ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(342)  白矢薬師堂

2015-09-05 07:52:22 |  ・高砂市伊保町

 伊保町中筋の白矢薬師(しらややくし)に来ています。

 『高砂の史情』(森村勇著)で白矢薬師について次のように紹介されておられるのでお借りしました。

    白矢薬師(しらややくし)

 竜山連峰西の荒山(57㍍)と薬師山(69㍍)の谷間に、東光山薬護寺跡といわれる広い敷地があって、正面奥まった所に真新しい薬師堂(中筋5丁目)が建っています。

 中世、この付近に居を構えた曽根藤四郎義宗にゆかりのある寺だったとか、境内に気泡を出す「薬師の泉」があったとか言われていいますが明らかではありません。

 谷間に頭を出している切り立った岩場は陽光で白く輝き、岩肌を走る切り石の跡は光の影で矢羽根を思わせています。

 石切場と屑石の白い岩山に向って、旅姿の石の地蔵さんか独り直立している光景に、武将や村人が仏に祈る姿を連想し、私(森村勇氏)も思わず手を合わせました。

    西井ノ口の写真集を紹介します

 中島農民組合について十分紹介できていませんが、次の話題に移ります。

 2006年6月14日に「ブログをはじめます」と不安げに4行の文を書いて「ひろかずのブログ」をスタートさせました。

 それ以来、大きな事故もなく、ブログの守備範囲を加古川市・高砂市・播磨町・稲美町とし、その地域史にこだわってきました。

 そのブログも、きょうで「2928号」になりました。

 高砂市に関しては、特にまだまだ紹介することが残っています。

 その都度、付け加えます。

 が、このあたりで、一区切りをつけ、あまり地域の歴史にとらわれず、思いつくままに取り上げようと考えています。

 とりあえず、次号からしばらくは、西井ノ口(加古川市東神吉町)の写真集を紹介します。(no2928)

 *『高砂の史情』(森村勇著)参照

 *写真:白矢薬師堂(高砂市伊保町中筋5丁目)

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高砂市を歩く(341) 中島・今市を歩く(17) 農民組合の意義と終焉

2015-09-04 08:09:37 |  ・高砂市伊保町

   農民組合・東播地区の歴史的役割

 兵庫県でもっとも早く日本農民組合支部を結成したのは、印南郡伊保村中島支部であり、最初に地方連合会を創立したのも東播連合会でした。

 東播連合会が、とくに初期において全国的兵庫県的に先進的な地位をもちえた要因は次のようでした。

 第一に、東播地方が県内最大の農業地域、農業生産高、最大多数の小作農家戸数をようする地域でした。また、兵庫県で最大、かつ最多数の地主的土地所有が分布し、それに見合った小作地経営が発達していました。

 印南郡伊保村中島に始まる日農指導下の小作争議が各地に飛び火すると、猛烈な勢いで播州平野に広がっていきました。

 第二に、東播連合会は、各地に分散していた自然発生的な小作人組合を、初めて近代的農民組合に組織する組織者の役割をはたしました。

 第三に、東播連合会の発展を促進した重要な要因として、労働組合運動、水平社運動(部落解放運動)との強い連帯関係があったことをあげられます。

 農民運動の成長 は、先行する労働運動の影響によるとされますが、東播地方ではこれが逆になっていました。

 労働組合の結成以前に、東播連合会はすでに括動しており、労働組合の結成、賃上げ要求を農民組合が支援しました。

    そして、分裂

 労、農組合間でこのように強固な相互支援関係が結ばれた背景には、加古、印南郡各町村で、 農民であるとともに通勤労働者でもある階層が人口の過半数をしめていた現実がありました。

 しかし、官憲の弾圧、それになにより農民組合内の路線対立があり、兵庫県農民運動は分裂状態し、やがて、東播連合会は衰退の一途をたどることになります。(no2927)

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』参照

 *写真:日本農民組合創立大会記念写真(1922・4・9)、『高砂市史(第三巻)』より

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高砂市を歩く(340) 中島・今市を歩く(16) 中島支部の小作争議

