ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町と神戸市の合併  仮調印後にご破算

2019-04-05 08:22:41 | 播磨町さんぽ

 合併話の続きです。稲美町と神戸市の合併の話をしておきましょう。

       神戸市との合併問題

 昭和30年3月、旧加古・天満・母里三ヵ村が合併して稲美町が発足しました。

 もともと、財政的に豊かでない村同士の合併で、合併条件にも「将来は大都市への合併」をうたっていました。

 稲美町の誕生は、大都市との合併のワンステップといえる新町の誕生でした。

 そのため、大西一雄町長は神戸市との合併に向けて、まっしぐらに合併を進めました。

 七年ごしの交渉がみのり、昭和37年2月神戸市側が重い腰をあげ「稲美町合併」を決定しました。

    仮調印後にご破算

 稲美町と神戸市の合併がまさに実現しようとする時でした。

 予想もしていない合併反対の火の手があがりました。

 まず、兵庫県が反対を表明しました。

 理由は、県は稲美町を含めた播磨総合改発計画を進めており、同町が神戸市と合併すると計画に大きな影響があるということでした。

 ついで、加古川市が反対し、さらに播磨広域行政都市協議会、播磨工業地帯整備促進協議会、東播磨総合改発促進協議会などが続き、外部からの反対運動はエスカレートするばかりでした。

 平静を装っていた住民も、次第に地区意識が頭をもたげ、合併のための住民投票を要求する声が日増しに強まりました。

 住民は、住民投票の要求署名運動を展開し、町会に提出しました。

 これが拒否されると、今度は民主政治を守る町民大会、町幹部、町会総退陣要求、町会解散請求署名、町税不払い運動へ発展し、町は真二つに割れ対立の溝を深めてゆきました。

 この間、神戸合併の仮調印はすみ、町は基本どおり合併準備を進めました。

 しかし、合併反対派の強い運動と外部の反対でついに大西町長が退陣し、新町長で決着をつけることで双方は合意しました。

 つまり、合併派の町長が実現すれば、反対派住民も全面的に協力するというものでした。

 結果は、55票の小差で合併推進の町長が誕生したものの、こじれた住民感情は解きほぐすことができませんでした。

 結論を県にゆだねることになり、稲美町は新しい独立の道を歩むことになりました。

 そして、現在にいたっています。

 当時、総務課長だった元、福田幸夫町長は当時をふり返り、「あれだけもめたのは住民へのPRが不十分で町、町会の合併への取り組みが先行し、住民に真意が理解してもらえなかったからだ」と反省する。(神戸新聞より)(no4601)

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播磨町さんぽ(28) 村・町の名前(5)、 播磨町は、加古川市・別府町との合併を拒否

2019-04-04 10:21:41 | 播磨町さんぽ

          別府町、加古川市と合併

      播磨町は、合併を拒否

   高砂町との合併は、高砂町を中心にしたものであり、はじめから別府町としては気乗りではありませんでした。

 この間、加古郡二見町は、大久保町・魚住町がとともに袂をわかって明石市と合併することを決めました。

 阿閇村は、孤立路線を選択します。

 

 別府町の話です。

 別府町は孤立路線をとるか、加古川市との合併話を進めるかの選択肢が残されるだけとなりました。

 こうした中で、突然の転機が訪れました。

 別府町は、かねてから国や県に別府港の改修を陳情していました。それが認められることになりました。

 しかし、総工費は、三億円と見積もられ、地元負担は二割五分でした。

 つまり、別府町の負担は、7.500万円です。別府町単独では至難の事業でした。

 この時、加古川市長から別府町に「・・・合併を考慮にいれずとも、地方発展のため相互援助を期し、税外収入の道を計り、極力協力したい・・・」との申し出がありました。

 この「別府港改修問題」をきっかけに、加古川市との合併問題は急展開をすることになりました。

 なお、この時も、両市町村は、阿閇村に対しても合併の話しかけを行ったのですが、阿閇村は、加古川市との合併を選びませんでした。

 かくて、別府町は、加古郡の他の町村に遅れること1年余、昭和26年(1951)10月1日、加古川市と合併しました。(no4600)

