松右衛門、エトロフ島で紗那港をつくる
準備を整え、その年(寛政二年・1790)の五月、乗員20人と共に。兵庫津を出た。
持ち船・八幡丸は順調に、東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなった。これ以上の継続は不可能となった。
松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにした。
寛政三年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航した。
その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進んだ。
あらかた紗那港は完成し、10月に帰航した。
以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政七(1795)に工事を終了している。
松右衛門は、エンジニア
松右衛門は、湾底に散在する大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留する埠頭をつくった。
のち島民は松右衛門の徳をたたえて、永く「松右衛門澗(港)」と呼んだという。
その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった。このエトロフ事件については後に紹介したい。
歴史上、松右衛門は大きな位置を占めている人物である。しかし、いままで松右衛門についてあまり取り上げられることはなかった。
松右衛門が知られていない理由は?
松右衛門について、あまり知られていない。
その理由として、井上敏夫氏が昭和50年兵庫史学会発表された「北方領土の先駆者 工楽松右衛門」のなかで、次の三つの理由をあげておられる。
第一は、松右衛門のエトロフ渡航は幕命といいながら、それはあくまでも一商人の私的行動と見なされた。
第二は、松石衛門の蝦夷地の活動期間は、数年に過ぎないが嘉兵衛は20余年の長期にわたって活躍し、その間、歴史上有名なディアナ号事件の渦にまきこまれ、いつしか松右衡門の名が薄れてしまった。
第三は、松右衛門は、つとめて嘉兵衛を自分の後輩として引き立てた。
しかし、寛政二年、郷里の淡路を後に無一文で兵庫へ出てきた一介の若者・嘉兵衛を陰に陽に援助し庇護したのは実に松右衛門であった。
後に紹介したいが、幕末の歴史において高田屋嘉兵衛の人生があまりにも劇的であり、注目が集まりすぎ、その陰で松右衛門が霞すんだだけである。