加古川市が誇る江戸時代の儒学者・玉田黙翁を紹介します。
失礼な言い方ですが、かつて野尻は黙翁のような大学者を輩出したのが不思議に思えるほどの田舎でした。
昭和30年前以前は、東志方町細工所の入り口から小野へ抜けるつづら折りの道が、村へ文化の香りを運ぶただ一つの道でした。
今日のブログは「志方町を歩く(130)」の続きとしてお読みください。
黙翁の祖父・父の話です。
玉田修斉(黙翁の祖父)
野尻は、玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。
寛文二年(1662)までの18年間(それ以上かもしれません)をかけ開墾した村です。
修斉は、細工所玉田家の祖・玉田正之の孫にあたり、寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。
開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれています。
修斉は元禄5年、野尻新村に小さな家を建て隠居しました。
そして、同12年、79才の生涯を野尻新田で閉じました。
まさに、野尻の開拓にささげた生涯でした。
*写真:玉田修斉の墓碑
玉田義道(黙翁の父)
修斉の後を継いだのは玉田義道です。後に新左衛門といいました。
修斉は、彼を医者として、学者として立派な人物に育てようとしたようです。
義道は、父の期待どうりに育ちました。
早くから京都に上り、儒学は山崎闇斎の門下生について学びました。
郷里に帰ってからは父の開拓事業を助け、医術にもすぐれ、百姓の治療もおこないました。
小田原藩から、大庄屋を申しつけられました。
義道は、寛文8年10月4日生まれ、寛保2年8月9日に亡くなりました。
マラリヤであったそうです。75才でした。
元禄10年(1697)、義道の2男として黙翁は生まれました。