ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(465):蛸草を歩く(8)・小山五郎右衛門④

2011-04-13 10:34:02 |  ・稲美町蛸草

蛸草新村の開発は、中村の小山五郎右衛門が中心になり開発が進んだことを書いています。

蛸草に地続きで、開発に有利な位置にある岡村がなぜ蛸草の開発にあまり熱心に動いていないのでしょう。

もちろん、五郎右衛門の政治力があり、割り込めなかったということもあるのでしょうが、岡村はすでに国岡新村の開発を進めていました。

蛸草新村の開発にまで手が回らなかったのかもしれません。その間に、五郎右衛門が開発に乗り出しています。

少し話はそれますが、国岡の新田開発について簡単に触れておきます。

   

 岡村は国岡新田の開発を!

2c2a3050 国岡土地改良区には、数冊の国岡新村の明細帳が残されています。

その内、寛延三年の明細帳を読んでみます。

明細帳の表紙は、下記のようです。

寛延庚午歳   中村組

明細帳

三月     国岡新村

(寛延庚午歳とは、1750年のことです)

  国岡新村誕生・寛文二年(1662

 明細帳の最初の部分です。

加古郡五ヶ所蛸草庄国岡新村

一 村之初り寛文二寅歳 開発人  彦太夫
                   安右衛門

 この明細帳は、国岡新村ができてから88年後に書かれています。

国岡新村のはじまりについて、『稲美町史』(p3512)も「・・・国岡は寛文二年国安村の彦太夫と岡村の安右衛門が開発した。

国岡新村という名称は安村・村の頭字をとって名づけられたという。・・・」と、国岡新村の村名の由来を紹介しています。

国岡新村は、国安村の庄屋・彦太夫と岡村の庄屋・安右衛門が中心になり開発した村です。

 そのため、国岡地区の祖先は、国安(村)・岡(村)出身の方が多かったと思われます。

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稲美町探訪(464):蛸草を歩く(7)・小山五郎右衛門③

2011-04-13 00:16:50 |  ・稲美町蛸草

相の山

「相の山」について少し説明しておきます。

現在「相の山」は、町名として名前を残していますが、これは戦後開発された新興の住宅地域です。

もとの「相の山」は、現在の「六分一山」から印南地区につらなる山林地帯の指した呼び名でした。

この「相の山」地域は明石郡と接しており、しばしば争いを起こしています。

寛文6年(1666)にも郡境をめぐる争がありました。

郡境が確定され、加古郡の土地として相の山周辺には原野がひろがりました。

その頃、五郎右衛門は、気鋭の青年でした。

   「蛸草新村」の開発!

014_3やがて、先に紹介したように五郎右衛門は、絶大なる政治力を持つ大庄屋に任命されました。

彼は、相の山周辺に広がる原野に目をつけました。

五郎右衛門は西条組の大庄屋(沼田与次太夫)を抱きこみ、強引に相の山周辺、つまり「蛸草新村」の開発を進めました。

元禄10年(1697)のことです。

開発当時は畑のみでしたが、元禄15年(1702)に、村のもっとも上手にため池造り、翌16年(1703)には広沢池・広谷池(明治24年拡張)を築き、水田2町歩を開きました。

蛸草大池(天満)大池の上流に池を築くことは、天満大池の水が少なくなり蛸草郷の反対があり難しい問題を抱えるのがふつうですが、五郎右衛門の強引な政治力がそれを可能にしたようです。

