ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(242) 近世の高砂(36) 新、工楽松右衛門物語(7)・迷信

2020-04-30 06:59:30 | 大河・かこがわ

     迷 信

 松右衛門が、すぐれた船頭であることを示すエピソードを『風を編む 海をつなぐ』(高砂教育委員会)から一部をお借りします。

   ・・・

 松右衛門、24才のときのことでした。

 松右衛門は讃岐(現在の香川県)へ通う船の船頭となっていました。

 その当時、おおみそかの夜に船を出すと災難にあうという言い伝えがあり、おおみそかの夜に航海する者はいません。

 言い伝えを信じていなかった松右衛門は、おびえる水主(かこ)たちを説得してその夜出港しました。

 夜の海を航海していると、水主たちが騒ぎだしました。「山のような波が押し寄せてきた」というのです。

 それを聞いて船首で海の様子を見た松右衛門は、「山があれば谷がある。谷に向かって進め」と命じました。

 水主たちは谷を見つけ、力を合わせて船を進めました。

 すると目の前から山は消えました。

 松右衛門には最初からこの「山のようなたくさんの波」は見えませんでした。

 「言い伝えを信じおびえていた水主たちにはそのように見えた」というのが、実際のようでした。

 松右衛門は、合理的に物事を考える人でした。

 おおみそかの夜に災難が起きると言われているのは本当なのか、そうだとすればそれはどうしてか。松右衛門はそれを確かめたかったのです。

 いざ海に出てみると、言い伝えには根拠がないことがわかりました。

 ただ、言い伝えを信じこんでいる水主たちには「山などない」と否定せず、「谷を行け」と命じたのです。

 松右衛門自身も山が見えたということにしておいた方が、同じ船に乗る者の気持ちが一つになると考えたからです。

 松右衛門は水主たちの気持ちを考えつつ、船を進めるため号令をかけました。

 彼の言葉により船は無事にすすみ、水主たちは冷静さをとりもどしました。(以上『風を編む 海をつなぐ』より)

     松右衛門の考えの源は?

 以上はエピソードですが、松右衛門はすべてに合理的に考える人でした。

 松右衛門の船頭として優れたリーダーシップはともかく、彼の迷信を信じない合理的な考えは経験から得ただけとも思えません。

 兵庫港・高砂の商業活動から合理的な態度を身につけていたのでしょう。(no4951)

 *『風を編む 海をつなぐ』参照

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大河・あこがわ(241) 近世の高砂(35) 新、工楽松右衛門物語(6)・ 兵庫港、天領となり一時衰弱

2020-04-29 06:54:53 | 新・工楽松右衛門物語

                   兵庫港、天領となり一時衰弱

 『播磨灘物語』を読んでみます。(文体を変えています)

 ・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになりました。

 特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫港を繁盛させることに力を尽くしました。

 しかし、幕府はこの地の商業活動が盛んなのを見て、明和6年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)としました。

 が、幕府は兵庫港の政策(運営の方針・みとうし)を少しも持ちませんでした。

繁盛しているところから運上金(うんじょうきん:税金)を取りたてると言うだけでした。

 そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ衰えていきました。

 北風荘右衛門(きたかぜそうえもん)が34・5才のときでした。

 彼はまず同業の問屋に、兵庫港の復活を呼びかけました。

 北風家は大打撃を受けていましたが、それを回復したのは、北風家が船を蝦夷地(北海道)へ仕立てて、その物産を兵庫に運んで売りさばいたからです。

 莫大な利益がありました。

 十年にして、ようやく兵庫の商権と賑わいを取りもどしました。

 以後、兵庫港では、北風家の競争相手はいなくなりました。

 そして、「兵庫の北風家か、北風家の兵庫か」と呼ばれるまでになりました。 (no4950)

 *絵:兵庫港:孫(小4当時描いた絵)

 

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大河・かこがわ(240) 近世の高砂(34) 新、工楽松右衛門物語(5)・北風家

