ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(328) 幻の「高砂染」

2017-05-31 07:56:08 | 高砂市

      幻の高砂染

 幻の「高砂染」の話をしましょう。以前にブログで紹介した「幻の高砂染」の再掲です。

   尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる

 「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。

 後に、庄兵衛は自邸でその業を営み、〝高砂染〟と改称した」というのがその一つの説です。

 『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。

 庄兵衛は、常に考える人でした。

 たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。

 庄兵衛は日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。

 そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。

 当時この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。

 後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」(高砂雑志)より

   高砂染は、江戸時代中期以降か?

 昭和52年の「兵庫縣社会科研究会会誌」第24号で、玉岡松一郎氏は「高砂染顛末記」の中で、次ように記しておられます。

 「慶長6年3月11日、姫路藩主池田輝政は高砂附近を開発し堀川を造りました。

 その時、産業奨励の意味で、尾崎庄兵衛を召して紙型による木綿をつくらせ、「おぼろ染」と名付け、諸藩にも販売しました。

 尾崎家の隣家の川島家も後世に染色しており、新しい図柄ができて「高砂染」と名を変えるようになったのは江戸後期のことでしょう・・・」

 また、尾崎庄兵衛は実在の人物で、先の玉岡松一郎著の『高砂染顛末記』に次のように書かれています。

 「・・・高砂市鍛冶屋町に現在自転車・単車等を盛業しておられる尾崎庄兵衛の子孫である尾崎庄太郎氏(明25生)を訪問する。

 現在、布等は一切残ってなくて、紙型は明治末頃に一度整理し、なお、40~50枚残っていたが、戦時中に防空壕に入れたり出したりしているうちになくなってしまったといわれる・・・」

 尾崎庄兵衛が、高砂染を行っていたことは事実と考えられます。

 しかし、その始まりが池田輝政の時代というのは、少し無理があるようです。

 というのは、綿作が盛んになるのは江戸時代中期以降のことです。時代はかなり下るものと思われます。

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

    相生屋勘右衛門説

 他方、高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。

 「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。

 高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。

 姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。

    河合寸翁の政策

 特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。

 寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために木綿の専売制を実施したことで知られていますが、一方で、姫路藩の多くの国産品の奨励にも力を入れました。

 天保三年(1833)には、藩校であった好古堂内に御細工所を設けて高砂染の染色を実際に行っています。

 そして、「高砂染」を姫路の特産品として江戸、大坂などへ積極的に流通させました。

 文献上、高砂染の起源は、現在のところ18世紀中葉まで遡ることができます。

 その後、高砂染は江戸時代のみならず明治、大正、昭和と存続し、高砂を含めた姫路の広い範囲で染められ、より多様な展開をみせました。

 河合寸翁が亡くなり、やがて明治時代を迎えて、高砂染が藩の保護を解かれて後も生産は続きました。

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

     姫山絞の台頭

 明治時代も高級品として生産が続いていた高砂染は、大正10年代になると新たに姫山絞(ひめやましぼり)の生産が目につくようになりました。

 大正14年(1925)発行の『姫路商工案内』の広告ページに、姫路染色業組合の22名の名が掲載されています。

 それを見ると、組合長として「寺島仙吉」、副組長として「吉田廣吉」の名があり、最後に高砂染の「井上勘右工門」も名を連ねています。

 姫山絞は、木綿を用いた藍染絞の一種です。

 大正13年7月発行の一『姫路之実業』を見ると「姫山絞と高砂染合せて16万円」という数字が見られますが、このうち高砂染の占める割合は姫山絞よりも少ないものと考えられます。

 昭和4年発行の『産業要覧』にも、「現在、姫路市の染織品は紺染、高砂染、姫山絞などですが、姫山絞は価格の低簾なること、容易に鎚色せざる点に於いて他に比なく、毎年その生産額を増し、販路は国内各地方に及ぶ」と記されているように、絞り染が盛んになった理由は、より安いコストの商品が民間に供給されたことを示すものです。

 これまでの型染ならば、わざわざ伊勢に型紙製作を依頼する必要があり、それだけ製作にかかる日数とコストがかります。

 それに比べ、藍染めの絞りならば型紙は必要なく、注文を受けてすぐに取りかかることができました。

 こうして、高砂染は時代が下るにつれ、より安易でコストの安い絞り染に押されることになりました。

    高砂染の終焉

 昭和に入ると高砂染の名を文献上で見つけることは、いよいよ難しく、『姫路』(昭和5年発行)と『ひめじ』(昭和8年発行)の掲載広告に中州喜平、『高砂実業協会』(昭和2年発行)に藤尾呉服店の名が見えるのみです。