五郎右衛門の倅の久右衛門は蛸草新村の初代の庄屋になっています。

新田に蛸草新村と名づけたのは、入植者の多くが蛸草郷出身者で占められていたからでしょう。

現在、蛸草集落の旧家の多くが中村の円光寺や北山の常泉寺を旦那寺としているのは、ここに源がありあます。

五郎右衛門が蛸草に残した足跡をとどめるための碑が残されています。

写真は、その一つ蛸草中条墓地の碑と碑文です。

              開発人 

月洲智昭居士   小山五郎右衛門

         先祖子孫者

         敬之 

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稲美町探訪(463):蛸草を歩く(6)小山五郎右衛門②

2011-04-12 15:21:06 |  ・稲美町蛸草

  蛸草の開発者、小山五郎右衛門について調べておきましょう。

『稲美町史』から引用しますが、たぶんに伝承的な説明です。

*この記事は、「稲美町探訪(248)・中村を歩く②」と重なります。

最初の部分は省きます。

「・・・小山氏一の祖先は、鎌倉時代下野(しもつけ・栃木県)の国から一時播磨の守護になって来た。

その子孫、小山源兵衛が三木別所氏に仕えていた。

天正八年(1580)一月、城主別所長治が自刃するとき長治(ながはる)の意を受けて別所氏の守り本尊十一面観音を奉じ、長治の末子をともなって蛸草庄(現:稲美町中村)に難をのがれ、庵を結んで十一面観音を祀り、京林山西教寺と号した。

この源兵衛の後を、源兵衛が伴い帰った長治の末子があとを継いで、(小山)与兵衛と名のった。

その五代目が五郎右衛門であった。・・・」

話としては、少しできすぎのようです。

三木城落城のさなか、別所長治の末子を連れ、三木城を脱出できたとは想像できません。

   小山氏は元、蛸草城の城主か?

Photo事実は、中村組の大庄屋・小山氏は赤松の血筋を引く小山田兼定(おやまだかねさだ)が祖先の一人で、源兵衛は三木城にこもり、三木城が落城した時、長治の本尊を持って中村に来て後に一寺(西教寺)を建てた」ということではないかと想像されます。

小山氏が藩主から「大庄屋」に任ぜられたのは、戦国時代に中村にあった「蛸草城」の城主・小山田氏だったためと考えられます。

小山氏は、もともとこの地域の領主的存在であったようです。

初期の大庄屋は地域の有力な一族から選ばれることがふつうでした。

なお、西京寺は蛸草城跡に建立されたと考えられていますが、その後西京寺は無住となり、明治初年の神仏分離にあたり国安にあった円光寺は天満神社の地から中村の西教寺跡に移り現在にいたっています。

想像の多い報告です。

*写真:源兵衛の子孫で、円光寺20世となった大阿闍梨(あじゃり)の石塔(円光寺墓地)

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稲美町探訪(462):蛸草を歩く(5)・小山五郎右衛門①

2011-04-12 07:48:44 |  ・稲美町蛸草

   

蛸草新村は、蛸草大池の上流の村

8741f1e6蛸草新村は元禄10年(1697)、中村大庄屋・小山五郎右衛門、上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与次太夫の両人よるもので、村名は、はじめはその面積から「六十丁」と呼ばれました。

蛸草新村は、天満大池(以下、当時の呼び方である蛸草大池という)が水を集める溝(流・りゅう)の上流にあたります。

そこに蛸草新田がつくられると、それらの田畑を潤すための溜池がつくられることになります。

当然のこととして蛸草大池に集まる水は少なくなります。

旧蛸草村(北山・中村・森安・六分一・国安・岡とその周辺)の百姓は、黙っていることはできません。

当時でも、水利慣行の変更は余ほどのことがなければ不可能でした。

旧蛸草村の人々は蛸草大池の上流に新池を作ることに反対します。

可能な方法は、一つだけあります。

藩の命令です。

藩からの命令があれば百姓はしぶしぶでも従わねばなりません。

   

