ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮崎奕保さんのこと(23) 奕保氏からのメッセージ

2018-12-15 10:07:56 | 宮崎奕保さんのこと

 

       奕保氏からのメッセージ

 作家・立松和平氏は宮崎奕保氏に自然について質問されています。

 《立松和平》

 こうやって鳥が鳴いていて、永平寺はいつも自然に包まれていて一般的にもいいところだと思うんですが、禅師様は大自然のことをどのようにお考えでしょうか」

 《奕保禅師》

 自然は立派やね

 わたしは日記をつけておるけれども

 何月何日に花が咲いた

 何月何日に虫が鳴いた

 ほとんど違わない

 規則正しい

 そういうのが法だ

 法にかなったのが大自然だ

 法にかなっておる

 だから、自然の法則をまねて人間が暮らす

 人間の欲望に従っては迷いの世界だ

 真理を黙って実行するというのが大自然だ

 誰に褒められるということも思わんし、これだけのことをしたらこれだけの報酬がもらえるということもない

 時が来たならばちゃんと花が咲き、そして黙って、褒められても褒められんでもすべきことをして黙って去っていく

 そういうのが、実行であり、教えであり、真理だ

 

 これで、「宮崎奕保さんのこと」を終わります。お読みいただきありがとうございました。(no4580)

  ◇きのう(12/14)の散歩(11.762歩)

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宮崎奕保さんのこと(22) さようなら、ありがとう

2018-12-14 08:55:22 | 宮崎奕保さんのこと

          さようなら、ありがとう

 只管打坐によって宗門を導いていくと宣言した宮崎禅師は、それを実際に行動によって示しました。未明の僧堂には、誰よりも早く坐禅を行う老住職の姿がいつもありました。

 永平寺の住職(貫主)になった当初、自分にどれだけその大役を務めることができるか、分かりませんでした。

 「せいぜいもって、一年か二年だろう」

  かつて大病を患ったこともあり、不安を抱えながら、永平寺の住職としての務めでした。

  しかし、宮崎禅師は、90歳を過ぎた老体にもかかわらず、しばしば地方の寺に出かけました。

 宮崎禅師のスケジュールの管理をしていた老師は、「まるで、若いビジネスマンのスケジュールようであった」と。

 この頃、宮崎禅師のもとで侍局長されていたのは北野泰成(たいじょう)氏でした。

 余話になりますが、北野氏は後に、私の卒業した高校の同窓会長を長らく務めておられ、よくお見かけしました。

 しかし、宮崎禅師の体力は、日に日に衰えました。

 平成19年の11月、宮崎禅師は九州で法要を行った後に、かつて住職を務めた札幌の中央寺に行かれました。

 その後、数日にわたって微熱が続いたため、入院検査でした。

 検査の結果は、肺が片方機能していないために酸素が十分に摂れなくなり、肺や気管支で炎症をおこしていたのです。

 しかし、年齢のため、自然に回復するのを待つより方法はありませんでした。

 平成20年1月5日、新年を迎えて108歳になったばかりの宮崎禅師は、長い人生に幕を閉じられました。

 洞宗大本山永平寺78世貫主は、およそ1世紀にわたって、ひたすら坐禅を行い続けた禅僧でした。

 奕保氏の最後の言葉は、遺偈(ゆいげ)に残されています。

 「慕古真心(もこしんじん) 不離叢林(ふりそうりん) 末後端的(まつごたんてき) 坐断而今(ざだんにこん)」(先達たちの行いをしたう真の心は、常に僧堂の精神を忘れないということです。この時(臨終)に臨んで言えることは、これまで通り、今とこの一瞬を、ただひたすら坐りぬいて行く、ということだけです)

  なお、遺偈の後に、ひらかなで「さようなら ありがとう」の文字がありました。

 最後の最後まで修行を続け、涅槃に入られました。(合掌)(no4579)

  ◇きのう(12/13)の散歩(11.014歩)

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宮崎奕保さんのこと(21) 奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に

2018-12-13 08:34:04 | 宮崎奕保さんのこと

 

      再び永平寺へ

 札幌にある大寺院、中央寺の住職になって5年の歳月が流れました。この間奕保禅師は雲水の育成に全力を注ぎました。

 昭和56年の夏、宮崎禅師(せんじ)の人生にまた大きな転機が訪れました。

 永平寺で監院(かんいん)を務めていた禅師が亡くなり、宮崎禅師は、その後任を引き受けてほしいと頼まれたのです。

 監院というのは、禅寺において会計や人事、あるいは地方の寺院との連絡や外部との交渉、さらには広報的な事柄にいたるまで、寺の維持運営に関わるすべての責任を負う役柄です。

     奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に

 続いて、宮崎禅師は副住職に推挙されました。

 宮崎禅師は、副住職になった時、85歳でした。

 一方・永平寺の住職(貫主)である丹羽禅師は・宮崎禅師よりも年下で、81歳でした。

 副住職になって8年半の歳月が流れた平成5年9月7日、丹羽禅師が亡くなられたのです。

 これを受けて宮崎禅師は、七十八世貫首に就任することになりました。

 宮崎禅師、この時93歳でした。

 平成5年11月30日・永平寺の上空には青空が広がり、やわらかな日の光が山内を照らしました。

 その日、78人目の住職の就任を祝う晋山式(しんざんしき)が行われました。(no4578)

  ◇きのう(12/12)の散歩(12.569歩)

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宮崎奕保さんのこと(20) 北の大地にわたる

2018-12-12 10:41:28 | 宮崎奕保さんのこと

 

     北の大地にわたる

  昭和47年4月、長い人院生活が終わり、老僧は、ようやく寺に戻ることが

 できました。72歳でした。

 老僧は、体力がかなり衰えていました。

 病院での生活が長かった上に、結核の後遣症で片方の肺の機能を失っていたからです。食事もあまり進みませんでした。

 老僧は、身を引くことを真剣に考えていました。

 そんなある日、弟子の側にやって来て、禅師はこう言ったのです。

 「今、札幌から電話があったんや。中央寺の住職として来いと言うんや」

 中央寺というのは、札幌市にある永平寺直属の末寺です。

 弟子たちは、師匠が迷っているのがよく分かりました。

 当時、中央寺の住職は、宮崎禅師が若い頃に目を掛けてもらった永平寺六十八世貫首、秦慧昭(えしよう)禅師の弟了である秦慧玉(えぎよく)禅師が務めていました。

 ところが、その慧玉禅師が永平寺七十六世貫首に就任することになったため、中央寺住職の後任を官崎禅師に任せたいと言ってきたのです。

 しかし、体の調子は、まだすぐれません。そのような状態で北海道に行くということに、不安を覚えました。

 結局、宮崎禅師は迷った末に、この話を断ることにしました。

 ところが、慧玉禅師は受け入れてくれません。

 逆に、宮崎禅師は喝を入れられてしまったのです。

 慧玉禅師に「禅宗坊主がどこで死んだって同じじゃないか」と。

 この言葉は、病床で悟った「平気で生きる」ということと同じ意味でした。

 宮崎禅師は思い直しました。

 昭和51年6月、宮崎禅師は、北の大地に渡りました。この時、76歳。まさに、老齢にして訪れた人生の大転機でした。

 僧堂復活(雲水の教育)にかける思い

 中央寺は、曹洞宗にとって重要な寺院のひとつです。創建は明治7年と歴史は浅いのですが、北海道に道元禅師の教えを広めていくための拠点とされていました。

 過酷な自然の中で開拓を行う人々のよりどころとなるお寺でした。

 歴代の住職たちは、開拓の進展にあわせながら、道内各地に寺院を次々と建立していきました。

 その結果、中央寺は、29ヵ寺もの末寺を持つ大寺院に発展していました。(no4577)

  ◇きのう(12/11)の散歩(11.231歩)

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宮崎奕保さんのこと(19) 平気で生きること

2018-12-11 11:50:05 | 宮崎奕保さんのこと

 

        「平気で生きること」の大切さ

 宮崎禅師は、もう死ぬかもしれないという瀕死の状態を経験しました。

 ・・・・

 命も危ないというほどの大病をして、「もう変わったというより、生まれ変わってきたようなもんや。いっぺん死んだんだから、生きておるということが不思議になってきた。だから、それからは、第二の人生や」と、よく言っておられました。

  また、次のように述べておられます。

 「正岡子規の『病牀六尺(びようしようろくしやく)』で、『人間は、いつ死んでもいいと思っておったのが悟りだと思っておった。ところが、それは間違っておった。平気で生きておることが悟りやったと書いてある。いつ死んでもいいと思っておったのが悟りやったと。ところが、いつ死んでもいいどころではない。平気で生きておることが悟りや』と。

 

