ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(19):常楽寺の石造物(3)・八十八ヶ所霊場仏

2013-10-31 07:02:57 |  ・加古川市加古川町大野

四国八十八ヶ所霊場めぐり
昔は、四国八十八ヶ所霊場めぐりは、全部歩いての巡礼でした。
同行二人(お大師さんと一緒)と書いた笠に杖、白装束の姿になって四国八十八ヶ寺をめぐりました。
    
常楽寺八十八ヶ所霊場仏
011常楽寺(真言宗)の寺域にも八十八ヶ寺を模した88の祠(写真)があります。
それをめぐる小道もあります。
常楽寺境内のこれらの八十八ヶ寺の祠をめぐると、四国八十八ヵ寺を巡るのと同じ功徳があるとされ、近隣の人々は、お大師さんの命日である21日になるとお米一握り、お金を88個持って、お参りに出かけました。
一つの寺の地域はいえ、坂をあがったり下がったりして、お年寄りにはたいへんきつい「八十八ヶ所霊場めぐり」であったのかもしれません。
昔の人は、お大師さんに対する信仰心がずいぶん厚かったためでしょう。
毎月二十一日には沢山のお賽銭があがったといいます。
常楽寺にある八十八の祠は、明治22年(18947月、弘法大師、1.100年を記念して造られたものです。

今から120年ばかり昔のことです。
その後、昭和9年、平成元年にも補修され現代にいたっています。
祠の屋根はすべて丸みを帯びたそりがあり、美しい形で石仏は一体一体が異なったお姿です。
四国八十八ヶ寺のそれぞれのお寺のご本尊のそばに、その隣には、お大師さんが全部の祠に座っていらっしゃいます。
石仏の下の台には文字が刻まれています。 寄進者の名です。
どんな思いでの寄進だったのでしょう。
病気の回復を願ったのでしょうか。
それとも、親よりも先に亡くなった子どものためだったのでしょうか。
・・・・
*『大野史誌』(『大野史誌』編集委員会)参照

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(大野)常楽寺研究(18):常楽寺の石造物(2)・境内の三十三ヵ所霊場仏

2013-10-30 07:43:35 |  ・加古川市加古川町大野

三十三ヵ寺観音霊場めぐり
021 西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。
人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。
第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。
江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三ヵ所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。
     播磨西国観音霊場巡り
しかし、誰でも気軽に巡礼の旅に出ることはできません。
生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものでした。
こで、考えられたのが播磨国の中に、三十三ヵ寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所霊場めぐり」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所めぐり」でした。
このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。
播磨西国にとして、近辺では次の寺々が選ばれています。
稲美町野寺高薗寺(二十四番)、二見町東二見観音寺(二十七番)、平岡町新在家横蔵寺(二十九番)そして尾上町池田観音寺(二十八番)、番外として神野町神野常光寺です。
    郡西国観音霊場巡り
さらに、巡礼しやすい霊場巡りとして、加古郡内に三十三か寺の巡礼のための寺が決められました。
これが「郡西国三十三札所(郡西国とも言う)」です。
   常楽寺境内の西国三十三ヵ所霊場仏
さらに、手軽な霊場巡りとして、寺の境内に三十三ヵ所霊場がつくられました。
これなら、誰でも、気軽に参拝ができます。
常楽寺の境内には、写真のような三十三ヵ所霊場仏がつくられました。
常楽寺へ参拝の時に、お参りされてはいかでしょう。
*写真:常楽寺境内の三十三ヵ所霊場仏

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(大野)常楽寺研究(17):常楽寺の石造物(1)・十三重の層塔

2013-10-29 07:36:03 |  ・加古川市加古川町大野

   常楽寺の十三重の層塔

008 この十三重の層塔は、常楽寺本堂の東の茂みの中にあります。

基礎には何の装飾もありません。

塔身の軸部に種字があるだけです。

銘は、風化によりほとんど判読できません。

現在の層塔は、十層までの各層には、ほとんど破損がありませんが、上段の二または三層は欠失しており、急に細くなっています。

相輪部は、後の補修で不似合いです。

   竜山石製

   高さ 約5メートル

   銘文 □□(正中?)二年乙□□□□

   *銘は現在、風化のためほとんど判読できません。

この十三重の層塔について、『加古川市史(第七巻)』は、「・・・全体としては、なおよく古調をとどめているが、・・・・おそらく(鎌倉時代)後期の中ごろのものとしてもややおそく、1325年頃の像立と推定してほぼ誤りがないであろう・・・」としています。

