ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(35) 工楽松右衛門物語(20)・エトロフ島の紗那港をつくる

2014-10-31 16:31:30 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   松右衛門、エトロフ島で紗那港をつくる

 準備を整え、その年(寛政二年・1790)の五月、乗員20人と共に。兵庫津を出た。

 持ち船・八幡丸は順調に、東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなった。これ以上の継続は不可能となった。

 松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにした。

 寛政三年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航した。

 その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進んだ。

 あらかた紗那港は完成し、10月に帰航した。

 以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政七(1795)に工事を終了している。

    松右衛門は、エンジニア

 松右衛門は、湾底に散在する大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留する埠頭をつくった。

 のち島民は松右衛門の徳をたたえて、永く「松右衛門澗(港)」と呼んだという。

 その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった。このエトロフ事件については後に紹介したい。

 歴史上、松右衛門は大きな位置を占めている人物である。しかし、いままで松右衛門についてあまり取り上げられることはなかった。

   松右衛門が知られていない理由は?

 松右衛門について、あまり知られていない。

 その理由として、井上敏夫氏が昭和50年兵庫史学会発表された「北方領土の先駆者 工楽松右衛門」のなかで、次の三つの理由をあげておられる。

 第一は、松右衛門のエトロフ渡航は幕命といいながら、それはあくまでも一商人の私的行動と見なされた。

 第二は、松石衛門の蝦夷地の活動期間は、数年に過ぎないが嘉兵衛は20余年の長期にわたって活躍し、その間、歴史上有名なディアナ号事件の渦にまきこまれ、いつしか松右衡門の名が薄れてしまった。

第三は、松右衛門は、つとめて嘉兵衛を自分の後輩として引き立てた。

 しかし、寛政二年、郷里の淡路を後に無一文で兵庫へ出てきた一介の若者・嘉兵衛を陰に陽に援助し庇護したのは実に松右衛門であった。

 後に紹介したいが、幕末の歴史において高田屋嘉兵衛の人生があまりにも劇的であり、注目が集まりすぎ、その陰で松右衛門が霞すんだだけである。

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高砂市を歩く(34) 工楽松右衛門物語(19)・松右衛門、エトロフ島へ

2014-10-31 11:30:25 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

     松右衛門、エトロフ島へ

 <工楽松右衛門の足跡>

  下の年表をご覧になりながら、今回の文章をお読み願いたい。

 ・寛政2年(1790)  エトロフ島・紗那で埠頭建設はじまる

 ・寛政3年(1791)  この年の夏、エトロフ島・紗那港の埠頭工事竣工 

 ・寛政11年(1799) 

 嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く(三筋の潮を発見)

 ・享和2年(1802)  幕府より「工楽」の姓をたまわる

 ・文化元年(1804)  箱館にドックを築造。

    工楽松右衛門のエトロフへの航路発見

 ここで話を急停車させたい。

 「工楽松右衛門物語」は、若干文章を変えているが、もっぱら小説『菜の花の沖』のつまみ食いをして、嘉兵衛・松右衛門を紹介している。

 松右衛門のエトロフでの

     築港は寛政二年(1790)から

 上の「松右衛門の年表」をご覧願いたい。

 今、「松右衛門物語」で取り上げている内容は、寛政10年頃の話である。

 この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓を許されている。

 「松右衛門物語」では、最初から工楽松右衛門を名乗らせているが、松右衛門が「工楽」を名乗るのは、これ以後である。

   松右衛門、エトロフヘ

 その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなった。誰の目にも危険なものとして映るようになった。

 寛政二年(1790)二月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画した。

 「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下った。

 兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙した。

 この時、松右衛門は既に50才に近かったが、北風の要請に応じた。

 この時のようすは「松衛右門物語(2)」で、若干紹介しているので、ご覧願いたい。

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高砂市を歩く(33) 工楽松右衛門物語(18)・三筋の潮

