ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

インフルエンザ

2020-01-24 19:10:46 |  ・コーヒーブレイク・余話

  

     インフルエンザ

 21日は、あまり深刻考えませんでした

 「咳が少し多いな・・」ぐらいに、思っていただけでした。

 水曜日「だるくて、これはいつもの様子とちがう」ので内科へ出かけました。

 その帰りに、孫が通っている水泳教室に寄ったんです。

 その時、事件が起きまいた。

 教室の近くを前かがみで歩いていたら「だんだんとスピードが速くなります」とまりません。

 ついに壁にドスンと追突。道路上でカエルが伸びたような状態になりました。体が動きません、横を歩いていたおばさんはビックリされたと思います。声をかけてくださいました。

 水泳教室若いスタッフさんとんで、来てくだいました。近くにいた人が寄ってきて、お騒ぎになりました。

 

 昨日、明石の0脳神経外科で診察していただきました

 体温39度、歩くのは全然無理。車いすでの検査となりました。

 れっきとした、インフルエンザでした。

 ただ嬉しかったことは、脳内出血がなく正常だったことです。

 

 今日、この文章をうちました。何と打ち間違いが多いこと。内容は、ないのに時間は普段の3倍はかかってしました。

 

 そのため、途中になりましがしばらく、しばらくのFB・ブログをやすみとします。ご了解下さい。

 *写真:文章とは関係ありありません。今週の円照寺のロウバイです。

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大河・かこがわ(154) 鎌倉時代(41) 文観(35)・ 後醍醐天皇、隠岐に流されるも

2020-01-22 08:49:07 | 大河・かこがわ

 「大河・かこがわ(137)、文観(18)」から話題は、五ヶ井用水・西大寺農業技術集団の話となりましたが、ここで再度後醍醐天皇の隠岐への流罪の話にもどります。

               後醍醐天皇、隠岐に流されるも

 倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はとらわれ、さらに暮府によって皇位をはくだつされ、隠岐(おき)に流されました。

 元弘二年(1332)三月、鎌倉幕府の滅亡の1年余り前のことでした。

 後醍醐天皇は、身を日本海に浮かぶ孤島におくことになりましたが、時代は動いていました。

 時代は、商業も盛んになり、情報の飛び交う社会でした。

 隠岐は、かつての孤島ではありません。

 情報は、秘密のルートからどんどんもたらされました。

 後醍醐天皇の遠島の後も、息子の護良(もりよし)親王や、河内(かわち)の豪族、楠木正成(くずのきまさしげ)らによってなおも根強く倒幕運動は続けられていました。

 後醍醐は、隠岐島にいながらも、なお幕府打倒の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

 詳細は省きますが、隠岐へ流されてから11か月後のことでした。

 元弘三年(1333)閏以月突如隠岐を脱出することに成功します。

     文観、都に凱旋

 元弘三年(1333)、伯耆(ほつき)の国で六波羅探題壊滅の連絡を受けた後醍醐天皇は、天皇の政治の復活を宣言し、京都へ向かいました。

 護衛に当たったのは、伯書の国の名和長年(なわながとし)でした。

 都へのルートは、討幕に大きな役割を果たした播磨(はりま)、摂津(せっつ)が選ばれました。

 その道中で、赤松円心、楠木正成ら天皇のために戦った者たちが天皇を出迎え、天皇は彼等を従えて意気揚々の都への凱旋(がいせん)でした。

 天皇による「新しい政治」(建武の新政)が始まります。

 すぐに、文観も鬼ヶ島から京都に凱旋しました。(no4860)

*写真:隠岐島での後醍醐天皇の御所は島前島と島後島の二つの説がありますが、この写真は島前の黒木御所跡です。

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大河・かこがわ(153) 鎌倉時代(40) 文観(34)・人柱になったお入

2020-01-21 10:20:22 | 大河・かこがわ

    人柱になったお入(おにゅう)

