合併話の続きです。稲美町と神戸市の合併の話をしておきましょう。
神戸市との合併問題
昭和30年3月、旧加古・天満・母里三ヵ村が合併して稲美町が発足しました。
もともと、財政的に豊かでない村同士の合併で、合併条件にも「将来は大都市への合併」をうたっていました。
稲美町の誕生は、大都市との合併のワンステップといえる新町の誕生でした。
そのため、大西一雄町長は神戸市との合併に向けて、まっしぐらに合併を進めました。
七年ごしの交渉がみのり、昭和37年2月神戸市側が重い腰をあげ「稲美町合併」を決定しました。
仮調印後にご破算
稲美町と神戸市の合併がまさに実現しようとする時でした。
予想もしていない合併反対の火の手があがりました。
まず、兵庫県が反対を表明しました。
理由は、県は稲美町を含めた播磨総合改発計画を進めており、同町が神戸市と合併すると計画に大きな影響があるということでした。
ついで、加古川市が反対し、さらに播磨広域行政都市協議会、播磨工業地帯整備促進協議会、東播磨総合改発促進協議会などが続き、外部からの反対運動はエスカレートするばかりでした。
平静を装っていた住民も、次第に地区意識が頭をもたげ、合併のための住民投票を要求する声が日増しに強まりました。
住民は、住民投票の要求署名運動を展開し、町会に提出しました。
これが拒否されると、今度は民主政治を守る町民大会、町幹部、町会総退陣要求、町会解散請求署名、町税不払い運動へ発展し、町は真二つに割れ対立の溝を深めてゆきました。
この間、神戸合併の仮調印はすみ、町は基本どおり合併準備を進めました。
しかし、合併反対派の強い運動と外部の反対でついに大西町長が退陣し、新町長で決着をつけることで双方は合意しました。
つまり、合併派の町長が実現すれば、反対派住民も全面的に協力するというものでした。
結果は、55票の小差で合併推進の町長が誕生したものの、こじれた住民感情は解きほぐすことができませんでした。
結論を県にゆだねることになり、稲美町は新しい独立の道を歩むことになりました。
そして、現在にいたっています。
当時、総務課長だった元、福田幸夫町長は当時をふり返り、「あれだけもめたのは住民へのPRが不十分で町、町会の合併への取り組みが先行し、住民に真意が理解してもらえなかったからだ」と反省する。(神戸新聞より)(no4601)