奕保禅師倒れる
熊沢泰禅(たいぜん)禅師は、永平寺73世貫主です。
奕保氏は熊沢禅師のもとに仕えていました。
昭和43年、永平寺の後堂(雲水の指導)として、二年を過ごした宮崎禅師は、生涯忘れることができない、ある出来事に遭遇しました。
その日、後堂は夜中に目を覚まし、トイレに起き、部屋に戻り床に就こうとした時でした。突然、電話が、鳴り響きました。時刻は、午前零時。
すると、受話器の向こうから切迫した声が聞こえてきました。
「禅師様(熊沢禅師)のご様子がおかしいんや」
奕保氏は部屋を飛び出しました。一目散に階段を駆け上った。
60代も半ばを過ぎた老体。しかも、出し抜けに駆けだしたために息が切れました。
階段は百段近くあります。息が苦しくなってきました。
脇の廊下から誰かが突然出てきました。
雲水でした。その雲水に向かって叫びました。「おい、尻を押せ」
その助けによって何とか階段を登り、住職の住まいである方丈(ほうじよう)、に最後の力を振り絞って駆けました。
たどり着いた時、住職はすでに息を引き取った後でした。
奕保氏は、涅樂(ねはん)に入ったばかりの住職と対面しました。96歳でした。
宮崎禅師にとって、熊澤禅師は大きな存在でした。
熊澤禅師は、24年にわたって永平寺の住職を務めましたが、いつも雲水たちと一緒になって修行に励んでいました。
そうした姿に、宮崎禅師は、「あれこそが本当の修行だ」と尊敬の念を抱いていました。
熊澤禅師が亡くなったことで、宮崎禅師は、あわただしい日々を強いられることになりました。
永平寺では住職が亡くなると、法要が行われます。大法要です。全国各地の僧侶や檀信徒、さらには数多くの来賓もやって来ます。
官崎禅師は、その準備を一手に引き受けることになったのです。
本来であれば別の僧侶と行うのですが、この時、あいにく体の調子が良くなく、宮崎禅師はその代行もしなくてはならなかったのです。
悪いことは重なりました。宮崎禅師はこの時、少し前から引いた風邪をこじらせていました。
そのために体調はどんどん悪くなりました。しかし、宮崎禅師は休めませんでした。
法要は、とどこおりなく営まれました。しかし、その後も宮崎禅師の体調は思わしくなく、 法要がすんだ後も、別の行事は続きました。
ついに禅師は、訪れた丹波の寺で倒れました。朝、法要の前にトイレで用を足していた時のことでした。
窓の外目をやった瞬間にめまいがして、その場に倒れ込んでしまったのです。
すぐに病院に担ぎ込まれました。しかし、治療を受けると、すぐに永平寺に戻って、仕事を続けるのでした。(no4574)
◇きのう(12/8)の散歩(11.213歩)
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