当然ですが、寺院の石造物は単なる飾りではありません。何らかの願いが込められて造られています。

この層塔は、祖先の菩提のためでしょうか、それとも受戒等の記念でしょうか?

   (蛇足)偶数・奇数

蛇足を書いておきます。十三(奇数)という数字のことです。

層塔は、三・五・七・九・十一・十三・・・と、すべて奇数です。

記念日も、17日、33日、55日、77日、そして99日、そして「七五三」等、みごとな奇数のオンパレードです。

これは、昔の中国の奇数を偶数(陰数)に対し、陽数つまり、良い数字とし、そして月と日が重なる日を縁起の良い日とした習慣によるものです。

奇数のうち9は、最高の陽数であり、9月9日(重陽)は1年中でもっとも縁起の良い日とされました。

1月は、この法則によれば11日ですが、この日は元旦であり特別な日であるため、1月は7日の奇数日を選び節句(人日・じんじつ)としました。

*写真:常楽寺の十三重の層塔

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(大野)常楽寺研究(16):鎌倉時代の中ごろにはすでに創建

2013-10-28 08:18:32 |  ・加古川市加古川町大野

*「常楽寺研究」は、調べながら書いています。そのため順序だっておらず、読みにくいものになっています。現在、常楽寺の歴史の断片を拾い集めています。
後日、整理します。
 文観についても後で続けます。今日は、常楽寺の創建を考えてみます。
   常楽寺は、鎌倉時代中葉(13世紀中ごろ)
               にはすでに創建
加古川史学会発行の機関誌『鹿児(73)』に、歴史学者の今里幾次氏が「加古川市大野出土の中世瓦』と題して投稿されています。
文章を少し変えて、その一部を紹介させていただきます。
    
 日岡山南面に散らばる古瓦 
A7df60e4 ・・・・加古川市加古川町大野の、日岡山の南斜面から山麓の常楽寺へかけての付近から古瓦類を出土することが知られている。
〈昭和2352日〉
・日岡付近の諸遺跡を踏査した際、日岡山西方斜面において、薄手の布目瓦(ぬのめがわら)を採取した。
〈昭和241225日〉
・歴史学者・若林泰氏から「日岡御陵の南の給料から布目瓦とともに鬼瓦片を採取したことを知る。
28113日〉
・船津重次氏宅を訪問。常楽寺の層塔に西北方崖の斜面から出土したという、蓮華文丸瓦を調査した。
291121日〉
・日岡山南西斜面において、弥生式土器とともに巴文軒瓦各破片を採取。
311123日〉
O氏から『古瓦拓本集』を拝借、「加古郡日岡字大日」と題する巴文軒瓦の拓本を複写。

3431日〉
・『加古川市日岡付近の考古学的調査』を編集発行。
3445日〉
・播磨郷土文化協会例会で、ほかに日岡山南面出土の古瓦2点を知る。

・・・・
今里氏は、これら古瓦の一部は、鎌倉時代でも13世紀の中葉を下らない時期のものであるとされています。
ということは、今里氏の報告から鎌倉時代の中葉(13世紀の中ごろ)にはすでに、今の常楽寺の地に寺院があったことがしられます。
*図:日岡山南面から出土の古瓦の拓本:『鹿児(73号)』(加古川史学会機関紙)より

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(大野)常楽寺研究(15):文観はwho?(6)

2013-10-27 06:54:26 |  ・加古川市加古川町大野

今回は、常楽寺から少し話題が離れます。
    
観音菩薩
観音菩薩は、三十三のお姿に変え、私たちの前に現れ、私たちの持つ悩み、願いを聞いてくださる仏様です。
8f6b9086 また、観音様は無限の優しさと慈悲の心を持った仏であり、観音様を真似るとき、心は慈悲にあふれ、怒りや憎しみがきえていくといわれています。
そんな仏様が観音菩薩です。
    
 文殊菩薩
釈迦如来の脇侍(わきじ)の一体は文殊菩薩です。
この仏様は、知恵の仏様です。この場合の「知恵」は英語・国語・数学塔の知恵ではありません。悟りにいたるための知恵のことです。
文殊菩薩は、あらゆるものを服従させる力を示すのでしょうか、獅子に乗っています。
この猛々しい猛獣に乗り、いかなる猛獣も悪魔も征服させることができるということを示しているのでしょう。
あらゆるものを服従させる知恵の力を示すのでしょうか。
  
文観の名前は、殊菩薩と音菩薩から
ここでは、観音菩薩、文殊菩薩の説明が目的ではなく、文観の名前について考えてみます。
文殊・観音菩薩と聞く時「アッ」と驚かれた方もおられたのではないでしょうか。
なんと、文観の名前は、文殊菩薩の「文」と観音菩薩の「観」をとっています。文観は、他に「殊音(しゅおん)」という名前も持っています。
もう、説明する必要はないでしょう。殊音は文菩薩の「殊」と観菩薩の「音」からつけています。
文観は、そのほか「弘真(こうしん)」という名前を持っていますが、ここでは文観・殊音の名前に注目しておきます。
    
文観は自信家?
文観・殊音の名前は、師から贈られた名前なのか、自分が選んだ名前なのか分かりません。
が、文殊菩薩・観音菩薩など仏様からその名前を選んでいる僧の例を他に知りません。
彼の信仰からくるのでしょうが、「チョット恐れおおい・・・」と、思われる名前です。
自分は、観音菩薩と文殊菩薩の再来とでも言いたげな名前なのです。
ここから、彼のエネルギッシュ、自信を持った、負けることが嫌いである人物像が浮かんできそうです。
どうでしょうか。
*写真:文殊菩薩像(鶴林寺所蔵)・『鶴林寺の太子堂とその美』より

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工楽松右衛門物語(78):工楽松右衛門の銅像修復完了

2013-10-26 18:47:50 |  ・まち歩き

先に「工楽松衛門物語」を書きました。
きょうの神戸新聞の東播版に、工楽松衛門の銅像が新しくなったことが取り上げられていました。
「工楽松衛門物語(77)」の続きとして、掲載させていただきます。
   
(工楽松右衛門の)生涯描いた読み物増刷
                
神戸新聞東播版より

Photo高砂神社(兵庫県高砂市高砂町東宮町)の境内に建つ高砂出身の発明家・工楽松右衛門(1743~1812年)の銅像の修復作業が完了した。

市民有志が費用として集めた募金の一部が残ったため、市教委に寄付し、その生涯を描いた読み物「風を編む 海をつなぐ」の増刷費に充ててもらう。
先人の偉業を知ってもらおうと、4千部が市内の学校や公民館に配られることが決まった。(安藤文暁)

松右衛門像は長年の風雨で表面の銅がはがれるなど傷んでいたが、修復により、特殊な液体で磨かれ“肌つや”は見違えるほど良くなった。
市民や県内の帆布業者から寄せられた募金は目標額を上回り、銅像前に石碑を造っても余ったという。
「風を編む‐」は、市教委学校教育課の伊藤健介係長が松右衛門に関する文献を調べた上で物語風につづり、今年3月に刊行した。
すでに小学5、6年や中学1年の学級文庫用に2千部を配ったが、今回の寄付を受け、増刷分を他の学年や公民館にも置くという。
新たに設置された石碑には「この小さな町から『後の世のため』に尽くした工楽松右衛門という人物が出た」などと、「風を編む‐」の一文も刻む。
市教委に寄付金を届けた高砂商工会議所の渡辺健一会頭は「松右衛門の功績を市民が見直し、誇りを持つことにつながってほしい」と話している。

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(大野)常楽寺研究(14):文観who?(5)

2013-10-26 07:52:30 |  ・加古川市加古川町大野

  文観慈母塔は?

先に紹介した。常楽寺の墓地の宝塔の説明です。この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)の説明をお借りします。(文章は変えています)
003 〈常楽寺宝塔〉
  花崗岩製
  高さ   2.35メートル
  銘文  正和四年(1315)乙卯八月 日 
  願主  沙弥道智

この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時慈母をここ葬ったと伝えています。
 『播磨鑑(はりまかがみ)』には、塔下三尺(約90㎝)×六尺(約181cm)石箱を埋め、さらに中に壺と黄金の器とを重ねて三重にし、それには「宝生山常楽寺院主大僧正菩薩比丘広信(こうしん)為母遺骨納之」の銘文があると記しています。
 *広信(こうしん)は文観のこと
 『播磨鑑』の著者、平野
庸脩(ひろのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。
 『播磨鑑』は、版本(出版物)としてではなく、庸脩の自筆本として存在したものです。
 庸脩は、宝暦12年(1699)に書いたとしていますが、早ければ元禄時代に書き始めたと思われます。
 『播磨鑑』が書かたのを元禄時代(16881704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)とは、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたのでしょう。
 『播磨鑑』の説をそのまま信じるのは、少し無理があるようです。
   
 文観伝承
 しかし、地元では文観のことが、伝承として鮮明に語ら信じられていたと想像されます。
こんな伝承が、『播磨鑑』の記述に矛盾を生じさせたのかもしれません。

(以下の会話は、もちろん私のつくりばなしです)
 江戸時代にタイムスリップをしてみます。元禄時代に設定します。
 ・・・・・
 むかしむかし、都にはえらい坊さんがおられそうな。
 文観さんといったそうじゃ。
 文観さんは、わしらの土地(加古川)の出身でな、小さい時、常楽寺で一生懸命勉強され、一浄寺(加西市)へ入られ、さらに都へ行かれ、えらいお坊さんお坊ぼうさんになられたとか。
 そして、衰えていた常楽寺を立派に再興されたそうじゃ。
 文観さんは、お母さんの墓も常楽寺につくられてな。・・・
 *写真:常楽寺墓地の宝塔

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(大野)常楽寺研究(13):文観はwho?(4)

2013-10-25 08:12:46 |  ・加古川市加古川町大野

       文観の誕生は、加古川(加古郡)か・・・
 文観の前半生は、はっきりしません。学者の研究の共通点は、文観は弘安元年(1278)播磨で誕生し、若くして北条寺に入ったといいます。
今日は、この「北条」について考えてみます。
 この北条寺を加西市の北条にある真言宗の酒見寺であるとしている学者も多くいます。
文観は、後に加西市の一乗寺に入ることから、当然のごとく文観は加西市北条生まれとしているのです。
 が、酒見寺と文観とのつながりは、それ以上に発展しません。
 話を変えます。もう一つの「北条」を考えてみます。
   北条郷 (ほうじょうごう)
E1966d91  加古川市の中心部を潤す大きな用水に五ヶ井用水があります。五ヶ井用水は、四つの地域と一村(今福村)に水を供給している用水という意味で「五ヶ井用水」と呼ばれました。
 その地域と一村は、①北条之郷、②加古之庄、③岸南之庄、④長田之庄、それに⑤今福之庄(今福村)の五つの地域です。
 北条郷に注目ください。(図で赤く彩色した地域が「北条郷」の村々)
 北条郷には、大野村・大野新村・中津村・平野村・河原村・溝ノ口村・間形村・篠原村・寺家町 がありました。(大野新村と間形村は、明治22年合併して美乃利村となりました)
 これらの地域名の郷・庄は荘園の時代にさかのぼる古い名称です。
 
常楽寺のある大野村は「北条郷」の集落でした。
 (大野)常楽寺には、西大寺律宗・伊派の石造物・文観の伝承など、後の文観につながることに事欠きません。
 播磨の北条寺は、北条郷にある(大野)常楽寺と考えてよいようです。
文観は、加古川(加古郡)に誕生したことになります。
 *北条郷の村々(赤く彩色した地域が北条郷の村々)
  『五ヶ井戸土地改良区誌』より作成

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(大野)常楽寺研究(12):文観はwho?(3)

2013-10-24 07:22:44 |  ・加古川市加古川町大野

   文観を追いかけよう
B186026b「常楽寺研究を書いておきたい」と思ったのは、この文観が気になっていたからです。
南北朝時代は、日本の歴史を二つに分ける大きな歴史上の転換点でした。
南北朝時代が戦国時代を準備し、その後日本の近世社会が成立したのです。

そうであるなら、南北朝時代の後醍醐天皇のブレーンとして活躍した文観の研究(実像)はされるべきだとおもいます。
 残念なことに、最近文観についての研究は進んでいるようですが、まだまだ定まった実像がありません。
 特に、文観の青年時代の姿になると白紙の状態です。
 この時期、文観は大野常楽寺で過ごしているようなのです。
 この事実だけでも、わかる範囲でもう少しはっきりさせたいものです。
 残念なことですが、なぜか彼の前半生は謎だらけです。今のところ、若い時代の文観を追いかけると、姿は闇にスウッと消してしまいます。しかし、とにかく文観を追いかけましょう。
     
文観と常楽寺
 文観と常楽寺について書かれた書物・論文をとりあえず、三つばかり紹介します。
  ・『大野史誌』より
 正嘉二年(1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一宇だけ残る。その後、小野文勘(12781387)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。
 (注)小野文勧は文観のこと
  ・『日本中世史像の再検討(網野善彦著)』山川出版社より
 文観は、西大寺・般若寺だけでなく、あちこちの他の律宗寺院とも深いかかわりを持っております。
 播磨の法華山一乗寺、あるいは・・・同じく播磨野律宗寺院常楽寺の僧侶であったことは『太平記』などによってよく知られていますが、この寺も叡尊(えいぞん)とふかいかかわりがある・・
   ・「論文・文観房殊音と河内の国」井野上眞弓より
 ・・・・文観は、弘安元年(1278)播磨の国加古郡に生まれ、幼くして北条寺に入り、東播磨と随一と言われた天台宗法華山一乗寺に住んだ。
 この一乗寺は、かつて叡尊が受戒した寺院であった。・・・・
 (注)当時・大野は北条郷に属しており、北条時は常楽寺のこと
*絵:文観(『マンガ・日本の歴史・18(石ノ森章太郎著)』中央公論社より

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(大野)常楽寺研究(11):文観はwho?(2)

2013-10-23 11:37:01 |  ・加古川市加古川町大野

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    文観は、後醍醐天皇のブレーン
 14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、支配に陰りが見え始めました。
 後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、武士から政権を取り戻すため絶好のチャンスだ、と考えました。
 天皇は、まず中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷をおこなわせました。
 後醍醐天皇も自ら護摩を焚いて内裏で討幕祈祷を行いました。
 この計画は、内部の密告もあり計画は発覚し失敗をしてしまいます。
 歴史上「正中の変(1324)」と呼ばれている事件です。
 さいわい、この時は厳しい処罰は行われませんでした。
 こんなことで、へこたれる後醍醐天皇ではありません。
 彼は、元弘元年(1331)年、ふたたび討幕計画を企てましたが、この時も計画は漏れ討幕計画は失敗してしまいました。
元弘の変です。
 正中の変では軽い罪ですんでいたが、重なる事件に幕府は正中の変の時とはと異なり、厳しく臨みました。
 高時も先頭に立ち鎌倉幕府打倒を企てた首謀者の首謀者・日野俊基や僧侶たちを死罪に決定しました。
 天皇も隠岐の島への流罪が決まりました。
     
ある物語<o:p></o:p>

 次の話は物語だと思いますが、付け加えておきます。<o:p></o:p>

 当時「坊主を殺せば七代は、災いがある」と言われていました。<o:p></o:p>

 ・・・・(北条)高時は、寝ているとき夢の中に数千のサルが現れ、「われらは比叡に住む仏の使いである。<o:p></o:p>

 お前たちは僧たちを拷問にかけたらしいが、必ず仏罰があろう・・・」と告げて、消えたといいます。
 こんなことがあり、もともと気の弱い高時は夜中に部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ「獄舎の障子に不道明王の姿がうつしだされた・・・」と、高時に報告しました。
 こんなことがあり、高時は文観等の僧侶の死刑を取りやめ、僧侶たちを遠島の処分にしたと、いう話が語られています。<o:p></o:p>

 文観は鬼界が島(硫黄塔)へ流罪になりました。<o:p></o:p>

 日野俊基(ひのとしもと)は鎌倉で殺されました。<o:p></o:p>

 僧侶の文観は絶えず後醍醐天皇のそばにいて、鎌倉討幕計画の中心の一人でした。
特に、後醍醐天皇の精神的な支えとなっていました。
この文観が、常楽寺に関係していたらしいのです。
*絵:鎌倉幕府打倒祈願中の後醍醐天皇(『マンガ・日本の歴史(18)』(石ノ森文太郎)(中央公論社)より<o:p></o:p>

 

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(大野)常楽寺研究(10):文観はwho?(1)

2013-10-22 14:08:55 |  ・加古川市加古川町大野

     後醍醐天皇の願い<o:p></o:p>

810e1f03 14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配に陰りが見え始めました。
 時の執権の北条高時は、田楽や闘犬にふけり政治を顧みることをしませんでした。
こうした混乱が深まっていた文保二年(1318)、京都では後醍醐天皇(さし絵)が即位します。
「後醍醐天皇は、いまこそ鎌倉幕府を倒し、武士から政権を取り戻すため絶好のチャンスだ・・・」と、考えました。
 天皇は、まず中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷をおこなわせました。
 そして、自らも内裏(だいり)の奥で法衣をまとい護摩(ごま)を焚き、お経を唱えながら幕府打倒の祈願をしたといいます。
 
 後醍醐天皇は、そんな「たくましい」天皇でした。
     殊音(殊)は後醍醐天皇
 
 奈良の般若寺に本尊は、文殊菩薩ですが、傷みが激しく修理のため解体しました。
 
 その時に、体内から墨書銘が発見されました。
 
 注目すべき銘に「殊音」がありました。殊音とは文観(もんかん)のことです。
 
 文観は、教科書には顔を出しませんが、後醍醐天皇の信頼が厚く、後醍醐天皇のブレーンといってもよい僧侶でした。
 
 この文殊菩薩の体内の銘は、他に「金輪聖王御願成就」という銘がありました。
 
 「金輪聖王」は後醍醐天皇のことです。
 
 銘から、この文殊菩薩が造られたのは元亨四年(1324)三月七日ということが分かりました。
 
 つまり、元亨四年三月七日は、後醍醐天皇の失敗した第一次討幕計画の表面化する半年前に当たっています。
 
 「正中の変」については、もう少し次回に説明することにします。
 
文観と常楽寺?
 ここでお断りをしておかねばなりません。
 「鎌倉幕府の滅亡」「正中の変」と、日本史の教科書の復習をしているようですが、後醍醐のブレーンである文観が(大野)常楽寺と関係し
ているようの思えるため、少し回りくどい説明になっています。ご了承ください。
 
 次回も南北朝時代の復習のような内容です。
 
 *挿絵:後醍醐天皇(清浄光寺蔵)<o:p></o:p> 

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(大野)常楽寺研究(9):常楽寺と西大寺との関係は?

2013-10-21 11:45:36 |  ・加古川市加古川町大野

  「鎌倉仏教」について、『中学校社会・歴史的分野』(大阪書籍)を読んでみます。
       
鎌倉仏教<o:p></o:p>

010  戦乱やききんなどからの災害が続いたこの時代(鎌倉時代)には、人々のなやみにこたえる新しい仏教の動きが見られました。
 法然は、阿弥陀仏の救いを念じて念仏せよ、と説いて浄土宗を開き、弟子の親鸞(しんらん)は、阿弥陀仏を信じ自分の罪を自覚した悪人こそが救われる、と説いて浄土真宗(一向宗・いっこうしゅう)開きました。
 日蓮は、法華経だけが仏の真実の教えであると、と説いて日蓮宗(法華宗)を開きました。
 また、座禅によって自分でさとりを開く禅宗が、宋から伝えられました。<o:p></o:p>
 

中国から渡来する禅僧も多く、寺院の生活には、茶を飲む習慣や、中国の新しい食べ物も取り入れました。
 これらの新しい仏教は、武士や農民のほか公家の間にも広がりました。
 特に、禅宗は、武士の気風にあったため、鎌倉幕府の保護を受けて広まりました。
     
教科書に叡尊がいない
 教科書を読んだ中学生は、鎌倉時代これらの新しい鎌倉仏教は天台宗・真言宗といった仏教よりも盛んであったと想像すると考えます。
 天台宗・真言宗などの宗派の仏教を旧仏教としておきます。
 確かに、旧仏教は時代に応えられなくなり、新しい仏教の誕生となりましたが、依然として大きな勢力を持っていました。
 また、中学校の教科書には、叡尊(えいそん)がいません。学会では、いま鎌倉仏教のみなをしが叫ばれており、叡尊の説いた「律宗」がむしろ、教科書にある鎌倉新仏教よりも隆盛であったことが通説とされています。
 今後、教科書の鎌倉仏教の項に叡尊の名前が登場すると思われます。<o:p></o:p>

 叡尊は、旧仏教の衰え・みだれは、釈迦の教えである戒律が守られていないからだと考えました。
 戒律は、釈迦の定めた僧侶の規範(きはん)のことで、それをまもることを誓う儀式が授戒(じゅかい)です。
 叡尊は、これら戒律を厳格に守ることにより旧仏教から離れて新しい「律宗」を打ち立てました。
 その律宗の中心になったのが奈良の西大寺でした。
 『大野史誌』では「西大寺の末寺の末寺であった伝承はない」とちょっと自信なげに書いておられます。
 が、少なくとも西大寺となんらかの関係があったと想像されます。
 常楽寺さんに迷惑のかからない範囲で、勝手な想像を膨らませてみます。
 *写真:常楽寺<o:p></o:p>

 

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(大野)常楽寺研究(8):西大寺・僧叡尊

2013-10-20 20:11:16 |  ・加古川市加古川町大野

 

(大野)常楽寺は、西大寺の石工集団と関係があったことは確実です。もしろ、西大寺と関係があったから伊派の石造物があると考えた方が自然かもしれません。
 平荘町の報恩寺(ほうおんじ)は、西大寺の荘園であった「平ノ荘」(いまのところ範囲は現在の平荘町と考えておいてください)を支配するための寺院でした。
常楽寺も遠くはなれていません。影響があったと考えられます。
 「常楽寺研究」では、今後たびたび西大寺・叡尊が登場します。
 そこで、先に西大寺・叡尊について少し説明しておきます。叡尊(えいぞん)は西大寺の僧です。
     西大寺
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 西大寺の創建当時は僧・道鏡(?~772)が中央政界で大きな力をもっており、西大寺の建立にあたっても道鏡の影響が大きかったものと推定されています。
 「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対する寺で、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院でした。
 しかし、寺は平安時代に入って衰退し、その後も火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていました。
    叡尊(えいぞん)による復興
 西大寺の中興の祖となったのは、鎌倉時代の僧・叡尊(えいぞん・12011290)でした。
 11歳の時から醍醐寺・高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺の僧となりました。
 その後一時、他の寺に移ったことがありましたが、西大寺に戻り、90歳でなくなるまでの50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くしました。
 叡尊(えいぞん)は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めました。
 また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くしたのです。
 その後も荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力してります。
 西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建になるものです。
 なお、西大寺は明治28(1895)に真言宗から独立し、真言律宗を名のっています。
 *写真:西大寺

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(大野)常楽寺研究(7):五輪塔

2013-10-19 07:25:00 |  ・加古川市加古川町大野

 写真は、正和四年(1315)の銘のある宝塔と左右の五輪塔です。
 
(現在、宝塔の銘は風化のため読めません)
 
 今日は、五輪塔に注目ください。
 
 常楽寺の五輪塔(宝塔を挟んで左右の塔)
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 規模といい、形式などは左右の五輪塔は全く同時像立されたものでしょう。つまり、正和四年(1315)ごろものです。
 
 この五輪塔は、「常楽寺研究(5)」で紹介した、報恩寺(平荘町山角)の五輪塔と形式等がきわめて似ています。
 一部再掲します。
 「・・・これらの五輪塔は、この寺の僧の墓塔であり、作者は、大和の名工・伊行恒(いのゆきつね)であることもわかりました。
 伊行恒は、大和(奈良)を根拠地としながら摂津の御影を中心にした活動で知られています・・・・」
 ただ、報恩寺の五輪塔は花崗岩(御影石)であり、常楽寺の五輪塔は石英粗面岩(竜山石)で伊派の作品と断定できません。
 五輪塔(ごりんとう)
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 少し五輪塔について調べておきまそう。
 
 鎌倉時代に親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)等が新しい仏教をはじめ、またたくまに庶民の間に広まりました。
 
 それまでは、金属や木で見事な仏像がつくられ、それを安置する立派な寺院も多く造られました。
 
 鎌倉時代には、これらに代わって石の仏像や五輪塔が多く造られるようになりました。
 
 石の方が雨ざらしでおけるし、場所をとらず、何よりも安くつくることができました。
 
 仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。
 
 五輪塔は、これら五つの元素を形にしたもので、それぞれ上から空輪・風輪・火輪・  水輪・地輪と名前がついています。
 
 五輪塔の各部位の名称を図で確かめてください。
 
 

   *写真:常楽寺墓地の宝塔・五輪塔
 
   下図:五輪塔の各部位の名称<o:p></o:p>

 

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(大野)常楽寺研究(6):宝塔

2013-10-18 07:42:09 |  ・加古川市加古川町大野

  常楽寺・宝塔<o:p></o:p>

 032 常楽寺(加古川町大野)の山門の石段を西へ約40メートルのところの小川(新井用水)にかかる橋を渡ると、大きな五輪塔と宝塔(いずれも県指定文化財)があります。
 まず、中央の宝塔(写真)に注目してみましょう。
 常楽寺は「この宝塔は、文観上人(もんかんしょうにん)の母の墓塔と伝え、文観が、常楽寺の中興として在住していたとき、母をここに葬った」と伝承しています。
 『播磨鑑』も、そのことを記しています。(『加古川市史(第二巻)』は、『播磨鑑』の記述は何によって書いたか不明で、不審な点も多いと指摘しています)
 後醍醐天皇のブレーンであった文観については、後に検討することにします。
 この宝塔について『加古川市史(第七巻)』を読んでみます。
 「・・・宝塔としては数少ない巨塔に属し・・・その石材は、西摂六甲山の御影石であるから、山麓の石屋で製作したものを、舟便によって加古川下流の高砂へ運び、さらに川舟によって搬入したものであることは疑う余地がない。<o:p></o:p>

 とすると、このころ宝塔は、御影石を素材として多くの名品を残している名工・大和の伊派の棟梁・行恒の作品と考えてほとんど誤りがないであろう」
 常楽寺の宝塔は、西大寺の石工集団・伊派の作品と断定しています。
     
常楽寺は、奈良西大寺の影響が
 『大野史誌』も読んでおきます。
 「(常楽寺)境内には、五輪塔・宝塔・宝筺印塔(ほうきょういんとう)・十三重層塔などがあるが、これらはすべて鎌倉時代末期から室町時代初期にかけてのもので、五輪塔は、様式から見て西大寺系であろうと想像される」とある。
 つま
り、常楽寺は奈良西大寺とのつながりが考えられようです。
*写真:常楽寺墓地の宝塔・五輪塔(ともに県重要文化財)

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