ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃部達吉と天皇機関説(23) 最終回

2017-05-28 07:02:25 | 美濃部達吉と天皇機関説

     最終回:美濃部達吉と天皇機関説

 天皇機関説が排撃されたあと、「天皇主権説」そして「統帥権」のみが社会を支配するようになりました。

 (注:天皇自身は、天皇機関説を認めていましたが軍部・右翼の前に無力でした)

 日本にとって不幸だったのは、そんな思想的環境の中で、太平洋戦争という大きな戦争を始めたことでした。

 日中戦争の開始から一年後、日本陸軍の軍人教育を司る教育総監部は、「軍隊教育の教本」を発行しました。

 この本の冒頭では、「そもそも我が国における忠節は、万邦無比の国体より、自然に湧き出す情操であり、きわめで合理的な国民的信念である」と、日本軍(人)の優秀さを説明しています。

 軍隊の中核に、このような主観的な「信仰」あるいは事実上の「宗教」とも言うべき観念論を置いていた事実は、太平洋戦争で日本軍がくり返した数々の「非合理的な行動」を生み出した背景を雄弁に物語っていると言えます。

 その結果、戦況が悪化しても、軍部が大きな影響力を持つ日本政府は合理的思考で「講和」や「降伏」の選択肢を議論できず、大勢の軍人と市民が日々命を落としていたにもかかわらず、19458月の破滅的な敗戦まで「国体護持のための戦争継続」というただひとつの道しか進むことができませんでした。

 1935年に天皇機関説の排撃が盛んに行われていた時、中心的な役割を果たした貴族院議員や在郷軍人、右翼活動家の誰一人として、それからわずか10年後の1945年に、日本が戦争に敗れて独立国としての主権を失うことを予想していませんでした。

 そして、「天皇機関説事件の仕掛け人」とも言える蓑田胸喜が、失意のうちに首を吊って自らの命を絶ったのは、敗戦の日から5か月後の、1946130日のことでした。

 今回で、『美濃部達吉と天皇機関説』を終了します。

 現在、日本は、きな臭い国に向かって、再びハンドルを切っています。

 そんな時代です。少し立ち止まり、天皇機関説の歴史的意味を考えてみることにしましょう。

 お読みいただきありがとうございました。(no3599

 *写真:美濃部達吉(「美濃部達吉と天皇機関説・1」と同じ写真です)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃達吉と天皇機関説(22) こんな異常な時代は、長い日本史にはなかった

2017-05-27 07:54:45 | 美濃部達吉と天皇機関説

 統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)について、司馬遼太郎氏は『この国のかたち(四)』(文芸春秋)で次のように書かれています。その一部を読んでみます。

     統帥権干犯

 浜口(首相)は財政家で、重厚かつ清廉な人格の持ち主であった。

 かれは軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和5年(19304月ロンドン海軍軍縮条約に調印した。

 右翼や野党の政友会は、浜口を「統帥権干犯」として糾弾した。

 ・・・浜口は、この年の11月14日、むろん、殺された”統帥権干犯者”であったことはいうまでもない。

 東京駅で右翼に狙撃され、翌年、死去した。

 以後、昭和史は滅亡にむかってころがってゆく。

 このころから、統帥権は、無限・無謬(むびゆう)・神聖という神韻を帯びはじめる。他の三権(立法・行政・司法)から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。

 さらには、三権からの、ようかい(くちばしをいれること)もゆるさなかった。

 もう一ついえぱ、国際紛争や戦争をおこすことについても他の国政機関に対し、帷幄上奏権があるために秘密にそれをおこすことができた。

 となれば、日本国の胎内にべつの国家‐統帥権日本‐ができたともいえる。

 しかも統帥機能の長(たとえぱ参謀総長)は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼(ほひつ)の責任をもつ。天皇は、憲法上、無答責である。

 である以上・統帥機関は、なにをやろうと自由になった。

 満洲事変、日中事変・ノモンハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった.

 それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。・・・・

 軍の解釈どおりになったのは、昭和10年(1935)の美濃部事件によるといっていい。

 憲法学者美濃部達吉が「天皇機関説」の学説をもつとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。

 結果として著書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。

 美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもつ法治国家は元首も法の下にある、というだけのことであった。

 それが、議会で否定されることによって、以後、敗戦まで日本は「統帥権」国家になった。こんなばかな時代、ながい日本史にはない。(no3598

 *写真:司馬遼太郎

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(21) 統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)

2017-05-26 08:25:31 | 美濃部達吉と天皇機関説

 「天皇機関説事件」の初期段階で重要な役割を果たしたのは、軍人の経歴を持つ政治家たちでした。

 彼らが機関説に反発した理由は、この時期の日本軍人は、いくつかの出来事がきっかけで、美濃部達吉という個人に対して、強い反感や敵意、恨みの感情を抱いていたのです。

      統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)

 ひとつは、1930422日に日本政府が締結した「ロンドン海軍軍縮条約」に関し、日本海軍の軍令部が「帝国憲法に定められた天皇の『統帥権』を干犯するものだ」として強く反対したにもかかわらず、美濃部が自分の憲法解釈を援用して政府の判断を「正しい」と弁護したこと。

 そしてもうひとつは、陸軍省新聞班が19341010日に刊行したパンフレット「国防の本義と其(その)強化の提唱」について、美濃部がその内容を徹底的に批判する記事を雑誌に寄稿したことでした。

 ロンドン海軍軍縮条約とは、第一次世界大戦が終結した後の世界において、各国の保有する軍備に制限をかけようという国際的な協議で採択された条約で、日本政府は欧米各国との交渉の末に調印を決定し、1930101日これを可決、102日に批准しました。

 ところが、海軍内部と政界の一部はこの条約締結の仕方に間題があるのではないか、と疑問を抱く人間が存在していたのです。

 艦艇の保有数に関する条件の交渉と最終的な決定の権限は、交渉を担当した海軍省ではなく、天皇が持つ統帥権を補佐する海軍軍令部に属するもので、軍令部が条件を了承していないのに政府が条約を締結したのは「統帥権の干犯」ではないか、というのが、彼らの言い分でした。

 これに対し、美濃部は憲法学者の立場から、政府の条約締結は「統帥権の干犯にはあたらない」との解釈を述べ、条約を締結した政府の判断を全面的に擁護しました。

     陸軍パンフレットへの批判

 一方、陸軍パンフレットの最初の「国防観念の再検討」では「たたかひ(戦い)は創造の父、文化の母である。・・・・生命の生成発展、文化創造の動機であり刺激である」と書かれていました。

 美濃部は猛反対を述べました。軍部は、メンツをつぶされ美濃部を目の敵とばかりに猛反撃を開始しました。(no3597

 *写真:ロンドン軍縮会議

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(20) 天皇主権論

2017-05-25 09:08:54 | 美濃部達吉と天皇機関説

          天皇主権論

 東京(帝大)の穂積八束は、学生時代から、天皇主権説を支持する立場をとり、「天皇こそが国家主権の担い手」であると主張していました。

 彼は、統治権の主体について、以下のように述べています。

 「第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」

 これは、国体を定めることにある。国体を定めるとは、統治権の主体と客体を定めるということである。本条によれば、統御の主体は万世一系の天皇にあり、統御の客体は大日本帝国にある。これを言い換えれば、我が国は純然たる君主政治であるということである。

 純然たる君主制とは、一個の君主が統御の主体ということである。

 また、第三条の「天皇は神聖にして侵すべからず」については、「君主はすなわち国家である」「神聖にして侵すべからずとは、天皇すなわち国家の本体をなすところの国体なるがゆえである」と解説し、「天皇イコール国家」という解釈を明言しています。

 穂積の弟子の上杉慎吉も穂積とともに天皇主権説を主張しました。

     美濃部 VS 上杉・穂積

 美濃部は、上杉を憲法解釈を厳しく批判しました。

 「上杉の見解は、すこぶる極端な攻撃的な論法を用い、人を誤らせるおそれが多い反対説を十分に理解しないで、それを罵倒し、悪名を付けるのは、学者の態度として、いかがわしいことであろうと思う。

 美濃部は、上杉の論の進め方をそのように諌(いさ)めた上で、君主を国家の最高機関と見なす国家法人説について「君主を人民の家来や使用人扱いするもの」などと書いているのは、まったく根拠がないことだと指摘しました。

 