2020-04-28 11:28:11 | 新・工楽松右衛門物語

      北 風 家

 『菜の花の沖(二)』(文芸春秋文庫)は、次のように始まります。

  ・・・兵庫の津には、北風という不思議な豪家がある。・・・・

 「兵庫を興(おこ)したのは、北風(きたかぜ)はんや」と土地では言う。

 諸国の廻船は普通大坂の河口港に入る。それらの内、幾分かでも兵庫の港に入らせるべく北風家が大いにもてなした。

 「兵庫の北風家に入りさえすれば、寝起きから飲み食いまですべて無料(ただ)じゃ」と、諸国の港で言われていたが、まったくそのとおりであった。

 北風家は兵庫における他の廻船問屋にもそれをすすめ、この港の入船をふやした。

 入船が多ければ、その港が富むことはいうまでもない。

     兵庫の北風か、北風の兵庫か

 「北風の市」というのは、入船のたびに遠近(おちこち)から集まってくる仲買人でにぎわった。・・・・

 めし等は、いつ行っても無料(ただ)であった。

 入船の船乗りだけでなく、家に戻っている船乗りでも、「どりゃ、これから北風に振舞(ふれま)われてこようかい・・・」と七宮神社(しちのみやじんじゃ・写真)近くの北風の湯に出かけて行く。

 勝手口から入ると、富家の娘のようにいい着物を着た女中たちが、名前も聞かずに給仕をしてくれるのである。・・・(以上『菜の花の沖』より)

 北風家の賑わいの風景が目に浮かぶようです。

 松右衛門も北風家の空気をいっぱい吸いこんで仕事を始めたのです。

      北風の湯

 北風の湯というのは、二十人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものでした。

 「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていました。

 老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談(けんぶんだん)は、若者にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報でした。

 兵庫の港では船乗りであればだれでもよかったのです。

 風呂では十数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流しあったりしながら自然に情報を交換しました。

 湯あがりの後、時には酒もでました。

 北風家としても全国からの情報を集め商売に利用していたことはもちろんです。

    松右衛門も、北風の湯で学ぶ

 松右衛門は、15才で兵庫の湊に飛び出し、御影屋(みかげや)で働くようになり、やがて船に乗りました。

 最初は、だれでもそうであるように、船乗りといっても「炊(かしき)」という雑用係から始まります。

 松右衛門もそんな炊の時期を経て、20才を過ぎた頃、船頭になっています。

 「北風の湯」に出入りし、全国の情報をいっぱい仕入れました。夢はますます膨らんでいったのです。(no4949)

 *写真:七宮神社(神戸市兵庫区七宮町二丁目)、神社の近くに北風家・北風の湯がありました。

 

 

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大河・かこがわ(239) 近世の高砂(33) 新、工楽松右衛門物語(4)・兵庫の港

2020-04-27 07:29:53 | 新・工楽松右衛門物語

        兵庫の港

 『菜の花の沖』で、司馬遼太郎はこの頃の松右衛門について書いています。

 ・・・

 「・・・わしは(松右衛門のこと)十五の齢に家を出たよ」と松右衛門は人によく言い、その時は、両親も肩の荷をおろしたようによろこんだという。

 この少年がどれほど悪堂だったかがさっせられる。・・・・」(『菜の花の沖』より)

 私の松右衛門のイメージは、がっちりとした体の真面目な少年ですが、あるいは司馬氏が言うようにワルガキの面もあったのかもしれません。

 松右衛門は、力士のように大柄でした。

 とにかく、15才の時に兵庫(神戸)へ飛び出しました。夢の続きでした。・・・

       大坂は天下の台所

 秀吉の時代、大坂は一大消費地となり全国の商品はここにあつまりました。

大坂は、徳川の時代になった後も「天下の台所」としてその機能を引き継いでいました。

  教科書『中学社会・歴史』(大阪書籍)の記述を借ります。

 ・・・大坂は、江戸の間に航路が開かれると、木綿・酒・しょう油・菜種油等を江戸へ積み出し、それをあつかう、問屋が力をのばしました。

各地の大名は、大坂に蔵屋敷(くらやしき)を置いて年貢米や特産物を売りさばきました。

 また、日本海と大坂を結ぶ西まわり航路が開かれると、大坂は商業都市としていっそう発展しました・・・(以上『中学社会・歴史』より)

