ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(320):国岡の歴史(50)・国岡の歴史(一部)終了

2010-09-22 10:20:02 |  ・稲美町国岡

 国岡の歴史(一部)終了

「国岡の歴史」が50回になりました。

この辺で「国岡の歴史(一部)を終わり、次の話題へ進みたいと思います。

「国岡の歴史」の最終回は、彼岸花のある風景をバックに国岡の風景を載せ「国岡は岸花とコスモスの中にあった・・・」とでも、かっこよく書いて終わりたかったのですが、今年の9月ばかりは夏をひきずり、彼岸花も・コスモスも秋を忘れているようです。

  国岡の歴史(二部)を続けます。でも・・・

2c2a3050 今回の「国岡の歴史」を一部としておきます。

というのは、「国岡土地改良区」には、今回紹介できていない江戸時代を中心とした古文書が多数保存されています。

その一部は紹介しましたが、ほとんどが紹介できていません。

「国岡の歴史(二部)」では、これらの史料を利用して、さらに国岡の歴史を深めたいと考えています。

これからが、「国岡の歴史の本番」です。

でも、ここで問題があります。

古文書がよく読めないんです。

どなたか、読んでいただけないでしょうか。

そのため二部の紹介までには、時間がかかると思います。

ご了承ください。

*ご意見・ご感想をqq7z6tn9@mist.ocn.ne.jpまでお寄せください。

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稲美町探訪(319):国岡の歴史(49)・村誕生には壮絶な歴史が!

2010-09-21 10:22:32 |  ・稲美町国岡

地方史で思うのですが、記録に残る史料だけでは、その歴史の全体像が浮かびあがらないことが多いようです。

全体像を記録した史料を期待しても無理です。「想像」で補う必要があります。

きょうもそんな「国岡の歴史」です。

加古新村のような村を!

Hirokazu_109  寛文2年(1662)に国岡新村が誕生しました。

次の会話は、それに先立つ数年前の村役人らしい百姓の会話です。

現在の「愛宕」の名称は愛宕神社が勧請された後の名称ですが、その場所を愛宕として話を進めます)

農夫A:愛宕さんの辺りは水が少ないところだが、広いところが荒地でそのままですな。

農夫B:あそこに水は引けないものでしょうか。そうした、らじょうさん(たくさん)の作物ができますやろに。

農夫A:加古新村をみてみなはれ。あないな高とこに村をつくったやないですか。

農夫B:それに、姫路の殿様もずいぶんのり気でしたな。

農民A:わし等も愛宕のあたりの荒地を開発しませんか。村のもんに、何回もこの話をしましたら、「あの辺は水がのうてダメ」と話になりません。

わしらも、加古村の沢兵衛さんのような立派な計画を作り藩にお願いしてみましょう。

そうしたら村のもんもその気になりますわ。今のままでは何時までも貧乏のままです。

(加古新村の開拓については「稲美町探訪(1619)・加古新村誕生」をご覧ください。

・・・・

二人の百姓は、国安村の庄屋:彦太夫と岡村の庄屋:安右衛門です。

これは記録にもとづく、会話ではありません。勝手な想像です。

   開発は自普請で

二人の庄屋は何回となく、村の者に具体的に計画を話したことでしょう。

ついに、綿密な計画をつくり藩に「開発願い」を提出し、開発の許可書をえました。

しかし、加古新村の開発と違っていたのは、「開発は許可する。ただし、開発に伴う費用は自分たちの負担(自普請)とする。その他のことに関しては援助を惜しまない」というものでした。

入が池の問題・藩権力については先に説明(「国岡の歴史・6」)しましたのでそれをお読みください。

   村誕生には壮絶なドラマが! 

新しい村をつくり田畑をつくるには、まず池・溝を造ることになります。

池が造られた年代を『稲美町史』から拾ってみます。

城の池・山城池・上棒池・下棒池・千波池・入ヶ池の改築が国岡新村誕生の寛文年間となっています。

その他の費用も要ったと思いますが、とりあえずこれらの池・溝を造るためだけでも莫大な労力と費用が必要です。

これらに対して、加古新村と異なり「自前の労力と費用で完成させろ」というのですから、その苦労は想像できます。

国岡誕生の裏には記録にはない壮絶なドラマが展開されたはずです。

*写真:現在改修中の千波池(せんばいけ)

