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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(25):光念寺

2013-02-28 07:29:11 |  ・加古川100選

   光念寺(こうねんじ)     *加古川町寺家町

012光念寺は『わがまち加古川60選』に選ばれ、江戸時代の俳人・松岡世蘿(まつおかせいら)等を紹介している。

それらの説明は他に譲り、ここでは、光念寺に眠る「鳥尾小弥太」を紹介したい。

     コレラ大流行 

鳥尾小弥太については『ひょうご維新列伝(一坂太郎著)』(神戸新聞総合出版センター)を引用させていただいた。

・・・・・

安政五年(1858)、幕府は日米修好通称条約をむすんだ。

調印から一年後、横浜、長崎、箱館港が開かれて貿易が始まったが、物価高騰等さまさまざまな問題がおきた。

世の尊王撲夷論者たちは、激しく幕府を非難した。

しかも、安政五年夏には、外国船が持ち込んだコレラが発生し、七月に江戸へ入って猛威をふるった。

コレラは、激しい下痢と高熱をともなう急性伝染病で、インドで起こり、ヨーロッパに広がり、日本には文政五(1822)年、長崎から人ってきたとされている。

死亡する確率が高いことから「コロリ」と呼ばれ、恐れられた。

江戸でのコレラの死者数は、安政五年だけで、二万八千余人とも、十二万三千人ともいわれ、正確な数字はよく分からない。

そしてコレラは、なんといっても西洋から入った病気だったため、攘夷熱に油を注ぐことになったのである。

    小弥太、奇兵隊で活躍

017 (本名は中村鳳輔であるが、幕末、鳥尾小弥太の名で活躍する)

安政六年(1859)六月、長州藩主世子(若殿)は、江戸から萩へ帰国する途、これに従っていた藩士中村宇一右衛門は、道中でコレラにかかり、加古川の旅館で数日療養したが、亡くなった。      .

宇一右衛門は「江戸に子どもを残している。そのほかは何も気にかかることはない」と言い残して亡くなり光念寺に葬られた。

江戸に十三才になる長男の鳳輔(ほうすけ)を残していた。

成長した鳳輔は、高杉晋作の結成した奇兵隊に参加し、鳳輔は小弥太の名で外国艦隊相手に奮戦した。        .

維新後、小弥太は陸軍中将、貴族院議員などを務め、子爵に列せられた。

ある日、小弥太は父の面影を偲ぶため、東京から加古川を訪れる。

そして、父の最期を看取った旅館の女房という老婦人に会った。彼女は、父について感慨深げに語ったという。

話を聞いた小弥太は涙を流がし、自分も没したら加古川光念寺の父の墓に葬るよう遺言した。

明治三十八年(1905)年四月十三日、58才で没した小弥太の墓は、希望どおり光念寺に葬られた。

小弥太父子の墓は、「南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ二㍍程の塚がそれである。

ところが、昭和40年代に塚は壊され、現在墓碑は無縁仏の中にある。

無縁仏のいちばん高い所にある「南無阿弥陀仏」とあるのが小弥太父子の墓碑である。

光念寺には小弥太の位牌や肖像画等が残されている。

*写真上:光念寺

 写真下:無縁仏にある小弥太父子の墓碑(一番上の「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓碑)

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コーヒーブレイク:きょうで2000号に

2013-02-27 07:40:51 |  ・まち歩き

  「ひろかずのブログ」が2000号になりました

2000きょうで「ひろかずのブログ」が2000号になりました。

厳密にいうと、そうはなっていません。

最近は、既に書いた二つの記事を一つにして紹介したり、シリーズで書くことが多くなりましたので、かつて書いた記事を再掲したりしています。

でも、とにかく2000号です。

この間にいろいろありました。一番うれしかったことは、昨年、稲美町の国岡が開村350年になり、地区の歴史を纏めたいという話があり、「ひろかずのブログ」をもとに『国岡開村350年記念誌・国岡の歴史』をまとめることができました。そして地区1200戸に配布していただきました。