2015-09-03 06:11:54 |  ・高砂市伊保町

  中島支部の小作争議

 東播地方でもっとも攻勢的な小作争議としてあげられるのは、伊保村中島支部のたたかいでした。

 大正11年(1922)、支部結成時点で小作料1割九分減額を獲得しました。

 その後、地主が申立てた小作調停委員会記録によると、「(地主は)大正12年度の作柄も豊作でしたが、3割の減額を行ました。が、小作は、さらに大正13年度は5割減額を要求し、大正14年度小作料についても、組合は虫害被害を理由として前年同様、6割6分減免」を要求しました。

 これに対し、調停委員会の審議は大正15年9月まで続きましたが、妥協が成立せず不調に終わりました。

 調停打切りとなり、地主はただちに大正15年度稲作を立毛のまま差押を申請しました。

 組合も東播連合会の応援を得て立毛差押にたいする警戒・動員体制をとりました。

 魚橋警察署長及伊保村長両名、双方の間に奔走し極力調停に努めましたが不調に終わっています。

 地主側は、小作地の立人禁止仮処分を準備し、これを知った組合は、今度は小作側から調停を申し立てました。

 こうして始まった調停作業は、伊保村長立会の下で昭和2年2月14日になってようやく妥協するにいたりました。

 妥結条件は、大正13、14年度小作料は4割2分5厘を減額することで決着しました。

 東播地方全体を通じて農民側が小作争議で得た最大の減額率であり、地主勢力にたいする攻勢的立場を代表している東播地方で、もっとも攻勢的争議としてあげられるたたかいでした。

    小作米の運搬料も地主持ちで

  なお、注目されるのは、「賃借料は毎年1月25日限り相手方(地主)宅に申立人(小作人)において運搬し支払うものとし、支払石数1石に対し運搬費として金7銭の割合を以て申立人に支払うものとする」という項目でした。

 小作人が、年貢米を大八車に積んで地主(ここでは伊藤長次郎)の米蔵に運びこむのがまだ義務とされていた時代に、逆に小作人が地主から運搬費を支払わせるという条項をかちとったことは、他に例がなく、農民組合の攻勢的な、立場をよく象徴していました。(no2926)

 *『東播地方農民運動(木津力松著)』参照

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高砂市を歩く(339) 中島・今市を歩く(15) 中島支部結成

2015-09-02 06:42:30 |  ・高砂市伊保町

      県下で最初の日本農民組合中島支部結成

 大正10年秋は地方一帯が凶作で、中島では反当2石4斗の収穫にしかなりませんでした。

 4月に新聞で日農創立のことを知り、中島では、数回の寄合をもって協議し、小作料2割5分~3割減額要求を地主に提出することをきめ、小作組合の結成にこぎつけました。

 志方、井上、中島、岸井、北野の5名が神戸の賀川豊彦氏の所へ相談に出かけ、行政長蔵(ゆきまさちょうぞう)が本部から派遣されました。

 この時の争議では、小作地返還戦術は問題にならず、4月28日に玄長寺(中島)で杜会問題小作問題講演会を開いて、周辺20数ケ部落の農民に参加をよびかけ、小作農民の団結を強化して地主とたたかうことを、22日に発表しました。

 当時印南、加占郡各地には小作料減額を要求する動きが伝わり、一触即発の情勢のなかで、日農本部が中島に乗り込んでくるというニュースは大きな反響をおこしました。

 この情報は、地主・当局者らに衝撃をあたえ、あわてさせました。

 地主側は「郡長、警察署長を仲裁に立て、24日夜小作科1割9分減額、および小作側委員に対し、運動費として金一封を提供するという条件で、講演会の中止方を申出ました。

 しかし、28日の講演会は吉田賢一氏らの世話で高砂町相生座に会場を移して開催され、ここに兵庫県下初の日農中島支部が生まれ、小作農民の団結の威力を内外に認識させることになりました。

