ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(344):北山の歴史(32)・入ヶ池郷

2010-10-24 09:04:39 |  ・稲美町北山

『稲美町史』(p181)の「三、草谷郷をめぐって」の一部を読んでみます。

  池郷(いけごう)

Ded4cf_2  「・・・江戸時代には同じ川筋、あるいは水源を同じくする流れによって溜池をつくり、用水をとる村々を川郷(かわごう)といっている。

 一つの池を大きな用水源とする村々を池郷(いけごう)というのと同じである・・・

太字のカ所に注目ください。

つまり、池郷は、ある池の水を共同利用する村々(地区)のことです。

入ヶ池・長府池・満溜池の水は、北山村だけが単独で利用したのではありません。

すでに述べたように、国岡村は入ヵ池から水を取り入れていました。

当然、国岡村と北山村は、入ヶ池の水の共同利用に際して、協力しなければなりません。

ですから、国岡村と北山村は同じ池郷です。

また、長府池・満溜池の水は、菊徳(中村)・下沢(中村)・金守(北山)も使用しています。

ですから、北山・国岡・菊徳・下沢・金守は同じ池郷として、入ヶ池、長府池、満溜池、そして水路の維持管理は共同して行いました。

これら5つの集落(地区)は、「入ヶ池郷」と呼ばれました。

現在、入ヶ池郷の内、緑に彩色したカ所の池および水路の管理は「入ヶ池郷土地改良区」が行っています。

赤く彩色した地区は北山水利が単独で行っています。

*お知らせ*

今回で「北山の歴史」をしばらくお休みします。11月から「稲美町探訪」(旧加古新村編)を予定しています。

その間、「稲美町探訪」は、しばらくお休みして、英文「A History of Kakogawa City」を掲載します。

今回は、第一章・加古川市の古代編です。

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稲美町探訪(343):北山の歴史(31)・北山村の綿作

2010-10-23 07:48:48 |  ・稲美町北山

  綿 作

9faeb90f 姫路領内では文化年間(180417)以来、畑地に綿の栽培が奨励されていました。北山村でも木綿畑がみられました。

この綿栽培は、同時に木綿織等の副業をもたらしましたから、綿は米に匹敵する大切な作物でした。

江戸時代の北山村の夜を想像してください。

薄暗い路地を歩いていると、どの家からもほのかな光が洩れています。

そして、コトン・コトンというリズミカルな機織りの音が遅くまで聞こえています・・・

   畑地の80%で綿作

北山村の畑地の綿栽培は、明治45月の田畑の作つけ状況は『稲美町史』(p419)から知ることができます。

これによると、北山村の綿の作つけ状況は、水田29.67haで畑は18.85haでした。

畑の18.85haのうち木綿が14.92ha、大豆その他が3.92haでした。

この時期すでに輸入綿の影響を受け始めているにもかかわらず、実に畑作物の約80%に綿が栽培されていました。

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稲美町探訪(342):北山の歴史(30)・早稲、中稲

2010-10-22 09:46:54 |  ・稲美町北山

  灌漑の関係で早稲・中稲が中心 

稲の栽培について、北山村の『元文2年(1737)明細帳』によれば、「五月(旧暦)節より同中迄に植申候」とあり、5月の中旬には田植えを終えていたようです。

そして、次のような品種が栽培されていました。

  早稲・・・白川、北国、こんこせん、おんしゅ餅

  中稲・・・くした、ちんこ、かはち餅

  晩稲・・・あかけ、まんほ、せんこく、せんしゅう

このうち、灌漑の関係でほとんどが早稲・中稲の栽培でした。

   現在は麦の植えつけの関係!

Inamimachi4_053 最近、よく稲美町の散策をします。

私の住んでいる加古川市(尾上町)あたりでは、稲刈りが始まっていない時期に、稲美町の多くの地区では稲刈りが始まっています。

「稲美町では、水が少ないという地形の関係かな」と思っていたのですが、現在では東播用水から水はじゅうぶんに供給され、水の心配はなくなりました。

農家の方に確かめてみると「稲美町は、多くの地区で他よりも稲刈りが若干速いのは、麦の植えつけとそれに伴う品種の関係です」ということでした。

*写真は稲ではありません。今年の春に撮った稲美町(中村周辺)の麦の風景です。

 