2014-10-31 08:39:09 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

 嘉兵衛は、幕府が用意した船でクナシリ島の東海岸をアトイヤ岬まで航海してきた。

 いよいよ、クナシリ水道である。

 次の日、さっそく、嘉兵衛は、山頂に至った。クナシリ水道の潮を確かめるためである。

 クナシリ水道を揉にもんで流れている潮のかなたに、エトロフ島のベルタルべ山がそそり立っていた。

    三筋の潮

 嘉兵衛は、全身を目玉にするようにして潮を見つづけた。

 早朝から日没ちかくまで見つづけたのである。

 「見えた!」

 信じがたいほどのことだが、この二つの島のあいだを上下しているのは、一筋の潮ではない。

 三筋の潮流が、せめぎあって落ちあっているのである。

 事実として確かめてゆくのに、さらに数日の観察を要した。

    嘉兵衛、箱館へ帰る

 その後、嘉兵衛は、いったん、クナシリ、アッケシにたちより箱館へかえった。

 まもなく、箱館役所から呼び出しがあった。

 このとき、幕府の役人・三橋藤右衛門から、「蝦夷地の公儀御用をつとめてもらえないか」と、懇願された。

 彼のいうところは、エトロフ島開発のためのあらゆる物資(官物)を運ぶ船頭になってほしい、ということであった。

 運賃かせぎだけで、荷をかせぐことができなくなるのである。商いとしては、まことにつまらぬものになる。

 「嘉兵衛、そこもとの力がほしい」

 「とんでもござりませぬ」

 ・・・・・

 嘉兵衛は、決心してしまった。

   工楽松右衛門が、箱館の港を造りましょう

 箱館の港の話になった。・・・

 藤右衛門が「嘉兵衛、築港はできるか」と、たずねたのである。

 「箱館の浦をいまのままにしておけない、箱館がいかに「綱知らず」といわれたほどの天然の良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・・」と、藤右衛門はいった。

 その日、話は、続いた。・・・・

 「エトロフにも港をつくらねばならんな」

 それらについて、「嘉兵衛は、工楽松右衡門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衡門帆」の発明者が、あらゆる分野で異能の人であることもあわせて述べた。

 ・・・・

 「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、藤右衛門はきいた。

 嘉兵衛は、「松右衛門旦那は蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えた。

 ・・・・

 嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信があった。

 松右衛門は、新しいことに挑戦する人、子供の心を持つ人であった。

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高砂市を歩く(32) 工楽松右衛門物語(17)・嘉兵衛エトロフへ

2014-10-30 12:49:30 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   嘉兵衛、アッケシで近藤重蔵と会う

  嘉兵衛が、アッケシの運上屋で近藤重蔵と出会ったのは、嘉兵衛31才、(近藤)重蔵29歳のときであった。

 重蔵は、既にエトロフを探検し「大日本恵登呂府」という大きな標柱をたてていた。

 重蔵は、嘉兵衛に話しかけた。

 ・・・クナシリ島までは安全にゆける。

 しかし、クナシリ島からエトロフ島にゆくには、急潮でしかも風浪、霧のすさまじい海峡がある。

 「この人(近藤重蔵)は、何の目的でこういう話をするのか」と思った。

    エトロフへの安全な潮路の発見を!

 近藤重蔵が嘉兵衛をよんだのは、嘉兵衛にクナシリ島とエトロフ島のあいだの安全な水路の開拓を依嘱することであった。

 クナシリ島の東北端のアトイヤ岬からエトロフ島西南のベルタルベ岬までのあいだは、海上わずか三里ほどの距離である。

 両島の間に、幅五里の水道(クナシリ水道)が流れており、北はオホーツク海、南は北太平洋が広がっている。

 この狭い水道に濃霧がしばしば湧き、さらには両洋から落ちてくる潮流は速く、風浪はせめぎあい、なんともすさまじい難所である。

 エトロフは「捨てられたままの海産物の宝庫」であった。

 嘉兵衛への依頼は、「小さな船でも渡れる安全な潮路を見つけてほしい」ということであった。

   嘉兵衛、エトロフへ

 「もし、ここ(クナシリ水道)を、小船でも行ける安全な航法を発見すれば、幕府の蝦夷開発が、資金面でそれなりの潤いを得ることができる」という。

 重蔵に課せられた任務は、とりあえずはそのことであった。

 クナシリで働いているのは、小さな漁り舟か、蝦夷舟、もしくは五、六十石程度の運び船で、今後、クナシリを基地にエトロフ稼ぎする。

 大船で渡ってしまっても、あと何の役にもたたないのである。

 嘉兵衛は、重蔵の依頼を、いとも簡単に引き受けた。やってみたかったのである。

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高砂市を歩く(31) 工楽松右衛門物語(16)・ロシア人の南下

2014-10-30 07:35:48 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   アイヌ人への圧政・ロシア人の南下

