ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(63):亀の井堰

2013-04-30 07:37:40 |  ・加古川100選

亀の井堰

004期間限定の風景がある。

亀の井堰の風景もそれである。

国包(くにかね・加古川市上荘町)は、5日も日照が続くと、ツルベで朝夕灌漑をしなければならず、他の村から嫁入りが嫌われていたという。

そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門が美嚢川(みのがわ・三木市)が加古川に出る手前から取水するために堰をつくった。

この用水は、国包村、船町それに宗佐村の畑地を潤し、水田化するためのものだった。

Photo 井堰の構造が割石を亀の背中のように丸く積み上げたことから、堰は「亀の井堰」、用水は「亀の井用水」と呼ばれるようになったという。

現在、石組みはなくなり、写真のようにコンクリートの堰に変わっている。

取水方法も、「水がいる時期(上の前)に風船が膨らむようにゴムが膨らみ川をせき止め水をためる」ように変わった。

5月末になるとこの風景が見られるので、お出かけください。

堰の手前に説明板がある。

亀の井堰は、美嚢川(みのがわ)にあり、厳密には三木市にある。

しかし、配水地域は八幡町であり、「加古川100選」に含ませておきたい。

「亀の井堰」については、苦難の歴史があるが、紙面の都合ではぶかせていただいた。

*『兵庫のため池誌』(兵庫県農林水産部農地整備課)参照

 写真上:亀の井堰、下:赤く塗った所が亀の井用水の受益地域

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かこがわ100選(62):天神山

2013-04-29 07:28:08 |  ・加古川100選

 天神山  そこに志方城があった

                    *志方町西飯坂

Photo志方町西飯坂に南北朝時代に天神山城があった。 

天神山は宮山のすぐ西の峰で、標高127メートルの低い山であるが、志方を一望できる位置にある。

天神山について『播磨鑑』は、赤松円心の四男氏範(氏則とも書く)が築城したと書いている。

赤松氏範(うじのり)について、少し説明をしておきたい。

赤松氏範

赤松則村(円心)には四人の男子があった。

一男範資(のりすけ)、二男貞則(さだのり)、三男則祐(そくゆう)そして四男は、天神山城の城主の氏範である。

氏範は、父円心の死後、三人の兄たちと不和となり、南朝方につき兄弟間の争いとなった。

足利義満は、赤松則祐らに命じて氏範を攻撃させた。氏範は敗れて、逃れた。

そして、永徳三年1383・北朝年号)、播磨清水寺(加東市)立てこもり、則祐の子の義則に攻められ、父5人、郎党137人とともに自害した。

氏範滅亡のとき、清水寺の僧たちは義則側に加わり、そのため、義則は、清水寺に感謝し、そして氏則父子追善のために田畑二町を清水寺に寄付している。

*氏範の墓は、清水寺の門前の茂みの中にひっそりとある。

   天神山城から志方城へ    

天神山城は、氏範の城であつたことは、史料等で確かめられていない。 

あるいは、別の人物であったのかもしれない。しかし、当時の状況から赤松に繋がる人物であったことは確かである。

その後、天神山城は、赤松氏の有力被官(家臣)である櫛橋氏に与えられたようである。

ともかく、櫛橋氏が山城である天神山城から、平城である志方城(現在の観音寺・志方小学校の場所)へ本拠を移すのは、この時代の城郭の変遷からいっても順当といえよう。

 *写真:天神山の遠景

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かこがわ100選(61):国包の鉄橋

2013-04-28 06:36:16 |  ・加古川100選

今年の4月で加古川線は開通100年になる。

そのため、神戸新聞は「東北播磨を結ぶ軌跡(加古川線開業100年)」のキャンペーンを組んだ。

「その3」に、きょう紹介したい「国包の鉄橋」を取り上げている。

「加古川100選(61)」は神戸新聞を参考にさせていただいた。

    国包の鉄橋    *上荘町国包

100kei_030県内最大の河川・加古川に架かる「第二加古川橋梁」は通称、「国包の鉄橋」と呼んでいる。

開業当時のレンガ造りの橋梁が残こっている。

この橋梁は大正2年(19138月、加古川線の前身播州鉄道は国包から旧鍛冶谷線西脇駅まで延伸されたが、その時の橋が改修され現在も使われている。

加古川~国包駅の開通は(大正2年)41日であり、国包~西脇間のほとんどのカ所で軌道の工事が終わっており、加古川~西脇が遅れたのは、加古川の橋梁の工事が遅れたからだと言います。