こんな活動が、他の地区でも続きそうです。

今、加古川のある地区の歴史を纏めています。6月に発刊の予定です。

それが終われば、ほかの地域からも冊子づくりのお話がありそうです。

自分の住んでいる地域を知りたいと言う人が最近増えているように思います。

「チョットだけ協力できているかな・・・」と、一人嬉しがっています。

     たくさんの読者ができました

「ひろかずのブログ」を始めた2006年の頃は、一日に10~20のアクセスでしたが、最近は、平均して約400のアクセスがあります。まだ増えそうです。

こうなったらやめられません。

つかれて、発刊を休んだ日には「なぜか忘れ物」をした気分になります。旅行・病気等で発刊できない日以外は、「(私の)生きている証」として続けようと思っています。

    3000号まで続きそうです

         お付き合いください

いままで、訪ねた地域は加古川市各町と稲美町です。

播磨町をまだ訪ねていません。

いまのシリーズ(「かこがわ100選)」を終えたら、播磨町の歴史散策に出かけようとひそかに計画しています。そうすると。3000号までは続きそうです。当分、遊べそうです。

もうしばらく、押し売りをしますのでお付き合いください。

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かこがわ100選(24):行者塚古墳

2013-02-26 09:15:17 |  ・加古川100選

       行者塚古墳                *山手

 027 行者塚古墳(ぎょうじゃづかこふん)は、加古川左岸の丘陵に築かれた前方後円墳である。

 かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していたが、そのほとんどは昭和38(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまった。

 今は、行者塚・人塚・尼塚が残るのみである。

 ここは、昭和48(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定を受けた。

 行者塚の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにした。

 行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルである。

朝鮮南部とのつながり

 行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘された。

 そのうち、帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられている。

Photo  中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられた。

 その他、多くの種類の遺物がある。巴型銅器は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されている。

 それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられている。

 そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されているが、それらは朝鮮半島南部のものと思われる。

 つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルである。

 それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物であろうか。

    加羅への援軍

古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけている。

 以下は、素人の推測として読んで欲しい。

5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っている。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていた。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深い。

 加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)である。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのではないか。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助とも考えられる。

 そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのであるが・・・

  *写真上:西造り出し部の埴輪(デプリカ)、背景は行者塚古墳野後円部

  * 〃下:出土の帯金具

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かこがわ100選(23):投松

2013-02-25 08:34:06 |  ・加古川100選

投松(なげまつ)           *志方町大沢

 志方町には「投松」という地名が二ヵ所ある。

一つは、志方町から加古川市の平荘に抜ける東西の道と、高砂市から北條市への南北の道が交わるところにある集落である。

ここの集落は「投松」と書いて「ねじまつ」と読む。

こんかい紹介したい「松(写真)は、東志方町大沢の「投松」にある。ここの集落は「なげまつ」と発音する。

 ややこしい。

     投 松

015大沢の投松の集落の大師堂には枯れた大きな松が保存してある。 

この松は、昔、高さが八丈、地上五尺で測ったら周囲が一丈五尺の大樹であった。

そして、樹齢は1200年あまりという。(一丈:3.03メートル)

大師堂には、「わがまちかこがわ60選」として、この松の説明がある。一部を読んでみたい。

「県内の多くの寺院に開基伝説を持つ法道仙人が一乗寺(加西市)から投げた松といわれる“投げ松”は神木として祭られています。・・・」

つまり、法華山の開山の時、法道仙人(ほうどうせんにん)が小松を引き抜き、山越しに投げたのがこの地に落ち、その松が根づき、すくすく伸びたのがこの大師堂の大きな松であるという。