 このうち後者の藤尾呉服店は高砂北本町に店を構えており、広告には「高砂名産・高砂染」とありました。

 また『高砂染顛末記』には次のような記述も見られる。

 田植には高砂染は欠かせぬものであり、また「高砂染の時代が下ること、腰巻に用いたことがあった」と記されています。

 現段階では、高砂市内における高砂染についての資科を欠くため、明確なことはわからないのですが、徐々に簡略化した高砂染となっていたようです。

こうして、江戸時代、姫路藩の高級品であった高砂染は、昭和のかなり早い時期に終焉を迎えました。

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照(no3604)

 

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高砂市を歩く(327) 「高砂染」再興へ会社設立

2017-05-31 07:43:48 | 高砂市

 昨日(30日)、神戸新聞は「高砂染」のニュースを掲載しました。

 「高砂染」については以前ブログでも書いた話題です。資料として掲載しておきます。

 なお、以前にブログで書いた高砂染めについて、次号で再載しておきます。

    「高砂染」再興へ会社設立 創始家子孫らも支援

 高砂染の再興を目指す団体「エモズティラボ」(兵庫県高砂市高砂町鍛冶屋町)が6月1日に株式会社化するのを前に、姫路市本町で会社設立発表会をこのほど開いた。高砂染の創始家とされる尾崎家と井上家の子孫も出席し、事業への支援を約束した。9月ごろには新ブランド「アムタ」から、新デザインのスカーフなどを発売する予定。

 同団体は昨年夏に発足した。尾崎家17代目当主の尾崎高弘さん(51)=加古川市加古川町=が相談役となり、活動を全面的に支えてきた。これまでに高砂染の代表的な松葉柄を取り入れたデザインの風呂敷や文具などを開発。高砂染の復興へ本腰を入れるため、株式会社化にかじを切った。

 これまでは織物を使っていたが、今後は型染めに取り組む。高砂染の古布に倣い、本来のデザインに近づけ、異なる2枚の型を重ねる技法も取り入れる。アムタではスカーフやストール、ランチョンマットなどの製造を検討しており、インターネット販売やイベント出店で販路を拡大していくという。

 代表を務める寄玉昌宏さん(32)=同市西神吉町=は「高砂染の原点に立ちながら、新たな高砂染を発信したい」と意気込む。高砂染の復刻版の製作に向け、インターネットを通じて個人から資金を募るクラウドファンディングにも取り組む。7月末までに175万円を目標とし、協力者には3千~5万円の投資額に応じて、アムタの新商品や、復刻版の高砂染などを贈る。

 発表会には、井上家の子孫で高校教員の井上国雄さん(57)=姫路市神屋町=も駆け付けた。染め物屋は2代前で閉じたといい、「これまで染め物を意識せずにきたが、このご縁をきっかけに協力していければ」とエールを送った。尾崎さんは「一度途絶えた高砂染の復興は困難な道のりだが、歴史や技法などに立ち返り、前に進んでいきたい」と力を込めた。(小尾絵生)

 ■高砂染 江戸時代後期に姫路藩の特産品として発展し、幕府への献上品にも使われた。高砂神社の相生の松をモチーフにした松枝模様が特徴で、2枚の柄が異なる型を用いて2度染めする。明治維新後、庶民に広まるにつれ、簡素化され、昭和初期に姿を消したとされる。創始家は高砂の尾崎庄兵衛と姫路の相生屋井上勘右衛門の説がある。(no3603)

 *写真、:姫路藩の下で発展した高砂染めにちなみ、姫路城を背景に協力を約束する(右から)尾崎高広さん、寄玉昌宏さん、井上国雄さん=姫路市本町(記事・写真ともに神戸新聞より)

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地域(加印)の風を読む(48) 県下第6位の都市に躍進(昭和30年)

2017-05-30 07:40:13 | 地域の風を読む

 「美濃部達吉と天皇機関説」をおえました。

 次の話題に移りますが「以前、地域(加印)の風を読む」では、「もう一つの日岡神社」で急停車していました。このカテゴリーをしばらく続けます。

 加古川市の戦後のお話です。

 きょうは、「広報かこがわ(1955年11月号)」から加古川市の人口の話題です。

 当時の広報を読むことにします。

    県下第6位の都市に躍進

      人口71.516人(男:34.667人、 女:36.849人)