 奕保禅師の入院生活は、結局、三年四ヵ月もの長期問におよびました。

 その間、奕保禅師は、いつも窓の外に向かって坐りました。

 加古川は、工業地帯であると同時に、大阪や神戸、姫路に通うサラリーマンたちのベッドタウンとして発展してきた街です。

 病室の窓からは、様々な形や色をした家々の屋根が見えました。

 空き地になっている場所もあります。家庭菜園か何かなのだろう。そこは、ちょっとした畑になっています。

 そうした窓の外の景色は、日本全国どこにでもありそうな、ごく平凡なものです。

 宮崎禅師は、そうした景色を眺めながら、「平気で生きる」ことを考えるのでした。

 その平凡な景色が、一番大切なもののように思えるのでした。 

 日々繰り返される単調な毎日を、人々はそれぞれ懸命に生きています。

 その中には、ささやかな喜びがあったり、逆に筈しみがあったりします。

 それらは平凡ではあるけれども、この上なく幸福なことなのかもしれないと思うのでした。

 そうした生活感にあふれた景色が、宮崎禅師に「平気で生きる」ということを考えさせたりしたのでしょう。・・・

 奕保禅師は「人間は、いつ死んでもいいと思っておったのが悟りだと思っておった。それは間違で、平気で生きることが悟りや」と語っておられます。(no4576)

 ◇きのう(12/10)の散歩(11.785歩)

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宮崎奕保さんのこと(18) 死の淵での坐禅

2018-12-10 09:44:33 | 宮崎奕保さんのこと

 

     死の淵での坐禅

 音崎禅師は、その後も身を粉()にしながら、務めを果たしました。

 しかし、一週問の法要の後、さすがに自らの進退を考えました。体の具合が、あまりにもひどくなっていたからです。

 ところが、宮崎禅師は、新たに住職になった佐藤泰舜(たいしゆん)禅師から「自分のもとでもう一期、永平寺の運営、雲水の指導を引き受けてほしい」と言われたのです。

 この事態に周囲の人々はあわてました。このまま永平寺の運営の仕事を続けたら宮崎禅師は命を落としかねません。

 皆、宮崎禅師の体を心配して、これ以上無理をするなと口々に言いました。佐藤貫主も引き留めることをあきらめ、禅師は加古川の福田寺に帰りました。

 体はぼろぼろになっていました。

 昭和44年の正月、69歳になった禅師はついに体が全く動かなくなりました。

 そして、炬燵で休もうとした時でした。

 老僧は力尽き、その場に倒れこんでしまったのです。

 駆けてきたのは、新たに弟子になった尼僧でした。

 禅師の顔はすっかり土色でした。

 老僧は、洗面所に立とうとしました。しかし、一人で立ち上がることはできません。足がパンパンに腫れていて、動かすことができなかったのです。

 老僧は尼僧の肩を借り、やっと病院に行くことができました。診察は正月でしたが、すぐに医者が来て診てくれました。

 「こりゃひどい。どうしてこんなになるまで放っておいたんや」

  老僧を診た医者は、付き添いの尼僧に向かって厳しく叱るのでした。

 「すぐに入院や。絶対安静にせなあかん」

  病名は粟粒(ぞくりゆう)結核。

 「本当は面会もあかんが、正直、助からん可能性もある。会える人には会っおきなさい」と付き添いの尼僧に向かって神妙な顔つきで言うのでした。

 しばらくして、老僧は閉じていた口をゆっくりと開きましたが、何も言えません。

  (ああ、もう終わりやな・・・)

 老僧は目を閉じると、もうろうとする意識の中で自らの死を覚悟しました。

 (もう死んでもいいわ……)

 それから数ヵ月、食事が取れない状態が続き、点滴と酸素吸入の日々が続きました。

 そんなある日、眠りから覚めた老僧は、横たわった状態でぼんやりしながら思いました。

 「そうや。どうせ死ぬなら坐禅をして死のう。坐禅をして、坊主らしく死のう」と。

 老僧はベッドの上で足を組み始めました。ゆっくりと背筋を伸ばし、最後に「ふうっ」と息を吐きました。

 しばらくして、老僧はふと気づきました。呼吸が少し楽になっていたのです。

 「坐禅をすると息が整う。道元禅師が仰っておるように、鼻で息をすると息が整うからね。それに、子どもの頃から坐禅をしておったから、來禅しておったほうが楽やったんや」と。

  死の淵で坐禅を行った時のことを、そう振り返っておられます。

 後年、宮崎禅師は、「瀕死の状態にあった自分が.命を取り留めることができたのは、坐禅をし続けたからです」と、こう語っておられました。(no4575

  ◇きのう(12/9)の散歩(12.619歩)

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宮崎奕保さんのこと(18) 奕保禅師倒れる

2018-12-09 09:59:33 | 宮崎奕保さんのこと

 