集落の名前・投松もこの松の伝承にちなんでいる。

この松を撮影に出かけました時、ときどき、この松にお参りしておられる「おばさん」が、ちょうど掃除に来られ、鍵を開けてくださった。

なるほど松は、圧倒的な迫力を持っている。

おばさんは「この松は昇り竜の形をしていますねん・・・」と教えてくださった。

なるほど、松の先がぐっと伸びて、確かに竜に見える。

この松が生きていた時は、さぞ見事だったと想像されるが、おしいことに大正初期に枯れてしまったそうである。

<補足> 

以下を補足としておきます。 

上記の「投松」の話は面白いのだが、地名研究家は、大沢の「投松」を次のように考えておられる。

石見完次氏の『古い地名新釈・加古川おもしろ誌』より引用させていただきたい。

・・・投松は『加古川市史』に載せた古地図にあるように、抛町(なげまち)と記載されているのが本名であろう。「なげまち」とは『薙ぎ町』で柴草などを薙払って焼跡に種をまく畑農法をやっていたことを物語る。・・・

「科学としての歴史」は、ときどき夢を壊すものである。

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かこがわ100選(22):妙正寺

2013-02-24 08:22:22 |  ・加古川100選

  妙 正 寺             *志方町横大路

006先日、ある用事でS氏と、志方町横大路の妙正寺を訪ねた。

 S氏は、山門()建物を見て、「鐘楼かな?」という。でも、鐘楼は、山門の西にある。住職に確かめてみると、太鼓堂であるとのこと。

 この近辺で、太鼓堂のある寺は珍しい。「かこがわ100選」に入れさせていただいた。

この太鼓堂について、礒野道子さんが『志方郷(13)』に書かれているのでお借りした。(一部を省略)

   太鼓堂のある寺

山門のすぐ東側に太鼓堂はある。

  瓦屋根の上に、太鼓を納めたやぐらがそびえる。

・・・・一階の入り口から入ると、右側の壁に沿うて、胴縁が六段程三十センチおきに打ち付けてある。これを足がかりにして二階へよじのぼると、思ったより明るい。

秀吉公ゆかりの品と伝えられる太鼓は、その中央に吊り下げてある。

丸い皮の直径は七十センチ、胴の丈は八十五センチもあって堂々としている。住職の叩かれる太鼓の音は今も大きく堂内に響き渡る。

・・・・ この太鼓について『印南郡誌』は三通りの説を伝えている。

一説には天正年間、妙正寺が蓮光坊と呼ばれていた頃、軍師として秀吉がこの境内に陣を進めた。近辺平定の後、陣太鼓は当坊に納め置かれた。

008また一説には明智光秀反逆により、中国路から馳せ帰る秀吉のため、蓮光坊住職が老体ながら、の湯など沸かして世話をしたので、喜んだ秀吉は陣太鼓をくだされた。

もう一説は、朝鮮出兵に際し、肥前の国より帰る秀吉が、前年の礼として陣太鼓を納めた。

・・・・

  お寺で、お経がはじまるぞ!

