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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(16) 高砂湊(58~62)

2016-08-31 09:56:15 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  58 高砂湊(1)  加古川は猛烈な土砂を流した

 話題を変えたい。高砂湊の話である。

 江戸時代、高砂港は姫路藩の重要な港として大いに栄えるが、大きな欠点を持っていた。

 加古川が運ぶ土砂が多く、すぐに浅くなってしまうことである。

 高砂港の話の前に、次の話を挟んでおきたい。

  59 砂町今津のルーツは加古川市尾上町「今津」

 中世の頃、加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていた。そこに、今津村という集落があった。

 その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝正)から通達があった。

 内容は、「今津村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものであった。

 中世に栄えた今津村も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ないつつあった。それも、予想を超える砂の堆積であった。

 藩主は、途中で方針をかえ、新たに右岸の高砂に城を築き、町場をつくることにした。その時、今津村の住民は高砂に移住させられたのである。

 結果、尾上町の今津村は慶長・元和の頃に消滅した。代わって、高砂の町に「今津村」が誕生した。

 これは、加古川の堆積の大きさを示すエピソードのひとつである。

   幕末の頃、高砂湊は土砂に困る

 播州平野を流れて播磨灘にそそぐあたりに洲をつくり、やがてこの白い砂上に浦ができた。これが高砂である。

 時が経ち、その河口近くに形成した中洲が成長して、加古川から分離して高砂川という支流をつくった。

 その高砂州の河口にある高砂港は、初期には波戸などの特別な施設はなかった。そのめ風波の影響も大きかった。

 江戸後期になると長年にわたる土砂の堆積で浅くなり、船舶の碇泊に支障をきたす状況になっていた。

 そこで、松右衛門は普請棟梁になり、文化七年(1810)に、先の箱館でも使った彼が開発した石船、砂船、ロクロ船、石釣船などを駆使し、風波対策として、東風請(こちうけ・土堤)と石塘、南口には一文字提、西に西波戸を築造し、あわせて港全域にわたって浚渫を行った。

 *写真:1939年ごろの堀川(高砂市提供)

 松右衛門、自費で高砂湊浚渫

 67才となった松右衛門は、ふるさと高砂港の改修工事にも着手した。

 高砂港は、加古川と瀬戸内海の接点として栄えていたが、幕末の頃、高砂港は、土砂がたまり、港内が浅くなり、港として使いにくくなっていた。

 松右衛門は、箱館港づくりでも使った彼自身の開発した石船、砂船、ろくろ船、石釣船などを使って改修工事をおこなった。

 港全域の土砂をさらい、風や波よけの堤を造ったのである。

   二代目・三代目松右衛門に引き継ぐ

 「この工事は、自費を投じて行われ、松右衛門の死後、二代目・三代目松右衛門が引きつがれた。文久三年(1863)に高砂港の改修を藩に願い出て湛保(たんぽ)という防波堤をめぐらした港の施設を築いたのは、三代目・松右衛門である。

 着工から55年のさい月をかけて高砂港は完成した」と、工楽家文書「工楽家三世略伝」にある。

 *高砂海浜公園に「三代目・工楽松衛門の名が刻まれた祠がある」(写真)

 この工事の結果、高砂町の海岸は、昭和36年に埋たて工事の始まる前の姿にほぼ、近いものとなった。

 すなわち港や海岸は高砂神杜の南方約50メートルへと遠のき、その間は新田として開発されて、俗に「工楽新田」と呼ばれた。

  <補足>

 以下は補足である。二代目松右衛門は、文政二年(1819)に高砂海岸に、「工楽新田」を開拓した。「工楽新田」は、現在カネカの工場敷地となっている。

*二代目・松右衛門(天明四年・1784~嘉永三年・1850)

 三代目・松右衛門(文化十一年・1814~明治十四年・1881)

*写真:三代目工楽松右衛門の銘が刻まれている祠(高砂海浜公園)

  60 高砂湊(3) 繁栄の終焉

 高砂海岸の変遷の話である。

 工楽家が、何代かにわたり新田を築き、波止、湛保(たんぽ)を完成させようとしている間に、時代はガラガラと音を立てながら動いた。

 天保四年(1833)、加古川筋に大規模な百姓一揆が起り、高砂町内の有力な商家や米蔵などが襲われた。

 嘉永七年(1854)にはロシアの軍艦が大阪湾に侵入、沿岸の各藩は海岸に砲台を築づいた。

 当地方でも加古川の中州、向島の突端に姫路藩は砲台を築いた。

 討幕の動きも急雲を告げ、文久三年(1864)には姫路藩の木綿専売業務をひき受けていた特権商人が尊嬢派の藩士に暗殺された。

 高砂港の築港工事が完成したのは、そのあくる文久四年(1865)であった。

 そして、数年ならずして慶応四年(1868)、兵庫港開港、鳥羽・伏見の戦い、明治維新と歴史は続く。

 それらは、姫路藩の年貢米や専売商品の独占的中継港としての高砂の終焉を意味した。『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)は、次のよう書く。

 「明治元年(1868)一月十七日、姫路藩の高砂米蔵は長州軍の手によって封印されたが、これは、近世高砂の終末をつげる象徴的なできごとだった。

 明治新政府によって、株仲間の解散、金本位制の実施、藩債の処分など、やつぎばやに打ち出された改革により、蔵元を中心とする特権商人の没落は、高砂の経済を内部から崩壊させるものであった。

 さらに、明治21年(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより海上輸送は、一挙に後退した」

 東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。

 山陽鉄道の開通については、次回「余話」として書いておきたい。

 *写真:昔の面影を残す町並み(工楽家横の道沿い)

  船から鉄道の時代へ

 「工楽松右衛門物語」は「余話」である。

 明治21年(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより高砂の海上輸送は、一挙に後退した。

 東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。

 山陽鉄道の開通については余話として書いておきたい。

   余話:山陽鉄道(現:JR山陽線)開通

 明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではなかった。

 当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定であった。

 高砂は、当時海運業を中心に発展した町で、彼らを中心に「鉄道敷設」に反対した。理由は、鉄道が敷かれると海運が衰えるというのが主な理由である。

 その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになった。

 そして、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになった。

 鉄道を拒否した高砂の町の商業の衰退は決定的になった。町は、工場誘致に活路を見つけることになる。

 ここで注目したいのは、「一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められた」ということである。

 やがて、高砂の町からの浜は消えた。

   JR高砂線も廃線になった

 私の小学校時代(加古川小学校)は、昭和20年代の最後の頃にあたる。

 その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけた。高砂線は、子供の声であふれかえっていた。高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道であった。

 高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線は客だけでなく、貨物も大いに利用されていた。

 高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通したが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収された。

 昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消した。そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも激減した。

 その後、膨大な赤字を抱え、高砂線は昭和59年10月30日廃止になった。

  61 高砂湊の修築(1)

 話は一挙に現代の高砂まで飛んだので、もう一度、松右衛門の活躍した江戸末期の高砂湊の話に戻したい。しばらくは『高砂市史』をお借りします。

   高砂湊埋まる

 高砂湊の修築は、松右衛門の生涯の大事業である。

 高砂湊は、正保国絵図でも浅いとされていた が、その後も加古川上流から流れくる土砂で川底が高くなり遠浅化が進んだ。

 寛政期(1789~1801)には、毎年高砂の渡海船仲間が川内の浅瀬の浚(さらえ)を行い、願により姫路藩から扶持米を下付されることもあったが、根本的な解決にはいたらなかった。

 そのため、江戸後期には大船の接岸ができず、沖に碇泊する船と陸の間は、「はしけ」「上荷」「ひらた」などといわれる小船を使って荷を運んでいた。

 ところが、享和元年(1801)秋頃から、幕府代官所から姫路藩に対して、昔どおり川内で御城米の積み込みができるように高砂州口を浚えるようにという要請が度々あった。

 翌二年六月に、姫路藩は江戸御勘定所に対して、それが困難であることの事情説明を行っている。

 すなわち川浚は、年々藩が手当をつけて行わせているが、川口から沖手への土砂の堆積は1400間(約2.5キロメートル)にも及び、人力で浚うことは不可能であること、川下の水落口や川筋に杭柵を設置して洩水を防ぎ、川勢を増して土砂を流すように普請させており、満潮時には、「ひらた舟」が通行できることを述べている。

 ただ、「干潮の際の通船は不可能で、川内での積込みは80年このかた聞いていない」と、主張した。

 高砂湊の浚渫は、姫路藩が費用を負担する「御手普請」では不可能と説明したのである。「姫陽秘鑑」)。

 *絵:高砂湊(高砂湊海門あたり)

  62 高砂湊の修築(2) 松右衛門仕法で

 湊の水深の浅い飾万湊(しかまみなと)でも川浚えが行われ、大型船の入津をはかっており、これは干鰯(ほしか)の取引を活発化する意図があったと指摘されている。

 高砂が、飾万津や室津と競合するためには、湊の保全・改修は緊急の課題であった。

 また、姫路藩も当時積極的な国産振興策をとっており、客船入津は、好ましく積極的に対応する姿勢をとった。

 翌、文化五年(1808)閏六月頃には川浚えの実施がほぼ内定し、同八月には家老・河合道臣(後に隠居して河合寸翁を名のる)以下が高砂に検分に訪れ、藩の財政で行う御手普請(おてぶしん)に準じた取り扱いで、川浚えを行うことが許可された。

 この時の工法は、「松右衛門仕法」といわれており、工楽松右衛門が重要な役割を果たした。

 高砂からは入用銀250貫目の拝借が藩に願い出られたが、これは叶わなかった。

 そのかわり高砂の諸運上銀年32貫目が三年間下げ渡され、つまり減税となり普請(工事)に必要な砂・石は領内から調達することが許された(「姫陽秘鑑」)。

 また、高砂に移住して普請世話人・棟梁となった松右衛門は、月々二俵の米を藩から与えられたが、文化七年(1810)には、御廻船船頭として召し抱えられ、五人扶持に直されて金10両が給付された。(no3324)

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(15) 箱館港

2016-08-30 10:32:02 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

    54 箱館港(1) 松右衛門は港づくりの名人

 ずいぶん、話は松右衛門から離れ、ただよってしまった。時代を少し戻したい。復習である。

 松前は、良港ではない

 松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けていた。常に、「アイヌの反抗があるかもしれない」と恐れていた。

 守備は十分でない。蝦夷地は野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかった。

 福山(松前)の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られるのである。

 かなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに便利であった。

 福山(松前)は山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけで、まことに不自由ったらしい。

 松前藩は、守りやすいという一点だけで、松前を城下にしていた。

 つまり、松前藩の中心は箱館ではなかった。

    箱館に港を

 嘉兵衛はエトロフへの「三筋の潮」を発見して後、箱館へ帰った。

 三橋藤右衛門と箱館の港の件に及んだ。一挙に具体的な話になった。

 ・・・・・

 三橋藤右衛門が「嘉兵衛、箱館に築港はできるか」と、たずねた。

 「箱館の浦を、いまのままにしておけない。箱館がいかに綱知らずの良港であっても今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・」と、三橋藤右衛門はいった。

 当時、長碕港ですら荷を小舟に積みかえて揚陸していた。

 幕府が直接乗り出し、箱館が、長崎同様、幕府の直轄港になった。とりあえず、港をつくらねばならない。

 嘉兵衛は、御影屋松右衛門(工楽松右衛門)の名前を出してしまった。

     松右衛門は港づくりの名人

 その日、話は続いた。「嘉兵衛は、御影屋松右衛門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衛門帆」の発明者が、あらゆる工学的分野で異能の人であることを述べた。

 ・・・・

 「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、三橋藤右衛門はきいた。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えた。 

 嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信があった。

  55 箱館港(2) 天下の御用でございます

 (高田屋)嘉兵衛は、(工楽)松右衛門の説得のため、兵庫の港に帰った。

 以下の兵庫港での二人の情景は、司馬遼太郎が小説の一場面として書いているが、事実も、それに近かったのではないかと想像してしまう。

   松右衛門の説得に

 嘉兵衛は、いつもの通り北風家にあいさつに行った。

 あと、松右衛門旦那の店に寄った。

 「おかげさまにて、このように達者で戻りましてござります」と、店さきであいさつをした。

 「奥へあがれ」と、松右衛門はいわなかった。

 彼自身、店の土間で荷ほどきの指図をしていて「嘉兵衛、あいにく、いまはこのとおりじゃ」

 角力(すもう)取りのような大きな体を荷のほうにむけたままいった。

 「あすの晩、来んかい。お前はどうか知らんが、わしのほうは体があいている」

    天下の御用でございます

 嘉兵衛は、松右衛門に続けた。「御用」について簡単にのべた。

 「なんじゃ、公儀御用かい」

 松右衛門旦那は、いやな顔で反問した。

 「ちがいます、天下のことでございます」

 「天下」

 松右衛門旦那のすきなことばだった。

 すでにふれたように、松右衛門旦那はかねがね「人として天下の益ならん事を計らず、碌々(ろくろく・平凡に)として一生を過さんは、禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」と口癖のようにいってきた。

 ただし、かれのいう「天下」とは、公共ということであり、さらにかれのいう「益ならん事」とは、工夫と発明のことをさしている。

 「わかった」と、いった。

 が、いま嘉兵衛を座敷にあげて、その話をきくということはせず、

 「明晩来い」と、いって、再び荷の中に頭をつっこんだ。

 元来、船頭は作業をする人であり、みずから「船頭」という松右衛門旦那は、作業中はたれがきてもこの調子なのである。

   55 箱館港(3) 箱館に行こう

 明夜、食事どきにゆくと、松右衛門旦那は奥座敷に燭台を二基すえ、大坂の書店でもとめた蝦夷地の地図を鴨居(かもい)から垂らし、かれにとって何よりの好物である酒を用意して待っていてくれた。

 公儀のための話なら断るぞ・・・

 ただ早々に、「嘉兵衛、わしを大公儀(幕府の仕事)に深入りさせるという話ならば、ことわるぞ」と、釘をさした。

 松右衛門旦那は、すでに、ほろよいで、「嘉兵衛、わしがつねづね天下の益ならんことを計る、という天下は、大公儀のことではないぞ」と、いった。

 嘉兵衛は、蝦夷地のこと、アイヌのこと、エトロフのこと、そして箱館港のことを話した。

 石を海中に釣りさげて運ぶ船、水底の土砂をとる便利なジョレン、後世の西洋帆布に匹敵する松右衛門帆などを工夫することが、ふつう言われる「天下」とはつながらない。

 世の労働や暮らしに益をあたえるということで、かれの仕事は天下に続いた。

 松右衛門には、幕府の仕事であれ、「蝦夷地のひとびとのためになる」仕事は、天下の話であった。

 「わしを公儀にひきこむな」 と、松右衛門旦那は言いつつ、来年、松前へ船を出すときには、わしも乗ってゆこう、といってくれた。

 かれは、来年あたり息子に兵庫の店をゆずって、生家のある播州高砂に隠居するつもりでいる。

 とはいえ、高砂で帆布の製造、販売だけはやる。

 その収益をあげて、世を益する工事につかうのを楽しみにしているのである。

 まず、第一に、故郷の高砂の運河を浚渫し、湊を深くして船の出入りをよくしたかった。

 のちのことになるが、かれはこの自費による工事をやってのけた。

  57 箱館港(4) 松右衛門、箱館に港(ドック)をつくる

 嘉兵衛は、小船でも渡れるエトロフ航路を開くが、これを契機として幕府は蝦夷地(北海道)経営に深くかかわっていくことになる。

 蝦夷地経営の拠点としての箱館の港が重要になった。

 松右衛門は、嘉兵衛からの要請もあり、箱館の港づくりに応じた。

 この時、彼は既に61才になっていた。

 そして、享和三年(1803)、箱館は、松右衛門の設計によって、地蔵町の浜に築港し、文化元年(1804)に巨大な船作業場をつくった。

 その作業場は、「船たで場」といい、木製の船底に付着している虫や貝をいぶして駆除し、同時に損傷しているカ所を補修するところで、現在のドックであたる。

 船底をいぶしたり、修理するのに船を引き揚げなければならない。そのために比較的軟らかな石畳が必要であった。

 松右衛門は、播州高砂の「石の宝殿」に産する耐火力もある竜山石(たつやまいし)を、大量に箱館に運び、船たで場を造成した。

 現在の函館の町づくりのはじまりは嘉兵衛が、そして、港づくりは松右衛門が最初に手がけた。

 船食い虫については『菜の花の沖』で、司馬遼太郎は次のように説明している。

 「舟の敵は船食い虫という白い紐状の虫である。(中略)管から海水を飲んだり吐いたりして、酸素を摂取しながら、船底の木を食べ続ける。ともかく、すべて退治するしかない」と。

