上新田・喜平次の墓碑を読んでみます。

2枚の写真は、同じ墓で、上は正面、下は裏面・側面です)

法妙は、得菴祐意居士

命日は、正徳四年四月四日

命日・法妙とも北新田の沼田与次太夫繁範の三男・市太郎とまったく同じです。

こんな偶然はあるものでしょうか。

整理します。

開発が一段落した寛文四年(1664)ごろ、上西条から加古新村の開発に当たった喜平次は、北新田の沼田家を継ぎ、名前も父から与次太夫を譲られています。

そして、三男市太郎は、兄・喜平次の名を継ぎ上新田の屋敷に入ったのではないかと考えられるのです。

あなたならどうお考えになりますか。

*詳しくは『北新田沼田家 六百七十五年史』(沼田正毅著)をご覧ください。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(394):加古を歩く(48)・北新田沼田家⑩

2011-01-28 09:28:04 |  ・稲美町加古

029 「稲美町探訪(379)」の後半部分を読んでおきます。
 加古土地改良区に残る文書(もんじょ)「手形之事」(延宝八年・1680)を数回にわたって紹介しましたが、不思議なことがあります。 

「手形之事」は、草谷郷から加古新村の3人の開発百姓に提出された文書です。 

加古新村でのそれぞれの肩書に注目してください。
加古新村 庄屋・喜平次殿

同 村頭百姓・次兵衛殿

同     ・才兵衛殿
 加古新村開発以前、元の村で組頭であった喜平次が加古新村では庄屋になり、庄屋であった才兵衛・治兵衛がそれぞれ頭百姓となっています。 

加古新村では地位の逆転がおきています。年齢も才兵衛が喜平次より17才上でした。 

事情がありそうです、と書きました。

     喜平次は、大庄屋沼田与次太夫の倅!

なぜこのような事が起きるのか、普通では考えられません。

この部分に関しては『稲美町史』は何も語っていません。

 北新田沼田家のご子孫の沼田正毅さんの研究を紹介しましょう。

北新田沼田家には、「當家書傳覚写」(文政四年・1821)が保存されています。

写であり、少し時代が経って史料的に少し弱いところはありますが、きょうは「當家書傳覚書」の沼田喜平次の項の最初部分を読んでおきます。

「・・・(喜平次は)寛永十年酉年正月六日生

 明暦三年より父・与次太夫後見にて組下中西条庄屋才兵衛、下村庄屋次兵衛・・・」

と書かれています。加古新村開発当初三人の頭百姓(とうびゃくしょう)と共に居を構えた西条組の大庄屋・沼田与次太夫は、頭百姓・喜平次の父であったというのです。

『加古郡誌』(p56)も史料の出所が、はっきりしないのが残念ですが、「・・・上西条村に新左衛門(沼田与次太夫繁範のこと)倅・喜平次と申者有・・・」と書いています。

つまり、喜平次は、大庄屋沼田与太夫の倅、それも長男でした。

そうであるなら、喜平次の父が大庄屋・与次太夫であったため加古新村の庄屋となったのは納得できます。

*写真:頭百姓・沼田喜平次さんのご子孫のお宅(上新田)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(393):加古を歩く(47)・北新田沼田家⑨

2011-01-27 08:29:22 |  ・稲美町加古

   沼田家は新田一族

261c07a7西条組の大庄屋沼田氏(上西条:現加古川市八幡町上西条)について、『稲美町史』から引用します。

「沼田家の家譜」によると、先祖は新田義貞の一族「新田朝定(ともさだ)」といい、新田義貞が「建武新政」のおり播磨国守護となったため、義貞の目代(もくだい・代官)として播磨国に住み、西条(西条の城山)に城を構え、この時かって上野(こうずけ・栃木県)国・沼田の出身であったことから「沼田」の姓を名のったといいます。

その五代後の子孫は播磨の国守護赤松正則に仕え1000石を領し、江戸時代のはじめ沼田与次太夫繁範(ぬまたよじだゆうしげのり)は、藩から「大庄屋」を命じられたと記されています。