 (加古川)市は正和30年10月1日実施した国勢調査の縮果により神戸、尼崎.姫賂、西脊、明石に次いで県下鋳6位の都市に躍進しました。

 教育、産業、交遜の面からも.市の基本施筑である総合水利の利用及び大同団緒による合併推進の面からも中都市としての形態をおびる理想的な加古川市の出現は近い将来となってきました。 

 加古川市の人口(昭和30年10月1日現在) (注:人口のみ)

 加古川町   26.519人

 神野町     5.015人

 野口町     5.820人

 平岡町     6.831人

 尾上町     7.224人

 別府町     6.608人

 八幡町     4.312人

 平荘町     5.181人

 上荘町     3.946人

  計     71.516人

 なお、現在(平成27年7月1日現在)の加古川市の人口は、269.846人です。注:昭和30年の人口調査では、志方町は、印南郡のため含まれていません。(no3602)

*写真:寺家町商店街の賑わい(昭和37年・加古川市教育委員会提供)

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大庄屋・大歳家(37) 大庄屋:大歳家保存運動の参考のために

2017-05-29 11:07:34 | 大庄屋・大歳家

       大庄屋:大歳家保存運動の参考のために

 今日(29日)の神戸新聞に下記の記事が掲載されていました。

 昨年、(別府町新野辺の)大歳家保存の参考に清掃作業を見学に出かけた大庄屋・村上家です。

 保存運動は、やはり地域の方の盛り上がりなんですね。

 参考(と記録)のために掲載させていただきました。

   江戸期の宿本陣跡よみがえる 神戸・淡河

 江戸時代の歴史を伝える神戸市北区淡河町の邸宅「淡河宿本陣跡」の改修工事が終わり、28日に内覧会が開かれた。長年人が住まず、傷んでいた屋根瓦や床板、かまど、畳などを地元住民らが修繕。住民や久元喜造・神戸市長ら約60人が参加し、地域の交流拠点となる歴史的建造物の復活を喜んだ。(村上晃宏)

 淡河町は、豊臣秀吉が命じて播磨と有馬温泉を結ぶ宿場町として整備された。本陣跡は、宿場町の建設に尽力した大庄屋・村上家が居住していたという。約600平方メートルの敷地に書院造りの母屋や土蔵、茶室などがある。約50年前から無人で老朽化が進んでいた。

 一昨年、地域の有志が一般財団法人「淡河宿本陣跡保存会」を結成し、修繕を決めた。工事中にも、流しそうめんや七夕、大学生考案の改修案パネル展といったイベントを開催。電気や水道設備も整え、今後はカフェの営業をはじめ、季節行事や移住・定住相談会などを企画するという。

 内覧会で、保存会の村上隆行代表理事(47)は工事過程を写真で説明し、「子どもも大人も地域の歴史や文化を体感できる交流施設として活用したい」と期待を込め、久元市長は「淡河に『未来を創る場所』が生まれた」とあいさつした。

 参加者は鏡開きした後、地元産の食材を使った料理に舌鼓を打ち、利用方法のアイデアを出し合っていた。(no3601)

 *写真上:地域住民らの改修工事で復活した邸宅

  写真下:歴史の面影を残す修理されたかまど

 

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コーヒーブレイク 「ひろかずのブログ」は3600号に

2017-05-29 07:49:07 |  ・コーヒーブレイク・余話

  きょう、「ひろかずのブログ」は3600号に

 続くものですね。我ながらビックリしています。

 最近では、すっかり習慣化しました。

 一日、何か書かないと、どこかで何かを忘れたような気になります。

 ですから、勝手な発信ばかりです。適当にスルーしてください。

 

