ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

わたの里通信誌(56) 第7回 播磨の綿まつり

2016-04-30 08:33:06 | わたの里通信誌

       7 播磨の綿まつり 2016113(祝・火)

 志方は江戸時代からの綿の産地です。この地での2回目の「播磨の綿まつり」は、たくさんの方に参加していただき大盛会でした。前日の雨が高御位山から空に昇っていくと、後に素晴らしいお天気が広がりました。改めてふるさとの山に見とれました。綿を摘んで頬にあてて喜ぶ子どもたちは、糸車、綿繰り器と、古い道具にも目を見張りました。そんな子どもたちの表情に接すると、3月に耕し、5月に種をまくことから始まる栽培作業の苦労が報われます。(綿まつりを開く田圃は、稲岡鉄工さんにお借りしています)今年の綿まつりは例年通り11月3日(祝・木)です。

 ■「稲岡工業株式会社文書」保存会が発足して1年半がすぎました。文書の整理作業は、倒産した稲岡工業株式会社(以下稲岡)の後に入られた稲岡鉄工株式会社さんのご厚意で事務所棟の二階をお借りすることができ、月二回、第1と第3の日曜日午前9時~12時まで行っております。

 稲岡に遺された、加古川市史の目録にある地域の歴史的文化史料は、段ボール箱約200箱に収められていますが、損傷が激しく、封筒の中の史料を目録と照合させながら新しい封筒と交換をする作業をおこなっています。整理作業は順調に進み、12頁の表にあるように、8割弱整理できました。これからは、新しい目録作りが保存会によって始まります。どれほどの年月がかかるか予想がつきません。ご都合の良い第1・第3の日曜日に参加、ご協力下さる方をお待ちしています。

 ■1口1000円以上のご寄付をお寄せいただけましたら幸いです。ご寄付いただいた方には、来年3月発行の冊子「わたの里通信誌」3を送らせていただきます。(no3203)

 

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わたの里通信誌(55) 第2回「わたの里の記録」  

2016-04-30 07:35:58 | わたの里通信誌

   イベント 講演会  

  開催日・2015年11月1日(日)午後1時半開会

 会場 ・加古川西公民館大ホール    参加者・60人

 講師  ・上月昭信先生  東播磨地域史懇話会会長 兵庫県文化財保護指導委員  

       西向宏介先生  広島県立文書館 主任研究員 元加古川市史編纂担当

            松岡資明先生  元日本経済新聞記者

■稲岡スタイル  保存会では、西向先生に埃の取り方、史料の包み方等のご指導を頂き、整理作業をすすめています。保存のために必要な、段ボール、封筒、防虫剤等は大きな出費です。そこで高価な中性紙の封筒は、中性紙を購入してみんなで封筒作りをしています。これによって、市価の10分の1ですむようになりました。スタートした1年前には気づかなかったことが、回を重ねるごとにアイディ
アが持ち寄られるのです。来年度は稲岡鉄工さんのご厚意で倉庫の中にある木材を使わせて頂き、箱を整理する棚を作ります。

  参加者がアイディアを持ち寄って工夫を重ねること、これを「稲岡スタイル」と呼びたいと思います。

■整理作業 今年度、行った日数は30日で、延べ239人の参加がありました。右の写真は、今年度最後の作業日、3月13日、蔵を片づけた後に撮りました。(撮影・江村直樹)

■整理作業ボランティアを募っています

 毎月の第1、第3の日曜日9時~12時(変更あり)  

 連絡先 事務局 吉田まで(097-432-0956)   (no3202)

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わたの里通信誌(54) 保存活動から学んだこと(3)

2016-04-29 09:42:00 | わたの里通信誌

     保存活動から学んだこと(3)

        お茶の水大学博士課程・渡辺千尋

   お茶とお菓子

 作業中の楽しみの一つが休憩時間です。

 体を動かした後のケーキやチョコレート、コーヒーがとても美味しく、手際よくお茶の準備や片付けをしてくださる方人を見て「これが今話題の女子力」と思っています。特に上月先生の奥様が点ててくださったお抹茶の美味しさに感激しました。