      奕保禅師倒れる

 熊沢泰禅(たいぜん)禅師は、永平寺73世貫主です。

 奕保氏は熊沢禅師のもとに仕えていました。

 昭和43年、永平寺の後堂(雲水の指導)として、二年を過ごした宮崎禅師は、生涯忘れることができない、ある出来事に遭遇しました。

 その日、後堂は夜中に目を覚まし、トイレに起き、部屋に戻り床に就こうとした時でした。突然、電話が、鳴り響きました。時刻は、午前零時。

 すると、受話器の向こうから切迫した声が聞こえてきました。

 「禅師様(熊沢禅師)のご様子がおかしいんや」

 奕保氏は部屋を飛び出しました。一目散に階段を駆け上った。

 60代も半ばを過ぎた老体。しかも、出し抜けに駆けだしたために息が切れました。

 階段は百段近くあります。息が苦しくなってきました。

 脇の廊下から誰かが突然出てきました。

 雲水でした。その雲水に向かって叫びました。「おい、尻を押せ」

 その助けによって何とか階段を登り、住職の住まいである方丈(ほうじよう)、に最後の力を振り絞って駆けました。

 たどり着いた時、住職はすでに息を引き取った後でした。

 奕保氏は、涅樂(ねはん)に入ったばかりの住職と対面しました。96歳でした。

 宮崎禅師にとって、熊澤禅師は大きな存在でした。

 熊澤禅師は、24年にわたって永平寺の住職を務めましたが、いつも雲水たちと一緒になって修行に励んでいました。

 そうした姿に、宮崎禅師は、「あれこそが本当の修行だ」と尊敬の念を抱いていました。

 熊澤禅師が亡くなったことで、宮崎禅師は、あわただしい日々を強いられることになりました。

 永平寺では住職が亡くなると、法要が行われます。大法要です。全国各地の僧侶や檀信徒、さらには数多くの来賓もやって来ます。

 官崎禅師は、その準備を一手に引き受けることになったのです。

 本来であれば別の僧侶と行うのですが、この時、あいにく体の調子が良くなく、宮崎禅師はその代行もしなくてはならなかったのです。

 悪いことは重なりました。宮崎禅師はこの時、少し前から引いた風邪をこじらせていました。

 そのために体調はどんどん悪くなりました。しかし、宮崎禅師は休めませんでした。

 法要は、とどこおりなく営まれました。しかし、その後も宮崎禅師の体調は思わしくなく、 法要がすんだ後も、別の行事は続きました。

 ついに禅師は、訪れた丹波の寺で倒れました。朝、法要の前にトイレで用を足していた時のことでした。

 窓の外目をやった瞬間にめまいがして、その場に倒れ込んでしまったのです。

 すぐに病院に担ぎ込まれました。しかし、治療を受けると、すぐに永平寺に戻って、仕事を続けるのでした。(no4574)

  ◇きのう(12/8)の散歩(11.213歩)

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宮崎奕保さんのこと(17) 永平寺の僧堂を任される

2018-12-08 08:53:30 | 宮崎奕保さんのこと

 

            永平寺の僧堂を任される

 昭和40年10月、65歳になった宮崎禅師は、大役を任されることになりました。

 時の永平寺住職七十三世貫首(かんしゆ)から本山の後堂(ごどう)に就任してほしいと頼まれたのです。

 後堂は特別な存在です。永平寺をまとめ、雲水たちの修行に対して責任を負う立場です。

 永平寺の雲水たちは、修行を終えたら各地の寺に戻っていき、そこで檀信徒たちに道元禅師の教えを伝えます。

 永平寺の僧堂で間違った作法を教えたのでは、後々、宗風が廃れることになってしまうのです。

 奕保禅師は僧堂中心の生活を続けてきた人物であり、まさに僧堂たたき上げの禅僧であると他の僧に知られていました。

 

 宮崎禅師の心に雲水の育成に対する情熱が満ちあふれていて、それを抑えることができなかったのです。

 加古川の福田寺(ふくでんし)では、そうした機会があまりありませんでした。宮崎禅師は、そうした状態に、内心、物足りなさを感じていたようです。

 自分も後進を導く立場である僧侶として、禅の道を伝えていきたい。雲水たちを育てる場がほしい。そう思っていたのではないかと思われます。

  実際、宮崎禅師の直弟子である宮崎和朗老師は、次のようにいっておられます。

 師匠は、『法(仏法)に親切である』ということを、よく言われておりました本当のあるべき姿はこうだというのを示すことを、法に親切であるというんですが、自分が受け継いだものを、次の代に受け渡していかないといかん。こういうことを、師匠は普段から思っておったようで、お山(永平寺)の役寮に行ったりしたのも、法のために行ったんだと思います。

 師匠は、名誉とかお金とかそういうことを抜きにしたところにおられましたから、損得勘定とか、人によく見てもらおうとかそういうことはまったくなしに、ただ法のために生きることが大事だと思って、お山に行ったんだと思います」と。(no4574)

  ◇きのう(12/7/18)の散歩(11.566歩)

