ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(250) 近世の加印地域 高砂篇(29)・相生屋勘右衛門説

2018-07-31 08:31:24 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

         幻の高砂染め(2)  

 高砂染の始まりには二説があります。

    相生屋勘右衛門説

 高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。

 「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。

 高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。

 姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。

    河合寸翁の政策

 特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。

 寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために木綿の専売制を実施したことで知られていますが、一方で、姫路藩の多くの国産品の奨励にも力を入れました。

 天保三年(1833)には、藩校であった好古堂内に御細工所を設けて高砂染の染色を実際に行っています。

 そして、「高砂染」を姫路の特産品として江戸、大坂などへ積極的に流通させました。

 文献上、高砂染の起源は、現在のところ18世紀中葉まで遡ることができます。

 その後、高砂染は江戸時代のみならず明治、大正、昭和と存続し、高砂を含めた姫路の広い範囲で染められ、より多様な展開をみせました。

 河合寸翁が亡くなり、やがて明治時代を迎えて、高砂染が藩の保護を解かれて後も生産は続きましたが、昭和のかなり早い時期に終焉を迎えました。(no4535)

 ◇きのう(7/30)の散歩(10.684歩)

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

 *写真:高砂染の文様(松枝、松葉、松かさ、霰)・姫路美術工芸

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お爺さんが語る郷土の歴史(249) 近世の加印地域 高砂篇(28)・ 幻の高砂染(1)

2018-07-30 07:42:28 | お爺さんが語る郷土の歴史

             幻の高砂染(1)

 「高砂染」の話です。

 「高砂染」の始まりについては、今のところ二説があります。「高砂説」を中心に紹介します。

     尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる

 「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し、堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。

 後に、庄兵衛は自邸でその業を営み、〝高砂染〟と改称した」というのがその一つの説です。

 『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。

 庄兵衛は、常に考える人でした。

 たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。

 庄兵衛は、日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。

 そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。

 当時この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。

 後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」(高砂雑志)より

     高砂染は、江戸時代中期以降か?

 昭和52年の「兵庫縣社会科研究会会誌」第24号で、玉岡松一郎氏は「高砂染顛末記」の中で、次ように記しておられます。

 「慶長6年3月11日、姫路藩主池田輝政は高砂附近を開発し堀川を造りました。

 その時、産業奨励の意味で、尾崎庄兵衛を召して紙型による木綿をつくらせ、「おぼろ染」と名付け、諸藩にも販売しました。

 尾崎家の隣家の川島家も後世に染色しており、新しい図柄ができて「高砂染」と名を変えるようになったのは江戸後期のことでしょう・・・」

 また、尾崎庄兵衛は実在の人物で、先の玉岡松一郎著の『高砂染顛末記』に次のように書かれています。

 「・・・高砂市鍛冶屋町に現在自転車・単車等を盛業しておられる尾崎庄兵衛の子孫である尾崎庄太郎氏(明25生)を訪問する。

 現在、布等は一切残ってなくて、紙型は明治末頃に一度整理し、なお、40~50枚残っていたが、戦時中に防空壕に入れたり出したりしているうちになくなってしまったといわれる・・・」

 尾崎庄兵衛が、高砂染を行っていたことは事実と考えられます。

 しかし、その始まりが池田輝政の時代というのは、少し無理があるようです。

 というのは、綿作が盛んになるのは江戸時代中期以降のことです。時代はかなり下るものと思われます。(no4534)

 ◇きのう(7/29)の散歩(11.851歩)

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

 *写真:高砂染め着物(姫路美術工芸館蔵)

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お爺さんが語る郷土の歴史(248) 近世の加印地域 高砂篇(27)・高砂の漁業

2018-07-29 08:20:39 | お爺さんが語る郷土の歴史

 「高砂の漁業」は、今井修平先生の書かれた「たかさご史話(49)」をお借りしました。(文章を少しだけ変えています)