大庄屋・小山五郎右衛門

しかし、蛸草新田の開発では、藩の命令があったという形跡はありません。

地元で解決しなければなりません。

さいわい、当時、開発の中心になったのは、上西条の大庄屋・沼田与次太夫と中村の大庄屋・小山五郎右衛門でした。

とりわけ、大庄屋・五郎右衛門は元禄年間から宝永年間にかけて、その辣腕を発揮した大庄屋でした。

五郎右衛門は、旧蛸草村の中心であった中村の人です。

彼は、旧蛸草の村々の百姓を説得できる立場にあった唯一の人物です。

時には、強引に事を運び、横暴ぶりも発揮するのですが、五郎右衛門こそ蛸草新村の歴史をつくった第一人者です。

新田は、「蛸草荘」の最後の開発地という意味で蛸草新田と改名されました。

新田村を「蛸草新村」と名づけたのも五郎右衛門だったのかもしれません。

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稲美町探訪(461):蛸草を歩く(4)・蛸草大池(現:天満大池)

2011-04-11 08:34:52 |  ・稲美町蛸草

4a9dc40e江戸時代以前の蛸草の旧六か村(今の北山・中村・森安・六分一・国安・岡)は天満大池を生活の基盤とする村々(池郷)でした。

ですから、天満大池は、もと「蛸草大池」と呼ばれていました。右の絵図(江戸時代前期寛文6=1666年)をご覧ください。

池は、現在の天満大池ですが「蛸草大池 」と書かれています。

話は、すこし横道にそれます。

      

   蛸 草 大 池

天満神社の祭神の話をしましょう。

天満神社は神社の縁起はともかく、大変古い歴史を持つ神社です。

この地域(蛸草郷)を開拓した人々にとって、池(水)はまさに神であり、大池を池大神として祀りました。

後に、菅原道真が「この地に立ち寄られたという縁起」で、道真が祀られるようになりました。

そして、「永禄8年(1565)、本社を再建した時に、主神を池大神から天満天神(管原道真)とした」というのです。

天満神社は、もともとは池大神をお祀りする神社として出発しています。

天満(蛸草)大池そのものが神社の御神体だったのです。

まさに、天満大池は稲をそだて、豊かな生活(稔)約束する神でした。

もちろん天満神社は、蛸草旧六か村の氏神です。

    

   蛸草新村の開発がはじまる

 ここから、現在の蛸草(村)の話になります。

江戸時代の初めのころ、天満大池の水が集まるところに新田(蛸草新村)の開発が始まりました。

当然、天満(蛸草)大池に集まる水は少なくなります。

旧蛸草村は大変です・・・

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稲美町探訪(460):蛸草を歩く(3)・地名「蛸草」

2011-04-10 07:12:18 |  ・稲美町蛸草

地名「蛸草」

それにしても「蛸草」は不思議な地名です。「蛸草」の語源についての定説はありません。

『地名でたどる小さな歴史Ⅱ(橘川真一編著)』(神戸新聞総合出版センター)では、「・・・地名の由来は、ここは昔海に近く、よく蛸が草にからみついていたからというが、ちょっと信じにくい。

おそらく高草(たかくさ)がその語源であろう」と書いています。

   蛸草は「タケクサ」からの転訛!    

144 また、郷土史家の石見完次氏は、蛸草の地名について次のように説明されています。

・・・現在の「蛸草」という地区は、旧蛸草村の人達が開拓した新田村であるから、「蛸草」という地名の起源は当然(江戸時代以前の)蛸草村にあるわけである。

「長草」という小字名が大池の下の谷に今もある。

ナガクサという土地の人は読むが、「タケクサ」が本来の呼び方であろう。

「タケクサ」が転訛して「タコクサ」になることは容易に納得できる。

この長草(たけくさ)の茂る谷に臨む両岸の六か村(今の北山・中村・森安・六分一・国安・岡)が「タケ草谷村」と呼ばれ、「タコ草谷村」と訛って呼ばれるようになったことも肯けるのである。・・・(『印南文華(4)』より)

余談を付け加えておきます。

日本語では奈良朝ぐらいから明治ごろまで、身長・高さのことを、もっぱら「たけ(丈)」といいました。

樋口一葉の「たけくらべ」思い出していただければ想像がつきます。

橘川説より石見説に引かれるのですが・・・

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稲美町探訪(459):蛸草を歩く(2)・「蛸草」の名称復活