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宮崎奕保さんのこと(16) 本当の自由を求めて

2018-12-07 12:05:18 | 宮崎奕保さんのこと

    本当の自由を求めて

 宮崎禅師と和朗老師が二人で修行を行った頃の日本は、世の中がどんどん変化していった時代でした。

 加古川の街も、徐々にその姿を変えました。

 化学、繊維、食品加工などの工場が次々と建設されていきました。

 また、港湾の整備や埋め立て、あるいは工業用水用のダムも建設されました。 そして、昭和40年代に入ると、神戸製鋼所の加古川製鉄所が操業を始め、加古川の河口付近の広大な埋め立て地に造られました。

 人々の暮らしも大きく変わっていきました。

 昭和30年代から40年代にかけて「三種の神器」が、一般の家庭に急速に普及しました。

 当時、師匠がこの変化を次のように語っておられます。

 「今に当たり前の事が嘘事(うそごと)になり、嘘事が当たり前になる」

 そして、「今、わしの言っておることが嘘事になって、世間で言っておることがホンマのことに、もうすぐ・・・」と。

 長い年月をかけて先達たちが守り伝えてきた禅の教えが、いずれ古くさいものとしてしか扱われなくなると心配しておられました。

 しかし、そのように案じるからこそ、宮崎禅師(奕保氏)は、しっかりと修行を続けることが人事だと弟子に繰り返し語りました。

 「時代が変われば変わるほど、もとの教えに帰っていかないかん」とよう言っておられました。

  宮崎禅師は、人々の暮らしが急速に変わっていく中で、大事なことが失われつつあると感じておられました。

 宮崎禅師が福田寺の住職になってからの40年というのは、まさに激動の時代でした。

 その変化の激しい時代を、宮崎禅師は、ひたすら真っ直ぐに歩み続けました。

 時代の荒波にもまれることもありましたが、決して流されることはありません。

 宮崎禅師は、「もう一瞬しかない。今しかない。坐禅に励むことや・・・一瞬しかないんや」と、語られるのでした。

  今、私たちは自由を求めて暮らしている。

 しかし、禅の世界で言う自由は、私たちが求める自由とはまったく違う。

  宮崎禅師は、「人間は、わがままを自由やと思っておる。そうではない。禅の自由は、己の欲求を満たすための自由ではない・・・・」

 「自由とは何かということを坐禅に求められたのです。(no4573

  ◇きのう(12/6)の散歩(10.313歩)

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宮崎奕保さんのこと(15) 宮崎和朗(わろう)禅師

2018-12-06 07:10:22 | 宮崎奕保さんのこと

   宮崎和朗(わろう)禅師(現在の福田寺ご住職)

 戦後、宮崎禅師は、福田寺で人々に禅の教えを説く一方で、僧侶の育成にも尽力しました。

 昭和2146歳になった宮崎禅師は、永平寺から単頭(雲水の指導)を務めてほしいとの要請を受けました。

 宮崎禅師はこの時、初めて永平寺の仕事を務めたのです。

 しかし、宗門の中でその力量を認められる存在となっていったものの、この頃の宮崎禅師にはある悩みがありました。

 実は、宮崎禅師には、自分の跡を継いでくれる弟子がいなかったのです。

 宮崎禅師は、50歳を越える年齢になってしまいました。

 昭和30年、奕保氏は、その日、東海道線の下り列車の中にいました。横浜にある総持寺から自坊に戻る途中でした。

 「こ老師、お久しぶりでございます」

  老僧は、車内で声をかけられました。声の主は、岐阜県の関ヶ原にある妙応寺という古い寺の住職でした。

 「今日はどちらまでいらしていたのですか」

  奕保氏は「総持寺の講習会で講師を務めさせていただき、これから福田寺に帰るところです」と答えました。

 「ほう、それはご苫労さまでした」

  その講習会は、総持寺の開山禅師が記した書を学ぶために、年に一度開かれる勉強会のことでした。奕保氏はその講師という大役を任されたのでした。

 「そうすると寺の留守は、お弟了さんが見ておられるんですか」

  老僧は、住職に聞かれました。

 「いや、わしはまだ弟子がおらんのです」

 「おやおや、そうでしたか。留守は誰が見ておるんですか」

 「留守にする時は、だいたい寺に出入りをしている在家の方に頼んでおる次第です。

 「そ.うですか、それにしてもご老師ほどの方に弟子がないとは何とも、もったいないことですな」

  妙応寺の住職はそう言うと、しばらく思案した後に「実は、私の寺に時々やって来る人の中に、息子を僧侶にしたいと言っておる人がいるんですが・・・」

 「よかったら、その人にご老師のことを話してみましょう」

 「それは、何かのご縁があれば誠にありがたいことです」

 その時の列車の中での会話がきっかけとなって宮崎禅師のもとに弟子入りしたのが現在、福田寺の住職を務めておられる宮崎和朗(わろう)老師です。

 なお、和朗老師は、弟子入りをする前に宮崎禅師が関ヶ原の家を訪ねてきた時のことをこう振り返っておられます。

 「頭の尖(とか)った、何やら偉いお坊さんが来たなと思ったのを、よく覚えております」

  和朗老師の家の菩提寺は、浄土真宗の寺でした。そのため和朗老師は、宮崎禅師のようにしっかりと剃髪(ていはつ)をした僧侶に、それまで会ったことがなかったのです。(no4572