河村瑞賢(かわむらずいけん)により北前船(日本海航路)が成立したのは、寛文12年(1672)です。

     兵庫(神戸)港は、大坂の外港に

 しかし、大坂の港は大きな欠点がありました。

 淀川が押し出してくる大量の土砂は、安治川・木津川尻の港を浅くしました。

 徳川中期の頃までは堺がその外港としての役割を果たしていましたが、宝永元年(1704)大川の流れを堺へ落とす工事が完成して以来、堺は港としての機能を低めました。

 この点、兵庫の港は違っています。

 六甲山系からは大きな川がありません。川は短く、一気に流れ下り水深が深いのです。

 徳川期にその役割を弱めた堺に代わり、兵庫の港(神戸港)は大坂の外港としての役割を果たすようになりました。

 最初は、海路で全国から大坂へ運ばれる商品はいったん兵庫(神戸)に運ばれ、そこで陸揚げされず、ほとんどの商品は小船で大坂へ運ばれていましたが、船の輸送はますます増え、兵庫の港にもの商品が陸揚げされるようになり、取引が行われるようになりました。

 兵庫の廻船問屋は大いに栄えました。(no4948)

 *挿絵:幕末の兵庫の津(神戸市立博物館蔵)

 

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大河・かこがわ(238) 近世の高砂(32) 新、工楽松右衛門物語(3)・松右衛門、15才で兵庫港へ

2020-04-26 07:53:19 | 新・工楽松右衛門物語

 高砂出身の工楽松右衛門(くらくまつえもん)は、廻船業で身を立てました。

 また、帆の改良や様々な工夫により各地の築港にも功績がありました。

 それに感銘を受けた大蔵永常(おおくらながつね)は、『農具便利論』に彼の伝記を紹介しています。

     松右衛門、15才で兵庫港へ

 松右衛門は、寛保3年(1743)に高砂の漁師・宮本松右衛門の子として生まれ、父と同じ松右衛門を名のりました。

 20才の頃、兵庫津、佐比江町の船主・御影屋平兵衛に奉公して、船乗りになりました。

 40才の頃、兵庫佐比江新地の御影屋松右衛門として廻船商売を始めたといいます。

 石見(現:島根県)浜田外ノ浦の清水屋の「諸国御客船帳」には、安永6年(1777)3月24日、入津の御影屋平兵衛の八幡丸の沖船頭として松右衛門の名があり、同8年5月7日の御影屋の津軽からの上り船・春日丸沖船頭として記録があります。

 そして、寛政4年(1792)6月6日の上り船では「御影屋松右衛門様・久治郎様」とあり、この頃に独立したと考えられます。

 松右衛門は、当時蝦夷地と呼ばれた北海道から日本海沿岸、そして瀬戸内から江戸といった広域で千石船を含む持ち船により、米・木・木綿・荒物(日常生活に使う桶・はたき・ほうき等雑貨)等の買積み活動をしていました。

    40才の頃、廻船問屋を始める

 『高砂市史』の記述によれば、兵庫の津に出て船乗り成ったのは20才の頃でした。別の書では高砂を出たのは15才であったので、しばらく下積みの生活があったのでしょう。

 40才頃、廻船問屋を始めたといいます。

 松右衛門というと廻船問屋と結びつきますが、廻船問屋を始めたのはずいぶん遅い時期でした。(no4947)

 *絵:兵庫の津(七宮あたり)

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大河・かこがわ(237) 近世の高砂(31) 新、工楽松右衛門物語(2)・松右衛門 蝦夷地・エトロフへ

2020-04-25 07:58:45 | 新・工楽松右衛門物語

     松右衛門 蝦夷地・エトロフへ

 工楽松右衛門は、歴史上大きな役割を果たしましたが、広く知られている人物とはいえません。

松右衛門の紹介の前に、彼についての概略を紹介しておきましょう。
 江戸時代、高砂の町には賑わいがありました。

 その豊かな経済力は、個性豊かな人物をたくさん輩出しています。その代表的な一人が、松右衛門です。
 松右衛門が世に知られるようになったのは、なんといっても船にとってたいせつな帆布の改良に取り組んだことでした。

 船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものでした。
 瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されています。

 そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多く、帆布が広く使用されるのは、江戸時代初期からのことです。
 しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく、雨水等を含んですぐ腐ってしまうという欠点がありました。
 そこで、松右衛門は、高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織って帆にしました。
 この帆は、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風のはらみもよくなりました。

 さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりもはるかに便利でした。
 この帆は「松右衛門帆」または単に「松右衛門」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍(いちやく)大商人にのしあがりました。

     蝦夷地へ

 「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も一挙に短縮されました。

 松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋を始めました。内地に運ばれたのは、塩鮭・干鮭・にしん・かずのこ・ぼうだら・にしんかす・昆布・ふのり等でした。

 特に、塩鮭・にしん・昆布の三品が圧倒的に多く、これらの移入で、当時の食生活もずいぶん変ったといわれています。
 また、塩鮭は保存のため塩からく、鮭の本来の味が損なわれました。そのため冬の期間は、塩を薄くした「あらまき」を江戸や大坂に直送しました。

     工楽松右衛門、エトロフへ

 天明期から寛政期(1781~1800)にかけて蝦夷地は、にわかに騒がしくなってきました。

 ロシア船の出没です。一時は、ロシアによる蝦夷地の占領の噂も流れました。

 そんな情勢の中で、幕府から兵庫の問屋衆に難題がくだったのです。

 「・・・エトロフ島で、港をつくれ・・・」

 兵庫の問屋衆は何度も、なんども話しあっいました。堂々巡りが続きました。

 そんな時でした。めっきり白いものが多くなった松右衛門が「・・・・皆さん・・・ご異議がなければ、そのお役目をお引き受けしたいと存じます・・・」と、発言しました。もとより反対する者はありません。

 松右衛門に感謝とねぎらいの言葉がありました。この時、松右衛門は50才に近くになっていました。

 幕府からの工事費の一部は下されました。松右衛門は、船頭や大工を選び、資材や食料の準備にあたり、寛政二年五月(1790)、20名の乗組員と共にエトロフへ向かいました。

 エトロフに着きました。短い夏は駆け足で過ぎ去り、冬将軍がどんどん迫ってきました。

 彼は、ひとまず兵庫へ引き返し、翌年の3月再びエトロフを目指し、その年の9月、あらかた港を完成させました。

 その後も、幾度となくエトロフに渡っています。港は後年、紗那(シャナ)と名づけられました。

 この功績により享和2年(1802)、彼は「工楽(くらく)」の苗字をゆるされました。さらに、松右衛門は箱館の築港もなし遂げました。

     高砂の港を修築

 郷里・高砂の町は、かつての賑わいを失いかけていました。

 彼は、60才を過ぎて兵庫の店を息子に譲り、郷里の高砂に帰り、私財を投じ高砂港を改修し、現在の堀川を完成させました。

 文化9年(1812)、秋風が肌にしみる日でした。松右衛門は、波乱にとんだ生涯を終えました。(no4946)

 *地図:エトロフ島(松右衛門が築港した紗那(シャナ)を確認しておいてくだ

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大河・かこがわ(236) 近世の高砂(30) 新、工楽松右衛門物語(1) 

2020-04-24 08:43:12 | 新・工楽松右衛門物語

    新、工楽松右衛門物語

 ずいぶん以前のことです。

 「高砂市に、工楽松右衛門(くらくまつえもん)というどえらい人物がいた」ということは聞いていました。

 でも、松右衛門に特に興味を持ったのは、小説『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)を読んでからのことです。

 いつか彼を紹介したいという気持ちがふくらみましたが、彼を紹介する知識も史料もあまり持ち合わせていません。

 そのため、松右衛門について『菜の花の沖』以上に想像することができませでした。

 さいわい、「高砂市が工楽松右衛門に取り組むらしい」ことを知り、松右衛門に関する学習会にも参加しました。

 司馬氏の松右衛門像は、おぼろげに想像することはできました。しかし、松右衛門の本当の姿ではありません。

 が、松右衛門が、生き生きと活躍しています。

 司馬さんは、『菜の花の沖』で、高田屋嘉兵衛のほかに、もう一人の主人公として、工楽松右衛門を描いています。

 高田屋嘉兵衛を通して、工楽松右衛門の時代の空気がビンビン伝わってきます。

 それにしても、司馬氏が『菜の花の沖』で松右衛門を紹介しなかったら松右衛門はあまり知られないままに終わっていたかもしれまれません。

 もちろん、松右衛門が、歴史上で大きな意味がないということではありません。

 いずれ、松右衛門の研究が進めば松右衛門の生涯は、詳しく紹介されるでしょうが、それは「すぐ」ではなさそうです。

 そのため、間違いも多いでしょうが、『工楽松右衛門物語』のタイトルで、松右衛門を紹介することにします。

 天国の司馬氏から、そして、松右衛門研究に取り組んでおられる地元の方から「こんなでたらめな内容で・・・」とお叱りを受けそうですが、研究が進み、「本当はこうなんですよ」と、そのとき改めて松右衛門を登場させればよいと居直っています。(no4945)