    高砂の漁業

 高砂では漁業も盛んでした。

 安永2年(1773)の高砂町の明細帳には「漁船118艘・船持115人、曳網船25艘・船持20人」とあります。

 また、町名にも漁師町、釣舟町、狩網町があって.それぞれ51世帯202人、111世帯、435人、68世帯296人が住んでいました。

 漁船の数からいえば、その大部分が漁業で生活していたといえるでしよう。

 そのほかにも、魚町91世帯341人がありました。

 その全では無いでしょうが魚問屋や生魚や塩干魚を加工・販売する商人も多く住んでいたと思われます。

     漁業権

 姫路藩主が参勤交替で国元に在住している年には高砂の町中として塩鯛10枚を歳暮として献上する習わしがありました。

 それは姫路藩から高砂に対して漁業権が認められていたことへの謝礼の意味がありました。

 それとは別に、毎年、高砂漁師から塩鯛420枚、塩鰆100本、干鱧300本を献上する替わりに、それぞれ銀336匁、150匁、10匁5分が上納されていました。

 これらも、漁師たちか漁案権を認められることに対するお礼の献上物であったものが、安永2年の段階ではすでに金納となっており、営業税的な性格に変わっていたと考えられます。

 また、網を用いる漁業に対して営業艦札が発行されており、これらにも銀納で運上銀が課されています。

 その他に、川漁師にも同様に運上銀を課しています。

 播磨離の海域には岡山や摂津(神戸方面)からも漁師が入り込みますので、姫略藩としては高砂、飾磨を始めとする領内漁村の漁師を保護するとともに、領外への漁獲物の叛売を制限して城下町姫賂を中心に領内の食科資源を確保する政策をとっています。(no4533)

 *「たかさご史話(49)・高砂の漁業」参照

 *地図:高砂周辺の主要漁村と高砂の諸漁場(『高砂市史第二巻』)より

 ◇きのう(7/28)の散歩(11.131歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(247) 近世の加印地域 高砂篇(26)、申義堂(6)・申義堂、高砂へ帰る

2018-07-28 06:46:56 | お爺さんが語る郷土の歴史

          岸本家・姫路藩の御用商人も務める

 申義堂のスポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 高砂の岸本家は、その地の利を活かして大いに発展しました。

 岸本家は、三代でその基礎が確立し、資産は持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり、藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。
 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。
 岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をしました。
 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。 

     申義堂、高砂へ帰る
 先に紹介したように、申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
 昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。

 天井に棟札があり、明治12年の移築が確認されました。

  その後、平成5年に高砂市にひきわたされ、平成6年に解体され、しばらく高砂市教育センターに保存されていましたが、平成23年、高砂市横町に江戸時代当初の姿に復元されました。(no4532)

 *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』・『長谷川亀次郎を偲ぶ』(長谷川史子)・ 『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)』(ジュンク堂書店)参照
 *高砂地図(岸本家・長谷川家・元の申義堂・現在の申義堂の場所を確認ください)

 ◇きのう(7/27)の散歩(11.921歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(246) 近世の加印地域 高砂篇(25)、申義堂(5)・長谷川亀次郎ってwho?

2018-07-27 08:14:41 | お爺さんが語る郷土の歴史

         長谷川亀次郎ってwho?

 申義堂は、明治4年に廃校になり、その後建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
 「なぜ、西井ノ口村か」という疑問が残ります。
 ここに、長谷川亀次郎が登場します。
 長谷川亀次郎が突然登場しますので、「長谷川家亀次郎って誰?」と疑問を持たれると思います。

 亀次郎について少し紹介しておきましょう。  

    <長谷川亀次郎、年表>
 天保9年(1838)  西井ノ口村に生まれる。
   ?年        高砂へ進出。 
 安永6年(1859)   名字帯刀を許される。
 文政元年(1861)   大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。
   <江戸幕府崩壊>
 明治2年(1869)  調達金・木綿代金を多く納める。 
 明治3年(1870)  軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。
             蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。  
 明治5年(1872)  高砂南本町に物産会社をつくる。
             姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。
 明治6年(1873)  高砂・飾磨・船場の姫路藩蔵の御蔵米取り扱い方に任ぜられる。             
             印南郡に西井ノ口村に学校を新築。福崎町で石灰製造を行う。
 明治12年(1879)  申義堂を西井ノ口に移築

  明治22年(1889)  死亡、戒名は釈浄脩
  以下省略。

  亀次郎については、史料がすくなく、はっきとしませんが、晩年は仏教に帰依しました。
 彼は、特に教育の分野で大きな足跡を残しています。
 岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。
 ・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。
 ・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。
 ・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。
 ・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。
 ・「長谷川亀次郎を偲ぶ」によれば、亀次郎の妻(うの)は、岸本家から嫁いでいます。
 とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にあったようです。
 このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下の会話は記録によるものではありません。皆さんはどう思われますか。
    