  松前・蝦夷地をめぐる情勢である。時代を寛政十年(1798)に設定する。

 ここで、二つの事実に注目したい。

 一つは、松前藩はアイヌから、絞るだけ絞り上げていた。アイヌは、まさに松前藩の奴隷であった。

 当然、アイヌは松前藩に対して敵意を持った。

 もう一つは、この時代、北からロシア人が南下して、日本近海に姿を見せるようになったことである。

 幕府は、重大に受け止めた。

 しかし、ロシア人の日本への接近は着実に増えていた。

 ロシア人の蝦夷地侵入がおおやけになれば、それを防ぐには松前藩単独では不可能であり、蝦夷地の管理を松前藩に任せられなくなる。

 幕府は、蝦夷地に密かに調査団も送り調査をした。

 松前藩は、これらの情報を徹底的に隠した。日本人とアイヌが直接接触すること、アイヌ人が日本語を学ぶことなどを厳禁した。

 しかし、情報に蓋をすることはできなかった。

 幕府は、ロシア人の日本近海への接近や、松前藩のアイヌ人へ苛烈な扱いを知った。

 松前藩に敵意を持つアイヌがロシア人と容易に結びつくことも心配した。

蝦夷地をとりまく情勢が、だんだんと明らかになってきた。

   アッケシへ

 嘉兵衛は高橋三平をしった。高橋三平は幕府の役人である。

 高橋は、「嘉兵衛、この蝦夷島において、松前や箱館ばかりでなく、ほかの潮路も見てみたいと思わぬか」

 「それは、もう」

 松前藩は、本土からの船に対し、松前、江差、箱館という湊に出入りする航路のほかはとらせたがらず、まして「奥」へゆくことは禁じている。

 「直乗の船頭というものは、自分で荷を買って運ぶといい商いになるが、他の荷を運ぶだけでは稼ぎはつまらぬそうだな」三平は、そのあたりをよく知っている。

 「その運ぶだけの仕事があるが、どうだ」というのである。

 高橋三平がいうのは、官米や官物をアッケシ(厚岸)まで運んでもらえまいか、ということである。

 「アッケシ」

 嘉兵衛は、商人であることを忘れ、頭に熱い血がのぼるのを感じた。

 その地名は、東蝦夷地の中心ではないか。

 高橋三平は、微笑していた。

 「かれには嘉兵衛という航海者を引きたててやろう」という肚づもりがあった。

 嘉兵衛は。商いの上でいえば幕府の御用といった道草を食っているよりも、北前交易に精を出したほうが利益が大きいのである。

 「このことは、子供のような考えから思いついたのだ」と、三平はいった。

 アッケシ湾は、クシロ(釧路)の東方にあり、大きく湾入しているために、風浪に疲れた船をさそいこむ良港である。

 結論を急ぐ、嘉兵衛は、高橋三平の申し出を引き受けた。

 嘉兵衛は、子供の心をそのまま持ち続けて育ったのかもしれない。



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高砂市を歩く(30) 工楽松右衛門物語(15)・松前藩は悪の組織

2014-10-30 07:13:28 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   松前藩は悪の組織

 嘉兵衛も松右衛門も、やがて活躍の場所を蝦夷地に求める。蝦夷地・松前藩について見ておきたい。

   場 所

 「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという縄張である。

 松前藩は全土を八十余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえた。

 このあたり、さかり場ごとに「場所(ショバ)」をもつやくざに似ている。

「松前」という藩は、広大な採集の宝庫の一角を占めた悪組織というほかなかった。

 松前藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももって

いなかった。

 「場所請負制」という利益吸いあげの装置の上に、藩も藩人も寝そべっていた。

   松 前

 (嘉兵衛の船は、その松前を目指している)

 松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の福山(以下「松前」)の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれといっていい。

 (なぜ、松前様はこんなところにいるのか)

 と、暗くなりつつある沖から松前城下の背後の山々を見ながら、嘉兵衛はおもった。

 すでに、嘉兵衛は、「箱(函)館(以後、箱館とする)」という土地があることをきいていた。

 道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としてもわるくない。

 それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠かない。

   松前藩は、アイヌからの襲撃をおそれていた

 しかし、野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになる。

 松前の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られる。

 それにかなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに、もっとも便利であった。

 松前は、山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野がある。

 それでもなおここに藩が固執しているのは、蝦夷地統治の自信のなさの象徴といってよかった。

 松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けている。当然「反抗があるかもしれない」と考える。守備は十分でない。

 そのため、松前藩は守りやすいという一点だけで、松前を城下にしていた。

 

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高砂市を歩く(29) 工楽松右衛門物語(14)・辰悦丸

2014-10-29 16:42:40 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   土崎(秋田)へ行ってくれ

  ある日、嘉兵衛は、北風荘右衛門に呼ばれた。

 「秋田まで行ってくれるか。木材を運んでほしい」

 「往(ゆ)きは、お前に、もうけさせてやる。庄内や秋田では木綿や繰綿(繰り綿)が高くなってこまっているそうだ」

 情報に関しては、荘右衛門にはかなわない。薬師丸は、日本海の荒波によく耐えた。

    船大工・与茂平

 土崎滞在中に嘉兵衛は、土地の船大工の棟梁で与茂平という人物を知った。

 「あの船は、大坂の伝法(でんぽう)の船でございますか」と、その人物は、嘉兵衛が浜にいるときにやってきて、沖の薬師丸を指さした。

 「申し遅れましたが、手前は与茂平と申しまして、この土崎で船大工の真似事を致しております」と男はいった。

 「伝法」というのは、地名である。摂津(大坂)の中津川が海に入るあたりにあり、その砂浜は天下第一等の船大工の大集落で、たがいに技術を競いあうために、ここで造られる大船は日本でもっとも出来がいいとされていた。