 日農中島支部発会式は、4月28日午后1時開会、予定された講演会を懇談会に変更し、誕生しました。

 演説会は、労働組合の結成に期待を寄せていた労働者にも多大の関心をよび、会の成功は労働運動、社会運動に大きな影轡をあたえました。

  日農中島支部の結成は、東播地方が近代的な農民組合運動へ足を踏み入れたことを象徴する画期的な出来事になりました。(no2925)

 *『東播地方農民運動史(木津力松)』(耕文社)参照

 *写真:豪雨(9月1日)の中の現在の玄長寺(中島)

 

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高砂市を歩く(338) 中島・今市を歩く(14) 伊藤長次郎家

2015-09-01 08:14:24 |  ・高砂市伊保町

 中島の農民運動を見る時、今市の伊藤長次郎家(写真)を省くことはできません。簡単に伊藤家と時代背景ついて触れておきます。*伊藤家は、代々、伊藤長次郎の名を受け継いでいます。

    地主・伊藤長次郎家

 明治初期に伊藤家(以下I家とします)が、村内で所有した土地面積は、田2町6反1畝歩、畑14反4畝15歩、宅地5反歩であったといいます。

 I家先代が、積極的に「土地を買い入れた時期は、明治10年代の初め頃から17、8年頃です。きわめて短期間に517町4反5畝歩まで買い進めました。

 それまで、干鰯、綿、木綿、さらに米、麦、油、素麺を扱う商人資本であったI家が、大土地を所有するには、二つの理由が考えられます。

 一つは、それまで好況をうたわれてきた姫路木綿の価格が、1877(明治10)年頃から下落し、綿織物などの農村家内工業は衰退したことです。

 農家は、肥料の買入れにも困るようになり、綿作農業は、急速に衰えました。

 もう一つは、明治17年(1884)に米価が暴落し、松方デフレ(注)政策の影響のもとで地租、府県税負担が自作農民に重くのしかかったことです。

 I家は、商人資本であったとともに、高利貸を営業していました。

 利子は、貨幣貸付で10円に対して月20銭、利米は月1斗に付き二合、年利換算いずれも2割4分で、3割6分もあったといいます。

 多くの小農家は、土地を手放さざる状況に追い込まれました。

 (注):松方財政によるデフレーション政策。繭や米の価格などの農産物価格の下落で、農村の窮乏を招きました。このデフレーション政策で体力を持たない農民は、農地を売却し、都市に流入し労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりした。一方で、農地の売却が相次いだことで、土地が地主や高利貸しへと集積されていきました。

    I家は銀行資本へも進出

 I家は銀行資本へも飛躍します。

 明治10年(1877)、姫路市に「国立第三十八銀行」が開設されると、I家先代は副頭取、後に頭取となります。

 藩士出身でないI家先代がこの地位を得たのは、蓄積した貨幣資本の実力もありますが、廃藩置県まで一橋家の木綿会所の運営、藩札発行などに協力して、当時から渋沢栄一との密接な関係を最大限に活用したことがあったといわれています。

 「三十八銀行」は、国立から株式会社に変り、増資しながら群小銀行を合併して、後に神戸銀行に統合されています。

 このように、I家は、大商人資本、寄生地主になりました。(no2924)

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照

 *写真:伊藤長次郎

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高砂市を歩く(337) 中島・今市を歩く(13) 中島の農家の約47戸のうち40戸が小作・自小作

2015-08-29 07:21:25 |  ・高砂市伊保町

 中島・今市を歩いています。

 中島は、兵庫県で最初に日本農民組合の支部が結成された集落です。

 中島・今市を含む農民運動について『東播地方農民運動史(木津力松著)』(写真)に詳しく紹介されていますので、読んでみます。

   中島の70戸の集落、うち農家は47戸 

            (約40戸が小作・自小作)