 前号の続きです。

 池づくりを始めて間もなく、夢のお告げどおりの美しい女が通りかかりました。

 村人は捕らえて切り伏せて、人柱にしてしまいました。

 その後、池は立派に完成し、どんな大雨にもびくともしなくなりました。

 この美しい女は「お入(おにゅう)」といったので、この池は「入ヶ池」と呼ばれるようになりました。

 しかし、いつしかこのことはすっかり村人に忘れられていきました。

 ある日、村の若者が、入ヶ池のそばを通り帰る途中、女に出会いました。

 姿は大きく、目が丸く髪が赤い女でした。

 若者は、驚き逃げ帰ろうとした時、その女は「私は鬼ではない。私は、この池の人柱にされた、もとは山中に住んでいた蛇の「お入(おにゅう)」である。

 たまたま、人がたくさんいるので女に姿を変えて来てみると、思いもかけず切り殺され、人柱にされてしまった。

 村人は、立派な池ができて喜んでいるが、私の魂はうかばれません・・・。それに、誰も私のことを覚えていないのが寂しい・・・

 いま、このような姿で現れたのである。おまえは、これから村人に伝え、私の菩提(ぼだい)を弔ってくれ。そうそうすれば、いつまでもこの池を守り続けるであろう」

 そういうと、姿がなくなりました。

 村人は、お寺を建てて「お入さん」を祭りました。それが川上真楽寺(しんぎょうじ)です。

 以後、村人は幸せに暮らしたということです。

 

この伝承も、常楽寺・円光寺、そして文観・西大寺の技術集団から生まれた伝承でしょう。

入ヶ池も、天満大池と同じ鎌倉時代の後期に造られた池だと思われます。(no4859)

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大河・かこがわ(152) 鎌倉時代(39) 文観(33)・入ヶ池の伝承(1)

2020-01-20 08:36:39 | 大河・かこがわ

 北山の川上真楽寺(しんぎょうじ)に、次のような「入ヶ池」の伝承があります。

     入ヶ池の伝承(1)

 都が明日香(あすか)にあった644年、藤原弥吉四郎が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。

 その老人は「この野を開けば必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・」と言い残して姿を消しました。

 弥吉四郎は、天皇にそのことを申し上げ、この地の開拓にとりかかりました。

 ある年でした。きびしい夏の日照が続き、水が乏しくなりました。

 毎年、水が足りなくなるので、前年から上流の広い谷に水を貯める池の築造にかかっていました。

 しかし、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまいました。

 村人は、工事をあきらめてしまいました。

 ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる光太衛(こうだいえ)が夢で不思議な僧に出会いました。

 その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。

 そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」

村人を集めて池の築造がはじまりました。今日は、伝承の一部だけにておきます。(no4858)

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大河・かこがわ(151) 鎌倉時代(38) 文観(32)・天満大池の伝承

2020-01-19 09:02:53 | 大河・かこがわ

 天満大池を支配していた天満神社には、次のような伝承があります。

 今日は、その伝承を紹介して、その伝承の意味するところを考えてみましょう。

     天満大池の伝承

 明徳元年(1390)の正月のころでした。

 ある僧がこの地にやってきて天満神社に逗留することになりました。

 このころ夜になると雑魚(ざこ)が、プカプカ浮かぶのでした。

 人々は怪しんで、このことを僧に相談すると、僧は「大池に弁財天はあるか」とたずねました。

村人は「ありません・・」と答えると、僧は「このような大池には、きっと竜が住んでいるはずだ。

 これは竜の仕業である。

 島を築いて弁財天を祀るがよい・・」といいました。

 村人は急いで島を築き弁財天を祀ると、その怪しいことがピタリと止んだといいます。

 そして、永禄8年(1565)に主神を天満天神としました。

 

 この物語は、南北朝末期に西大寺勢力が天満大池を改修し、開発を進めた事実を反映した伝承でしょう。(no4857)

 

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大河・かこがわ(150) 鎌倉時代(37) 文観(31)・天満大池の改修と西大寺(文観)ルート 

2020-01-18 08:27:59 | 大河・かこがわ

           天満大池の改修と西大寺(文観)ルート 

 6世紀のなかば、日本に仏教が伝わり、そこには有益な知識や技術が含まれていました。

 平安時代のはじめになると、神社側では「このままでは、自分たちは時代おくれになるぞ」と言う声がひろまりました。

 そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事を行いました。

 また、仏教がわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めることができたのです。

やがて、神社にお寺が併設されました。これが神宮寺です。

天満神社の場合の神宮寺は、円光寺で天満神社に併設していました。

 このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していました。

 しかし、明治政府は、仏教と神道の分離を命じました。

 そのため、円光寺は今の中村の地に移転させられました。

 この円光寺は、西大寺の末寺である大野(加古川町大野)の常楽寺のさらに末寺でした。

 つまり、そのため文観を通じ、西大寺の土木技術が入ったと思われます。

 天満大池の辺りには、14世紀後半から最大寺勢力が関与したと思われる石造物が多数存在します。

 天満神社のすぐ東にある円光寺跡の墓地には、写真のような明徳元(1930)の宝篋印塔は、天満大池を改修した円光寺の僧・祐勢の墓であるとの伝承があります。(no4856)

 *写真:旧円光寺(国安)の墓地にある花崗岩製の宝篋印塔(明徳元年・1390)

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大河・かこがわ(149) 鎌倉時代(36) 文観(30)・天満大池は、鎌倉時代の築造か

2020-01-17 08:49:57 | 大河・かこがわ

 またまた、話は飛びます。天満大池(加古郡稲美町)の話です。ここでも、西大寺農業技術集団・文観が登場します。

     天満大池は、鎌倉時代の築造か?