 *写真:福田寺

 ◇きのう(12/5)の散歩(11.284歩)

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宮崎奕保さんのこと(14) 奕保氏と戦争

2018-12-05 10:43:24 | 宮崎奕保さんのこと

 

     奕保氏と戦争

 宮崎禅師の軍隊生活は、それほど長く続きませんでした。37歳という年齢もあって、その年の12月に帰国させられました。しかし、日本に戻った後も、戦争と無縁ではありません。

 昭和16128日、日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの間でも戦争を始めました。

 日本全体が、戦争一色に染まりました。もちろん、宮崎禅師が住む加古川の街も例外ではありません。

 加古川に建設された飛行場は、関西防空の要(かなめ)とされたため、連日、戦闘機の訓練が繰り返されました。

 戦闘機が寺の上空を頻繁に飛びました。

 また、戦争末期になると、飛行場は特攻隊の訓練にも使用された。若い特攻隊員たちは、飛行場の近くにあった旅館(中村旅館)で内地最後の夜を過ごし、戦地へと旅立っていきました。

 この戦争には、宗教界も協力をしました。そして、宮崎禅師も大日本帝国の臣民の一人として、戦争に協力をしないわけにはいきませんでした。

 宮崎禅師は戦時中、戦争のことを悪く言って、憲兵に「非国民」と言われたことがありました。

 「戦時中、『戦争は好ましくない』という手紙を書いて、とがめられたことがあるんや。手紙をいちいち点検されておったからね。手紙に、『あまり戦争はしてはいかん』と書いて、とがめられたんや」

 また、宮崎禅師は、戦争へと突き進む人々に向かって、異論を唱えたこともありました。福田寺には、その資料が残っています。

 当時は、まだ太平洋戦争が勃発する前であったが、戦争を真っ向から否定するような発言は、なかなかできません。

 そんな中、宮崎禅師は禅の教えを引き合いに出して、人が歩むべき道とは何かと、世の中の人々に訴えたのです。

 そこには、禅僧としての宮崎禅師の強い信念があったのだと思われます。

 宮崎禅師は、もちろん時代の荒波に逆らうことはできませんでした。でも、ただ黙っていることができなかったのです。

 「あの時は戦争をしよった。みんなと一緒に、わしも戦争をした。・・・

 日本は、今から考えたら軍国主義で、侵略的やった。

 けれども当時は、あからさまなことを書きよると、軍国主義に反対せなならんことになる」

 宮崎禅師がこう語ったのは、亡くなる半年ほど前のことでした。

 その頃、宮崎禅師は、声があまり出なくなっていました。

 声を絞り出しながら60年以上前のことについて語る宮崎禅師は、どこか遠くのほうを見つめていました。

 そして、「難しいところや」と最後に言うと、それ以上、戦争当時のことを語りませんでした(no4571

  ◇きのう(12/4)の散歩(10.674歩)

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宮崎奕保さんのこと(13) 戦地でお経を唱える

2018-12-04 09:37:48 | 宮崎奕保さんのこと

 

       戦地でお経を唱える

 宮崎禅師が福田寺の住職になったころの日本は、国全体が戦争に向かっていました。

 昭和6年に満州事変がおきると軍部が台頭。ナショナリズムが一気に高揚しました。

 加古川の街も、徐々に戦時色が濃くなりました。

 昭和10年、加古川に陸軍の飛行場が建設されることが決まると、様々な軍事施設が造られ、街は小軍都と化していきました。

 宮崎禅師も戦争に巻き込まれていきました。

 昭和12年の夏、赤紙が届きました。

 7月7日に中国で盧溝橋事件が勃発すると、それをきっかけに、日本と中国は戦争状態に突入しました。

 当時、37歳だった僧侶は、呉(くれ)の港から船に乗り込みました。

 船が到着したのは、上海でした。上海では当時、日中両軍による戦闘が本格化しはじめ、街には重苦しい空気が立ちこめていました。

 僧侶が配属されたのは、機関銃の部隊でした。

 それまで、歩兵としての訓練しか受けていなかった僧侶は、機関銃の扱いには不慣れでした。その上に、他の者たちより年を取っていました。そのため、僧侶は前線に派遣されませんでした。