太鼓堂および鐘の伝承はともかく、太鼓は、戦前まで、次のように用いられていた。

寺の行事、報恩講や永代経が始まる三十分前に、先ず太鼓が打ち鳴らされる。

村人はそれを合図に着衣を改め、寺参りの準備をする。

次に鐘が鳴るとお経が姶まるので、人々は寺へ参ったという。

寺の太鼓や鐘の音は時を告げる大切な手段であった。

 *写真上:妙正寺太鼓堂

  〃 下:妙正寺本堂

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かこがわ100選(21):宮山農村公園

2013-02-23 07:26:57 |  ・加古川100選

宮山農村公園            *八幡町上西条

014天満大池(稲美町)に沿った西の道(県道宗佐・土山線)を北へ自動車で走ると、やがて加古大池の西に出る。

さらに、北へ行くと八幡町野村の手前で、道は坂をつくって八幡町へと急降下する。

ちょうど、坂を下る手前辺りから印南野台地が西へ舌を出したように城山(じょやま・加古川市神野町)にむかって伸びている。

この舌のような台地こそ、古代文明の舞台であり、縄文・弥生・古墳・白鳳時代の人々の生活の跡がいっぱい詰まっている。

宮山農村公園を訪ねてみた。

宮山農村公園は、八幡町上西条と中西条の間で、上記の舌のような印南野台地からさらに北へ突き出たところにある。

昔、ここは上西条と中西条の共有地で、自由に土を取っていた。

昭和39年頃、この土砂が採集されていた場所から遺物を含む層がみつかった。

昭和40年に一部、発掘調査が行われ、縄文時代後期の遺跡で、住居址や祭祀跡とみられる遺構が発見された。

また、山頂部に古墳が集中している。宮山大塚(中期古墳)の他、後期古墳五基が確認されている。

保存状態は悪くないが、江戸時代に盗掘されたらしい。

    望理里(まがりのさと)の豪族

017久しぶりに宮山古墳のある「宮山農村公園」へ登ってみた。風景は、建物が多く加古川も分かりにくくなっている。

『風土記』の頃のこのあたりの景色を想像してみたい。宮山あたりは望理里(まがりのさと)と呼ばれていた。

加古川の流れがこのあたりで大きく曲がって、現在の八幡町へ大きく入りこんでいたのであろう。

このあたりは、洪水に悩まされた地域であったと想像できる。

もう一つの流れがあった。東の印南野台地から下って加古川へ流れこむ草谷川である。

当時の農業技術では、この小さな流れの方が古代の農業に役だったのだろう。

ともかく、この宮山のあたりは古代の水郷であった。この水郷を支配したのが宮山の豪族であったのであろう。

*写真上:宮山農村公園からの風景

 〃 下:宮山一号墳

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かこがわ100選(20):常光寺

2013-02-22 08:01:51 |  ・加古川100選

神野町の常光寺は「わがまち加古川60選」に選ばれていないが、ぜひとも紹介しておきたい寺院である。

その前に「かこがわ100選(18)」の復習をしておきたい。

     常光寺        *神野町神野

024西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになった。

人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけた。

第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものであった。

江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになった。

 生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものであった。

そこで考えられたのが播磨の国の中に、三十三か寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所めぐり」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所めぐり」だった。

(以上、「かこがわ100選・18」より)

       天徳山常光寺(南室禅師入寂の地)

光寺(臨済宗)、播磨西国三十三ヵ所霊場を定めた姫路の慶雲寺の南室禅師の亡くなった地である。

南室和尚は、播磨三十三ヵ所観音霊場は定め、御詠歌(ごえいか)をつくり、巡礼の功徳の普及につとめた。

これが今に伝えられている「播磨西国三十三ヵ所霊場」である。

そのために、常光寺は、播磨西国三十三ヵ寺とともに、特別な信仰を集めている寺である。

裏山の墓所には南室禅師の墓がある。

  常光寺は、建武三年(1336)開山し、七堂伽藍、三重の宝塔、下馬禁制札を立て大いに栄えたが、その後、火災や信長・秀吉の三木攻めの兵火にあい、かつての勢いを失った。

*写真:常光寺

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かこがわ100選(19):日岡御陵

2013-02-21 07:50:34 |  ・加古川100選

    日岡御陵         *加古川町大野

Mthioka_018日岡山のハイライトはなんと言っても山頂の日岡御陵(写真)である。褶墓(ひれはか)とも呼ばれている。褶墓の伝承を考えてみたい。

御陵に眠るのはヤマトタケルの母・稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)である。

(『古事記』では別嬢(わきいらつめ)として登場するが、同じ人物)

 やがて、稲日大郎姫は他に比べる者もない、それは美しい女性に成長した。その噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、やがて結婚して加古川で幸せな生活を始めた。