 *『加古川市史(第三巻)』参照。  写真は、加古川市と別府町の合併調印式

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播磨町さんぽ(27) 村・町の名前(4)、阿閇村は、別府・加古川との合併をキッパリと拒否

2019-04-03 07:20:37 | 播磨町さんぽ

    別府村、加古川市との合併は賛成小差

 「世論調査の投票」(拘束力を持たない)の結果をもたないものの、別府町と加古川町の合併は反対となりました。

 結果、今度は阿閇村(現:播磨町)との合併が現実的な協議にはいりました。

 事態は、加古川市制実施予定の6月1日に向けてますますの緊迫していました。

 町長・町議会とも最終的な態度を決めなければならなくなりました。

 そのため、今度は拘束力のある「決戦投票」の結果にゆだねることを決めた。

 投票は、昭和25年5月6日に実施され、結果は次のようでした。

       加古川町との合併賛成     1250 票

           〃       合併反対     1164 票 

 *この投票には、「外国人(在日朝鮮人を指す)は投票せしめない」との注意書きがありました。

 結果は、加古川町と別府町の合併が賛成が多かったのですが、その差はわずかに86票でした。

 一部の議員からは「町長リコール」・「分村してでも・・・」という言葉まで飛び出しました。

    阿閇村は、別府・加古川との合併をキッパリと拒否

 このようなもたつきの中で、二見町は明石市との合併を決めました。

 そして、阿閇村では「土山駅前問題」が発生しました。

 土山駅前は、加古川町・阿閇村・魚住村・二見村が入り組んでいます。

 その内、阿閇村に属している土山駅前商店街が、加古川町への合併を強力に推し進めようとしました。

 阿閇村はさまざまな思惑と利害が対立し、村内がまとまらなくなりました。

 そのため合併の是非を問う住民投票を実施しました。

 その結果は次のようで、はっきりと合併を拒否しました。

       現状維持  2548 票

     合併賛成  1502 票

 二見村は明石市と合併し、阿閇村は明確に加古川町・別府町との合併を拒否しました。

 別府村の住民投票の結果、加古川町との合併を決めましたが小差でした。(no4599)

*『加古川市史(第三巻)』参照、写真は土山駅前

      

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播磨町さんぽ(26) 村・町の名前(3)、別府町の合併構想

2019-04-02 07:42:02 | 播磨町さんぽ

 加古川市(当時加古川町)と別府町との事情から始めます。

 加古川町と別府町との合併は「臨海工業都市への発展」を秘めた極めて魅力的な青写真でした。

 そのため、別府町への合併の誘いは、加古川町だけではなかったのです。

        三つの合併構想

 加古川町から別府町へ合併の申し入れがなされたのは、昭和24年(1949)でした。

 当時、加古川町との合併以外に、別府町には二つの選択肢がありました。

 一つは、加古郡別府町、阿閇村・二見町が合併する、東播臨海都市建設構想です。

 神戸新聞は「・・・・(阿閇村・二見町との合併は)あらゆる面で共通した条件を持つものの団結で、将来の発展を期したいという提案があり、全員が大体賛成の意向を示したのでちかく関係町村によって正式の合併相談が行われる模様である・・・」(昭和24年11月17日)と報じました。

 今にも、別府と阿閇・二見との合併が実現しそうな雰囲気でした。

 もう一つは、加古郡別府町、高砂市、尾上村、荒井村、印南郡伊保村との合併構想です。

 高砂・尾上・荒井・伊保、そして別府を加えて一海岸都市を構想していました。

 高砂市長のこの構想は、高砂・伊保を中心とする構想であり、別府町にとっては少し面白くない構想でした。

 ともかく、合併の利害が対立し、別府町内は分裂状態となりました。

  そんな中にあって、別府町長(木下収)は終始加古川市との合併を積極的に呼びかけ、町内の意見のとりまとめを図ったのです。

 しかし、町内の合意形成を目指した町長でしたがまとまらず、昭和25年(1950年)2月4日、町議会が開催され「(加古川市との合併に対する)世論調査の投票」を行う」ことが決定しました。