2011-04-09 08:52:59 |  ・稲美町蛸草

      現在の蛸草は、江戸時代の新田村

Ff1483db 蛸草①(前回)で紹介した蛸草庄の図(地図)をご覧ください。 

図は、江戸時代以前の蛸草庄の範囲を示しています。 

この蛸草庄と現在の稲美町天満蛸草との関係が分かりにくいと思います。

簡単に説明しておきます。 

現在の蛸草も地域として、もとは蛸草庄に属していましたが、江戸時代となり各村々は、一つの単位として政治(生活)がおこなわれるようになりました。

そのため、地域の名称としての蛸草は、室町時代で一度消えました。 

蛸草庄と現在の蛸草は直接の繋がりはありません。 

現在の蛸草は、江戸時代に開発された新田村に新たにつけられた村名です。 

   「蛸草」の名称復活 

現在の蛸草は、中村・小山五郎衛門(元禄13年に大庄屋となる)が、元禄10年(1697)に開発を始めました。 

同年5月、藩に開発許可願いを提出し、許可を得て数年後には畑38町を開いています。 

この開発には上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与治太夫の協力がありました。 

そのため、西条方面より当地に移住する者も多くいました。 

与治太夫の一族の沼田与平治の子・久右エ門は、元禄10年(1702)にこの地に移住し、庄屋を仰せつけられています。 

たぶん開拓者・小山五郎衛門か、協力者の沼田与治太夫でしょうが、伝統のある「蛸草」の名を自らの村名として復活させたとおもわれます。

それにしても、「蛸草」とは不思議な呼称ですね。

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稲美町探訪(458):蛸草を歩く(1)・五箇荘のうち蛸草

2011-04-08 08:36:18 |  ・稲美町蛸草

 稲美町母里の蛸草の散策に出かけます。テーマは「蛸草を歩く」としておきます。

 今日はその第1回です。きょうの報告の「蛸草」は、現在の蛸草ではありません。

 でも、「蛸草を歩く」は、「元の蛸草」と、「今の蛸草」を比べるところから歴史散策に出かけます。

 内容は、「稲美町探訪(78)」と重なります。

 蛸草・五箇荘のうち蛸草庄について

     五箇荘(ごかのしょう)

A76517e0平清盛は、播磨国印南野に大巧田(だいこうでん)を賜りました。

仁安2年(1167)のことです。

功田(こうでん)というのは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。

中でも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地でした。

しかも、無税地です。

平家が賜ったこの私有地(荘園)は、五箇荘(ごかのしょう)と呼ばれています。

五箇荘について『加古郡史』は、「野寺・北山・中・森安・六分一・国安・岡の七村をいう」とあります。

しかし、近年の研究では五箇荘は、現在の稲美町はもちろんのこと、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな荘園であったようです。

稲美町域は、平氏の支配する五箇荘に属していました。

しかし、平家滅亡後は、平氏の持っていた所領は全て没収されてしまいました。

そういう没収された平家の所領を平家没官領(もっかんりょう)と呼んでいます。

この平家没官領に新しく関東から源氏系の武士が大量の流入があり、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。