しかし、幸せな生活は長く続かなかった。やがて、稲日大郎姫は亡くなった。そして、日岡山に葬られることになった。

ところが、その時事件がおこった。彼女の遺骸が加古川を渡る時、突如つむじ風がおこり、遺骸は、たちまちのうちに川にのみこまれてしまった。

後には、櫛と「ひれ」(天女等が背からまとっている布)がみつかっただけだった。

そのため。その櫛と「ひれ」が、ご陵に葬られた。そのため、ご陵は「ひれ墓」とも呼ばれている。

「つむじ風の正体」を考えてみたい。それは、ヤマトの勢力の進出を望まない一部の抵抗であったのかもしれない。

風土記におけるヤマトタケル

『播磨風土記』に稲日大郎姫(イナビノオオイラツメ)の話がある。日岡山山頂にある古墳が稲日大郎姫の墓で、彼女は、ヤマトタケルの母である。

『古事記』(集英社)の著者・田辺聖子は、次のように書いている。

「・・・ヤマトタケルの物語は、さながらギリシャ神話のペリセウスやオデッセウスの面影の片鱗がある。恋と冒険にみちた英雄の生涯を、古代の日本人はどのようにつくりあげたのだろう・・・」

『古事記』・『日本書紀』に描かれるヤマトタケルは、まさに物語のクライマックスに登場する。

それほどの人物であるなら、ほとんど時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場してもよさそうなものである。

不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマトタケルの姿はない。あるのはヤマトタケルの母と父・景行の愛の物語ばかりである。

これは何を語るのだろうか。

『風土記』は、地元に伝わることをまとめたものである。「ヤマトタケルの物語」は、『風土記』がつくられた時代、地元ではなかったのではないか」と想像してしまう。

「ないものは書けない・・」と言うわけである。

せっかく、ギリシャ神話に登場するような物語が、加古川市で誕生したと言うことは痛快なことであるが、どうも怪しい・・・

こんなことを書くのは、地元の者としては少し気がひける・・・

「ヤマトタケル」「天皇」、そして「加古川地方」を結びつけて考えてみる時、この物語の裏には4世紀の大和政権の加古川地域への進出と関係がありそうである。

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かこがわ100選(18):池田観音寺

2013-02-20 11:26:43 |  ・加古川100選

 尾上町の池田観音寺は『わがまち加古川60選』に選ばれていないが、ぜひ紹介しておきたいお寺である。

白旗観音寺(池田の観音さん)      *尾上町池田

播磨西国二十八番・郡西国一番札所

Photo西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになった。

人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけた。

第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものであった。

江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになった。

    播磨西国二十八番札所・生竹山観音寺 

しかし、「西国三十三観音めぐり」は気軽にできる巡礼の旅ではなかった。 

生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものであった。

そこで考えられたのが播磨の国の中に、三十三か寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所めぐり」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所めぐり」だった。

このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

播磨西国にとして、近辺では次の寺々が選ばれている。

 稲美町野寺高薗寺(二十四番)、二見町東二見観音寺(二十七番)、平岡町新在家横蔵寺(二十九番)そして尾上町池田観音寺(二十八番)、番外として神野町神野常光寺である。