 昭和25年2月9日、投票は実施され、結果は次のようでした。(投票率 87.11%)

    投票総数 2745票 (他に外国人 80票)

    有効投票 2723票 (他に外国人71票)

          賛成  1165票

           反対  1558票 

 結果は、加古川市との合併反対が賛成を393票も上回るというショッキングな結果になりました。

 町長は、即日辞職願を提出しました。

 町議会で彼の辞職願は留意され撤回されましたが、ここに別府町と加古川町との合併は一頓挫したのです。(no4598)

 *写真:当時の別府町長、木下収

 

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播磨町さんぽ(25) 村・町のなまえ(2)、播磨町の誕生

2019-04-01 09:09:21 | 播磨町さんぽ

 

    村・町のなまえ(2) 播磨町の誕生

 きょうは、播磨町の誕生の話です。 

 江戸時代、現在の播磨町の地にはどんな村があったのでしょう。

 最初にそれらの村々を紹介しておきます。

 クイズです。

  「江戸時代、播磨村はあったのでしょうか?」

  もちろん答えはノーです。

 江戸時代、今の播磨町の地には、東本庄村・西本庄村・宮北村・野添村・古宮村・大沢村東中野村・経田村・古向村・宮西村そして二子村の11ヵ村がありました。

 時代は明治になり、明治8~9年にかけて合併があり、東本庄村・西本庄村・宮北村が本庄村に、沢村・東野村はそれぞれの村名の一字を取り「大中村」に、そして向村、経村も旧村名の一字を残し、「古田村」が誕生しました。

 

 それら、あたらしくなった本庄村・野添村・古宮村・大中村・古田村・宮西村・二子の村々は、明治22年4月1日、新しい村制により、それらの村々は合併して「阿閇村」が誕生しました。

 そして、その後、昭和37年4月1日名称を現在の「播磨町」としました。

 その間、別府村・加古川町との合併話があったのですが、播磨町は独立路線を選択しました。

 きょうの話題は、これだけにしておき、独立路線を選んだ経過は、次回に見ることにしましょう。(no4597)

 *『兵庫県市町村合併史・上』(昭和37)参照。

 (地図は、昭和37年発行の「兵庫県市町村合併史・上」からの転載で、海岸線等は大きく変わっています。)

 

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播磨町さんぽ(24) 村・町の名前(1) 古宮村、昔は今里村

2019-03-31 11:01:24 | 播磨町さんぽ

 

            古宮村、昔は今里村
 播磨町「古宮(こみや)」の名称を考えてみます。
 古宮は海岸線に沿った地域で、古くは「今里村」と称していました。
 中世になって古宮と改めたといいます。
 今里村の地名については、室町時代の永享6年(1434)の住吉大社造営費用の割当状の中に見ることができます。
 以下は、古宮に伝わる伝承です。
 ・・・豊臣秀吉が朝鮮に出兵の途中、この地の海岸を通過しようとしたが、その日は周囲が全く見えない闇夜でした。
 航行に難渋を極めましたが、さいわい古宮の住吉神社の常夜燈が目印となり、無事着岸できたといいます。
 秀吉は、住吉神の御加護として非常に喜び、この地を古宮と命名し、朱印十三石を与えた。・・・
    「古宮」の名称は秀吉が名付けたのか?
 以下は、勝手な想像です。どう思われますか?
 江戸時代は、ここはもっぱら「古宮」と呼ばれており、今里から古宮に変わったのは1434年から1600年の間と言うことです。
 秀吉は、天文5年(1536)から文禄4年(1598)の人ですから、集落の名称が古宮になったのは、秀吉の時代としても、おかしくはありません。
 それまで、この地域は「今里」と呼ばれていたが、秀吉の時代に、この集落の名称は「古宮」にかわったのでしょう。

 集落の名前も、有力者の名前も「今里」では、紛らわしく、何かと不都合なこともあったのでしょう。
 そのために集落の名称は「古宮」に、有力者の家名を「今里」としたのではないかと想像します。
 やがて、古宮村に、秀吉の伝承が付け加わり、集落名は「古宮」として定着したのではないでしょうか。
 勝手な想像であることをお断りします。
 *写真:古宮(こみや)の地名由来を持つ古宮住吉神社の常夜灯台跡