 船食い虫は海水の中にいて、キリのように船底の奥まで入ってくる。

 舟底の紙一重のところでとまる。

 そのため、船底を焼いて殺すより方法がなかった。

 高砂の工楽家の壁には、高瀬舟(川を登り下りする舟)の船板が使われているが、一部、海の船板が使われている。

 それには、船板に船食い虫のあけた穴のあとが残っている。(no3323)

 *写真:現在の函館港 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(14) 北方開拓史(49~53)

2016-08-29 08:31:56 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  49 北方開拓史(3)・フォストフ、紗那にあらわる

 フォストフの侵略に、幕府は大いにあわてた。とりあえず南部・津軽の両藩に命じ、カラフト・エトロフへ出兵させた。

 文化四年(1807)四月、フォストフ船長は、ユノ号の外にいま一隻の武装商船を加え、艦隊を組んで、当時、日本の本土そのものだったエトロフ島にまで入ってきた。

 四月二十四日、突然、ナイホの沖に現れた。

 (当時、エトロフの中心はナイホからシャナに移っていた)

     間宮林蔵、激怒

 二十九日の朝、二隻のロシア船が紗那(シャナ)沖に現れた。

 フォストフの艦隊には、60人ほどの人員がいた。

 そのうち、フォストフ以下17人が三隻のボートに分乗して浜にむかってきた。

 それを陸上から、シャナ駐留の200余人の南部・津軽藩のサムライどもが、ぼんやり見物していた。

 「なぜ機先を制して射撃しないのか」と、たまたま地理調査のために来島していた幕府の役人の間宮林蔵(まみやりんぞう)が、この島の会所の役人等に狂気のような声でいったが、彼は動こうとはしなかった。

    江戸時代の武士は、軍人にあらず

 反対に、フォストフが選んだ16人の兵士というのは、勇敢というほかない。

 それだけの人数で200余人に戦いを仕掛け、射撃、突撃をくりかえした。

 津軽藩は、よほどあわてたらしく、自らの陣屋に火をはなって焼いた。

 夜に入って、紗那の役所の備品・物資をすべて捨て、全員山中にげることを決めた。

 紗那(シャナ)の筆頭の役人・戸田又太夫は責任を感じ、山中で自害した。

 江戸期の武士というのは、組織が戦闘をするようにできていなかった。

 藩組織では命令系統があいまいな上に、西洋の軍隊のように常時戦闘の訓練がなされていないのである。

   フォストフは有罪に

 フォストフの軍隊は、千島・カラフトの各地を荒しまわった。

 しかし、この行為は、ロシア政府に認められた行動ではなかった。

 後に「フォストフらは、ロシアの国益に反する行動をおこなった」とされ、軍法会議にかけられた。

 というのは、「フォストフらの行動は、政府が認めたものではないし、もし、日本が報復のためにオランダ・フランスの援助を求めれば、ロシアとしては、北方に三隻の武装船しか持っていないので危険にされられた」というのである。

 フォストフは、軍法会議にかけられ、投獄された。

 その後、彼は、監獄を脱出して逃走。途中あやまってネバァ川に落ち溺死している。

   50 北方開拓史・『私残記』

 フォストフの紗那(シャナ)侵略により、南部藩の砲術師・大村治五平は捕虜になった。彼は、後に『私残記』という著作を残すことになる。                

 『私残記』は、公刊されたものではなく、子孫のために私的に残すという目的で書きのこされたエトロフ島防戦願末記である。

 『私残記』の稿は、盛岡の大村家に伝えられていたが、昭和18年、盛岡在住の作家により現代語訳されて公刊された。

 紗那(シャナ)の戦場においては、大村治五平は、戦場をすてた。もちろん逃げたのは大村治五平だけではない。

 彼の職務は戦闘を指導すべき砲術師であり、さらに、一時ロシアに捕虜になった。そのため、後に南部藩は戻ってきた治五平に対し藩は冷たかった。

 かれは藩における吟味の席上、「たしかに逃げたことは相違ない」とみとめつつも、「しかし、その理由は、軽傷とはいえ敵弾を足にうけたためだ」という意味のことをのべている。

 大村治五平は「全員が逃げた、責任のがれに私の指揮が悪く、私一人を悪者に仕立てあげたのである」と言いたかったのであろう。

 紗那での完敗は、治五平だけの責任ではない。

    松右衛門澗(まつえもんま)

 興味があるのは、この『私残記』は、彼が紗那に勤務していたということであり、紗那についての自然や風景が描かれている。

 紗那を次のように書く。

 ・・・紗那の港は美しい湾とは決して言えない。海岸は砂ではなく。

 大小の荒あらしい石でできていて、しかも遠浅である。

 遠浅であるために、大きな船が奥深く入って錨(いかり)をおろすことができない。

 ここに、「船が停泊できるように工事をしたのは、嘉兵衛が、松右衛門旦那とよんで、尊敬している工楽松右衛門である」と松右衛門について書いている。

 また、「・・船頭松右衛門という者が石船という舟をこしらえて、金毘羅(こんぴら)の前の海底の石を取り払って、船着き場をつくった。・・・・・また、この澗(ま:船が繋留できる場所)は、松右衛門澗(まつえもんま)と呼ばれた」とある。

 金毘羅とあるのは海岸近くにたてられた金毘羅社のことで、嘉兵衛が建てたものであり、紗那にはその他の宗教施設がたくさんあったが、すべてフォストフ隊の侵略により焼かれた。

  51 北方開拓史(5) ゴローニン事件

 フォストフのカラフト・千島列島襲撃事件は、その後、日本史を揺るがす出来事へと発展する。ゴローニン事件である。

 フォストフの事件から5年後の文化8年(1811)、ふたたびロシア軍艦が、エトロフ・クナシリに出現した。

 測量艦は、ディアナ号といった。艦長はゴローニンという海軍少佐で思慮、観察力それに勇気に富んだ人物であった。

 ただ、かれの不幸は、幕府のほうが、フォストフ事件(エトロフ事件)の後で、この時期、極度の緊張でもって北辺の防備をするようになっていたことである。

 ゴローニン少佐が海軍から命ぜられ、千島の測量をしていた。

 7月4日(太陽暦)、測量船・ディアナ号は、クナシリ島の南端の湾に近づいた。

 ゴローニンは、フォストフの一件を知っており、日本の側の反発も予想していた。

 そのため、こんどの測量航海にあたり、できるだけ日本人に遭遇すまいと注意していたが、薪水が尽きたという事情があって、やむをえずこの島にやってきたのである。

 湾の奥は、泊村(とまりむら)であった。

    ゴローニン、クナシリ島で捕虜に

 ゴローニンらは、薪水の供給をもとめて、泊村に上陸すると、すぐさま日本の警備兵にとらえられた。

 さいわい、日本側も緊張していたとはいえ、ヒステリーの発作をおこす者はいなかった。

 ゴローニンの船が近づいたとき、日本側は多少発砲したが、ゴロ一ニンと接触したとき、日本側の責任者の一人が、発砲をわび、「先年、ロシア船二隻が乱暴なことをしたために、同様の者がきたかと思い、発砲したのである。

 しかし、あなたがたの様子を見るのに、先年きた者とはまったくちがっている。われわれの敵意はまったく消えた」と言ったらしい。

 そして、ゴローニンは、エトロフ島の長官と会い、りっぱな昼食のもてなしを受けた。

 やがて、ゴローニンは艦に戻りたいといって海岸へ去ろうとしたが、長官はそれをゆるさなかった。

 沖合のディアナ号には副長のリコルドが鑑を指揮していたが、彼は「ゴローニンは、日本に捕らえられた」と判断した。

 この間、リコルドはゴローニンを救助するあらゆる努力をはらったが、ゴローニンを奪還できる条件になかった。いったんカムチャッカに引き返した。

 ゴローニンは、松前へ護送され、入獄の身となった。

*『北海道の諸路・街道をゆく15(司馬遼太郎著)』朝日文芸文庫参照

*挿絵:ゴローニン

  52 北方開拓史(6)嘉兵衛の拿捕

 この稿は、松右衛門から話題がどんどん流されている。

 このあたりで、元に戻さなければいけないのであるが、ゴローニンの逮捕に次いで、嘉兵衛の拿捕の話を付け加えてから、はなしを松右衛門に戻したい。

 ゴローニンの逮捕・嘉兵衛の拿捕の事件は、日本とロシアの戦争に発展しかねない大事件であった。

 幕末の外交史の重要な一頁を飾っている。多くの歴史書にも紹介されているので、詳しくは、それらをご覧願いたい。

     嘉兵衛の拿捕

 ゴローニン少佐は、(日本に)とらえられた。

 翌年(文化9年・1812)である。代って艦長になったリコルド少佐は、ゴローニンをとりかえすため、クナシリ島の南方海上を航行中であった。

 たまたま、航行中の高田屋嘉兵衛の船を拿捕した。

 日本風にいえば、雲をつくような大男どもが、日本人の平均身長よりも低い嘉兵衛にいっせいにのしかかった。

 嘉兵衛は、体のわりには腕力がつよく、一人を突きとばした。

 が、背後から、のしかかってくるやつには、どう仕様もない。やがて押し倒された。

 いやなにおいがした。あとでわかったことだが、牛脂(ヘット)のにおいだった。

 自由をうばわれた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上に、この男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことである。

 「何をするか」

 人間が、他の人間に縛られるということの屈辱感は、それを味わった者にしかわから           ない。

 意識のどこかに、自分が鹿か猪といった野獣になってゆくような気がした。

  53 幕末外交史を飾る

 その後、人質として嘉兵衝とその配下をカムチャツカへ連れて行った。

 カムチャツカ半島の当時の主要港は、ペトロパブロフスクであった。

 同港の背後のまちは、役所や官舎のほか、わずかな民家があるだけで、まことにさびしいところだった。

 以後の話は、別書にゆずるが、嘉兵衛とリコルドは互いに信頼で結びつき、麻のようにもつれた日ロ関係を一つ一つといていった。見事な幕末の外交であった。(no3322)

 *『ロシアについて(司馬遼太郎著)』・『菜の花の沖(司馬遼太郎)著』文春文庫参照

 

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(13) エトロフ(46~48)

2016-08-28 10:04:06 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  46 エトロフ航路の最初の発見者は松右衛門

 工楽松右衛門がエトロフへの抗路を開いた。

 が、なぜか松右衛門の工トロフ航路開拓の実績がうすれている。

 司馬遼太郎氏が、小説『菜の花の沖』で松右衛門を紹介していなかったら、松右衛門は一部の歴史愛好家の人々の間に知られるだけに終わっていただろう。

 歴史上、松右衛門は大きな位置を占めている人物である。しかし、いままで松右衛門についてあまり取り上げられることはなかった。

   松右衛門が、知られていない理由は?

  「まえがき」で紹介したように、松右衛門の史実があまり知られていない理由として、井上敏夫氏が昭和50年兵庫史学会発表された「北方領土の先駆者 工楽松右衛門」のなかで、次の三つの理由をあげておられる。

 第一は、松右衛門のエトロフ渡航は幕命といいながら、それはあくまでも一商人の私的行動と見なされた。

 それに対して嘉兵衛のエトロフ渡航は、蝦夷地巡察便・近藤重蔵の随員としであった。つまり、私的と公的の差である。

 第二は、松石衛門の蝦夷地の活動期間は、数年に過ぎないが嘉兵衛は20余年の長期にわたって活躍し、その間、歴史上有名なディアナ号事件の渦にまきこまれ、いつしか松右衡門の名が薄れてしまった。

 第三は、松右衛門は努めて嘉兵衛を自分の後輩として引き立てた。

 しかし、寛政二年、郷里の淡路を後に無一文で兵庫へ出てきた一介の若者・嘉兵衛を陰に陽に援助し庇護したのは実に松右衛門であった。

 幕末の歴史において高田屋嘉兵衛の人生があまりにも劇的であり、注目が集まりすぎ、その陰で松右衛門が霞すんだだけである。

 *挿絵:工楽松右衛門』(工楽家所蔵

   ある夜の会話

 松右衛門は、寛政二年(1790)から寛政七年(1795)にかけて、彼の持ち船の八幡丸で、数回にわたって、エトロフ島の紗那(しゃな)の有萌湾(ありもえわん)まで航海している。

 したがって、松右衛門は当然、魔の海峡・クナシリ水道の航海技術をすでに心得ていた。

 以下の話は、記録にはない、勝手な想像である。

 でも、きっとそんなことがあったことだろう。

 この話を冬の夜で場所を兵庫の松右衛門の家と設定しておきたい。

 ・・・・

 松右衡門は、嘉兵衛と一献交えていた。

 酒はお互いに嗜んだが、二人共飲みつぶれるような飲み方はしなかった。

 話は、エトロフへの航路、つまりクナシリ水道の潮になった。

 (松右衛門)

 嘉兵衛よ。わしがクナシリ水道を初めて渡った時は、ここは地獄の入口かとおもえた。

 潮は早いし、急に流れを変えるかと思ったら、次には霧が出てくる。

 まさに、「地獄の入口」ようだった。

 幸いなことに、その時は大きな船だったので乗り切ることができたが、アイヌの小さい船ではあの潮に飲み込まれたか、転覆したか、それとも、どこぞ知らぬ土地に流されてしまっていたに違いない。

 (嘉兵衛)

 クナシリ水道とは、そんな恐ろしい所でございますか。

 (松右衛門)

 恐ろしい。わしは、大きな船をつかったが、潮はすさましいばかりじゃった。だが、決まった流れがあるのではないかと思う。それを見つけることが大切じゃ・・・

 ・・・・

 それに、エトロフのアイヌは貧しい生活をしとる。クナシリ水道の潮は彼らの子船じゃ渡れない。

 小さい船でも渡れる潮の流れを見つけることが大切じゃ。

 そうしたら、エトロフの魚もクナシリ・蝦夷地へ運べるし、蝦夷地の物もエトロフに運ぶことができる。アイヌの生活は、ずっとましになる。

 ・・・・

 松右衛門の話は、いつ果てるともなくつづいた。

 嘉兵衛は、すべての話を、ただ驚きをもって聞いた。

 この夜の話は、後の嘉兵衛の「三筋の潮」の発見に繋がったのかもしれない。

   松右衛門は、嘉兵衛の師

 松右衛門は、師弟関係でもなく、しかも同業者で、本来ライバルでもある26才年下の嘉兵衛を、あたかも自分の息子のように支援した。

 歴史に名前をとどめたという点については、松右衛門の名は、嘉兵衛の長年にわたる北方における華々しい活躍のかげで薄れた。

  47 北方開拓史(1)・大日本恵登呂府

 高田屋嘉兵衛、工楽松右衛門について書いているが、この辺で、北方開拓の歴史的背景とその経緯について簡単にまとめておきたい。

 エトロフの最初の探検者は最上徳内(天明六年・1786)

 

 日本人が、最初にエトロフ島を探検したのは、天明六年(1786)の最上徳内(もがみとくない)である。

 徳内が、エトロフ島に上陸したとき、そこには三名のロシア人が居住し、島民の中にはロシア正教を信仰するものもいた。

 そして、寛政三年(1791)、松右衛門は幕府の命により、エトロフ島の有萌(ありもえ)の紗那(しゃな)に築港する。

   大日本恵登呂府(エトロフ)