それだけ、加古川橋梁は難工事であったようだ。

当初の鉄橋は橋脚のはばも狭く、水面からの高さもひくかった。

そのため、度々の台風や長雨により橋脚はずいぶん損傷した。

現在は、中央の橋脚はコンクリートに替わっているが、古い橋脚も改修され現役として活躍している。

26日(金)、この橋梁が写真が欲しくて撮影に出かけた。

どうせ撮るのなら電車のある橋梁の風景が欲しかった。こんな時に限ってなかなか来てくれない。

草に寝ころんで電車を待った。周りにスカンボがいっぱいあった。

30分ほど電車を待つことになった。西岸の橋のところにある警報の音が聞こえてきた。

嬉しかった。こんな事にうれしくなったのは久しぶりである。

というのは、急な雨のシャワーがあり、服がぬれてしまった。

「帰ろうか・・・(いや)もう少し待とうか・・・」と迷っていた。そんな時の警報音だった。

「ゴー・・・」と響きを残して、電車が通り過ぎた。

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かこがわ100選(60):陸軍航空通信学校尾上教育隊跡

2013-04-27 07:06:59 |  ・加古川100選

陸軍航空通信学校尾上教育隊跡

100kei_008 浜国道がすぐ隣に走るが、騒音は気にならない。静かである。

その施設跡(写真)は、松の木の漏れ日の中で歴史を伝えていた。

「陸軍航空通信学校尾上教育隊」の兵舎跡である。

この施設を語る詳しい資料が見つからなかったので、『加古川市誌(第二巻)』から引用したい。

「・・・満州事変に続いて日華事変(日中戦争)となり、軍備の拡張とともに、この松林の中に陸軍病院や航空整備隊等が置かれ、更に太平洋戦争中には、陸軍通信学校尾上教育隊が開設され、やがて終戦を迎えた。・・・・・その後、軍の施設は取り除かれ・・」とある。

地元の人は、教育隊の兵舎跡を「浜の宮兵舎」と呼んでいる。

終戦後の一時期、加古川飛行場を管理した連合国占領軍が、兵舎として利用したこともあったという。

また、一部を浜ノ宮中学校としても利用した。

現在、この教育隊のあとに次のような説明がある。読んでおきます。

 <教育隊跡地の説明> 

当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。

戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。

ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました。

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かこがわ100選(59):みとろ苑

2013-04-26 08:01:09 |  ・加古川100選

みとろ苑(旧大西家)   *上荘町見土呂

 Photo_22009321日の神戸新聞は、「名勝・庭園に続く朗報」・「国登録有形文化財に」のタイトルで「みとろ苑・旧大西家」を大きく報じている。

 上荘町の歴史を語るとき、旧大西家(写真)をぬかすことはできない。

 きょうは、少し古くなるが神戸新聞の記事から一部転載させていただく。

  みとろ苑・国登録有形文化財に

 江戸時代後期から明治初期にかけて綿花栽培で財産を築いた地主・大西家の別宅として、1918(大正7)年に完成した。

 当時、凶作に見舞われた農民に仕事を与えるため建設されたという。

 1938(昭和13)年に財団法人農村文化協会に寄付され、1965(昭和40)年ごろから料亭として活用されている。

 宴会場などに使われる大広間棟は、南北が庭園に面し開放的な造り。

 広間は畳敷きの縁側が囲み、欄間には凝った意匠が施されている。

 渡り廊下は、窓枠の四隅を丸く削った「隅切り」の窓があり、細やかな職人技を感じさせる。

 浴室天井は、放射状のヒノキ材を並べて中央に換気口を設け、独特の造形美を見せる。

 表門は、下部は板張りで上部は土壁。

 東西両側に塀が続き、歴史的な風格を漂わせている。

 ・・・・・

 (2009321の神戸新聞より)

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かこがわ100選(58):妙心寺

2013-04-25 08:56:03 |  ・加古川100選

妙心寺    *西神吉町鼎(かなえ)