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稲美町探訪(318):国岡の歴史(48)・国岡の水路

2010-09-20 13:16:35 |  ・稲美町国岡

5b975e78 国岡の水路は「国岡の歴史(18)」でも取り上げています。一部変わっていますので、きょうは「国岡の水路の改訂版」です。

 ・・・

明治から大正にかけて国岡では3つのため池が造られました。

明治初期には權ノ池が造られ、そして、淡山疎水の整備により、明治33年に美谷池が大正4年には琴池が築造されました。

それに伴い、水の流れも一部流を変わりました。

 ・・・

 権ノ池・美谷池の場所については「国岡の歴史(24)」で確かめてください。

*美谷池(昭和51年、県立養護学校用地として売却)、権ノ池(昭和59年、稲美町スポーツセンターとして売却)、は埋め立てられ、そして寛文(1661216633)年間に造られた山城池も平成11年に埋め立てられ、現在商業施設となっています。

現在、図のように国岡土地改良区所有の池(赤く塗った池)は下棒池(しもぼういけ)・上棒池(かみぼういけ)・愛宕池(あたごいけ)・千波池(せんばいけ)・城ノ池(じょうのいけ)・琴池(こといけ:国安と持合)・新池(しんいけ:国安と持合)です。

(琴池の4割、新池の5割が国岡の管理)

   歴史を支えた水路

そして、国岡の池は、図のような水路で結ばれています。

現在は、東播磨用水により水路の水の心配はほとんどなくなりましたが、国岡の歴史は、まさに水をめぐる歴史でした。

これら水路は池と一体で国岡の歴史をつくった大切な血管の役割を果たしてきました。

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稲美町探訪(317):国岡の歴史(47)・邪推

2010-09-19 07:31:09 |  ・稲美町国岡

愛宕神社の境内にきています。

現地にいると、いろいろ考えたり、想像したりします。

次のことも、その一つです。

資料の裏づけがないのでないので、きょうの話題は「コーヒーブレイク・邪推」としておきます。

皆さんは、どのようにお考えになりますか。

   愛宕神社のこと

177 「国岡は、岡村の庄屋・安右衛門と国安の庄屋・彦太夫が中心になり開発した新田村です。

そうであるなら、なぜ国安村の天満神社を国岡新村の氏神として勧請しなかったのだろうか?」ということです。

ともかく、寛文二年(1662)に村が誕生し、山城国(京都)愛宕山より愛宕神社を勧請しています。

そして、国岡新村の開発人であった安右衛門が堂守となっています。

    4 つ の 邪 推

新田ができた時、まず氏神様をつくります。

その時、彼らの出身地の氏神様を勧請するのが一般的です。

国岡の場合、国安村と岡村の庄屋が中心になり国岡新村を開発しているので、国安村の天満神社を勧請してもよさそうなものです。

そうはならず、愛宕神社を勧請しました。なぜでしょうか。

次のようなことを考え(邪推)てみました。

       国岡新村は国安村と岡村の庄屋が中心になり開発した新田村であるとの記録から村人のほとんどが国安村・岡村からの入植と考えてしまいがちですが、近隣の多くの村々からも多数入植(記録は何も語っていません)して、氏神様を天満神社とすることには合意が得られなかった。

       愛宕さんは、国岡新村の開発人の一人であった安右衛門の個人的な信仰であった。

       京都市の最高峰、愛宕山(932メートル)は都で最初に朝日を受けるところにあります。国岡の愛宕神社付近も稲美町の高いところに位置し、神聖な場所に愛宕さんを勧請した。

       前号と関係するのですが、新田村が誕生し、次に寺や氏神さんを建設します。お金がない!愛宕さんは神仏習合(神仏混交)の霊山でした。とりあえず、愛宕神社一社で神も仏も間に合わせた。  

そのほか、どんなことをお考えになりますか。推理ください。

*写真:春の祭り(2月)

