ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(36):江戸の村③・火事の一件

2009-11-30 16:13:36 | 稲美町

  藤四郎宅全焼

A357b1 江戸時代、農家のほとんどは藁ぶきの家でした。

そのため、いったん火事になると手がつけられなかったため火事は恐れられ、警戒されていました。

しかし、火事はしばしば発生しています。

寛政2年(1790319日、時刻は真夜中零時ごろのことでした。

印南新村の藤四郎宅から出火し、家一軒・馬小屋・納屋は全焼でした。

さいわい、隣とは離れていたため類焼は免れ、怪我人もなく、牛馬にも別条がありませんでした。

庄屋・組頭等村役人は、藤四郎に火事の原因を問いただしています。

(藤四郎)

19日の晩、食事も終わりかまどの灰をとって、納屋に入れておきました。

不注意なことでしたが、すぐ側に、わら、柴があったことに気がつきませんでした。

灰の側の火の粉がその藁・柴に燃え移ったと思います。

火は、たちまちに屋根に燃え移りました。

村中からも、かけつけて水をかけてくれましたが、風が強く残らず燃えてしまいました。

・・・・

出火の原因は、藤四郎の家内の者の火の不始末と断定され、藤四郎は国安村の円光寺でしばらくの謹慎を余儀なくされています。

  市兵衛宅焼失の一件

その外に、『稲美町史』は国安村市兵衛宅の焼失の一件を書いています。

安永9年(1790)正月10日、この日、北山村の「えびす神社」へ参詣した国安村の弥七郎外10人が市兵衛宅に立ち寄り、弥七郎からタバコの火をもらい、しばらく世間話をして帰りました。

そのため彼らに嫌疑がかけられました。

弥七郎らは、火事とは関係がないと主張しています。

その結果について史料は語っていません。

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稲美町探訪(35):江戸の村②・困窮の村

2009-11-29 15:40:48 | 稲美町

  困窮する村

9fb4f90e 幕府は「年貢さえすませば、百姓ほどけっこうなものはない」(慶安のお触書)といっていますが、百姓にとって、この年貢を無事に済ませることこそが大変なことだったのです。

江戸時代は、田畑の売買は原則として禁止されていましたが、実際は年貢が払えないために公然と売買されていました。

野際新村の治衛門は年貢を払えなくなり、田畑を銀750匁で売り渡した件や、同じ野際新村の百姓が年貢の支払いのために家屋敷所道具を銀51匁で売ったことを『稲美町史』は、紹介しています。

   庄蔵出奔す

さらに、文政5年(1822)印南新村の庄蔵は、生活苦のため夜逃げをしたようです。

そのため、残された家屋敷等は入札で処分されました。

その処分された23点の品々の記録があります。

・畑2畝歩 ・建家1軒 ・灰置部屋1ヶ所 ・古やくら1つ

・あんと1つ ・針箱1つ ・くらかけ1つ ・古箱5つ 

・重箱4つ ・小すり鉢1つ ・みそこし2つ ・小かめ1つ 

・くまで1丁 ・小石うす4つ ・小まさらえ1丁 ・はさご2丁 

・古むしろ16枚 ゑんぼう1丁 ・からさお1丁 ・小ふいご1荷 

・がんじき1丁 ・茶碗2つ ・小わん2丁

生活苦のための夜逃げであったとしても、わびしい品々です。

そのほか、年貢米支払いのため、給銀は前金で他領へ奉公に出かけた多くの例を町史は紹介しています。

このような例は、稲美地域の村々だけに限ったことではないのですが、稲美地域は特に困窮した村々が多かったようです。

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稲美町探訪(34):江戸の村①、金肥・牛

2009-11-28 22:12:45 | 稲美町

  金肥・干鰯(ほしか)

江戸時代中期以降は、綿・タバコ・蔬菜を商品としての作物の栽培が増加しました。

肥料として、従来からの藁(わら)・藁灰・げす(人糞尿のこと)そして、米籾などに加えて、干鰯(ほしか)などの金肥がつかわれました。

 *金肥:代金を払って購入する肥料

綿の栽培などには干鰯は欠かせない肥料でした。

そのため、肥料購入の費用は農民にとってかなりの負担でした。

文政2年(1819)の印南新村の史料によれば、干鰯1500貫を銀3貫目で購入しています。

これは現在の貨幣価値にして2300万円にものぼると言われています。一村の干鰯の費用に、これだけの出費があったのです。

百姓のため息が聞こえてきそうです。

   