Photo 写真は、加古川市西神吉町鼎(かなえ)の清水にある本覚山・妙心寺である。

本文の内容とあまり関係がない。西神吉清水を代表させたかっただけである。

明治1112月に、清水村は下富木村・長慶村と共に合併して鼎村(かなえむら)となった。

その清水村であるが、もとは妙心寺の少し西の字・古屋敷(ふるやしき)にあった。

慶長年間(15961614)に現在の場所に移住し、村をつくり、「清水新田」と名づけた。

村人は、水がほしかった。井戸を掘り、やっと水を得ることができた。村人は、村の名前を「清水」とつけた。

多くの村人は、名前も水埜・清埜・清田・野村などとつけた。

しかし、十分な量とはいえなかった。

『私たちのふる里』(加古川市西神吉小学校PTA)は、次のような話を載せている。

・・・・(清水の村人は)自分たちの生活を切り詰め、肉・魚介類は食べずに、野菜を主に食べた。

昔から、清水へは魚屋さんは出入りしなかった。

そして、「穀物は絶対にねずみに食べられないようにするために、ねずみも住めなかった」とまで言われた。

また、牛馬は働かすだけ働かして、充分な餌は与えられなかったため、牛馬はよく死んだ・・・・

内容はともかく、清水は水が充分でなく、苦しかった昔の人々の生活のようすを伝えている。

「清水」は、農民のせつない願から生まれた地名である。

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余話として「一遍の死と教信寺」

2013-04-24 07:32:51 |  ・加古川100選

「かこがわ100選(57)」の余話として

一遍の死と教信寺

3e7b5541教信寺にまつわる一遍の死について書いてみます。一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。

ウィキぺディアは、一遍の死について次のように書いています。

・・・正応2 年(1289)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50 歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる・・・

死地を求めて

一遍は、正応2 年(1289)季節は夏を迎えようとした頃、讃岐の国の善通寺へ向かいました。

それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。

教信寺で眠りたい・・・

夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、できることなら、あの白い砂の輝いている明石へゆきたい。

そして、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で死にたいと思うのでした。幸にして、七月十八日に、ようやく海を渡って対岸の明石の浜辺につくことができました。明石から、印南野の教信寺まで、すぐ目と鼻の先です。

一遍は、体力の衰えたその瞬間も、ひそかに心に期していました。「念仏を信じ、念仏をとなえ生涯を終えた、教信のそばで眠りたい」と・・・この時、早い秋の雨が、海辺をぬらしていました。

真光寺へ

明石についた一遍の一行を待っていたのは兵庫からの信者の出迎えでした。

ようやく臨終の地に臨もうとした一遍は、もはや生きて野口に行く体力の自信をなくしていました。

一遍は、兵庫の真光寺へ向かいました。真光寺で静かに51才の生涯を終えまし。この時、一遍にもう少し体力が残っていたなら、きっと一遍は教信寺の教信の五輪塔の傍で眠っておられたことでしょう。

*写真:遊行中の一遍

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かこがわ100選(57):教信の墓所

2013-04-24 07:13:26 |  ・加古川100選

教信上人の墓所       

 *野口町野口

「教信の墓標(56)」の続きである。

写真上をご覧いただきたい。盛り土の上に五輪塔が置かれている。

この絵は、大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山、大念仏寺が所蔵する絵伝軸の一部である。

   教信寺法泉院の盛り土は教信所人の墓所か

Photo 教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった34年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟・湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7日間の念仏踊りを行った。