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稲美町探訪(316):国岡の歴史(46)・神仏混交

2010-09-18 07:49:25 |  ・稲美町国岡

愛宕神社の境内を動き回りました。

現地にいると他のことを考えないのか、いろいろなことが目につきます。

    神仏混交

Hirokazu_126 愛宕神社では、まず神仏混交について考えてしまいました。

それほど愛宕神社は、神と仏の混淆が鮮明に残されているのです。

愛宕神社というのですから「神社」です。

もちろん、「日本の神々は古くから仏教の仏が仮の姿で現れたもので、神も仏も同じものである」とする神仏混交の考えが主流でした。

「権現」という言葉をお聞きになったことがあると思います。

「權」は「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の姿をとって「現れた」という意味です。

    神仏分離令

Hirokazu_115_2 明治元年(1868)、明治政府は、この神仏混交の考えはまちがいであるとし、神仏分離を命令し、神社を擁護しました。

国安天満宮内にあった円光寺を中村へ移動させたのはその典型的な例です。

一部には廃仏毀釈の激しい運動が起こりましたが、この神仏分離、特に廃仏の運動は徹底されませんでした。

そのため、多くの寺・神社には、その名残があります。

それにしても、国岡の愛宕神社には、仏教関係の建物・石造物が多く「残りすぎている」ようです。

かつて、日本宗教が神仏混交であったことを示す「サンプル」のようです。

愛宕神社には仏教関係の石造物・建物として、行者堂、地蔵堂、宝篋印塔(享保八年・1723)があり、鳥居に「享保十三年(1728)戌申・念仏講中」の銘が刻んであります。

*写真上:行者堂、下:宝篋印塔

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稲美町探訪(315):国岡の歴史(45)・庚申信仰

2010-09-17 08:03:17 |  ・稲美町国岡

「稲美町探訪(152)」で庚申信仰(こうしんしんこう)についてとり上げました。

稲美町を散策していると、稲美町は、県下でも但馬・淡路とともに庚申信仰が盛んな土地柄のため、しばしば「青面金剛(しょうめんこんごう)」の碑に出会います。

江戸時代、庚申信仰では、もっぱら青面金剛が拝まれるようになりました。

でも、不思議なことに国岡を歩いていると「庚申さん」に出会わないのです。

先日、愛宕神社に出かけました。

すると、本殿の東に、他では見られないような立派な庚申堂(写真)がありました。

やはり、国岡新村も庚申信仰が盛んな村でした。

庚申信仰(こうしんしんこう)

Hirokazu_120  江戸時代、ずいぶん盛んであった。庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。

 庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われました。

 コウシンさんは、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといいます。

 そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像をおがんだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

 いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむと言う行事に変っていきました。

庚申の夜のザワメキが聞こえてきそうです。 

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稲美町探訪(314):国岡の歴史(44)・国岡郵便局

2010-09-16 08:51:09 |  ・稲美町国岡

   国岡郵便局(明治14年以前の郵便局)

3fb0db32_2   稲美町域内では、明治14年までに郵便局が、すでに国岡新村に設置されていました。

播州葡萄(ぶどう)園の記録によれは、同園から要請し、国岡郵便局および農政局長の双方から、「新たに印南新村に郵便局を設置されるよう」との申請がなされました。

その申請の内容は、「(葡萄園のある)印南新村には郵便局がなく、郵便物は国岡新村郵便局を経由して配達されます。

「葡萄園は、国岡新村より、ずいぶん遠いので大変不便をしています。・・・そのため印南新村に新しく郵便局を設置して欲しい・・・」というものです。

この申請に対して、明治14年“了承”の回答が丸尾茂三郎へ寄せられ、印南郵便局が設置されました。

したがって、葡萄園の記録から、国岡郵便局が明治14年にはすでに設置されていたことが分かります。

現在の稲美町域内では最も古い郵便局です。

しかし、その詳細や、廃止時期等はあきらかではありません。

国岡郵便局については『稲美町史』(p367368)をご覧ください。

明治37年になって加古新郵便局が設けられました。

これが現在の稲美の郵便局の前身です。

*明治25年頃の郡長・北条直正から魚住逸次氏への葉書(『稲美町歴史』より)

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稲美町探訪(313):国岡の歴史(43)・国安天満神社の手水鉢

2010-09-15 08:58:46 |  ・稲美町国岡

国安天満神社本殿に向かって右前に手水鉢(ちょうずばち・写真)があります。

この手水鉢には、正徳(しょうとく)元年(1711)の銘があり、国岡新村の忠太夫以下13名の名前が刻まれています。

正徳元年は、天満神社にとって記念することがあった年なのでしょうか。

特別なことはなさそうです。

以下は、勝手な想像です。

   国岡新村の13名が天満神社に手水鉢を寄贈

Hirokazu_090 正徳元年(1711)には特別なことはないようなのですが、10年前の元禄14年(1701128日に本殿が再建されています。これは現在の社殿です。

