幻の高砂染
幻の「高砂染」の話をしましょう。以前にブログで紹介した「幻の高砂染」の再掲です。
尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる
「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。
後に、庄兵衛は自邸でその業を営み、〝高砂染〟と改称した」というのがその一つの説です。
『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。
庄兵衛は、常に考える人でした。
たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。
庄兵衛は日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。
そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。
当時この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。
後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」(高砂雑志)より
高砂染は、江戸時代中期以降か?
昭和52年の「兵庫縣社会科研究会会誌」第24号で、玉岡松一郎氏は「高砂染顛末記」の中で、次ように記しておられます。
「慶長6年3月11日、姫路藩主池田輝政は高砂附近を開発し堀川を造りました。
その時、産業奨励の意味で、尾崎庄兵衛を召して紙型による木綿をつくらせ、「おぼろ染」と名付け、諸藩にも販売しました。
尾崎家の隣家の川島家も後世に染色しており、新しい図柄ができて「高砂染」と名を変えるようになったのは江戸後期のことでしょう・・・」
また、尾崎庄兵衛は実在の人物で、先の玉岡松一郎著の『高砂染顛末記』に次のように書かれています。
「・・・高砂市鍛冶屋町に現在自転車・単車等を盛業しておられる尾崎庄兵衛の子孫である尾崎庄太郎氏(明25生)を訪問する。
現在、布等は一切残ってなくて、紙型は明治末頃に一度整理し、なお、40~50枚残っていたが、戦時中に防空壕に入れたり出したりしているうちになくなってしまったといわれる・・・」
尾崎庄兵衛が、高砂染を行っていたことは事実と考えられます。
しかし、その始まりが池田輝政の時代というのは、少し無理があるようです。
というのは、綿作が盛んになるのは江戸時代中期以降のことです。時代はかなり下るものと思われます。
*『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照
相生屋勘右衛門説
他方、高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。
「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。
高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。
姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。
河合寸翁の政策
特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。
寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために木綿の専売制を実施したことで知られていますが、一方で、姫路藩の多くの国産品の奨励にも力を入れました。
天保三年(1833)には、藩校であった好古堂内に御細工所を設けて高砂染の染色を実際に行っています。
そして、「高砂染」を姫路の特産品として江戸、大坂などへ積極的に流通させました。
文献上、高砂染の起源は、現在のところ18世紀中葉まで遡ることができます。
その後、高砂染は江戸時代のみならず明治、大正、昭和と存続し、高砂を含めた姫路の広い範囲で染められ、より多様な展開をみせました。
河合寸翁が亡くなり、やがて明治時代を迎えて、高砂染が藩の保護を解かれて後も生産は続きました。
*『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照
姫山絞の台頭
明治時代も高級品として生産が続いていた高砂染は、大正10年代になると新たに姫山絞(ひめやましぼり)の生産が目につくようになりました。
大正14年(1925)発行の『姫路商工案内』の広告ページに、姫路染色業組合の22名の名が掲載されています。
それを見ると、組合長として「寺島仙吉」、副組長として「吉田廣吉」の名があり、最後に高砂染の「井上勘右工門」も名を連ねています。
姫山絞は、木綿を用いた藍染絞の一種です。
大正13年7月発行の一『姫路之実業』を見ると「姫山絞と高砂染合せて16万円」という数字が見られますが、このうち高砂染の占める割合は姫山絞よりも少ないものと考えられます。
昭和4年発行の『産業要覧』にも、「現在、姫路市の染織品は紺染、高砂染、姫山絞などですが、姫山絞は価格の低簾なること、容易に鎚色せざる点に於いて他に比なく、毎年その生産額を増し、販路は国内各地方に及ぶ」と記されているように、絞り染が盛んになった理由は、より安いコストの商品が民間に供給されたことを示すものです。
これまでの型染ならば、わざわざ伊勢に型紙製作を依頼する必要があり、それだけ製作にかかる日数とコストがかります。
それに比べ、藍染めの絞りならば型紙は必要なく、注文を受けてすぐに取りかかることができました。
こうして、高砂染は時代が下るにつれ、より安易でコストの安い絞り染に押されることになりました。
高砂染の終焉
昭和に入ると高砂染の名を文献上で見つけることは、いよいよ難しく、『姫路』(昭和5年発行)と『ひめじ』(昭和8年発行)の掲載広告に中州喜平、『高砂実業協会』(昭和2年発行)に藤尾呉服店の名が見えるのみです。
このうち後者の藤尾呉服店は高砂北本町に店を構えており、広告には「高砂名産・高砂染」とありました。
また『高砂染顛末記』には次のような記述も見られる。
田植には高砂染は欠かせぬものであり、また「高砂染の時代が下ること、腰巻に用いたことがあった」と記されています。
現段階では、高砂市内における高砂染についての資科を欠くため、明確なことはわからないのですが、徐々に簡略化した高砂染となっていたようです。
こうして、江戸時代、姫路藩の高級品であった高砂染は、昭和のかなり早い時期に終焉を迎えました。
*『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照(no3604)