これが、野口大念仏の始まりだといわれている。

この絵は、その湛阿(たんあ)が、野口念仏を開いた翌年、融通念仏宗の祖師の一人の法明が念仏聖らと教信上人の墓参りをした場面を描いている。

ということは、絵に描かれた五輪塔の置かれている盛り土は、教信上人の墓ということになる。

教信寺の法泉院の中庭にある、こんもりとした盛り土(写真下)が、それだと伝えられている。

Photo_2 教信上人は、ここに葬られたのだろうか。

法泉院の中庭の盛り土は、長い年月を経て、現在形は少し崩れているもののその雰囲気を伝えている。

この盛り土には説明がないため、「教信の墓所かもしれない」ということに気づかれる方は多くない。

教信寺へお参りの際は、ぜひお訪ねていただきたい。

盛り土の上に描かれている五輪塔は、現在の場所に置かれている五輪塔である。

 *写真上:良人・法明両上人絵伝軸(大念仏寺所蔵)より

  写真下:教信寺法泉院に残る教信上人墓所

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かこがわ100選(56):教信の墓標

2013-04-23 08:56:00 |  ・加古川100選

教信の墓標       *野口町野口

野口の教信寺へ出かけましょう。教信寺は念仏の寺です。そして桜の似合う寺です。

きょうは、教信の墓標をたずねることにします。

    教信の話

Photo_4「今昔物語」に、次のような話があります。

大阪の箕面市に、今も勝尾寺があります。

勝如(しょうにょ)は来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。

ある夜、誰かが訪ねて来ました。しかし、勝如は無言の行の最中です。返事が出来ないので「ゴホン」と咳払いをしました。

すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申します。私も念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へ参ることができました。

あなた様も、来年の今月今夜(815日)に、お迎えがございます」

そういうと、訪問者の声は、すっと消えてしまいました。

ビックリした勝如は次の朝、弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりました。

すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。

横にいる老婆に聞くと、「この死人は、私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。

この話を聞いた勝如は、念仏ばかりでなく教信のように実践にも一層はげみました。

そして、教信が告げた日(貞観9年8月15日)、勝如は亡くなりました。

「勝如様も野口の教信のところへ行かれた」と人々は、囁きあったということです。

*写真:教信の墓「五輪塔」(教信寺境内)

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かこがわ100選(55):歩兵第百六聯隊の碑

2013-04-23 08:51:52 |  ・加古川100選

歩兵第百六聯隊の碑      *山手二町目

Photo_2昭和16年(1941)、現在の山手中学校(加古川市山手)の場所に「歩兵第百六聯隊」の兵舎(神野兵舎)が完成した。

第百六聯隊は、比較的規模の小さな部隊だった。

戦局の悪化にともない、百六聯隊も南方へ投入されることになり、昭和19年(19442月、朝鮮の龍山で、大隊に編成された。

Photo_36月、歩兵第四九師団に入り、インドシナ方面へ送られ、終戦はミャンマー(ビルマ)で迎えた。

百六聯隊の転出後、神野兵舎は、「陸軍航空通信学校神野教育隊」の兵舎となり、終戦時には同部隊が改編された「水戸航空通信師団加古川教導通信団」の教育隊の兵舎として使用された。

百六聯隊の兵舎は戦後、山手中学校として使われた。

現在、中学校の近くに「歩兵第百六聯隊の碑」(写真右)がある。

そして、校舎のすぐ北に、星章のある当時の消火栓(写真左)が残っており、歩兵聯隊の兵舎があったことを物語っている。

元、加古川第二陸軍病院     *神野町西条

「加古川第二陸軍病院」は、歩兵第百六聯隊・神野兵舎(昭和16)と同時期に開業したのではないかと考えられる。

姫路や京都・大阪といった師団司令部の所在地の陸軍病院と比べると、規模は小さかった。

戦後、昭和2011月から陸軍省から厚生省に施設・人員が移管され、「国立病院加古川療養所」となり、「国立加古川病院」をへて、現在「(私立)甲南加古川病院」(加古川市神野町西条)となった。

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かこがわ100選(54):特攻隊の碑

2013-04-21 07:13:57 |  ・加古川100選

特攻隊の碑    *加古川町北在家

Photo平成12年、サンテレビは加古川飛行場(加古川市尾上町)から出撃した特攻隊について放映した。

戦時中、特攻兵の教育にあたった上木政範さん(故人)は、悔恨の気持ちをこめて語られた。

加古川飛行場では、昭和20年の春、若い隊員に特攻志願書が配られた。

そこには、「熱望」、「希望」、「志望」とあり、「希望しない」という項目はなかった。

全員「熱望」を選んだ。以後、訓練は特攻用に変わった。淡路島方向から低空で急降下をするものであった。

昭和25525日、加古川飛行場で行われた特攻の出撃式の写真をはじめて公開された。12名の若者が写っている。全員死亡した。

上木さんも、昭和20年6月22日の明石空襲のとき、アメリカのB29の攻撃を迎え撃つため加古川飛行場から出撃した。しかし、機体が古く、失速し撃墜されたが奇跡的に助かった。