石でできた手水鉢は、火災やその他の災害で簡単になくなったり、壊れたりするものではありません。

元禄元年にピカピカの社殿が再建されたのですが、手水鉢はふるいままで使っていたのでしょう。

新しい社殿に不似合いな代物ではなかったかと想像します。

それでも、10年ばかり使っていたのでしょうが、「手水鉢を新しいものにしては、いかがなものだろうか・・・」という声が氏子を中心に持ち上がったのではないでしょうか。

そこで、国岡新村の13名の有志が天満神社に新しい手水鉢を寄贈したと想像するのです。

    なぜ、国岡新村か

と言うのも、国岡新村は寛文2年(1662)、国安村の庄屋・彦太夫と岡村の庄屋・安右衛門が中心となり開発された新田村です。

当然、国岡新村には国安村・岡村の出身者も多かったことでしょう。

国安天満宮に手水鉢を寄贈し、国岡新村の意気を示そうとしたのも自然でなかったかと思うのです。

寛文2年に国岡新村が誕生したのは、正徳元年の、わずか80年ばかり前のできごとでした。

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稲美町探訪(309):国岡の歴史(42)・稲美町商工会

2010-09-02 08:27:22 |  ・稲美町国岡

稲美町商工会を国岡の歴史として紹介します。稲美町商工会の住所は、稲美町国岡1-1です。

商工会について、詳しくは『稲美町史』(p408410)をご覧ください。今日の記事も『稲美町史』をお借りしています。

  稲美町商工会

Hirokazu_027 戦後の急激な商工業の発展にともなって、昭和30年代(昭和35年商工会法が制定)になって商工会結成の機運がたかまってきました。

しかし、商工会の組織は、当時会員270名以上を必要とすることになっていて、当時としてはまだ単独の商工会結成の域にたっしていませんでした。

そのため、昭和361月にいたって、まず、加古川商工会議所稲美支所としてスタートしました。

その後、次第に会員数も増加して、昭和43年に単独の稲美町商工会が結成されました。

その間の経過は次のようです。

昭和36年1月  加古川商工会議所稲美支部結成

昭和395月  稲美支所単独事務局設置

昭和42年5月  稲美町工業会・商業会結成

昭和43年4月  稲美商工会設立

稲美町商工会は、工業・商業・農業の促進だけでなく、稲美町の文化の発展にも力を入れておられ、本年(平成223月『元気まち ふるさと いなみ』を出版されました。

<お知らせ>

『稲美町探訪』は、資料収集のため2週間ほどお休みします。その間、別の企画となりますが、ご覧ください。

915日頃より、「国岡の歴史」の続きから『稲美町探訪』を再開する予定です。

*稲美商工会のサイトで『稲美町探訪』をご覧になっておられる方は、10回ほどおやすみになります。

別の企画は「ひろかずのブログ」http://azaleapines.blog.ocn.ne.jp/hirokazu/です。ご了承ください。

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稲美町探訪(308):国岡の歴史(41)・幻の堤出現(琴池)

2010-09-01 08:34:35 |  ・稲美町国岡

   幻の堤が出現!

Hirokazu_029 琴池の水をめぐって国安村と国岡新村の間で水争いがありました。

そのようすは、「稲美町探訪(278)」で紹介したとおりです。

下の記事はその再掲です。

池の中ほどに堤防を築き、水の分配(国岡新村4分・国安村6分)をはっきりさせました。

琴池の堤防は、享保5年(1720)国安村が中堤の普請を申請願い出て、翌年完成しました。

その堤防が琴池の水が少なくなった時に出現します。

先日、琴池へ行ってみました。

いま、堤防(写真)が姿をあらわしています。散歩の途中にでも見学ください。

(堤防は幾度も修理を重ねています)

琴池の水争い

 *(稲美町探訪・276)より

安永7年(177862日、琴池と国岡新村の間で水争いがおこりました。

この水争いを記録する古文書(「琴池水論訴状」国安水利委員会所蔵)は、国安村側の記録によるものです。

そのため、国岡新村を非難する内容になっていることを念頭において、以下の文をお読みください。

   国岡新村が乱暴!