 市民の、市民による、市民のための

 全体としてこれまでに強く感じたことは、史料の未来を預かるのは大学や研究機関だけではないのだということです。私はまだ研究者として半人前ですが、大学でアーカイブズを学ぶ中でなんとなく、研究者が史料の価値を決め、それを地域の方々に分かってもらう「啓蒙活動」をして、研究者が中心になって公的資金を得、文書館を設立して人々を「招く」ものだ、という感覚を持っていました。今考えるとなんと思い上がっていたのだろうと思います。史料の未来に責任を感じたのは私だけではなかったのです。

 稲岡工業や関連企業で青春時代を送った方やその子供や孫、わたの里としての加古川の歴史を大切に思う地元の方々の方が、私よりももっと稲岡工業文書を身近に感じ、文書から多くの情報を読み取ることができ、価値を認めているのです。これは私にとってとても大切な気づきでした。「市民の、市民による、市民のためのアーカイブズ」という学校で習った標語の意味が体に染み込んでいくようでした。

 保存会の方々のアイディアにご経験と専門知識を提供し、作業に来られた時は誰よりも体を動かす西向先生の姿勢からも多くを学びました。この「稲岡工業株式会社文書」を中心として文書館がいつかできていくような、そんな流れを一緒に作っていく一員になれたことをとても幸運に思っています。(no3201)

 *写真:西神吉町大国にある医療生協のレインボー会館で、「稲岡工業株式会社文書」について講演中の渡辺氏

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わたの里通信誌(53) 保存会の活動から学んだこと(2)

2016-04-29 08:53:53 | わたの里通信誌

   保存会の活動から学んだこと(2)

          お茶の水大学博士課程・渡辺千尋

  史料の整理・保存        

 また史料の整理・保存の実体験という点でも、学ぶところが多くありました。文書館などに収められている史料は目録をとったうえで、中性紙の封筒に入っています。大学や文書館では正規の史料保存箱や中性紙の封筒を買う資金がありますが、私たちの保存会にはそんな資金はありません。

 そうした時に「紙だけ買って糊で貼ったらいいじゃない!」というアイディアを出してくださるのが吉田ふみゑさんで、手作り封筒をたくさん作ってくださいました。手作りといっても紙はれっきとした中性紙、糊も保存に適したヤマト糊を使っているので本格的です。調査には行けないけれど封筒作りなら手伝ってくださるという方もいるのだそうで、出来上がった封筒は買ったもののように「ちゃんとした」感じはしませんが、一つ一つの史料にぴったり合った大きさにできます。

 史料を包む高価な木綿の紐(「ヒラテープ」)もさすがわたの里、あちこちの家になぜか「使っていない白地の木綿」があるのだとか。これを細く裂いたものがぴったりでした。史料保存箱だけは購入しましたが、これを湿気から守るスノコは、もともとタオルを湿気から守るために荷造場に敷かれていたものです。これからこのスノコと、同じく荷造場にあった廃材を使って、文書保存用の棚を作る計画もあるのだそうです。

  目録作成

 稲岡鉄工さんが事務所棟の二階を丸ごと快く貸してくださったおかげで、まずは雨漏りのする倉庫の史料を避難させることができ、元社長室という優雅な場所で目録取りと袋詰めをして、スノコの上に並べていっています。「稲岡工業株式会社文書」は、かつて『加古川市史』編纂時に編纂に必要な部分だけ整理され、1993年に『稲岡工業株式会社文書目録』が作られていました。そこでまずはこの目録にある史料が今もあるかどうかを確認し、袋詰め・箱詰めする作業から始めたところ、多くの方々がそれぞれの関心から集まって、驚きの速さで進んでいます。

 こうしてきれいに整理された史料の箱が事務所内にどんどん並んでいき、探したい史料が簡単に見つかるようになりました。最初の惨状から一転、本格的な研究への準備が整ってきたという感じがしています。そろそろ目録のある部分の史料整理が終わり、いよいよ自分たちの手で未開拓部分の目録を作る時が近づいています。

 目録があるのは倉庫に収められていた史料の半分ほどで、倉庫の残り半分、蔵、事務所棟の史料の整理はまったく手つかずです。特に蔵に収められていた創業以来の帳簿類と書簡の写しは大変貴重な史料です。昨年12月20日、その運び出しに着手しました。