ある日の会話
 「亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」
 「岸本さんのいわれることです。出来ることでしたらなんなりと・・・」
 「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・
   (こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)
 「岸本はん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。
 出しょうの(西)井ノ口村に移してもらえませんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。
 「そこ(井の口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。
 私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。
 話はトントン調子に進み、高砂町の説教所(申義堂)は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。(no4531)
 *写真:長谷川亀次郎

 ◇きのう(7/26)の散歩(10.746歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(245) 近世の加印地域 高砂篇(24)、申義堂(4)・申義堂は残った

2018-07-26 07:40:54 | お爺さんが語る郷土の歴史

     申義堂は残った

   申義堂は明治4年廃校になりました。その後の申義堂について紹介しておきましょう。

 廃校になった申義堂について、『高砂市史(第二巻)』は、次のように書いています。

 少し書き直して紹介します。(文体も変えています)

 ・・・申義堂は、明治4年に廃校となりました。
 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。

 現在、再建された申義堂に掲げられている河合寸翁筆による「申義堂」扁額は岸本家に保管されていました。また、文書が同家に保管されているのはそのためです。

 その後、土地は明治28年、高砂警察署建設のため兵庫県へ寄付され、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。

   申義堂が東神吉町(加古川市)に残っていた

 申義堂の建物は、解体され明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡東神吉村西井ノロに移築されていました。

 昭和7,8年ころまでは使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用され、もとどういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、申義堂の建物であったことがあらためて確認されたのは平成2年4月でした。

 天井に棟札が打ち付けられていて、明治12年の移築が確認されました。

 平成6年に解体されて、高砂市教育センターでんぷん保管されました。

 その続きを紹介することにしましょう。

  申義堂が西井ノ口(加古川市)にあった理由

  西井ノ口(東神吉町)の柴田育克(しばたいくよし)さんの研究による『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』という冊子をいただきました。

  内容は、申義堂について、『高砂市史(第二巻)』が簡単に書いているその部分です。

      長谷川亀次郎

 明治時代、東神吉町井ノ口には、日本の教育史に残るような立派な学校がありました。

 この学校の建設に関わったのは西井ノ口の長谷川亀次郎氏でした。
 長谷川亀次郎氏と申義堂がかかわりを持っていました。
 ここでは、名前の紹介だけにしておきます。

 亀次郎氏のご子孫の方が『長谷川亀次郎を偲ぶ』として冊子にまとめておられます。
 とりあえず、この二冊を中心に、申義堂のその後を説明しましょう。(no4530)

 *挿絵:冊子『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』(柴田育克著)

 ◇きのう(7/26)の散歩(10.327歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(244) 近世の加印地域 高砂篇(23)、申義堂(3)・申義堂は、小人数教育

2018-07-25 08:29:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    申義堂は、小人数教育

 岸本家に、天保六・七年(1835・6)の「素読出席人目数書上帳」2冊、天保九年(1838)閏四月から九月までの(八月分欠)「素読并講釈出席人書上帳」5冊が残されています。

 これによれば、この期間の生徒数は10人から15人の範囲であり、この時期は天保飢饉後で低下していた可能性はあるにしても、やはりそれほど多いとはいえない人数です。

入学年齢がわからないのは残念ですが、おそらく寺子屋段階の学習を修了した後、十代前半か半ばで入ってきた者たちだったのでしょう。

     ほとんどが町民の子弟

 出席状況は、天保六年の10名の内190日というほぼ皆勤を最高として、100日以上の出席者が6人、他の4人は50日以下というように差が大きくなっています。

 天保七年在学の12人の内、出席日数のわかる10人についてみると170日を最高として100日以上6人、他は50日以下となっており、両年を通してみると六割は比較的精勤ですが、四割は素読という学習にやや挫折するところがあったようです。

 なお、両年とも出席良好者には褒美が与えられました。

 天保六年には、上位3人に半紙一束と墨一挺、その他7人には墨一挺が与えられ、良好でないものも含めて在学者全員に与えられています。

 天保七年も同様で、上位2人には半紙二束、他の者すべてに半紙一束となっています。

 これは、藩からの賜与ではなく申義堂自らが行う慣例であったようです。

 生徒の肩書の記載には、たとえば「柴屋三郎兵衛倅瀧之助」とあるように、ほとんどは高砂の町内の町民子弟であったとみられます。

      申義堂の先生・美濃部秀芳(美濃部達吉の父)