 与茂平が見たとおり、薬師丸は伝法でつくられた。

嘉兵衛は、船大工の棟梁の与茂平を見たとき、「こういう感じの人を見るのは、はじめてではないか」と思い、かれが知っている、いろんなひとびとの顔を思いうかべては、誰に似ているかとおもったりした。

  (松右衝門旦那・・・)

   辰悦丸

 薬師丸で秋田まで航海をしたが、薬師丸で蝦夷地への航海は無理であることがわかった。

 嘉兵衛と与茂平の出会いは、ふしぎな方向へと展開をする。

 「松右衛門物語」とは言いながら、高田屋兵衛が主人公になっている。ご辛抱願いたい。

 与茂平と話すほどに嘉兵衛は、この人物が信用のできる人物であることが分かった。彼の工房を見学すると技術の確かなこともわかった。

 土崎の前の海は、北前(日本海)である。北前の海と船については知り尽くしている。

 それに、この地方は大阪と比べ手間賃が安いため、より安価にできる。

 嘉兵衛は、自分の船の建造を与茂平に建造を頼むことにした。

 与茂平は喜んでくれた。

 その時、もち金も十分ではなかった。とりあえず、手持ちの金を与茂平に渡した。

   すべては「信」

 兵庫湊に帰ってきた。

 冬場、日本海は荒れる。そのため、北前船の入津も少なくなる。湊は、ふだんより静かになる。

 が、嘉平は忙しかった。瀬戸内海で稼なければならなかった。すべては、新造船のためである。金さくも、しなければならなかった。

 金さくの、めどもたった。すべて嘉兵衛の「信・(信用)」から出ていた。

   新船・辰悦丸で蝦夷地へ

 薬師丸は、荷物をいっぱい積んで土崎を目指して兵庫を出た。

 土崎では、新造の船がほとんど完成していた。みごとな船であった。

 嘉兵衛は「辰悦丸」と命名した。何度もそれを撫ぜた。横で、与茂平も目頭を押さえていた。

 春も早い、梅の咲く頃になった。

 辰悦丸は、白い松右衛帆に風をいっぱいは孕んで土崎から松前に向かった。

  『菜の花の沖』を食いつまんで、紹介している。

 *写真:辰悦丸模型(洲本市五色町都志)

 


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高砂市を歩く(28) 工楽松右衛門物語(13)・お前は商人か?

2014-10-29 08:58:06 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   北風荘右衛門の不満

 高田屋嘉兵衛は、清右衛門の好意で驚くほど安価に堅固な修理ができた。

 那珂湊で、干鰯やシメ粕(大豆や魚の絞り粕)を、いっぱい積んで兵庫湊に帰ってきた。

 まずは、北風荘右衛門にあいさつをいそいだ。

 そして、嘉兵衛門のお礼の気持ちとして、自分の荷のすべてを荘右衛門に譲ろうと、申し出た。

 荘右衛門は、嘉兵衛の申し出を断った。不満な顔をみせた・・・

   おまえは船乗りか、それと商人か

 さらに、松右衝門旦那が、「嘉兵衛、お前は船乗りか、それとも商人か」と、あらたまった表情で質問してきた。

 嘉兵衛は、船乗りでございます。

 かれは、とっさに言おうと思ったが、すぐ言葉をのみこんだ。

 「そうでもあるまい」と、いう気持があったのである。

 嘉兵衛は、自分を商人とはせず、船乗りであるとしている。

 すくなくとも、船と風と海というもののおもしろさに、少年のころからとりつかれてきた。

 しかし、船好きが船を持とうとする場合、商業的才覚を働かさざるをえないのである。

 「わしも船きちがいだ」と、松右衛門旦那はいった。

 「北風の旦那は、船きちがいのこの松右衛門を若いころから可愛がってくださった。

 わしは齢をとってから、北風の旦那のお力をも借りて廻船問屋になったが、北風の旦那と話をしているときは、いまでも船きちがいの自分しか出さない。

 廻船問屋としての松右衛門を出すと、ぴしゃりとやられてしまうだろう。

 北風の旦那が、わしやお前に期待しているのは、あくまでもよい船乗りとしてだ。

 「小ざかしく荷を運んでくるような商人としてではない」と、松右衛門旦那はいった。

 *挿絵:工楽松右衛門(工楽禎章氏蔵)

 

 

 

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高砂市を歩く(27) 工楽松右衛門物語(12)・薬師丸

2014-10-28 19:19:22 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   筏で江戸へ入津 