この番組の放映時、取り壊し前の中村屋旅館(国道2号線と県道小野線の交差点から北へ300メートルの西側)があった。中村屋旅館は、戦時中陸軍の指定旅館だった。

加古川飛行場に降り立った特攻隊員等が宿泊した。中村屋旅館には、特攻隊員の遺品が数多く残された。中には「断」と指で書いた血染めの書もある。

現在、これらの遺品は鶴林寺で保存されている。

上木さんは「すべてが戦争を中心に動き、拒否することの出来ない時代があったことを知って欲しい」、そして「二度と戦争はしてはならない」と訴えておられた。

*写真:中村屋旅館の前にあった「特攻の碑」(旅館の主人が私費でつくられたもの)。現在、鶴林寺の境内に移され保存されている。

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かこがわ100選(53):大庄屋・大歳家文書

2013-04-20 07:17:42 |  ・加古川100選

大歳家文書       *別府町新野辺

前号(大庄屋・大歳家)の続きである。

江戸時代になり、文字で書かれた記録(古文書)類は、急に多くなった。

これは、紙の生産の増加、庶民の読み書き能力の高まり、それに何よりも政治の複雑化によるもので、江戸時代の研究は、これら「古文書との闘い」と言っても、いい過ぎではない。

しかし、これらの古文書類が現在まで保存されていることはまれで、多くは処分され、失われている場合が一般的である。

新野辺に残る「大歳家文書」「村方文書」

Photo多くのところで古文書は失われているが、新野辺は若干事情が違っている。

古文書の保存状況は、加古川市では一番といってよいと言える。

多くの古文書が非常にいい状態で保存されている。

気がつかれたと思うが、『加古川市史(第二巻)』では、加古川市の他の地域よりも新野辺村についての紹介が多くなされている。

それは新野辺村に古文書が残っているためである。

村に残る江戸時代の古文書は、地方文書(じかたもんじょ)とか村方文書(むらかたもんじょ)と呼ばれているが、新野辺に残る文書はそれだけではない。

大庄屋・大歳家には、1000点(数え方によれば10000点)を超える文書(写真)が完全な形で保存されている。

大歳家に残る古文書は「大歳家文書」として歴史学会では広く知られているが、十分な研究がなされているとはいえない。

大歳家文書については、現在、関西学院大学のH先生により本格的な研究が取り組まれている。

新野辺に残るこれら村方文書、そして「大歳家文書」の研究がさらに進めば、別府町新野辺だけでなく、加古川市また、日本の江戸時代の村落の一事例として貴重な財産になると思える。

*写真:大歳家文書(非公開)

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かこがわ100選(52):大庄屋・大歳家

2013-04-19 07:56:29 |  ・加古川100選

新野辺組大庄屋・大歳家     *別府町新野辺

Sinnseijinnnokai_011江戸時代、各村には村を治める大庄屋がおかれた。

 大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋のことである。

 庄屋の中の庄屋で、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいる。

そして、その組の名は、ふつう大庄屋の住んでいる村名で呼ばれた。

したがって、大歳家のおさめる村々は、「新野辺組」であった。

新野辺組は、天保9~明治4年(183871)、新野辺村の他11ヶ村(北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井)と2新田からなる組であった。

 各村におかれた庄屋とちがい、大庄屋は苗字・帯刀をゆるされ、農民の代表というより、藩(姫路藩)のお役人のようで、各組の庄屋への連絡、村々から領主への取次ぎ・年貢や組の争の解決などの多くの仕事があった。

 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9(1838)大歳藤家は、新野辺組の大庄屋となった。

 なお、現在の別府町西脇は、新野辺組ではなく古宮組(現在の播磨町)に属していた。

なお、大歳家には地域を知る貴重な文書(大歳家文書)が多数保存されていることでも知られている。

*写真:大歳家(未公開) 

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加古川100選(51):尾上の鐘(朝鮮鐘)

2013-04-18 07:21:51 |  ・加古川100選

尾上の鐘(朝鮮鐘)        *尾上町長田

Photo世阿弥作の謡曲「高砂」に、「高砂の松の春風吹き暮れて、 尾の上の鐘も響くなり」と尾上の鐘を描いている。

尾上神社(加古川市尾上町)の鐘がそれである。鐘の表面に飛天と楽器、上部には天蓋(てんがい)を浮き彫りにした珍しい朝鮮鐘である。

島根県の天倫寺に同じ鋳型から作られた鐘がある。この鐘には、顕宗二年(朝鮮の年号・1011)の銘があるので、尾上神社の鐘もこの頃、つまり朝鮮の高麗時代に作られたものと思われる。

この鐘は、何時どのような経緯でもたらされたのかは分かっていない。

また、現存する「朝鮮鐘」の多くは、鎌倉時代から南北朝期の「倭寇」の活躍した時代にもたらされたものといわれている。

尾上の前の海を「ひびき灘」といわれるが、この鐘の音の響く範囲の海ということである。

朝鮮の高麗時代(日本の平安時代の中期から、南北朝時代にあたる)、仏教は政府に保護され大いに栄えた。

しかし、次の李氏朝鮮の時代(南北朝時代から明治の中ごろまで)仏教は徹底して弾圧され、多くの寺院は破壊され、朝鮮鐘も潰された。その結果、朝鮮鐘は、朝鮮でも数は少なく貴重なものになっている。

 兵庫県には朝鮮鐘が二つ伝わる。もう一つは鶴林寺の鐘である。

*写真は、尾上神社の朝鮮鐘(「加古川市史・第七巻」より)

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かこがわ100選(50):参(瀧瓢水の母)の墓標

2013-04-17 06:53:20 |  ・加古川100選

瀧瓢水の母(参)の墓標    *別府町西町

Photo「風樹の嘆」(ふうじゅのたん)という言葉をご存知でしょうか。

私も、「さればとて 石に蒲団は 着せられず」の瓢水の句を調べていて初めて知った言葉です。

広辞苑では「孝養をしようと思い立った時にはすでに親が死んでいて孝養をつくしえない嘆き」とありあます。

瓢水は、まさに自分の「風樹の嘆」を句にしています。

前漢の韓嬰(かんえい)の著で、「詩経」の解説書の外伝に、次のような物語があるそうです。

さすが瓢水です。かれの教養の中のこの物語が、母の死に際して句にしたのでしょう。

次の「風樹の嘆」の話はHPからの引用です。少し文章を変えて紹介させていただきます。

風樹の嘆

今から二千五百年前のことです。
孔子が斉の国へ向かっていた時、前の方から、大きな泣き声が聞こえてきました。
大層悲しそうでした。
馬車をはやめると、号泣している男を発見しました。
孔子は、彼に尋ねました。「あなたは、どなたですか」
「丘吾子(きゅうごし)という者です」
「なぜ、そんなに泣くのですか」
「私は、大変な過ちを犯したのです。晩年になって気がついて後悔しましたが、今さらどうにもなりません」
「どんな過ちか、聞かせていただけませんか」
「若いころから、私は、学問が好きで、諸国を巡っておりました。
ある日、学問の道にはキリがないので、これくらいで郷里へ帰ろうと思いました。年老いた父母のことが心配になってきたのです。

しかし、家へ戻ってみると、両親は、すでに亡くなっておりました。

子供が親を養おうと思っても、親はその時までは待っていてはくれません。
過ぎた歳月は、二度と帰ってこないのです。
二度と会うことができないのは親です」
ここまで言って、男は、水中に身を投げて死んでしまいました。

孔子は、「これは一人一人が教訓としなければならない大切なことだ」と弟子たちに諭しました。

   母・参の墓碑の保存を!

別府西町の墓こそ、瀧瓢水の貴重な遺産であり、文化財です。

子孫の方、別府町の方々にお願いです。

墓碑は砂岩のため、傷みがずいぶん進んでいます。

この墓をいつまでも保存していただけませんでしょうか。

*写真:瓢水の母(参)の墓碑は、西町の墓地の南東隅あたりに写真のように墓碑が集められています。ぜひお参りください。

念のために戒名を繰り返しておきます。

勝林栄舜」です。

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