Hirokazu_031 琴池は、国安全村と国岡新村の共同で使用する池で、池は中堤で2分され東は国安村、西は国岡新村が水利権を持っていました。

(安永7年)62日は大雨でした。

国岡新村では寺の早鐘を鳴らし、村中の百姓全員を連れて、琴池に水を取り入れる分石のところへやってきました。

そして、国安村の方へ流していた分石を堰きとめ、水を残らず国岡新村の方へ流すようにしました。

国安村の池守がそれを見つけ、大勢の中へ飛び込んで堰を切ろうとしましたが国岡新村の者が分石を壊し、土俵で堰をしてしまいました。

国岡新村の村役人が乱暴を働いたので、どうしようもできません。

琴池という集落は、国安村の枝村で本村と離れており、全部で20軒ほどの村で、少人数ではかなわないので本村の庄屋へ連絡しました。

すぐ国安村の庄屋が、国岡新村の村役人と掛け合うつもりで来たところ、国岡新村の村役人は引き上げて、後には人足ばかりが残っているだけでした。

さっそく堰を取り払ったのですが、半日も国岡新村の方に堰を造り流していたため、堰を取り払っても国安村の方へは3分、国岡新村の方へは7分が流れるようになってしまいました。

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稲美町探訪(307):国岡の歴史(40)・稲美町の中心地に変貌

2010-08-31 07:56:23 |  ・稲美町国岡

85f8115d_2  昭和30年(1955331日、3つの村が合併して稲美町が発足しました。

町役場は、稲美町国岡の旧天満役場(国岡536番地の2)をそのまま充当することにし、加古・母里の旧役場をそれぞれ加古支所・母里支所としました。

その後人口の急増などにより、手狭になり、また庁舎が老朽化したため、新築移転することが決まりました。

移転先は、国岡135番地1で、昭和52年着工し、翌年53年(19878月に竣工しました。

新庁舎の位置は愛宕山の西部です。

庁舎の周辺では中央公民館・商工会館・有線放送農業共同組合などの施設がすでに建設されていて、その後、コミュニティセンター・中央公園・町民グラウンド等が建設され町の中心地となりました。

   稲美町の中心地に!

私はいま、大正12年測量の地図をながめています。

愛宕山から稲美町庁舎辺りには人家はほとんどありません。

昨日のブログをご覧ください。

このあたりは、高地で水がなく農業の適地ではなかったのです。

そのため、国岡新村ができた後も、開発の手が入らず、そのままの状態で、開発から残された場所でした。

時代は、変わりました。

稲美町は、衛星都市として人口が急増し、役場周辺はずいぶん変わりました。

*注:赤丸が稲美町旧役場

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稲美町探訪(306):国岡の歴史(39)・残された開発

2010-08-30 11:04:49 |  ・稲美町国岡

  水の流れ

Aef8e0f7 印南野台地は、大まかに言えば、雌岡山辺りを頂点にし、西にそして南に低い地形をつくっています。

これは、六甲山の変動(六甲変動)に伴う現象です。

この地形のため、雌岡山辺りに水があれば、水は印南野台地を自然に流れ下り、池に水をため台地を潤しました。

しかし、挿絵をご覧ください。

国岡あたりついてみて見ましょう。

印南野台地を流れ下った水は、愛宕山辺りの山塊に妨げられ、水は北へ、そして南へと分かれて流れました。

国岡(新村)は、この愛宕山を中心とする山塊の西部に広がっています。

そのため、国岡(新村)は水を得るためには、いったん「入が池」に集まった水を千波池に流し、利用しなければなりません。

入が池は、北山村所有の池のため解決しなければならない問題がたくさんありました。このことは、以前に紹介したとおりです。

  残された開発

それでも、千波池より高い場所には水が流れてくれません。

国岡新村は、寛文年(1662)に誕生しましたが、愛宕山あたりの高いところは手つかずのままでした。

その後も、愛宕山から現在の町役場あたりには、あまり開発の手が入っていません。森林のままで残されました。

この辺りに開発が進み、風景が一変するのは最近のことです。

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稲美町探訪(303):国岡の歴史(38)・虫送り

2010-08-26 21:14:53 |  ・稲美町国岡

今日の記事も『稲美町史』から多くをお借りしています。

・・・・

愛宕神社の夏祭りです。

愛宕神社には常任の宮司はいませんが、元、高松国三郎、厚見弥惣松の両人が先祖から引き続いて奉仕していました。

祭日には、「野谷屋嘉右衛門池尻中」と書いた二本の幟を立てて、また提灯を釣って飾り、山伏を呼んで護摩を焚き祈祷をしました。

余興として村芝居をしたり福引をしたりしました。

屋台店も多く出て賑わいました。

   虫送り

C5067d3 祈祷が終わった後、夕方暗くなってから残り火を松明(たいまつ)につけ、村の子どもたち総出で、国岡と中村の村境まで虫送りをしました。

火に誘われて来た虫を松明とともに焼き払うのです。

唱える言葉は、全国共通のようで「実盛(さねもり)さんのお通りじゃ。よろずの虫よ、お供せえ・・・!」とわめきながら歩きました。

虫送りの挿絵は『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)から借りしましたが、挿絵の先頭を行くのは、藁で作った実盛の人形です。