 1935年の美濃部と天皇機関説を取り巻く状況は、政府・マスコミを巻き込んで大論争(政治問題)になりました。(no3596

 *写真:穂積八束

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(19) 一身上の弁明を述べたが・・・

2017-05-24 09:01:30 | 美濃部達吉と天皇機関説

    一身上の弁明

 攻撃の標的となった美濃部達吉は、貴族院の議場で自分に対して投げつけられた、「学匪」などの誹誇を容認できず、「議場で弁明をさせて欲しい」と発言の機会を求めました。

 憲法学という学問に自分の一生を捧げてきた美濃部にとって、議場で、学者への最大限の侮辱とも言える「学匪」という言葉を投げつけられたことに我慢できなかったのです。

 その結果、美濃部は2月25日の午前に貴族院で「一身上の弁明」として反論を行うことを許され、「天皇機関説」は、決して天皇への不忠でも不敬でもなく、また当時の日本の「国体」を揺るがすような反逆的思想でもないことを訴えました。

 美濃部は「は、菊池男爵が憲法の学問について、どれほどのご造詣があるか知らない者でありますが、菊池男爵が私の著書について論じておられるところを速記録で拝見いたしますと、果たして私の著書をご通読になったのか、仮にお読みになったとしても、それを、ご理解なされているのであるかということを、深く疑う者であります」と発言しています。

 また、美濃部は、天皇機関説が、批判者が言いがかりをつけているような、天皇の権威や地位を軽んじるものではないことを、次のような言葉で説明しました。

 「いわゆる機関説と申しますのは、国家それ自身をひとつの生命であり、それ自身に目的を有する恒久的な国体、すなわち法律学上の言葉をもって申せば、ひとつの法人と観念いたしまして、天皇はこの法人である国家の元首という地位におられ、国家を代表して国家の一切の権利を総撹(そうらん)(掌握して治めること)され、天皇が憲法に従って行われる行為が、すなわち国家の行為としての効力を生ずる、ということを言い表すものであります」

 美濃部の論はマスコミ等に支持されたかのように見えました。

         天皇機関説への巻き返し

 しかし、機関説排撃陣営は、機関という言葉は「全体の一部分」であり、いつでも交換可能な意味を持つとの解釈を披露した上で、これは「いかなる場合においても、学問的にも論理的にも、御上(天皇)に対する最大の不敬語」であると反論しています。

 美濃部に対する攻撃の火の手は、彼の属する貴族院だけでなく、衆議院でも美濃部の著書は発禁処分にすべきだ、という主張大きくなりました。

 「戦線を拡大」を目指す、菊池など軍人出身の議員は徒党を組んで、美濃部に対する「全面戦争」を、幅広い分野で本格的に開始ました。(no3595)

* 写真:菊池武夫

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(18) 蓑田胸喜、天皇機関説を批判

2017-05-23 05:58:24 | 美濃部達吉と天皇機関説

 機関説事件は、昭和10年(1935)に日本の政界を揺るがした政治的な大弾圧事件でした。

 天皇の権力の範囲を憲法の枠組みに合致させる「天皇機関説」という解釈を提唱した憲法学者の美濃部達吉と、天皇を崇拝する退役軍人や右派政治家の対立が事件の発端でした。

 ここからは、高砂は出てきません。「美濃部達吉と天皇機関説」事件を追ってみます。

   右翼の論客・蓑田胸喜、天皇機関説を批判

 1935年2月18日、帝国議会仮議事堂では、第六七回帝国議会の貴族院本会議が開かれていました。

 貴族院(今の参議院)の本会議場では、男爵の菊池武夫という元軍人の議員が演壇に立ち、こう発言しました。

 「・・・我が皇国の憲法を解釈いたします著作の中で、完壁で一分の欠けもない皇国の国体を破壊するようなものがございます。(中略〉

 これが、学徒の模範や手本となる人となり、社会の問題を指摘し、警告を発する人をもって任ずべき帝国大学の教授、学者というような方の著述であるということに、私は痛恨に堪えないのであります。

 これらの著作があることを、政府はお認めになっているのかどうか。また、お認めになっているならば、この著作者と共にいかなる処置をお執りになるつもりなのかをお伺いいたします・・・」