 兵庫県で最初に日農(日本農民組合)支部が結成されたのは1922(大正11)年4月28日、印南郡伊保村中島支部においてでした。

 当時、中島は、総戸数70戸、うち農家は47戸、非農家が23戸の集落で、農業戸数の大部分をしめる約40戸が小作、自小作と推定されます。

 非農家には地主があり、他方で農業を離れ、日本毛織、三菱製紙、鐘渕紡績に通勤する労働者の多いのが特散でした。

 耕地面積は、田36町歩の大半を、近在の大地主・伊藤家(今市)をはじめとする数戸が所有しており、小作地として27.8町歩を貸し付けていました。

 *大地主・伊藤家については、後に説明します。

   耕地規模は1戸平均7反歩

 耕作規模は、1戸平均で約7反歩、農事に精励する篤農家が多い村でした。

 収穫は、平年作で一等田2石7,8斗、裸麦1石5、6斗で、小作料は1等田で1石8斗5升(68%)、田一級下がるごとに5升引が決められていました。

 大正10年(1921)の秋は、地方一帯が凶作で、中島では反当2石4斗を収穫、「収支計算すれば、一反歩に7円50銭の損失」が出る状態でした。

 それまでから、村では毎年収穫時に作況を検討したうえで、代表(5名)を選んで地主と交渉しましたが、地主は小作料減額を認めても5分程度でした。(no2922)

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照

 *写真:『東播地方農民運動史』表紙

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高砂市を歩く(336) 中島・今市を歩く(12)  日本農民組合の誕生

2015-08-28 00:11:49 |  ・高砂市伊保町

 話題を変え、時代も一挙に現代(明治以降)へ移ります。

 きょうのブログには、あまり中島・今市は登場しません。

   日本農民組合、神戸で誕生

 大正7(1918)年に起きた米騒動は日本の杜会運動動に大きな影響を与えました。

 さらに、第一次世界大戦後のロシア革命の思想的影響もあって多数の労働組合が組織され、同8年には497件ものストライキが起きています。

 並行して、農村においても小作争識件数は年ごとに激増しました。

 小作入組合が組織され、小作人も組合を背景に集団的に要求する形に変わっていきました。

 このような時期に、日本農民組合創立者である賀川豊彦(写真)と杉山元治郎によって設立の準備がすすみ、同11年4月9、神戸キリスト教青年会館において創立大会が開かれました。

 大会議長に杉山が選ばれ、貿川起草の次の綱領が決定されました。

    綱   領

 一、われら農民は知識を養い、技術をみがき、徳性を涵養し、農村生活を享楽し、農村文化の完成を期す。

 一、われらは相互扶助のカにより、相信じ、相より農村文化の向上を期す。

 一、われら農民は、穏健着実合理合法なる方法もって、共同の理想に到達せんことを期す。

以上から考えても、この組織は穏健的であり、地主との協調的な色彩の渡い性格をもっています。が、誕生の意義は大きなものがありました。

   中島は、農民組合兵庫支部の最初の支部に

 なお、大会は杉山元治郎を組合長に賀川豊彦ら九人の理事を選出して幕を閉じました。

 このようにして、わが国最初の全国的農民組織が名実ともに発足し、その指導のもとに農民運動が組織的に展開するようになりました。

 この日本農民組合設立後、兵庫県下において最初の支部が中島において組織されたのです。大正(1922)11年4月のことでした。(no2921)

 *写真:日本農民組合設立の中心になった若き日の賀川豊彦

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高砂市を歩く(335) 中島・今市を歩く(11) 今市札

2015-08-27 08:19:45 |  ・高砂市伊保町

     渋沢栄一と今市村

 後に大蔵官僚として大活躍する渋沢栄一は、幕末に一橋家に仕え、高砂市と関係を持ちました。

 渋沢栄一は、一橋家の経済を立て直すためにいろいろと手を打ちます。

 彼は、一橋家の財政立て直しのための一つに、播磨の特産品である木綿や菜種油に注目しました。

 姫路藩の木綿専売制は有名ですが、一橋家領でも木綿が織出され、印南郡北部や加古川下流の今市・中島・曽根の諸村には木綿仲買が存在していました。

 特に、今市村の木綿仲買は姫路藩領でも買取活助は姫路藩の専売削の阻害要因になるほどでした。(天領として木綿販売に姫路藩の専売制の方法で若干対立した点もあった)