 『稲美町史』より、国安天満宮の沿革をみておきます。

 国安天満宮(稲美町国安)のは白雉(はくち)4年(653)、王子権現という錫杖地蔵を勧請して創建され、その場所は、国安東で、現在の天満神社のお旅所でした。

 寛平5年(893)社殿を今の地に移し、天満大池は、白鳳3年(675)に築造したとしています。

 そして、永禄8年(1565)6月、本社を再建し、この時に主神を天満天神(菅原道真)としました。 

 ざっと、以上のようです。

     池大神

 「天満大池は、白鳳3年(675)に築造」に注目ください。

 天満大池は、白鳳の頃には築かれたというのです。 

 もちろん、白鳳時代にも池(原天満大池)はあった想像されるのですが、規模は小さく、天満大池につながるような池ではなかったでしょう。そんな進んだ技術はありません。

 現在の天満大池につながる池の築造・改築は、もう少し後の時代としなければなりません。

 結論を先に紹介しておきましょう。鎌倉時代です。

 最近の研究では、先にみた、加古川市の五ヶ井用水の時代、つまり文観の時代にさかのぼるとしています。

 ここでも文観・西大寺が登場します。(no4855)

 *写真:現在の天満大池

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大河・かこがわ(148) 鎌倉時代(35) 文観(29)・五ヶ井用水は、「文観の時代」に修築

2020-01-16 09:43:13 | 大河・かこがわ

 今日の内容も兵庫大学教授の論文「東播磨における文観の活動」をお借りしています。

    五ヶ井用水は、

     西大寺勢力の全盛の「文観の時代」に修築

 「五ヵ井の改築が、いつなされたか」ということです。

 五ヶ井改築に関係する伝承・寺伝を有する三寺(常楽寺・鶴林寺・常住寺)には、すべてに西大寺勢力が入っています。

 このようなことから、西大寺勢力が加古川下流域に勢力を伸ばした鎌倉時代後期以降と考えられます。

 ある記録によると、赤松円心支配地に、「五箇庄内宿村付、下司・公文・政所名・木村・大津村」が含まれています。

 これは、(赤松)円心が得た播磨守護領五箇荘のうち、守護の直接的支配が及ぶ地域です。

 宿村(現在の加古川町本町)、木村(現在の加古川町木村)、大津村(現在の加古川町稲屋)です。

 五ヶ井の主要井筋の一つ「木村筋」は、現在でもこ本町・木村・稲屋の水路(井筋)となっています。

 そして、五ヶ井は、大規模な工事でした。

 守護所が播磨西部に移動する南北朝時代・室町時代には、このような大規模な工事は無理です。

 南北朝時代以降の加古川下流地域では小領主が散在しており、大規模工事を担当できる勢力は想定できません。

 西大寺勢力が全盛の「文観の時代」に修築が進められたと考えるのが自然のようです。(no4854)

 

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大河・かこがわ(147) 鎌倉時代(34) 文観(28)・伊派石工集団

2020-01-15 08:12:17 | 大河・かこがわ

    伊派石工集団

 常楽寺(加古川町大野)の墓地に立派な宝塔があります。

 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。

 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。

 常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。

 西大寺の末寺・報恩寺の四基の五輪塔も花崗岩です。

 そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔があります。

 常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここに運ばれたものと思われます。

 これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。

 当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より見つけることはできません。

 報恩寺の五輪塔について、『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・(『加古川市史・第一巻』より)

 以上は、報恩寺の花崗岩でつくられた報恩時の石造の説明ですが、研究者によれば常楽寺の宝塔も、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがないと指摘されています。

これらの技術が農業土木に利用されたのは当然と考えて良いと思われます。(no4853)

 *写真:報恩寺の十三重の層塔

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大河・かこがわ(146) 鎌倉時代(33) 文観(27)・五ヶ井の伝承の語ること

2020-01-14 10:16:55 | 大河・かこがわ

    五ヶ井用水と西大寺技術集団

 加古川下流域左岸の「五ヶ井(ごかい)用水」と西大寺勢力との関係を注目しています。

  五ヶ井修築に関係する伝承・寺伝があるのは、加古川市加古川町大野の常楽寺、加古川市加古川町北在家の鶴林寺、そして元は加古川宿にあった加古川市加古川町寺家町にあった常住寺です。

 常楽寺は、西大寺の末寺帳にあるように、播磨における筆頭末寺です。

 鶴林寺には、叡尊(西大寺中興の僧)が法華山で盛大な授戒活動を行なった後の帰路の弘安八(1285)年八月九日に宿泊しています。

 また、鶴林寺の応永の復興の建築物群が典型的な折衷様であり、鶴林寺の大工集団が南都系の姓であることなどから、鶴林寺に西大寺系勢力が入り込んでいたことは確実です。

 前回紹介したように、常住寺には、五ヶ井の井堰起工の当初、(日岡の神と聖徳太子)とが常住寺で会議して本尊に祈誓し、工事が成就した」という寺伝があります。

 この伝説は、日向明神(日岡神社)が支配権を有していた「原五ヶ井」の抜本的改修を、大野の常楽寺が主導する西大寺勢力が行った事実の反映と考えられます。

 西大寺勢力も、熱烈な聖徳太子信仰を有していました。

 日岡神社の別当寺であった常楽寺は、日岡神社信仰と聖徳太子信仰とを結合する位置にありました。(no4852)

 *写真:五ヶ井用水取水口(二筋の水路に分かれていますが、左の水路は、新井用水の取水口・加古川大堰のところ

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大河・かこがわ(145) 鎌倉時代(32) 文観(26)・五ヶ井用水の伝承

2020-01-13 08:22:56 | 大河・かこがわ

    五ヶ井用水の伝承

 五ヶ井用水は歴史が古く、古い記録がまったくといってよいほどありません。

 もちろん、『五箇井記録』(五ヶ井土地改良区所蔵)・『五ヵ井由来記』(加古川市大野荒木家・中津町内会所蔵)がありますが、ともに明暦三年(1657)に大野村の荒木重門が記したものです。

 これらの記録は、たぶんに伝承といえる文書で、歴史の記録とは言えません。

     談 合 橋

 そんな『五箇井記録』にある伝承の紹介です。

 日向明神(日岡神社)の導きにより、神社の北西に「岩鼻之井」という井堰がつくられました。

 用明天皇(聖徳太子の父)の時代に、聖徳太子は加古川地方に田地200町歩をつくろうとされ、日向明神と相談されたのです。

 その場所は、神社のそばの橋の所だったので、この橋を「談合橋」といいました。

 そして、加古川大堰の東岸の辺りから、三つの地点を結んで用水路が掘られました。

 その三点は、五ヶ井用水の取り入れ口近くにある「太子岩(上の太子岩)」と日岡神社の西にある「太子岩(下の太子岩)」、それに鶴林寺お屋根で、これらの三点を結ぶ線で井溝が掘られました。

 この溝のおかげで、以後この地方の人々は水に苦しむことはなくなった。

 ざっと、こんな伝承です。

 そして、伝承では、「五ヶ井用水」は、聖徳太子の時代に計画され、完成したといわれています。

 伝承から、「五ヶ井用水」と西大寺農業技術集団・文観について話を進めます。(no4851)

 *写真:太子岩

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大河・かこがわ(144) 鎌倉時代(32) 文観(25)・空白の11年(2)

2020-01-12 09:32:00 | 大河・かこがわ

 今回も、兵庫大学の金子哲教授の論文「東播磨における文観の活動」からのお借りします。

 *詳細を省いていますので、内容が十分通じないかもしれません。

      空白の11年(2)

「11年間の文観の空白期」ですが、研究者は、慶尊の死と関係があるとしています。

 一門の寺(常楽寺)の開山長老であり、師僧である慶尊の体力の衰え、または死を受けて、文観は播磨国北条郷大野に戻り、宝生山常楽寺の第二世長老として活動しました。

 少し付け加えておきます。

 「慶尊」は、日岡神社の神宮寺(常楽寺)の初代の長老であり、文観は慶尊を継いだと思われます。

 文観が、律僧としては西大寺第二世長老の真空の弟子であり、真言僧としては東寺一長者を務めた道順の弟子であることは重要視されていました。

 しかし、文観が慶尊の弟子であることは余り注目されていませんでした。

 慶尊が文観の師僧であった事は極めて重要です。

 播磨において文観は、慶尊の後継者となった可能性が極めて大きいのです。

 西大寺の有力な僧、文観が慶尊の後、常楽寺の二代目長老となったのです。

 西大寺は、いわゆる寺院としての役割のほか、土木(農業)技術など、様々技術集団を抱えた寺でした。

 文観とともに、そんな西大寺の技術が、「空白の11年」の間」に加古川地方に伝えられています。(no4850)