 彼の発言の陰には、ある男の存在がありました。当時活発に言論活動を行っていた右翼(愛国者を自任する国家主義者)の論客・蓑田胸喜です。

 蓑田は、美濃部達吉などの東京帝国大学や京都帝国大学の教授を「日本の学生に共産主義思想を広める不届き者」と決めつけて敵視し、激しい言葉で罵倒する言論活動をくり広げていた人物でした。

 蓑田胸喜は、大学(東京帝大)時代、興国同志会という国粋主義の学生団体に属していました。

 この興国同志会を立ち上げたグループの一人は、同大学で憲法学を教える上杉慎吉教授でした。

 蓑田は、美濃部が著作などで西欧式の法理論や価値観が、蓑田の理想とする「西欧の影響を排した日本(天皇)中心の法理論や価値観」とはまったく相いれないこと。

 もうひとつは、そうした日本中心の法理論や価値観にとって大きな脅威となる、共産主義の革命思想に感化される人間を輩出しているのが、美濃部などが教鞭(きようべん)を執っていた東京帝大など帝国大学の法学部(法科大学)だという、一方的な思い込みがありました。

  そして、蓑田胸喜の過激で極端な日本(天皇)中心の政治思想に共感する人間が、政界にも、現役軍人や在郷軍人会の中にも少なからず存在したことから、彼の思想や言説は、天皇機関説事件の中で大きな影響力を発揮することになります。(no3594

*写真:蓑田胸喜

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(17) 美濃部親子文庫

2017-05-22 06:13:32 | 美濃部達吉と天皇機関説

       美濃部親子文庫

 達吉博士の著書など115冊の寄贈を受け、1958年(昭和33)に「美濃部文庫」として市民に開放されました。

 その後、図書館が1987年(昭和53)、同市曽根町に移されるのを機に、「美濃部文庫」は、同年7月に高砂公民館に移設されました。

 亮吉博士没(1984年)後の1986年、遺族から亮吉博士の著書を含めた多数の資料等455冊が寄贈されたのを機会に資料は高砂公民館の3階の図書室に配架し、名称も「美濃部文庫」から「美濃部親子文庫」に改められました。

 そして「ライオンズクラブ」会員により、「美濃部親子文庫」の記念碑が建立され、昭和613月に除幕式が執り行われました。

 また、1992年(平成4)故亮吉博士夫人の時子氏から、膨大な書簡等資料が寄贈されました。

 それらは「美濃部氏書簡」として整理され、四冊のファイルにして親子文庫に加えて公開されています。

     美濃部研究会発足

 1996年(平成8)には、「美濃部研究会」が正式にスタートしました。

 2003年(平成1553日の憲法記念日に、宮先一勝、田中由美子各氏によって『美濃部達吉博士関係書簡等目録』が自費出版されています。(no3593

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(夕月書房)参照

 *写真:美濃部親子文庫の記念碑

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(16) 美濃部家と河合家(2)

2017-05-21 09:04:22 | 美濃部達吉と天皇機関説

       美濃部家と河合家(2)

 「美濃部家と天皇機関説(14)・美濃部家と河合家」の続きです。

 

 ・・・明治29年、15歳で高等小学校を出た(河合)義一は、達吉の姉みちの嫁ぎ先である神戸の医師・井上学太郎宅に書生となって、半年ほど住み込んでいます。

 のちに義一が上京して東京外国語学校に学び、また日本銀行に勤めたとき、達吉の兄・俊吉宅および南宅にも一時下宿をしています。

 

 達吉の妹えみは南尚(ひきし)・静子夫妻の四男新吾に嫁ぎました。

 南新吾は、東大を首席で卒業して三井物産に勤めた人物です。

 南尚は、土木工学を専門とする工学博士で、彼の行った京都の「疏水」は世界的水準の名作といわれています。

 南尚は、明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたっています。

 とくに、日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 京都府)、那須疏水(栃木県)の開発に取り組みました。

 疏水工事のなかで、特にトンネル工事を得意としました。

 

 このように義一(河合家)は、美濃部一族に大変な世話になっています。(no3592

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(夕月書房)参照

 *写真:琵琶湖疏水(第1トンネル東口‐琵琶湖側より一つ目のトンネル)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(15) 余話・河合耆三郎(かわいきさぶろう)  

2017-05-20 08:08:40 | 美濃部達吉と天皇機関説

    余話・河合耆三郎     

 