 渋沢は、一橋家領の木綿は、姫路藩のようにまとめて大坂・江戸で売るなら価格も上昇するだろうと考えました。

 慶応元年(1865)に細工所村(加古川市東志方町)へ出張し、8月28日から1ヵ月間今市村に逗留して一橋産物会所(役所)の開設を準備しました。

 今市村に役所を置いたのは、資産家が多く、家屋や土蔵などの設備もあり、なにより水運が便利だったからです。

 実際に会所は今市村・鈴木長左衛門家の空家(あきや)が利用されました。

    今市札

 また、渋沢は売買の便利をはかるために木綿預手形(今市札)を発行しました。

 この木綿手形の背景には当時金相場が高騰して、正貨である幕府貨幣の流通が滞っていたという事情がありました。

 人々は正貨の代替物を求めていたのですが、それには信用がなによりも大切でした。

 といっても、どこの藩(天領を含む)台所は火の車でした。

 一橋家も十分な引替準備金はありません。

 そこで、渋沢は裕福な者から借銀をして準備金を用意することを考えました。

 この出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500両)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250両)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800両)のほか地元・今市村伊藤長次郎(600両)、同村入江十郎(300両)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)、その他一人(120両)、四人(200両)両ずつ、一人(60両)で、総額6380両を集めました。利息は年8朱で10年返済でした。

 これらの出資者はすべて、産物会所及び引替所の役職に就いています。

 一橋家の発行する手形は、大きな信用を作りあげることに成功しました。

 そのため、一橋家領の木綿預手形は一匁のものはいつでも一匁と額面通り流通したといいます。

 今市村の商は、大いに繁栄しました。(no2920)

 *『高砂市史(第二巻・近世編)』参照

 *挿絵:今市札(『高砂市史・伊保篇』より)

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高砂市を歩く(334) 中島・今市を歩く(10) 今市は天領

2015-08-26 07:55:54 |  ・高砂市伊保町

 今市の正覚寺の山門の前に地蔵立像(写真)があります。

 14世紀中ごろから後半にかけての南北朝時代の終わりの頃の石造のようです。

 この地蔵さんの説明に説明があり、その最初を読んでおきます。

    今市は、天領

 「今市は、江戸時代の終わり、徳川家の御三卿一橋家の天領であった。

 集落内を歩くと、村の裕福さが良く分かる。

 町並みの古さや堂々とした構えなど、他の集落には見られない趣がある。・・・」

 説明は、この地蔵像より、今市は一橋領の天領であり村の裕福さを誇っているようです。

 ここでは、天領、今市・中島・曽根村について少し説明しておきます。

    天領(一橋領)

 八代将軍の吉宗は、家康によって創設された御三家にならって田安家(吉宗の二男)・清水家(将軍家重の二男)・一橋家(吉宗の四男)をもって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。

 江戸時代初期におかれた御三家が、中期になると将軍家との関係が次第に疎遠になってきたためでした。

 御三卿には、それぞれ領地があたえられた。

 吉宗の四男・宗尹(むねただ)の一橋家にあたえられた土地は約10万石でした。

 その10万石の一部が今市・中島・曽根村からの物でした。

 もともと、今市・中島村は姫路藩でしたが、慶安4年(1651)に幕府領になりました。

 そして、延宝6年(1678)相模小田原藩の領土になりました。

 そして、宝永4年(1714)の富士山の大噴火により、小田藩はあたかも亡所のようになり、それに代わる土地を宝永5年(1708)に、復興がなるまでという期限つきで、中島今市を含めた新たな領地を得ました。今市・中島・曽根村は、より強く小田原藩の支配に組み込まれました。