  誰も本格的に見たことのない史料との出会いに胸を膨らませつつ、埃や虫と闘っています。(3200)

 *写真:渡辺氏が整理している史料が入っている段ボール箱(稲岡鉄工事務所棟二階)。

 

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わたの里通信誌(52)  保存会の活動から学んだこと(1)

2016-04-28 13:17:34 | わたの里通信誌

      保存会の活動から学んだこと(1)

            お茶の水大学 博士課程・渡辺千尋

  稲岡工業株式会社文書との出会い

 「稲岡工業株式会社文書」を初めて見たのは2013年の秋、県歴史文化遺産活用推進員の小林誠司さんのご案内でした。台風が近づいて雨が次第に本降りになる中、倒産した稲岡工業跡の事務所棟・倉庫・蔵は電気もつかず散らかり放題で、まるで廃墟のように思えました。雨漏りで湿った倉庫に取り残された史料の山を見て、アーカイブズを勉強したことのある者として、これは放っておけない!と思ったのです。でも当時は小林さんと二人きりで、こんな大量の史料をいったいどうすれば…と途方に暮れる思いでした。

 そもそも私が稲岡工業文書のことを知ったのは、『加古川市史』を読んでのことです。文書を見たくて稲岡工業部分の著者である広島県立公文書館の西向宏介先生にお手紙を出したところ、松岡資明さんの書かれた日経新聞文化面の記事の切り抜きをお送りくださり、稲岡工業倒産後の文書の行く先を大変心配しておられるとのことでした。そこで私は西向先生に現状をお知らせし、小林さんは地元の多くの方々にかけあってくださり、史料が引き寄せたのか不思議に人が人を呼んで、「稲岡工業株式会社保存会」が立ち上がったのでした。

   史料の内容を楽しむ

 さて保存会ができてみると、私の当初の責任感や気負いもどこへやらでした。保存会世話役の吉田さんご夫妻に私はすっかり甘えてしまい、調査の際にはお宅に泊めていただき、自転車をお借りしてお昼ご飯に菜漬のおにぎりまで持たせてもらい、コスモスの咲く田んぼ道を通って今は稲岡鉄工さんが賑やかに操業している事務所棟の二階へ通う、大変楽しい史料調査となりました。それだけでなく、保存会に集まった方々のお顔ぶれがまた、楽しいのです。特に昭和32年に稲岡商店(稲岡工業株式会社の前身)に入社された「生き字引」の當間亨さんが、調査をする上での案内人になってくださいました。

 當間さんのご指導を受けながら稲岡商店創業兄弟の稲岡孝治郎『当用日記』を読み、書簡集や帳簿を突き合わせていくことで、稲岡商店の動向が立体的に見えてくるように感じています。また地域史家として稲岡商店に興味を持たれている上月先生ご夫妻、鐘紡との関係について調べにいらしている武内さんご夫妻など、異なる視点やバックグラウンドを持つ方々のご意見をうかがいながら一つの史料を解読していくことも、とても刺激的な体験になりました。上月先生には加古川の地域史を研究する上でまず見るべき文献と行くべき図書館(『兵庫県史』・『加古川市史』・『志方町史』、兵庫県立図書館)、今は廃刊になってしまった志方公民館情報紙『志方郷』など、基本的な研究成果を教えていただきました。これから武内さんのコーディネートで、鐘紡の元マーケティング室長の池田則一さんをお招きして當間亨さんとのトークセッションも企画中です。どんなお話が出てくるのか、今からとても楽しみです。(no3199)

 *写真:稲岡工業の文書について講演する渡辺千尋氏(西神吉町大国レインボー会館にて)

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わたの里通信誌(51) 古文書の保存と整理(3) 

2016-04-28 10:18:19 | わたの里通信誌

   古文書の保存と整理(3) 