 郡西国一番札所 

さらに、巡礼しやすいものとして、加古郡内に三十三か寺の巡礼のための寺が決められた。 

これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」である。

(加古郡の)郡西国の一番札所は、池田の観音寺であった。

    写真は、白旗観音寺の三十三体の観音像。

観音堂の本尊は聖観音(秘仏)で、写真の観音像は観音堂の内陣の向かって左に祀られている。

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かこがわ100選(17):多木浜洋館

2013-02-19 11:07:29 |  ・加古川100選

多木浜洋館(あかがね御殿)    *別府町東町

Akaganegotenn 地元では、この多木邸(写真)を「あかがね御殿」と呼んでいる。

 今でこそ、周辺に大きな建物があるが、昔は別府の浜に聳えていた。

 三階建て、それも各階の高さが普通の家よりずっと高い。実質四階分はある。

 さらに大きな屋根が乗る。二階建ての町並みの中に立つ五階分の建物は、目立たないわけはない。

 それに、建物の全面に銅版が張られている。言葉の綾ではなく、文字どおり全面に銅版が張られている。

 日本の場合、江戸時代日光東照宮などで僅かに使われているが、ふつうの建物に銅版の使用は禁止されていた。

 木造の場合、防火・防水のためにどうしても金属を張りたくなる。

 関東大震災以降、銅版を張った建物がふえた。

 今は「緑青(ろくしょう)」で表面は黒ずんでいるが、完成したばかりの赤銅色に輝いている「あかがね御殿」を想像して欲しい。

 とりわけ瀬戸内の落日の中で輝く「あかがね御殿」の雄姿は、はまさに圧巻であったに違いない。

 中に入ると、まず巨大な階段室の吹き抜けに仰天する。

 吹き抜けの中を三階に昇る。そして、四階の展望室に出る。

 ここから瀬戸内海が一望できた。

     昭和8年に完成

 御殿は、大正7年(1918)に着工、すべてが完成したのは昭和8年(1933)である。

 実に15年、贅をつくしての完成であった。

 予算算定は不能だったというからすごい。

 久米次郎は、明治41年から衆議院議員、昭和14年からは貴族院議員を務め、「あかがね御殿」は来客をもてなすために建てられたものであった。

 建築家の藤森照信氏は「・・・(あかがね御殿)は、和洋折衷のインテリアを持つが、この折衷ぶりがなかなかの見もので、ヨーロッパ建築史上で一番派手なネオ・バロック様式と、日本史上で最もギンギラな安土桃山期の書院をミックスしている・・・・」と指摘する。

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かこがわ100選(16):安楽寺

2013-02-17 22:19:04 |  ・加古川100選

  安楽寺           *東志方細工所

細工所の安楽寺について、『わがまち加古川60選挙』にある寺伝を読んでみたい。

811(弘仁2) 年、弘法大師の弟子、真紹上人が志方の中道子山頂に無量寿院を建てたのが始まりとされている。

長い間、山頂にあったが、1380(康暦2)年、赤松氏が城を築く際、山麓に移された。

赤松氏没落後、1559(永禄2)志方城主、櫛橋氏によって再建され、真言宗あらため浄土宗の寺になった。・・・」

(注:志方城は、現在志方町の観音寺にあった城で、中道子山城ではない)

以上は、寺伝であるが、ずいぶん古い歴史を持つ寺のようである。

「かこがわ100選」では、安楽寺の地獄絵を紹介しておきたい。

以前見た時の印象が強烈に残っている。

  地獄絵と十王像

Photo_2西の門から入ると鐘つき堂があり、その傍に「十王堂」がある。

この十王堂に、十七世紀後半の作と伝えられている「地獄極楽絵」と「十王像」が安置されている。

地獄絵図の右から地獄で苦しめられている人々、中ほどに救いの手を差しのべている地蔵菩薩、そして帳簿を見ながら判決を言い渡している「閻魔(えんま)」。その左に極楽の絵と続く。

    十王信仰について

十王とは、罪を裁くために姿を変えている仏たちである。 

仏教では死者の生前の行いを裁く仏は「閻魔」だけではない。

死者の前に十人の仏様が現れて、各仏の前で審判を受けるのである。

その裁判の日は、初七日にはじまって、二十七日、三十七日、四十七日、五十七日、六十七日、七十七日、百ヵ日、一周年、三周年の十回という。

そのうち、五十七日目の裁判官が「閻魔」である。

この十王の審判により「地獄行き」とか「天国行き」が決められという。

この十王の考え方は中国で生まれ、我が国においても平安時代から次第にその信仰が盛んになり、鎌倉時代に完成したといわれている。

安楽寺の「地獄絵」「十王像」は、寺の言い伝えによると万治三年(1660)とあり、傷みが激しく、平成四年に地獄絵・十王は修理された。

近世の仏教観を知ることのできる貴重な仏たちと絵画であり、お参りの時は十王堂へも、ぜひお寄りいただきたい。

 *写真:十王堂内の地獄絵の一部

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かこがわ100選(15):春日神社

2013-02-17 08:41:57 |  ・加古川100選

   春日神社            *加古川町本町

Photo国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹がある。

そこは、春日神社(写真)の境内である。

春日神社は、加古川城の城主・糟谷氏の氏神である。

加古川城は、現在の称名寺のある場所にあった。

江戸時代の幕府の正式な家系図によると。糟谷氏は相模国糟谷荘の在である。

さらに、江戸時代の「糟谷(加須屋)氏文書」では、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足であるという。