この繁範が、前号で紹介した三人の頭百姓と共に当初、加古新田(北新田)に居を構え、開発の指導に当たった人物です。

もう少し復習をしておきます。

三人の頭百姓は、上新田に居をかまえました。

(沢)才兵衛・(本岡)治兵衛・(沼田)喜平次が居を構えた場所は「稲美町探訪(363)の図で確認してください。

才兵衛・喜平次さんのご子孫は、現在でも同じ場所にお住まいですが、治(次)兵衛さんの家は現在その場所にはありません。

   『北新田沼田家 六百七十五年史』(沼田正毅著)

ここまでは、『稲美町史』等で、広く紹介されている内容です。

以下(次号)から紹介する内容は、少し従来の歴史書とは異なる内容になります。

昨年(3月)、北新田沼田家のご子孫にあたられる沼田正毅氏が『北新田沼田家 六七十五年史』(非売品)を出版されました。

興味深く何回も読ませていただきました。

もやもやした歴史が大きく解決されるような内容があると思われます。

稲美町の歴史、とりわけ加古新村の歴史を語る時、避けられない内容であると思われますので、私見を交えながら紹介させていただきます。

*写真:大庄屋・沼田与次太夫繁範屋敷・現加古川市八幡町上西条

(『北新田沼田家 六百七十五年史』より)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(392):加古を歩く(46)・北新田沼田家⑧

2011-01-26 08:33:20 |  ・稲美町加古

加古新村の開拓

 「加古を歩く(3)」の一部を再度読んでおきます。

8b7ac503・・・平和な江戸時代なり、人口は増加し、藩も開発を奨励し・支援しました。 

加古新村の開発は、万治元年(1658)加古沢兵衛の開発願いに始まりました。 

加古新村の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。

(*加古沢兵衛は、加古新田では沢才兵衛の名前に改名しましたが、混乱をさけるため、以後才兵衛の名前に統一します)   

 「中西条村(現:加古川市八幡町中西条)の才兵衛は、26才の時から、庄屋を勤めていました。 

 村の東の広大な原野の開拓を考え、三年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結びました。 

 さらに三年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。 

 才兵衛は、上西条(現:加古川市八幡町上西条)の喜平次に印南野台地の開拓を熱心に説きました。 

 喜平次も賛同はしたものの、開拓のための資金を心配していました。 

 才兵衛は、資金のことを親類の下村(現:加古川市八幡町下村)の治(次)兵衛にも相談しました。 

 彼も同意し、三人は印南野台地(加古新村)の開拓を固く誓い合いました。 

 その後も紆余曲折はあったのですが、開拓は三人(才兵衛・治兵衛・喜平次)を中心が進められました。

 ・・・・

   西条組大庄屋・沼田与次太夫、

北新田に居住し、加古新村の開拓の指導に当たる

もうひとり、開拓に深くかかわった西条組の大庄屋の沼田与次太夫(上西条:現加古川市八幡町)を抜かすことはできません。

加古新田 の開発には姫路藩が深くかかわっています。

当然、藩と加古新村のパイプとなった大庄屋・沼田与次太夫の役割は大きなものがありました。

もし、この開発が失敗するようなことでもあれば、当然責任は与次太夫が負わねばなりません。

大庄屋・沼田与次太夫は、加古新村の開発にかける決意は、三人の頭百姓にも劣るものではありませんでした。

そのため、開発当初は三人の開発百姓と共に加古新田に居を構えました。

その居所が北新田沼田家の場所です。

しばらく、西条組大庄屋・沼田与次太夫は、北新田に居を構え、三人の頭百姓と共に開拓の指導に当たりました。

*挿絵は、藩の役人に加古新村の開拓計画を説明している沼田与次太夫

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(391):加古を歩く(45)・北新田沼田家⑦

2011-01-25 10:28:29 |  ・稲美町加古

「稲美町探訪(366)・加古を歩く(21)」で大庄屋の説明をしました。

もう一度、大庄屋の説明を整理します。

    大庄屋

Inamicho9_012_2 一般的に数ヶ村から十数ヶ村を束ね、藩への窓口となったのが「大庄屋(おおじょうや)」でした。

大庄屋が支配する村々を「組」といい、姫路藩で28組がおかれています。

組の名前は、大庄屋が居住した村名からつけられました。

江戸時代前期、加古新村は西条組の大庄屋・沼田氏が支配する村でした。

(*西条・・・現:加古川市八幡町)