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稲美町探訪(341):北山の歴史(29)・北山の年貢率

2010-10-21 09:59:31 |  ・稲美町北山

   北山村の年貢率:45

332414c4 『稲美町史』は、北山村の元文2年(1737)の明細帳から、村の稲作を次のように紹介しています。

栽培品種は別に紹介します。

灌漑の関係からか、概して早中稲の栽培が多かったようです。

その頃の反収は、降雨に恵まれた年は12斗、ないし15斗の収穫が得られたようですが、ふつうは8斗から1石程度にすぎませんでした。

高価な干鰯(ほしか)代を差し引くと、手元にはいくらも残らなかったようです。

姫路藩では、毎年8月(旧暦)ごろに、その年の出来高を測り、年貢率を決める検見(けみ)が行われました。

北山村の年貢率は、「本田畑・年貢率4ッ5分、新田畑・3ッ9分」と、ずいぶん厳しかったようです。

(年貢率4ッ5分・・・収穫の4割5分が税金という意味)

くわえて、印南野台地では連年のように干ばつが続き、村民の生活は窮乏していました。

    北山村にも救助米

百姓の生活のようすを『稲美町史』(p417)でみてみましょう。

北山村の場合、安政6年(1859)から明治4年(1871)の年貢高と救助米をあげています。

*史料:『被下米書上帳』(明治57月)

この史料によると、明治4年の廃藩置県まで、百姓の生活を救うために藩から救助米が支給されています。

なお当時、北山村はこの地方では比較的水に恵まれていた地域でした。

慢性的な水不足に悩まされていた母里地区の被害は、いかに大きなものであったのかが想像されます。

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稲美町探訪(340):北山の歴史(28)・重ね池

2010-10-20 08:00:46 |  ・稲美町北山

22af63da 入ヶ池から北山の真楽寺(しんぎょうじ)あたりまでは傾斜地となっています。

そのままでは、水は一挙に曇川となって流れ下ってしまいます。

そのため、北山村のはじまりは、まず入ヶ池を造り、水を確保することにはじまりました。

かなり古い時代(伝承では飛鳥時代)のことのようです。

しかし、江戸時代の初め日本の農業は大開発時代を迎えました。

入ヶ池近辺も同じで、多くの新田村が誕生しました。

たちまち、水は不足するようになりました。

そこで、入ヶ池から流れ下る谷筋に貯水池として長府池(ちょうふいけ)が造られました。

それでも、水不足は深刻でした。

しかし、それ以上のため池は造ることができません。

 水がありません。

   重ね池の風景

094 明治時代になり、淡河川(おうごがわ)疏水の完成に伴い長府池の西隣に満溜池が造られました。

挿絵は、山間を流れる谷筋をせき止めて造った溜池の絵です。

北山の長府池と満溜池の場合は、この絵ほど急斜面ではありませんが、これら二つの池は、長府池が一段高く、満溜池が低く階段状になっています。

このような階段状の池を「重ね池」と呼んでいます。

写真の左(東)側が長府池で右(西)側が満溜池です。

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稲美町探訪(338):北山の歴史(27)・彼岸花

2010-10-19 00:17:43 |  ・稲美町北山

今年の春でした。

北山を流れる曇川(くもりがわ)の土手の桜に歓声をあげていると、ある人が「秋の彼岸花も素晴らしいですよ」と教えてくださいました。

今年は暑さのためか、少し期待はずれでしたが川べりに咲く彼岸花を見ながら散策しました。

今回は、どの地域にも共通する彼岸花の話です。

  彼岸花は、飢きんに備えての最後の食料

Hirokazu2_020_2 彼岸のころの墓地に、そしてあぜ道に姿を現す真っ赤な彼岸花は、彼岸そして血の色を連想するのか忌み嫌われことが多いようです。

また、彼岸花は毒だから触れてはいけないともいわれています。

事実、彼岸花には毒があります。

彼岸花について調べてみます。

彼岸花は、飢きんの時のために植えられたのです。

江戸時代の農民は、飢きんになると毒以外のものは何でも食べて命をつなぎました。

天明の飢きんでは、幕府の農民にあてた御触書(おふれがき)には、ワラの料理法が細かく書かれています。

そのワラを食べつくしたら、いよいよ最後の備えが彼岸花でした。

彼岸花の毒は、水にさらすと簡単に除くことができます。

そして、デンプン質が豊富で食料として適していました。

にもかかわらず、最後の備えとされたのは、彼岸花の繁殖力が弱く、それほどひどい飢きんでない時に食べると、いざという時になくなってしまいます。

ですから、「彼岸花は毒だ」と言い伝えて、ぎりぎりまで手をつけないようにしたのです。

*写真:曇川(北山の東を流れる)の土手に咲く彼岸花

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稲美町探訪(337)北山の歴史(26)・入ヶ池研究⑨、入ヶ池改修工事