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播磨町さんぽ(23) 海に生きる(3)、朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に37名が徴発

2019-03-30 07:17:22 | 播磨町さんぽ

    現:播磨町地区から、

    朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に37名が徴発

 秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の時の水主の話です。

 高砂の十輪寺の境内に出かけました。

 山門を入ると本堂の東側に、多数の石塔に囲まれた一基の大きな宝篋石塔(水主供養塔)があります。

 1592年(文禄元)、秀吉の朝鮮侵略の際にかりだされて死んだ高砂の水主(船乗り)の供養塔です。

 この戦いに、高砂から100人が徴発され、帰国途中96人が溺死したといいます。

 「文禄・慶長の役」とよばれる朝鮮侵略では武士のみでなく、多くの民衆(特に漁民)が動員されました。

 「高麗へ渡り候へば、二度と帰らぬ」とまでいわれ、多くの水夫・武士が死亡しました。

 この供養塔は、全国的にも貴重な民衆側からの朝鮮侵略を記録する遺物です。

 96の石塔群は、1730年に建てられた宝篋印塔より古いもので、村人が水手の死を供養するためにつくったものではないかといわれています。

     古宮組から37名の徴発 

  朝鮮との戦争に徴発されたのは、もちろん高砂の水主だけではなく、飾磨津は100人、妻鹿・八家地域から43 人、的形から72人、高砂とその近辺から18人が、そして、現:播磨町地域から37人が徴発されています。(no4595)

 *写真:水主供養塔(高砂市十輪寺)

 *播磨町史『阿閇の里』参照

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播磨町さんぽ(22) 海に生きる(2)、さかんになる海運

2019-03-29 08:55:59 | 播磨町さんぽ

         海に生きる(2)・海運
 豊臣秀吉のころには、中世以来の海賊を禁じ、朱印状をもった船が、中国大陸・台湾・東南アジア各国と貿易していました。

 この貿易が、そのまま発展していたなら、欧米先進国なみの船舶や航海術をもつようになったと思われますが、江戸幕府は、じつに小心でした。
 幕府は諸大名や民間が航洋船の大型船を持っていることが不安でした。
 そのため、大型船の建造を禁止しました。
 以後、通称「千石船」などといわれる江戸期を特徴づける和船が登場します。
      盛んになる海運
 幕府と各藩は、集めた米を江戸・大坂などの都市へ送り、金に換える必要があり、そのため船運が盛んとなりました。
 幕府が、寛文10~12年(1670~72)河村瑞賢に開発させた奥州太平洋岸から江戸へ、さらに出羽国(秋田・庄内など)から西廻りで大坂・江戸へ運ぶための諸施設や態勢を確立させたのです。
 鎖国によって500石積(米500石・これは75トンになる)以上の船の建造は禁止されていましたが、寛永15年(1638)に商船についてのみ解かれ、大坂・江戸間の樽廻船(たるかいせん)・菱垣廻船(ひがきかいせん)をはじめとして、千石を越える新造舶が、つぎつぎに就航しました。
 廻船より小型の渡海船でも比較的大きいものは、東は和泉・紀伊、西は長門・九州まで行っていたようです。
 寛延・宝暦年代では、塩・薪・干鰯・筵などを買いとって、運んで売ってくる「買積み」と米・雑穀などを運賃をとって運ぶ「賃積み」の両方がありました。
 これらのことが明細帳や諸記録に出ています。
 なお、播磨町域から御影あたりの大型船の雇われ水主(かこ、船乗り)として、江戸行き航路に乗った人も、また、西廻りで日本海へ行く「北前船」に乗り組んだ人も少なくなかったようです。(no4594)
 *播磨町史『阿閇の里』参照
 *挿絵:北前船『ジョセフ・ヒコと様式帆船の男たち』(ふるさとの先覚者顕彰会)より