         広島県立文書館主任研究員・西向宏介

3、古文書の保存

 古文書整理の過程で傷みの激しいものがあった場合は、とくに保存の手当てが必要です。

 湿気を含むものや虫・カビの被害があるものは、被害が広がらないよう、まず隔離し、陰干しするなど、できる限り除去する必要があります。被害が大きい場合は、専門業者による燻蒸が必要です。ただ、当面燻蒸ができない場合は、自前でできる方法を考えます。カビ被害の場合、程度が少なければ、エタノール(濃度70%)を柔らかい布やティッシュ等につけて軽くたたくように拭き取ります。カビが広がっている場合には、霧吹きで吹き付けて殺菌し、乾燥させます。カビは乾燥させると活性が落ちますが、胞子が飛散しやすくなるため、体内に吸い込まないよう注意が必要です。カビの胞子を通さない性能のマスクを着用したり、ゴム手袋を使用したり、また換気にも留意します。虫害については、虫自体を取り除いても生きた卵が残っている場合があるため、虫害の激しい文書については、注意深い観察が必要です。

 古文書を虫菌害から守るには、適切な温湿度環境のもとで保存することが重要で、温度20℃前後、湿度55%前後が適切とされています(湿度60%を超えるとカビが発生します)。

 また、防虫剤はピレスロイド系の薬剤を用います。かつては樟脳やナフタレン、パラジクロロベンゼンなどが使われてきましたが、刺激臭が強く人体への悪影響も懸念されます。また、化学反応の恐れがあるため、異なる薬剤を絶対に混用しないよう、

 注意することが重要です。

  おわりに

 古文書の保存・整理は、それ自体が目的ではなく、それらを後世に永く活用できるようにすることが目的です。古文書の活用方法は様々ですが、大分県のように、過去の災害事例を発掘して今後の防災対策に活かすため、古文書の所在調査を実施したところもあります。また、多くの自治体が力を入れる観光の面でも、地域の魅力を発信するためには、その地域独自の歴史を発掘・再発見することが重要です。古文書はその点でも大きな可能性を含んでいます。

 稲岡工業文書は、綿作・綿織物業地帯であった加古川市域の歴史を裏付ける史料であり、全国一のタオルメーカーがこの地に存在した証しでもあります。加古川市は市制65周年を迎えましたが、市制施行以前の加古郡・印南郡時代、さらには姫路藩政時代にまで遡る歴史が刻まれた史料です。この文書を守るか否かは、加古川市域の長い歴史の歩みを守るか否かという問題でもあると言えます。(no3198)

 *写真:稲岡工業に残る文書(一部)

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わたの里通信誌(50) 古文書の保存と整理(2)

2016-04-27 08:12:11 | わたの里通信誌

   古文書の保存と整理(2)

            広島県立文書館主任研究員・西向宏介

  2、古文書の整理

 次に、古文書の保存と整理に関する基本的な原則と手順について、述べていきたいと思います。

  (1)整理の原則

 古文書を整理する際、大切な原則が5つあります。まず1つめは「出所の原則」です。古文書は、その文書群を生み出した母体(家・団体・企業等)つまり「出所」ごとに整理するというもので、稲岡工業文書を他の文書群と混ぜてはいけないということです。

 2つめは、「原秩序尊重の原則」です。表現がやや難解ですが、文書群が元々持っていた秩序を尊重して整理するという原則です。通常、会社の中にはいくつかの部署があり、その部署ごとにいくつもの仕事があります。文書はそうした組織・仕事の体系の中で生み出されてくるものであり、稲岡工業文書には、会社が持っていた組織・仕事の体系に沿って生み出された秩序(つまり「原秩序」)が本来存在したはずです。文書整理とは、この原秩序を復元・再発見する作業であるとも言えます。

 3つめは、「現状記録の原則」です。文書整理が本来、原秩序を復元するものであるとしても、整理する直前の状態(つまり「現状」)はきちんと記録しておく必要があり、スケッチや写真・ビデオ等で現状を記録します。

 4つめは「平等取扱の原則」です。文書に優劣をつけ、整理したい(しやすい)ものだけを抜き出して整理してはいけないという原則です。

 5つめは、「原形保存の原則」です。文書の原形をなるべく崩さずに整理するという原則で、袋や包紙・紐・こよりなどで一括されていた文書は、その状態をなるべく保持して整理します。もし、一括状態を崩す場合は、もともと一括文書であったことを目録の「備考」欄に記入するなど、きちんと記録することが重要です。