 美濃部秀芳(美濃部達吉の父)は、文久三年から申義堂で素読を担当しました。

 彼は、天保21年(1841)8月24日に生れで、父は高砂でただ一人の蘭方医の美濃部秀軒でした。

 秀軒の妻・秀芳の母は、申義堂教授であった三浦松石の娘であり、秀芳と申義堂との関係は深く、秀芳も申義堂で学んだにちがいありません。(no4529)

 *『高砂市史(第二巻)通史編近世』参照

 *写真:審議堂の先生・美濃部秀芳

 きのう(7/24)の散歩(11.539歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(243) 近世の加印地域 高砂篇(22)、申義堂(2)・申義堂と岸本家

2018-07-24 08:18:29 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

           申義堂と岸本家

   江戸時代、高砂の町に岸本家という豪商がありました。

 『加古郡誌』に「申義堂の建物は高砂町岸本家の寄附によるもので、明治維新後廃藩の時に廃校すると共に、この建造物を岸本家に下付せられたといふ」という記述があります。

 たしかに、申義堂は、設立のはじめから岸本家と深い関係がありました。

 明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となり、廃校のさい、申義堂の建物は岸本家に下付されています。

 木村重圭氏が「申義堂が創立されようとするとき、大年寄(大蔵元)であり、また姫路藩六人衆の一人であった岸本家の当主(四代目岸本吉兵衛)により、土地と建物が提供されたものと思われる」と述べておられる。

     岸本家の私有にあらず

 申義堂は、藩からわずかな給米は与えられましたが、実質は岸本家をはじめとする高砂の町民あるいは大年寄を中心とする有志によって設立運営が行われたたようです。

 したがって、申義堂は特定の家との直接的結びつきは避けて、大年寄という町の「公」を代表する者によって管理運営されたといえます。

        申義堂の教育、素読(そどく)が中心

 申義堂の教育について具体的に知られる史料がないため、詳しくは分かりません。

 しかし、申義堂の最末期、幕末維新期に教授であった美濃部秀芳(美濃部達吉の父)が、明治17年(1884)に記した「高砂尋常小学校学校沿革史」には申義堂の設立を簡単に記したあと、教育についても述べています。

 これによれば、申義堂は、元旦と五節句(正月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)そして、毎月の5日・15日・25日が休日で、そのほかは早朝より正午までの間、町の児童に四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(易経・詩経・書経・礼記・春秋)の儒学などの素読(そどく:漢文の書物を解釈はあとにして声に出してくり返し読む)を行い、1の日と6の日、あるいは3の日と8の日は経書(四書五経)か歴史書の講義を行っていたようです。

 その中で、進歩した者には会読(二人以上が集まり読解しあう)または、臨講(数人が順番に講義しあう)を行わせ、とくにすぐれた者を選んで素読の補助をさせました。

 申義堂の教育対象は児童で、成人は対象とされなかったことがあらためて確認されます。

     生徒は、寺子屋等で読み書きの既習者

 教育内容は、儒学書の素読が中心でした。

 ということは、ここへ学習しに来る生徒は少なくとも、一般的な読み書きはすでに寺子屋等での学習を既に修了した程度の能力を有する者たちでした。

 でなければ素読についていくことは困難であったようです。

 申義堂における授業料がどの程度のものであったのかも残念ながら分かりません。

 町民からの寄金にもよるが、無料あるいはそれに近い形がめざされた可能性はあります。

申義堂の維持運営費については生徒の負担はおそらくなかったと考えられますが、教師への謝礼はなされたと思われます。(no4528)

 *写真:申義堂に掲げられている額(姫路藩家老:河合寸翁筆)

 ◇きのう(7/23)の散歩(11.087歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(242) 近世の加印地域 高砂篇(21)・申義堂(1)

2018-07-23 09:19:49 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    申義堂(しんぎどう)(1)   

 高砂の町は商業の町でした。

  商(あきない)には、社会情勢(情報)を集め、判断し、記録が必要です。

  文字が必要です。数字に明るくなければなりません。

 そのため、高砂には学問の雰囲気がありました。

 高砂の学問所、申義堂(しんぎどう)の話です。

  「申義堂」の設立は文化年間(1804~1817)