    五箇荘のうち蛸草庄 

時代はずっと下がるのですが、江戸時代中期、元文二年(1737)の国安の明細帳に「加古郡五ヶ庄蛸草谷国安村」とあります。

「五ヶ庄蛸草(谷)」に注目ください。

蛸草庄は、五箇荘の一部で国安をはじめ、森安・中・北山・六分一・岡とその周辺を含む地域を指しています。

かつて、草谷庄の地域は、蛸草郷とも蛸草谷とも呼ばれていました。 

*図は、『稲美町の歴史』(伊賀なほゑ著)参照

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稲美町探訪(79):蛸草②・「蛸草」の名称復活

2010-01-11 23:16:25 |  ・稲美町蛸草

  蛸草②いまの蛸草は、江戸時代の新田村

 蛸草①(前回)で、蛸草庄を紹介しました。

昨日紹介した図(地図)をご覧ください。

図は、江戸時代以前の蛸草庄の範囲示しています。

この蛸草庄と現在の稲美町天満蛸草との関係が分かりにくいと思いますので、説明しておきます。

現在の蛸草も地域としては蛸草庄に属していましたが、地域の名称としての蛸草は、室町時代で一度消えました。

蛸草庄と現在の蛸草は直接の繋がりはありません。

現在の蛸草は、江戸時代に開発された新田村に新たにつけられた村名です。

  「蛸草」の名称復活

144 蛸草は、中村の大庄屋・小山五郎衛門が、元禄10年(1697)に開発を始めました。

同年5月、藩に開発許可願いを提出し、許可を得て数年後には畑38町を開きました。

この開発には上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与次太夫の協力がありました。

そのため、西条方面より当地に移住する者も多くいました。

与治太夫の一族の沼田与平治の子・久右エ門は、元禄10年(1702)この地に移住し、庄屋を仰せつけられています。

たぶん開拓者・小山五郎衛門か、協力者の沼田与次太夫等でしょうが、伝統のある「蛸草」の名を自らの村名として復活させています。

開発当時は畑のみでしたが、元禄15年(1702)には、村のもっとも上手にため池造りをはじめ、翌16年春、広沢池・広谷新池を築き、水田2町歩を開きました。

これが、蛸草村の稲作の始まりです。

村の古文書に「元禄16年(1703)水田2町歩を開き、稲をつくり915日に作米三俵を年貢米として高砂の蔵に納めた・・・」ことがみえます。

『宝暦14年(1764)明細帳』によれば、蛸草の家数107軒・人数610人・田方65反1畝5歩・畑方42321歩であり、この頃48町余の耕地を作り上げています。

しかし、一軒当たりの耕地面積は4反5畝に過ぎず、零細な村でした。

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稲美町探訪(78):蛸草①・五箇荘のうち蛸草庄

2010-01-11 06:44:58 |  ・稲美町蛸草

   蛸草・五箇荘のうち蛸草庄

「池と天満宮」の話を続けますが、話の都合上蛸草(庄)の話をしましょう。

   五箇荘(ごかのしょう)

A76517e0 平清盛は、播磨国印南野に大巧田(だいこうでん)を賜りました。

仁安2年(1167)のことです。

功田(こうでん)とは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。

中でも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地でした。

しかも、無税地です。

平家が賜ったこの私有地(荘園)は、五箇荘(ごかのしょう)と呼ばれています。

五箇荘について『加古郡史』は、「野寺・北山・中・森安・六分一・国安・岡の七村をいう」とあります。

しかし、近年の研究では五箇荘は、現在の稲美町は当然のこと、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな荘園であったようです。

私たちの地域は、平氏の支配する五箇荘に属していました。

しかし、平家滅亡後は、平氏の持っていた所領は全て没収されました。

そういう没収された平家の所領を平家没官領(もっかんりょう)と呼んでいます。

この平家没官領に新しく関東から武士が大量の流入があり播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。

    五箇荘のうち蛸草庄 

時代はずっと下がるのですが、江戸時代中期、元文二年(1737)の国安の明細帳に「加古郡五ヶ庄蛸草谷国安村」とあります。

「五ヶ庄蛸草(谷)」に注目ください。

蛸草庄は、五箇荘の一部で国安をはじめ、森安・中・北山・六分一・岡とその周辺を含む地域を指しています。

かつて、草谷庄の地域は、蛸草郷とも蛸草谷とも呼ばれていました。

それにしても「蛸草」とは不思議な名称です。

この地域は、開発当時「高い草」が茂っていたところから名づけられたと言うのが有力な説ですが、確かなことは分かっていません。

右の地図で、室町時代までの「蛸草庄」の範囲を確認ください。

蛸草庄の村々は、天満大池の水を共に使う村々でした。

*図は、『稲美町の歴史』(伊賀なほゑ著)参照

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