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播磨さんぽ(21) 海に生きる(1)、漁は監察制度で

2019-03-28 07:16:05 | 播磨町さんぽ

 

   海に生きる(1)  漁は監察制度で

 「海浜の村は、どこでも漁をしていたはずだ」と思われるのですが、なぜかそうなっていません。
 播磨町域の漁村でも古宮村と東本庄村だけに漁船があって、西本庄村も宮西村も漁船がおかれていないのです。
 たとえば、宝暦七年(1757)西本庄村明細帳には「猟船無御座候(りょうせん、ござなくそうろう)」とあります。
 漁業権の制約をうける何かの理由があったのか、舟あげ場に何か支障があったのか、今のところ原因はわかりません。
    漁は監察制度で
 魚種・漁法についても、くわしいことはわかりませんが、古宮村の寛延三年(1750)の村明細帳によると、次の記載があります。

     漁船57艘、 持主57人
 ただし、イイダコ・クモダコ・カキ・エボシ、そのほか手繰網(てぐりあみ)・大蛸漁仕り候

 所にて売り申し候
 折節(おりふし、ときどき)は、大坂へ登せ申す儀も御座候

  運上銀は右に書き記(しる)し御座候
 他所より漁船人込み申さず候


 漁師運上銀(税)は、次のとおりです。
 これを見ると、主な魚種について鑑札を買わせて税を確保するとともに、鑑札がないと、その漁ができない仕組みになっていたようです。

 鑑札は1年間有効でした。

 イイダコが番いい値になっています。
 手繰網で何をとったのかわからないのが残念でが、漁船57艘で延べ127枚(種類)ということは、一そうで二枚(種類)の割宛てにしかなりません。
 一艘あたり、あまり多くの種類の魚を撮っていないようです。
 「本荘貝」などは、当然とっていたと思われるのですが、運上(税)の対象にはなっていなかったのか、記録にあらわれていません。(no4593)
 *播磨町史『阿閇の里』より

 *写真:江戸時代のタコ漁のようす

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播磨町さんぽ(20) 海に生きた船乗りのはなし(20)、秋元安民(4)・速鳥丸の活躍

2019-03-27 09:34:52 | 播磨町さんぽ

     秋元安民(4)  速鳥丸の活躍
 漂流した清太郎ら四人は、速鳥丸の乗組み員となりました。

 速烏丸は、長さ27㍍30㌢のマストニ本の帆を持つ船で、450石(45トン)積み、乗組み員はふつう16人でした。
 航海として、同年9月16、日姫路(飾磨港)を発した速鳥丸は、米千俵、播州産の木綿30包などを積み、同月26日、江戸の品川に着きました。
 このときは18人が同乗しました。
 10月16日、同船は姫路への帰途につきました。
     大型船建造続く
 姫路藩は、大型船で国産の米や木綿を江戸に運び、帰りに関東の物産、大豆やアズキ、銚子のしょうゆ、九十九里浜の干鰯などを積み帰りたいと幕府に願い出て、許されました。
 この交易は、江戸・大坂の問屋商人や商船の手を通さないだけ、藩には有利でした。
 速鳥丸の成積がよいので、姫路藩は飾磨にある藩の船溜(ふなだまり)で、さっそく姉妹船の建造にとりかかり、翌安政六年(1859)完成させ、「神護丸」と名づけました。
 同型ですが、少し小さく、長さ14㍍50㌢、七人乗りの船でした。
 つづいて、「金華丸」も造られました。
 これら新型船を使い始めてから危険率は減り、速度も上がって、飾磨~品川間を10日で行くことができました。
 意外の効果に気をよくした姫路藩は、安政六年もっと新型船をふやし、乗組み員養成のため、速烏丸、神護丸の両船を長崎や北海道へも航海させてほしいと幕府に願い出て許されています。
 これら西洋型帆船は、安政五年から明治五年まで14年間に、70数回、江戸~姫路間を往復しました。
 のち、文久三年(1863)には大砲や砲弾なども輸送し、蕃兵もしばしば同乗しています。
 もっとも、第一号の速鳥丸は、安政六年三月、3度目の江戸への航海中、遠州灘でシケに会い沈没しています。(no4582)
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照