 申義堂は、江戸時代に高砂地域に設立された唯一の公的性格をもった教育施設でした。

 ところが、その成立については、史料が失われ明治以降に記されたいろいろな文献に述べられている所からうかがうしかありません。

 申義堂と関わり深かった高砂の岸本家の文書調査をもとに研究された木村重圭氏の研究『姫路藩郷学申義堂と岸本家』によって、大体の姿を知ることができます。

 申義堂の成立は次のようです。

 申義堂は、文化年間(1804~18)高砂北本町に、姫路藩家老・河合寸翁の意見によって設立された町民子弟を対象とする教育施設で、藩からは維持運営費として25俵(10石)が支給せられていました。

 申義堂が文化年間の開設という点については、大方が一致しています。

    申義堂は、藩と高砂町の共同経営 

 申義堂は、どのような性格をもった教育施設だったのでしょう。

 いままでは、姫路藩の教育施設としていました。

 たしかに藩が一定の出資を行い、申義堂の維持運営費として25俵を給していす。

 しかし、『兵庫県教育史』は、「(申義堂の)費用は藩費私費相半す」と書いています。

 素朴に考えても藩からの25俵という額だけで、申義堂の運営と教授への俸給が賄えたのかと無理です。

 また、ある書に「(申義堂は)郷学なり」とあり、また藩主の視察の宛名が「大年寄(大蔵元)」であることなどは、そのことを検討する手がかりとなります。

 「郷学」といういい方は、領主が藩士のための藩校以外に、領内の庶民子弟の教育のために開設したものという意味で使われています。

 申義堂は、たんに領主側の意向によってできたのではなく、地域庶民の教育への志向があってはじめて実現されました。
 高砂には、学問文化を志向する動きが一定の蓄積がありました。

 寺子屋とは異なったより高度な学問所を望む動きがあり、それを受けて河合寸翁(姫路藩の家老)の建議が出されたとみるのが自然のようです。

 また、藩主の高砂神社・申義堂の視察の宛名が「大年寄蔵(大蔵元)」になっていることは、申義堂の管理運営責任主体が大年寄であったことを示しています。

 申義堂の運営は、町が中心となり、藩の共同運営というのが実状に近かったようです。

 申義堂は、藩と町の共同経営といいながら、その教育や運営・内容に対して藩の直接的な干渉はなかったようです。(no4527)

 *写真:再建された申義堂(十輪寺山門前より東へ50メートル)

◇きのう(7/22)の散歩(10.330歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(241) 近世の加印地域 高砂篇(20)・大蔵元(大年寄)

2018-07-22 07:05:27 | お爺さんが語る郷土の歴史

       大蔵元(大年寄)

  前号に続き大蔵元(大年寄)の話です。

  近世の高砂では、その商業を円滑に行うための組織として、17世紀半ばに大蔵元(蔵元)という制度がつくられました。

 これは一種の株仲間で、特に大蔵元は、高砂の特権商人によって形成されました。

 江戸時代の高砂の繁栄も、これら大蔵元の活動によるものでした。

 しかし、高砂では、これらの輸送を担当するのみで、それを材料にした手工業は興りませんでした。

 その点、製造業を中心にして、発展をとげた伊丹などとは対照的です。

 高砂は、もっぱら荷物の引き受け、保管、積出しをその業務とした商業の町でした。

 それらの仕事を引き受けた問屋商人は、一般的に「大蔵元」とよばれ、年貢米を取り扱うことため、藩からも特別な待遇を受けていました。

     大蔵元の役割

 加古川を下ってくる御城米、諸大名米、および諸荷物の運搬は、高砂港に所属する船に限定されていました。

 例外として、沖積み荷関しては自由な積み出しが認められていたようですが、 高砂港を出入りする諸荷物は大蔵元を通さず直接積こむことを禁止し、大蔵元問屋へ商業機能が集中されていました。

 これは、単に大蔵元を利するだけでなく、荷改め、抜け荷の防止の役割も果たしました。

 また、藩が大蔵元に荷受け独占の特権を付与したことは、川筋からの年貢米の品質検査を厳重にする点でも大きな役割を果たしました。

 特に、高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大蔵元(大年寄)役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。 

 *絵:三代岸本博高肖像(長沢蘆洲筆)

 ◇きのう(7/21)の散歩(10.921歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(240) 近世の加印地域 高砂篇(19)・町人の自治(高砂町)

2018-07-21 07:46:46 | お爺さんが語る郷土の歴史


          町人の自治(高砂町)

