日本人の平均寿命は男:79.00才、女85.81才(平成18年)とある。
高齢者問題は、いよいよ緊急な課題になっています。
特に、老後の人生をいかに有意義に生きるかと言う問題はとりわけ重要な視点になった。
耕衣のみた今福村の風景
ここに、見事に人生を終えた俳人がおられる。
その人は永田耕衣(ながたこうい)氏で、彼は、明治33年2月21日、今福で誕生した。
もちろん、耕衣は俳句の世界で、すばらしい業績を残されているが、彼の生き方はユニークで、現代の高齢者社会において、「老後をいかに生きるべきか」という問題提起をしているようです。
耕衣氏の業績と、生き方に感銘した城山三郎氏は小説『部長の大晩年』(朝日新聞社)で耕衣氏を紹介されている。
内容は、小説をお読みください。
城山氏は、おそらく小説を書くにあたり今福を取材されたのでしょう。
耕衣の小学生の頃(明治時代の終わり頃)の今福(村)を次のように描いている。
「・・・(今福は)加古川の豊かな水を引き込んだ水路には、鮒、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)などが多く、林蔵(父)が鯰を好むので耕衣は特に鯰を狙った。
岸辺の水草や藻をつついて追いかけたのを、タモですくったり、小さな蛙を縛りつけて針でつりあげたり。
・・・
初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う。・・・・」
明治の終わりのころの今福を「蛍の里」として描いておられる。
このか所は、『尾上町今福探訪①』で引用したが、再度掲載させていただきました。
また、自身は子供のころの今福の風景を『火の記憶』で、次のようにも語っている。
これは耕衣、81才の文章です。
「・・・私の生家は、印南の只中に存在する50戸ばかりの寒村の、はしっぽにあった。
門先からは、いつも鶴林寺の森と塔が眺められた。
二千メートルも南へ行けば瀬戸内海の浜辺に出られるのだが、少年時代もその海に親しむこともなかった。
山は遠くただダダっ広い田圃と畦道が遊び場であった。
わずかに荷車の通ることのできる程度の農道が幹線道路で、その他は各農家の所有の田を、お互いに区切りあった畦ばかり。
そのアゼに、春はレンゲやタンポポが無数に咲いた。
ことに田植前までの田圃は、たいていレンゲを茂らせていた。
まったくの「春の野」といえる豪華な夢の世界であった。
村童たちも夢のように、村を離れて、ソコら中を自由に駆け巡った。
そうした「野遊び」に「孤独感」はなかった。
両親をも忘却しきって、さながら舞い遊んだ。
遊び暮らした。
一切の「世苦」等は身に覚えぬ別天地であった。
*写真上:永田耕衣、写真下:耕衣の生家(尾上町今福)