やがて、祖先は宇治川の合戦で功績をあげ、加古郡雁南荘(かなんのしょう)を与えられた。雁南荘は、今の加古川市加古川町付近である。

室町時代、糟谷氏は赤松の支配下に入り、加古川城を造り城主になったと考えられる。

東播地方には鎌倉時代以降関東武士が多いが、別のところで紹介したい。

    春日神社は糟谷氏の氏神

なんと、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足というのである。

どうも怪しい。一般的に系図の信用度というものは、この程度のものである。

まず、信用しない方が良い。

とにかく、時の雁南荘の糟谷有季(かすやありすえ)が藤原氏の氏神を文治2年(1186)ごろ、奈良の春日神社からこの場所に勧請したという。

加古川城主糟谷武則は、有季の子孫である。

春日神社は、糟谷氏の氏神である。

*写真:春日神社

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かこがわ100選(14):野口神社

2013-02-16 08:58:17 |  ・加古川100選

野口神社 (五社の宮 

003明治初期に「五社宮(ごしゃのみや)」は、野口神社と改称されたが地元では、今でも「五社宮」と呼ぶ人が多い。野口神社は、五柱の主神を祭る。

その五柱の神々は、速玉男命(はやたまおのみこと)・品陀別命(ほんだわけのみこと)・大山昨命(おおやまぐひのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・天伊佐々比古命(あめのいささひこのみこと)の五柱である。

氏子は、水足・坂元・北野・北野新田(以上野口町)・新在家・西谷・高畑・土山(以上平岡町)・和田(稲美町)の11町内会である。

以上のように、この五柱を祭る「五社宮」の氏子は、平岡町・稲美町にも広がっている。

これは、昔、印南野台地の開拓に当たった野口の農民の開拓の歴史を物語るものであろう。

  野口廃寺(白鳳時代)

きょうの「かこがわ100選」は、「野口神社の紹介」であるが、野口廃寺(白鳳時代・645710)跡についても付け加えておきたい。

野口廃寺について『加古川市史(第一巻)』は、次のように説明している。(文章を若干変えている)

「・・・古大内遺跡から駅ケ池をこえて北東500メートルに野口神社があり、その境内地をほぼ寺域として野口廃寺が想定されています。

野口廃寺のあった位置は、明石・賀古の両郡一帯にわたる印南野台地の西端部にあたっており、しかもすぐ南方を古代山陽道が走っていて、まさに「野口」という名にふさわしい土地でした。

いまだ本格的な発掘調査が行われていないため、遺跡・遺構の内容についてはよくわかっていません。

ただ偶発的に掘り返された遺物や表面観察などの観察により、神社本殿裏からおおよそ90×60センチメートルの凝灰岩質の礎石を検出しているし、境内の数ヵ所において土壇様の隆起が認められ、その付近に古瓦類の散乱が多いところから、薬師寺式あるいは法隆寺式の伽藍配畳を想定する」と説明している。

日岡豪族は、野口に氏寺を築いたのか? 