以上の5つの原則は、どんな古文書を整理する場合でも、留意すべき基本原則です。

  (2)整理の手順

 次に、実際の整理の手順について述べます。

 まず、写真撮影を行いながら、文書の現状記録と点数確認を行っていきます。はじめに、①撮影ターゲット(文書群名を書いた紙と番号札)と付箋を作成しておき、②文書が入っている箱の外観を撮影します(箱ごとの番号札〈「箱1」など〉を添えたターゲットを写し込む)。③次に、箱の蓋を開けて、中に文書が入っている状態を撮影します。そして、④箱の中の文書を上から順番に数点ずつ取り出し、入っていた順番通りに番号札と一緒に並べて写真撮影します。⑤撮影が済んだものは、番号を書いた付箋を挟んだ上で、順次ほこり払いをしていきます。

 ほこり払いは、作業場所の確保と十分な換気が必要です。作業時には必ずマスクを着用します。また、空気清浄機や集塵機などがあれば衛生的に作業できます。HEPAフィルター(またはULPAフィルター)付の掃除機を購入すれば、清掃に使うだけでなく、段ボール箱に穴をあけたものと接続して、集塵機としても使えます。

 ほこり払いが済んだら、目録作成に移ります。目録は、パソコン入力(もしくは手書きしたものを集約してパソコン入力)しますが、どのような記載項目を設けるかが一つ重要です。必要な記載項目としては、「文書番号」「枝番号」「表題」「年代」「作成者」「形態」「数量(点数)」「中身数量」「破損状況」「備考」が挙げられます。一括文書の場合、「数量」は1点とし、中身の内訳点数を「中身数量」欄に記入します。また、特記事項があれば適宜「備考」欄に記入します。

  目録への記入が済めば、文書を封筒などに収納します。封筒に入らないものは、文書の形状に合わせて様々な包装方法を用います。封筒には文書番号や表題を記入しますが、筆記具は鉛筆などを用い、インク類は使わないようにします。封筒や保存箱に使う紙は、劣化が進みにくい中性紙が望ましく、とくに文書とじかに接する封筒類には、必ず中性紙を用います。(no3197)

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コーヒー・ブレイク 楽しい旅行でした

2016-04-26 13:40:43 |  ・コーヒーブレイク・余話

  コーヒー・ブレイクです。

 「円照寺の花たち」はお休みしていますが、来週あたりから再開します。

 ・・・

 最近、旅行へ出かけることも、めっきり少なくなりました。歳ですね。

 先日、テレビを見ていて、画面にある立山(室堂)の雪の壁を見ながら、妻が「ここへ行こう」と、何とはなしに話がまとまり。(4月)24・15日、出かけました。

 立山(黒部)へは3度行ったことがありましたが、その時はいつも雨。

 ですから、頭にはここは1年中雨が降っているところとさえ感じていました。

    奇跡が起きました

 出発時(24日)は、朝から薄日和。

 午後、立山の登山口あたりからガスが出てきました。

 「またか」と思いましたが、この時期限定の「雪の壁ぐらいは見えるだろう」とバスに乗りこむと、事態は最悪。

 バス周囲10㍍ぐらいは何とか見える程度で、ますますガスは濃くなっています。

 雪の壁の室堂の手前まで、この状態は続きました。

 それが何としてことでしょう

 室堂の雪の壁のすぐ手前で、まるで魔法にでもかかったように、ガスは急激に吹き飛んだのです。

 部分的にではありません。目の前に見事な山が突然に現れ、青空さえ見えてきました。

 大パノラマです。嘘のような本当の出来事でした。大感激です。

 運転手も(ビックリ)されていました。

    ふえましたね、外国人の旅行者

 もう一つのビックリは、夜のホテルでした。

 食堂で聞こえてくる会話は中国語・韓国語、それに少しばかりの英語です。

 「ここはどこの国?」といった感じ。

 そのためか、食事はバイキングでしたが中国味・韓国味・西洋味、それに日本味の料理が用意してありました。

 フロントの人数も少し多いようです。というのは、中国語・韓国語など専門の接客係がおられました。

 楽しい、不思議な経験の二日間の旅になりました。(no3196)

 *写真:室堂の雪の壁

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わたの里通信誌(49) 古文書の保存と整理(1)

2016-04-26 09:58:06 | わたの里通信誌

 