 僧侶に与えられた任務は、現地の新聞を翻訳するなど書類の整理でした。僧侶として経典を読んでいたため、中国語を理解することができたためでした。

 日本と中国の戦闘は、日増しに激しくなっていきました。

 仲間の兵士たちは、連日、機関銃を携えて前線へと向かいました。しかし、そのうちの何人かは、帰ってきませんでした。

 「お経を唱えてやってくれないか」

 戦死した若い兵士の遣体を連れ帰った上官は、奕保氏に向かってそうのいうのでした。

 何とも言えぬ気持ちで、彼らのためにお経を唱えました。

 宮崎禅師は、亡くなった兵士のためにお経を唱えた時のことを、「昨日まで一緒に話をしておった者が、今日は戦死して帰ってきて亡くなった。そうした場面が、しばらくの間、続いたんや。

 自分は戦闘に参加せなならんということはなかったけれど、軍隊にいた6、7人が戦死した。

だから、戦闘には加わらなかったけれども、空気は、いつ順番が回ってくるかはわからん、そういう状態やった」

宮崎禅師は、日中戦争の際に従軍した時のことについて、あまり多くを語っていません。

僧侶でありながら戦場に駆り出されたことに対して、複雑な気持ちを抱えていたのだと思われます。(no4570)

 ◇きのう(11/3)の散歩(10.250歩)

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宮崎奕保さんのこと(12) 印 可

2018-12-03 09:01:56 | 宮崎奕保さんのこと

 

         印 可

 禅の世界では、僧侶の修行の程度がどれくらいに達しているかは、先達の僧侶によって評価され、認められなければなりません。

 そして、それが悟りに値するものであると認められると、先達はそのことを書にしたためるなどして証明します。

 それが、印可です。

 しかし、印可は、修行を重ねていけば誰でも得られるというものではありません。

 むしろ、いくら修行を重ねても、印可を得られないことが多いのです。

 般若林福昌寺の秦慧昭(はたえしょう)禅師のもとでは多くの僧侶が学び、優秀な人物が数多く輩出しましたが、秦禅師から印可を授けられたのは、後にも先にも宮崎禅師ただ一人でした。

 なお、宮崎禅師が秦禅師から印可を授けられたことには、実は非常に大きな因縁を感じます。

 宮崎禅師に印可を授けた神戸・福昌寺の秦禅師は、永平寺六十四世貫首の森田悟由(ごゆう)禅師から印可を授けられました。

 そして、その森田禅師は、明治の傑僧として名高い諸嶽奕堂(もろたけえきどう)禅師から印可を授けられています。

 諸嶽禅師は、宮崎禅師の師匠、小塩老師が尊敬していた人物で、師匠は弟子に諸嶽奕堂から一字をもらって「突保(えきほ)」としました。

 つまり、諸嶽禅師から森田禅師、森田禅師から秦禅師、そして秦禅師から宮崎禅師へと印可が授けられています。

 宮崎禅師は、福昌寺の単頭(雲水の指導役)を昭和5年(1930)~昭和8年(1933)までの3年間にわたって務めました。

 その間、福昌寺は、56人もの雲水を輩出しました。

 そして、昭和8年、福昌寺の住職、秦慧昭禅師が永平寺の住職に就任することになったのを機に、宮崎禅師は単頭を辞し、福田寺に戻りました。(no4569

 ◇きのう(12/2)の散歩(10.887歩)

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宮崎奕保さんのこと(11) 若き住職の誕生

2018-12-02 09:19:15 | 宮崎奕保さんのこと

 

     若き住職の誕生

 宮崎禅師(ぜんし)の師匠、小塩闇童(こしおぎんどう)老師は遺言状を残していた。

 福田寺(ふくでんし)の住職を宮崎禅師に譲る旨が記されていました。

 遺言状を見て、宮崎禅師は驚きました。そして、師匠が自分を後継者に指名してくれたことに感謝しました。

 宮崎禅師は、師匠の死の5ヵ月後に、29歳の若さで福田寺の住職に就任したのです。

 禅の世界では、住職に就任することを晋山(しんざん)と言い、新住職は晋山式という法要を営みます。そして、道元禅師以来続く法灯を、その寺において守っていくことを誓います。