西条組の村々は、次のようです。

下草谷村・野寺村・岡村・野谷新村・草谷・加古新村(以上が稲美町域)

船町村・野村・下村・野新村・宗佐村・下西条村・福留村・西野山村・二塚村・石守村・手末村・中西条村(以上が加古川市域)

村から藩への請願等は、百姓⇒村役人⇒庄屋⇒大庄屋⇒藩という順に行われ、これを無視した訴え等は、犯罪として厳しい取り締まりの対象でした。

大庄屋は、一般の百姓にとっては雲の上の存在で、彼らは村に住むものの、元は土豪などが多く、「苗字・帯刀」が許され支配者同様の存在でした。

 加古新村の開拓の場合、藩は協力を惜しみませんでした。

そのため、藩との加古新村のパイプになった西条組の大庄屋・沼田氏の役割が、とりわけ大きかったと想像できます。

    

   加古新田は西条組の村

繰り返します。加古新村は西条組の支配下の村でした。

一つの組に二人の大庄屋は認められていません。

いままで、北新田の沼田家を「大庄屋」と書いてきましたが、北新田の沼田家は、大庄屋ではありません。

北新田の沼田家が大庄屋の場合、沼田家が支配する村々を「加古新組」と呼びます。

そして、姫路藩が大庄屋であることを認めなければなりません。

その場合、上西条組の沼田家が支配する「西条組」という呼称はなくなり「加古新組」となります。

歴史上、「加古新組」は存在していません。

沼田家は、寛延三年(1749)で沼田家が打ち壊しとなるまで、大庄屋として上西条村で西条組の大庄屋として続いていました。

それでは、加古新村の百姓は、どうして北新田の沼田家を大庄屋とか大家と呼んでいたのでしょう。

*写真:北新田沼田家

*現在、シリーズで「大庄屋・沼田家」としていますが、次回から「加古北新田、沼田家」として続けます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(390):加古を歩く(44)・大庄屋沼田家⑥

2011-01-24 00:16:50 |  ・稲美町加古

『稲美町探訪(370)』の「シリーズ大庄屋、沼田家」は「⑤」でお休みしていまいた。再開します。

   

北新田(大家)沼田家と八幡神社

『稲美町史』(p71920)から北新田(大家)沼田家と関係する記述を抜き書きすると下記のようになります。

鳥 居   東柱  願主 沼田新兵衛

       西柱  加古新村開発人 (沼田喜平次) 沼田九郎太夫

967b5447灯 籠   拝殿前 大家吉郎兵衛

御神鏡   沼田吉郎兵衛

奉 納   沼田吉郎兵衛貞弥

御正躰御箱書 天照皇大神宮

        正八幡宮  

春日大明神  

いずれも、沼田吉郎兵衛(五代目 沼田金右衛門磨之)

  *沼田喜平次については後日、詳しく検討することにします。

このように八幡神社に残されている品々のほとんどが北新田(大家)沼田家と関係を持っています。

北新田(大家)沼田家は、北新田の氏神さんである八幡神社の最大のスポンサーであることを知ることができます。

もちろん、北新田における(大家)沼田家の果たした役割は、八幡神社にかかわることだけではありません。

次回から、『稲美町史』と若干異なる内容もありますが、開発当時の加古新村のようすを考えていきましょう。

『稲美町史』の編集にかかわった人、また関係者の方々から猛烈な反論があるのではと、身を小さくしています。

図:沼田吉郎兵衛奉納の神鏡(『北新田沼田家 六百七十五年史』(沼田正毅著)より

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(389):加古を歩く(43)・八幡神について

2011-01-23 00:06:22 |  ・稲美町加古

   