 その後、小田原藩も復興がなり、延享4年(1747)から今度は、一橋領に組み込まれました。

 以後、今市・中島・曽根は一橋領として、江戸時代の終わりまで続いています。(no2919)

 *写真:正覚寺の山門前の地蔵さん

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高砂市を歩く(333) 中島・今市を歩く(9) 中島村 vs 今市村

2015-08-25 08:31:31 |  ・高砂市伊保町

   中島村と今市村

 高砂市を歩く(331・332)の地図で、中島村と今市村をながめています。

 現在の地図から、これらの地域を捜しても、辺りは「家だらけ」で、元の中島村、今市村の原形を捜すことはできません。

 こんな時は、元の村のあたりを歩いてみることです。

 見つけるのは簡単です。元の村はお寺を中心にしていますから、そのあたりを歩けば村の原型は案外残っているものです。

 先日、中島の(雁南山)玄長寺(浄土真宗本願寺派)の周囲を歩いてみした、やはり江戸時代の集落であることはすぐわかります。

 このあたりは、狭い路地と比較的大きな家構えの家が密集しています。新興住宅の密集する現在風の風景ではありません。

   今市村・有力者の支配する村

 次に、法華山谷川の東の土手を南へ今市の集落のあった場所へ急ぎました。今度は、目指すは(臨江山)正覚寺(浄土真宗本願寺派)です。

 浄土真宗のお寺は、一般的に大きく目立ち、すぐにみつけることができます。

 さっそく、辺りを散策しました。

 どうも、中島の周辺と雰囲気が違います。

 正覚寺の周辺には、大きな古そうな屋敷が目につきます。

 それも一軒だけではありません。今市村は裕福な有力者が支配していた村であることは、一目でわかります。

 『高砂市史(伊保編)』には、「・・・昔より鈴木長左衛門、入江十郎、伊藤長次郎などと言える豪家あり、・・・」「・・・正覚寺は、鈴木長左衛門の先祖高政の創建による・・・」と紹介しています。

 これら豪家は、地主であり、商業活動で富を蓄えたようです。

 今、『東播地方の農民運動史(木津力松)』(耕文社)を読んでいます。

 大正時代、兵庫県で最初に農民組合が結成されたのは、中島村でした。

 地主は、今市の有力者の名前がしばしば登場します。

 江戸時代の、詳しい記録はないのですが、有力者の支配する今市。

 その今市村の有力者に支配される中島村と言う構図が浮かびます。

 とんでもない、思い込みかもしれません。調べてみます。(no2918)

 *『高砂市史(伊保編)』参照

 *写真:今市の屋並

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高砂市を歩く(332) 中島・今市を歩く(8) 喧嘩島

2015-08-24 10:21:28 |  ・高砂市伊保町

 今回のブログは「高砂市を歩く(126・喧嘩島)」の再録です。

 喧嘩島は、南洗川の出口にあった今市のすぐ南にあった島です。

    復習・喧嘩島(けんかじま)

 右の地図(明治28~31頃)をご覧ください。

 伊保村と荒井村の間に島(赤く彩色した島)があります。

 復習になりますが、この島が今回の話題の喧嘩島です。

 洗川の河口近くに小さな砂州が生れ、それは、やがて小さな島となりました。

 後に、この場所に現在の高砂市役所が建てられました。

 砂州であるこの島をめぐって荒井村・伊保崎村と今市村の人々は、自分たちの土地であると主張し争いになりました。

 寛文7年(1667)、荒井・伊保崎両村のものとする裁定で結着したといわれますが、喧嘩島の名は、その後も地名として残りました。

 昭和29年(1954)7月、町村合併で高砂市が誕生しました。

 3年後、南洗川廃川敷の埋立てで荒井と地続きになったこの島に、市庁舎が完成しました。

 法華山谷川を境に加古郡と印南郡が永らく分れていた関係もあり、地理的にも高砂市の中央部にあたることもあって、この地に決めたといいます。(no2917)

 *地図:毎時28~31年頃の喧嘩島(赤く彩色した島)