 寛政六年(1794)にロシアは、エトロフの北の島、ウルップ島に基地をつくり、日本のエトロフ島以北への進出を牽制している。

 幕府は、寛政十年(1798)、対ロ関係の緊張に伴い、蝦夷地に調査隊を派遣した。

 幕臣・近藤重蔵は、最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し、エトロフ島の最南端のベルタルベ岬から沿岸伝いに、すこし東北方にいったタンネモイ(丹根萌)の入江に上陸し「大日本恵登呂府」(写真)の標柱を建てた。

 このとき、彼らは「大日本領恵登呂府」とはしていない。(「領」の文字を使っていない)

 理由は、徳内の考えでは「カムチャツカ半島までが日本領である」という領土論を持っていた。

 「南千島のエトロフ島あたりまでが日本の領土とすれば、ここが日本領の北限であると解釈されて、よくないと考えたからだろう」と、歴史学者の島谷良吉氏は、その著『最上徳内』(吉川弘文館)のなかで述べている。

 その翌年、幕府は、松前藩からエトロフ島、クナシリ島などを含む東蝦夷地の支配権を松前藩から取り上げ、七ヵ年の直轄地とし、高田屋嘉兵衛に航路を開かせた。

 そして、文化四年(1807)歴史上、歴史上よく知られているエトロフ事件が発生する。

 ・・・・

 「エトロフ事件」については、少しっ説明しておきたい。

 *写真:「大日本恵登呂府」の標柱(エトロフ島カムイワッカ)

  48 北方開拓史(2) レザノフ

     食料を求めて

 18世紀、ロシアの南下政策が千島を圧迫した。

 ロシアの南下政策は、本音のところでは、日本から食料を得ることにあった。

 彼らのもっぱらの関心ごとは、毛皮の確保であり、対日貿易の目的は、シベリア・沿海州・その他の島々で働く毛皮会社の隊員の食糧の確保が主な目的であった。

 彼らはいつも餓えていた。

 野菜も少なく、病気も多かった。

 ロシアは、とにかく広く、人家もまばらである。本国から食料を運ぶとすると、とてつもなく高くついた。

 何としても、食料は現地で調達しなければならない。そのためにロシアは日本に開国を求めたのである。

     レザノフ来航

 日本への通商を求めてレザノフ(写真)が長崎に来た。

 中学校の社会科・歴史の教科書では、わずかに挿絵に「1804、(レザノフ)が通商を求め来航。幕府は拒否」とだけ書いている。

 レザノフが、日本を開国させるべく、文化元年(1804)長崎に来たが、鎖国を盾に交渉は、はねつけられた。

 レザノフは、これを侮辱と感じ、帰路、部下のフォストフ大尉に、「日本にロシアの武力を見せてやれ。そうすれば修好する気になるのではないか」と相談を持ちかけた。

 レザノフという若い貴族は、力ムチャッカ、その他に根拠地をもつ巨大な毛皮会社を経営したことで知られる人物である。

 レザノフの日本との交渉は、まさに自分の会社の利益確保を目的としていたようなものであった。

レザノフは、長崎での交渉の後、一端カムチャッカに行き、フォストフ大尉らと別れて陸路、シベリアにかえった。

 以下は、余話である。

 レザノフは、橇で西へ向かううちにシベリアは冬になった。これをおかして進むうち、ついにアルダン川の河畔でたおれ、クラスノヤルスクまでたどりついたが、1807年3月病没した。43才であった。

   フォストフは海賊に

 フォストフは、官制の海賊になった。本国の命令のないままに日本を攻めた。

 フォストフは、帆船ユソ号を操って1806六年(文化三年)9月、カムチャツカを出、11月に樺太のオフイトマリに上陸し、小銃を放ってアイヌのをおそった。

 二日後、クシュンコタンに上睦し、日本の運上屋を襲い、倉庫を破って米六百俵外、多く物品をうばい、弁天の祠を焼き、番人四人を捕らえて連れ去った。ただ、人は殺していない。

 次いで、フォストフの一団は、エトロフの松右衛門が港を築いた紗那(シャナ)へ押し寄せてきたのである。 (no3321)

 *写真:レザノフ 

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(12)  エトロフへ(40~45)

2016-08-27 07:26:36 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

    40 クナシリにて:嘉兵衛、エトロフ渡航を決める

 もし、ここ(クナシリとエトロフの間の水道)で安全な航法を発見すれば、幕府の蝦夷開発が、資金面でそれなりの潤いを得ることができるというのである。

 重蔵に課せられた任務は、とりあえずはそのことであった。

 もっとも去年、最上徳内がクナシリからエトロフに渡ったとき、できればカムチャツカ半島にまでゆきいという抱負があったが、季節がそれをゆるさなかった。

 こんどの嘉兵衛の水路調査は、そういう探検でなく、とりあえず幕府の開発行政が要求しているものであった。

 「大船を持ってゆけば、わけはありませんが」と、嘉兵衛は辰悦丸のことを思いつつ言ったが、重蔵はかぶりを振った。

 「小さな漁り舟ぐらいでも渡れる方法を考えてもらいたい。でなければ、操業のたすけにはならない」というのである。

 クナシリで働いているのは、小さな漁り舟か、蝦夷舟、もしくは五、六十石程度の運び船で、今後、クナシリを基地にエトロフ稼ぎをする。

 大船で渡ってしまっても、あと何の役にもたたないのである。

 嘉兵衛は、重蔵の依頼を、いとも簡単に引き受けた。やってみたかったのである。

  41 クナシリにて:クナシリ水道

 エトロフへ一挙に話を進めたいが、ここでクナシリに少しだけ寄りたい。

 というのは、20数年前、ある事情でクナシリ島に「ビザなし渡航」ができた。

 宿舎は、フルカマップ(古釜布)の「むねおハウス」で、数日お世話になった。

 その時のクナシリの風景を思い出した。司馬遼太郎の見た風景と重ねている。

 なつかしい。

 ・・・・ 話を戻したい。

 (クナシリ島は)遠目でみると、島内の森林の相は貧弱ではなかった。

 噴火口のあとがところどころ湖になっているということは、嘉兵衛は近藤重蔵からきいた。

 「うつくしい山ですな」と、嘉兵衛がその山を指さしつつ近藤重蔵をかえりみて、山の名をきいた。

 「ラウシ(ラウス)山だ」と、近藤はいった。

 山の高さは、大坂の町から見える生駒山よりすこしは高そうだったが、低い裾野がながながと続いているために山容に優しさがあった。

 山の前面が岬になっている。岬の名も、「ラウシ(ラウス)」である。

 クナシリ島には、錨地が多かった。

 最良の錨地は、なんといっても嘉兵衛たちが出発した泊であったが、ラウシ崎を過ぎると、フルカマップというみごとな湾入部があることに驚かされた。

 嘉兵衛は、そこへ船を入れ、一泊した。

 翌日、さらに島に沿って船をすすめた。進むにつれて、いくつも錨地があった。

 ・・・・

 またまた、私の思い出である。

 クナシリは、火山の島で至る処に温泉がわいていた。

 フルカマップの人に尋ねてみた。「ここはなんという温泉ですか」と。

 特別の名前はないようで、単に「温泉」と、いうらしい。

   クナシリ水道

 嘉兵衛は、幕府が用意した宜温丸でクナシリ島の東海岸をアトイヤ岬(安渡移矢岬)まで航海してきた。

 いよいよ、クナシリ水道である。北岸で停泊した。

 次の日である。さっそく、嘉兵衛は、山頂に至った。クナシリ水道の潮を確かめるためである。

 山頂の東側は急斜面になって東海岸へ落ちこんでいる。山の西側の斜面はゆるやかで海岸線にこぶ(小さな岬)をつくっている。

 山頂に立つと、ぜんたいの地形がおもしろかった。

 嘉兵衛は、とほうもなく巨大な船に乗っているような気分になった。

 この日は、めずらしく晴れていた。

 クナシリ水道を揉にもんで流れている潮のかなたに、エトロフ島のベルタルべ山がそそり立っていた。

   三筋の潮

 嘉兵衛は、全身を目玉にするようにして潮を見つづけた。根気が要った。

 早朝から日没ちかくまで見つづけたのである。

 そのあいだに、小さな海峡の潮目が幾度か変わった。

 風が、つよかった。嘉兵衛は、疲れると岩の上に腰をおろした。しかし、目だけは休ませるわけにいかなかった。

 吹きつづける風のために、ともすれば目玉が乾いた。目をしばたたくと涙が出るのだが、涙とはなるほどこういう有難いものであったかと思ったりした。

 「見えた」

 信じがたいほどのことだが、この二つの島のあいだを上下しているのは、一筋の潮ではなかった。

 三筋の潮流が、相せめぎあって落ちあっているのである。

 「まことに、三筋か」と、ほとんど仮説ともいっていい自分の瞬間のひらめきを事実としてかためてゆくのに、さらに数日の観察を要した。

 「まぎれもない」と確信したとき、それまで立っていた嘉兵衛が、落ちるようにして岩の上に腰をたたきつけ、両脚をなげ出した。

 気づいてみると、二刻(四時間)のあいだ風のなかで立ったままであった。(以上『菜の花の沖』より)

 北からリマン海流・千島海流の二筋、そして南から対馬海流が、この狭い海峡でぶつかり砕けているのである。

 嘉兵衛は、航路を頭に描いた。後は、こぎ出し確かめるだけであった。

  42 嘉兵衛、箱館へ帰る

 嘉兵衛の安全なエトロフ航路発見は、たんに幕府の「資金面で幕府の潤いになる」という面ばかりではなかった。

 北からはロシア人の南下という問題をふくんでいた。

 クナシリの浜には、近藤重蔵が出迎えていた。嘉兵衛は、ハシケが腹を砂にこすりつけるのを待ちかねて、渚にとびおりた。

 重蔵も、渚の水を蹴って嘉兵衛の手をとった。

 「よくやってくれた」

 嘉兵衛は、重蔵に報告すべく、砂の上にしゃがむと、砂を両掌に盛って、クナシリ島とエトロフ島のかたちをつくった。

 さらに両島のあいだのクナシリ水道をつくり、砂に指を突こんで、北から南へ切るように潮が流れているさまを示した。

 次いで一線、さらに一線をえがき、これらがたがいに絡みあいつつヱトロフ島西南端のベルタルベ岬に激突する状態を説明した。

  アッケシにたちより箱館へかえった。箱館役所から呼び出しがあった。

 このとき、三橋藤右衛門から、「蝦夷地の公儀御用をつとめてもらえないか」と、懇願された。

 三橋藤右衛門のいうところは、エトロフ島開発のためのあらゆる物資(官物)を運ぶ船頭になってほしい、ということであった。

 運賃かせぎだけで、荷をかせぐことができなくなるのである。商いとしては、まことにつまらぬものになる。

 「嘉兵衛・・・」、三橋藤右衛門は、親しみをこめ、名でよんだ。

 「そこもとの力がほしい」

 「とんでもござりませぬ」

 おれに力などあるものか、と思った。武家こそ力ではないか。

 この世で将軍と言い大名とよばれる者こそ力を持ち、四民に君臨している。

 ・・・・・

 しかし、嘉兵衛は、決心してしまった。

 とっさの決心というものが、何やら酒に似たものだと思った。

 *写真:嘉兵衛像(昭和33年の函館開港100年を記念して造られた。背景は、函館山)

  43 松右衛門が港を造りましょう

 箱館の港の話になった。話は、一挙に具体的になった。

 ・・・・・

 三橋藤右衛門が「嘉兵衛、築港はできるか」と、たずねたのである。

 「箱館の浦をいまのままにしておけない」と、三橋藤右衛門はいった。

 箱館がいかに「綱知らず」といわれたほどの天然の良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない。

 「港」は、長碕ですら荷を小舟に積みかえて荷揚げしていた。

 もっとも、荷揚げのための石積みの足場は存在した。

 箱館が、長崎同様、幕府の直轄港になった以上、とりあえずそれをつくらねばならない。

 嘉兵衛は、御影屋松右衛門(後の工楽松右衛門)の名前を出してしまった。

 その日、話は、続いた。

 ・・・・

 「ナイホ(エトロフ中西部の地名)にもつくらねばならんな」、と、三橋藤右衛門はいった。

 ナイホの築港の必要については、嘉兵衛がすでに近藤董蔵に上申していた。

 それらについて、「嘉兵衛は、御影屋松右衡門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衡門帆」の発明者が、あらゆる工学的分野で異能の人であることもあわせて述べた。

 ・・・・

 「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」 と、三橋藤右衛門はきいた。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えた。

 ・・・・

 嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信があった。

 松右衛門は、新しいことに挑戦する人、子供の心を持つ人であった。

 *絵:工楽松右衛門(工楽禎章氏蔵)

  44 松右衛門のエトロフへの渡航

    <工楽松右衛門の足跡>

 下の年表をご覧になりながら、今以下の文章をお読み願いたい。

 ・寛政2年(1790)  エトロフ島で埠頭建設はじまる

 ・寛政3年(1791)  この年の夏、エトロフ島の埠頭工事竣工 

 ・寛政11年(1799) 嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く

  (三筋の潮を発見)

 ・享和2年(1802)  幕府より「工楽」の姓をたまわる

 ・文化元年(1804)  箱館にドックを築造。

   工楽松右衛門のエトロフへの航路発見

 ここで話を急停車させたい。

 「松右衛門と嘉兵衛」は、若干文章を変えているが、もっぱら小説『菜の花の沖』のつまみ食いをして、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛を紹介している。

 従って、事実の解説ではない。小説である。

 できるだけ史実を踏まえた司馬遼太郎氏の嘉兵衛像であり、工楽松右衛門像のつもりでいる。

 「松右衛門物語」は、そのことを頭におきつつお読み願いたい。

 が、ちょっと話を停車させて説明をしておきたいことがある。

 松右衛門のエトロフでの築港は、寛政二年(1790)から

 「松右衛門の年表」をご覧願いたい。

 「松右衛門物語」で取り上げている内容は、寛政10年頃の話である。

 『菜の花の沖』では、嘉兵衛がクナシリ水道の「三筋の潮」を発見し、クナシリからエトロフへの安全な航行を可能にしたのは高田屋嘉兵衛であり、その後嘉兵衛のすすめにより、工楽松右衛門は箱館・エトロフの港の建設に当たると話が進む。

 この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓をもらっている。

 この辺りの事情を若干整理して、さらに話を進めることにしたい。

   松右衛門エトロフヘ


 その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなった。誰の目にも危険なものとして映るようになった。

 寛政二年(1790)二月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画した。

 「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下った。

 兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙した。

 この時、松右衛門は既に50才に近かったが、荘右衛門の要請に応じた。

 エトロフへの船は、松右衛門の持ち船・八幡丸をあてた。

 準備を整え、その年(寛政二年・1790)の五月、乗員20人と共に。兵庫津を出た。

 八幡丸に、多くの日章旗をはためかした華やかな船出であった。

 八幡丸は順調に、東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなった。

 これ以上の継続は不可能となった。

 松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにした。

 その年の十二月、幕府は松右衛門の労を慰するため、30両を附与した。

 その文書が残っている。

  申渡

  一 金参拾両  兵庫佐比恵町 松右衛門

     右其方儀恵登呂府波戸築立為御用彼地

     迄モ罷越骨折相勤候二付書面通為取之

    戌 十二月

 (意味)

  申し渡し

  一つ、金三十両 兵庫サビエまち 松右衛門

   右、その方の儀、エトロフ港築のため、かの地

  迄もまかりこし、骨折り、あい勤候に付き、書面の通りこれをとりなす

      戌(いぬどし) 十二月

 慰労金として、金30両は少ないようであるが、松右衛門にとっては不足を感じなかった。

 むしろ、幕府から慰労とか報奨されることに誇りを感じた。

  45 工楽松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる

 寛政二年(1790)五月、松右衛門は、自分の持ち船・八幡丸でエトロフへ出発したが、エトロフの冬は早かった。十月いったん兵庫港へ引き返した。

 翌、寛政三年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航した。

 その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進んだ。

 あらかた紗那(シャナ)港は完成し、10月に帰航した。

 以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政七(1795)に工事を終了している。

 なお、松右衛門が築港したこの場所は、江戸時代には恵登呂府島(エトロフ島)といい、戦前のエトロフ島西北部紗那郡の有萌湾(現:ナヨカ湾)である。

   松右衛門は、エンジニア

 松右衛門は、湾底に散在する大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留するようにした。

 つまり、埠頭をつくった。

 のち島民は松右衛門の徳をたたえて、永く「松右衛門澗(港)」と呼んだという。

 なお、澗とは小さな錨地を意味する。

 その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった文化四年(1807)当時、エトロフ鳥の警備をしていた南部藩の火業師(砲術)・大村治五兵が書きのこした『私残記』に記されている。