2010-10-11 10:54:58 |  ・稲美町北山
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6e3f188c 県下の多くのため池は古い時代に造られ、堤・取水施設等の老朽化が起きていたばかりでなく、洪水吐の欠陥もみられ、集中豪雨の際には安心できない状態となっていました。<o:p></o:p>

こうした老朽化した「ため池」の決壊を未然に防止するために、兵庫県では、昭和28年度から「老朽ため池補強事業」を制度化させ、順次改修工事が行われました。<o:p></o:p>

この事業で対象になったのは、受益面積が40ヘクタール以上、①堤の高さ10メートル以上、または貯水量10万平方メートル以上、②総事業費が5000万円以上、③決壊による予想被害額5000万円以上、さらに関係住民100名以上の生命に危険が予想される池でした。<o:p></o:p>

この工事は国60%・県20%%・地元20%の負担で行われました。<o:p></o:p>

 入ヶ池の改修工事<o:p></o:p>

F4ea3127_2 入ヶ池の堤防はいちじるしく侵食され、取水施設その他の諸施設も老朽化し、多量の漏水がみられました。<o:p></o:p>

洪水吐の欠陥もあり、集中豪雨の際には安心できない状態となっていました。<o:p></o:p>

そのため、入ヶ池の改修工事は、昭和5256年に工事に実施されました。<o:p></o:p>

その受益面積は、80ha・受益戸数は255戸でした。<o:p></o:p>

稲美町では、入ヶ池のほかに長府池、満溜池・河原山池の改修工事も行われています。<o:p></o:p>

入ヶ池の改修記念碑は藤原霊社と分切石と一緒に池の北西隅にあります。<o:p></o:p>

*『入ヶ池郷土地改良区誌』参照<o:p></o:p>

写真:改修前の旧底樋<o:p></o:p>

<お願い><o:p></o:p>

改修前の入ヶ池の写真をお持ちの方はご一報ください。<o:p></o:p>

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稲美町探訪(336):北山の歴史(25)・入ヶ池研究⑧、渡来人の技術

2010-10-10 20:39:41 |  ・稲美町北山
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   光大衛の夢<o:p></o:p>

 D9aff057 入ヶ池の伝承の一部を復習します。<o:p></o:p>

 ・・・・<o:p></o:p>

藤原弥吉四郎の孫の光大衛(こうだいえ)という人が夢の中で不思議な僧に出会いました。<o:p></o:p>

その僧が言うのには「汝の父は土地の測量をして川の上流の谷をせき止め、池を築いたが成功しなかった。<o:p></o:p>

これは上流からの水の勢いが強いからで、たといどんな堤を築いても成功はおぼつかないだろう。<o:p></o:p>

特別な工夫をしなさい。<o:p></o:p>

それは、堤を六枚屏風の形にし、池の北西の堤にうてみ(排水溝)をつくって水を越えさせるがよい。<o:p></o:p>

工事中に一人の女が通りかかるだろうから、その女を捕らえて人柱にすれば池は完全に仕上がるだろう・・・」と言うと、僧の姿はスウット消えました。<o:p></o:p>

今回は、この女(お入)の話は目をつぶってください。<o:p></o:p>

   渡来人の技術か?<o:p></o:p>

「入ヶ池の水の勢が最もかかる堤の部分を六枚の屏風の形にする」という話に注目します。<o:p></o:p>

堤の構造を六枚の屏風の形にし、水圧を制御することを考えています。これは恐らく当時の渡来人の手による築堤法を暗示しているようです。<o:p></o:p>

 石見完次氏は『東播磨の民俗』(神戸新聞出版センター)で次のように書かれています。(p256<o:p></o:p>

「(入ヶ池の)堤を屏風風に築く技術は、恐らく当時のいわゆる渡来人の手になったものであろう。<o:p></o:p>

石守池(加古川市神野町)にもこの築堤砲を採用した観があり、志方の七ッ池にも見られと聞くが、これは防波の工法である。<o:p></o:p>

このかたちが蛇行の態に似ているので、蛇女の説話が生まれたのであろう・・・」<o:p></o:p>

同書には、改修前の入が池の蛇行形態の堤防の写真があります。<o:p></o:p>

この写真をお借りします。入ヶ池の古い写真をお持ちの方はお知らせください。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