 ところで、読書はやはり歴史関係が多いのですが、最近は散歩に凝っていますので、ウォーキングの本も二冊ばかり読みました。

 それと並行して、本棚にあった『たこやき(熊谷真菜著)』(講談社文庫)を何気なく読みはじめました。

 この本を読みながら、ある考えがひらめきました。

 いつか「ひろかずのブログ」で、「かつめしの研究(仮題)を書いてみよう」と。

 そんな時、新聞は、28日(日)に加古川市役所前の広場で「加古川ご当地グルメフェスティバル」(写真)の開催を報じました。

 さっそく、きのう昼食を兼ねて「カツメシでも食べようか」と出かけたんです。

 でも、どの店も長だのお客さんの列。食べることをあきらめました。

 きょうのブログは、3600号です。

 3700号あたりから「カツメシの研究の連載をしたい」とたくらんでいます。

 まだ100日以上あります。資料を集めなくちゃ・・・・

 「カツメシ」に関する情報をお寄せください。(no3600

 *写真:「加古川ご当地グルメフェスティバル」の会場の風景

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美濃部達吉と天皇機関説(23) 最終回

2017-05-28 07:02:25 | 美濃部達吉と天皇機関説

     最終回:美濃部達吉と天皇機関説

 天皇機関説が排撃されたあと、「天皇主権説」そして「統帥権」のみが社会を支配するようになりました。

 (注:天皇自身は、天皇機関説を認めていましたが軍部・右翼の前に無力でした)

 日本にとって不幸だったのは、そんな思想的環境の中で、太平洋戦争という大きな戦争を始めたことでした。

 日中戦争の開始から一年後、日本陸軍の軍人教育を司る教育総監部は、「軍隊教育の教本」を発行しました。

 この本の冒頭では、「そもそも我が国における忠節は、万邦無比の国体より、自然に湧き出す情操であり、きわめで合理的な国民的信念である」と、日本軍(人)の優秀さを説明しています。

 軍隊の中核に、このような主観的な「信仰」あるいは事実上の「宗教」とも言うべき観念論を置いていた事実は、太平洋戦争で日本軍がくり返した数々の「非合理的な行動」を生み出した背景を雄弁に物語っていると言えます。

 その結果、戦況が悪化しても、軍部が大きな影響力を持つ日本政府は合理的思考で「講和」や「降伏」の選択肢を議論できず、大勢の軍人と市民が日々命を落としていたにもかかわらず、19458月の破滅的な敗戦まで「国体護持のための戦争継続」というただひとつの道しか進むことができませんでした。

 1935年に天皇機関説の排撃が盛んに行われていた時、中心的な役割を果たした貴族院議員や在郷軍人、右翼活動家の誰一人として、それからわずか10年後の1945年に、日本が戦争に敗れて独立国としての主権を失うことを予想していませんでした。

 そして、「天皇機関説事件の仕掛け人」とも言える蓑田胸喜が、失意のうちに首を吊って自らの命を絶ったのは、敗戦の日から5か月後の、1946130日のことでした。

 今回で、『美濃部達吉と天皇機関説』を終了します。

 現在、日本は、きな臭い国に向かって、再びハンドルを切っています。

 そんな時代です。少し立ち止まり、天皇機関説の歴史的意味を考えてみることにしましょう。

 お読みいただきありがとうございました。(no3599

 *写真:美濃部達吉(「美濃部達吉と天皇機関説・1」と同じ写真です)

 

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美濃達吉と天皇機関説(22) こんな異常な時代は、長い日本史にはなかった

2017-05-27 07:54:45 | 美濃部達吉と天皇機関説

 統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)について、司馬遼太郎氏は『この国のかたち(四)』(文芸春秋)で次のように書かれています。その一部を読んでみます。

     統帥権干犯

 浜口(首相)は財政家で、重厚かつ清廉な人格の持ち主であった。

 かれは軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和5年(19304月ロンドン海軍軍縮条約に調印した。

 右翼や野党の政友会は、浜口を「統帥権干犯」として糾弾した。

 ・・・浜口は、この年の11月14日、むろん、殺された”統帥権干犯者”であったことはいうまでもない。

 東京駅で右翼に狙撃され、翌年、死去した。

 以後、昭和史は滅亡にむかってころがってゆく。

 このころから、統帥権は、無限・無謬(むびゆう)・神聖という神韻を帯びはじめる。他の三権(立法・行政・司法)から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。

 さらには、三権からの、ようかい(くちばしをいれること)もゆるさなかった。

 もう一ついえぱ、国際紛争や戦争をおこすことについても他の国政機関に対し、帷幄上奏権があるために秘密にそれをおこすことができた。

 となれば、日本国の胎内にべつの国家‐統帥権日本‐ができたともいえる。

 しかも統帥機能の長(たとえぱ参謀総長)は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼(ほひつ)の責任をもつ。天皇は、憲法上、無答責である。

 である以上・統帥機関は、なにをやろうと自由になった。

 満洲事変、日中事変・ノモンハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった.

 それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。・・・・

 軍の解釈どおりになったのは、昭和10年(1935)の美濃部事件によるといっていい。

 憲法学者美濃部達吉が「天皇機関説」の学説をもつとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。

 結果として著書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。

 美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもつ法治国家は元首も法の下にある、というだけのことであった。

 それが、議会で否定されることによって、以後、敗戦まで日本は「統帥権」国家になった。こんなばかな時代、ながい日本史にはない。(no3598

 *写真:司馬遼太郎

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美濃部達吉と天皇機関説(21) 統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)

2017-05-26 08:25:31 | 美濃部達吉と天皇機関説

 「天皇機関説事件」の初期段階で重要な役割を果たしたのは、軍人の経歴を持つ政治家たちでした。

 彼らが機関説に反発した理由は、この時期の日本軍人は、いくつかの出来事がきっかけで、美濃部達吉という個人に対して、強い反感や敵意、恨みの感情を抱いていたのです。

      統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)

 ひとつは、1930422日に日本政府が締結した「ロンドン海軍軍縮条約」に関し、日本海軍の軍令部が「帝国憲法に定められた天皇の『統帥権』を干犯するものだ」として強く反対したにもかかわらず、美濃部が自分の憲法解釈を援用して政府の判断を「正しい」と弁護したこと。

 そしてもうひとつは、陸軍省新聞班が19341010日に刊行したパンフレット「国防の本義と其(その)強化の提唱」について、美濃部がその内容を徹底的に批判する記事を雑誌に寄稿したことでした。

 ロンドン海軍軍縮条約とは、第一次世界大戦が終結した後の世界において、各国の保有する軍備に制限をかけようという国際的な協議で採択された条約で、日本政府は欧米各国との交渉の末に調印を決定し、1930101日これを可決、102日に批准しました。

 ところが、海軍内部と政界の一部はこの条約締結の仕方に間題があるのではないか、と疑問を抱く人間が存在していたのです。

 艦艇の保有数に関する条件の交渉と最終的な決定の権限は、交渉を担当した海軍省ではなく、天皇が持つ統帥権を補佐する海軍軍令部に属するもので、軍令部が条件を了承していないのに政府が条約を締結したのは「統帥権の干犯」ではないか、というのが、彼らの言い分でした。

 これに対し、美濃部は憲法学者の立場から、政府の条約締結は「統帥権の干犯にはあたらない」との解釈を述べ、条約を締結した政府の判断を全面的に擁護しました。

     陸軍パンフレットへの批判

 一方、陸軍パンフレットの最初の「国防観念の再検討」では「たたかひ(戦い)は創造の父、文化の母である。・・・・生命の生成発展、文化創造の動機であり刺激である」と書かれていました。

 美濃部は猛反対を述べました。軍部は、メンツをつぶされ美濃部を目の敵とばかりに猛反撃を開始しました。(no3597

 *写真:ロンドン軍縮会議

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美濃部達吉と天皇機関説(20) 天皇主権論

2017-05-25 09:08:54 | 美濃部達吉と天皇機関説

          天皇主権論

 東京(帝大)の穂積八束は、学生時代から、天皇主権説を支持する立場をとり、「天皇こそが国家主権の担い手」であると主張していました。

 彼は、統治権の主体について、以下のように述べています。

 「第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」

 これは、国体を定めることにある。国体を定めるとは、統治権の主体と客体を定めるということである。本条によれば、統御の主体は万世一系の天皇にあり、統御の客体は大日本帝国にある。これを言い換えれば、我が国は純然たる君主政治であるということである。

 純然たる君主制とは、一個の君主が統御の主体ということである。

 また、第三条の「天皇は神聖にして侵すべからず」については、「君主はすなわち国家である」「神聖にして侵すべからずとは、天皇すなわち国家の本体をなすところの国体なるがゆえである」と解説し、「天皇イコール国家」という解釈を明言しています。

 穂積の弟子の上杉慎吉も穂積とともに天皇主権説を主張しました。

     美濃部 VS 上杉・穂積

 美濃部は、上杉を憲法解釈を厳しく批判しました。

 「上杉の見解は、すこぶる極端な攻撃的な論法を用い、人を誤らせるおそれが多い反対説を十分に理解しないで、それを罵倒し、悪名を付けるのは、学者の態度として、いかがわしいことであろうと思う。