 *挿絵:大型船築造に貢献した4人の内、清太郎(大正15年)

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播磨町さんぽ(19) 海に生きた船乗りのはなし(19)、秋元安民(3)・大型船(速鳥丸)建造へ

2019-03-26 09:22:20 | 播磨町さんぽ

     秋元安民(3)

     清太郎ら故郷(本庄)へ帰る
 栄力丸の漂流者10人は、安政元年(1854)7月12日、中国船で長崎にたどり着きました。

 浦賀を出てから、まる3年9ヵ月ぶりに踏む故国の土でした。
 長崎奉行所の役人が船改めをし、加古郡本庄村の浅五郎、潰太郎、甚八、喜代蔵等は、お調べがありました。
 調べが終わると、10人は、それぞれ出身地によって、所属する領主のもとへ引き取られました。
 播州加古郡の本庄村の4人、浅五郎、清太郎、甚八、喜代蔵が、姫路藩に引き渡されたのは、安政元年11月23日でした。
 姫路に帰った四人は、家族と面会の喜びを分かち合ういとまもなく、こんどは姫路藩から、長々と調べられ、それが終わるのは、翌安政二年(1855)2月14日のことでした。
 その記録が、「嘉永三年遭難漂流人口書(くちがき)」です。
 この体験記録は、播州の人々にはまことに珍奇にうつり、「写し」によってかなり広く読まれたようです。
     大型船(速鳥丸)建造へ
 秋元安民も、記録を読んで「漂流民の知識を利用する最良のチャンスだ」、ひざをたたいたに違いありません。

 安民は、本で読んだ知識はあっても、実物は知りません。
 一方、浅五郎、清太郎ら漂流民は、外国船をふんだんに見てきているし、実際に乗り、細かい内部まで体で触れています。
 さらに、彼らは船乗りでもあったので、操作に関心も払っていました。
 「安民の理論と補い合えば何とかなるだろう」と、藩当局に大型船の建造を申し出ました。
 藩も大いに乗り気となり、さっそく取りかかるよう安民に命じました。
 秋元安民は、安政四年(1857)、「異国船形新船製船肝煎(きもいり)」という役に任命され、いよいよ四人を使い、室津(竜野市津町)で建造に取りかかりました。
 このとき、本庄村の浅五郎ら四人は苗字帯刀を許され、二人扶持(毎日一升の玄米)を与えられて藩に採用されています。
 この船は、翌安政5年6月24日に完成し「速島丸(はやとりまる)」と命名されました。(no4581)
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照

  *挿絵:清太郎が描いた速鳥丸

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播磨町さんぽ(18) 海に生きた船乗りのはなし(18)秋元安民(2)・大型船をつくろう

2019-03-25 13:27:54 | 播磨町さんぽ

  

     秋元安民(2) 

           嘉永六年・幕府、大型船建造を許可

  江戸の学者は、洋学色が濃厚でした。
 そんな中で、知識欲の盛んな安民が、洋書に親しんだのも当然でした。
 姫路藩に尊王壌夷を持ち込むことになった安民ですが、一口に尊攘といってもいろんな立場がありました。
 安民などは、時局に敏感だったので、あまりに保守的な姫路蕃内の眠った空気を打開しようと、尊壊をとなえたのだと思われます。
 あくまで「尊王」に重点があり、せっかちな攘夷に走る気持ちは、なかったのでしょう。
 外国のよいところを取り入れようという気持ちがなければ、西洋型帆船を作る考えなど藩に進言するはずはありません。
 この安民の提案は、安政二年 (1855)のことで、たいへんタイムリーなものでした。
 というのも、三年前の嘉永六年(1852)、幕府は鎖国のため禁じていた大型船の建造を許可し、諸藩は争って造船に力を入れるようになっていました。
 姫路藩も、海上の防備や物資輸送に優秀な船が欲しいところだったのです。
 おりもおり、実に都合のよい偶然が重なります。
 あの栄力丸の漂流人が、五年の漂泊ののち、たっぷり西洋船の知識を持って播州へ帰ってきたのです。彼らは船乗りです。大型船の知識をいっぱい持って帰って来たのです。(no4580)