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稲美町探訪(335):北山の歴史(24)・入ヶ池研究⑦、藤原霊社

2010-10-07 10:15:56 |  ・稲美町北山

 北山の川上真楽寺(しんぎょうじ)縁起のはじめの部分に「入ヶ池」の開発にあたった藤原弥吉四郎(やきちしろう)とその孫・光大衛(みつだいえ)の話があります。

   藤原弥吉四郎とその孫・光大衛の伝承

Hirokazu_184 都が明日香にあった644年、藤原弥吉四郎(やきちしろう)が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。

    「蛸草村」は現在の蛸草(稲美町)ではありません。天満大池の水を共有していた蛸草六ヶ村(中村・森安村・六分一村・国安村・北山村・岡村)を含む地域で、蛸草郷とよばれていた地域のことです。

その老人は「この野を開ければ必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・」と言い残して姿を消しました。

弥吉四郎は、天皇にそのことを申し上げ、この地の開拓にとりかかりました。

ある年でした。夏の日照が続き、水が乏しくなりました。

毎年、水が足りなくなるので、前年から上流の谷に水を貯める池の築造にかかっていました。

が、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまったのです。

十数年、池はそのままになっていました。

ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる光大衛(みつだいえ)が夢で不思議な僧に出会いました。

その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。

これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。

堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。

そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」

村人を集めて池の築造がはじまりました。

人柱になった「お入さん」の話は、「入が池の伝承」をご覧ください。

伝承ですが、入ヶ池をつくった藤原弥吉四郎と、その孫・光大衛をお祭りする社(藤原霊社)が、入ヶ池の改修記念碑の隣にあります。

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稲美町探訪(334):北山の歴史(23)・入ヶ池研究⑥、ここから北山の歴史は始まった

2010-10-06 00:10:05 |  ・稲美町北山

 ここから北山集落の歴史は始まった

Hirokazu2_004  今、入ヶ池の東北の隅にいます。

住宅地図を持って立っています。

この場所が、表題にある「ここ」です。

ここは、野寺と加古(五軒屋)、北山が接している場所です。

そして、近くの対岸は蛸草です。

入ヶ池は、すっぽりと北山に属しています。

つまり、北山(村)は、ここから真楽寺(しんぎょうじ)のある場所まで、まるでゴムひもを伸ばしたような形の集落です。

このあたりの事情は「稲美町探訪(262)」をご覧ください。

   

水は入ヵ池に集まる

写真は、その場所から東を撮影しています。

写真ではわかりにくいのですが、南と北が少し高い地形をつくっています。

そして、東は雌岡山に向かって、徐々に高くなっていることが分かります。

つまり、印南野台地の水は、雌岡山辺りから天満大池の方向へ、他は草谷川へ、もう一つは私がいま立っているところへ分かれて流れてきます。

お近くへ行かれた時、その地形をお確かめください。

「ここに池をつくり村に水を引いて、そして稲作をはじめよう・・・」と考えるのは、自然であったと思われます。

伝承では、ここに「入ヶ池」をつくり造り、北山村が出来たのは、飛鳥時代にまでさかのぼるといわれていますが、若干疑問がありそうです。

入ヶ池が造られ北山村が誕生したのは、平安時代から鎌倉時代ではないかと想像されます。

それにしても、北山村は歴史の古い集落です。

その時は、加古(新村)・蛸草(新村)、そして国岡新村はありません。

草谷村の村域はこの辺りまで伸びていません。

ここから、北山集落までは、誰にもじゃまされることなく独占的に開拓的進めることができました。

ともかく、私の今いる場所から北山村の歴史は始まりました。

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稲美町探訪(333):北山の歴史(22)・入ヶ池研究⑤、北山村の要求