日岡山には多くの古墳があるが、これは豪族の墓地であり、彼らの住居跡ではない。

古墳時代、溝口(加古川市加古川町)が、彼らの居住地と考えられている。

しかし、溝口あたりは欠点が一つある。水に弱い低地にあるということである。

「彼らは、水害のない野口(野口神社のある場所)に、氏寺を建てた」と想像したいのだが・・・・

*写真:野口神社

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かこがわ100選(13):稲根神社

2013-02-15 10:22:13 |  ・加古川100選

稲根神社(いなねじんじゃ)       *神野町神野

001_2 明治9年に、加古郡手末村と二塚村が合併して神野村となった。

その旧二塚村に稲根神社がある。曇川の河口に近い。

稲根神社(写真上)は、古代にさかのぼる神社のようである。

神社の裏に、二つの後期古墳がある。旧二塚村もこの古墳から名づけられている。

郷土史家の石見完次氏は『東播磨の民俗』で、稲根神社について、次のように語っておられる。

「・・・その塚(二塚古墳)に葬られていた豪族が、実は水と平地を求めて神野の里に来て、最初にこの地に稲を作った部族の長であると考えられ、そしてその有難い稲の御魂を祭ったのが稲根神社であると考えられる・・・」と。

また、稲根神社の由来は次のようである。

・・・太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がこれを憐れみ、高天原から稲穂を降らせた。

そのとき、この地に三粒が落下して、これが実って、世の中に米が満つようになった・・・

本来、神社の由来と言うものは、怪しげなものが多く検証が必要である。

しかし、稲根神社の由来は、二塚古墳・曇川・稲作、そしてなによりも神社の名前(稲根)をつなげてみると一考に価する。このあたりは、加古川地方で一番早く稲作が始まった場所であるのかもしれない。

     経塚

Photo_2稲根神社の裏の二塚古墳の墳丘部から安政年間(185460)に、写真下の経筒が出土している。

経塚は、平安時代の後期の末法思想の広がりを背景に、仏教のおとろえを恐れた貴族や僧侶が、法華経(ほけきょう)などの巻物を経筒(写真)に入れ、地中に埋めものである。

現在は残っていないが、昭和37年の調査までは、別の銅製の経筒と「源能定」銘の小銅版があったとされている。

源能定は、後醍醐天皇の忠臣であったことから、この経塚は、鎌倉時代の終わりの頃のものと推定される。

それにしても、彼の銘のある経塚がどうして、この地にあるのか謎である。

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かこがわ100選(12):松風こみち

2013-02-14 08:24:34 |  ・加古川100選

松風こみち          *野口町~別府町

 003かつて、現在の加古川市役所のすぐ東にJR野口駅があり、そこで乗り換えて小さな列車が別府駅まで走っていた。「別府鉄道」であった。

車両は小さく、走る姿は頼りなげで、子どもたちは「マッチ箱」とか「ガッタン」と呼んでいた。別府鉄道は、別府駅に着いた。そして別府の浜にでた。

 別府の浜は、春は潮干狩り、そして夏は海水浴で賑わっていた。

 別府鉄道の前身「別府軽便鉄道」が開業したのは1921(大正10)年の9月だった。

 (昭和2141日:別府軽便鉄道は別府鉄道に名称を変更したが、別府鉄道とする)

 別府鉄道の主な役割は、別府製肥所の肥料の運搬のためであった。

 その後、加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤・通学の足としても別府鉄道は無くてはならないものになった。

 この鉄道が最も賑わったのは、昭和30年代のはじめころで、春から夏にかけて別府の浜へ潮干狩り、海水浴へと多くの客を運んだ。

 列車から降りると、浜のむせるような匂があった。

 しかし、こうした風景も1967年(昭和42)ごろから臨海部の工場用地の造成が始まり、以後急速に様変わりした。

 海水浴場は閉鎖になった。

 そして、モータリゼーションの波で、乗客は激変。それに1984年(昭和592月「土山駅の貨物取り扱いのストップ」が決定的な打撃になった。

 別府鉄道は、1984年(昭和59)、63年の歴史を閉じた。

 その跡地は、野口線(別府~野口)として現在「松風こみち」(市民遊歩道:写真)として生まれかわった。

 別府川に架かる鉄橋は、今も別府鉄道の面影を残している。

 *写真:松風こみち

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