 文久3年(1863)の夏のある日、一人の若者の姿が高砂の町から消えました。

 彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として、堀川岸で活躍していました。

 その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消したのです。

 やがて、京の新撰組に入り、サムライになったことが、風の便りに聞こえてきました。

 彼の名は、河合耆三郎(河合義一の父・義一郎の兄)、武士として活躍したいと常々考えていました。

 新撰組のできたことを知り、いてもたってもいられなく、ついに高砂の町を飛び出したのです。

 彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)の仕事をまかされました。

 新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものでした。

 慶応2年(1866)2月2日の朝のことです。

 前夜、タンスの中に入れていた50両の大金が消えていました。

 タンスに近づくことのできたのは、新撰組の幹部だけでした。

 これが表面に出れば深刻な内輪もめになります。

 彼は、この50両の穴埋めのために国もと(高砂)へ早飛脚をだしました。

 折り悪く、父親は商用で外に出ていました。

 悪いことは重なります。この間に、新撰組で50両が必要になりました。

 「耆三郎がその金を盗んだ・・」と疑がわれました。

 今となっては誰も信用してくれません。2月12日、耆三郎の打ち首が決まりました。

 刑は、新撰組の道場横で行われました。時間は、午後8時をまわっていました。

 小雨交じりの寒い夜であったといいます。

 処刑の3日後、彼が待ちにまった50両がとどきました。

 この金は、近藤勇が遊女を身請けするための金であったらしい・・・

 耆三郎については、下母沢寛の小説『新撰組三部作・新撰組物語』(中央公論社・中公文庫)に詳しく書かれていますが、たぶんにフィクションが含まれているようです。でも、紹介しておきたい話題です。(no3591)

 *写真:江戸時代の倉庫群の面影をとどめる菅野邸付近(南堀川の界隈)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(14)  美濃部家と河合家

2017-05-19 06:42:18 | 美濃部達吉と天皇機関説

      美濃部家と河合家

 美濃部家と河合家の間柄についてふれておきます。

 河合家とえば地元では、「農民政治家・国会議員(旧社会党)」として、よく知られている写真の河合義一(18821974)の家のことです。

 河合家は、江戸時代には高砂の豪商であり大蔵元でした。

 美濃部家と河合家は、義一の父河合儀一郎の時代からつきあいがあったといわれています。

 ちなみに、新撰組の勘定方になった河合耆三郎(きさぶろう)は、儀一郎の兄にあたります。

 (河合耆三郎については、次号で余話として紹介します)

 さて、儀一郎は、高砂町初代(明治22年)の町会議員であり、学務委員もつとめました。

 また、地域でも町総代、高砂神社氏子総代なども行い、顔のきく有力者でした。子どもの教育にも熱心でした。

 儀一郎は、達吉の父秀芳より一回りほど年下でしたが、二人とも同時期に町会議員をつとめており、また子どもの教育にも力を注ぎました。

 河合儀一郎は、義狭心がつよく、金を儲けるどころか、人が困っているのをみると惜しむことなく援助するなどして、かつての財もかなり使い尽くしたようです。

 達吉の父・秀芳と河合義一の父・儀一郎は、何かと共通点もあり、親近感を覚える関係にあり、美濃部・河合の両家は河合儀一郎の時代から何かと行き来がありました。

 すばらしくよくできる達吉と兄俊吉を勉強させるため東京に送りだそうと、高砂の資産家たちが学資を出しましたが、そのときその世話に奔走したのが河合儀一郎だったようです。(no3589

 *写真:河合儀一胸像

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房)より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(13)  余話として、近藤亀蔵

2017-05-18 09:49:05 | 美濃部達吉と天皇機関説

        余話として、近藤亀蔵

 近藤亀蔵については、『故郷燃える()』(神戸新聞社)におもしろい記述があるので、余話として紹介させていただきます。

 ・・・・「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門(かど)通れば後光さす」と、当時の俗謡に歌われている。

 何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大はやりしたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産四十万で、西は播磨の近藤、六十万両であり、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられた。

 寛政元年(1789)、わずか九歳で先代の跡を継いだ亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走した。・・・・

 特に、回漕業(海運業)をもっとも手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をおいて、全国に船を派遣し、米や雑貨の売買で大もうけをした。