八幡神とは

Inamicho12_023 加古八幡神社を散策しています。そこで、八幡神社の歴史を少し調べておきます。

八幡神社の総本山は、宇佐八幡宮(大分県)です。

宇佐にはじまった神様が、奈良時代・大仏の開眼式に突如登場します。

国家の成立に大いに貢献したためです。

何で認められたかというと、軍神として認められたのです。

宇佐八幡宮のある現在の大分県宇佐市を地図で探してください。

国東半島の近くです。

国東(くにさき)地方は、まさに国(大和国家)の最前線という意味です。

宇佐地方から南の地域は、大和国家に従わない隼人族の住む地でした。

  隼人族との侵略戦争がしばしば展開されました。

結果は、歴史が語るように大和国家が隼人族に勝利するのですが、その最前線で戦ったのが宇佐地方の軍団でした。

その守り神が八幡神であったのです。

双方に大きな犠牲がありました。とりわけ隼人族は多数の人々戦いの犠牲になりました。

このように八幡神は、まず軍神として歴史に登場します。

その後、病気や天災が蔓延した時などは「犠牲になった隼人のタタリ」との恐れが勝利者側に襲いかかりました。

彼らのタタリを封じなければなりません。 

宇佐八幡宮には、放生会(ほうじょうえ)がありますが、これは720年の隼人の反乱の平定に手をかした八幡神が殺戮の罪を悔いて始まったといわれています。

殺された隼人の霊を鎮めるために、八幡神は仏教も積極的に取り入れ鎮魂のお祭りを積極的に行っています。

八幡神は、その最初から神仏混交でした。

やがて、八幡神は源氏の守護神として、大きな宗教集団として発展します。

ですから、日本の宗教は神仏混交と言われますが、とりわけ八幡社に寺(神宮寺)があり、梵鐘があることは当然のことでした。

八幡神社の梵鐘は、水源改修(明治九年)の費用に拠出

加古新村は、寺院のない珍しい集落です。

加古八幡神社には神宮寺は造られなかったものの、元禄五年(1692)釣鐘堂が建立され梵鐘がありました。

(上西条村の八幡神社には、神宮寺がありました)

  加古八幡神社の梵鐘は、明治九年(1876)、水源改修に際しては工事費に充てるために拠出されました。

このことについては、後日紹介することにします。

  *写真:加古八幡神社

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(387):加古を歩く(41)・弁慶の硯石

2011-01-21 09:58:33 |  ・稲美町加古

 加古の八幡神社を散策しています。キョロキョロしながらの散策です。

きょうは「弁慶の硯石」(写真)を紹介します。 

「弁慶の硯石?」(写真)は、鳥居をくぐり神社に向かってすぐ右手の茂みにあります。

    弁慶の硯石?

Inamicho12_017 この石は、ずっと昔から「弁慶の硯石」と呼ばれていました。

石の形が習字に使う硯石に似ているからでしょう。

しかし、この石がいつからここにあったのか、何だったのかわかりませんでした。

この疑問が調査の結果ようやくわかりました。

私たちの住んでいる「加古」は、万治四年(1664)に中西条の加古澤兵衛(沢才兵衛と改名)、上西条の沼田喜平次、下村の本岡治兵衛の三人が開発人となり、村づくりが始まりました。

そして、近隣の村々から多くの人たちが移り住むようになりました。

それから90年ほど過ぎたころ、開発人三人の功績をたたえるために、顕彰碑を建てようということになったということです。

ところが、この顕彰碑のための石も磨き上げ、建てる場所も決め、碑文の草稿も宝暦二年(1752)までにできていたということですが、碑文の草稿者の一人、清田孫蔵が死去したことなどがあり、顕彰碑が未完成のまま置かれてしまいました。(以上、説明板より)

「弁慶は硯石」ではなく、未完成の顕彰碑でした。

この碑石も先人の苦労を偲ぶ一つとして、大切に保存したいものです。

    沼田与次太夫の銘は?