 それには、「このシヤナ(紗那)の港は、石があらく、その上遠浅で、大船が入るには、実に危険なところである。

 そこで船頭・松右衛門が石船をいう船をこしらえて、海底の石を取り払って、船の係留する所をつくった・・・・」と書きのこしている。

 松右衛門の技術がいかんなく発揮されている。

    「工楽」の姓をたまわる

 幕府は、この松右衛門のこの紗那港づくりに対し、享和二年(1802)、三十石三人扶持を与えられ、「工楽」の姓をたまわり帯刀を許されている。(no3320)

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(11) アッケシにて(36~39)

2016-08-26 09:55:58 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  36 嘉兵衛、アッケシへ

 ここに登場する三橋藤右衛門は幕府の御勧請吟味役であり、高橋も幕府から派遣された役人である。

 ともに、蝦夷地の将来を真剣に思っていた。

 ここでも松右衛門が登場しない。ご辛抱願いたい

    アッケシ(厚岸)へ

 (高橋三平は)「嘉兵衛、この蝦夷島において、福山や箱館ばかりでなく、ほかの潮路も見てみたいと思わぬか」

 「それは、もう」

 嘉兵衛は、とびあがるようにいった。そういうことになれば、商いなどどちらでもよかった。

 松前藩は、本土からの船に対し、福山、江差、箱館という湊に出入りする航路のほかはとらせたがらず、まして「奥」へゆくことは禁じている。

 「直乗の船頭というものは、自分で荷を買って運ぶといい商いになるが、他の荷を運ぶだけでは稼ぎはつまらぬそうだな・・・」

 三平は、そのあたりをよく知っている。

 「その運ぶだけの仕事があるが、どうだ」というのである。

 高橋三平がいうのは、官米や官物をアッケシ(厚岸)まで運んでもらえまいか、ということである。

 「アッケシ」

 嘉兵衛は、商人であることを忘れ、頭に熱い血がのぼるのを感じた。

 その地名は、東蝦夷地の中心ではないか。

 (そこへゆけば、蝦夷びとにも会えるだろう)

 潮、島々、渚、湿原、原生林、ヒグマ、狼といった風景や生物などが極彩色で脳裏にうかんだ。

 高橋三平は、たえず微笑していた。

 「かれは、嘉兵衛という航海者を引きたててやろう」という肚づもりがあった。

 ここで上役の三橋藤右衛門にも嘉兵衛の面構えを見せ、とりあえずアッケシへの官米輸送に使ってみようとしている。

 が、嘉兵衛は、そういうことはどちらでもよかった。商いの上でいえば幕府の御用といった道草を食っているよりも、北前交易に精を出したほうが利益が大きいのである。

 「いやさ、このことは、子供のような考えから思いついたのだ」と、三平はいった。

 アッケシ湾はクシロ(釧路)の東方にあり、大きく湾入しているために、風浪に疲れた船をさそいこみやすい。

 ・・・・ 同地の蝦夷はとくに赤人(カムチャツカのロシア人)に対する恐怖がつよく、「さればこそ、日本国にも辰悦丸のような大船があるぞと蝦夷に見せて安堵させてやりたいのだ」と、三平は半ば冗談めかしくいった。(以上『菜の花の沖』より抜粋)

 結論を急ぐ、嘉兵衛は三橋藤右衛門、高橋三平の申し出を引き受けた。

 嘉兵衛は、子供の心をそのまま持ち続けて育ったのかもしれない。

   37 アイヌは人にあらず

 アッケシで、三橋藤右衛門や嘉兵衛たちは、蝦夷地支配の現実をみた。

 松前家にとって、蝦夷地の蝦夷は人間の機能をそろえた家畜であった。

 働かせるばかりで、いっさいの庇護を与えず、さらにはかれらが進歩することを阻んでいた。

 その事実を知られるのがいやだったのであろう。

 しかし、嘉兵衛は、「アイヌはむしろ人として和人よりも、よほど上等ではあるまいか」と思ったりもした。

 この温和な民族が、塩、みそ、醤油すら用いず、真水で煮たきをしているのを見たとき、嘉兵衛は涙がこぼれた。

 嘉兵衛は、元来涙の量の多い男であった.

 つねに、その種の水分が多量に精神のなかに貯えられて、自分自身をもてあますことがあった。

     松前藩のアイヌ政策

 嘉兵衛たちは、蝦夷の長者を路上にひきずりだして打擲(ちょうちゃく)している姿も見た。

 「江戸の者」と、嘉兵衛たちはよばれていた。

 「江戸の者に何も話すなといっておいたのに、なにか喋っただろう」と、通詞がどなっているらしいことは、その状況や見幕で嘉兵衛にもわかった。

 「けもののあつかいだ」と、嘉兵衛は怒りで身がふるえた。

 人が人を殴っている姿ほどあさましいものはないが、通詞はむしろ嘉兵衛にも蝦夷地での作法を心得させるべくそれを見せつけているようでもあった。

 が、蝦夷(アイヌ)たちは嘉兵衛や三橋藤右衛門たちが接してくるのをよろこび、たずねられれば臆せずに話した。

 田沼時代末期の蝦夷地調査以来、蝦夷たちは、「エド」という政権が、松前藩の上にあることを知ったし、その上、幕府関係者が例外なく蝦夷に対して優しかった。

 このため、いかにあとで番人や通詞に痛めつけられようとも「エドの者」というひとびとに対しては心をひらいてしまっていたのである。

 江戸人は、かれらにとって救世主のように見えたのではなかったか。

 ・・・(以上、『菜の花の沖』より)

 松前藩の蝦夷地支配は、暴力支配と苛烈は収奪のみであった。

  38 近藤重蔵

 やがて、近藤重蔵は、嘉兵衛、松右衛門に大きな影響を持つことになる。その前に、近藤重蔵について少し触れておきたい。

 ・・・・

 (近藤)重蔵は、江戸町奉行所の与力の家にうまれた。

 奉行所の与力というのは、幕臣からみれば、「与力か」と、さげすまれかねず、すくなくとも当の重蔵のほうが、それをたえず意識し、それがかれの努力のばねにもなっていた。

 与力は、幕臣ではない。

 当時の社会では、罪人は不浄とされ、与力・同心のように、罪人をとらえる職の者を不浄役人とし、正親の幕臣の列から外し、いわば臨時職として、その組織がつくられた。

 また、「地役人(じやくにん)」という言い方でもって、正規の幕臣の外に置かれた。

 ただ、その長官である町奉行職だけが、幕臣なのである。

   人材登用テストに合格

 江戸後期の代表的政治家である松平定信は、老中首座をつとめること六年で退隠したが、その業績のめだったものとして人材登用がある。

 幕臣(旗本・御家人)や地役人のなかから受験者をつのって、湯島の聖堂で学力試験をし、その成績によっては家格以上の役職への道をひらくというものであった。

 むろん、この考試は、中国でおこなわれてきた高等文官登用のための科挙の試験というほどに大げさなものではない。

 定信がやったそれは、封建身分制の維持に大きな支障をきたさぬよう、受験資格は幕臣かそれに準ずる者にかぎられていた。

 すでに諸藩の武士のあいだでは学問がさかんになっていたが、幕臣で学問をする者はめずらしかった。

 定信自身、大名(奥州白河城主)でありながら、大の読書家として知られていた。

 それだけに、幕臣の無学が腹立たしかったのであろう。 

   重蔵、蝦夷地へ

 重蔵は、天明九年(1789)に、この試験に応募して経書、史書、策問(さくもん)、文章ともにばつぐんの成績であった。

 学問吟味に合格したとはいえ、門閥主義の体制では、小吏に終わることは目に見えていた。

 その時である。東蝦夷という新天地の経営が幕政の分野に加えられた。

 重蔵は、志願して寛政十年(1798)蝦夷地巡察の幕府軍に加わった。

 重蔵は活動的であった。

 クナシリ島およびエトロフ島へ渡海した。

 寛政十年(1798)エトロフ島に「大日本恵登呂府」の言う標柱をたてた。

 (以上『菜の花の沖』より)

 絵:近藤重蔵肖像(東利尻郷土資料館蔵)

  39 嘉兵衛、アッケシで重蔵と出会う

嘉兵衛が、アッケシの運上屋で近藤重蔵と出会ったのは、嘉兵衛31才、(近藤)重蔵29歳のときであった。

重蔵は、既にエトロフに「大日本恵登呂府」という大きな標柱をたてていた。

重蔵は、嘉兵衛に話しかけた。

・・・クナシリ島までは安全にゆける。しかし、クナシリ島からエトロフ島にゆくには、急潮でしかも風浪、霧のすさまじい海峡がある。「身の毛がよだつよう」な危険が伴う。

「この人(近藤重蔵)は、何の目的でこういう話をするのか」と思った。

     エトロフへの安全な潮路の発見を!

 「嘉兵衛、どうであろう」と重蔵は、ひざを正した。

 決意を問うためであった。

 かれにとって嘉兵衛をよんだのは、近藤重蔵が嘉兵衛にクナシリ島とエトロフ島のあいだの安全な水路の開拓を依嘱することであった。

 クナシリ島の東北端のアトイヤ岬からエトロフ島西南のベルタルベ岬までのあいだは、海上わずか三里ほどの距離である。

 両島の間に、幅五里の水道(クナシリ水道)が流れており、北はオホーツク海、南は北太平洋が広がっている。

 この狭い水道に濃霧がしばしば湧き、さらには両洋から落ちてくる潮流は速く、風浪は相せめぎあい、なんともすさまじい難所である。

 「魔の海だ」と、近藤重蔵は言い、そのあたりの海になれた蝦夷人も、ここばかりはおそれて近づきたがらない。

 もっとも、最上徳内(もがみとくない)は、すでに三度、この両島のあいだを往来しているが、三度のエトロフ渡海は、安全といえるものではなかった。まさに命をかけた冒険であった。

 エトロフは「捨てられたままの海産物の宝庫」であった。

 嘉兵衛への依頼は、「小さな船でも渡れる安全な潮路を見つけてほしい」ということであった。 (no3319)

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(10) 松前藩(32~35)

2016-08-25 06:04:38 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  32 松前藩は悪の組織

 嘉兵衛も松右衛門も、やがて活躍の場所を蝦夷地に求める。蝦夷地・松前藩についてみておきたい。

 江戸時代初期の寛文年間、アイヌの英雄的な酋長シヤクシャインにひきいられた大反乱があった。

 松前藩はこれに対し、寛文九年(1669)に征討し、シヤクシャインを降伏させ、毒殺した。

 以後、松前藩は実質上、北海道全土を版図にした。

   場 所」

 「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという縄張である。

 藩は全土を八十余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえた。

 このあたり、さかり場ごとに「場所(ショバ)」をもつヤクザに似ている。

 「場所」は、同時に武士にとって重荷でもあった。

 みずから親方になって場所へゆき、アイヌから水産物を買ったり、本土の米、塩、酒、麹、鉄器、漆器などを売ったり、あるいは、時にアイヌを雇って直接、網を打つという仕事はだれにでもやれるというものではなかった。

 これを近江商人が請け負った。

   松前藩は「悪の組織 」

 「松前」という藩は、歴史の上でどれほどの名誉を背負っているのだろうか。

 広大な採集の宝庫の一角を占めた悪の組織というほかなかった。

 松前藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももって

 いなかったように思える。

 「場所請負制」という利益吸いあげの装置の上に、藩も藩人も寝そべっていた。

 松前藩史の上で、たとえばアイヌの医療に従事したという藩医のあるのもきかない。

 アイヌに読み書きやそろばんを教えたという例もない。むしろ逆であった。

 アイヌをそのままの状態にとどめておくことが藩の利益であると考えられていたし、また、アイヌが死のうが生きようが、藩人たちにとってなんのかかわりもなかった。

 すでに時代は測量技術を持っているのに、松前藩は、蝦夷地の精密な地図をつくろうとはしないし、また地理踏査も民俗調査もしようとはしなかった。(以上『菜の花の沖』より抜粋)

 *写真:シャクシャイン像

  33 松前(まつまえ)

 嘉兵衛の船は松前を目指している。松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の福山(松前のこと)の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれといっていい。

 (なぜ、松前様はこんなところにいるのか)

 と、暗くなりつつある沖から福山城下の背後の山々を見ながら、嘉兵衛はおもった。

 すでに、嘉兵衛は、「箱館」 という土地があることをきいていた。

 道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としてもわるくない。

 それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠かない。

   松前藩は、アイヌからの襲撃をおそれていた

 しかし、野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになる。

 福山(松前)の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られるのである。

 それにかなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに、もっとも便利であった。

 福山は山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけで、まことに不自由な土地である。

 それでもなおここに藩が固執しているのは、蝦夷地統治の自信のなさの象徴といってよかった。

 「福山」とは、この藩が、その城下をかりに名づけているだけの地名で、本来の地名ではない。

 対岸の津軽衆も嘉兵衛たち船乗りも、「松前」と、この町をその地域名でよんでいる。以下、町の名も、松前城下とよぶ。(以上、『菜の花の沖』より)

 ・・・・

 松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けている。当然「反抗があるかもしれない」と考える。

 守備は十分でない。

 そのため、松前藩は守りやすいという一点だけで、松前を城下にしているのである。

  *写真:復元された福山城(松前城)

  34 ロシア人の南下

 松前・蝦夷地をめぐる情勢である。時代を寛政十年(1798)に設定する。

 ここで、二つの事実に注目したい。

 一つは、先に述べたように松前藩はアイヌから、絞るだけ絞り上げていた。アイヌは、まさに松前藩の奴隷であった。

 当然、アイヌは松前藩に対して敵意を持った。

 もう一つは、この時代、北からロシア人が南下して、日本近海に姿を見せるようになったことである。

 ロシア人の南下については、既に天明元年(1781)ころ、工藤平助は『赤蝦夷風説考』で警告していた。

 その風説考の主題は「蝦夷地をこのまま放置すればアイヌたちもロシア人の命令に従い、わが国の支配をうけなくなるであろう」ということであった。

 幕府は、重大に受け止めた。

 しかし、その後もロシア人の日本への接近は着実に増えていた。

 ロシア人の蝦夷地侵入がおおやけになれば、それを防ぐには松前藩単独では不可能であり、蝦夷地の管理を松前藩に任せられなくなる。

 幕府は、蝦夷地に密かに調査団も送り調査をした。

 松前藩は、これらの情報を徹底的に隠した。日本人とアイヌが直接接触すること、アイヌ人が日本語を学ぶことなどを厳禁した。

 しかし、情報に蓋をすることはできなかった。

 幕府は、ロシア人の日本近海への接近や、松前藩のアイヌ人へ苛烈な扱いを知った。

 松前藩に敵意を持つアイヌがロシア人と容易に結びつくことも心配した。

 蝦夷地をとりまく情勢が、だんだんと明らかになってきた。

    蝦夷地を幕府の直轄地に・・・ 

 松前藩に「風聞」がながれていた。

 「幕府は、松前藩を取りつぶし、蝦夷地は幕府の直轄地にする・・・」という風聞であった。

 事実、それを証明するように蝦夷地調査のための幕府の役人が箱館に増えた。

 松前藩士は、情報の管理を一層厳しくした。

 多くの松前藩士は、幕府の役人を憎んだ。

 突然のことであった。

 寛政十一年(1799)、幕府は期間を七年としたが蝦夷地を幕府の直轄にした。

   35余話 工藤平助のご先祖は、野口城(加古川市)城主

 余話を挟みたい。

 江戸時代も終わりの頃、女性の人権を主張した人物がいた。只野真葛(ただのまくず)である。

 真葛についての詳細については、『只野真葛(関民子著)』(吉川弘文館)をお読み願いたい。

 只野真葛は、工藤平助の娘である。

 工藤平助は、ロシア人(赤蝦夷の)南下を幕府に説いた人物である。

 工藤平助は工藤家の養子になり姓を変えているが、元の姓は「長井」である。

 『只野真葛』の一節を詠んでおきたい。

 ・・・工藤平助の先祖は、播磨の城主で豊臣秀吉に滅ぼされ、その後郷士として住みつき豊かに暮らしていた。

 しかし、父の代に諸国の隠し田などの調査があり、郷士長井家がそれを持っていたため取り調べを受けた際、「ここは代々長井家が領有している土地だから今後とも長井家のものである」と述べたので幕府の怒りを買って残らず取り上げられてしまい。生計のため大阪に出、後に和歌山に移って医者になっている。・・・(後略)