  高砂の商業活動はずいぶん盛んでした。その運営について少し説明しておきましょう。

  高砂に常駐する武士は川口御番所の7人、津留穀留御番所の2人、百間蔵の守衛2人とその他わずか27人に過ぎませんでした。

 高砂は、町人の町でした。

 それでは、高砂はどのような仕組で運営されていたのでしょうか。

 高砂町方の人口の大部分を占める商工業者や廻船業者、海業従事者が居住する町屋敷分は年貢免除地でした。

 高砂町方は、28町に町屋が建ち並ぶ市街地であり、約8.000人の人々が様々な経済活動を行っていた都市でした。

 この都市の行政は町人の自治によって運営されていました。

      大 年 寄(大蔵元)

 高砂町方の町人自治による都市行政の組織が史料的に明確になるのは宝暦5年(1755)のことでした。

 この年、高砂町は、白銀100枚の冥加金(税金)を毎年上納することになっていました。

 そして、高砂町には総会所が設置され、3人の大年寄(大蔵元)が出勤して「大小の諸公務支配」を行い、その指揮下にあって28町にはそれぞれ一人ずつ「小年寄(小蔵元)」と数人の5人組頭がいて、町ごとの運営にあたっていました。

 そして、これら自治機関が法制的に確立し、公認の役所としての総会所が設置されたのは宝暦5年(1755)でした。総会所は南本町に設置され、のち細工町に移転しています。

 また、大年寄は無給でしたが、文久3年(1863)になって姫賂藩から1人ずつに3人扶持が支給されることになりました。

 それは、大年寄の役職が藩の公的な組織として位置付けられたことを意味しています。

 文化6年(1809)から同10年と天保2年(1831)から明冶4年(1871)までの大年寄の在職者は『高砂市史(第二巻)』、p143にあります。

 また、大年寄3人と各町ごとに一人いる小年寄の中間に「構年寄」という役職者が8人いて、大年寄とともに高砂町政を担当しています。

 おそらく、高砂町の運営には、常に28人の小年寄が担当するより3~4町を代表する構年寄8人と大年寄3人で運営する方が効率的であったのでしょう。(no4525)

 *『高砂市史(第二巻)』参照

 *写真:大年寄であった岸本家の茶室の庭

 きのう(7/20)の散歩(12.676歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(239) 近世の加印地域 高砂篇(18)・一ツ橋領の木綿藩仲間と姫路藩の専売制度

2018-07-20 07:37:08 | お爺さんが語る郷土の歴史

    一ツ橋領の木綿藩仲間と姫路藩の専売制度

 余話としてお読みください。

 高砂・加古川地方の木綿栽培はさかんでした。

 加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそくもめん)」といいました。

 姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されました。

 一つは、姫路周辺の木綿・綿布で、国産木綿問屋をとおして、他は長束木綿問屋(加古川・高砂地方の木綿問屋)を通して行われたのです。

 姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でした。

 しかし、長束木綿問屋は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていませんでした。

 莫大な借金を抱える藩としても、江戸積みだけに頼るわけにはいけない事情もあったのです。

 藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。

 つまり、規格外の商品もできてしまいます。しかし、「規格外の商品は、江戸積みとして認めない」というのです。

 藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化五年(1808)、藩には73万石の借財があり、家老の河合寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布の姫路藩の専売にしました。

 さまざまな妨害がありました。

 特に、江戸直送には、大坂商人の妨害がありました。それまでの商の慣習を壊すのですから当然です。

 しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政六年(1823)江戸への木綿専売が幕府に認められました。

 これは、先に述べたように「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。

 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができました。

    今市・中島・曾根(一部)は、姫路藩にあらず

 一方、規格外の商品の大坂への積み出しも増えました。

 藩は、規格を守るように取締りを強めたのですが、取り締まれない事情があったのです。

 今市・中島・曾根(現:高砂市)と印南郡の一部(図参照)印南郡の一部は、一ツ橋領(天領)で姫路藩ではありません。

 姫路藩としても、天領の取り締まりはできません。

 そんな事情で、今市・中島・曾根と印南郡の一部藩の商人は姫路藩では認められない綿布なども取り扱い一儲けもしたといいます。(no4524)

 *図:延享4年(1747)一橋徳川領(『加古川市史・第二巻』より)

 きのう(7/19)の散歩(11.270歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(238) 近世の加印地域 高砂篇(17)・干鰯(ほしか)

2018-07-19 08:52:39 | お爺さんが語る郷土の歴史

            干鰯(ほしか)

 写真の高砂神社の玉垣(写真)をご覧ください。

 数多くの玉垣に、「干鰯仲」と刻まれています。

 その下に、欠落していますが、仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのでしょう。

 ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残しています。

 干鰯は、蒸して油を抜き、字のごとく鰯を干して、小さく砕いた肥料です。

 干鰯は、特に綿作の肥料として優れており、油粕と共に広く使われました。

 とりわけ、加古川・高砂地方にとって、干鰯は重要な意味を持っていました。

 なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地であり、木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要としました。

 そのため、干鰯屋は、大いに繁盛しました。

 明和5年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められています。

 当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もあったといいます。

 伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿の作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%でした。(no4523)

 *写真:高砂神社の玉垣:「干鰯仲(間)」と刻まれている。

 きのう(7/18)の散歩(11.704 歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(237) 近世の加印地域 高砂篇(16)・城下の木綿問屋は江戸積、高砂は大坂積

2018-07-18 10:19:58 | お爺さんが語る郷土の歴史

     飾磨・城下の木綿問屋は江戸積、高砂は大坂積

 長束木綿の大坂積の統制が強まったのは、天保7年(1836)のことで、木綿問屋・仲買を強力に専売制下に組みいれたためです。

 その結果、姫路木綿の生産地である加古・印南両郡の長束木綿問屋は30数軒に制限され、大坂積も大幅に制限され、大部分は飾磨津の江戸積仲間の手で江戸に送られました。

 弘化4年(1847)の長束江戸積仕法の改定により、大坂積はさらに制限は強められ、別府・寺家町(現:加古川市)、それに高砂に限定されました。

     木綿販売:高砂の木綿問屋は完敗

 この弘化4年の改定により、大坂積の数量は激減することになります。

 嘉永2年(1849)の長束木綿総取扱高は76万反ですが、そのうち、江戸積は60万反、大坂積は、約16万反に過ぎませんでした。

 これは、専売制を利用した姫路城下、飾磨の江戸積仲間と競合で、高砂の大坂積問屋は完敗となりました

 高砂の岸本吉兵衛も大坂積をみかぎり、江戸積仲間に加わりました。

 長束木綿問屋は姫路・飾磨の江戸積仲間の支配下に組み入れられたため、高砂問屋は、木綿の生産地が地元の加古川・高砂地方に関わらず集荷が困難になりました。

 その後、江戸積木綿は江戸市場の需要の限界と根強い大坂商人の巻き返しがありましたが、かつての繁栄は回復できませんでした。(no4522)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *絵図:姫路市天飾磨区天神の古い街並み

 きのう(7/17)の散歩(11.030歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(236) 近世の加印地域 高砂篇(15)・木綿の江戸積み激増

2018-07-17 08:00:20 | お爺さんが語る郷土の歴史

       木綿の江戸積み激増

  大坂へ出荷されていた木綿が大量に江戸へ送られるようになったのは、天保7年(1836)3月の長束木綿江戸積仕法(しほう:決まり)の成立がきっかけでした。

 長束木綿の江戸積について天保7年まで明確な仕法も会所(役所)もありませんでした。

 江戸積仕法によって、木綿の江戸積が奨励されたのですが、それは江戸積の奨励にすぎませんでした。

 この仕法の改定(天保7年8月)を境にして、江戸積木綿が激増し、天保11年10月から弘化4年(1847)までの6年間に加古郡・印南郡産出の物だけで、428万反強が江戸に出荷されました。

 文化7年以降、多くの姫路木綿の出荷先が、大坂から江戸へと変わったのです。

 木綿価格が大坂積に比べて引き上げられ、年々6万両もの売り上げがありました。

 他領の商人も大坂積を敬遠し、江戸積に転向するようになりました。

     続いた大坂積

 木綿の大坂積が禁止されていたわけではありません。

 特に、高砂から、たくさんの木綿が大坂へ出荷されています。

 高砂と別府(現:加古川市別府町)に大坂積の「荷物受取問屋(津出蔵元)」が存在していました。

 万延2年(1861)の頃の、高砂の「津出蔵元」は高砂の大蔵元・米屋清兵衛でした。

 しかし、これら問屋は、大坂への積出を自由にできたわけではありせん。

 御国産木綿会所の下請けである長束木綿問屋は、加古・印南の長束木綿をとりしまりました。

津出蔵元は、「長束木綿会所」の支配を受けていました。(no4521)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

*挿絵:江戸積み(菱垣廻船で)

きのう(7/16)の散歩(11.234歩)

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