2010-10-05 09:59:34 |  ・稲美町北山

きょうの「稲美町探訪」は、「稲美町探訪(267):国岡の歴史(6)」とほとんど内容が重なります。

「入ヶ池研究」として、まとめてみました。

  条件闘争

Hirokazu_180 すでに述べたように、国岡新村の開発は地形の関係上、北山集落所有の入ヶ池に遮断されており、直接、国岡新村の池に水を流すことができません。 

どうしても、いったん「入ヶ池」に貯蔵することが必要でした。 

水利慣行を変更することは、ほとんど不可能でした。 

しかし、藩の権力(命令)により、国岡新村は風呂谷流の水の30%を「入ヶ池」に集め、その水を千波池(せんばいけ)に移し利用できる命令があり実現しました。 

姫路藩の命令とは言え、北山村にとって、すんなり認めるわけにはいきません。 

<msnctyst address="北山村" addresslist="30:北山村;" w:st="on"></msnctyst>

 北山村は、国岡新村との条件闘争になりました。 

国岡土地改良区に残る「にうか池證文之事」(寛文11年・1671)に記録が残されています。 

*「にうか池」は「入ヶ池」のこと   

   国岡新村への要求

    入ヶ池は古来、北山村所有の池であったが国岡新村の開発のために小さかった池の堤防を3尺高く築く。 

    入ヶ池の面積を拡大するために、国岡新村は野寺村の土地8反8畝14歩を買い上げる。 

    「入ヶ池」のもとの貯水量を示すところに分切石(ぶきりいし)をすえ、分切石より上の水を国岡新村と北山村の2村の間で5分5分に分水する。

(分切石については、前号をご覧ください) 

そして、この文書には、内容を確実にするために、契約書の裏に2名の藩の奉行の署名があります。 

こうして、国岡新村は、風呂谷地区の水を千波池へ取り入れることができるようになりました。 

藩の命令があったというものの、古くからの水慣行の変更には、大変な難しさがありました。

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稲美町探訪(332):北山の歴史(21)・入ヶ池研究④、分切石

2010-10-04 08:09:29 |  ・稲美町北山

Hirokazu_178 「四百間溝」からの水だけでは、たちまち水不足になりました。

そこで新たに、延宝8年(16806月、草谷川から加古新村・国岡新村に水を引くという画期的な計画がたてられました。これが大溝用水です。

「大溝用水」については「稲美町探訪(19)・大溝用水」をご覧ください。

先に述べたように、国岡新村は地形の関係上、直接自分の村に水を引くことのできません。

やむなく北山村の「入が池」を改修し、この溜池を経由して自分の村に水を引くことにしました。

国岡新村は、「入が池」の堤を高くする工事をしました。

「入が池」の水をめぐり、二村は取り決めをしましたが、水をめぐり国岡新村と北山村の水争いは絶えませんでした。

そこで、入ヶ池に分切石(ぶきりいし)が据えられました。

分切石とは、元の池の水の容量を示すところに据えた目印になる石のことです。

この石より下の水は北山村のもの、この石より上の水は国岡新村と北山村が5分5分に水を分けることが取り決められました。

この分切石について『稲美町史』は「・・・このたびの池の改修工事の間、昭和532月、南堤中樋付近より分切石(写真)および敷石1個が発掘された。

これは享保7年(17226月の古文書によれば、当時の18個、敷石9個を27名の村民が下西条(現在の加古川市神野町西条)より運び来って据えたという。その中の各一個であろうと推定される・・・」と書いていいます。

そして、後に新たな古文書の発見により「・・・大石のため運ぶのが難しく石は2つに変更した・・・」と補足しています。

入が池の分切石(ぶきりいし)は、享保7年(1722)頃のものと推定されています。 

「享保七寅年 御願申 忌之分切」と刻まれています。

(銘の解説「稲美町史」p781

これは「御願い申す、これを忌みたまえ 分切」と読むのかと思われる。

分切石が流されるよう水神に祈る意味で書かれたかと思われる。

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稲美町探訪(331):北山の歴史(20)・入ヶ池研究③、入ヶ池経由国岡新村へ

2010-10-03 07:56:23 |  ・稲美町北山

四百間溝から30%を入ヶ池 へ、そして国岡新村へ

F277a41e 国岡新村の開拓は、加古新村と共同して開発をおこないました。 

新田をつくることは、水を確保することと同じです。 

国岡新村では、千波池、新池(明治期に棒池と改称)、山城池が新しく造られ、城ノ池の改修を行いました。 

そのため、加古新村・国岡新村は、藩に願い出て風呂谷池(草谷)の水路の改修を行いました。

この溝は「四百間溝(しひゃっけんみぞ)と呼ばれました。

(草谷の墓地の近くから野畑池にかけて、「四百間溝」の跡がわずかに残っています)