現代では農業の近代化により農村地域でも牛馬の姿を見かけることはなくなりました。

江戸時代においては、牛馬とりわけ牛の役割は重要なものでした。稲美町域における牛の頭数は、次のようでした。

Puaru_182_3 国安村    25疋  (宝暦14年・1764

六分一村   20疋  (明和元年・1764

野際新村    7疋  (明和元年・1764) 

中一色村   15疋  (明和元年・1764) 

岡村     65疋  (宝暦14年・1764

出新村    11疋  (宝暦14年・1764

北山村    42疋  (元文2年・1737

印南新村   30疋  (元文2年・1737

野寺村    17匹  (宝暦14年・1762

 *宝暦14年と明和元年は重なります

 耕作用の牛は村高100石あたり9疋が標準といわれています。稲美町域の村はどのようであったのでしょう。

 岡村7.1匹、国安村・六分一村3.2疋です。

野際新村・出新村等の20匹を越えている村があるのですが、ほとんどの村では全国標準からみて、かなり低いといえます。

印南新村ではなんと2.5疋でした。

*今日の記事も詳しくは、『稲美町史』をお読みください。

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稲美町探訪(33):印南新村はタバコの特産地

2009-11-28 08:46:29 | 稲美町

『稲美町史』には木綿の栽培とならんで、印南印村のタバコ栽培について紹詳述しているので紹介しておきます。

  印南新村のタバコ栽培

4990598 慶長6年(1601)ポルトガル人宣教師が渡来した時、徳川家康に献上した中にタバコと種子がありました。

その後、10年ほどで喫煙の風習が全国に広まったといわれています。

当時は、延命長寿、万病の治療に効果があると信じられていたようです。

幕府は、その後次第にその害を認識するようになり慶長17年(1612)以来、何度となく喫煙禁止令を出しています。

でも、効果はなかったようです。

喫煙の風習は、止まなかったばかりか、各地にタバコの特産地が現れました。

印南新村もその一つで、タバコの特産地として広く知られるようになりました。

866ebd16_2 グラフは、寛政2年(1790)の印南新村の作物作付け状況を示しています。

タバコは、田畑の植え付けの約1割を占めています。

寛政2年(1720)は、木綿の専売制度のはじまる40年ほど前であり、この段階では綿作は、まだ全田畑の13%にとどまっています。

それにしても、水田(稲作)が少ないのに注目してください。

印南新村は、よほど水に恵まれていない畑作の地域だったようです。

なおグラフの大角豆とあるのは「ささげ」のことです。

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稲美町探訪(32):稲美地域の綿作②・綿は、畑作の中心作物

2009-11-25 14:13:39 | 稲美町

  綿は、畑作の中心作物

播磨は、既に元禄期に摂津・河内・和泉・備後とならんで、木綿の五大産地の一つに数えられていました。

木綿づくりは加古郡がその中心で、現在の尾上町等の海岸部で特に盛んでした。

稲美地域でも、急速に木綿の生産が伸びました。

印南新村では、宝暦14年(1764)の明細帳にもみられ、木綿の生産は18世紀半ばから始まっていたと考えられます。

前回で触れたように、木綿の専売制度が実施されたのは文化4年(1821)年で、とうぜん木綿の生産は、その前から急速に高まりました。

幕末の木綿の作付け状況を見ておきましょう。

           綿作比率

                    綿作/全田畑  綿作/畑方 

 北山  (嘉永6)                 38.14 %                  84.71 %   

 国岡新 (嘉永6~安政3     42.75                      80.88   

          (嘉永6)                    29.52                      88.08   

                 (安政3)                    30.84                      92.03   

六分一 (安政3)                    22.70                      86.87    

4eee6db4 このように江戸の終わりのころには、畑における綿作の作付け状況は驚くほどの高さをしめています。

くり返しますが、これは姫路藩が木綿の国産化をはかり、木綿を専売制にし、畑での綿作を奨励したためです。

まさに、木綿の生産は、稲美地方の生命線であり、特に、水の少ない母里地区においては特に重要な生産物となりました。

木綿の生産は、木綿の生産だけでなく、糸をつむぐ仕事、布を織る仕事など、婦女子の内職としても木綿織は盛んで、一家の生計を補っていました

農閑期にはどの家からも布を織るサオの音があったといいます。

   やがて!