*写真:漂流者が初めて見た異国船

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播磨町さんぽ(17) 海に生きた船乗りのはなし(17)、秋元安民(1)・仁寿山黌と河合道臣と秋元安民

2019-03-24 06:25:43 | 播磨町さんぽ

            秋元安民(1)

 きょうのブログに、播磨町は登場しません。
 少し遠回りをします。河合道臣と秋元安民の話です。後に彼らと播磨町が繋がってきます。
    仁寿山黌と河合道臣と秋元安民
 いまの姫路市阿保に、仁寿山黌という学校がありました。今は、校舎の壁の一部と井戸のあとがあのこるだけです。

 これは、姫路藩の名家老・河合道臣(後の寸翁)が、文政六年(1823)に作った学校です。
 道臣は、天明六年(1786)から天保六年(1835)まで、実に50年近くの長きにわたり、姫路藩の家老として財政建てかかわり、みごとに借金ゼロに成功しました。
 この功績により、天保三年(1832)に家老上座という藩の最高職の待遇があたえられました。
    

 秋元安民ですが、少年時代、この仁寿山黌で学び、学者として立つ素地はこのときに養われたと思われます。
 仁寿山黌は、先に紹介したように河合道臣(寸翁)が藩主の許し得て建てた私立学校で、藩立の学校としては、好古堂がありました。
 両校は、どちらも藩士の子弟を教えましたが、仁寿山黌は、他国・他藩の者の入学も許し、「家意識」の強い好古堂より自由な校風がありました。

「尊王攘夷」の思想を持つ者も生まれました。
 おのずから両校の対立が深まりました。
 道臣(寸翁)のなくなった一年後、藩内の思想統一のためにもよくないというので、天保十三年(1842)仁寿山黌は廃止され、藩の学校は好古堂一本となりました。
 それはさておき、仁寿山黌の廃校の時、秋元安民は19歳になっていました。
 保守的な好古堂で学ぶ気持ちになれなかったのでしょう。いったん脱藩の形で諸藩を旅行しながら学問を続けました。
 ところが、その安民に転機が訪れました。
 嘉永年間(1850ごろ)30歳のころに、姫路藩が好古堂に新しく国学寮を設けることになって、藩の命令で呼び返され教授となりました。
 当時、黒船のうわさもさかんでした。姫路旛でも時代に遅れないための学問が求められたのです。
 安民は、江戸にいたとき、国学だけではなく、洋書にも手をつけていました。いつの間にか西洋形帆船の構造なども研究していたのです。
 少しだけ予告です。
 秋元安民は、播磨町の遭難者の見聞をもとに写真のような西洋式船を建造します。(no4579)
 *挿絵:秋本安民、播磨町の遭難者の協力で造った西洋式の船、恵美酒天満神社(姫路市飾磨区)の絵馬
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照

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播磨町さんぽ(16) 海に生きた船乗りのはなし(16)、光塩丸の漂流(2)・カタンドアネス島の風景

2019-03-23 08:37:53 | 播磨町さんぽ

 徳三郎(東本庄村)は、フィリピンへ漂流しました。そこで、見たもの・聞いたことを記録しています。
 『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)から、その一部を紹介させていただきます。
    フィリピンへ漂流
 光塩丸が漂着したときは、スペインによって領有されていた時代でした。

 もう船は使えないほど壊れてしまいました。

 船を捨て上陸した島の村は、バカマノといい、(安政6年・1859)5月21日までこの地の村役人の世話になり滞在しました。
 島の首長は、カベタンビリシヤノという名で、30里離れたビラに居住していたといわれています。
   米、年に二度作
 食べ物は、米・鳥類・卵・豚・牛肉・魚が多く、野菜が少なかったことと「米・年に二作取、年中寒むき日、一日もなし。萬木の実なりつづけの所なり」と、記しています。