 もろん、「当国第一の銀貸し(銀行)」でもあった。

 幕府に相当な献金もしたのだろう、亀蔵という名も大坂城代からもらった。

 長蔵というのが元の名である。

 地元の小野藩、一柳(ひとつやなぎ)家の御用金もうけたまわって、とっくに苗字帯刀ご免だった。・・・・

 小野市の黍田と対岸をつなぐ万歳橋が左岸(東岸)に突き当たるところに豪商・近藤亀蔵の屋敷があった。

 天保の川筋一揆で一揆衆につぶされた。

  (一揆の)のち、勤王・佐幕の動乱期に、近藤家は亀蔵から文蔵の代になっていたが、倒幕派の急先鋒、長州藩と深く結びつき、その志士たちの活動をひそかに援助する。

 長州藩との関係は、近藤家が兵庫~下関間の回漕業(海運業)を経営していたことから生じた。

 元治元年(1864)と慶応元年(1865)の二度にわたり、幕府が長州藩を封鎖したときには、その物資輸送を助けており、長州藩士、伊藤俊介(博文)なども長く近藤文蔵の本宅(市場町)に潜伏していたことがあるようだ。

 志士たちは、近藤のような豪商のルートをたどって、地下活動をした。

 それはさておき、安政三年(1865)76歳で死ぬまで、この近藤亀蔵にとって最大の災厄が、天保四年九月の一揆襲撃だった。・・・・(no3588)

 *『故郷燃える()』(神戸新聞社)参照

 *写真:近藤邸跡に残る当時の倉庫(万才橋袂にある)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(12) 小野中学校へ進学・市場(いちば)近藤家の世話になる

2017-05-18 06:21:21 | 美濃部達吉と天皇機関説

  高砂小学校・小野中学校(現在の小野高校)

        そして、東京帝大法科へ

 達吉は、幼少より神童と呼ばれ、高砂の小学校では6年の過程を4年ですませました。

     市場(いちば)近藤家の世話になる

 中学校は、公立小野中学校(現在の小野高校)に進学しましたが、母(悦)の実家(小野の古川村)から通学するには遠すぎるため、小野の市場村(いちばむら)の豪商近藤家に預けられ、その援助で通学したといわれています。

 総本家は近藤亀蔵で、その家は現在の万才橋のたもとにあり、加古川舟運の船着場に面していました。

 近藤一族は米穀や海産物、干鰯を扱っており、天保ごろには廻船業も営み財をなしました。

 高砂の岸本家文書「高砂塩浜反別名寄帳」には、文化八年における高砂塩浜の所有者として、市場の近藤亀蔵と文蔵の名がみえます。

 それによると、亀蔵は48反余をもち、近藤家は文人学墨客の往来がたえなかったし、文人・学者への援助も惜しまなかったといいます。

 美濃部家がどのような縁で近藤家の世話になったのかは定かではありませんが、高砂の豪商の仲介で、事が進んだのであろうと想像されます。

 達吉が、小野中学校に入学したのは明治17年ですが、その翌年に財政難のために当校は廃校を余儀なくされました。

 従って、達吉が公立小野中学校に在籍したのは、最後の一年間だけでした。その後、達吉は神戸の乾行義塾に入りました。

 達吉の息子の亮吉は、高砂小学校で達吉より一級上であり、後に高砂の八代目の町長になった伊藤長平から聞いたことを自著『苦悶するデモクラシー』に次のように記しています。

 「伊藤さんは、順序をふんで小学校を卒業し、商業学校を出て、神戸の乾行義塾という英語、漢学、数学を教える塾で勉強することになったそうである。

 そこには父(達吉)も通い、英語を勉強していた。・・・・伊藤さんが行かれた時には、英語で演説するほどになっていたという。(後略)」

 小学校・中学校(現在の高校)時代は、大変な秀才でした。

 そして、明治21年に達吉は東京に遊学し、一高および東京帝大法科へ進んでいます。(no3587

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房)参照

 *写真:万才橋の袂にある近藤家の(小野市市場町)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(11) 美濃部達吉生家跡・いまは倉庫