少し、先を急ぎます。

やがて日本は開国し、明治になり安い綿がドッと輸入され、木綿づくりは急速に衰えます。水の少ない稲美地方は、水田たよることはできません。

そこに待ちかまえていたのは、大増税と貧困でした。

<msnctyst address="稲美町" addresslist="28:稲美町;" w:st="on"></msnctyst>

 稲美町の近代史は、貧困と水を求めての壮絶な闘いの歴史で幕を開けます。

 *挿絵は糸繰車

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稲美町探訪(31):稲美地域の綿作①・河合寸翁

2009-11-24 22:27:16 | 稲美町

  稲美地域の綿作①

雨の少ない印南台地の村々は、旱魃の災害を逃れることはできません。

そのため、多くを畑作にたよる農業にならざるをえませんでした。

姫路藩では、古くから綿の栽培が行われていましたが、寛政十年(1798)頃から木綿の栽培を奨励しました。

後に、木綿を藩の専売品にしました。それにともなって、畑での木綿の栽培が、ひじょうに盛んになりました。

稲美地区の綿作の状況を調べる前に、当時の姫路藩の木綿の専売制のようすを調べておきましょう。

   河合寸翁(かわいすんのう)

011  藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5年(1808)、藩には73万石の借財がありました。

 これは、年貢米9万石を8年間、そっくりつぎ込んでも払いきれない額でした。

もう小手先の政策ではどうにもならない数字です。

 しかし、家老の河合道臣(みちおみ-後の河合寸翁)は、播磨地方が木綿の産地であることに目をつけ、綿布を姫路藩の専売品にし、藩の財政たてなおすことに全精力を賭けました。

 当時、姫路綿()の主な送り先は大坂でしたが、寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法も採用しました。

 勿論、さまざまな妨害がありました。それまでの商の慣習を壊すのですから当然です。

しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が幕府に認められました。

 これは、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。

 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができたのです。

この、姫路藩の経済政策により、稲美・加古川・高砂地域は一大・木綿の栽培地帯となりました。 

 *写真:河合寸翁像(姫路神社)

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稲美町探訪(30):大庄屋・西条組

2009-11-23 23:00:54 | 稲美町

「伊左衛門物語」では、説明もなく大庄屋・(西条)組という用語を使っています。ここで、少し説明しておきます。

   西条組

A4c6bdff 江戸時代の村々には、現在の村長に当たる庄屋が置かれていたことは良く知られています。

しかし、多くの場合、庄屋は藩の役人から直接命令・伝達を受けたのではありません。

藩の命令・伝達等は、いったん大庄屋(おおじょうや)に伝えられ、それから庄屋そして一般の百姓に伝達されました。

もちろん、村人の願いを藩に伝える場合は、庄屋・大庄屋・藩という逆の手順でおこなわれました。

大庄屋は、一言でいえば「庄屋の中の庄屋」で、大庄屋は、普通20ヵ村程度の村々を支配・管理する庄屋のことです。

大庄屋の管理する村々の範囲を「組」とよんでいます。

組の名前は普通、大庄屋のいる村の名をつけ呼ばれました。

大庄屋・沼田平九郎の自宅は上西条にあったため、組の名は「西条組」でした。

平九郎が支配、管理した村々は、現在の加古川市の船町村・野村・下村・野新村・宗佐村・下西条村・中西条村・福留村・西之山村・二塚村・手末村村・石守村そして、稲美町の下草谷村・野寺村・加古新村・岡村・野谷新村・草谷村の18ヵ村でした。

    寛延大一揆後「西条組」消滅

ところが、平九郎は寛延大一揆では、農民を抑圧し恨みの的となり、平九郎宅は最初の打ちつぶしにあったことは、既に述べたとおりです。

一揆沈静後、平九郎は村から追放され、西条組もなくなり、西條組は中村組の大庄屋が兼ねることになりました。

さらにその後、中村組は大野組(加古川市大野)の支配を受けました。

そのため大野組の荒木弥一衛門は、特別に大きな大庄屋でした。

<msnctyst w:st="on" addresslist="28:稲美町;" address="稲美町"></msnctyst>

 稲美町の他の大庄屋については、後の機会に取り上げることとします。

(参考)