また、虫除けのお札を作り、各自の耕作畑、村中で1300筆に虫除けのお札をたてました。

*筆(ひつ)・・・土地の一区画を言うときの単位

雨乞いと同じく、この虫除けの行事も昭和に入ってから、あまり行われなくなり、殊に戦後はまったく絶えてしまいました。

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播磨町探訪(302):国岡の歴史(37)・福田春耕

2010-08-26 00:22:21 |  ・稲美町国岡

Inamimachi7_129 国岡の城の池(じょうのいけ)の南に小さな墓地に、立派な碑(写真)があります。

これは福田健次、号は春耕の碑で、その門人達が明治22年(1889)に建てたものです。

この碑(文)の略解が『稲美町史』(p786788)にありますのです、お借りします。

福田健次

福田健次(号:春耕)先生は国岡村の人です。

お父さんは、嘉左衛門といい、先生は二男でした。

幼児より学問が好きで、天保10年(183910月、姫路の仁寿山荘で学び、後に明石藩の儒者・梁田綱介について学びました。

熱心に6年間勉強をし、国岡に帰ってきました。この時、25才でした。

父の嘉左衛門も学問が好きで、村の若い者を長年教えていましたが、春耕は父の後を継ぎました。

丁寧に教えたので、遠くからも多くの人が集まり、家塾は門人で満ち溢れていました。

明治になり、政府は学校制度を充実し、幼い子どもに勉強を教えるようになりました。

国岡でも雙寿校という学校をつくり、春耕をこの学校の先生として迎えました。

明治10年には学区を改め、加古新村・北山村及び国岡村をひとつの学区として「鳴岡校」が置かれました。

その時、春耕は、鳴岡校の先生となりました。

春耕は、優しく、喜びや悲しみを表面に表すような人でなく、生徒は先生によく懐き、10年前後教員として勤めました。

そして、明治14年に、先生は国岡の戸長(村長)に選ばれました。

俳句も嗜みました。

<msnctyst w:st="on" address="『播磨町" addresslist="28:『播磨町;"></msnctyst>

 『播磨町史』は、彼の次の辞世の句を紹介しています。

落栗や 風邪に吹かれて 遂ころび

先生の61才を祝い、教えを受けた者たちが先生に感謝して、明治222月に建立しました。

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稲美町探訪(301):国岡の歴史(36)・旅の道しるべ

2010-08-25 00:11:00 |  ・稲美町国岡

  旅の「道しるべ」

Inamimachi7_126_3 この道標(写真上)は、主要地方道「宗佐・土山線(84号線)」の国岡北の交差点を100メートルばかり西へ行き、道の北側で旧道の入り口にあります。

注意して見るとすぐに見つけることができます。

道標は、おそらく道路工事により、引っこ抜かれてこの場所に移されたのでしょう。

裏側(写真下)を見ると、そのことがわかります。

道標の文字は次のようです。

右 北山大の日向社

             道

左 別府北在家

Inamimachi7_125 少し、補足しておきます。

「右 北山」は、現稲美町天満町北山でしょう。

「大の日向社(ひゅうがしゃ)」は、現加古川市加古川町大野の日岡山にある「日岡神社」のことです。

日岡神社は、明治3年(1870)、その名前を「日向社」から現在の「日岡神社」と変えています。

「左 別府北在家」の「別府」は松の名所で、特に別府の「手枕の松(たまくらのまつ)」は当時の観光の人気スポットでした。

また、「北在家」は鶴林寺のあるところで、鶴林寺もまた人気の観光地です。

この道標は、銘がないので建てられた年代は分かりませんが、江戸時代の後期のものと想像されます。

江戸時代の農民は貧しくて楽しみがなかったと思いがちですが、時にはお寺参り・神社参拝などを兼ね、近在への旅行に出かけたようです。

この道標は、まさにそのための「道しるべ」だったのです。

旅人の、楽しい賑わいの声が聞こえてきそうです。

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