地方史で思うのですが、記録に残る史料だけでは、その歴史の全体像が浮かびあがらないことが多いようです。
全体像を記録した史料を期待しても無理です。「想像」で補う必要があります。
きょうもそんな「国岡の歴史」です。
加古新村のような村を!
寛文2年(1662)に国岡新村が誕生しました。
次の会話は、それに先立つ数年前の村役人らしい百姓の会話です。
(現在の「愛宕」の名称は愛宕神社が勧請された後の名称ですが、その場所を愛宕として話を進めます)
農夫A:愛宕さんの辺りは水が少ないところだが、広いところが荒地でそのままですな。
農夫B:あそこに水は引けないものでしょうか。そうした、らじょうさん(たくさん)の作物ができますやろに。
農夫A:加古新村をみてみなはれ。あないな高とこに村をつくったやないですか。
農夫B:それに、姫路の殿様もずいぶんのり気でしたな。
農民A:わし等も愛宕のあたりの荒地を開発しませんか。村のもんに、何回もこの話をしましたら、「あの辺は水がのうてダメ」と話になりません。
わしらも、加古村の沢兵衛さんのような立派な計画を作り藩にお願いしてみましょう。
そうしたら村のもんもその気になりますわ。今のままでは何時までも貧乏のままです。
(加古新村の開拓については「稲美町探訪(16~19)・加古新村誕生」をご覧ください。
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二人の百姓は、国安村の庄屋:彦太夫と岡村の庄屋:安右衛門です。
これは記録にもとづく、会話ではありません。勝手な想像です。
開発は自普請で
二人の庄屋は何回となく、村の者に具体的に計画を話したことでしょう。
ついに、綿密な計画をつくり藩に「開発願い」を提出し、開発の許可書をえました。
しかし、加古新村の開発と違っていたのは、「開発は許可する。ただし、開発に伴う費用は自分たちの負担(自普請)とする。その他のことに関しては援助を惜しまない」というものでした。
入が池の問題・藩権力については先に説明(「国岡の歴史・6」)しましたのでそれをお読みください。
村誕生には壮絶なドラマが!
新しい村をつくり田畑をつくるには、まず池・溝を造ることになります。
池が造られた年代を『稲美町史』から拾ってみます。
城の池・山城池・上棒池・下棒池・千波池・入ヶ池の改築が国岡新村誕生の寛文年間となっています。
その他の費用も要ったと思いますが、とりあえずこれらの池・溝を造るためだけでも莫大な労力と費用が必要です。
これらに対して、加古新村と異なり「自前の労力と費用で完成させろ」というのですから、その苦労は想像できます。
国岡誕生の裏には記録にはない壮絶なドラマが展開されたはずです。
*写真:現在改修中の千波池(せんばいけ)