2017-05-17 08:08:26 | 美濃部達吉と天皇機関説

      美濃部達吉生家跡・いまは倉庫

 達吉の生家は、現在は、倉庫(写真)になっています。

 達吉の生家の場所に倉庫の建設の話が持ち上がった時、保存運動はなかったようです。

     美濃部達吉生家跡説明の碑

 現在、生家跡の倉庫の側に御影石に次の説明が刻まれています。

 読んでみましょう。

          美濃部達吉生家跡

  明治憲法下で「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉博士は、明治6年(183757日、父秀芳(蘭方医、申義堂教授、第2代高砂町長)、母悦の次男として、ここ材木町の地で生まれた。

  達吉博士は、高砂小学校、小野中学校を経て兄俊吉とともに上京、東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学教授を経て務めた。

  その間、東大における美濃部憲法学は、幾多の著名な憲法学者、行政法学者を輩出した。

  昭和23(1948)、東京で他界したが生前の著書等は、息子の亮吉氏(元、東京都知事、参議院議員)の蔵書とともに「美濃部親子文庫」に保存されている。

・・・・

  こんな説明もよいのですが、美濃部家の一部でも残しておいてほしかったですね。

  美濃部家を知るご近所の方もそのようにおっしゃっておられました。(no3586

 *写真:美濃部達吉生家跡に建つ倉庫

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(10) 美濃部達吉の生地 

2017-05-16 05:43:18 | 美濃部達吉と天皇機関説

    美濃部達吉の生地 

 達吉は父秀芳・母悦の次男として1873年(明治6)高砂町材木町に生まれました。

 達吉の生家は、平成の初期まで材木町の角地に昔の姿をとどめていましたが、今は倉庫となり達吉の成果の痕跡は何も残っていません。

 達吉が幼少期過ごした明治初期の高砂は、江戸期の名残りを十分とどめていました。

 明治4年の廃藩置県、それに続いて地租改正により従来の年貢米がなくなり、産米はすべて米穀仲買人に買取られました。

 年貢米だけを取り扱っていた問屋は没落したが、かわって米穀商人が船をもつようになりました。

 明治に入っても堀川界隈は盛況を呈していました。

 達吉の幼少期においては、高砂川上流の姫路藩の年貢米と余剰米を収納していた百間蔵(ひゃっけんぐら)は、年貢米はなくなり機能していなかったのですが、明治9年の「高砂町耕地図」によると、まだ建屋は存在していました。

 南堀川界隈には問屋が並び、問屋は米穀のほか薪炭、肥料、砂糖、塩、海産物などを扱っており高瀬舟も盛況でした。

 米穀は、おもに大坂へも運ばれていました。

 そんな南堀川の西端に、間屋にはさまれて医を業としていた美濃部家がありました。(no3585

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房より)

 *写真:美濃部達吉の生家(高砂町材木町)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美濃部達吉と天皇機関説(9)申義堂廃校後の達吉の父・秀芳

2017-05-15 08:19:43 | 美濃部達吉と天皇機関説

       申義堂廃校後も高砂の教育に力を注ぐ

 秀芳は申義堂が廃止になった後も高砂の教育に力を注いでいます。

 明治17年頃、加古郡第四番学区の学務委員を務めました。

 なお、秀芳は、申義堂の教授を務めていたころ、近隣において出張講義を行っています。

 加東郡社村(現・加東市社)の佐保神社に、秀芳の講義記録が残されています。

 この出張講義は、当時(幕末から明治初期)、佐保神社神官で佐保塾を開いていた神崎長平よりの招聘と考えられます。

 それというのは、長平の妻・いくが高砂町田町(大蔵元分家小林網屋弥太郎の長女)の出であり、秀芳の家とは目と鼻の先にあり、同郷の誼ということで講義計画が進められたとおもわれます。

 講義の内容は、主に文明開化という新しい時代を迎えるにあたっての心構えといったことを説います。

 長女のみちは1867年(慶応3)、長男の俊吉は1869年(明治2)、そして次男の達吉は、1873年(明治6)にそれぞれ出生しています。

 秀芳は、明治22年の町村制の施行により高砂町会議員を、引き続き明治26年から同30年まで二代目の高砂町長をつとめ、公共事業に尽力しました。

 明治288月に妻を亡くした後、後妻をもらったようです。

 彼は町長を辞めたのち、息子らの出世を祈りながら、明治37年2月1日に亡くなりました。享年64歳でした。(no3584

 *写真:佐保神社(加東市社)

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房)参照

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする