ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(89):加古の松

2013-05-31 05:57:46 |  ・加古川100選

常住寺・加古の松   

*加古川町西本町

954613c5『加古郡史』から、常住寺の縁起を少し拾ってみたい。

「・・・殷賑をきわめた常住寺は、嘉禄のころ(12257)加古川の氾濫により堂塔・記録類は残らず流されてしまった。

ただ、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将だけが松の木に留まり残った。この松が、加古の松である」

縁起はともかく、『播州名所巡覧図絵』にも、みごとな「加古の松」(写真上)が描かれている。絵図の常住寺の境内の大きな松がそれである。よほど立派な松であったようだ。

『加古川の昔と今(加古川の文化を語る会)』(昭和57年発行)で、M氏は、昔の思い出として「・・残っていたのは二代目です。その枝が常住寺さんから出とったんです。大きなもんでした」と語っておられる。

 Kokonomatu二代目の「加古の松」のあった常住寺は、寺家町の本陣の北の西国街道沿いにあった。

それが、昭和26年「日本毛織」の拡張に伴い、現在のプラザ・ホテルの場所に移り、三代目の松が植えられた。

その後、昭和59年、加古川駅前の再開発に伴い、現在の場所(加古川市加古川町本町・加古川消防署の近く)に移転した。

常住寺は、曹洞宗の堂々とした寺院である。

山門の横に「鹿兒?」(加古の松)の石柱(写真下)がある。その横に枝振りのよい四代目の「加古の松」が育っている。

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かこがわ100選(89):西条廃寺

2013-05-30 06:32:29 |  ・加古川100選

西条廃寺      *西条山手二町目

016神野町では、古代(白鳳時代)の寺院跡が石守(いしもり)と、ここ西条に残されている。

神野町の城山(じょやま)から南東方に伸びる標高30メートルばかりの台地のほぼ中央部に西条廃寺(写真・塔跡)はある。

1936年(昭和38)から翌年にかけて神野団地造成工事にともなって発掘調査がおこなわれ、塔・金堂・講堂等の主要な伽藍配置が判明した。

この構造は、法隆寺式伽藍配置に通じるものであることが確認された。

塔の心礎は、移動して、城山の公園墓地内に置かれていたが、現在もとの写真の場所に戻っている。

西条廃寺は、7世紀末頃に建設されて、おそらく9世紀頃まで続いたと想像されている。

なお、西条廃寺は西条古墳群の中にある。

特に、ひときわ大きな人塚古墳の東に接している。

古墳の側に廃寺があることが多い。

これは、「古墳の有力な被葬者が、仏教文化を取り入れ寺院を造ったことをあらわしているのであろう」と言われている。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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かこがわ100選(88):こけ地蔵

2013-05-29 07:07:01 |  ・加古川100選

こけ地蔵    *東神吉町天下原

Photo再び「蘆屋道満(あしやどうまん)」の話である。「かこがわ100(74)・正岸寺と蘆屋道満」の続きとしてお読みいただきたい。

平安時代は、「鬼」や「もののけ」が信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていた。

その役割を担ったのが陰陽師だった。

良く知られている陰陽師は、阿部清明(あべのせいめい)であり、それに対抗した陰陽師は、西神吉町岸に生まれたという蘆屋道満だった。

道長との対抗に敗れた道満は播磨へ流罪となり、晩年は西神吉町岸の近くで余生を過ごし、亡くなったという。

道満は、式神たちを井戸に閉じ込めて上京したままだった。

主人の死も知らず井戸から式神たちは、赤い火の玉となり飛び出し道満を探した。

ある夜、井戸から飛び出した火の玉は、天下原(あまがはら)の空を横切り、むかし修業をした古墳に近づいた。

*式神(しきしん・しきがみ)・・・陰陽師の命令に従って、呪詛・妖術などをおこなう鬼神

式神は、そこに懐かしい石棺の蓋があるのに気がついた。

石棺の蓋には、地蔵の姿があった。

式神と地蔵は、「お前は石棺だ・・・」、「俺様は、地蔵だ・・・」とお互いに言い争った。

火の玉は、地蔵に体当たりした。地蔵は、前に傾いた。

村人は「お気のどくに・・・」と立て直すが、朝になるとまた地蔵は倒されていた。

こんなことが繰り返され、地蔵は前に少し傾いたままの姿となった。

そのため、この地蔵は「こけ地蔵」と呼ばれるようになったといわれている。

 