 *写真:工楽松右衛門像(高砂神社境内)

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大河・かこがわ(235) 江戸時代(29) 近世の高砂(29)・幻の高砂染(2) 二つの説 

2020-04-23 07:54:51 | 大河・かこがわ

     幻の高砂染め(2) 二つの説 

 高砂染の始まりには二説があります。

    相生屋勘右衛門説

 高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。

 「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。

 高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。

 姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。

    河合寸翁の政策

 特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。

 寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために木綿の専売制を実施したことで知られていますが、一方で、姫路藩の多くの国産品の奨励にも力を入れました。

 天保三年(1833)には、藩校であった好古堂内に御細工所を設けて高砂染の染色を実際に行っています。

 そして、「高砂染」を姫路の特産品として江戸、大坂などへ積極的に流通させました。

 文献上、高砂染の起源は、現在のところ18世紀中葉まで遡ることができます。

 その後、高砂染は江戸時代のみならず明治、大正、昭和と存続し、高砂を含めた姫路の広い範囲で染められ、より多様な展開をみせました。

 河合寸翁が亡くなり、やがて明治時代を迎えて、高砂染が藩の保護を解かれて後も生産は続きましたが、昭和のかなり早い時期に終焉を迎えました。(no4944)

 *『姫路美術工芸館紀要(3)』(山本和人論文)参照

 *写真:高砂染の文様(松枝、松葉、松かさ、霰)・姫路美術工芸

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大河・かこがわ(234) 江戸時代(28) 近世の高砂(28)・幻の高砂染(1)

2020-04-22 09:52:48 | 大河・かこがわ

                幻の高砂染(1)

 「高砂染」の始まりについては、今のところ二説があります。今回は「高砂説」を中心に紹介します。

     尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる

 「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し、堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。

 後に、庄兵衛は自邸でその業を営み、〝高砂染〟と改称した」というのがその一つの説です。

 『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。庄兵衛は、常に考える人でした。

 たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。

 庄兵衛は、日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。

 そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。

 当時この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。

 後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」(高砂雑志)より

     高砂染は、江戸時代中期以降か?

 昭和52年の「兵庫縣社会科研究会会誌(第24号)」で、玉岡松一郎氏は「高砂染顛末記」の中で、次ように記しておられます。

 「慶長6年3月11日、姫路藩主池田輝政は高砂附近を開発し堀川を造りました。

 その時、産業奨励の意味で、尾崎庄兵衛を召して紙型による木綿をつくらせ、「おぼろ染」と名付け、諸藩にも販売しました。

 尾崎家の隣家の川島家も後世に染色しており、新しい図柄ができて「高砂染」と名を変えるようになったのは江戸後期のことでしょう・・・」

 また、尾崎庄兵衛は実在の人物で、先の玉岡松一郎著の『高砂染顛末記』に次のように紹介されています。

 「・・・高砂市鍛冶屋町に現在自転車・単車等を盛業しておられる尾崎庄兵衛の子孫である尾崎庄太郎氏(明25生)を訪問する。

 現在、布等は一切残ってなくて、紙型は明治末頃に一度整理し、なお、40~50枚残っていたが、戦時中に防空壕に入れたり出したりしているうちになくなってしまったといわれる・・・」

 尾崎庄兵衛が、高砂染を行っていたことは事実と考えられます。

 しかし、その始まりが池田輝政の時代というのは、少し無理があるようです。

 というのは、綿作が盛んになるのは江戸時代中期以降のことです。(no4943)

  *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

  *写真:高砂染め着物(姫路美術工芸館蔵)

 

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大河・かこがわ(233) 江戸時代(27) 近世の高砂(27)・高砂の漁業