しかし、新田の開発が進むと、たちまち灌漑用水が不足するようになりました。 

加古新村・国岡新村二村は藩に願い出て、用水源である風呂谷池溜の改修を行いました。 

風呂谷池から引いた四百間溝の水の30%は北山村所有の「入ケ池」を経て、国岡新村へ、70%は加古新村へ流されることになりました。 

この水の溝普請、維持管理にかかわる費用等は国岡新村と加古新村が3:7の割合で負担となりました。 

これらを定めた国岡新村と加古新村の間の「分水契約書(寛文11年・1671)」の分水契約書が残っています。 

分水契約書は「相究取替シ申證文之事」で、『稲美町史』(p165)に紹介されています。 

(参考) 

解読文(一部) 

・・・()・・・ 

一、 流水 七分 加古新村江 

一、 同  三分 国岡新村江  

                 但シ、溝普請又ハ諸入用等有之候ハゝ、於向後ニ加古新村七分 

    国岡新村より三分仕配可申定、 

  ・・・()・・・

*図:分水契約書(古文書の赤線に注目ください)

▼『稲美町史』では「相究取替シ申證文之事」の説明に「大溝分水契約書(藤本英二氏蔵)としていますが、「大溝用水の分水契約」ではありません。

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稲美町探訪(330)・北山の歴史(19)・入ヶ池研究②、国岡新村の水

2010-10-02 09:01:00 |  ・稲美町北山

◇きょうのブログは「北山の歴史(12)・国岡新村との水争い」と重なります。復習としてお読みください(挿絵も同じ)◇

Ec25e250 江戸時代以前、加古新村も国岡新村も、まだ誕生していません。 

北山集落周辺の水は、北山村が独占的に使うことができました。 

しかし、江戸時代の初期は、戦国・織豊時代における土木技術の発達により、姫路藩では水利改良や新田開発がさかんに行われるようになりました。 

    水が少なくなる  

北山村の北の加古新村は、万治元年(1658)に開発が始まりました。 

東の国岡新村は、寛文2(1662)に誕生しました。 

北山村の地形は、北と東に高く、水は北からそして東から集まりました。 

が、北には加古新村が、東には国岡新村ができると、当然北山村への水は少なくなります。 

北山村にとっては、近隣の集落の誕生は死活問題となりました。 

特に、国岡新村の開発は、大きな争いの種となりました。 

国岡新村の開拓には地形的に「入ヶ池」を経由しなければ水がない地形でした。

姫路藩は、北山村の「入ヶ池」の水の一部を国岡新村に分けることを命令しました。 

北山村としても藩の命令となれば反対するわけには行きません。 

しかし、すんなり受け入れることもできません。 

そのため、北山村としてはで国岡新村に対し条件闘争を展開することになります。 

国岡新村との水争い

国岡新村は姫路藩の命令で、北山村の所有の「入が池」から、用水の一部を得ることができるようになりました。

このように、新しい水利秩序が成立しても、問題が片付いたわけではありません。

村にとって水は死活問題です。

国岡新村と北山村の間では、しばしば「水争い」がおきました。

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稲美町探訪(329):北山の歴史(18)・入ヶ池研究①、呼称について

2010-10-01 10:49:42 |  ・稲美町北山

北山の池、「入ヶ池」の研究をします。

きょうは、その1回で「入ヶ池」の呼称について考えてみます。

「入ヶ池」の呼称については今のところ、中嶋説・石見説の2説があります。

<中嶋信太郎説>

5cff5b8b    古代日本語では「之」は「が」と発音

古文書に「入之池」と書かれているのは「入の池」ではなく、このままで「入が池」と読みました。

「之」は、現代では助詞として連体助詞の「の」と読みますが、古代では連体助詞しては「が」を用いるのが普通でした。

したがって、「入之池」は「入の池」とは読まなかったと思います。

現代風に書けば「入が池」「入ヶ池」となり、「入の池」というのと同じ意味でした。

*「入之池由来記について(五)」(いなみ野文華・52)より

 <石見完次説> 

   入は鳰(にお)の略字か

他の説は、蛇女「おにゅう」の名をとって「入の池」としたというが、鳰(にお)の転訛であると考えられます。

入は鳰の略字として用いられたものです。

したがって、もと「入之池」は「入の池」と読みました。

*『東播磨の民俗』(石見完次著)より

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