 写真は、その晋山式の時に撮影された宮崎禅師の写真です。

 住職になった宮崎禅師は、師匠の亡骸を前に誓った通り、小塩老師をまね、しかも、その真似は、行動のすべてにおよびました。

 宮崎禅師は生涯にわたって不犯(ふぼん)を貫きました。周囲に結婚を勧められることも何度かあったが、師匠を真似て独身を貫き通した。

 宮崎禅師が福田寺の住職になると、寺の檀家たちは、若い住職に結婚をさせようとしました。その後もさらに強くなっていきました。

 檀家総代は宮崎禅師の顔を見るや、こう言うのでした。

 「今はもう僧侶も結婚をする時代や。葬式やら法事やらで、よその寺に行ったら、座ぶとんも出してくれるし、お茶も出してくれる。

 しかし、福田寺に行ったら何にも出てこん。無愛想や・・・

 強い調子で結婚をしろと迫る檀家総代に向かって、宮崎禅師は、いつもこう答えた。

 「今分は、もらわん」

 また、四十代半ばになると、永平寺から雲水の指導役を頼まれたりして、寺を留守にすることも多くなっていきました。これに困ったのは檀家たちでした。住職がおらず不便が生じたため、この時もまた、結婚をするようにと言ってきたのです。

 しかし、その度に宮崎禅師は、「今分はもらわん」と答え続けると、のでした。

  宮崎禅師の真似は、僧侶としての戒を守ることだけではなく、師匠の生き方をまねたかったのです。

      エピソード

 瀬戸内寂聴さんは、宮崎奕保さんとの対談の中で、こんな話を紹介されています。

 その端整なお顔立ちから見るに、若かりし頃はきっとハンサムで女性にもモテタはずです。

 

 ・・・・私(瀬戸内寂聴)は、単刀直入に「危機はございませんでしたか?」とお聞きしました。禅師はこともなげにこうお答えになりました。

 「一度あったな」

 「永平寺から里帰りした際、親類が集まって歓迎会を開いてくれ、その場で可愛らしい娘さんがせっせと私(奕保氏)を接待するのを見て、これは見合いの席が設けられたと察しました。

 そこで、トイレに行くふりをして、そのまま永平寺逃げ帰った。可愛らしかったので、やばいと思って逃げた」と・・・(no4568

  ◇きのう(12/1)の散歩(10.622歩)

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宮崎奕保さんのこと(10) 小塩師匠亡くなる

2018-11-30 08:53:02 | 宮崎奕保さんのこと

    小塩師匠の死

 大学を中退した宮崎禅師は、再び京都の大徳寺に行きました。

 27歳の時のことでした。

 この時、宮崎禅師は、以前に大徳寺で修行をした時よりも、さらに一生懸命修行を行いました。

 また、歴史ある大徳寺には、古い文献が数多く残されています。宮崎禅師は、連日、書庫を訪ねては、それらの古い文献を読みあさりました。

 昭和4523日、京都で修行を行う青年のもとに電報が届きました。

 加古川からでした。

 修行の身である青年のもとに電報が送られてくることなどめったにありません。嫌な予感が的中しました。

 「シショゥ、キトク」

 青年はあわてて住職の部屋へと向かいました。

 「師匠が危篤との知らせが届きました。これから加古川へ帰ってもよろしいでしょうか」

 「すぐに行きなさい」

 京都駅に到着した青年は、駅舎にかかげられた大時計に目をやりました。1155分。

 京都から加古川に向かう汽車には何度か乗ったことがありましたが、その日は汽車の速度がいつもより遅いように感じられてしかたがありません。

 加古川に着き、寺へと急ぎました。

 青年が寺に着いた時には、師匠はすでに亡くなっていました。前日の夕方から腹痛が始まり、一晩中苦しんだ末、午後15時に亡くなったと知らされました。

 82歳でした。

 師匠と対面しました。その体に触れると、まだ温かみが残っていました。

  青年の脳裏に、師匠との思い出がよみがえってきました。

 11歳で寺にやって来た時、師匠は幼い自分を抱いて一緒に寝てくれました。また、女手のない寺での生活のため、最初は下着も師匠が洗ってくれました。

 以来、しばしば師匠に反抗しました。

 青年は、今までの自分を恥じ、改めて師匠の顔を見ました。

 80にもなっておって、雲水と同じものを食べて、雲水と同じような生活をされていました。

 そして青年は、師匠に別れの言葉を述べる代わりに、その前で最後に坐禅をすることにしました。

 本堂にいる先輩たちの声は、もう耳に入ってきません。師匠と二人きりの静かな部屋の中で、青年はひたすら坐り続けました。

 「自分は、坐禅をするよりもやることがあると思っておったけれど、それは間違いやった。

 そして不満はみんな自分のわがままやった。自分本位のことを考えておっただけやった」と反省ばかりでした。

 その後、宮崎禅師は、小塩老師が亡くなった時のことをよく語っておられました。(no4566

 *挿絵:小塩老師の死

 ◇きのう(11/29)の散歩(10.580歩)

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