 彼らは迎えの船でビラへ連れていかれ、そこで、10日間近く滞在し、次いで海上7日間の距離にあるアルバイへ送られました。
 アルバイの港は、かなりの船が出入りし活気に満ちていました。
 この地の長は、ドノホアンという人で、漂流人に対して極めて親切な扱いをしてくれました。
 特に大きな船を持っていて、マニラへの便船を世話してくれ、「魚・ぶた・木の実・塩から・さとうきび・いろいろ仕入くださる」など、終始好意にみちていました。
 安政6年(1859)5月29日、この地から船で出帆、6月10日マニラに帰帆した彼等は、21日まで船内に置かれたあと、上陸を許されました。
 そして、川中の島にある寺へ収容されましたが、食べ物については「一切みな塩からい、味にがし」と、初めて不平をもらしています。
    日本へ帰りたい
 故国が恋しくなりました。「はやく日本へ渡しくだされ・・・」と、15人もの大将へ頼みました。

 彼等は、やがてチイナエモイチヤンチユウという所の中同人役所へ預けられることになります。
 そして、空家一軒、生活用具、さらに毎日銀銭1枚が与えられました。
 こうして、10月23日まで世話を受けたあと、英国船アンホロキス号に便乗させてもらい、11月13日アモイ島、そして12月21日同港を出帆した船は、一路長崎に向かいました。
 船上で新しい年を迎えた一行は、やがて8日には五島列島を見ています。浦賀を出て、実に1年2か月ぶりにみるなつかしい祖国でした。(no4578)
 *『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)参照
 *地図:カタンドアネス島

 

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播磨町さんぽ(15) 海に生きた船乗りのはなし(15)、光塩丸の漂流(1)・徳三郎(本庄)の遭難

2019-03-22 09:08:52 | 播磨町さんぽ

 播磨町の郷土史家であった井上朋義先生は、『光塩丸、フィリピン漂流記‐徳三郎異国見聞録』(昭和58年)を出版されています。
 「光塩丸の遭難」は、その著書を参照させていただきます。
     光塩丸の漂流
 安政5年(1858)年9月、播磨赤穂藩領坂越浦(さこしうら)を出帆した光塩丸は1400石積で、赤穂加里屋の三木長之助の持船で、江戸へ運ぶ塩を満載していました。
 そして、無事江戸に入り、品川北新堀喜多村富之助方へ荷揚げしました。
 再び帰りの荷を積んで浦賀の港に入りました。
 普段ならば、すぐに浦賀をあとにするところでしたが、そこで奥州石巻からの売米の積みまわしを請け負いました。
 これが、光塩丸の運命を大きく変えることになったのです。
 不案内の航路のため、3人の水主を雇い、11月10日出航し、石巻へ向かう途中、鹿島灘にさしかかったときでした。猛烈な嵐に巻き込まれたのです。
 そして、荒天により舵をこわされた船は、浸水の危険にさらされ、積荷を捨てて、沈没を避けようとしましたが、帆走能力を失った船は、風と流れのままにあてどなく漂い流れるだけになってしまいました。
     徳三郎(東本庄村)、記録を残す
 光塩丸は幸いにして、安政6年正月、カタンドアネス島(フィリピン群島の一つの島)に漂着しました。

 かくして、この島で約10カ月世話になり、英国船、アンホロキス号に便乗して、アモイを経て長崎に帰着することができました。
 実に1年2カ月ぶりの帰国でした。
 乗員15名が1人も欠けずに帰国出来たのは、栄力丸に比べて奇跡的でした。
 同船が難破し50余日の間漂流し、そして1年間の異国生活に耐えて、一人の犠牲者も出さずに無事帰国できたのは、乗組員のチームワークの良さの結果だと思われます。
 乗組員のうち、播磨町出身者は、徳三郎(東本庄村)1人でした。
 徳三郎は、絵心があったのでしょう、島の生活、民俗、唐人屋ヨーロッパ各国人等異国風景を紹介しており、貴重な記録となっています。(no4577)
*『光塩丸、フィリピン漂流記―徳三郎異国見聞記』参照 

*挿絵:徳三郎が描いたフィリピンのある町の風景・(『怒涛を越えた男たち』・播磨郷土資料館)より

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