 江戸への筏の航海は、「もともと北風様の見栄」から出たことだ。

 「わし(嘉兵衛)も見栄でこれをやった。見栄でやった以上は、それらしく派手にやりたい」

・・・・筏が品川に到着の日は、みながまちかまえて港はざわめいた。・・・・

   薬師丸

 北風荘右衛門から手紙が届いた。

 「西宮和泉屋伊兵衛持船の薬師丸という船を存じておろう」という意味のことが、その書出しにある。

 それが破船し、いま常州(現・茨城県)の那珂港(なかみなと)に繋がれている。

 和泉屋伊兵衛は、破船など捨ててしまうといったのを、お前のためにわずか十両という捨値で買いとっておいた。

 もし、お前にその気があるなら那珂湊まで行ってその船を検分せよ、土地において修繕できるものなら、そのようにして兵庫まで乗って帰るがよい・・・・というものであった。

 ・・・嘉兵衛らは薬師丸の検分に出かけた。

 (意外なことだ)

 破船して水主たちも去り、船主の和泉屋伊兵衛も捨てる決心をしたような船なら、湊のすみに古桶のようになって、なかば沈んでいるか、脇の浜の波打際に放置されているとおもっていたのに、わざわざ浜に、ひあげられているだけでなく、丁寧に小屋までつくられていた。

 北風荘右衛門の好意であることは明らかである。

立派な船とはいえないが、思いがけないことで嘉兵衛は船持の船頭になることができた。

 「自前の船で自前の荷主になれば、北前船の場合、一航海ほどであたらしい船を建造できるほどの資金が得られる」と、嘉兵衛はおもったのである。

 時間をかけて、嘉兵衛は薬師丸の点検をしてまわったが、船はしっかりしている。

 「ひょっとすると、船に、だまされているのかもしれない」とおもった。

 この程度の破船で薬師丸の水主たちが船をすてたのかよくわからなかった。まともな理由からではなさそうである。とするなら、「縁起が悪い」ということから船乗りが嫌ったのではないかと想像した。海で働く者は、しばしば縁起の虜になった。

    浜屋清右衛門

 嘉兵衛が船底からはいのぼって艫(とも‐船尾)に出てくると、羽織を着た小柄な人が立っていた。

 「私が、浜屋清右衛門でございます」と、その人は、わかわかしい笑顔で自分から名のった。那珂湊きっての廻船問屋の若当主が、一介の沖船頭に対して、まことに鄭重な態度なのである。

 嘉兵衛は「薬師丸」で蝦夷地への航海のことを話した。

 清右衛門は、嘉兵衛に親切であった。

 嘉兵衛たちは、薬師丸の修理がおわるまで、那珂湊で借家を借り、この湊で働いた。

がだんだんと、那珂湊のことが分ってきた。松前(蝦夷地)から来る産物が思ったより多いのである。

 以下、松右衛門と嘉兵衛の話を続けるが、その前に余話である。

 浜屋清右衛門のことである。

 彼は、青空のようなすがすがしい人であった。

 彼は、大内清右衛門という名で、徳川斉昭の密命で蝦夷地から千島・樺太を調査し、海を渡って沿海州も調査した。

 その後の経過は、はっきりしないが「蛮社の獄」に連座し、命を落とした。

 *挿絵:北前船(薬師丸ではない。薬師丸はこのような船か?)

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高砂市を歩く(26) 工楽松右衛門物語(11)・船を持て

2014-10-28 07:52:49 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   船を持て

 多度津の夜の話である。

 松右衛門旦那は、嘉兵衛に「持船船頭になれ」と話した。

 「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」という。

 「嘉兵衛、いくつだ」「二十四でございます」「うらやましいのう」

 わしなどは40から船持の身になったが、もっと若ければ船のことが身についたにちがいない。

 が、資金が要る。

 千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要であった。

 二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額である。

 松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったからこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができた。

 「わし(嘉兵衛)には、資金がありません」といったが、松右衛門旦那は無視し、「持船の身になればぜひ松前地へゆけ」といった。

 「陸(おか)は、株、株、株がひしめいて、あとからきた者の割りこむすきまもない」ともいった。

兵庫でも、株制度は精密に出来てしまっている。

   蝦夷地へ

 ただ松前・蝦夷地の産物については、まだ株仲間が構成されていないものが多く、その意味で北海まで足をのばす北前船には、新入りの廻船業者にとって大きな自由がひらかれていた。

 「男であれば、北前船をうごかすべきじゃ」と、松右衝門旦那はくりかえしいう。

その夜、嘉兵衛には、松右衛門の「蝦夷地に行け」とい言葉が、一点のしみのように残った。

    紀州のヒノキを江戸へ運んでくれないか

 「男なら北前船を動かすべきだ」と松右衛門が嘉兵衛をけしかけた。

 「しかし、それには二千両という大金が要る。・・・二千両・・・

後日、嘉兵衛は、松右衛門によばれた。

 「北風の旦那に紀州様からお話があって、紀州熊野の新宮にうかんでいる五百年物のヒノキ12本を江戸に運んでくれないかということじゃ」と、松右衝門旦那は一気にしゃべった。