     古文書の保存と整理 

          西向宏介(広島県立古文書館研究員)

  はじめに

 稲岡工業株式会社文書は、保存会の方々の活動により少しずつ整理が進み、良い方向へ向かっていると感じます。

 保存すべき史料は膨大にあり、また、それらの保存環境や史料の劣化状態はかなり厳しいものがあります。さまざまな制約の中でどのように保存・整理を進めればよいか、難しい問題ですが、本稿では、古文書の保存をめぐる問題と、保存・整理に関する基本的な事柄について述べたいと思います。

 1、古文書の保存をめぐる問題

 まず、今日における古文書の保存をめぐる問題について触れておきたいと思います。

 現在、「地方消滅」の危機が指摘されているように、平成の大合併を経て、都市化と過疎化・高齢化が中山間地域を中心に急速に進行しています。その中で、旧家の建て替え・取り壊しや無住化等により、古文書の消滅もまた急速に進行していると考えられます。その全国的な状況はまだ明らかになっていませんが、都道府県レベルで古文書の所在状況を調査したいくつかの事例を見ると、過去50年ほどの間に、少なくとも20%程度の古文書が廃棄または消滅していると考えられます。過疎化や集落の消滅が急速に進む現在の状況を踏まえると、この動きは今後さらに加速する恐れがあります。

 播磨地方の市町村史編さん事業では、膨大な量の古文書の所在が確認され、史料目録が多数刊行されましたが、それら古文書の大半は、目録作成後に所蔵者のもとへ返却されており、現在の保管状況は不明です。所蔵者が保管に困った時、受け皿となる機関がなければ、地域の歴史はどんどん消滅していくことになります。地域の記録遺産である古文書を守るため、その最終的な受け皿となる史料保存機関が必要であることを、改めて強調したいと思います。(no3195)

 *写真:稲岡工業に残るの古文書の一枚

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播磨の地震(7) 首都・加古川(幻の遷都論)

2016-04-23 07:20:14 | 播磨の地震

  〈お知らせ〉

 明日24日(日)と25日(月)は私用のため、ブログはお休みさせていただきます。都合により、26日(火)もお休みになるかもしれません。ご了解ください。

 きょうのブログは、「わたの里通信誌」の続きの予定でしたが内容が途中で、途切れますので、来週になります。

 なお、今日の「首都。加古川遷都論」は先に紹介した話題ですが、「播磨の地震」として再掲します。

 

  首都・加古川(幻の遷都論)

 大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおき、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。

 「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つにあげています。

 加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということであったようです。

 が、その他に「中国大陸侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがありました。

 候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられていました。

 ソウルを日本の首都に候補に挙げたのは、露骨な中国大陸侵略に備えた遷都論です。

 「遷都(八幡和郎著)」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。

 「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、(大きな)大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。

 防空という観点からも理想的である。

 商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

 この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになりました。

 加古川の地は、他にも平清盛の時、日本の首都の候補にあがったことがあります。(no3194)

 *写真:関東大震災直後の東京

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播磨の地震(6) 「南海地震」・詳細は報道されず

2016-04-22 10:03:47 | 播磨の地震

     「南海地震」・詳細は報道されず

 突然の地震は昭和21年12月21日の早朝に発生し、死者は、1、300人をこえました。

 潮岬の沖合いを震源とするマグニチュード8.2の巨大地震・南海地震です。

 この時期、日本は敗戦により占領されていおり、マスコミの自由な報道も禁止されていました。

 そのためか、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていません。

 ある新聞は、加古川地方のようすを次のように伝えています。

 「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。・・・」

 この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことです。

 最近、さらに大きな、次の南海地震が近いと、さかんに報道されています。

 要注意です。(no3193)

 

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わたの里通信誌(48)  廃藩置県後、綿作は衰えたが・・・

2016-04-22 09:31:55 | わたの里通信誌

     『村明細帳』から見た江戸時代の村々について(3)  

    上月昭信(東播磨地域史懇話会会長・兵庫県文化財保護指導委員)

   廃藩置県後、綿作は衰えたが・・・

 やがてこのことが、廃藩置県後、姫路藩の保護がなくなり、多くの木綿問屋が衰退するなかで大坂問屋との関係を続けていた稲岡家が発展する要因の一つになる。

 なお、この頃、綿栽培の肥料として干鰯が使われており、稲岡家では購入代金が用意できない百姓には干鰯の代金も貸し付けていたようで綿布の購入時にその代金と清算していたことが稲岡家の「干鰯通」に記されている。

 江戸時代、各村々の働きの中心は米作りであったが余業も大切な稼業であった。

 「村明細帳」を通じてわかることは、江戸時代の中期から後期にかけて印南郡と加古郡の人々は自分達の住んでいる環境や立地、自然にうまく順応して暮らしを立てていたことである。例えば、海辺の村であれば塩田を利用して塩の生産と陸塩売を行い、街道沿いの宿場町で加古川沿いの村では小商や往来働き、旅籠屋、茶屋、渡守、また、人々が集まることから古手商人・饅頭屋・豆腐屋、毛綿商人、綿繰屋などの職業があったことが知られる。また、それらとは無縁の志方などの純農村では、「農業の間、男は薪を取り、草を刈り、女は木綿を織る」とあり、村によっては「塩俵」や「縄俵」を拵えていたことが知られる。

 いずれにしても江戸時代、旧印南郡と加古郡の村々に暮らした人々にとって木綿は大切な収入源で人々の生活を支えていたのである。

 ※「村明細帳」の記述のうち加古川市域のものは「加古川市史第5巻」加古川市1987年、高砂市域のものは「高砂市史第5巻」高砂市2005年、播磨町域のものは「阿閇の里」播磨町1982年、稲美町域のものは「稲美町史」稲美町1982年によった。(no3192)  

 *写真:稲岡家の干鰯通

 

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播磨の地震(5)  加古川地方の津波

2016-04-21 11:38:33 | 播磨の地震

          津 波

  東北地方太平洋沖地震では、過去に例をみないマグニチュード(M)9.0の大地震による津波が、東北地方全域を一瞬に飲みこんでしまいました。

 津波の高さは10メートルの堤防を軽々と越えてしまいました。

 津波は10~20メートルとかいわれていますが、被害状況をみているとそんなレベルではないようです。

 リアス式海岸を襲った津波は、せり上がり、50メートルという高さまで到達したところもあったようです。

    加古川地方の津波

 では、加古川地方(瀬戸内地方)は、かつて津波の襲来どのようであったのでしょう。

 瀬戸内海沿岸に来襲した地震津波に関しては、被害が少なかったためか関心も薄く、その実態はほとんど研究されていません。

 それでも、津波に関する古記録がわずかに残されています。

 それらから推測されます。

  宝永地震(宝永四年・1707)による津波

 宝永地震による瀬戸内海沿岸各地の津波は、大阪府で2.5~3㍍で、兵庫県では赤穂で最高の3㍍を記録しています。

 岡山県でも最高3㍍を記録しています。

 広島県では1.2~2㍍と、津波の高さは東高西低の傾向が見られます。

 これらの記録から、加古川地方でも最高3㍍の津波があったのではないかと推測されます。

  安政地震(安政元年・1854)による津波

 安政地震では、大阪府で2.4~3㍍、兵庫県2~3㍍で、神戸では2㍍、赤穂では最高3㍍の津波を記録しています。

 この時は、岡山県では1~2㍍程度の津波でした。

 このような状況から加古川地方の津波は2~2.5㍍程度の津波があったのではないかと想像できます。

 なお、後に紹介する昭和21(1946)の南海地震の津波は0.8~1.2と低い津波でした。

 残された記録等による推測によれば、加古川地方では津波による被害はほとんどなかったようです。

 しかし、次の東海・東南海・南海地震が同時におきるのではないかと危惧されています。

 そうなれば、歴史の記録だけでは安心はできません。(no3191)

 *論文:「瀬戸内海の歴史南海地震の津波について」(山本尚明)参照

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播磨の地震(4) 米田大地震(応永19年・1412)

2016-04-21 11:16:23 | 播磨の地震

       米田大地震(応永19年・1412)
 中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書(ちんぞうしぶんしょ)』に応永19年(1412)11月14日の早朝・米田に大地震があったことを記録しています。
 地震の記事は、次のようです。
 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋(人家)はくつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・
 播磨以外では、さほどのことはなかったようです。
 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録しています。
 この時の米田の地震は、震源地が浅く、今で言う直下型の地震であったようです。