二塚村と手末村は、明治9年に合併して神野村となり、現在の神野村は、明治2241日に石守村・西之山村・福留村・下西条村、そして神野村が合併してできた神野村です。

なお、下西条村ですが、この時「西条」と村名を変えています。

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稲美町探訪(29):野寺山高薗寺②・播磨西国巡礼の寺

2009-11-22 22:34:37 | 稲美町

播磨西国三十三ヵ寺巡礼

西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。 

人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音巡礼にでかけました。 

第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。 

江戸時代になり治安もよくなり、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。 

F75aa9c0 播磨西国二十四番札所

             野寺山高薗寺 

しかし、誰でも気軽に巡礼の旅に出ることはできません。

生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものでした。 

そこで考えられたのが播磨の国の中に、三十三か寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所巡礼」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所巡礼」です。 

このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。 

播磨西国にとして、高薗寺の外に近辺では次の寺々が選ばれています。 

<msnctyst w:st="on" address="二見町" addresslist="24:二見町;"></msnctyst>

 二見町東二見観音寺(二十七番)、平岡町新在家横蔵寺(二十九番)、尾上町池田観音寺(二十八番)、高砂市曾根町の圓通寺(三十番)、番外として神野町神野常光寺等です。

*写真:十一面千手観世音菩薩(高薗寺観音堂本尊・鎌倉時代の作といわれる)

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稲美町探訪(28):野寺山高薗寺①・法道仙人伝承の寺

2009-11-22 08:28:54 | 稲美町

印南野台地の村々は水が少なく、ずいぶん開発が遅れました。

が、ここ高薗寺のある野寺は、近隣から水が集まり、比較的早く開発されたようです。

奈良・平安時代にはもう集落が形作られていたといわれています。

法道仙人伝承の寺

D5cda948 法華山(加西市)一乗寺の縁起をよれば、一乗寺の開基は、天竺(インド)の人・法道仙人(ほうどうせんにん)で、雲に乗って日本にやってきたといいます。

高薗寺も法道仙人の開基伝承を持った寺です。

加古郡では、高薗寺の他に、常楽寺(加古川町大野)・横蔵寺(平岡町)が法道仙人を開基としています。

もちろん、法道仙人は伝承上の人物です。

『加古郡史』によれば、法道仙人は、揖保郡出身の徳道(656735)ではないかと推測しています。

徳道上人の広めた観音信仰を取り入れ、「観音堂」を創設したのではないかというのです。

    高薗寺の沿革

高薗寺は幾多の歴史の試練をへてきたようです。

<msnctyst w:st="on" address="『稲美町" addresslist="28:『稲美町;"></msnctyst>

『稲美町史』から拾ってみます。

縁起では、白雉(はくち)年中(650662)法道仙人が寺を開くが、700年余りの間に衰退してしまいました。

この辺りまでは、たぶんに伝承の世界で確かめることはできません。

文和4年(1355)如林上人が石守にあった法雲寺の残った堂をこの地に移し、寺号を「野寺山」としました。

高薗寺にとっての大事件は、なんといっても三木合戦です。

兵乱にあい寺は全焼してしまいました。天正6年(157847日のことでした。

その後もたびたび失火により、寺は焼失しました。

寛永2年(1645)春、本堂を造営しました。これが現在の観音堂です。

寛文5年(1665)、播磨西国33ヵ寺巡礼の寺の24番札所に選ばれました。

「播磨西国24番札所」については、明日のブログで紹介しましょう。

 *写真は、加西市一乗寺にある法道仙人の木造

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稲美町探訪(27):伊左衛門物語⑤・遺体で磔刑!