*写真:現在の常楽寺本堂

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大河・かこがわ(143) 鎌倉時代(31) 文観(24)・空白の11年(1)

2020-01-11 09:34:51 | 大河・かこがわ

     文観、西大寺の僧に

 文観は、弘安元年(1278)に播磨国(はりまのくに)に生まれ、13歳のときに法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)(兵庫県加西市)で出家し、僧になりました。

 法華山・一乗寺は、真言律宗の開祖叡尊(えいぞん)ゆかりの寺院であり、法華山で僧になった文観は、二年後には、叡尊がかつて住職であった奈良西大寺へはいり、西大寺二世長老の信空(しんくう)から教えを受けました。

 西大寺の若き、エリート僧として活動しています。

      文観」の空白の11年

 兵庫大学の金子哲教授の論文「東播磨における文観の活動」から、もう少し、付け加えておきます。

 「慶尊」は、あまりおなじみでない僧ですが、加古川の中世史を飾る人物です。覚えておいてください。

 また、文観の弟子の宝蓮(ほうれん)が、文観が法華山で得度をした際の師僧、「播磨の人 慶尊 観性房」と記録しています。

 慶尊の名前は、西大寺の過去帳にも「観性房 常楽寺」として登場します。

 つまり、慶尊は、播磨の国筆頭末寺である加古川市大野の常楽寺の長老であったようです。

 この慶尊が亡くなったのは、複雑になるので結論だけにさせていただきますが、嘉元二年(1304)から四年(1306)の頃のようです。

 文観の動向が乾元二年(1303~1313)の間が空白で謎の11年となっています。

 金子教授の論文は、この間の歴史を埋める研究です。

 歴史学者は、空白の11年間は「慶尊の死とかさなり、関係しているのではないか」と想像しています。

 今日は、ここまでとしておきます。(no4849)

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大河・かこがわ(142) 鎌倉時代(30) 文観(23)・(復習)鎌倉新仏教

2020-01-10 10:02:58 | 大河・かこがわ

             (復習)鎌倉新仏教

 「大河・かこがわ(no125)」の鎌倉仏教の復習です。

 鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。

 その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。

 こんな時、人々は仏様に救いをもとめます。

 この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。

 庶民は、救いを仏様に求めたのです。特に浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。

 当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきました。

              常楽寺は、西大寺系の真言律宗の寺院

 旧仏教側にも反省がおきました。 

 「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの時代に戒律を呼び興こそう」という声が高まりました。

 信者は「戒律」を守ってこそ救われるとする教団が真言宗・天台宗を中心にして生まれました。

 特に、真言宗から規律(律)を大事にする声が上がり、奈良の西大寺を再興した叡尊(えいぞん)を中心にして真言律宗がつくられました。

 真言律宗は、歴史の教科書にあまり登場しませんが、時代に大きな影響をあたえました。

 永仁3年(1295)、文観は、西大寺に入り受戒(真言律宗の僧として認められ戒名をもらうこと)しています。

 文観(殊音)・西大寺・常楽寺(加古川町大野)を追ってみましょう。(no4847)

 *写真:奈良の西大寺を再興した叡尊(えいぞん)

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大河・かこがわ(141) 鎌倉時代(29) 文観(22)・西大寺技術集団

2020-01-09 08:28:19 | 大河・かこがわ

 前回も書いたように、鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。

 人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、農業技術の発達はまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。

     西大寺技術集団

 唐突に、鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団が登場します。

 

 一般的に鎌倉時代に、大河に堰を設けるなどということは、技術的に不可能と思われていたのです。

 でも、私たちの地域には、その技術がありました。

 五ヶ井用水は、北条郷から始まり、加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄の水田を潤しています。

 常樂寺は、大野(加古川市加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。

 五ヶ井用水の改修には、この西大寺派の農業土木技術が使われたと想像されます。

 もう少し説明が必要ですが、五ヵ井用水が現在のような水路に改修されたのは1315年ごろ、つまり、鎌倉時代と考えられるようになりました。

 論理が飛躍しているようで、ストンと腑に落ちないでしょう。

 西大寺農業土木技術集団の話を続けます。(no4846)

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