  加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を厚く覆い、地震を引き起こす地下の断層が分からなくなっています。
 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要でしょうが、加古川にはあんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害を引き起こすかもしれません。
 593年前に米田を中心にしておきた米田大地震は、そのことを私たちに教えてくれているのでしょう。
 歴史か教訓を学んでおく必要がありそうです。

  米田大地震については『室町お坊さん物語(田中貴子著』(写真)をお読みください。

  なお、『鎮僧私聞書』は、応永32年(1525)の加古川大洪水についても記録しています。(no3190)

  *『加古川市史(第二巻)』・『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編さん室)参照

   『室町お坊さん物語(田中貴子著』(講談社現代新書)

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わたの里通信誌(47)  『村明細帳』から見た江戸時代の村々(2)

2016-04-21 08:47:22 | わたの里通信誌

     『村明細帳』から見た江戸時代の村々について(2)  

     上月昭信(東播磨地域史懇話会会長・兵庫県文化財保護指導委員)

 加古郡を見ると、13ケ村のうち12カ村で「男かせき 耕作の外日用かせぎ仕申候 女稼 耕作の外木綿稼仕候」と記されており、印南郡と同様、「木綿稼ぎ」は「女の余業」として記されている。

 また、木綿稼ぎの記載のない「荒井村」では、職業として「陸塩売197人・米麦豆売商人7人・問屋10人・小商人73人・干鰯屋3人」、「村に而浜奉公人男130人、女142人・近村へ一年切奉公に参候者男83人、女29人・明石・兵庫・大坂へ一年切奉公に参候者65人・大坂へ一年切奉公に参候者23人・紀州浜稼に参候者45人・江戸稼に参候者6人・船乗39人・漁師2人」と記されており、陸塩売や村の浜奉公、近村への一年奉公、明石・兵庫・大坂への一年奉公、紀州への浜稼ぎや江戸稼ぎに出かけるなどして生活を支えていたことがわかる。なお、「陸塩売」とはこの地域で生産された塩を奥地に運んで売る商売で、奥地には陸塩商人の歩行荷か馬荷によって運ばれていた。

     姫路藩の綿専売制

 姫路藩は文化5年(1808年)、藩主酒井忠道は藩の債務が73万両に達したため、河合道臣(寸翁)に藩政改革を委任する。河井道臣は姫路藩内の産業の中で特に加古川下流域の「東郷地域」で盛んに行われていた木綿生産に目をつける。

 姫路藩は「木綿専売制」をめざし各地の産地と争いながら江戸の問屋や幕府の役人の了解を得て文政6年(1823年)、「姫路木綿」の江戸での専売権を獲得して木綿専売制を始める。専売制のもと、東郷地域(印南郡と加古郡)の「姫路木綿」は、一定の幅と長さで織られた白木綿で「長束木綿」と呼ばれ江戸で好評を博し売れ行きも順調であった。

 一方、長束問屋として出発した印南郡横大路村の稲岡家は、天保12年(1841年)8月、九兵衛の代に本家である稲岡大蔵家から分家し、以後、長束問屋として成長し、やがて明治期にはタオル製造会社として発展することになる。

 木綿専売制の仕組みを見てみると、東郷地域の各村々では、綿の種を畑に蒔き干鰯などの肥料を与えて栽培し、収穫した綿を自分で綿繰りするか綿繰屋に出し、繊維と種に分離し、種は売り、繊維は糸にして紡ぎ、紡いだ糸で綿布(木綿)を織り、一定の規格に織り上がった木綿を仲買商人が各家庭(織元)を回って買い集め、仲買商人は集めた木綿を木綿問屋に売り、木綿問屋はそれを「江戸積み」として船で江戸に送り、江戸問屋に販売することを基本としていた。     

 しかし、稲岡家などの長束問屋の一部は大坂問屋との関係が深く、旧来からの得意先であった大坂問屋との関係を大切にし、以前と同様、継続して取引をしていたことが記録から知られる。(no3189)  

 *写真:稲岡家分家に関する書類

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