2009-11-21 09:34:03 | 稲美町

西条組の平九郎宅を打ちつぶしのニュースは、姫路藩の百姓衆の恨みに火をつけました。

1月16日に、西條組からはじまった一揆は、1月の終わりごろから2月にかけての頃もっとも激しく燃えあがりました。

この間に打ちつぶされた大庄屋・庄屋・豪商宅は57軒にもおよびました。

2月に入り、藩の意を受けた亀山本徳寺などの説得により、一揆は終息にむかいました。

播州は、播磨門徒衆として知られる浄土真宗の影響が強い地域でした。

     厳しい処罰

一揆の後に待ち受けていたのは、首謀者の逮捕と厳しい取り調べでした。

牢につながれた者は、実に345人にのぼりました。

翌年の秋に判決が下り、923日、伊左衛門、そして前之庄(夢前町)の滑甚兵衛(なめらじんべえ)ら5人は市川河原で処刑、さらし首となりました。

伊左衛門は、取調べ中に死亡しましたが、遺体はこの時まで塩漬けにして保存されていました。

   伊左衛門の遺体を磔刑に

Flower_084 小説ですが、『播磨寛延一揆・滑甚兵衛の反逆(田靡新著)』(成星出版)の最後を読んでおきましょう。

「・・・九月二十三日に、・・・野谷新村の伊左衛門は、牢屋で吟味中に死亡した塩漬けの遺体を磔にされた。

・・・遠巻きにする百姓たちに見せしめの意味があった。

日が暮れても、河原から動かない人が何人もいた。

夕焼けが堤防(どて)に連なった彼岸花を燃え立たせ、河原も空も血の色にそめ染めぬいていたという・・・・」

野谷新村からは、死罪1名、牢死1名、遠島2名、追放や国払い3名、過料45名とほとんどの者が処罰を受けました。

そして、村へは過料として約十二両の支払いが命じられました。

結果的に、伊左衛門と野谷新村の行動は、播磨全藩一揆の火付け役になったので、重い刑となりました。

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稲美町探訪(26):伊左衛門物語④・野谷新村から全藩一揆へ

2009-11-20 18:09:44 | 稲美町

15日(寛延21749)、伊左衛門は、村人を集めて連判状をつくりました。

平九郎宅の襲撃については『稲美町史』に詳細な記述があるのでお借りします。

    平九郎宅、襲撃!

203842b7 正月16日七ツ時(午前4時)に、まず石の宝殿の張り紙を見た印南郡・加古郡より多数が上西条の平九郎宅へおしかけました。

印南郡の方では、途中都染(現:上荘町都染)の大庄屋宅で炊き出しをさせ、腹ごしらえをして平九郎宅へ進みました。

加古新村、野寺村では、早鐘をついて騒動となり、野谷新村でも太鼓をうち、めいめい鳶口・熊手などを持ち、東の方から上西条へ押し寄せました。

まず、大門を押し倒し居宅に乱入したのです。

平九郎の弟・忠蔵が抜刀して抵抗したため、まず忠蔵宅を打ち砕き、続いて平九郎宅を打ち壊しました。

伊左衛門の息子の藤四郎も熊手を持って一揆に加わり、平九郎の牛小屋をくずしていた時、倒れてきた壁の下敷きになってしまいました。

それでも何とか午後8時ごろ戻ってきて、大庄屋宅が打ちつぶされたことを報告すると、伊左衛門はその様子を見に行き、打ちこわしが終わり、かがり火をたいて百姓があたっているのを見て引き返しました。

伊左衛門は平九郎宅の打ちこわしには、直接加っていません。

この平九郎宅打ちこわしでは中心になったのは、石の宝殿の張り紙を見た印南郡・加古郡の村々の百姓たちでした。

   姫路全藩一揆の引き金に・・・

平九郎宅打ちこわしの噂は、たちまちのうちに姫路藩の他の村々へ広がりました。

各地で百姓は立ち上がりました。

やがて、江戸時代、姫路藩最大の一揆へと燃えあがりました。

姫路藩のどの村々でも、百姓の怒りは、頂点に達していたのです。

結果的に、野谷新村の伊左衛の起こした行動は、燃え上がる姫路藩全般一揆の火をつける役割となりました。

姫路藩の寛延の大一揆については、多くの書籍に紹介されていますので、それらをご覧ください。

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稲美町探訪(25):伊左衛門物語③・伊左衛門の決意

2009-11-20 09:13:19 | 稲美町

 高薗寺に張り紙が・・・

045 伊左衛門の怒りはおさまりません。

そんな時でした。寛延二年(1749)正月10日ごろからあちこちに「西条組大庄屋を打ちつぶすべし」との張り紙をみるようになりました。

正月の10日、伊左衛門は、たまたま野寺村の高薗寺へ参詣したところ、観音堂に張り紙をみつけました。

それには「ご用金とご加免(年貢の引き上げ)について願いがあるので、16日西条組大庄屋へ罷り出る(まかりでる)ことになった。

村々残らず参加せよ。もし、不参加の村があればその村を打ちつぶす。

加古新村と野谷新村へも行きがけに見回るので加勢せよ」というものでした。

伊左衛門は、ちょうど境内に居合わせた西條組下村(現:八幡町下村)の安兵衛に、「本当だろうか」ときいたところ、「風聞や張り紙の趣旨は間違っていない。・・・私も、昨年“市川での集会”から帰る途中、藩の手先になり下がった大庄屋のうちつぶしを書きつけた紙を竹に挟んで2・3ヶ所に立てておいた」と打ち明けるのでした。