 

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高砂市を歩く(331) 中島・今市を歩く(7) 洪水の村

2015-08-24 09:48:50 |  ・高砂市伊保町

     復習)中島・今市村の地形

  上記の明治30年頃の地図(一部)をご覧ください。中島・今市村を取り囲む川筋を赤く彩色しました。

 復習です。

 地図でA~B間は、北洗川で、B~C間は南洗川です。

 そして、A~C間は、現在の法華山谷川です。

 中島村・今市村は、完全に水に囲まれた村です。

 北洗川は川筋跡が少し残されていますが、南洗川跡は、「洗川緑道」として整備され、その両側も宅として開発されています。

     今市村の水害

 この地形のために、中島・今市はしばしば洪水の襲撃がありました。

 『高砂市史(第二巻)』に、幕末の今市村の水害の記録(今市村の鈴木家の文書)がありますのでお借りします。

 ・・・・今市村の鈴木家の日記(鈴木家文書)によれば、慶応2年(1866)8月4日からは、大雨が降り続いて、6日昼4つ時(午前10時頃)より洪水となり、一橋家領今市村では夜に7カ所の堤が決壊して村中急流となり、全家没水し、村の東では、4尺余りも浸かったという。

 これにより米・綿・菜種・干鰯が大損害をこうむる。

 15日より、また雨が降って16日昼過ぎには洪水となり、東の家々はまたもや浸水した。

 この間、今市村では有力者か握飯などの食科を提供し、村人たちは寺に避難して危機を乗り切っている。(no2916)

 *地図:明治30年頃の中島・今市村の地図(一部)

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高砂市を歩く(330) 中島・今市を歩く(6) 南洗川筋跡(洗川緑道)

2015-08-23 09:23:38 |  ・高砂市伊保町

  

    南洗川筋跡(洗川緑道)を歩く

  今市の南西隅で法華谷川に面している場所に八幡神社があります。

  そこから、少し東へ行くと荒井中学校です。

 荒井中学校の運動場の中央辺りから、道は東へ伸び、少し行くと道は緩やかに北の方へ向を変えて続きます。

 緑いっぱいの「洗川緑道」です。

 この洗川新道は、南洗川の川筋跡です。

 ですから、先日歩いた北洗川筋跡とこの南洗川筋跡と法華山谷川に囲まれた地域が、まさに昔の地図にある中島・今市村です。

 現在、北・南洗川は、そのほとんどが埋め立てられ、中島・今市が島であったことは分かりませんが、そのつもりで地図を見ると、かつての川筋跡を容易に捜すことができます。

 地図を片手に、かつての川筋跡を散策ください。

     おそろしい話

 きのう(22日)、この南洗川の川筋跡(洗川緑道)を歩きました。

 現在、川筋の一部は、写真のような緑いっぱいの綺麗な散歩道になっています。

 でも、気持ちが良いので、コンビニで買ったお茶を飲みながらしばらく木陰で休憩しました。休憩しながら、恐ろしいことを考えてしまいました。

 神戸・淡路大震災のことです。

 あの大震災の時、神戸市で断層でもないので被害が大きな場所がありました。

 後で分かったことですが、その被害の特に大きかったヵ所は、かつての川筋跡であった場所が多かったことが分かりました。

 そこは地盤が軟らかく、あたかも断層が走っているような被害を受けたのです。

 こんな、ことは書きたくないのですが、この南洗川筋跡に現在住宅が立派な住宅が密集しています。

 最近、南海地震がうわさされています。

 この、南北洗川筋跡に建つ住宅は、地震の備えが特に必要かもしれません。(no2915)

 *写真:南洗川筋跡(南洗川は埋め立てられ、その一部は洗川緑道になっている)

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高砂市を歩く(329) 中島・今市を歩く(5) 市丸廟

2015-08-22 08:37:34 |  ・高砂市伊保町

 北洗川筋を散策しました。

 さっそく、弁財天を祀る社(美保里)から、南へ南洗川川筋を散策したいのですが、その前に、加古川の水が北洗川と南洗川の分岐点にある弁財天を祀る神社(写真上は弁天神社と同じ敷地に建つ竹島神社)に立ち寄ります。