開発人三人(沢才兵衛・沼田喜平次・本岡治兵衛)の功績をたたえるための未完成の顕彰碑ということは分かりました。

「もし」という話を付け加えておきます。

「もし」、この顕彰碑が完成していたら、三人の名前の他にきっと大庄屋・沼田与次太夫の名があったと想像します。

大庄屋の後援・影響力を抜きに開発は進まないからです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(386):加古を歩く(40)・加古八幡神社のふるさと

2011-01-20 08:20:48 |  ・稲美町加古

Inamicho12_027_2加古八幡神社の話をしましょう。

いま、加古八幡神社(写真上)に来ています。

何回となく訪れた場所です。

その度に、神社にある説明は読んでいます。

きょうも一緒に「加古八幡神社の由来」(一部)を読んでおきましょう。

・・・

このお宮は、加古地区の開発が始まってから約20年後の延宝20年(1680)、現在の鳴岡神社境内の地に仮設を設け、開発人らが氏神として祖先から崇拝してきた上西条八幡神社(写真下)を勧請し、村の守護神としたことから始まります。

2年後の天和2年(16825月、現在地に本殿を造営、正遷宮し、よく年、内宮の正遷宮をしました。(境内の説明板より)

  

加古八幡神社は上西条村(現:加古川市八幡町)から勧請

私の恥を書いておきます。

何回となく、ここを訪れ、何回となくこの説明板を読んでいるのです。

ですが、思い込みがそうさせたのか、「上西条八幡神社」の「上西条」を無意識のうちに飛ばして読んでいたのです。

というより、八幡町野村にある八幡神社があまりにも有名なため、いままで、加古八幡神社は、当然「八幡町野村の八幡神社」から勧請した神社と思い込んでいました。

Inamicho12_004そう思い込んでいたのは私だけでしょうか。いかがですか?

上西条は、加古新村の開発百姓大庄屋・沼田与次太夫、そして頭百姓の喜平次の出身地です。

そして、上西条の八幡神社は、上西条に位置しているというものの中西条との境界にあります。

上西条(村)の八幡社は、上西条村の氏神と同時に、中西条村の氏神さんです。

中西条(村)は、頭百姓の中心になった庄屋・沢才兵衛さんの出身の村です。

こう考えると、加古八幡神社は、上西条の八幡神社から勧請したのは当然です。

そして、上西条(村)の八幡神社から、台地への坂を上ったところは加古新村です。そこに、鳴岡神社があります。

いまの場所に加古八幡神社が完成するまで、しばらくの間、鳴岡の地に仮住まいをしたのも納得できる場所です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(385):加古を歩く(39)・赤い鳥居

2011-01-19 08:00:50 |  ・稲美町加古

Inamicho11_005きょうは、どうでもよい話題です。

でも「加古を歩く」に入れておきたい話題です。

五軒屋の稲荷神社(写真上)に来ています。

赤い鳥居が印象的です。

どうでもよい話題とは「稲荷神社には、どうして赤い鳥居が多くあるのだろう?・・・」

ということです。

鳴ヶ岡神社(写真下)へ行った時もそう思いました。

こんな時は、インターネットが便利です。

やはり、同じ疑問を持つ方が多いのでしょうか、たくさんの説明があります。

その一つをお借りします。

*鳴ヶ岡神社:稲美町史発行当時(昭和5712月)の撮影

    稲荷神社の鳥居はなぜ赤い?

「赤は太陽や火の色であり、血の色であり、豊穣(ほうじょう)の色とされています。

悪霊の侵入を防ぐ呪力ある神聖な色です。

また、赤は赤心(せきしん)につながり、真心の表明となります。

E225de94それに、塗ることで鳥居の防腐や森の緑に映える美の演出になったと思われます。

鳥居は、信者が感謝で奉納されたのが、次々と増してトンネルのようになり、それをくぐってお参りすることにより、神の恩恵にあずかるとする信仰になったと思われます。

稲荷神社の総本山である京都の伏見稲荷の場合は、神社に問い合わせても「伏見稲荷の赤い鳥居は、今も増え続けており、正確な数は社務所の誰にもわからない」とのことです。(以上、インターネットより)

稲荷の語源は、一説によれば稲生り(いねなり)が、稲荷(いなり)に音が転訛したといいます。

真偽はともかく、稲荷神社は稲の神様です。

つまり、豊穣(ほうじょう)の神様なのです。

稲荷神社には、赤がよく似合う。

*豊穣・・・穀物が豊かに穣(みの)ること(さま)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする