ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(34) 古墳時代(10)、行者塚古墳(4)・日岡山から西条への移動の事情

2017-11-30 08:46:42 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   日岡山から西条への移動の事情

 「お爺さんの語る郷土の歴史(25)』の地図を見ながら、次の文章をお読みください。

 

 加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群があります。

 もちろん、この外にもたくさんの古墳がありますが、行者塚古墳は、西条古墳群に属しています。

 日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心です。

 この二つの古墳の関係が気になります。

 二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のような見解をシンポジウムで述べられておられます。

 「・・・加古川のこの地方では、この行者塚古墳は5世紀の古墳ですが、その前には4世紀代には、日岡山に有力な墓があったんですね。

 ところが、この行者塚古墳の時期になりますと、(日岡山から西條に)移動する。

 その動く時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

 ・・・・ということは、・・・大和・河内という当時の政治的な先進地である中央との動きと、地方の動きとが連動している。

 ・・・・実は、この4世紀、5世紀の時代というのは、日本列島各地の王様がお互いに誼を通じた仲良しの連合というものを作っているわけですね。

 ですから、大和東南部に非常に大きな力を持った王様の時期は、その人達と誼を通じた人達は全国にネットワークを持っていた。

 大和の東南部を4世紀に支配していた人は、日岡山の王様と仲良くしていた。5世紀になって河内を拠点とする違う人が治めた時には、西条の王様と仲良くする・・・

 つまり、都出教授は、日岡山から西条への古墳への移動は、中央の支配者の変動に連動した動きと指摘されています。(no3797)

*『開かれた古墳時代のタイムカプセル』(加古川市教育委員会)参照

*写真:西造り出し部の埴輪(デプリカ)、背景は行者塚古墳の後円部(インターネットより)

◇きのう(11/29)の散歩(13.083歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(33) 古墳時代(9)、行者塚古墳(3)・加羅(任那)への援軍

2017-11-29 08:29:20 | お爺さんが語る郷土の歴史

     加羅(任那)への援軍

 古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。

 ここからは、素人(私)の無責任な想像をまじえますので、そのつもりでお読みください。

 行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多いのです。

 これは、中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられますが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのです。

 行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。

 5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていました。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)との交流が深いようです。

 加羅(任那)は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)でした。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり、援軍を求めたりしなければ国を守ることはできません。

 西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳があります。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助とも考えられるのです。

 そして、交流(貿易)の他に、「援助の見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのです。

 いかがでしょうか。(no3796)

 *写真:東北造り出し出土の家形埴輪(『行者塚古墳)加古川市史編さん室)より

  ◇きのう(11/28)の散歩(10.972歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(32) 古墳時代(8)、行者塚古墳(2)・朝鮮半島南部とのつながり

2017-11-28 08:24:43 | お爺さんが語る郷土の歴史

      朝鮮半島南部とのつながり

 行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘されています。

 そのうち、前回紹介した帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられています。

 中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられたのでしょう。

 その他、多くの種類の遺物があります。

 巴型銅器(写真)は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されています。

 それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられています。

 そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されていますが、それらは朝鮮半島南部のものと思われます。

 今後、鉄の成分分析が行われると、さらに、詳しく生産地等が特定されることでしょう。

 つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルです。

 それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物なのでしょうか。

  次回、考えてみます。(no3795)

  *『開かれた古墳時代のカプセル(記録集)』(加古川市教育委員会)参照

  *写真:巴型銅器

  ◇きのう(11/27)の散歩(10.906歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(31) 古墳時代(7)、行者塚古墳(1)・古代からのタイムカプセル

2017-11-27 09:07:04 | お爺さんが語る郷土の歴史

       行者塚古墳(1) 古代からのタイムカプセル

 加古川市行者塚古墳(ぎょうじゃづか)古墳は、神野町西条の城山(じょやま)から東に続く加古川左岸(東岸)の丘陵に築かれた前方後円墳です。

 かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していましたが、そのほとんどは昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまいました。

 今は、規模の大きな行者塚・人塚・尼塚が残るのみです。

 ここは、昭和48年(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定を受けました。

 行者塚古墳の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにしました。

 その一部を『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会・1997)に見てみます。

 なお、他の人塚・尼塚および西条廃寺については、後に紹介しましょう。

 現在、行者塚古墳は、加古川市山手二丁目となっていますが、山手二丁目は、元八幡町中西条と神野町西条の一部が、宅地造成に伴い、昭和58年11月21日新しく設営された地域です。

 行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルでした。

 「行者塚古墳の秘密」を、今回も含めて4回シリーズで紹介します。

*写真は、行者塚古墳から発見された帯金具。(no3794)

 『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川市教育委員会)参照

 ◇きのう(11/26)の散歩(11.010歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(30) 古墳時代(6)、御陵(3)・「ひれはか」ヘンシ~ン?

2017-11-26 08:16:18 | お爺さんが語る郷土の歴史

       ひれはか(御陵)ヘンシ~ン?

 「ひれ墓」(加古川市大野)について、気になる話があります。

 『考古学研究』に掲載された歴史学者の春成秀爾氏の論文の一部を紹介します。

  ・・・この御陵(稲日大郎姫の墓)は、・・・堂々とした前方後円墳なのです。そして、戦前この陵に墓守が置かれており、毎日朝八時から夕方五時まで腰に剣をつって勤めていたといいます。

 そして、某氏宅に記録が残っており、次のようなことが書かれています。

  (一) 明治十六年(1886)宮内省により景行天皇の皇后の陵に定められた。

  (二) 明治二一年(1888)玉垣・石燈ろうを置く。

  (三) 明治三六年(1901)置き土をなす。

  (三)の「置き土をなす」の部分に注目してください。

 この記録はどこに、どの程度の置き土をしたかのかについては書かれていません。ともかく置き土をしたとする記録です。

 また、戦前、考古学者の赤松啓介氏が調査中に、土地の人から「もともと円墳であったところに盛り土をした・・・」と言う話を聞いておられます。

 『風土記』(上田正昭編・社会思想社)で、神戸女子大学の浅田芳朗氏は、次のように書いています。

 ・・・日岡古墳の名は延喜式にも見えていない。『祖先のあしあと』の著者が言うように「一説では、明治初年に円墳だったのを天皇関係の御陵には円墳がないというので前方部分を付け加え改造したという・・・

 その他、多数の研究結果も、そのことを指摘しています。

 現在、この事はあまり論議(研究)されていません。(no3793)

 ◇きのう(11/25)の散歩(10.483歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(29) 古墳時代(5)、御陵(2)・ヤマトタケルの物語が語ること

2017-11-25 08:49:10 | お爺さんが語る郷土の歴史

    ヤマトタケルの物語が語ること

 それほどの人物であるなら、ほとんど時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場してもよさそうなものです。

 不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマトタケルの姿はありません。

 あるのはヤマトタケルの母と父・景行の愛の物語ばかりです。

 これは何を語るのでしょうか。

 『風土記』は、地元に伝わることをまとめたものです。

 「ヤマトタケルの話」は、『風土記』がつくられた時代、地元ではなかったのではないか」と想像してしまいます。「ないものは書けない・・」と言うわけです。

 せっかく、ギリシャ神話に登場するような物語が、加古川市で誕生したと言うことは痛快なことであるが、どうも怪しい。

 こんなことを書くのは、地元の者としては少し気がひけます。

      つむじ風」の意味は?

 稲日大郎姫の話を続けましょう。

 彼女は他に比べる者もない、それはそれは、美しい女性に成長しました。

 その噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、やがて結婚して幸せな生活を始めまし。

 幸せな生活は長く続きませんでした。やがて、稲日大郎姫は亡くなり、日岡山に葬られることになったのです。

 ところが、その時事件がおきました。

 彼女の遺骸が日岡山に埋葬されために加古川を渡る時でした。

 突如、つむじ風がおこり、遺骸は、たちまちのうちに川にのみこまれてしまいました。

 後には、「櫛」と「ひれ」(天女等が背からまとっている布)がみつかっただけでした。

 そのため。その櫛と「ひれ」が、ご陵に葬られました。そのため、ご陵は「ひれ墓」とも呼ばれています。

 こんな話が『播磨風土記』にあります。

 「つむじ風の正体」は、きっと(政)敵だったのでしょう。ヤマトの勢力の進出を望まない一部の勢力の抵抗であったのかもしれません。(no3792)

 *絵画:ヤマトタケル像(青木繁筆・東京国立博物館蔵)

 ◇きのう(11/24)の散歩(10.469歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(28) 古墳時代(4)・御陵(1)

2017-11-24 11:23:57 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

  

      日岡山山頂の古墳:御陵(1)

 ・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線でした。

 加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。

 そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。

 このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。

 伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。

 *『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。

   母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)

   最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても、 ピンとこない人(世代)が多くなりました。

 『古代史の謎に挑む(一)』(NHK出版)は、ヤマトタケルを、次のように説明しています。

 ・・・その昔、日本に一人の英雄が登場した。それはいまからおよそ1600年前、日本の歴史の中でもっとも多くの謎につつまれている四世紀ここと言われている。

 その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマトタケルである。・・・

 彼は、播磨、現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。

 ヤマトタケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と名のった・・・・

 

 もちろん、ヤマトタケルの物語は事実を語ったものではありません。しかし伝承であれ、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことです。(no3791)

 *写真:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)の御陵

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お爺さんが語る郷土の歴史(27) 古墳時代(3)・遺跡溝口遺跡は、日岡豪族の集落か

2017-11-24 07:06:32 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   日岡山古墳群

 日岡山には図のように多くの古墳があります。

 現在残っている古墳は図のように、①勅使塚、南大塚、西大塚、北大塚、狐塚、西車塚です。

 これらの古墳群は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。

 平野部には、南西約2キロメートルの溝口遺跡をはじめ、北在家・粟津などの弥生遺跡があります。そのあたりは、早くから開けていたようです。

 中でも、「溝口遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。

 この辺りは、加古川の氾濫原の中にあって比較的安定し、しかも水利に恵まれた場所でした。

   遺跡溝口遺跡は、 

       日岡豪族の生活した集落か

 『加古川市史(第1巻)』に、次のような面白い記述があります。

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けている。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではないが、前方部を平野側に向けている場合が多い。

 それはまた、被葬者が支配した土地とみなしてよさそうである。したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

 つまり、溝口遺跡は、日岡豪族が生前生活していた集落であったと指摘しています。

 「溝口弥生遺跡」は、複合遺跡なので「溝口遺跡」が正しい呼称でしょう。(no3790)

 *地図:『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)より

 ◇きのう(11/23)の散歩(10.984歩)

 

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お爺さんが語る郷土の歴史(26) 古墳時代(2)・鏡(同はん鏡)は語る

2017-11-23 07:43:11 | お爺さんが語る郷土の歴史

   鏡(同はん鏡)は語る

 写真は、「古墳時代(1)」で紹介した、壊された東車塚古墳出土の「三角縁神獣鏡」(さんかくぶちしんじゅうきょう)です。

 東車塚出土の鏡は、「同笵鏡(どうはんきょう)」(以下「同はん鏡」とします)です。

 聞きなれない言葉ですが、同じ鋳型からつくられた鏡のことです。

 ですから、「同はん鏡」は一枚ではありません。

 この「同はん鏡」について歴史家は、「同はん鏡は、有力な豪族が、同盟を結んだ証として配下の豪族に与えた鏡である」と考えています。

 したがって、「同はん鏡」の分布の範囲を知ることにより、当時の勢力関係が分かると言うのです。

 東車塚古墳から出土した「同はん鏡」は、大和(奈良)地方の豪族と同盟関係にあったことが分かりました。

 日岡山の古墳の多くは4世紀古墳です。

ということは、4世紀に加古川地方の豪族は、すでに大和の豪族と同盟関係を持っていたことになります。

 日岡豪族にとっては、大和の豪族と同盟を結ぶ必要がありました。

 加古川地方は、畿内と畿外との接点に位置していました。

 つまり、西には吉備地方・出雲地方の豪族が勢力を持っています。

 東は、もちろん大和の豪族です。

 加古川地方の豪族が、吉備地方の豪族から攻撃を受けた時、自らを防衛するために大和から応援を求める必要がありました。

 また、自らの地位を高める、ため大和の豪族と同盟を結んだとも考えられます。

 大和王権にとって、加古川地方は、吉備(岡山)地方との最前線基地でした。

 大和の豪族にとって加古川地方が、吉備(岡山地方)と同盟を結ぶことは大問題です。加古川地方を重要な拠点と考えたのは当然です。

 そんな、大和地方と加古川地方の濃密な関係が、私たちの地域に天皇の話を誕生させたのでしょう。(no3789)

 *写真:東車塚古墳出土の「三角縁神獣鏡」

 ◇きのう(11/22)の散歩(10.563歩)

 

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お爺さんの語る郷土の歴史(25) 古墳時代(1)・3つの古墳群

2017-11-22 07:06:57 | お爺さんが語る郷土の歴史

   古墳時代を歩く

 気まぐれです。

 「お爺さんが語る郷土の歴史」を書いているかと思うと、話は突然「オマーン国王の夫人物語」」に変わり、そして、「かつめしの話」と話題はめまぐるしく変わりました。

 「オマーン国王夫人物語」は、終わりましたので、しばらくは「加古川の味、かつめし」と「お爺さんの語る郷土の歴史」の二本立てになります。

 しばらくは、私たちの地域の古墳(時代)の探検に出かけましょう。

   古墳時代(1) 加古川地方の3つの古墳群

 まず、加古川市にある古墳群を探検することにしましょう。

 加古川市には、地図のように3つ大きな古墳群があります。

 日岡山古墳群・西条古墳群(5・6世紀)・平荘古墳群(6・7世紀)です。

 もちろん、この他にも多くの古墳があります。

 日岡山古墳は、これらの古墳の中でも最も古く、4・5世紀にさかのぼることができます。

 日岡山古墳は、兵庫県でも有数の古墳群が残っている地域です。

 昔は、もっと多くの古墳があったのですが、多くの古墳が壊されました。

 たとえば、加古川刑務所は戦時中弾薬庫(神野倉庫)であり、それらの施設を建設するために、こわされています。

 鏡が出土した東車塚古墳は、その古墳からでした。(no3788)

 *地図:3つの古墳群

 ◇きのう(11/21)の散歩(11.429歩)

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加古川の味、かつめし(31) かつめし外伝(3)・牛さんたちに感謝

2017-11-21 09:05:11 | 加古川の味、かつめし

   かつめし外伝(3) 牛さんたちに感謝

  (第5景) 農家の牛たち(2)

 牛B:次は私の番や(処理される)、ホンマに人間は残酷や、そうやろ、みんな。

 (農家の主人出てくる)

 農家:みんなゴメンやで、本間に感謝している。

 農家:本間に人間は勝手や。

 最近は「かつめし」言うて新しいメニューも出たけど、それもお前たちの牛さんたちの肉なんや。

 私たちはお前たちのお陰で、毎日おまんま食べさせてもろてんねん。(泣く)

 牛B:もう泣かんでええよ。

 牛C:これが我々の人生、いや牛の生きる道や。

 牛D:長い間かわいがってくれてありがとう・・・

  (第6景) いろはにほへと食堂

 牛A:ところであんた、「ごちそうさま」の意味知っているか・・・

 店員(ごちそうさまの意味を熱く語る)

 「ごちそうさま」を漢字で書くと「御馳走様 」で、昔は今のように冷蔵庫もスーパーマーケットもなかったので、食材を揃えるのは大変でした。

 「馳走(ちそう)」は走りまわるという意味で、そして、御つけた「御馳走様」は、もてなすという意味が含まれるようになり、贅沢な料理指すようになったんです。・・・

 牛A:なるほどな・・・わいら、加古川に「かつめし」ができたことに感謝や。

 みんな:牛さんの命に感謝や!

 *『かつめし外伝牛さん、いただきますっ!』 

 脚本:演出  砂川一茂

 出演:綾南振起劇団員(no3787)

 *写真:農家の人、牛さんたちに感謝

 ◇きのう(11/20)の散歩(10.845歩)

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加古川の味、かつめし(30) かつめし外伝(2)・かくて、かつめしは完成した

2017-11-20 10:00:49 | 加古川の味、かつめし

  

   かつめし外伝(2)・陵南新喜劇団

 第3景 農家の牛たち(1)

 牛A:あぶないところやったわ・・・

 牛BCD:ほんまに、あぶないとこやったわ。

 牛A:でも、あした(処理場へ)連れていかれるのやろな。

 牛A:人間は残酷や。

 (農家の主人が出てくる)

 牛C:くそババア!

 牛A:ほんまに、この牛殺しババぁ!

 

   第4景 いろはにほへと食堂にて

 アシスタント:この前嫌がっていた牛、やっと処理できましたわ。

 (いろはにへと食堂の)主人:獣医さんのおかげで、良質の牛肉がでけました。

 加古川では、安く良い肉が手に入ります。うちで、牛肉をつかった洋食を出そうと思ってますねん。まずはカツレツを・・・

 店主:でも、洋食には問題があるんですわ。肉は美味しいんですが、加古川は田舎です。ナイフとフォークで食べるのは無理です。・・・

 獣医:そうですな。

 店主:(店主はしばらく考えてから)肉を小さく切って、箸で食べたらどうでっしゃろ。

 肉の上にデミグラスソースをかけますねん。もちろん、自家製のソースをつくります。

 そして、キャベツを添えます。

 獣医:グッド・・・・ですな。

 かくて、「かつめし」は、完成しました。(no3786

 *写真:上(牛たちの不満、このくそババア!)

    :下(かつめし用のデミタスソースつくり) 

 ◇きのうの散歩(11.189歩)

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加古川の味、かつめし(29) 牛さん たいへん!

2017-11-19 07:47:56 | 加古川の味、かつめし

 

 (二部)

 昨日(18日)綾南公民館で、加古川市内の市民劇団による「かつめし外伝:牛さん、いただきますっ!」の公演がありました。

 その内容を「二部」として再現させていただきます。

 *写真がボケています。後日、クリアーな写真と交換します。ご了承ください。

  (第1景) いろはにほへと食堂(現在)

 店員:いらっしゃいませ。

 客 :さすがに「かつめしの店やね・・・」

 店員:「お待たせしました、かつめしです・・・」

 子ども:はやっ。さあ、たべるで。

 父親:「いただきます」の前に意味のあること知っている?

 1つ目は、食事に携っている方々への感謝。2つ目は、食材への感謝するのを。

 祖母:それでは、みんなで一緒に「い・た・だ・き・ま・す!」

 父親:ところで、この「カツメシ」って歴史があるんですよね。

 店員:えぇ、ありますよ。戦後の動乱期の昭和22年に、うちの初代がはじめました。

 祖母:へぇ、そうなの知りたいわ・・ねぇ、みんなも知りたいよね。

 

  (第2景) 加古川市内の処理場(昭和22年)

 昭和22年、加古川にあった食肉処理場には、安全な肉を届けるため、獣医が牛の健康状態をチェックしていました。

 獣医:ハイ、次の牛・・・

 牛A:悲しげに「モー・モー・モー」

 農家:こいつ、もうすぐお肉になるってわかるんやろか。

 獣医:そうかもしれません。

 農家:戦争で神戸があかんようになって、加古川が牛の生産地になって、わしら農家の牛もよー売れるようになってたすかってます。

 でも、牛が悲しがっていますわ。

 今日のところは、連れて帰ります。明日また来ます。(no3785

 *写真:牛が悲しがっています

 ◇きのう(11/18)の散歩(11.179歩)

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加古川の味、かつめし(28) 牛さんの嘆き(「加古川の味、かつめし(17)」の復習)

2017-11-18 08:27:58 | 加古川の味、かつめし

 今日、綾南公民館で、綾南新喜劇による「かつめし外伝」が上演されます。

 牛さんが、「肉」にされるのを嫌がる場面も上演されるようです。どういう演劇なるのでしょうか。楽しみです。

 今日の記事は「加古川の味、かつめし(17)」で取り上げた場面です。復習をしておきます。

    戦争で神戸肉の生産もストップ

  ・・・戦前から神戸ビーフは有名でしたが、戦争のため生産がストップしてしまいました。

  加古川は、神戸に代わる肉の生産地となりました。

  その一拠点が志方ともう一か所が加古川肉の生産拠点になりました。

  場所は、現在のシルバーセンター(加古川市加古川町)のある周辺です。・・・

     肉は、加古川で生産

 当時(戦後間もないころ)は、農業が中心で、農家は労働力の大切な一部として、たいてい牛を飼っていました。

 ですから、容易に牛肉の生産はできました。

 業者が農家から牛を買い、それを処理場に持って行き、製品にして神戸を中心に送り出しました。

 もちろん、食をあずから大切な仕事ですから、処理場には専属の獣医さんが常駐して、牛の健康状態、製品の品質、等級の分類など厳格に行われていました。

 当時の方に聞いた話では、処理場に連れてこられた牛は、自分の運命を察してか、処理場の入口に来ると「モー、モー」と声を出して鳴き、なかなか入ろうとしなかったそうです。

 業者の方たちが処理場の入口に慰霊塔を建立し、年に一度供養祭を行っていました。(no3784)

 *写真:戦後間もないころの加古川での放牧風景(前方の高い山は高御位山)

 ◇きのう(11/17)の散歩(10.668歩)

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加古川の味、かつめし(27) 「かつめし誕生話」を18日公演(陵南公民館で)

2017-11-17 07:46:58 | 加古川の味、かつめし

 明日(18日)、加古川市内の市民劇団「陵南新喜劇」が「かつめし誕生秘話」を新喜劇で紹介します。

 昨日(11月16日)の神戸新聞に大きく取り上げられました。楽しい演劇になりそうです。お出かけください。 (以下は、神戸新聞記事の転載です)

 

     「かつめし誕生話」を

          ギャグ交え劇に 18日公演

 兵庫県加古川市内の市民劇団「陵南新喜劇」が18日、陵南公民館(同市野口町水足)で、公演会「かつめし外伝 牛さん、いただきますっ!」を催す。地元の名物かつめしの誕生話をベースに、ユーモラスな物語に仕上げた。出演者らは本番に向け猛練習。「名物の“サイドストーリー”として楽しんで」と呼び掛ける。(本田純一)

 同劇団は大阪府枚方市の放送作家砂川一茂さん(58)の指導を受け、年1回公演する。公演は5回目で、10~70代の市民ら10人が、7月から練習を重ねてきた。

 舞台は1947年の加古川。戦争で食肉処理場が神戸から移ってきたのを契機に、「いろはにほへと食堂」の店主が「良質な牛肉を使い、食べやすい洋食を」と、かつめしを考案する。一方で、食べられてしまう運命を悟り、嘆く農家の牛たち-。アドリブを多用して軽快にやりとりし、食に対する感謝の心を描く。

 障害のある人たちも出演し、笑いを誘おうと奮闘。同市加古川町美乃利の女性(20)は「大好きな吉本新喜劇に負けないように頑張る。本番はどんなギャグをしようかな」と意気込む。

 砂川さんは「出演者の個性が存分に発揮され、面白い舞台になった。多くの人に見に来てほしい」と話している。

 午後2~4時。入場無料、申し込み不要。かつめし弁当パック(500円、50食)も販売する。陵南公民館TEL079・456・7110(no3783)

 *写真:本番を控え練習に励む新喜劇のメンバー=加古川市野口町水足綾南公民館にて(神戸新聞から)

 ◇きのう(11/16)の散歩(11.481歩)

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