 『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助の祖先が、秀吉に攻められて落城した野口城(加古川市)の城主のご子孫である。

 頭の隅に置いておいてよい、話題である。(no3318

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(9)  蝦夷地へ(29~31)

2016-08-24 07:13:06 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  29 船を持て

 ・・・・

 多度津で、嘉兵衛が松右衛門旦那からきいた話で胆に銘じたのは、「持船船頭になれ」ということであった。

 「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」という。

 「嘉兵衛、いくつだ」

 「二十四でございます」

 「うらやましいのう」

 「わしなどは四十から船持の身になったが、若ければ船のことがもっと身についたにちがいない、沖船頭をいくらやったところで、持船とは身につき方がちがう」ともいうのである。

 が、資金が要る。

 千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要であった。

 二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額である。

 松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったればこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができた。

 「わし(嘉兵衛)には、資金がありません」といったが、松右衛門旦那は無視し、大声をあげ「持船の身になればぜひ松前地へゆけ」といった。

 「陸(おか)を見い。株、株、株がひしめいて、あとからきた者の割りこむすきまもないわい」ともいった。

 株をもつ商人以外、その商行為はできない。

 大坂に対して後発の地である兵庫でも、株制度は精密に出来てしまっている。

 ・・・・

 株という特権をもたない者は、いっさい取引に参加できない。

 もともと商人がこの制度を考え、幕府に認めさせたわけであったが、封建制の原理のなかにこの種の思想がふくまれていることはいうまでもない。

  30 蝦夷地へ  辰悦丸の建造

 ただ松前・蝦夷地の産物については、まだ株仲間が構成されていないものが多く、その意味で北海まで足をのばす北前船には、新入りの廻船業者にとって大きな自由がひらかれていた。

 「男であれば、北前船をうごかすべきじゃ」と、松右衝門旦那はくりかえしいう。

 ・・・・(以上『菜の花の沖』より)

 その夜、嘉兵衛には、松右衛門の「蝦夷地に行け」とい言葉が、一点のしみのように残った。・・・

船が欲しい。自前の船が欲しかった。

 彼は、熊野灘の鰹漁をえらんだ。

 北前船を建造する資金が鰹でできるはずだと思った。

 嘉兵衛は樽廻船を降りて、熊野へゆき、鰹船を買い、さかんに操業した。

 同時に江戸期の日本で技術がすぐれていた紀州漁業(操船)の技術も身に着けようとした。大きな資金も得たが、日本海を航海する船の建造には不足であった。

 北前船の廻漕問屋和泉屋伊兵衛の沖船頭になるのは、寛政七(1795)年で、27歳の時である。

   土崎(秋田)にて

 ある日、嘉兵衛は、北風荘右衛門に呼ばれた。

 「秋田まで行ってくれるか。木材を運んでほしい」

 これは賃仕事だと思ったが義理のある荘右衛門から出た以上、断ることはできなかった。

 「往(ゆ)きは、お前に、もうけさせてやる。庄内や秋田では木綿や繰綿(繰り綿)が高くなってこまっているそうだ」

 情報に関しては、荘右衛門にはかなわない。

 途中、無理をしてシケに巻き込まれたが目指す庄内・土崎(つちざき・秋田県)に着いた。

 薬師丸は、日本海の荒波によく耐えた。

   辰悦丸」建造

 土崎の前の海は、北前(日本海)である。北前の海と船については知り尽くしている。

 それに、この地方は大阪と比べ手間賃が安いため、船はより安価にできる。

 嘉兵衛は、自分の船の建造を地元の船大工に建造を頼むことにした。

 そのいきさつを述べておきたい。

 嘉兵衛は、前述したように一時期紀州熊野で鰹漁業にたずさわり、相当の資金蓄えたといわれる。

 しかし、船の建造費には遠く及ばなかった。

 先に紹介したように、寛政七年(1795)春、26歳の嘉兵衛は和泉屋伊兵衛の沖船頭となり、日本海航路の出羽酒田に初めて出かけた。

 この年12月、かれは出羽庄内で千五百石積み辰悦丸を建造・海運業者として独立・船持船頭、すなわち自分の持船の船長になった。

 北海に事業を開拓する企案家としてのスタートであった。

 千五百石積の木造船をトンに換算すると約220トン余であり、当時としては大型船であった。

 その建造費は千五百両から二千両と椎定される。

 当時の米価を金一両で、石二斗とすれば、辰悦丸の建造費は米千八百~二千四百石となる。

 辰悦丸の建造費を現在の貨幣価値で換算すると、八千八百万円ないし、一億千八百万円となる。

 そんな大金をどう調達したのだろうか。

 これだけの資金を、裸一貫で兵庫に出て海遵、漁業に従事して6年目、26歳の嘉兵衛が蓄積することは、容易なことではない。

  いきさつは、こういうことらしい。

 瀕川・岡久は『高田屋嘉兵衛』で次のように説明している。

 兵庫の有力商人、北風家のことを記録した『北風家記』は、北風荘右衛門と嘉兵衛の関係に触れている。

 荘右衛門は、兵庫の商権が大坂商人に握られて発展しないのを嘆き、北風家の邸宅と倉庫を抵当にして幕府から二千両を借入れ、その商権を買取って兵庫の商権を確立した。

 荘右衛門は、日本海方面の航運業に着眼し、大船を建造したのである。

 一方、嘉兵衛はこのころ兵庫に出て回船船顧として活躍しはじめていた。

 彼は、嘉兵衛の人物を知り、二茶屋村(神戸元町)の船持の木屋又三郎に対して、嘉兵衛を支援するよう説得した。

しかし、又三郎が応じなかった。

 荘右衛門は自分の手船を嘉兵衛にゆだねて日本海方面との回漕に当らせた。

 その結果、莫大な利益をあげたので、その一半を割いて嘉兵衛に与えた。

 26歳の青年企業家嘉兵衛が、千五百石積の辰悦九の建遣ができた理由である。

 嘉兵衛の運命は、辰悦丸の建造と運用により、大きく展開することになった。

 なお、嘉兵衛が兵庫西出町に「諸国物価運漕高田屋嘉兵衛」の看板を掲げ、独立したのは寛政八年(1796)、二十八歳の時であった。

   新船・辰悦丸で蝦夷地へ

 和泉屋の船であった春日丸・寛政丸、そして薬師丸は荷物をいっぱい積んで土崎を目指して兵庫を出た。

 土崎では、新造の船がほとんど完成していた。みごとな船であった。嘉兵衛は「辰悦丸」と命名した。何度もそれを撫ぜた。

 喜兵衛は、船首に立った。

 次弟の嘉蔵は、羽織を脱いで、はしゃいだ。

 春も早い、梅の咲く頃になった。

 辰悦丸は、白い松右衛帆に風をいっぱいは孕んで土崎から松前に向かった。

   蝦夷地は「外」の社会

 嘉兵衛は、辰悦丸で蝦夷地に航海した。

 司馬遼太郎氏は、蝦夷地について次のように書く。

   31 地 球

 「地球」という日本語も、嘉兵衛のころにはすでにできていた。

 たとえば、嘉兵衛の親しい松右衛門帆の松右衛門旦那は播州高秒のひとだが、「わしの在所にちかい土地から出たひとで、大坂の商家に奉公し、やがて番頭になり、幼主を擁し、衰えていた主家をもりたてて店を大名貸しができるまでにした人物がいる。

 このひとは、地球をしらべている」といったりした。

 その松右衛門の友達は、商いのかたわら儒学、天文学を学び、卓抜した経済論を確立した。

 哲学的には無神論を主張し、大地については、地動説を主張していた。

 姓を山片(やまがた)といいい、生涯を番頭であまんじたから、蟠桃(ばんとう)と号した。 

 その著『夢の代(しろ)』は、嘉兵衛の壮年期に刊行されるのだが、そこには、「地球ハ、テマリノゴトクニシテ、其周リ(そのめぐり)ミナ山海・国土アリテ、・・・・」とあり、地球ということばが使われている。(以上『菜の花の沖』より)

    蝦夷地は「外」の社会・・・

 嘉兵衛は、マリノヨウナ地球を北へ航海している。

 日本の歴史である。「日本人」は、古代より営々として稲を育て続けた。そして、「日本」は、瑞穂(稲)の国となった。そして、金太郎飴のような社会ができあがった。

 ただ蝦夷地ばかりは、稲作社会でない。その意味で、日本国の「外」にあった。

 そして、そこに住む人間を「夷」、土地を蝦夷地とした。

 気分的にも、松前・蝦夷地は、とてつもなく遠かった。

 この地方が、「北海道」という名称にかわるのは、明治二年(1869)、新政府によってである。

 立案者は、江戸末期における最大の探検家・松浦武四郎(1818~88)であった。

 松浦武四郎は、高砂市の曽根神社を訪ねている。

 とにかく、江戸時代の人の感覚でも蝦夷地は、遠い地球上の土地であった。

 *写真:山片蟠桃像(米田町神爪の公園)  (no3317)

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(8) 松右衛門と嘉兵衛の出会い(25~28)

2016-08-23 02:38:28 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  25 蝦夷地へ アラマキ鮭 を発明

 江戸時代、「株仲間」が、大きな力を持ち威張っていた。

 それは、封建制度そのものといってもよかった。株仲間は新興の勢力が入りこむことを、蹴落とす組織であった。

 幕府は、株仲間からの利益を吸い上げることのみに熱心で、変化を好まなかった。

 江戸は、膨大な食欲を持つ消費都市であり、そこへ商品を運びこむというのが一番いいのであるが、そこには菱垣廻船、屋樽廻船という株仲間が独占していた。

 そのため、松右衛門は「もうけ」のために、日本海、そして蝦夷地に乗り出さねばならなかった。

 松右衛門帆は、蝦夷地と航海を容易にしたのである。

    アラマキ鮭

 松右衛門の発明は、松右衛門帆や機械工具ばかりでなかった。以下の発明品もこんにちの食生活を豊かにした。

 松右衛門のように持船がすくなく、あたらしい商人には、既成の航路に割りことはむずかしい。松前(蝦夷地)へ行く商いの方がやりやすかった。

 松前の商品で最大のものは肥料用のニシン(干鰯・ほしか)で、この肥料が上方や播州などの作物としての木棉の生産を大いにあげている。

 しかし、この商品は、株仲間が組織されていて、松右衛門のような新参が割りこめないし、割りこめても妙味が少なかった。

 そのため、北風荘右衛門は松右衛門に独立をすすめ、あつかう商品として、昆布と鮭をすすめた。

 松前から帰ってくる北前船の昆布を大量に上方に提供した。

 昆布を料理のダシにつかい、上方料理の味を変えた。

 昆布以前と昆布以後とでは、味覚の歴史は大いに変わった。

    松右衛門、アラマキ鮭 を発明

 さらに、松右衛門は、蝦夷地で一つの発明をしている。アラマキ鮭である。

 松前(蝦夷地)から運ばれている鮭は塩鮭で、塩のかたまりを食っているようにからいものであったが、松右衛門は松前で食った鮭の味がわすれられず、この風味をそのまま上方に届けたかった。

 かれは内蔵やエラをのぞき、十分水洗いをしてから薄塩を加え、わらでつつんだ。

 無論、このていどの塩では腐敗はふせげない。このアラマキ鮭だけのために早船を仕立てた。

 このアラマキ鮭の出現は、世間から大いに喜ばれたが、儲けの多くは、この市(いち)を主宰する北風家に吸われていたかもしれない。

 ハム、ソーセージ、鰹節などの食品の発明は、人々の生活に大きな影響をおよぼしたが、その発明者の名は知られていない。

 アラマキ鮭の発明者は、松右衛門であったことが記録として残っている。

   26 高田屋嘉兵衛・兵庫湊へ

 いま、「工楽松右衛門」について紹介しているが、ここにもう一人が登場する。

 『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛である。

 松右衛門は地元、それも高砂市では知られていたが、あまり広く知られた人物ではなかった。歴史的に重要な人物ではない、という意味ではない。

 工楽松右衛門の名前を全国的に有名にしたのは、小説『菜の花の沖』であり、小説の主人公である高田屋嘉兵衛の頭には、絶えず松右衛門の励ましの声が聞こえていたようである。

 「高田屋嘉兵衛」について紹介しておきたい。

    高田屋嘉兵衛、淡路島を抜ける

 彼は、明和六年(1769)正月、淡路島の西海岸(西浦)都志(つし)本村(五色町)という寒村で生まれ、追われるように兵庫へ押しだされた。

 寛政二年(1790)、先に、兵庫湊の堺屋で働いていた弟の嘉蔵(かぞう)のところへ乞食のような姿で転がり込んだ。

 嘉兵衛が兵庫に出てきた頃は、まさに商品経済が隆盛を誇った時代で、米や塩、干した海産物、酒、鉄、繊維を主として、多様な商品が日本を取り巻くように取引されていた。

    新酒番船で一番に

 兵庫湊には樽廻船・菱垣廻船・北前船でにぎわい、嘉兵衛には驚き連続であった。貪欲に仕事を覚えた。

 寛政三年(1791)、嘉兵衛の乗りこんだ堺屋の樽廻船が、その年の「新酒番船」に出場して、みごと一番の栄誉をうけることとなった。

 樽廻船としては、その年の最高の栄誉を獲得したのである。

 早春の太平洋は、まだ波が荒い。「新酒番船」とは、その年の新酒を樽廻船に積み江戸到着の順位を競い、一番はたいそう名誉なこととされていた。

 嘉兵衛は、その船の事務長のような役割を果たした。

 嘉兵衛の働く堺屋も北風家の傘下にあった。北風家は、嘉兵衛の将来を見込んで、兵庫湊・北風家の名をあげるため、いろいろとしかけたようである。

 *絵:『菜の花の沖(第二巻)』カバーより

   27 嘉兵衛と松右衛門の出会い

 『菜の花の沖』(第二巻・文春文庫)の目次の二つ目は、ずばり「工楽右松衛門」である。

 内容は、高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面である。

 この部分は、司馬遼太郎氏がつくりあげ物語であろうが、嘉兵衛と松右衛門の風景としては、いかにもありそうな話である。

 松右衛門と嘉兵衛の出会いの話として、史実はともかくとして自然な気分にさせてくれる。 紹介しておきたい。

   嘉兵衛と松右衛門のであい

 嘉兵衛の住む兵庫湊の西出町の長屋は、冬になると賑やかになった。

 冬は海が荒れる。よほどのことが無いと船は動かない。

 北前船や樽廻船が、この時期うごかないため、船乗りたちは春からの仕事に備えて岡での生活を楽しむ。

 もっとも嘉兵衛は、暇ではなかった。

 堺屋の持船のうち、二艘の船底を「たで」ねばならない。

 「たでる」とは船底を燻して、木材を食う虫を追いだすことだが、老朽あるいは損傷のカ所を修理するということも含まれている。

 兵庫の湊の欠陥として、この浦が出船・入船で繁昌するあまり「船たで場」が少なかった。

 後に、兵庫湊にも本格的な船たで場は造られるが、嘉兵衛のころにはまだそれがなかった。

 この年、兵庫のせまい「船たで場」が予約でいっぱいであったため、海向こうの讃岐(香川県)の多度津まで「船たで」に行くことになる。

 これは、特殊な例ではなく、兵庫に籍をもつ船で多度津(香川県)まで「船たで」にゆく場合が多かった。

 船舶の世界において、多度津は田舎ではない。

 船大工などもむしろ兵庫より人数が多く、腕のきこえた者も少なくなかった。

     松右衛門の船だ !

