明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。
初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。
初代母里村村長・岩本須三郎
蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。
戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。
あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。
しかし、「村長の言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょうっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない」と不満をもらすものも多くいました。
(岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」
こういうのが精一杯でした。
明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。
金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。
トンネルの工事の目途はついたが、工事費は、目途がつきません。
水がきた・・・・
明治24年4月7日ケシ山トンネルは貫通し、4月11日、検査のために水門が開かれました。
淡河川の水は、勢いよく疎水に流れ出ました。
練部屋の配水所の周りは、水を迎える多くの人々の熱気があふれていました。
水は、ゆっくりと力強く5日をかけて練部屋に流れてきました。
うれしさのあまり、水路に跳びこむ者も大勢いました。
喜びは、練部屋からの支線水路やため池工事に大きな励みをあたえました。
汗と涙が稲美の大地を作った
明治24年9月20日、淡河川からの水が本格的に印南野台地に流れました。
その喜びもつかの間でした。
明治25年7月23日、降りだした雨は雨あしを強めました。
次の日も雨粒は凄まじい音を立てながら台地をたたきつけました。
村長の岩本は「疎水は、だいじょうぶか」「ケシ山のトンネルは・・」と不安になり見回りにでました。
途中で野谷の(松尾)要蔵にあいました。
「須三郎はんか・・えらいこっちゃ・・水路もケシ山のトンネルも、ぐちゃぐちゃにつぶれとてしもうて・・・」
須三郎は、その風景に呆然と立ちつくすばかりでした。まるで、白いヘビがのたうっているみたいでした。
被害は、サイフォンを除く全線で全滅でした。
逸治はん、国会議員にならへんか
話を少し前にもどします。
須三郎は、はかどらぬ疎水工事に政治力の不足を感じていました。
(岩本)「逸治はん、あんた国会議員に立候補せいへんか・・・」
(魚住)「やぶからぼうに、何いうねん」
(岩本)「立派な疎水つくらなあかん。そのためには政治力が必要や。わし等に欠けているのは政治力なんや」「さいわい、こっちには疎水組合がある。それだけ有利や・・・」
逸治は迷いましたが、立候補を決断しました。
逸治はみごと当選し、県では12名の衆議院議員の一人となりました。
逸治はん大変や、疎水が潰れた・・・
疎水が、大雨でこわれたという一報が須三郎から入りました。
逸治は東京で、方法は河川復旧工事に準じる方法しかないと考えました。
まず県会で地方補助費を決議し、ついで国庫補助を仰ぐ方法です。
知事は、この案を県会に提出しました。
県会では、「85.000円で造ったものを完全なものとは言いながら180.000円もの金を得て修理するとは合点がいかぬ・・・」
県会はじまって以来のさわぎとなりました。
時間切れの寸前に、やっと2票差で可決されました。
舞台は、国会にうつりました。
衆議院では、逸治が開会前から政府関係者への陳情・議員への説得にまわり、何とか可決されました。
国庫下渡金および地方補助金は65.015円で、組合負担金は324.714円でした。
山田川疎水
水はたちまちに不足するようになりました。
そして、山田川からの疎水計画が再燃しました。
明治41年山田川疎水工事の起工を知事に願い出、用地買収や起工準備にかかり、28万円の借り入れを決め内務・大蔵大臣へ申請しました。
明治44年(1911)に着工し、大正4年(1915)に完成させました。
人々は、うめきながら印南野の台地を水田へ変えたのです。
印南の台地は、まさに稲の美しく育つ大地、稲美と大変貌をとげました。
水は来たが・・・
不当な地租の負担に耐えられず土地を失った百姓も多くいました。
水が来た時、彼らには耕す土地はなくなっていました。・・・(完) (no4553)
*写真上:岩本須三郎、同下:魚住逸治(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)
◇きのう(2/27)の散歩(11.646歩)