2020-04-21 10:04:05 | 大河・かこがわ

           高砂の漁業

 高砂では漁業も盛んでした。

 安永2年(1773)の高砂町の明細帳には「漁船118艘・船持115人、曳網船25艘・船時20人」とあります。

 また、町名にも漁師町、釣舟町、狩網町があって.それぞれ51世帯202人、111世帯、435人、68世帯296人が住んでいました。

 漁船の数からいえば、その大部分が漁業で生活していたといえるでしよう。

 そのほかにも、魚町91世帯341人がありました。

 その全では無いでしょうが魚問屋や生魚や塩干魚を加工・販売する商人も多く住んでいたと思われます。

      漁業権

 姫路藩主が参勤交替で国元に在住している年には高砂の町中として塩鯛10枚を歳暮として献上する習わしがありました。

 それは姫路藩から高砂に対して漁業権が認められていたことへの謝礼の意味がありました。

 それとは別に、毎年、高砂漁師から塩鯛420枚、塩鰆100本、干鱧300本を献上する替わりに、それぞれ銀336匁、150匁、10匁5分が上納されていました。

 これらも、漁師たちか漁案権を認められることに対するお礼の献上物であったものが、安永2年の段階ではすでに金納となっており、営業税的な性格に変わっていたと考えられます。

 また、網を用いる漁業に対して営業艦札が発行されており、これらにも銀納で運上銀が課されています。

 その他に、川漁師にも同様に運上銀を課しています。

 播磨離の海域には岡山や摂津(神戸方面)からも漁師が入り込みますので、姫略藩としては高砂、飾磨を始めとする領内漁村の漁師を保護するとともに、領外への漁獲物の叛売を制限して城下町姫賂を中心に領内の食科資源を確保する政策をとっています。(no4942)

 *「たかさご史話(49)・高砂の漁業」参照

 *地図:高砂周辺の主要漁村と高砂の諸漁場(『高砂市史第二巻』)より

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大河・かこがわ(232) 江戸時代(26) 近世の高砂(26)・岸本家・姫路藩の御用商人も務める

2020-04-20 08:06:10 | 大河・かこがわ

     岸本家・姫路藩の御用商人も務める

 申義堂のスポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 高砂の岸本家は、その地の利を活かして大いに発展しました。

 岸本家は、三代でその基礎が確立し、資産は持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり、藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。
 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。
 岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をしました。
 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。 

      申義堂、高砂へ帰る
 先に紹介したように、申義堂の建物は、高砂警察署の建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
 昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。

 天井に棟札があり、明治12年の移築が確認されました。

  その後、平成5年に高砂市にひきわたされ、平成6年に解体され、しばらく高砂市教育センターに保存されていましたが、平成23年、高砂市横町に江戸時代当初の姿に復元されました。(no4941)

 *写真:西井ノ口村に移転されていた申義堂

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大河・かこがわ(231) 江戸時代(25) 近世の高砂(25)・ 長谷川亀次郎って、だれ?

2020-04-19 08:26:37 | 大河・かこがわ

             長谷川亀次郎って、だれ?

 申義堂は、明治4年に廃校になり、その後建物は、高砂警察署の建設に伴い、明治12年5月に印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
 「なぜ、西井ノ口村か」という疑問が残ります。
 ここに、長谷川亀次郎が登場します。
 長谷川亀次郎が突然登場しますので、「長谷川家亀次郎って誰?」と疑問を持たれると思います。

 亀次郎について少し紹介しておきましょう。  

      <長谷川亀次郎、年表>
 天保9年(1838)  西井ノ口村に生まれる。
   ?年        高砂へ進出。 
 安永6年(1859)   名字帯刀を許される。
 文政元年(1861)    大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。
   <江戸幕府崩壊>
 明治2年(1869)  調達金・木綿代金を多く納める。 
 明治3年(1870)  軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。
            蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。  
 明治5年(1872)  高砂南本町に物産会社をつくる。
            姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。
 明治6年(1873)     高砂・飾磨・船場の姫路藩蔵の御蔵米取り扱い方に任ぜられる。             
             印南郡に西井ノ口村に学校を新築。福崎町で石灰製造を行う。
 明治12 年(1879) 申義堂を西井ノ口に移築

    明治22年(1889)  死亡、戒名は釈浄脩
  以下省略。

 亀次郎については、史料がすくなく、はっきとしませんが、晩年は仏教に帰依しました。
 彼は、特に教育の分野で大きな足跡を残しています。
 岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。
・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。
・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。
・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。
・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。
・「長谷川亀次郎を偲ぶ」によれば、亀次郎の妻(うの)は、岸本家から嫁いでいます。
 とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にあったようです。
 このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下の会話は記録によるものではありません。皆さんはどう思われますか。
    ある日の会話
 「亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」
 「岸本さんのいわれることです。出来ることでしたらなんなりと・・・」
 「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・
   (こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)
 「岸本はん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。
 出しょうの(西)井ノ口村に移してもらえませんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。
 「そこ(井の口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。
 私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。
 話はトントン調子に進み、高砂町の説教所(申義堂)は、明治12年5月に姫路、光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。(no4940)
 *写真:長谷川亀次郎

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大河・かこがわ(230) 江戸時代(24) 近世の高砂(24)・ 申義堂は残った

2020-04-18 08:24:25 | 大河・かこがわ

           申義堂は残った

   申義堂は、明治4年廃校になりました。その後の申義堂について紹介しておきましょう。

 廃校になった申義堂について、『高砂市史(第二巻)』は、次のように書いています。

 少し書き直して紹介します。(文体も変えています)

 ・・・申義堂は、明治4年に廃校となりました。
 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。

 現在、再建された申義堂に掲げられている河合寸翁筆による「申義堂」扁額は岸本家に保管されていました。また、文書が同家に保管されているのはそのためです。

 その後、土地は明治28年、高砂警察署建設のため兵庫県へ寄付され、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。

   申義堂が東神吉町(加古川市)に残っていた

 申義堂の建物は、解体され明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡東神吉村西井ノロに移築されていました。

 昭和7、8年ころまでは使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用され、もとどういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、申義堂の建物であったことがあらためて確認されたのは平成2年4月でした。

 天井に棟札が打ち付けられていて、明治12年の移築が確認されました。

 平成6年に解体されて、高砂市教育センターで保管されました。

 その続きを紹介することにしましょう。

    申義堂が西井ノ口(加古川市)にあった理由

  西井ノ口(東神吉町)の柴田育克(しばたいくよし)さんの研究による『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』という冊子をいただきました。

  内容は、申義堂について、『高砂市史(第二巻)』が簡単に書いているその部分です。

    長谷川亀次郎

 明治時代、東神吉町井ノ口には、日本の教育史に残るような立派な学校がありました。

 この学校の建設に関わったのは西井ノ口の長谷川亀次郎氏でした。
 長谷川亀次郎氏と申義堂がかかわりを持っていました。
 ここでは、名前の紹介だけにしておきます。

 亀次郎氏のご子孫の方が『長谷川亀次郎を偲ぶ』として冊子にまとめておられます。
 とりあえず、この二冊を中心に、申義堂のその後を説明しましょう。(no4939)

 *挿絵:冊子『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』(柴田育克著)

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大河・かこがわ(229) 江戸時代(23) 近世の高砂(23)・美濃部秀芳

2020-04-17 10:14:50 | 大河・かこがわ

     申義堂は、小人数教育

 岸本家に、天保六・七年(1835・6)の「素読出席人目数書上帳」2冊、天保九年(1838)閏四月から九月までの(八月分欠)「素読并講釈出席人書上帳」5冊が残されています。

 これによれば、この期間の生徒数は10人から15人の範囲であり、この時期は天保飢饉後で低下していた可能性はあるにしても、やはりそれほど多いとはいえない人数です。

入学年齢がわからないのは残念ですが、おそらく寺子屋段階の学習を修了した後、十代前半か半ばで入ってきた者たちだったのでしょう。

     ほとんどが町民の子弟

 出席状況は、天保六年の10名のうち190日というほぼ皆勤を最高として、100日以上の出席者が6人、他の4人は50日以下というように差が大きくなっています。

 天保七年在学の12人の内、出席日数のわかる10人についてみると170日を最高として100日以上6人、他は50日以下となっており、両年を通してみると六割は比較的精勤ですが、四割は素読という学習にやや挫折するところがあったようです。