 多度津で、「船たで」の作業を監督していると、隣の「船たで場」に、兵庫の廻船問屋船が三艘「船たで」をしていた

 松右衛門の船である

 ・・・・(以上、小説『菜の花の沖』参照)

 司馬遼太郎は、この話を寛政四年(1792)と想定している。

 嘉兵衛は、明和六年(1769)生まれあるから、この時、嘉兵衛23才である。松右衛門は、嘉兵衛より16才上であるので、松右衛門39才である。

 *写真:船たで場(神戸海洋博物館HPより)

   多度津(讃岐)にて

 くどくなるが、この高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面は、司馬遼太郎のつくりあげた話であり物語としてお読み願いたいが、二人の出会いの風景としては不自然ではない。史実としては、松右衛門は、しばしば多度津を訪れている。

    ・・・・

 嘉兵衛が「船たで場」からみていると、その男はこちらへ近づいてくる。

 御影屋の「簾がこい」に入ったから、松右衛門旦那であることはまぎれもない。

 簾がこいからもれてくる声は、船大工たちを集めて指示しているらしい。

 嘉兵衝は、やがて松右衛門旦那のやっていることがわかった。

 松右衛門旦那は、ロクロの改良を思いついてやってきたらしい。

 松右衛門旦那は、「簾がこい」から出てきて、それが目的であるように、嘉兵衛に近づいてきた。

 嘉兵衝が、あわてて船の上から降りてくると、松右衛門旦那のさびた声が耳にとどいた。

 「嘉兵衛さんかや。お前は、おもしろい男じゃというなあ」

 松右衛門旦那の声は、「からーん」と空に吹きぬけてゆくような響きがあった。

 「お前は、船がおもしろいか」

 松右衛門旦那は船上にのぼって、船体をなでながら、嘉兵衛にきいた。

 嘉兵衛は、すこしあがっていた。

 人間としての品格が、いままでみたどの人物とまるでちがっていた。

 「おもしろうございます」

 「なんぞききたいことがないか」

 船についてである。

 嘉兵衛は、すこし怯えさえ感じた。

 「山ほどあるように思いますが、いまは体のなかが空っぽでございます」

 「ぽんくら」

 松右衛門旦那は、笑って嘉兵衛の背をどやしつけた。

 やがて風むきが変わって「船たで」の煙がただよいはじめたので、松右衛門旦那は降りた。

 「今夜、わしの宿に来んか」と、松右衛門旦那はいい、船たで場のそばにある大きな網元の家をさし示してから、自分の簾がこい入った。(以上『菜の花の沖』参照)

 ・・・・

 嘉兵衛は、その日、松右衛門に御馳走になった。

 北前船、蝦夷地の話もあったであろう。

 「松右衛門さんが、目にかけてくれている」と思うと、震えるような嬉しさがあった。

   28 金毘羅大権現

 司馬遼太郎の小説は、読めば「かしこく」なったような気分になる。かれは、世間に広まっている「司馬史観」といわれる言葉を嫌がったそうであるが、小説には司馬史観が散らばっている。それらを拾い集めることも醍醐味である。

 金毘羅大権現について松右衛門に語らせている。

   金毘羅大権現

 (その夜、嘉兵衛は松右衛門に酔った。金毘羅大権現の話にもなった)

 ・・・・松右衛門且那は、「多度津にきて、なぜ金昆羅さんが舟人から大もてであるかがわかったろう」と、いわば罰があたりそうなことをいったのである。

 金毘羅さんは、本来、山なのである。

 象頭山といわれる秀麗なすがたの山で、海上を走っている航海者の側からいえば類なくすばらしい目印になる。

 その山を見て、自分の船の位置を教えてもらい、また他海域から帰ってくると、ふたたびその山を見て、こんどの航海もぶじだったことをよろこびあう。

 自然、山を崇敬するようになる。

 多度津の前の海に、船乗りの輩出地としては質量ともに日本一の塩飽諸島(しあくしょとう)が浮かんでいる。

 「大むかしから、塩飽衆が朝な夕なあの山をおがんでいたのを日本中にひろめたのよ」

 塩飽衆の船には金毘羅大権現がまつられている。

 「彼らが日本国の潮路という潮路に活躍しているために、いつのまにか他国の船も金毘羅大権現を崇敬することになったのよ」と松右衝門旦那はいう。

   廻船とは・・・

 「商いの尊さは、そういうことじゃ」と、金昆羅大権現と商いを一つレベルに置いて言ったが、このことは松右衛門の思想の一特徴かもしれなかった。

 もし、塩飽衆という大きな交通行動力をもったひとびとがいなければ、金毘羅大権現がいかに霊験があるといっても、あの山中で祠も朽ちはてているところだ。

 よきものを安く配って世に幸せをあたえるのが廻船という商いじゃ、わかったか、と松右衛門旦那はいう。

 「嘉兵衛、もっと飲め」

 ときおり松右衛門旦那が注いでくれたが嘉兵衛は酒よりも松右衛門旦那に酔っていた。 (no3316)

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(7) 松右衛門の発明(20~24)

2016-08-22 08:45:18 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

   20 松右衛門の発明

 松右衛門は、少年の頃から発明することが多かった。松右衛門は、驚くほど多才な人物で多くの発明をしている。

 中でも彼の発明品としては、なんといっても船の帆「松右衛門帆」であるが、松右衛門帆については、次に紹介したい。

  『農具便利論』にみる松右衛門の発明

 松右衛門の発明ついて『菜の花の沖』(司馬遼太郎)で、次のように書いている。(漢字等少し変えている)

 ・・・

 たとえば大船と大船の連絡用の快速艇を考案して「つばくろ船」と名づけたが、荒波をしのぐが便利なように潜水艦のような形をしている。

 彼が考案した船や道具のうち十五点ばかりが、江戸後期の農学者大蔵永常(おおくらながつね・1768~?)の『農具便利論(三巻)』に鮮明な図付きともに掲載されている。

 轆轤(ろくろ)を用いて土砂取船、舷が戸のような開閉する土砂積船、海底をさらえるフォークのような刃の付いたジョレン、あるいは大がかりに海底をさらえる底捲船(そこまきぶね)、また水底に杭を打つ杭打船、石を運ぶ石積船、さらに巨岩を一個だけ水中にたらして運ぶ石釣船(図)、など20世紀後半の土木機械と原理的に似たものが多く、そのほとんどが松右衛門生存中に一・二の地方で実用化され、死後、ほろんだ。(以上『菜の花の沖』より)

     松右衛門の工夫

 松右衛門の発明は、当時の人々にかなりの程度知られていたテコを大型化し、滑車、浮力を組み合わせたものが多いが、知られていた原理や道具を組み合わせて異色の機具・道具をつくりだしている。

 これらの技術は、後に紹介したい箱館やシャナ(エトロフ島)の港づくり等で威力を発揮した。

 *大蔵永常(おおくら ながつね)・・・明和5年(1768~ ?) 江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。

 *図:松右衛門考案の石釣船(『農具便利論』大蔵永常より)

  21 松右衛門帆(1) 帆の改良

 なんといっても、松右衛門を有名にしたのは、「松右衛門帆」の発明である。

 近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用された。

 しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を増すために、二・三枚重ねて太いサシ糸でさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)であった。縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度不足により破れやすかった。

 松右衛門帆については『菜の花の沖』に詳しい。ここでも引用させていただくが少し記述を変えている。

   帆の改良

 「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからである。

 彼は、北風家の別家の喜多二平家で話しこんでいたときに不意にヒントを得たらしい。

 幾度か試行錯誤をしたらしいが、「木綿布を幾枚も張りあわせるより、はじめから布を帆用に織ればよいではないか」と思い、綿布の織りをほぐしては織りの研究からはじめ、ついに太い糸を撚(よ)ることに成功した。

 縦糸・横糸ともに直径一ミリ以上もあるほどの太い糸で、これをさらに撚り、新考案の織機(はた)にかけて織った。

 ・・・・できあがると、手ざわりのふわふわしたものであったが、帆としてつかうと保ちがよく、水切りもよく、性能はさし帆の及ぶところではなかった。

 かれのこの「織帆」の発明は、天明二年(1782)とも三年ともいわれる.

 ・・・・

 「松右衛門帆」とよばれたが、ふつう単に「松右衛門」とよばれた。

 さし帆より1.5倍ほど値が高かったが、たちまち船の世界を席捲(せっけん)してしまった。

 わずか7、8年のあいだに湊にうかぶ大船はことごとく松右衛門帆を用いていた。

 その普及の速さはおどろくべきものであったといっていい。(以上『菜の花の沖(二)』より)

  22 松右衛門帆(2)  松右衛門帆でもうけよ

 司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』は、良質の酒を飲んでいるようである。読書の醍醐味がある。

   松右衛門帆でもうけよ

 この織りは、こんにちなお兵庫県の明石から加古川にかけての産業である厚織りやカンバス、ベルト生地の製造、あるいはゴムタイヤに入れる「すだれ織り」といったかたちで生きつづけている。

 松右衛帆について、さらに触れておきたい。

 かれは、この帆布の製作のために兵庫の佐比江に工場を設けたが、当時まだ沖船頭(雇われ船頭)の分際であった。

 この資金は北風家、あるいはその別家の喜多家から出たのではないか。

 佐比江(さびえ)の工場では、船主や船頭が奪いあうようにして出来上がりを持ってゆくというぐあいで、生産が需要に追いつかなかった。

 かれは、むしろ積極的にこの技術を人に教え、帆布工場をつくることをすすめた。

 明石の前田藤兵衡という人物などは、いちはやく松右衛門から教えをうけて産をなしたといわれる。

 「金が欲しい者は、帆をつくれ」と、松右衛門はいってまわった。

 このため弟子入りする者が多く、工場はにぎやかに稼働したが、独立してゆく者も多かった。

 数年のうちに播州の明石、二見、加古川、阿閇(あえ)などで、それぞれ独立の資本が工場がごきはじめた。西隣りの備前、備後までおよんだ。

 この松右衛門帆は、これ以後の江戸時代を通じて用いられたばかりか、明治期までおよんだ。

 ・・・・

 「人の一生はわずかなもんじゃ。わしはわが身を利することでこの世を送りとうはない」というのが松右衛門の口癖であった。(以上『菜の花の沖(二)』より)

    復原された松右衛門帆

 松右衛門帆でつくったカバンが欲しくなり、地元のグッズを販売している店に買いに出かけた。
 どれも高価で、安いカバンをえらんだが、それでも予算オーバー。
 でも、さすが松右衛門帆を復元している。丈夫そうである。

 *写真:復元された松右衛門(帆)で作られたカバン。(HPより)

  23 松右衛門帆(3) ある日の会話

 ある日のことである。

 松右衛門は、北風家の別家の喜多二平とくつろいで話していた。

 以下は、勝手な想像で書いている。

 喜多二平:きのうは雨、きょうは風がきついですな。こんな日が続くと船も困りもんです。特に、帆が長持ちしまへん。

 松右衛門:そうですね。破れやすいし、それに水で腐りやすいし・・・・

 喜多二平:なんとかなりまへんかね。

 松右衛門:太い糸で帆を織ったらどうでしょうか。私の郷(高砂)は綿の産地です。

 やってみます。

 こんな会話があったのでしょう。

 やはり、松右衛門の生まれた高砂辺りが、綿の生産が盛んな所でなかったら、さすがの松右衛門も「綿の太い糸で帆を織る」という発想は、生まれなかったことであろう。

 加古川河口辺りの綿作について少し見ておきたい。

   故郷は綿の生産地

 元禄十年(1697)に刊行された江戸時代の農書に『農業全書』がある。

 この中で、河内(かわち・大阪府)、和泉(いずみ、大阪府)、摂津、播磨、備後(広島県)の五ヵ国について、土地が肥沃で、綿を植えて、多大な利潤をあげたことを紹介している。

 県内沿岸部の摂津や播磨が、近世前期から綿作のさかんな地域だったことをうかがわせる。

 播州地方も綿作がさかんで、とくにさかんだったのは現在の加古川市域一帯の平野部であった。

 18世紀中ごろ、多くの村々の村明細帳(むらめいさいちょう)に綿作のことが記されるようになっている。

 畑作物とし多くの村々では綿が作付されており、それは幕末のころになっても変わっていない。

 田畑全体の50パーセントに作付される村が多く、畑にはほとんどすべて綿を植えるという村も多かった。

 特に、伊保崎村・荒井村(以上高砂)から別府村・池田村(以上加古川)一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%であった。

 松右衛門は、こんな町の空気を吸って少年期を過ごした。その中に、松右衛門帆のヒントがあった。

  24 松右衛門帆④・商業を縛る株仲間

 松右衛門は、松右衛門帆を独占し、個人的に利することを欲しなかった。

 今回も『菜の花の沖』からの引用である。

 ・・・・

 それでも、松右衝門はいくばくかの金は得た。

 「これで、鉛を乗りまわせる」と、松右衛門はよろこんだ。

 廻船問屋は、そのきりもりが高度の能力を必要とするため、子孫が容易にそれを継げるというものではなかった。

 松右衝門が少年のころ奉公した御影屋も先代の死後、能力不足で衰えていたため、帆でもうけた金でこの株をゆずってもらい、御影屋の当主になった。            '

 当時、兵庫には北国専門(北前船)の廻船問屋が十三軒あり、幕法によってそれらが「株」として固定しており、勝手に新規開業することができなかったのである。

 松右衛門はたちまち北国へ乗り出し、ついには松前まで行き商圏を確立した。

 「わしは齢をとってから船持になった。このため、やりたいことを寿命とのかねあいで、いそぎやらねばならぬ」などといっていたが、たしかに発明家としても航海業者としても、あるいは私費を投じての港湾築造者としても、松右衛門の活動はおもに50をすぎてからであった。

 ・・・・(以上『菜の花の沖』より) (no3315)

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(6)  松右衛門のエピソード(17~19)

2016-08-21 09:32:22 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  17 松右衛門のエピソード

 松右衛門が、すぐれた船頭であることを示すエピソードを『風を編む 海をつなぐ』(高砂教育委員会)から一部をお借りしたい。

   ・・・

 松右衛門、24才のときのことである。

 松右衛門は讃岐(現在の香川県)へ通う船の船頭となっていた。

 その当時、おおみそかの夜に船を出すと災難にあうという言い伝えがあり、おおみそかの夜に航海する者はいなかった。

 しかし、言い伝えを信じていなかった松右衛門は、おびえる水主たちを説得してその夜出港した。

 夜の海を航海していると、水主たちが騒ぎだした。山のような波が押し寄せてきた、というのだ。

 それを聞いて船首で海の様子を見た松右衛門は、「山があれば谷がある。谷に向かって進め」と命じた。

 水主たちは谷を見つけ、力を合わせて船を進めた。

 すると目の前から山は消えた。

 松右衛門には最初からこの「山のようなたくさんの波」は見えなかったらしい。

 言い伝えを信じおびえていた水主たちにはそのように見えた、というのが実際のようである。

 松右衛門は合理的に物事を考える人であった。

 おおみそかの夜に災難が起きると言われているのは本当なのか、そうだとすればそれはどうしてか。松右衛門はそれを確かめたかったのだ。

 いざ海に出てみると、言い伝えには根拠がないことがわかった。

 ただ、言い伝えを信じこんでいる水主たちには「山などない」と否定せず、「谷を行け」と命じた。

 松右衛門自身も山が見えたということにしておいた方が、同じ船に乗る者の気持ちが一つになると考えたのである。

 松右衛門は水主たちの気持ちを考えつつ、船を進めるため号令をかけた。

 彼の言葉により船は無事にすすみ、水主たちは冷静さをとりもどした。(以上『風を編む 海をつなぐ』より

   松右衛門の考えの源は?

 以上はエピソードであるが、松右衛門はすべてに合理的に考える人物であった。

 松右衛門の船頭として優れたリーダーシップはともかく、彼の迷信を信じない合理的な考えに興味がある。経験から得ただけとも思えない。

 兵庫湊の商業活動から合理的な態度を身につけていたのは当然であるが、それだけではなく、学問の影がちらつく。

 彼は、どこで、どんな勉強をしていたのだろうか。

 *『風を編む 海をつなぐ』参照

  18 余話・山片蟠桃(やまがたばんとう)

 高砂の町は、キラ星のごとく多くの素晴らしい人を誕生させた。山片蟠桃もその一人であり、彼は高校の日本史の教科書には必ず登場する人物である。

 蟠桃の生誕地は、現在の高砂市米田町神爪(かづめ)で高砂市の北部になるが、共に高砂の生まれである。

 そして、共に共通点が多い。

 山片蟠桃(やまがたばんとう)と工楽松右衛門の考えを比べてみたい。

 ・山片蟠桃は、寛政元年(1748)生まれ、文政四年(1821)没。

 ・工楽松右衛門、寛保三年(1743)生まれ、文化九年(1826)没

 上記のように二人の生きた時代は、 蟠桃が松右衛門より5才年上であり、亡くなった年は蟠桃の方が5年早い。ほぼ同時代を生きた。

 これは「二人は商業(流通業)に関わったこと、そして、その芽は商業に関係した高砂に生まれたことにあるのではないだろうか」と想像してみたくなる。

   夢の代(ゆめのしろ)に蟠桃をみる

   蟠桃は、「太陽系の金星と水星は近く、暑いため人が住んでいないだろうが、他の惑星には人が住んでいる」と予想した。

 そして、宇宙人がいると言う大胆な仮設を世に問うたのも彼が世界で最初だった。

 蟠桃は、寛延元年(1748)現在の高砂市米田町神爪に生まれた。

 後に、大坂で米の仲買をしていた「升屋」で働いた。

 「升屋」の当主は亡くなり、後を継いだ山片重芳は当時6才だった。そのため、蟠桃がその重責を担わなくてはならなくなった。

 当時、「升屋」は苦しい経営に直面していた。

 その後10年、蟠桃の努力で「升屋」はおおいに繁盛し、後に彼は山片の姓を名乗ることが許された。

 彼は、忙しい商のかたわら学問への情熱は捨て切れなかった。

 「懐徳堂(かいとくどう)」に入門し、中井竹山から天文学を学んだ。

  55才の時、自分の考えをまとめるため『夢の代(ゆめのしろ)』の作成に取りかかり、20年の歳月をかけ完成させた。

 『夢の代』は、当時のものとしては驚くほど先を見越した内容だった。

 ・雷に打たれて死んだ人は、決して悪人ではない。たまたまそうなっただけで、これは自然現象である。

 ・人間の精神作用は、死と共に活動を停止する。霊魂の不滅などということは絶対にない。

 蟠桃は、このように「日常生活における迷信を否定し、物事を合理的に考えなければならない」と説いた。

 このことは、次の意見にもよくあらわれている。

 ・西洋人が、世界の海を自由にかけめぐっているのは、天文学と地理学の豊かな知識に基づくものである。勇気は知識から生まれる。

 「松右衛門のエピソード」と重なる。

 *写真:山片蟠桃像(米田町神爪の公園)

  19 筏で材木を江戸へ運ぶ

 松右衛門は、兵庫湊の「御影屋」という廻船問屋で水主(かこ・船乗り)をしていたが、ずいぶん北風家の世話になっていた。

 そこで船乗りとしての知識や技術、そして商の仕法を覚えた。

 北風家は、松右衛門をずいぶん可愛がり援助をしたようである。もちろん、彼もそれに応えた。

 次の松右衛門が筏(いかだ)で材木を運んだということも、まず北風家から出た話であろうと思われる。

 誰も考えつかないようなことを行わせ、一挙に「兵庫湊と松右衛門」と宣伝したのである。

 松右衛門も見事にそれに応えた。

 *『風を編む 海をつなぐ(高砂市教育委員会)』から引用させていただいているが、一部書き変えている。

 ・・・・

 彼が30才のころ、姫路藩から頼まれて秋田から材木を運ぶことになった。

 しかし、当時大きな材木を積むことのできる船はなかった。

 秋田の商人から工夫を頼まれた松右衛門は、材木を筏に組んで、それに帆と舵(かじ)をとりつけることを思いついた。

 木材の運搬を頼まれたのは、北風家であったのであろうが松右衛門を見込んでの事だった思われる。

 ・・・・

 筏(いかだ)は、基本的に船と同じ機能を持つ。

 このいかだ船で、秋田から大坂まで航海をした。寄港する先々で「めずらしい船が来た」と注目を集めた。

 この方式で姫路から江戸まで丸太五本を運んだとき、松右衛門は「姫路の五本丸太」という大旗を掲げて航行した。

 江戸に着いた時には多くの見物人で大騒ぎになったが、この事が姫路藩と松右衛門の名を世に広めたのである。

 このようにして、松右衛門は船頭としての評判がたかまった。(no3314)

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(5) 北風の湯(13~16)

2016-08-20 09:06:11 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  13 北風家(1)  兵庫の北風か、北風の兵庫か

 『菜の花の沖(二)』(文芸春秋文庫)は、次のように始まる。

 「兵庫の津には、北風という不思議な豪家がある」

 ・・・・

 「兵庫を興したのは、北風はんや」と土地では言う。

 諸国の廻船は普通大坂の河口港に入る。それらの内幾分かでも兵庫の湊に入らせるべく北風家が大いにもてなした。

 一面、船宿を兼ねている。

 「兵庫の北風家に入りさえすれば、寝起きから飲み食いまですべて無料(ただ)じゃ」と、諸国の港で言われていたが、まったくそのとおりであった。

 北風家は兵庫における他の廻船問屋にもそれをすすめ、この湊の入船をふやした。

 入船が多ければ、その港が富むことはいうまでもない。

 直乗(じきのり・・持船)の荷主や船頭が、自分の荷の何割かを兵庫で下ろしてしまうからである。

   兵庫の北風か、北風の兵庫か

 「兵庫の北風か、北風の兵庫か」といわれるほどであるだけに、遠国(おんごく)からの入船のほとんどは北風家に荷を売った。北風家は直ちに店の前で市を立てるのである。

 「北風の市」というのは、入船のたびに遠近(おちこち)から集まってくる仲買人でにぎわった。

 ・・・・

 めし等は、いつ行っても無料(ただ)であった。入船の船乗りだけでなく、家に戻っている船乗りでも、「どりゃ、これから北風に振舞(ふれま)われてこようかい・・・」と七宮神社(しちのみやじんじゃ)近くの北風の湯に出かけて行く。

 勝手口から入ると、富家の娘のようにいい着物を着た女中たちが、名前も聞かずに給仕をしてくれるのである。・・・(以上『菜の花の沖』より)

 司馬氏は、北風家をこのように紹介している。北風家の賑わいの風景が目に浮かぶようである。

 松右衛門も北風家の空気をいっぱい吸いこんで仕事を始めた。

  14 北風家(2) 北風の湯

 北風家について続けたい。

 「北風家」では代々「荷主、船頭、水主(かこ)など、身分を問わず大切にせよ」という家訓があった。

   北風の湯

 ・・・・

 北風の湯というのは、二十人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものであった。

 「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていた。

 老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談は、後進にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報になった。

 兵庫の湊では船乗りであればだれでもよかった。

 湯殿は、蒸し風呂と湯槽(ゆぶね)の両方があった。

 洗場では十数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流し会ったりしながら情報を交換していた。

 湯あがりの後、時には酒もでた。

 北風家としても全国からの情報を集め商売に利用していたことはもちろんであった。

    松右衛門も、北風の湯で学ぶ

 松右衛門は、15才で兵庫の湊に飛び出し、御影屋で働くようになり、やがて船に乗った。

 最初は、だれでもそうであるように、船乗りといっても「炊(かしき)」という雑用から始まる。

 当時の慣行として、「炊」は先輩から、しょっちゅう怒鳴られ、ぶたれた。それに耐えたものが船乗りになった。

 詳細は分からないが、松右衛門もそんな炊の時期を経て、20才を過ぎた頃、船頭になった。

 兵庫の湊で働いていたというものの、1520才前の頃までは、北風の湯へは敷居が高く出入できなかった。

 20才前にはいっぱしの水主になり、「北風の湯」に出入りし、全国の情報をいっぱい仕入れた。夢はますます膨らんだ。

 *写真:七宮神社(神戸市兵庫区七宮町二丁目)、神社の近くに北風家・北風の湯があった。

  15 北風家(3)

 北風家の祖先:南朝の味方、そして荒木村重の家臣に

 北風家の先祖は、南北朝時代(1329~40)に南朝方に仕えた摂津の豪族であったという。

 南朝が衰えた時期の前後、同地(現在の阪神間)で勢力を持っていた。

 その後、織田信長の時代、摂津の大名になった荒木村重(あらきむらしげ)に味方した。

 村重は有岡城(伊丹城)を居城としていた。

 しかし、信長に対する謀反で村重は敗北。家来は逃げ出した。

 この時、北風家の先祖は武士を廃業して、海運業をもとにした問屋を兵庫で起こした。

 北風家は、廻船問屋として富を為した。

 常に順調に発展したのではなかった。

  16 兵庫湊、天領となり一時衰弱

 『播磨灘物語』から。そのあたりの事情を読んでみたい。(少し文を変えている)

 ・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになった。

 特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫湊を繁盛させることに力を尽くした。

 しかし、幕府はこの結果を見て、明和六年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)とした。

 が、幕府は兵庫湊の政策(ビジョン)を少しも持たなかった。繁盛しているところから運上金(運城金―税金)を取りたてると言うだけであった。

 そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ倒れた。

 北風荘右衛門が34・5才のとき、彼はまず同業の問屋に、兵庫湊の復活を呼びかけた。

 北風家は大打撃を受けていたが、それを回復したのは北風家が船を蝦夷地へ仕立てて、その物産を兵庫に運んで売りさばいたからであった。

 莫大な利益があった。

 十年にして、ようやく兵庫の商権と賑わいを取りもどした。

 以後、兵庫湊では、北風家の競争相手はいなくなった。

 「兵庫の北風家か、北風家の兵庫か」と呼ばれるまでになった。 (no3313)

 *絵:「摂州兵庫図絵馬」金沢粟崎八幡社の絵馬(天保二年・1831)の一部

    

 

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(4)  高砂の町(9~12)

2016-08-19 10:14:14 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

    9 干鰯仲間(ほしかなかま)

 工楽松右衛門を育てた高砂の町を散策しているが、高砂神社の玉垣に立ち寄りたい。

 高砂神社の数多くの玉垣に、干鰯(ほしか)仲(写真)と刻まれている。

 「干鰯仲間」の下に、欠落しているが仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのであろう。

 干鰯は、蝦夷地(北海道)から高砂に運ばれた。

 ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残している。

 干鰯は、字のごとく鰯の油を抜いて、干して小さく砕いた肥料である。干鰯は、肥料として優れており、油粕と共に広く使われていた。

 とりわけ、加古川・高砂地方(東郷)にとって、干鰯は重要な意味を持っていた。なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地であり、木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要とした。

 そのため、干鰯屋は、大いに繁盛した。明和五年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められた。当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もあった。

 伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%であった。

 松右衛門は、こんな高砂町の風景のなかで少年期を過ごした。

 *写真:高砂神社の玉垣(干鰯仲□の字が彫られている)

  10 学問の町・高砂

 高砂の町は商(あきない)の町である。

 商には、文字がいる。数字に明るくなければならない。

 そのため、高砂には学問の雰囲気があった。

 申義堂の話をしておきたい。

 申義堂(江戸期・高砂の学問所) 

 工楽松右衛門は、申義堂で学んだとは思えないが、高砂の町は自然に読み書きの必要なことを教えた。

 申義堂は、姫路藩の家老・河合道臣(寸翁)が時の藩主・忠実に申し出て、町民一般の子弟の教育を目指して北本町に設置した。

 申義堂は、文化年間(18041818)の創立と推定できる。その建設および運営は高砂の岸本家の援助が大きかった。

 明治4(廃藩置県)により廃校により閉鎖され、建物は岸本家に払い下げられた。

 申義堂は、藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育場であった。

 内容は、四書五経などが中心に行われ、教師陣は多彩で、美濃部達吉の父・秀芳や本居宣長の子・大平などがいた。

 また、勝海舟・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが高砂に逗留中、講師として教壇たったこともあった。

 町人らの子どもが早朝から正午まで学んだ。

   余話:「申義堂(江戸時代の学問所)」復元なる

 申義堂が河合家に払い下げられた後のことを少し紹介しておきたい。

 隆盛を誇った「申義堂」であったが、明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となった。

 その後、申義堂は明治12年に加古川市東神吉町西井ノ口に移築され、光源寺(姫路)の説教所として使われた。

 戦後は、西井ノ口町内会の倉庫として利用され、もと申義堂であったことは人々の記憶から消えていった。

 その後、専門家の調査により、貴重な申義堂の遺構であることが認められ、高砂市へ移築保存されることになり、2012年1月、申義堂は十輪寺の前に移築復元され、現在一般公開されるようになった。

 *写真:復元された申義堂

  11 松右衛門の夢

 若い松右衛門にとって、高砂は刺激にあふれた町であった。

 いっぱい荷物を積んだ出船、入船があった。そのたびに賑わいがあった。

 「あの船は、どこから来たのだろう・・・どこへ行くのだろう・・」と、まだ見ぬ世界への思いをつのらせた。

 大人から、まだ見ぬ兵庫・大坂・江戸の町の賑わいのようすも聞かされてそだった。

 こんな風景の中で松右衛門は育ち、夢を膨らませた。

   松右衛門を育てた高砂の町

 『風を編む 海をつなぐ』(高砂市教育委員会)は、松右衛門の少年時代を次のように書いている。

 ・・・・

 松右衛門は、漁師の長男として高砂町東宮町(ひがしみやまち)に生まれた。

 幼い頃から舟に乗り、一日のほとんどの時間を海で過ごした。

 彼は持ち前の好奇心で海をよく観察し、こつをつかんでは漁に生かした。

 たとえば、魚釣りの糸の手ごたえだけでかかった魚の種類がわかるようになったり、どの季節のどの時間帯に、どんな魚がどこに群れるかを知るようになったりした。

 松右衛門がねらいをつけて網を打つと、それが外れることはなかったという。

 ・・・・・

 そして、少年であった松右衛門は、漁をするための小船に乗りながら、高砂の港にさまざまな物が運び込まれ、それらが兵庫津へと向かっていく様をじっと観察していたに違いない。

 「いつかは自分の船をもって日本各地をかけめぐりたい」という思いを強くしたのだろう。

 このように、漁師として十分な技量を備えていた松右衛門であった。15 才の時、高砂を飛び出してしまう。・・・

 当時にぎわいを見せていた兵庫浜へ向かったのである。

   12 兵庫の湊

 『菜の花の沖』で、司馬遼太郎はこの頃の松右衛門について書いている。

 ・・・

 「・・・わしは(松右衛門のこと)十五の齢に家を出たよ」と松右衛門は人によく言い、その時は、両親も肩の荷をおろしたようによろこんだという。

 この少年がどれほど悪堂だったかがさっせられる。・・・・」(『菜の花の沖』より)