 美濃部は、上杉の論の進め方をそのように諌(いさ)めた上で、君主を国家の最高機関と見なす国家法人説について「君主を人民の家来や使用人扱いするもの」などと書いているのは、まったく根拠がないことだと指摘しました。

 

 1935年の美濃部と天皇機関説を取り巻く状況は、政府・マスコミを巻き込んで大論争(政治問題)になりました。(no3596

 *写真:穂積八束

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美濃部達吉と天皇機関説(19) 一身上の弁明を述べたが・・・

2017-05-24 09:01:30 | 美濃部達吉と天皇機関説

    一身上の弁明

 攻撃の標的となった美濃部達吉は、貴族院の議場で自分に対して投げつけられた、「学匪」などの誹誇を容認できず、「議場で弁明をさせて欲しい」と発言の機会を求めました。

 憲法学という学問に自分の一生を捧げてきた美濃部にとって、議場で、学者への最大限の侮辱とも言える「学匪」という言葉を投げつけられたことに我慢できなかったのです。

 その結果、美濃部は2月25日の午前に貴族院で「一身上の弁明」として反論を行うことを許され、「天皇機関説」は、決して天皇への不忠でも不敬でもなく、また当時の日本の「国体」を揺るがすような反逆的思想でもないことを訴えました。

 美濃部は「は、菊池男爵が憲法の学問について、どれほどのご造詣があるか知らない者でありますが、菊池男爵が私の著書について論じておられるところを速記録で拝見いたしますと、果たして私の著書をご通読になったのか、仮にお読みになったとしても、それを、ご理解なされているのであるかということを、深く疑う者であります」と発言しています。

 また、美濃部は、天皇機関説が、批判者が言いがかりをつけているような、天皇の権威や地位を軽んじるものではないことを、次のような言葉で説明しました。

 「いわゆる機関説と申しますのは、国家それ自身をひとつの生命であり、それ自身に目的を有する恒久的な国体、すなわち法律学上の言葉をもって申せば、ひとつの法人と観念いたしまして、天皇はこの法人である国家の元首という地位におられ、国家を代表して国家の一切の権利を総撹(そうらん)(掌握して治めること)され、天皇が憲法に従って行われる行為が、すなわち国家の行為としての効力を生ずる、ということを言い表すものであります」

 美濃部の論はマスコミ等に支持されたかのように見えました。

         天皇機関説への巻き返し

 しかし、機関説排撃陣営は、機関という言葉は「全体の一部分」であり、いつでも交換可能な意味を持つとの解釈を披露した上で、これは「いかなる場合においても、学問的にも論理的にも、御上(天皇)に対する最大の不敬語」であると反論しています。

 美濃部に対する攻撃の火の手は、彼の属する貴族院だけでなく、衆議院でも美濃部の著書は発禁処分にすべきだ、という主張大きくなりました。

 「戦線を拡大」を目指す、菊池など軍人出身の議員は徒党を組んで、美濃部に対する「全面戦争」を、幅広い分野で本格的に開始ました。(no3595)

* 写真:菊池武夫

 

 

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美濃部達吉と天皇機関説(18) 蓑田胸喜、天皇機関説を批判

2017-05-23 05:58:24 | 美濃部達吉と天皇機関説

 機関説事件は、昭和10年(1935)に日本の政界を揺るがした政治的な大弾圧事件でした。

 天皇の権力の範囲を憲法の枠組みに合致させる「天皇機関説」という解釈を提唱した憲法学者の美濃部達吉と、天皇を崇拝する退役軍人や右派政治家の対立が事件の発端でした。

 ここからは、高砂は出てきません。「美濃部達吉と天皇機関説」事件を追ってみます。

   右翼の論客・蓑田胸喜、天皇機関説を批判

 1935年2月18日、帝国議会仮議事堂では、第六七回帝国議会の貴族院本会議が開かれていました。

 貴族院(今の参議院)の本会議場では、男爵の菊池武夫という元軍人の議員が演壇に立ち、こう発言しました。

 「・・・我が皇国の憲法を解釈いたします著作の中で、完壁で一分の欠けもない皇国の国体を破壊するようなものがございます。(中略〉

 これが、学徒の模範や手本となる人となり、社会の問題を指摘し、警告を発する人をもって任ずべき帝国大学の教授、学者というような方の著述であるということに、私は痛恨に堪えないのであります。

