ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(121):城山物語(24)・中道子山城の伝説②

2011-10-08 14:35:13 |  ・加古川市東志方

前号に引き続き『志方町誌』からの転載です。

  中道子山城の伝承(3)

鯛の坂

E02d080b鯛の坂城山の頂上から尾根づたいに細工所方面へ下る途中の坂で、二の丸跡、三の丸跡の台地から向かって少々下りてゆく地点で、ここはやや急峻である。

この鯛の坂にまつわる伝説も、城山攻めに関係のある一つで、応戦中のある日、味方のあるさむらいが、この坂の上に立って、坂を攻め上ってくる敵兵に向かって、一尺五寸はあろうという大鯛を頭上たかくかかげて「これを見よ」と誇示したので、この坂を鯛の坂と呼ぶようになったというのである。

標高271.㍍の「こんな山の上でも食料には困っていないぞ、このみごとな鯛を見よ」という意味である。

おそらくこの鯛の坂は、城の搦め手にあたっていたのであろう。

伝えるところによれば、当時の三木城へは大塩方面から生石(おおしこ)、高御位等、山の尾根づたいに間道があって、塩、魚の類を運んだといい、城山もその通路にあたっていたという。

*図:中道子山城現状図『ひょうごの城紀行(下)』(神戸新聞総合出版センター)より

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志方町を歩く(120):城山物語(23)・中道子山城の伝承

2011-10-08 08:07:46 |  ・加古川市東志方

 中道子山城は三木の合戦と結びつくものではないと考えられますが、志方地方では城山(中道子山城)は「三木合戦」で落城したと語り続けられています。

『志方町誌』では、中道子城山にまつわる伝承を四つ紹介しています。

今日は、その内2つの伝承を、『志方町誌』からそのまま転載します。

  中道子山城の伝承(1)

    竹の皮

025羽柴秀吉の軍勢は、三木城も神吉城も志方城も陥れてしまった。

中道子山城は今や孤立無援、敵の大軍にとりかこまれてしまっていた。

いかにして攻めてくる敵を防ぐか、さいわい山腹が急斜面であるところから、一面竹の皮を敷きつめて敵を防ぐことにした。

しかし、敵もさるもの、ふもとから竹の皮に火を放った。

四方から燃え上がる火勢はみるみる城を包んだ。

しかし、防ぎきることはできず落城した。

今でもあちこちの岩かげなどからその時の焼米が出てくるといわれている。

 *写真:彼岸花(内容と関係がありません。戦いのイメージに似合う花として掲載しました。928日・東志方細工所にて撮影)

  中道子山城の伝承(2)

     軍 資 金 埋 蔵

「朝日照る 夕日輝く木の下に 瓦千枚 金千枚」

この歌は、中道子山城にまつわる軍用金埋蔵の暗号の歌である。

この歌はまたはっきり「八重が谷」と場所を指摘した歌にもなって伝わり、昔から幾人もの人によって宝探しがなされ、それは最近まで及んでいる。

しかし、まだ発見されていない。

「八重が谷」がどの谷のことか、それさえ分からない。

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