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かこがわ100選(87):寺田池

2013-05-28 06:44:44 |  ・加古川100選

寺田池        *平岡町新在家

003記録によれば、寺田池は平安時代(寛平年間・889893)に造られた。

そのため、当時この池は寛平池(かんぴょういけ)と呼ばれていたようである。

周辺の水田を潤す池として造られたのであろう。

寺田池の水源の地形(この辺りは印南野と呼ばれ、東が高く、西にわずかに低い地形になっている)から見て、寺田池の水は六分一(ろくぶいち)、守安(もりやす)、幸竹(こうたけ)辺りの、しみ出した水や、雨水を集めた。

しかし、規模は現在の池よりずいぶん小さいものだった。

寺田池を水源とするこの辺りの農業は、水に恵まれず、長期にわたり生産は停滞していた。

この状態が一変したのは、江戸時代の初期の頃である。歴史学者、大石慎三郎氏は『江戸時代』(中公新書)で次のように説明している。

・・・戦国初頭から四代綱吉の治世半ば頃までは、わが国の全歴史をとおしても、他の時代に類のないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代であった。・・・戦国騒乱を生き抜いて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また、治水土木家でもあった。・・・

池に水が集まらない!

戦国時代の土木技術が江戸時代に農業に転用され、江戸時時代の最初は、一大開発の時代をむかえた。

平岡(加古川市平岡町)あたりでは、野辻村(寛文67年)・寺田新村(明暦年間)・西谷新村(延宝7年)が新村として独立した。

幸竹、森安、野際(いずれも稲美町)等、寺田池の水源になっている地域にも、この時代に新しく村が誕生した。

それらの村々は、当然水を確保するため、多くの池をつくった。寺田池に水が集まらなくなった。そのため、寺田池は新しく水源を求めねばならなかった。そこで考えられたのが、神野小学校の南を流れる曇り川の上流から水を引く寺田用水だった。(この計画についての説明は省く)

寺田用水は、現在使用されていない。今の寺田池の水は、地下水をポンプでくみ上げている。

豆知識「印南野のため池ベスト4(満水面積)

    加古大池(稲美町)    49.4 ヘクタール

    天満大池()美町)   34.0 ヘクタール 

    入が池(稲美町)     19.0 ヘクタール

    寺田池(加古川市)   18.7 ヘクタール

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かこがわ100選(86):浜ノ宮天神社

2013-05-27 07:46:37 |  ・加古川100選

浜ノ宮天神社

伝承・お手植えの松       *尾上町口里

 008きょうの「かこがわ100選」は、浜ノ宮天神社の紹介ではありません。神社に伝わる伝承です。

 こんな話を思いながら神社の参拝をされてはいかがでしょうか。

<浜ノ宮天神社の伝承>

延喜元年(えんぎがんねん・901)、正月の下旬の頃です。

右大臣という位の高い菅原道真(すがはらのみちざね)が、藤原氏のはかりごとのため、筑紫(今の福岡県)の大宰府(だざいふ)に流される途中、新野辺の沖を航海されていたときでした。

空が急に暗くなり、海上は大しけとなりました。

そこで船を浜に着け、松林に避難されました。

そして、安田の十五社大神と尾上の住吉神神社(尾上神社)に航海の安全を祈られました。

しばらくすると、ふしぎと急に風雨がやみ、海上が静かになり、ふたたび九州に向かわれました。

そのとき、菅原道真は、松の根を上にして逆にして植えられました。

しかし、ふしぎやふしぎ、その松はぐんぐん大きくなり、村人を驚かせたということです。

浜ノ宮天神社の拝殿(はいでん)の西にある松が、その松であるといいます。

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かこがわ100選(85):神吉八幡社

2013-05-26 06:37:19 |  ・加古川100選

神吉八幡社      *西神吉町宮前

_555神吉八幡神社(写真上)は、宮山に堂々と鎮座する。

神吉八幡神社の話であるが、少々怪しげな話(由緒)から始める。

・・・・応永3年(1396923日の夜、一筋の神火が天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)におちた。

辺りは真昼のように明るくなり、村人は驚いた。

村人は、「これは八幡神の化身の降臨にちがいない」と考え、近くの大国の里に祠を建て神吉ノ庄の氏神とした・・・

これが神吉八幡社の始まりと由緒はいう。

Photo一説によると、この神吉八幡神社は嘉吉の乱(1441)時焼き討ちにあい社殿などが消失した。

その後、現在の宮山に社殿を移し上宮(かみのみや)とし、大国村の八幡社(写真下)を下宮(しものみや)とした。

この時に神吉八幡社の神事・渡御式(とぎょしき)がはじまる。神吉八幡宮の受難は続いた。

寛永9年(1632)、雷のために社殿・宝物・古文書等がことごとく灰になった。その後、仮の社殿が造られ、天和三年(1683)新しい社殿が完成した。

これが現在の八幡宮である。

慶長年間(15961614)、神社は八幡神社の境内にある妙見大明神社として城主に届けられた。そのため、江戸時代を通じて妙見大明神と呼ばれた。届出の理由は分からない。