 かつて材木を筏に組んで帆や櫓を向け、船室もつくり屋根を苫で拭いて船舶そっくりにして、姫路藩の丸太を江戸へ運んだのは松右衛門である。

 こんどは、紀州藩から北風家に依頼があったのも、松右衛門のかつての快挙を聞いてのことらしい。

 が、松右衛門は廻船問屋の主人として多忙で、とても筏の航海をやっているひまがなく、その点は、北風家もよく知っている。

北風家の番頭が、松右衛門に、人選を依頼した。彼は、一も二もなく嘉兵衛を推薦したのである。

    筏で江戸へ

 嘉兵衛は、筏(いかだ)という冒険的な航海をすることに血が沸いてしまったことと、兵庫の数ある沖船頭(雇われ船頭)のなかで、自分が選ばれたということで、胴がふるえてきた。

 「紀州様は、お急ぎらしい。春になれば一番ということになるだろう・・・」

 北前船を持とうにも金がなく、さらには金を作るわずかな資本(もとで)もない身では、命をもとでにするしかない。

 嘉兵衛は、好んで冒険を楽しむような性格を持たなかったが、ともかくこの場合、ありあわせの命を使うしかないと考えていた。

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高砂市を歩く(25) 工楽松右衛門物語(10)・高田屋嘉兵衛との出会い

2014-10-27 12:48:22 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

 ここに、もう一人の人物が登場する。高田屋嘉兵衛である。

 工楽松衛門は地元・高砂市でこそ知られていたが、あまり広く知られているとはいえない。
 彼を全国的に有名にしたのは、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』である。

 特に、『菜の花の沖(全六巻)』(文芸春秋・文庫)の第二巻に、ずばり「松右衛門」の項がある。

   高田屋嘉兵衛・兵庫湊へ

 高田屋嘉兵衛は、明和六年(1769)正月、淡路島の西海岸(西浦)都志(つし)本村(五色町)という寒村で生まれ、追われるように兵庫へ逃げた。

 寛政二年(1790)先に、兵庫湊の堺屋で働いていた弟の嘉蔵(かぞう)のところへ乞食のような姿で転がり込んだ。

   新酒番船で一番に

 兵庫湊は樽廻船・菱垣廻船・北前船でにぎわい、嘉兵衛には驚き連続であった。

 寛政三年(1791)、嘉兵衛の乗りこんだ堺屋の樽廻船が、その年の「新酒番船」に出場して、みごと一番の栄誉をうけた。

 早春の太平洋は、まだ波が荒い。「新酒番船」とは、その年の上方の新酒を樽廻船に積み江戸到着の順位を競い、一番はたいそう名誉なこととされていた。

嘉兵衛は、その船の事務長のような役割を果たした。

 嘉兵衛の働く堺屋も北風家の傘下にあった。北風家は、嘉兵衛の将来を見込んで、兵庫湊・北風家の名をあげるため、いろいろとしかけたようである。

   嘉兵衛と松右衛門の出会い

 以下の高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面は、司馬遼太郎氏の想像であろうが、彼らの風景としては、いかにもありそうな話である。

