幻の高砂染め(2)
高砂染の始まりには二説があります。
相生屋勘右衛門説
高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。
「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。
高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。
姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。
河合寸翁の政策
特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。
寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために木綿の専売制を実施したことで知られていますが、一方で、姫路藩の多くの国産品の奨励にも力を入れました。
天保三年(1833)には、藩校であった好古堂内に御細工所を設けて高砂染の染色を実際に行っています。
そして、「高砂染」を姫路の特産品として江戸、大坂などへ積極的に流通させました。
文献上、高砂染の起源は、現在のところ18世紀中葉まで遡ることができます。
その後、高砂染は江戸時代のみならず明治、大正、昭和と存続し、高砂を含めた姫路の広い範囲で染められ、より多様な展開をみせました。
河合寸翁が亡くなり、やがて明治時代を迎えて、高砂染が藩の保護を解かれて後も生産は続きましたが、昭和のかなり早い時期に終焉を迎えました。(no4535)
◇きのう(7/30)の散歩(10.684歩)
*『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照
*写真:高砂染の文様(松枝、松葉、松かさ、霰)・姫路美術工芸