平九郎宅、襲撃!
正月16日七ツ時(午前4時)に、印南郡・加古郡の近隣の多数の百姓衆は、上西条の平九郎宅へおしかけました。
加古新村、野寺村では、早鐘をついて騒動となり、野谷新村でも太鼓をうち、めいめい鳶口・熊手などを持ち、東の方から上西条へ押し寄せました。
まず、大門を押し倒し居宅に乱入したのです。
平九郎の弟・忠蔵が抜刀して抵抗したため、まず忠蔵宅を打ち砕き、続いて平九郎宅を打ち壊しました。
伊左衛門の息子の藤四郎も熊手を持って一揆に加わりました。
午後8時ごろ戻ってきて、大庄屋宅が打ちつぶされたことを報告すると、伊左衛門はその様子を見に行き、打ちこわしが終わり、かがり火をたいて百姓があたっているのを見て引き返しました。
姫路全藩一揆の引き金に・・・
平九郎宅打ちこわしの噂は、たちまちのうちに姫路藩の他の村々へ広がりました。
各地で百姓は立ち上がりました。
やがて、江戸時代、姫路藩最大の一揆へと燃えあがりました。
姫路藩のどの村々でも、百姓の怒りは、頂点に達していたのです。
伊左衛門の遺体を磔刑に!
一揆の後には、厳しい処分が待っていました。小説ですが、『播磨寛延一揆・滑甚兵衛の反逆(田靡新著)』(成星出版)の最後を読んでおきます。
「・・・九月二十三日に、・・・野谷新村の伊左衛門は、牢屋で吟味中に死亡した塩漬けの遺体を(市川河原で)磔にされた。
・・・遠巻きにする百姓たちに見せしめの意味があった。
日が暮れても、河原から動かない人が何人もいた。
夕焼けが堤防(どて)に連なった彼岸花を燃え立たせ、河原も空も血の色にそめ染めぬいていたという・・・・」
野谷新村からは、死罪1名、牢死1名、遠島2名、追放や国払い3名、過料45名とほとんどの者が処罰を受けました。
そして、村へは過料として約十二両の支払いが命じられました。
結果的に、伊左衛門と野谷新村の行動は、播磨全藩一揆の火付け役になったので、重い刑となりました。
一方、西条組庄屋・沼田家はお役目ご免となり、平九郎は他国留(姫路藩では住んではならない)を命じられ、上西条から姿を消しました。
その後の彼の生涯は一切分かりません。