後日談ですが、一揆の後、安兵衛は逮捕され、よほど厳しい訊問であったのでしょう。取調べ中に牢死してしまいました。

  藩の裏切り

 少し説明が必要です。

「稲美町探訪(23)」で寛延元年もくれようとする1221日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した・・この時は、百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました」と書きました。

少し付け足します。

三千人もの百姓が集まったニュースはすぐにお城へ伝わりました。

すぐに役人が駆けつけてきたのです。

そして「お前等の願いは何か」と申されたので、百姓衆は「この度の大風により百姓は苦しんでいます。なにとぞ、年貢米減免を願いたい・・・」と訴えると、役人は、「願いの件は良くわかった。主だった者を残してこの場を引きさがってくれ、悪いようにはしない・・・」

百姓はどこまでも人間が良いものです。てっきり話し合いが行われるものと思っていました。

主だった11人を残して村々へ引きあげたのです。

でも、この11人は牢獄につながれてしまいました。

百姓の藩に対する恨みは、ますます燃えあがりました。

伊左衛門、石の宝殿に決起文を書く

安兵衛と別れた伊左衛門は、張り紙の内容と安兵衛の話を合わせ考え、騒動を起こして平九郎の家をうちつぶすことを決心しました。

 そう決めた伊左衛門は、さっそく11日に印南郡の石の宝殿(生石神社)の大石に自筆で「西条組大庄屋平九郎殿を来る16日にうちつぶす。

西条組だけでもつぶせるが、この人物は姫路領でも特に恨みをかっているので手伝いにまいらるべし」と書いて、貼り付けて帰りました。

翌日の12日は、生石神社(おおしこじんじゃ)の初午祭りで、参詣が多いので、この日を選んだのです。

さっそく12日、平九郎宅打ちこわしの風聞は、猛烈な速さで近辺の村々に広がりました。

伊左衛門は、村の者に「風聞であろう・・」と何食わぬそぶりで否定はしたのでしたが、問い詰められて覚悟をうちあけ「一揆が起きた場合、村中に難儀が及ぶので団結しなければいけない」と村内の百姓を神社に集めました。

大半の百姓がこれに応じました。

これは、伊左衛門の働きかけや前庄屋の次右衛門の支援があったことはもちろんですが、何よりもお上のなされよう、それにへつらう大庄屋の態度に百姓たちは、がまんがならなかったのです。