 私の松右衛門のイメージは、がっちりとした体の真面目な少年であるが、あるいは司馬氏が言うようにワルガキの面もあったのかもしれない。

 松右衛門は、力士のように大柄であったようだ。

 とにかく、15才の時に兵庫(神戸)へ飛び出した。・・・

   天下の台所

 秀吉の時代、大坂は一大消費地となり全国の商品はここにあつまった。大坂は、徳川の時代になった後も「天下の台所」としてその機能を引き継いだのである。

 教科書『中学社会・歴史』(大阪書籍)の記述を借りたい。

 ・・・大坂は、江戸の間に航路が開かれると、木綿・酒・しょう油・菜種油等を江戸へ積み出し、それをあつかう、問屋が力をのばしました。

各 地の大名は、大坂に蔵屋敷(くらやしき)を置いて年貢米や特産物を売りさばきました。

 また、日本海と大坂を結ぶ西まわり航路が開かれると、大坂は商業都市としていっそう発展しました・・・(以上『中学社会・歴史』より)

 河村瑞賢(かわむらずいけん)により北前船(日本海航路)が成立したのは、寛文12年(1672)である。

   兵庫(神戸)港は、大坂の外港に

 しかし、大坂の港は大きな欠点があった。

 淀川が押し出してくる大量の土砂は、安治川・木津川尻の港を浅くした。

 徳川中期の頃までは堺がその外港としての役割を果たしていたが、宝永元年(1704)大川の流れを堺へ落とす工事が完成して以来、堺は港としての機能を低めた。

 この点、兵庫の港は違っていた。

 六甲山系からは大きな川がない。川は短く、一気に流れ下り水深が深い。

 徳川期にその役割を弱めた堺に代わり、兵庫の港(神戸港)は大阪の外港としての役割を果たすようになった。

 最初は、海路遠国から大坂へ運ばれる商品はいったん兵庫(神戸)に運ばれ、そこで陸揚げされず、ほとんどの商品は小船で大坂へ運ばれていたが、船の輸送はますます増え、兵庫の港にもの商品が陸揚げされるようになり、取引が行われるようになった。

 兵庫の廻船問屋は大いに栄えた。(no3312)

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(3) 松右衛門、15才で兵庫湊へ(6~8)

2016-08-18 07:22:23 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

   6 松右衛門、15才で兵庫湊へ

 さらに松右衛門のイメージを作りたい。

 最初に『高砂市史(第二巻)・通史編近世』からの引用である。少し文章を書き変えている。

     工楽松右衛門(『高砂市史(第二巻)』より)

 高砂出身の工楽松右衛門(くらくまつえもん)は、廻船業で身を立てた。

 また、帆の改良や様々な工夫により各地の築港に功績があった。

 それに感銘を受けた大蔵永常は『農具便利論』に、彼の伝記を紹介している。

 これを中心に工楽松右衛門の業績を紹介したい。

 松右衛門は、寛保3年(1743)に高砂の漁師・宮本松右衛門の子として生まれ、父と同じ松右衛門を名のった。

 20才の頃、兵庫津、佐比江町の船主・御影屋平兵衛に奉公して、船乗りになった。

 40才の頃、主家を退いて兵庫佐比江新地の御影屋松右衛門廻船商売を始めたという。

 石見(現:島根県)浜田外ノ浦の清水屋の「諸国御客船帳」には、安永6年(1777)3月24日、入津の御影屋平兵衛の八幡丸の沖船頭として松右衛門の名があり、同8年5月7日の御影屋の津軽からの上り船・春日丸沖船頭としても出てくる。

 そして、寛政4年(1792)6月6日の上り船では「御影屋松右衛門様・久治郎様」とあり、この頃に独立したと考えられる。

 御影屋松右衛門は、当時蝦夷地と呼ばれた北海道から日本海沿岸、そして瀬戸内から江戸といった広域で千石船を含む持ち船により、米・木・木綿・荒物(日常生活に使う桶・はたき・ほうき等雑貨)等の買積み活動をしていた。

   40才の頃、廻船問屋を始める

 『高砂市史』の記述では、兵庫の津に出て船乗り成ったのは20才の頃であった。別の書では高砂を出たのは15才であったので、しばらく下積みの生活があったのであろう。

 40才頃、廻船問屋を始めたという。

 松右衛門というと廻船問屋と結びつくが、廻船問屋を始めたのはずいぶん遅い時期である。

 *挿絵:北前船

  7 加古川の舟運(1)・三つの理由

 松右衛門は15才の頃、兵庫津(神戸にあった港街)に飛び出してしまった。これは彼の夢の続きであったのであろう。

 彼は漁師の子としてうまれたが、高砂町が持つにぎわいがここちよかった。そして、毎日見ている船の向こうの世界にあこがれていた。

 彼が高砂に生まれていなかったとしたら、港・船乗りの汗、そして見たこともない外の世界にあこがれることもなく、工楽松右衛門という人物も誕生しなかったであろう。

 松右衛門を誕生させた当時の高砂の町を散策しておきたい。

  高砂は、加古川の舟運(しゅううん)により、その広大な後背地と結びついていた。

 ・・・・加古川流域の年貢米・綿等は、高瀬舟(挿絵)で高砂に集められ、ここから大阪・江戸等へ送られた。

 そして、帰りの舟で干鰯(ほしか)・その他の生活用品が流域の村々に運ばれた。

 江戸時代、加古川流域は藩の枠を超えて加古川川筋という一つの経済圏が成立していた。

 江戸時代、加古川舟運は盛んになった。その集散地としての高砂はにぎわった。

 舟運の発達した理由は次のように考えられる。

     三つの理由(舟運の開発)

 ①  信長の後、秀吉は天正十一年(1583)に大坂に城を築き、大坂は政治・経済の中心となった。そのため、西国の諸物資は、主に船舶により大坂に集まるようになった。加古川流域は大阪の経済圏に組こまれた。俄然、加古川の舟運が注目されるようになった。

 ②そして、秀吉・池田氏という播磨一国を支配する大名の出現が考えられる。戦国時代のように群小の豪族の経済・技術・政治力では、加古川を通しての舟運開発は不可能であった。

 ③さらに、姫路藩による高砂港の整備があげられる。

 加古川舟運が栄えた主な原因として、まず以上の三点をあげておきたい。

  8 加古川の舟運(2)・舟運の季節

 加古川の高瀬船について一つ注目しておかなければならないことがある。高瀬舟には加古川を運行する期間の制限があった。一年中上り下りができたわけではない。

 高瀬船の運航は9月の彼岸から翌年の5月八十八夜まで

  加古川は、本来農業用水の水源であった。

 したがって、加古川には各所に田に水を入れるために堰がつくられ、高瀬舟は田畑で水を使う期間は運航ができなかった。

 高瀬舟の運行は、9月の彼岸から翌年5月の八十八夜までと限られていた。

 この間、堰は壊された。

 つまり、水が冷たく寒風の期間に高瀬船の運航があった。

 さて、高瀬舟であるが、荷はいったん滝野に集まり、高砂まで約37キロ、朝四時ごろに出発し、4~5時間で高砂に着いた。

 下りは、水流にのって行くのであるから、危険はあったが便利であったが、帰りが大変だった。

 帰りは流を逆行するのであるから、船頭は先頭に座り、艫乗り(とものり)は、最後尾にいて、船頭の支持どおりに櫓を操った。

 中乗りは「かい」を使って船を進めた。早瀬となると、容易に前に進んでくれない。

 こんな時は、船頭が船に残り他の二人は河原にあがって引綱をひっぱるのである。

 苦しいどころではなかった。

    年中賑わった高砂

 冬、日本海は荒れる。したがって、運行する北前船もほとんどなくなる。しかし、高砂の港は波の穏やかな瀬戸内にある。

 冬でも、神戸・大阪との運搬は盛んであった。高砂にとって秋から冬にかけて、むしろ後背地からの荷物が集まる季節でもあった。

 高砂の町は一年中賑を見せていた。(no3311)

 *挿絵:高瀬船を引く船子(蓬莱家・加東市所蔵)

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工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(2) 松右衛門(1~5)

2016-08-17 09:26:09 | 工楽松衛門と高田屋嘉...

  1  松右衛門(1)

   松右衛門『菜の花の沖(司馬遼太郎著)』に登場

 江戸時代の終わりの頃、高砂に快男児が誕生した。工楽松右衛門(くらくまつえもん)である。

 「工楽松右衛門」では、少しよそよそしい。以下出来るだけ彼を「松右衛門」と呼んで紹介していきたい。
 しかし、彼を紹介する事に若干躊躇している。詳細を語る史料をほとんど持っていない。こんな状態のまま松右衛門を紹介すると、とんでもない松右衛門像なってしまうのは確実である。

 しかし、彼は、どうしても紹介したい人物である。若干居直っている。

 学問書であれば躊躇するが、詳細な部分は、あくまで「物語」と思って読んでいただきたい。しかし、できるだけ松右衛門の実像に近づけたいし、松右衛門と語りあいたい。

 最近、松右衛門がマスコミにもしばしば登場するようになった。私もそれに便乗したい。

   松右衛門『菜の花の沖(司馬遼太郎著)』に

 NHKの大河ドラマ『軍師・官兵衛』の関係もあり、司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』はずいぶん丁寧に読んだ。

 小説に横線を引きながら、まるで歴史書を読むように読んだ。あわせて7回目も読んだ。そのため、現実と小説の虚構が入りまじって若干まずい状態になっている。
 最近また、以前に読んだ『菜の花の沖(全六巻)』(文春文庫)を『播磨灘物語』のように読み返している。以前、丁寧に読んだはずであるが、年のせいか内容はほとんど忘れている。
 『菜の花の沖』の主人公は、もちろん高田屋嘉兵衛であるが、もう一人の主人公は、われらの松右衛門である。高田屋嘉兵衛も松右衛門も激動の時代が生んだ人物で、歴史の点景としても面白い。
 この小説『菜の花の沖』を土台にして、工楽松右衛門について分かっている所だけでも紹介したい。
 もう一度、断っておきたいが、調べながら書くので、まとまりがないストーリーとなるがご了承願いたい。それに、ずるい抜け道をつくっている。以下は、「松衛右衛門研究」ではない。「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛物語」であり。「物語」に力点をおいている。

 最初にこうお断りをしておくと、お叱りが若干少ないと思える。

 2 松右衛門(2) 蝦夷地へ

 工楽松右衛門は、歴史上大きな役割を果たしたが、広く知られている人物とはいえない。松右衛門の紹介の前に、彼について概略を紹介しておきたい。
 江戸時代、高砂の町には賑わいがあった。その豊かな経済力は、個性豊かな人物を多数輩出した。その代表的な一人が、松右衛門である。
 松右衛門については、小説『菜の花の沖』(文春文庫)で高田屋嘉
平ともに「松右衛門」として紹介されている。
 松右衛門が世に知られるようになったのは、なんといっても船にとって重要な帆布の改良に取り組んだことにあった。船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものであった。
 瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されている。そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多かった。帆布が広く使用されるのは、江戸時代初期からである。
 しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく雨水等を含んですぐ腐ってしまうという欠点があった。
 そこで、松右衛門は高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織って帆にした。
 その帆は、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風のはらみもよくなった。
 さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりもはるかに便利になった。
 この帆は「松右衛門帆」または単に「松右衛門」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍大商人にのしあがったのである。

   蝦夷地へ

 「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も短縮された。

 松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋を始めた。内地に運ばれたのは、塩鮭・干鮭・にしん・かずのこ・ぼうだら・にしんかす・昆布・ふのり等であった。特に塩鮭・にしん・昆布の三品が圧倒的に多かった。これらの移入で、当時の食生活も随分変化があったといわれている。
 また、塩鮭は保存のため塩からく、鮭の本来の味が損なわれた。そのため冬の期間は、塩を薄くした「あらまき」を江戸や大坂に直送した。
 「あらまき」も、松右衛門の発明品である。

 3 松右衛門(3) エトロフヘ

 天明期から寛政期(1781~1800)にかけて蝦夷地は、にわかに騒がしくなってきた。ロシア船の出没である。一時は、ロシアによる蝦夷地の占領の噂も流れた。

 そんな雰囲気の中で、幕府から兵庫の問屋衆に難題がくだった。

 「・・・エトロフ島で、港をつくれ・・・」

 兵庫の問屋衆は何度も、なんども話しあった。堂々巡りが続いた。そんな時である。めっきり白いものが多くなった松右衛門が「・・・・皆さんのご異議がなければ、そのお役目をお引き受けしたいと存じます・・・」と、発言した。もとより反対する者はなかった。

 松右衛門に感謝とねぎらいの言葉があった。この時、松右衛門は50才に近かった。エトロフについての知識は持ち合わせていなかった。

 幕府からの工事費の一部は下された。松右衛門は、船頭や大工を選び、資材や食料の準備にあたり5月(1790)、20名の乗組員と共にエトロフへ向かった。

 エトロフに着いた。短い夏は駆け足で過ぎ去った。冬将軍がどんどん迫っていた。彼は、ひとまず兵庫へ引き返し、翌年の3月再びエトロフを目指した。その年の9月、あらかた港を完成させた。

 その後も、幾度となくエトロフに渡った。港は後年、紗那(シャナ)と名づけられた。

 この功績により享和二年(1802)、彼は「工楽(くらく)」の苗字をゆるされた。「工楽」とはまさに工事を楽しむというという意味である。

 さらに、松右衛門は箱館の築港も成し遂げた。

 郷里・高砂の町は、かつての賑わいを失いかけていた。

 彼は、60才を過ぎて兵庫の店を息子に譲り、郷里の高砂に帰った。私財を投じ高砂港を改修し、現在の堀川を完成させた。

 文化九年(1812)、秋風が肌にしみる日だった。松右衛門は、波乱にとんだ生涯を終えた。

*地図:エトロフ島・クナシリ島等

 4 高砂の町

 松右衛門について簡単に紹介した。松右衛門を育てた「高砂の町」について、すこし、つけ加えておきたい。

 近世(江戸時代)の高砂の町を語るとき、必ずといっていいほど『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)にある右図が使われる。

 高砂の町は、まさに人工の町割である。

 高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年・1600)後、ここに城が築かれ城下町として出発した。

 城下町は、まず政治・軍事都市である。

 しかし、高砂の町の性格を決定づけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」である。この幕府の法令により、高砂城は廃城となり、時の藩主・本多忠正により城郭は廃された。

 以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済都市として整備を進めていくことになった。

 高砂は神戸・大阪・江戸と船で結びついた。高砂は、港町(経済都市)として大きく変貌する。

 また、高砂は広大な加古川流域という後背地を持っていた。豊かな後背地と高砂の町は、大河の加古川によって大きく結びついた。

 物資は高砂に集まった。以後高砂の町は、江戸時代をつうじ飾磨港と共に姫路藩の港町として繁栄することになった。こんな高砂の空気をいっぱい吸って松右衛門はそだった。

 *図:近世高砂の町割り『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)

 5 松右衛門銅像修復へ

 余話である。

 「まえがき」で松右衛門の像(写真)を紹介している。その像について、神戸新聞(2013年7月16日)に、次のような記事がある。一部をお借りした。

   松右衛門銅像修復へ募金活動

 高砂神社(兵庫県高砂市高砂町東宮町)に建てられた、高砂市の発明家・工楽松右衛門(1743~1812年)の銅像に損傷が目立つようになり、市民や県内の帆布業者らが修復に向けて募金活動を始めた。

 松右衛門は江戸後期、軽くて丈夫な「松右衛門帆」を考案。蝦夷地開拓などにも尽力し、その功績をたたえ、同神社境内に、台座の上に約2メートルの銅像が建てられている。

 松右衛門研究で知られる産繊新聞社(大阪府)の首藤充社長(51)によると、最初の建立時期は不明だが、太平洋戦争時に国の銅鉄回収で取り壊され、1966年に地元や帆布業関係者らが再建したという。

 だが建立から50年を前に、風雨で表面の銅がはがれるなど損傷が目立つようになり、修復に向け、NPO法人高砂物産協会が事務局として募金活動を行い、8月末までに100万円を目標に募る。修復に加え、台座に記される漢文が「難しい」との指摘が増えたため、子ども向けパネルの設置なども検討しているという。

 募金には県テントシート工業組合も協力。首藤さんは「松右衛門が日本の帆布業を築いた功績を再認識する契機にもなってほしい」と話す。

 (以下略) (no3310)

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