 ・・・・

 兵庫湊の西出町の長屋は、冬になると賑やかになった。冬は海が荒れる。よほどのことがないと船は動かない。

 北前船や樽廻船が、この時期うごかないため、船乗りたちは春からの仕事に備えて岡での生活を楽しむ。

 が、嘉兵衛は、暇ではなかった。堺屋の持船のうち、二艘の船底を「たで」ねばならない。

 「たでる」とは船底を燻して、木材を食う虫を追いだすことだが、老朽あるいは損傷のか所を修理するということも含まれている。

 兵庫の湊の欠陥として、この浦が出船・入船で繁昌するあまり「船たで場」が少なかった。

 兵庫のせまい「船たで場」が予約でいっぱいの時は、海向こうの讃岐(香川県)の多度津まで「船たで」に行くことになる。

 船舶の世界において、多度津は田舎ではない。船大工などもむしろ兵庫より人数が多く、腕のきこえた者も少なくなかった。

    多度津(讃岐)にて

 嘉兵衛が多度津で、「船たで」の作業を監督していると、隣の「船たで場」に、兵庫の廻船問屋船が「船たで」をしていた。

 嘉兵衛が「船たで場」からみていると、大柄な男がこちらへ近づいてくる。

 御影屋の「簾がこい」に入った。松右衛門旦那であることはまぎれもない。

 松右衛門旦那は、「簾がこい」から出てきて、嘉兵衛に近づいてきた。

 嘉兵衝は、あわてて船の上から降りてくると、松右衛門旦那のさびた声が耳にとどいた。

 松右衛門旦那は、嘉兵衛に声をかけた。嘉兵衛はすこしあがっていた。

 人間としての品格が、いままでみたどの人物とまるでちがっていた。

 やがて風むきが変わって「船たで」の煙がただよいはじめたので、松右衛門旦那はもどっていった。

 その夜、嘉兵衛は、松右衛門にご馳走になった。

 嘉兵衛は「松右衛門さんが、目にかけてくれている」と思うと、震えるような嬉しさを感じた。

 *挿絵:高田屋嘉兵衛・小説『菜の花の沖(四巻)』カバーより

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高砂市を歩く(24) 工楽松右衛門物語(9)・蝦夷地へ

2014-10-27 06:43:28 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

     商業を縛る株仲間

 松右衝門は、松衛門帆でいくばくかの金は得た。「これで、鉛を乗りまわせる」と、松右衛門はよろこんだ。

 松右衝門が少年のころ奉公した御影屋も先代の死後、衰徴していたため、帆でもうけた金でこの株をゆずってもらい、御影屋の当主になった。

 当時、兵庫には北前船の廻船問屋が13軒あり、幕法によってそれらが「株」として固定しており、勝手に新規開業することができなかったのである。

    蝦夷地へ

 江戸時代、「株仲間」が、大きな力を持ち威張っていた。

 それは封建制度そのものといってもよかった。株仲間は新興の勢力が入りこむことを、蹴落とす組織であった。

 幕府は、株仲間からの利益を吸い上げることのみに熱心で、変化を好まなかった。

 江戸は、膨大な食欲を持つ消費都市であり、そこへ商品を運びこむというのが一番いいのであるが、そこには菱垣廻船、屋樽廻船という株仲間が独占していた。

 そのため、松右衛門は「もうけ」のために、日本海、そして蝦夷地に乗り出さねばならなかった。

    蝦夷との商い

 松右衛門のように持船がすくなく、あたらしい商人には、既成の航路に割りことはむずかしい。松前(蝦夷地)へ行く商いの方がやりやすかった。

 松前(蝦夷地)の商品で最大のものは肥料用のニシン(干鰯・ほしか)で、この肥料が上方や播州などの植物としての木棉の生産を大いにあげている。

 しかし、これらの商品も、株仲間が組織されていて、松右衛門のような新参が割りこめないし、割りこめても妙味が少なかった。

 そのため、北風荘右衛門は、松右衡門に、あつかう商品として、昆布と鮭をすすめた。

 松前から帰ってくる北前船の昆布を大量に上方に提供した。

 昆布を料理のダシにつかい、上方料理の味を変えた。

   松右衛門の発明・アラマキ鮭

 さらに、松右衛門は、蝦夷地で一つの発明をしている。「アラマキ鮭」である。

 松前(蝦夷地)から運ばれている鮭は塩鮭で、塩のかたまりを食っているようにからいものであったが、松右衛門は松前で食った鮭の味がわすれられず、この風味をそのまま上方に届けたかった。

 かれは内蔵やエラをのぞき、十分水洗いをしてから薄塩を加え、わらでつつんだ。

 そして、アラマキ鮭だけのために早船を仕立てた。

 このアラマキ鮭の出現は、世間から大いに喜ばれた。

 ハム、ソーセージ、鰹節などの食品の発明は、人々の生活に大きな影響をおよぼしたが、その発明者の名は知られていない。

 アラマキ鮭の発明者は、松右衛門であったことが記録として残っている。(『菜の花の沖』参照)

 *写真:アラマキ鮭

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高砂市を歩く(23) 工楽松右衛門物語(8)・故郷は綿の産地

2014-10-26 14:01:00 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

    松右衛門帆でもうけよ

 松右衛帆について、さらに触れたい。

 かれは、この帆布の製作のために兵庫の佐比江に工場を設けたが、当時まだ沖船頭(雇われ船頭)の分際であったため、この資金は北風家、あるいはその別家の喜多家から出たのではないかと思える。

 佐比江(さびえ)の工場では、船主や船頭が奪いあうようにして出来上がりを持ってゆくというぐあいで、生産が需要に追いつかなかった。

かれは、むしろ積極的にこの技術を人に教え、帆布工場をつくることをすすめた。

 このため弟子入りする者が多く、工場はにぎやかに稼働したが、独立してゆく者も多かった。

 数年のうちに播州の明石、二見、加古川、阿閇(あえ・現:播磨町)などで、それぞれ独立の資本が工場をうごかしはじめ、西隣りの備前、備後までおよんだ。

   故郷は綿の生産地

 元禄十年(1697)に刊行された江戸時代の農書『農業全書』に、河内(かわち・大阪府)、和泉(いずみ、大阪府)、摂津、播磨、備後(広島県)の五ヵ国について、土地が肥沃で、綿を植多大な利潤をあげたことが紹介されており、県内沿岸部の摂津や播磨が、近世前期から綿作のさかんな地域だった。

 とくにさかんだったのは、現在の加古川・高砂市域一帯の平野部であった。

 18世紀中ごろから村明細帳(むらめいさいちょう)に綿作のことが記されるようになっているが、畑作物とし多くの村々では綿が作付されており、それは幕末のころになっても変わっていない。

 田畑全体の50パーセントに作付される村が多く、畑にはほとんどすべて綿を植えるという村も多かった。

 伊保崎村・荒井村(高砂市)から別府村・池田村(加古川市)一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%であった。

 松右衛門は、こんな町の空気を吸って少年期を過ごした。その中に、松右衛門帆のヒントがあった。

 *挿絵:綿花

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高砂市を歩く(22)  工楽松右衛門物語(7)・松右衛門帆

2014-10-26 07:41:58 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

      松右衛門帆

 松右衛門を最初に有名にしたのは、「松右衛門帆」の発明である。

 近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用された。

 しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を増すために、二・三枚重ねて太いサシ糸でさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)であった。縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度不足により破れやすかった。

    帆の改良

 「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからである。

 かれは北風家の別家で話しこんでいたときに不意にヒントを得たらしい。

 幾度か試行錯誤をしたらしいが、「木綿布を畿枚も張りあわせるより、はじめから布を帆用に織ればよいではないか」と思い、綿布の織りをほぐしては織りの研究からはじめ、ついに太い糸を撚(よ)ることに成功した。

 縦糸・横糸ともに直径一ミリ以上もあるほどの太い糸で、これをさらに撚り、新考案の織機(はた)にかけて織った。

 ・・・・できあがると、手ざわりのふわふわしたものであったが、帆としてつかうと保ちがよく、水切りもよく、性能はさし帆の及ぶところではなかった。

 かれのこの「織帆」の発明は、天明二年(1782)とも三年ともいわれる.

 ・・・・

 「松右衛門帆」とよばれたが、ふつう単に「松右衛門」とよばれた。

 さし帆より1.5倍ほど値が高かったが、たちまち船の世界を席捲(せっけん)してしまった。

 わずか7、8年のあいだに湊にうかぶ大船はことごとく松右衛門帆を用いていた。

 その普及の速さはおどろくべきものであったといっていい。

 (以上『菜の花の沖(二)』参照)

 *写真:松右衛門帆で進む北前船

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高砂市を歩く(21) 工楽松右衛門物語(6)・松右衛門のエピソード

2014-10-25 07:30:06 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   エピソード①・大みそかの海

  松右衛門、24才のときのことである。

 松右衛門は、讃岐(現在の香川県)へ通う船の船頭となっていた。

 その当時、おおみそかの夜に船を出すと災難にあうという言い伝えがあった。

 しかし、彼は迷信を信じていなかった。おびえる水主たちを説得してその夜出港した。

 夜の海を航海していると、水主たちが騒ぎだした。「山のような波が押し寄せてきた」というのだ。

 松右衛門は、「山があれば谷がある。谷に向かって進め」と命じた。

水主たちは谷を見つけ、力を合わせて船を進めた。すると、目の前から山は消えた。

 松右衛門には最初からこの「山のような波」は見えなかったらしい。

 「迷信を信じおびえていた水主たちにはそのように見えた」というのが実際のようである。

 松右衛門は、合理的に物事を考える人であったが、松右衛門自身も山が見えたということにしておいた方が、同じ船に乗る者の気持ちが一つになると考えたのである。

 彼の言葉により船は無事にすすみ、水主たちは冷静さをとりもどした。

  エピソード②・筏で材木を江戸へ運ぶ

 松右衛門は、兵庫湊の「御影屋」という廻船問屋で水主(かこ・船乗り)をしていが、ずいぶん北風家の世話になった。

 そこで船乗りとしての知識や技術、そして商いを覚えた。

 北風家も、松右衛門をずいぶん可愛がり援助をしたようである。

 次の松右衛門が筏(いかだ)で材木を運んだということも、北風家から出た話であろうと思われる。

 誰も考えつかないようなことを行わせ、一挙に「兵庫湊と松右衛門あり」と宣伝した。

 松右衛門も見事にそれに応えた。

 ・・・・彼が30才のころ、姫路藩から頼まれて秋田から材木を運ぶことになった。

 しかし、当時大きな材木を積むことのできる船はなかった。

 秋田の商人から工夫を頼まれた松右衛門は、材木を筏に組んで、それに帆と舵(かじ)をとりつけることを思いついた。

 木材の運搬を頼まれたのは、北風家であったのであろうが松右衛門を見込んでの事だった思われる。

 ・・・・筏(いかだ)は、基本的に船と同じ機能を持つ。

 このいかだ船で、秋田から大坂まで航海をした。この時は、寄港する先々で「めずらしい船が来た」と注目を集めた。

 この方式で姫路から江戸まで丸太五本を運んだとき、松右衛門は「姫路の五本丸太」という大旗を掲げて航行したという。

 江戸に着いた時には多くの見物人で大騒ぎになったが、この事が姫路藩と松右衛門の名を世に広めたのである。

 このようにして、松右衛門は、船頭として評判はたかまっていった。

 *『風を編む 海をつなぐ』(高砂教育委員会)参照

 
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