いよいよ16日の当日です・・・

*写真は、現在の高薗寺の観音堂

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稲美町探訪(24):伊左衛門物語②・伊左衛門の怒り

2009-11-19 08:59:00 | 稲美町

  押し寄せる増税

野谷新村は、元禄六年(1693)、野寺村と草谷村の百姓によって開発が進められた村で、両方の村の名をとって「野谷新村」と名づけられました。

石高は、元禄15年(1702)で55.5石、正徳2年(1712)で164.7石、10年で急速に石高を伸ばし、家数も55軒ほどになりました。

寛保二年(1742)、松平明矩は姫路に入部後、さっそく大庄屋を通じて百姓衆が願い出たと言う形式で増税に取りかかりました。

武士というのは、どこまでもメンツにこだわるものです。

特に、税金の安い新田に対しては厳しく増税を迫りました。

印南台地の村々は、新田が多く、まともに、その影響をうけました。

   伊左衛門の怒り

74272381 西条組の大庄屋・沼田平九郎には、日頃から「代官に取り入ってゴマをすっている」などと悪い噂が絶えませんでした。

他の大庄屋達は、新田年貢の引き上げに際し、各村の庄屋の意見を聞いたりしていたのですが、平九郎は独断で行っています。

また、野谷新村にあった溜池を他村の百姓が埋め立てて新田にしようとした時、村人は反対しました。

にもかかわらず、平九郎は新田にすることを認めてしまいました。

それに対して、藩の役人が池の検分に来た時、野谷新村の庄屋の次右衛門が、役人に「新田を認めないように」と嘆願したところ、これは受けつけませんでした。

次右衛門は、後日藩役所に直訴したため、平九郎は激怒しました。

そして、次右衛門は庄屋役を取り上げられ閉門を命ぜられたことがありました。

沼田平九郎と野谷新村との関係は、険悪な状態になりました。

このようなことがあった翌、寛延二年(1749)、朝鮮使節来日があり、その接待費として西条組に300両が割り当てられたのです。

その内、野谷新村へは約51両が割り当てられました。

村の高(収穫量)からいっても不当に大きな負担です。

そんな金は、ありません。そのための金を借りるため平九郎に頼んだところ、彼は印を押すことを拒否したのです。

野谷新村の百姓の平九郎に対する憎しみは、日に日に増すばかりでした。

特に、伊左衛門は当初から開発にあたった百姓で、村で重きをおかれた組頭でした。この時、61才でした。

「くそったれ・・・平九郎め!」「このままでは村がつぶれてしまう・・・」

平九郎に対する憎しみが心のそこから湧きあがってくるのでした。

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稲美町探訪(23):伊左衛門物語①

2009-11-17 22:30:34 | 稲美町

結論を最初に書いておきます。

寛延二年、百姓の怒りは、爆発しました。世に言う「寛延・播磨全藩一揆」です。この一揆の首謀者の一人は、野谷新村の「伊左衛門」でした。

伊左衛門は刑場に消えました。

ブログでは、伊左衛門を取り上げたいのですが、今日は、伊左衛の生きた、当時の姫路藩のようすをみておきます。

姫路藩は火の車

96b7ca2d 徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。

その時、白河藩では、「借金を踏み倒すな」と、ひと騒が起こっています。屋台骨はゆらいでいました。

姫路藩への国替えは、その苦境を救うため発令されたようなものでした。

白河藩、姫路藩ともに十五万石ですが、実際の収入では米のほか、塩・木綿・皮等の産業をあわせると姫路藩の方がはるかに勝っていました。

姫路藩への転封は、松平家にとっては喜ばしいことだったのですが、その費用をつくるため商人から多額の借金をしての姫路への入部となりました。

明矩は、借金の返済は姫路で行うと約束して、やっとのことで姫路へ来ることができました。

そのため、姫路藩入部早々に、まず年貢の増税にとりかかりました。

そのやり口はひどいものでした。

大庄屋を通じて百姓衆が願い出たという形式をとっての増税でした。

さらに、参勤交代や、朝鮮使節の接待費などが重なりました。

特に、朝鮮使節の接待費用二万両を町人・農民に負担させました。

悪いことは重なるもので、この年、猛烈な台風が襲ったのです。

そして、寛延元年(174811月、明矩は急死しました。

嫡子は、10才とまだ幼い。

翌年、早々には転封のことが予告されたのです。

この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。

藩主の死により、政治に空白ができました。

寛延元年もくれようとする1221日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせたのです。

この時は、百姓の怒りは燃え上がらずにおわりました。

しかし、翌年早々のことでした・・・

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稲美町探訪(22):印南新村誕生②・一公九民の村

2009-11-16 22:51:45 |  ・稲美町水を求めて

 印南新村の免相は一割 

江戸時代の年貢は、百姓個人にではなく、村にまとめて課されました。

 それを庄屋が中心になり、村人に年貢を割り振るのです。

それにしても、印南新村の免相は、驚くばかりの低さです。

*免状の「免相(めんあい)」は、年貢率のことです。

下の印南新村に残る、宝暦十年(1760)の「年貢免状」を読んでみましょう。

      辰年免相之事    印南新村

  一、高 四百八拾弐石三斗九升      新田

     取米 五拾四石九斗五升弐合    壱ツ壱分四厘

  一、高 百九拾五石弐斗九升二合     新田

     取米 二拾弐石二斗九升二合    壱ツ壱分四厘

  一、高 参百四拾九石七斗八升六合    新田

     取米 参拾九石八斗七升六合    壱ツ壱分四厘

9fb4f90e なんと、印南新村の免相は約1割(黄色の部分)です。

 税は年貢だけではないのですが、この免相の低さは特別です。

 当時の年貢は、生産の高い村々は高く、少ないところは低くおさえられていました。

 生産の少ない地域から多くの税を取れなかったのです。

印南新村からは、約1割より多くの年貢を取れば、百姓の生活が成り立たないということです。

 もっとも、免相(税率)が低いのは、母里地区の村々に共通していますが、とりわけ印南新村の人々の生活はまずしかったようです。

それでも、将来に希望を持って、この地を離れようとしませんでした。

印南新村の農民の願いは「水」でした。

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