明治4年、妙見大明神の名は改められ、元の八幡神社と名のるようになった。

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かこがわ100選(84):玉田黙翁の墓碑

2013-05-25 07:56:46 |  ・加古川100選

玉田黙翁          *志方町東志方野尻

Photo写真は、玉田黙翁(たまだもくおう)の墓碑である。 

黙翁は、野尻(志方町野尻)に生まれた江戸時代の高名な儒者で、玉田家は、代々医を業としており祖父、父(柔庵)も医者であった。

黙翁は、医者としてだけではなく、学問の道を究めた。

そして、野尻で塾(虎渓精舎・こけいしょうじゃ)を開き、多数の門弟を指導した。

今もその跡が、野尻の虎ヶ谷の黙翁の墓のそばに残る。

黙翁は、ほとんど虎ヶ谷の地を離れることなく門弟を指導した。

黙翁のことを知った小田原藩主は、彼を江戸に招いた。

二度ばかり、江戸に行ったが、二度とも一年で帰郷した

門弟には姫路藩の儒者など多数いた。

黙翁は、天明五年(1785)75才で没した。

現在、玉田家は絶えている。

が、野尻には、玉田姓が多く、35軒中何と玉田姓は26軒を数えている。

玉田黙翁の私塾・虎渓精舎跡へ案内してくださった方も玉田さんだった。

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かこがわ100選(83):青面金剛像

2013-05-24 07:03:36 |  ・加古川100選

めずらしい青面金剛像(庚申信仰)   *野口町北野

庚申信仰(こうしんしんこう)

 Photo 以前、稲美町で庚申信仰について調べたことがある。 

稲美町では、どの地区にも、かつて庚申信仰が盛んであった。

庚申信仰があったことをしめす青面金剛(しょうめんこんごう)と刻んだ石塔がたくさん残されていた。

土地のお年寄りは、青面金剛を「コウシンさん・・・・」と呼んでおられる。

加古川でも庚申信仰の跡を見つけることができる。

しかし、江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。

庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われた信仰である。

「コウシンさん」は、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといい、そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像を拝だり、村の庚申さんにお参りに行くという行事である。

  いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむ行事のようになった。

庚申信仰が盛んであったことを示す青面金剛の石塔が残っているが、「青面金剛」の文字を刻んだ石塔がほとんどで、正面金剛の像を刻んだ石像はこの地方では、ほとんど見ることはできない。

加古川市・高砂市・明石市の範囲に限ってみても、青面金剛像(写真)を刻んだ石像は、野口町北野の稲荷神社にみられる一基だけである。

その北野の稲荷神社であるが、分かりにくい場所にある。北野地区を北へ抜けるとバイパスの穴門(バイパスを横切るトンネル)につきあたる。そこから道は北へ比較的広い道路・北野線が伸びている。

その穴門をくぐって、バイパスに沿って東へ20㍍ぐらいのところに稲荷神社がある。車では見落としてしまいそうな小さな稲荷社である。

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かこがわ100選(82):報恩寺の層塔

2013-05-23 07:53:25 |  ・加古川100選

報恩寺・十三重の重塔      *平荘町山角

Taira_031報恩寺の墓地に、相輪部は後に補修しているが十三層の立派な層塔(写真上)がある。

 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通である。

 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすい。従って、安くできる。

 報恩寺の層塔は、凝灰岩ではない。硬い細工の難しい花崗岩を材料としている。

 報恩寺の四基の立派な五輪塔(写真下)も花崗岩である。

 これらの層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここに運ばれたものと思われる。

 『加古川市史(第一巻)』を読んでみたい。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・

 Taira_040報恩寺の層塔は、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがなさそうである。

 報恩寺の層塔の銘を読んでおきたい。

   銘文   常勝寺

         元応元年 巳未(1319

         十一月六日

 銘には、常勝寺とあり、報恩寺ではない。報恩寺は、もとは常勝寺であり、後に西大寺の末寺の真言律宗寺院になったようである。

 真言律宗・叡尊・忍性の歴史的重要性については、もっと紹介される必要がある。

 *『加古川市史(第一巻)参照』

 写真:報恩寺・十三重の層塔・五輪塔 

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かこがわ100選(81):五ヶ井用水取水口

2013-05-22 06:31:22 |  ・加古川100選

五ヶ井用水取水口   *八幡町中西条

 五ヶ井用水の成立は、室町時代か?

