明細帳」は、江戸時代の村の米の取れ高、家数、家畜の数など村のようすを役人に提出するための書類です。
現在で言えば「町政要覧」・「学校要覧」のような性格の文書です。
そのため、明細帳を見ると、当時の村の様子の概略を知ることができます。
明細帳から野尻新村のようすをみましょう。
『加古川市史(第五巻)』の「一橋徳川家領村々様子大概書」を引用させていただきました。
野 尻 新 村
・家数49軒 人数 205人。
(男104人 女101人 牛 13疋)
・農業の合間に男は薪を、女は綿を織る。
・百姓持ちの山林3ヵ所 25町5反2畝6歩。
・薪、秣用の他村と共用の入会地がある。
・米の津出しは加古川の川岸(かし・川の港)・芝村(現在の平荘町養老あたり)まで2里半、そこから高砂港まで3里半下りる。
それより船積みにより江戸まで海上250里、大坂まで21里。
・野尻新村は東西100間、南北500間ほどある。
・野尻新村は山の中で困窮の地である。
・谷川一筋あり。
・ため池4ヵ所。
・免税地2ヶ所 反別合わせて2町3反2畝3歩
・鉄砲4挺。
・野尻新村は元大久保出羽守領分地である。
なお、東志方9ヵ村が小田原大久保出羽守領になった事情は「志方町を歩く(48・49)」をご覧ください。
なお、この明細書には年号がありませんが、東志方の9ヵ村は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一ツ橋領」に組み込まれました。
そして、東志方の9ヵ村は、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続きました。
この明細書は、支配地の事情をつかむため延享4年(1747)以後、間もないころに作成されたものでしょう。