 これらの著作があることを、政府はお認めになっているのかどうか。また、お認めになっているならば、この著作者と共にいかなる処置をお執りになるつもりなのかをお伺いいたします・・・」

 彼の発言の陰には、ある男の存在がありました。当時活発に言論活動を行っていた右翼(愛国者を自任する国家主義者)の論客・蓑田胸喜です。

 蓑田は、美濃部達吉などの東京帝国大学や京都帝国大学の教授を「日本の学生に共産主義思想を広める不届き者」と決めつけて敵視し、激しい言葉で罵倒する言論活動をくり広げていた人物でした。

 蓑田胸喜は、大学(東京帝大)時代、興国同志会という国粋主義の学生団体に属していました。

 この興国同志会を立ち上げたグループの一人は、同大学で憲法学を教える上杉慎吉教授でした。

 蓑田は、美濃部が著作などで西欧式の法理論や価値観が、蓑田の理想とする「西欧の影響を排した日本(天皇)中心の法理論や価値観」とはまったく相いれないこと。

 もうひとつは、そうした日本中心の法理論や価値観にとって大きな脅威となる、共産主義の革命思想に感化される人間を輩出しているのが、美濃部などが教鞭(きようべん)を執っていた東京帝大など帝国大学の法学部(法科大学)だという、一方的な思い込みがありました。

  そして、蓑田胸喜の過激で極端な日本(天皇)中心の政治思想に共感する人間が、政界にも、現役軍人や在郷軍人会の中にも少なからず存在したことから、彼の思想や言説は、天皇機関説事件の中で大きな影響力を発揮することになります。(no3594

*写真:蓑田胸喜

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美濃部達吉と天皇機関説(17) 美濃部親子文庫

2017-05-22 06:13:32 | 美濃部達吉と天皇機関説

       美濃部親子文庫

 達吉博士の著書など115冊の寄贈を受け、1958年(昭和33)に「美濃部文庫」として市民に開放されました。

 その後、図書館が1987年(昭和53)、同市曽根町に移されるのを機に、「美濃部文庫」は、同年7月に高砂公民館に移設されました。

 亮吉博士没(1984年)後の1986年、遺族から亮吉博士の著書を含めた多数の資料等455冊が寄贈されたのを機会に資料は高砂公民館の3階の図書室に配架し、名称も「美濃部文庫」から「美濃部親子文庫」に改められました。

 そして「ライオンズクラブ」会員により、「美濃部親子文庫」の記念碑が建立され、昭和613月に除幕式が執り行われました。

 また、1992年(平成4)故亮吉博士夫人の時子氏から、膨大な書簡等資料が寄贈されました。

 それらは「美濃部氏書簡」として整理され、四冊のファイルにして親子文庫に加えて公開されています。

     美濃部研究会発足

 1996年(平成8)には、「美濃部研究会」が正式にスタートしました。

 2003年(平成1553日の憲法記念日に、宮先一勝、田中由美子各氏によって『美濃部達吉博士関係書簡等目録』が自費出版されています。(no3593

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(夕月書房)参照

 *写真:美濃部親子文庫の記念碑

 

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美濃部達吉と天皇機関説(16) 美濃部家と河合家(2)

2017-05-21 09:04:22 | 美濃部達吉と天皇機関説

       美濃部家と河合家(2)

 「美濃部家と天皇機関説(14)・美濃部家と河合家」の続きです。

 

 ・・・明治29年、15歳で高等小学校を出た(河合)義一は、達吉の姉みちの嫁ぎ先である神戸の医師・井上学太郎宅に書生となって、半年ほど住み込んでいます。

 のちに義一が上京して東京外国語学校に学び、また日本銀行に勤めたとき、達吉の兄・俊吉宅および南宅にも一時下宿をしています。

 

 達吉の妹えみは南尚(ひきし)・静子夫妻の四男新吾に嫁ぎました。

 南新吾は、東大を首席で卒業して三井物産に勤めた人物です。

 南尚は、土木工学を専門とする工学博士で、彼の行った京都の「疏水」は世界的水準の名作といわれています。

 南尚は、明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたっています。

 とくに、日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 京都府)、那須疏水(栃木県)の開発に取り組みました。