 *次の「市丸廟」の説明は『高砂市史(第二巻・近世編)』から、文体を少し変えてお借りします。

    市丸廟

 小田原藩、大久保家の播磨領支配についてはよくわかっていません。

 高砂市域でもこの時期の史料は少なく、とりわけ中島・今市村の史料はほとんどありません。

 『高砂市史・伊保篇』に、少し触れられているだけです。

 享保一九年(1234)に、家中大谷利左衡門が役用で今市村に詰めた時に住吉神杜を設立し、元文三年(1738)に大坂に移住する際に村に神社の支配権を譲っています。

 また、中島村に北条陣屋詰代官・市丸又四郎の顕彰碑(写真下)があることも注目されます。

 中島村が丹波川(加古川)の水害を度々受けるのを目撃した市丸は、享保元年(1716)に洪水よけのため竹林を植え、鎮護のため弁財天と稲荷を勧請しています。

 その後、水書を免れたため、市丸の死後の享保六年(1721)に中島村の村人がそれに感謝して碑を建てています。

 現在も高砂市美保里には市丸廟の額が掲げられたい市堂が弁天堂と同じ敷地に堂には市丸の事績を記した碑文と「恵光院浄慶」と記された墓碑が納められています。

    境内の巨木群

 市丸廟のある境内に竹島神社があります。その前のイチョウの大木はみごとで、市の記念樹に指定されています。

 その他にも、たくさんのみごとな巨木がある神社の境内です。(no2914)

 *『高砂市史(第二巻・近世編)』参照

 *写真上:弁財天を祭る神社の敷地にある巨木と竹島神社、写真下:市丸廟と碑

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高砂市を歩く(328) 中島・今市を歩く(4) 北洗川跡をたどる

2015-08-21 09:57:37 |  ・高砂市伊保町

   北洗川跡をたどる

 前回、地図で確かめたように、中島・今市は北と南を洗川にかこまれた水に浮かぶ島でした。その島の北が中島村であり、南が今市村でした。

 これらの村は、水に恵まれてる半面、しばしば洪水の被害を受けた地域でした。

 きのう(20日)、中島の大歳神社へ出かけました。

 大歳神社は、竜山の麓の明姫グリーンロードと法華山谷川の交わるところにかかる竜山大橋の東詰のすぐ南にある神社です。

 ここは、北洗川と法華山谷川に出会う場所で、特に洪水に悩ませられたところです。

 北洗川の川筋跡を自転車で散策しました。いまは、ほとんど埋め立てられていますが、北洗川は水路が、少し昔の面影を留めています。

 水路は、途中で暗虚になっていますが、その先は道を越えて再びその姿を現し、宝殿中学校のあたりで現在の加古川の本流に繋がっていることが分かります。

   北洗川と南洗川の分岐点

 もう一度、今市・中島の場所を確かめください、

 弁財大明神と竹島大明神を祀る社(美保里・みほのさと)の近くで、北洗川と南洗川で分かれています。

 この辺りも、大歳神社も大洪水のたびに大きな被害があったところです。

 そこで、大久保出羽守の元禄期、代官は堤防に樹木を植え、その根張りで決壊を防ぐ指導をしたといいます。

 これらの神社には、その頃植えたと思われる銀杏(いちょう)・榎の巨木が見られます。

 加古川の洪水直撃を受ける南北の洗川に分かれるところ(美保里)に、弁財天があり、北洗川が法華山谷川と出会うところ(中島)に大歳神社があります。

 神に祈った人々の気持ちが伝わってくるようです。

 弁財天をまつる社から南へ、昔の南洗川筋もサイクリングしました。(no2913)

 *写真上:大歳神社(中島)と巨木、下:わずかに北洗川の川筋跡をとどめる水路

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