 なお、両年とも出席良好者には褒美が与えられました。

 天保六年には、上位3人に半紙一束と墨一挺、その他7人には墨一挺が与えられ、良好でないものも含めて在学者全員に与えられています。

 天保七年も同様で、上位2人には半紙二束、他の者すべてに半紙一束となっています。

 これは、藩からの賜与ではなく申義堂自らが行う慣例であったようです。

 生徒の肩書の記載には、たとえば「柴屋三郎兵衛倅瀧之助」とあるように、ほとんどは高砂の町内の町民子弟であったとみられます。

      申義堂の先生・美濃部秀芳(美濃部達吉の父)

 美濃部秀芳(美濃部達吉の父)は、文久三年から申義堂で素読を担当しました。

 彼は、天保21年(1841)8月24日に生れで、父は高砂でただ一人の蘭方医の美濃部秀軒でした。

 秀軒の妻・秀芳の母は、申義堂教授であった三浦松石の娘であり、秀芳と申義堂との関係は深く、秀芳も申義堂で学んだにちがいありません。(no4938)

 *写真:申義堂の先生・美濃部秀芳

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大河・かこがわ(227) 江戸時代(21) 近世の高砂(21)・申義堂と岸本家

2020-04-16 08:03:51 | 大河・かこがわ

        申義堂と岸本家

   江戸時代、高砂の町に岸本家という豪商がありました。

 『加古郡誌』に「申義堂の建物は高砂町岸本家の寄附によるもので、明治維新後廃藩の時に廃校すると共に、この建造物を岸本家に下付せられたといふ」という記述があります。

 たしかに、申義堂は、設立のはじめから岸本家と深い関係がありました。

 明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となり、廃校のさい、申義堂の建物は岸本家に下付されています。

 木村重圭氏が「申義堂が創立されようとするとき、大年寄(大蔵元)であり、また姫路藩六人衆の一人であった岸本家の当主(四代目岸本吉兵衛)により、土地と建物が提供されたものと思われる」と述べておられる。

      岸本家の私有にあらず

 申義堂は、藩からわずかな給米は与えられましたが、実質は岸本家をはじめとする高砂の町民あるいは大年寄を中心とする有志によって設立運営が行われたたようです。

 したがって、申義堂は特定の家との直接的結びつきは避けて、大年寄という町の「公」を代表する者によって管理運営されたといえます。

         申義堂の教育、素読(そどく)が中心

 申義堂の教育について具体的に知られる史料がないため、詳しくは分かりません。

 しかし、申義堂の最末期、幕末維新期に教授であった美濃部秀芳(美濃部達吉の父)が、明治17年(1884)に記した「高砂尋常小学校学校沿革史」には申義堂の設立を簡単に記したあと、教育についても述べています。

 これによれば、申義堂は、元旦と五節句(正月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)そして、毎月の5日・15日・25日が休日で、そのほかは早朝より正午までの間、町の児童に四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(易経・詩経・書経・礼記・春秋)の儒学などの素読(そどく:漢文の書物を解釈はあとにして声に出してくり返し読む)を行い、1の日と6の日、あるいは3の日と8の日は経書(四書五経)か歴史書の講義を行っていたようです。

 その中で、進歩した者には会読(二人以上が集まり読解しあう)または、臨講(数人が順番に講義しあう)を行わせ、とくにすぐれた者を選んで素読の補助をさせました。

 申義堂の教育対象は児童で、成人は対象とされなかったことがあらためて確認されます。

     生徒は、寺子屋等で読み書きの既習者

 教育内容は、儒学書の素読が中心でした。

 ということは、ここへ学習しに来る生徒は少なくとも、一般的な読み書きはすでに寺子屋等での学習を既に修了した程度の能力を有する者たちでした。

 でなければ素読についていくことは困難であったようです。

 申義堂における授業料がどの程度のものであったのかも残念ながら分かりません。

 町民からの寄金にもよるが、無料あるいはそれに近い形がめざされた可能性はあります。

申義堂の維持運営費については生徒の負担はおそらくなかったと考えられますが、教師への謝礼はなされたと思われます。(no4937)

 *写真:申義堂に掲げられている額(姫路藩家老:河合寸翁筆)

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