Photo   五ヶ井用水の伝承はともかく歴史は古い。

 加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い。

 奈良時代には、条里制が発達し開発が進んでいた。

 また、「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところからの名称である。

 これらの名称からも推測できるが溝は古くからあった。

 が、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのは郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられる。

 というのは、「庄」という名称から荘園が盛んな平安時代に「五ヶ井郷」という井組が成立したと想像できるが、次のような理由から戦国時代ではなかろうかと推測する。

 加古川は大河であり、暴れ川であった。古代より幾度となく洪水を引きおこし、流れを変えた。

 古く(奈良時代の)条理制の田畑は、加古川の旧河川跡を用水溝としたようである。

 こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことである。

 すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばならない。

 戦国時代を生きぬいた人は、優れた武人であると同時に、すぐれた治水土木家でもあった。

 それに、五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水である。

 これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域を広く支配する領主の出現を待たなければならない。

 江戸時代は戦争のない平和な時代であり、江戸時代の初めの頃、戦国時代に発達した土木技術が農業に転用され、一大農業開発の時代を迎えた。

 今日の農村の原風景は、江戸時代のはじめのころにつくられた。

*写真:加古川大堰の東詰の五ヶ井用水の取り入れ口(右:五ヶ井用水、左:新井用水)

 

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コーヒーブレイク:ハマヒルガオ

2013-05-21 08:19:20 |  ・加古川100選

007同じ景色が一瞬輝を増す時があります。

加古川河口へは、あまり行く機会が無いのですが、毎年この時期になると出かけることにしています。

ハマヒルガオが加古川河口の砂浜にじゅうたんを広げたように咲き輝いています。

ハマヒルガオは、ヒルガオ科の多年草で、直径約5センチのラッパ型の花を付けます。地下茎を伸ばして成長し、海岸の砂浜などに自生しています。

薄紫の花びらが潮風に揺れ、海辺に初夏の訪れを告げる花です。

 004多年草で、直径約5センチのラッパ型の花で、地下茎を伸ばして成長し、海岸の砂浜などに自生します。

 きのう(20日)は、昼から気温はグングン上がりました。もうすぐ夏本番です。

 チョットだけ残念なことは、ゴミが多いことです。それでも、去年よりゴミは少ないよう。

 ゴミがなく、こんな風景の中で、家族ずれの子供の声があれば、なおいいのですが・・・

*写真:ハマヒルガオ(加古川河口)

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コーヒーブレイク:ルピナスが咲きました

2013-05-20 06:28:09 |  ・加古川100選

Rupinas_005 フジの花が逆さになったような、ユニークな花を咲かせるマメ科の植物「ルピナス」が、今年も加古川市志方町横大路の休耕田で見ごろを迎えている。

地元の横大路地区まちづくり協議会が5年前から栽培し、今年は約5000株の花がみごとに咲いている。

 ルピナスは、花が下から上に咲く性質があり、「ノボリフジ」とも呼ばれる。

ルピナス畑は、横大路地区の稲岡鉄工(旧稲岡工業跡地)南西にあり、周辺にあるのぼりが目印。同協議会ルピナス部会が昨年11月、2カ所約2千平方メートルに苗を植えた。

紫、桃、黄のほか、グラデーションになっている花もあり、そばを通る人たちの目を楽しませている。

先日、神戸新聞の朝刊に志方町西志方横大路のルピナスのニュースが大きく報道されました。

さっそく、孫と出かけました。

  ルピナスが満開

    6月上旬まで楽しめます

昨日は、朝から天気が怪しかったが、会場に着いた時にポツリポツリと雨が降りはじめました。それでも、あまりの美しさに孫は大歓声。

ジュースをいただきました。ありがとうございました。

   高御位山を背に

ここ横大路のルピナスは、高御位山を背に見事です。

もうすぐ、高御位山からは「ササユリ」のニュースが届く頃になりました。

*写真:ルピナス(519日撮影)

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かこがわ100選(80):駐蹕の碑(ちゅうさつのひ)

2013-05-19 06:34:35 |  ・加古川100選

駐蹕の碑    *加古川町大野

明治天皇・日岡山へ

Photo明治30年(18974月、姫路に陸軍第10師団が新設され、春と秋の二回大規模な演習が定期的に行われるようになった。

明治36年(19031112日~15日に実施された特別演習は、日露戦争(明治37)を想定して特別な意味をもっていた。

善通寺(香川県)の師団も加わり大規模な戦闘訓練であった。

加古川が主な演習場になったのは1113日で、この時、明治天皇が加古川に来られ、日岡山から、この訓練のようすを天覧している。

その場所(OAA会館とひれ墓との間の山頂部)に、写真のような記念碑(駐蹕の碑)が建てられている。

駐蹕は、読みづらい文字ではあるが、「ちゅうさつ」と読む。

意味は、「天子が行幸の途中、一時乗り物を止めること。また、一時その土地に滞在すること」とある。・・・「大辞林(小学館)」

この、戦闘訓練は日露戦争を想定した国家の大デモストレーションでもあった。

地元では、演習をひかえての道路の補修や衛生施設(主に給水所)の建設等ずいぶんの支出を余儀なくされた。かなりの負担であったようである。

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かこがわ100選(79):正岸寺と蘆屋道満

2013-05-18 08:15:05 |  ・加古川100選

正岸寺と蘆屋道満   *西神吉町岸

004 蘆屋道満(あしやどうまん)の伝説は、西神吉町岸の歴史に花をそえる。

平安時代、鬼や「もののけ」が深く信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていた。

その攻防役をになったのは、陰陽師(おんみょうじ)であった。

当時、もっとも有名な陰陽師は阿部清明(あべのせいめい)で、彼に対抗したのが蘆屋道満(あしやどうまん)だった。

蘆屋道満は、加古川市西神吉町岸に生まれた。

彼は「式神(しきじん)」をよく使った。毎日、道満は式神との修行を欠かさなかったが、ある日京の陰陽師に呼ばれ上京した。

式神とのつらい別れとなった。家の守り神として、式神を自宅の井戸に閉じ込めて上京した。

藤原道長の暗殺計画

藤原道長と対抗していた左大臣藤原顕光(あきみつ)は、なんとか道長を失脚させたいと思っていた。警護が厳しい。

呪詛によって殺そうとした。

蘆屋道満に命じ、呪詛をかけさせた。

ある日、摂政藤原道長が散歩中つれていた犬が突然吠えだした。道長が歩くのをとめた。

不審に思い清明に調べさせた。足元の土の中から恐ろしい呪文の入った土器が出てきた。知らずに踏むと死ぬところだった。

清明は、呪文を知っているのは道満であることを知っていた。道満の居場所を突きとめた。

道満は、藤原の顕光に頼まれたことを自白し、播磨への流罪となった。

晩年は、古里・岸(西神吉町)の近くで余生を過ごしたという。・・・

*道満屋敷は、岸の正岸寺(しょうがんじ)境内と伝えられており、写真は道満の位牌をまつる祠(道満堂)

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かこがわ100選(78):赤壁神社

2013-05-17 07:12:39 |  ・加古川100選

赤壁神社       *加古川町本町

 Photoかこがわ100選(15)」で「春日神社」(加古川市加古川町本町)を紹介した。

 その春日神社の境内に「赤壁神社」がある。

 赤い壁の、いかにも不気味な感じの神社である。この神社に怪猫の伝承がある。

     猫の呪い

 ・・・昔、この辺りに住む油絞りの職人の徳蔵は「たま」という一匹の老猫をかわいがっていた。

 「たま」は、頭がよく賭博のサイコロの目をおぼえた。

 両目をつぶれば「丁」、片目は「半」と徳蔵に知らせた。

 ある日、十四、五人ばかりで賭博をし、吉蔵・吉松兄弟は共に2030両ばかり負けた。

 場が果てて、帰り道のことである。吉蔵・吉松兄弟は、徳蔵を闇討ちにし、その金を奪って逃げ去った。

 通夜の夜、不思議なことが相ついだ。猫の仕業らしいと思われた。

 庄屋の家に逗留していた吉岡儀左衛門は「たま」を追った。

 「たま」は吉蔵の家に飛び込んだ。儀左衛門は突き殺そうとしたが、誤って寝ていた吉蔵を刺してしまった。弟の吉松は飛び起き、吉蔵を助けようとしたが、「たま」と共に突き殺されてしまった。

 鮮血は、周りの壁を赤く染めた。

 二人まで殺した儀左衛門は切腹しようとしたが、その時、吉松は一時息をもどし、事のしだいを白状した。

 「たま」の復讐が明らかになった。その後、「たま」は鮮血の壁と共に祠に祀られたという・・・

 『加古川市誌(第一巻)』に、次のような記述がある。

 「赤壁神社」は加古川に近い。魚は白を嫌うので、神社の壁を赤くした」と。怪猫の話も一挙に興が冷める。

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