 疏水工事のなかで、特にトンネル工事を得意としました。

 

 このように義一(河合家)は、美濃部一族に大変な世話になっています。(no3592

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(夕月書房)参照

 *写真:琵琶湖疏水(第1トンネル東口‐琵琶湖側より一つ目のトンネル)

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美濃部達吉と天皇機関説(15) 余話・河合耆三郎(かわいきさぶろう)  

2017-05-20 08:08:40 | 美濃部達吉と天皇機関説

    余話・河合耆三郎     

 

 文久3年(1863)の夏のある日、一人の若者の姿が高砂の町から消えました。

 彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として、堀川岸で活躍していました。

 その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消したのです。

 やがて、京の新撰組に入り、サムライになったことが、風の便りに聞こえてきました。

 彼の名は、河合耆三郎(河合義一の父・義一郎の兄)、武士として活躍したいと常々考えていました。

 新撰組のできたことを知り、いてもたってもいられなく、ついに高砂の町を飛び出したのです。

 彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)の仕事をまかされました。

 新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものでした。

 慶応2年(1866)2月2日の朝のことです。

 前夜、タンスの中に入れていた50両の大金が消えていました。

 タンスに近づくことのできたのは、新撰組の幹部だけでした。

 これが表面に出れば深刻な内輪もめになります。

 彼は、この50両の穴埋めのために国もと(高砂)へ早飛脚をだしました。

 折り悪く、父親は商用で外に出ていました。

 悪いことは重なります。この間に、新撰組で50両が必要になりました。

 「耆三郎がその金を盗んだ・・」と疑がわれました。

 今となっては誰も信用してくれません。2月12日、耆三郎の打ち首が決まりました。

 刑は、新撰組の道場横で行われました。時間は、午後8時をまわっていました。

 小雨交じりの寒い夜であったといいます。

 処刑の3日後、彼が待ちにまった50両がとどきました。

 この金は、近藤勇が遊女を身請けするための金であったらしい・・・

 耆三郎については、下母沢寛の小説『新撰組三部作・新撰組物語』(中央公論社・中公文庫)に詳しく書かれていますが、たぶんにフィクションが含まれているようです。でも、紹介しておきたい話題です。(no3591)

 *写真:江戸時代の倉庫群の面影をとどめる菅野邸付近(南堀川の界隈)

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コーヒーブレイク 将棋・加古川清流戦

2017-05-19 10:50:28 |  ・コーヒーブレイク・余話

 嬉しいですね。以下の文・写真は今朝(5月19日)の神戸新聞からの転載です。

   久しぶりに「加古川(市)」を売り出すビッグニュースです。

 いま、「ひろかずのブログ」では「美濃部達吉と天皇機関説」を連載していますが、記録として、「将棋・加古川清流戦」を転載させていただきます。

  〈藤井四段の活躍で高い注目度

         将棋・加古川清流戦〉

 将棋の「第7期加古川青流戦」は、例年以上の注目度で幕を開けた。18日に関西将棋会館(大阪市福島区)であった開幕戦に、最年少プロ棋士として話題の藤井聡太四段(14)が登場。デビュー後の連勝記録を「18」に伸ばした中学生棋士の活躍を追おうと、会場には報道陣約20社が詰め掛けた。

 藤井四段は竹内雄悟四段(29)と対局。テレビ局や新聞社などのカメラ計20台以上に囲まれる中、岡田康裕加古川市長の振り駒で後手となった。序盤は積極的に仕掛けながら、次第に押し返されて劣勢に。秒読みとなった終盤は「かなり際どいと思った」というものの、冷静に巻き返して120手で制した。

 控室で見守った加古川市ゆかりの棋士たちからは、感嘆の声が上がった。名人戦に挑戦中の稲葉陽八段は「相手に楽をさせない指し方。終盤の落ち着きはさすがだった。自信を持って指せているのでは」。井上慶太九段も「バランスの取れた緩急自在の指し回しが光った。相手の攻めを巧みにかわして勝利した。中学生、新人らしからぬ強さ」とたたえた。

 日本将棋連盟の関係者によると、この日の報道陣の数は「タイトル戦でもなかなかない多さ」。2011年に始まった加古川青流戦にとって格好のPRとなり、岡田市長は「大会を続けていくと、こうしていろんな話題性も出てくる」と喜んでいた。(伊丹昭史)   (no3590)

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